見出し画像

「午前0時のラジオ局」番外編<真夜中の訪問者>

 久々の小説投稿です。
 この春、私の小説「午前0時のラジオ局」(PHP文芸文庫・既刊3冊+番外編1冊)が、舞台化されることになりました。
https://midnight-radio.jp/

 それもあってか、久方ぶりに「午前0時のラジオ局」の言霊が寄ってきたので、ぶわーっと書いてみました。12,600字くらいですから、400字詰め原稿用紙で32枚くらい。文庫本だと30ページ(10分の1)くらいでしょうか。
「午前0時のラジオ局」は基本的に連作短編集なので、こういう作品はいくらでも書けますね。今回、いつもと違うのは、3人称ではなく幽霊側からの視点となっていることです。
 
 時間軸としては、3巻「星空のオンエア」に収録されている「佳澄のひとり語り」の少し前くらいですが、1巻を読んだばかりの人でも大丈夫だと思います。

 また、全然読んでない!と言う方でも、主人公3人の設定が分かってたら多分、大丈夫です。

 ●蓮池陽一・・・死んで25年経つ、幽霊ディレクター。超美青年。
 ●鴨川優 ・・・2年目の新米アナウンサー。
 ●山野佳澄・・・深夜番組のアシスタント。

 彼らが放送する深夜番組には、生きている人間からも死んでいる人間からも、同じ様にメッセージが届きます・・・

 それでは、はじまりはじまり♪


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



「午前0時のラジオ局」番外編~真夜中の訪問者
                             村山 仁志

 あなたは、死後の世界を信じるだろうか。
 ひとは肉体を失った後に、行くべき世界が在るのか、それとも無いのか。   
 さあ、どうだろう?
 私はその答えを知っている。 
 冴えない中年サラリーマンの私だが、これだけは自信を持って答えられる。
 何故なら、私は幽霊だからだ。もうとっくに死んでいて、お腹も空かず眠くもならない私が言うのだから、その回答に間違いはないのである。
 ではお教えしよう。
 死後の世界は、あるとも言えるし、無いとも言える。
 つまり、両方とも正解である。
 何を言っているのか、と思うだろう。だが、私の身の上話を聞いてもらえたら、おいおい理解してもらえるのではないだろうか。

 私は、交通事故で死んだ。もう面倒で数えるのを止めてしまったけれど――今から何十年か前、大型トラックに圧し潰されて絶命している自分を上空から目撃したのだった。
 死んだ後は地獄か天国に行くんだろう……とぼんやり考えていたが、実際死んでみると、天国へ案内してくれる天使も地獄へ誘う悪魔も現れなかった。
 誰かに尋ねようにも幽霊の声など誰にも届かず、私はただ放置され続けた。完全な独りぼっち状態である。
 四十九日を過ぎたくらいで、私は諦めて旅に出ることにした、彷徨っていれば、そのうち私と同じ境遇の死者や、いわゆる霊視能力を持った人物に会えるかもしれないと期待したのである。
 以来、数十年――ずっと私は、この現実世界を彷徨い続けている。
 もうお分かりだろう。つまり死後の世界はあるにはあったが、それは現実そのものでしかなかったのだ。
 何というつまらない結論。
 だがそれが私の証明出来る、たったひとつの真実なのである。
 それにしても、今に至るまで私以外の幽霊にひとりも出会わないのは、どういうことだろうか。日本だけでも一億を超えるひとが住んでいて、毎日何千人も亡くなっている筈なのだが……。
 ちなみに、自称霊能力者や宗教関係者も訪ね歩いたが、私の姿が見える「本物」はひとりもいなかった。

 とある深夜。坂の多い街を歩いていたら、横断歩道が無い道路を渡っているお年寄りがいた。
 街灯もまばらだというのに、よりによってダークグレーのジャンパーを着たお爺さんだ。夜道を歩くには適さない、目立たないことこの上ない服装である。足が悪いのか、ゆっくりゆっくりと道路を渡っていた。
 車にはねられないといいが……とヒヤヒヤしながら見ていたら、老人が向こう側へ辿り着く直前、タクシーが乱暴な運転で真横を通り過ぎて行った。
 私は「危ない!」と叫ぼうとする自分を、押し留めた。どうせ聞こえやしないのだ。こういうとき、まったくもって幽霊は無力な存在である。
 ふと、金木犀の香りに気づいた。
 秋は好きだ。秋の植物たち、特に金木犀の甘い香りと、銀杏並木の黄色の眩しさが大好きなのである。実を言うと、秋は私が死んだ季節なのだけれど――だからといってこの季節が嫌いになることはないのだった。
 大通りを折れて路地へ入り、金木犀や銀木犀の樹を探しながら坂道を歩いていたら、大きな古い洋館に出会った。
『○○放送ラジオ局舎』と木製の看板に書いてある。
 そう言えばこの街は、江戸時代からヨーロッパとの繋がりがあったことで知られている。この洋館も軽く百年くらいは経っていそうな佇まいだが、まさか現役でラジオ局として使われているとは。
 軽快なピアノの音色が、洋館の中から聴こえてきた。アメリカン・ジャズのスタンダード曲だ。
 私は、重そうな木製の大きな扉を霊体でくぐり抜け(これだけは便利である)、屋内に入った。
 広いロビーだ。元々は銀行か、あるいは郵便局など何か公的な役割を持った建物だったのではなかろうか。木張りの床には厚手のカーペットや毛氈が敷かれている。
 もう午前0時近いこともあって、ロビーに人気は無い。フロアの奥に、地下へ続く階段があった。ピアノ曲はその地下室から聴こえているようだ。
 階段を降りると、金属製のドアが半開きになっていて、『レコード室』と書かれたプラスチック・プレートが貼り付けられていた。
 覗き込むと、室内は小型の図書館を思わせる空間になっており、書架のような棚に、本ではなくレコードやCDが詰め込まれている。
 部屋の中央にはオーディオセットがあった。痩せ型の青年が小ぶりのソファに腰掛け、指先でリズムを取りながら四十五回転のドーナツ盤を聴いている。後ろ姿で、どういう顔かは見えない。
 彼が手にしたレコードジャケットを見て、私は「あ、やっぱり」と声を漏らした。
 私が愛してやまないジャズ・プレーヤーの曲だ。アメリカの伝説的黒人ピアニスト、マイルス・ハンコック。繊細かつ大胆な演奏は、彼の長い指でしか成しえない。四十年前には来日公演も果たしている。私はそれを聴きに行ったほどのファンなのだ。
 ソファの青年の後ろで、マイルスの演奏に聴き入る。長いこと幽霊をやっているが、自分の好きな音楽を聴ける機会は滅多に巡ってこないものだ。現実世界に干渉することが出来ない幽霊は、レコード・プレーヤーを触ることが出来ないし、それこそラジオ局にリクエストを送ることなんて不可能だからである。
 街を彷徨いつつ、好みの音楽が「偶然」流れてくるのをただただ心待ちにしているしかないのが、幽霊というつまらない存在なのだった。
 私は二分五十七秒(と、青年が手にしたジャケットに書いてあった)のピアノ曲を聞き終わり、小さく溜息をついた。彼が聴いてくれたおかげで、久しぶりにマイルスの演奏を堪能することが出来た。惜しむらくは曲の途中から聞いたことだが、フルコーラスを望むのも幽霊には贅沢というものだろう。
「誰だか知らないけど、どうもありがとう」
 聞こえないことは分かっているが、後ろ姿の青年に礼を言う。
 それにしても声を出すのは何年ぶり、いやひょっとして何十年ぶりだろうか。どうせ幽霊の声など届かない――という徒労感が、いつしか私を思い切り無口な男にしてしまっていたのだった。
 不意に青年が振り返り、私は目を見張った。まるで少女漫画にでも出て来そうな、輝くばかりの美男子だった。
 彼は大きな目ではっきりと私を認めて、こう言った。
「やあ。マイルスが好きなのかい? 特別な夜に会えて嬉しいよ、ご同輩」
「は……???」
 数十年ぶりに他人から声をかけられた私が驚愕していると、美青年は微笑んだ。
「僕は蓮池陽一。ラジオのディレクターだ」
「いや、そうじゃなくて……」
「君がさっき『誰だか知らないけど』って言ったから、自己紹介したんだよ?」
「いや、違うよ……そうじゃなくて。まさか、私が見えているのか?」
 見たこともないような美青年は、からかうように笑った。
「さっきから会話をしているじゃないか。見えているし、聞こえてもいる」
 あんぐりと口を開けている私に、彼は長い睫毛でウインクをして見せた。こんなにウインクが様になる日本人を見たのも、これが初めてだ。
「だけど大事なのはそこじゃない。幽霊の姿が見える男と出会ったことなんかよりも、君がマイルス・ハンコックのピアノを聞いて、このラジオ局に入ってきたことにきっと意味があるんだ……そうは思わないか?」
 青年の穏やかな声には不思議な説得力があり、あれこれと疑問ばかりの私も『そう言われてみたら、そうなのかもしれない』とすんなり思い込んでしまった。
「それで、君の名は?」
「え?」
「君の名前だよ、ご同輩」
「私は……」
 私は、口ごもってしまった。正確に言うとそれ以上、言葉を紡ぐことが出来なかった。
「……私は、誰だ?」
 私はしがない、中年サラリーマン。数十年前、交通事故で死んだ。だけど、名前は……?
「……思い出せない」
 どうしても、思い出すことが出来なかった。
「私は、誰だ?」
 もう一度、同じ言葉を繰り返した。
 脂汗を流しながら立ち尽くしている気分の私を見て、青年は少し首を傾げた。
「ふむ。マイルスのことは覚えているのに、自分の名前は思い出せないのか。他に覚えていることはあるかい? 例えば、家族のこととか」
「家族……?」
 やはり思い出すことが出来なかった。私には、家族はいたのだろうか。葬式には誰が来ていたっけ……?
 長い年月彷徨っていたせいか、葬儀場の天井辺りから眺めていた筈の自分の葬式も、記憶はおぼろげだった。
 青年は仕事や出身地など、いくつかの質問をしてきたが、私はほとんど答えることが出来なかった。
 彼はソファから立ち上がり、もう一度微笑んだ。
「君がここに辿り着いた鍵は、やはりマイルスにあるんじゃないかな。ご覧よ」
 青年は壁の上辺りを指差した。
 沢山のアーティストのサインや写真が所狭しと貼られた中に、モノクロの写真が目についた。ピアノの前で澄まし顔の、黒人の写真。
「まさかこれは……」
「そう、マイルス・ハンコックだ。彼は現役を引退した後、このラジオ局に来たことがあるんだ。写真のピアノは三階の一スタにあるピアノだし、レコード室も見に来たよ」
「マイルスが、ここに?」
 驚きと興奮に包まれている私に、彼は目配せをした。
「そして今夜は、特別な夜なんだ」
「特別な夜?」
 怪訝な表情を浮かべているであろう私に、美青年はまた微笑んだ。
「マイルスの音楽をもっと聞きたかったら、今からスタジオについておいで。この後、深夜の生放送がある。僕がディレクターをしている番組だ。ちょうど、オープニング・ナンバーに、マイルスの曲をかけようと思っていたところでね。どうだい、ご同輩」
 彼は何故、私のことを『ご同輩』と呼ぶのだろう。同じマイルスのファンだから、ということなのだろうが、何故かそれ以上の親しみを感じてしまうのは、気のせいなのだろうか。

 木造りの古い階段を昇り、三階のラジオスタジオに移動してほどなく、午前0時の時報が鳴った。
 二重ガラスの向こう側では、若い男女が大きなテーブルを挟んで向かい合わせに座っている。スーツの男性がDJのアナウンサーで、小柄な女性がアシスタントのようだ。
 ふたりは時報からひと呼吸置くと、喋り始めた。
「きょうと明日の境目、午前0時になりました。こんばんは、鴨川優です」
「山野佳澄です」
 次にふたりで声を合わせ――
「ミッドナイト☆レディオステーション」
 蓮池Dは手元のミキサーでDJふたりの声にリバーブを被せつつ、テーマミュージックをスタートさせた。星がきらめくような効果音に始まり、軽快なポップミュージックが弾けていく。
 しばらくしてスタジオのふたりがこちら側を見たのでドキリとしたが、彼らが注目しているのは、蓮池Dがかざした右手だった。当然のように、彼らに私の姿は見えていない。
 ディレクターが振り下ろした手を合図に、鴨川アナウンサーがトークを始める。
「今夜は伝説的なピアニスト、マイルス・ハンコックの命日です」
 ――そうか、今日はマイルスの命日……。
 蓮池Dの言う『特別な夜』とは、まさにそのことを指すに違いなかった。 
 ふと、私よりも後に亡くなったマイルスの魂はどこへ行ったのだろう、と思った。
 私が思考を巡らせている間にも、番組は進んでいく。
「マイルスはこのラジオ局と縁があるんですよね?」
 ボブカットの佳澄が目を輝かせる。
「そう」
 鴨川アナが頷く。
「彼が音楽界を引退して反戦活動をしている途中で、このラジオ局に来てくださったんです」
「そんな世界的有名人が、こんなド田舎の放送局に、良くぞ来てくれたもんですね!」
「ド田舎って言うな」
 鴨川アナが素早く突っ込んだ。
「いやいや優さん。日本の西の果てで交通が不便な県の、しかもこんな山の上にあるラジオ局くんだりまで、よくもまあ、わざわざというか風変わりというか。さすがビッグミュージシャンともなると、物好きなことしますね!」
「もうやめてー」
 鴨川アナが頭を抱えて見せ、アシスタントの山野香澄がきゃらきゃらと笑った。
 かなり辛辣なことを言っているが、全然『毒』があるように聞こえないのは、彼女のテンポの良い話し方と、鴨川アナのツッコミがそれなりの『話芸』になっているからだろう。
「それでね、佳澄ちゃん」
「なんですか」
「実は話には続きがあって」
「じゃあ脱線なんかしてないで、さっさと先に進めてくださいよ」
「脱線してんのそっちだろ!」
 思わず笑ってしまった。ラジオを聴きながら笑うなんて、幽霊になって初めてだ。妙に会話に引き込まれてしまう、独特な魅力を持ったパーソナリティたちである。
「なんと! このスタジオのあのピアノで、かつてマイルスが演奏をしたことがあるんです!」
 鴨川アナが指差した先に、黒いグランドピアノがあった。スタジオの照明を浴びてツヤツヤと光っている。いかにも年代物だが、大切に磨かれているようだ。蓋は閉じられており、白い鍵盤は見えない。
「マイルスがあのピアノを演奏? マジで!?」
「しかも、その時の録音テープが、つまりこのラジオ局の『オリジナル音源』が、存在するんです!」
「えええええ!?」
 佳澄がひっくり返らんばかりに驚いた。どうやら本当に知らなかったようだ。
「お宝じゃないですか!」
「まさにお宝です」
 鴨川アナが重々しく頷いた。
「こんなド田舎のラジオ局に、マイルスの音源が!?」
「ド田舎言うなって」
「それ、今すぐネットオークションで売りましょうよ!」
「なにを言っとるんじゃキミは」
 鴨川アナがのけぞる。
「だってあの天下のマイルス・ハンコックの『生演奏・オリジナル音源』ですよ? グラミー賞ですよ、ゴールドディスク賞ですよ、音楽界の超偉人ですよ!? みんなで焼き肉食べに行くくらいの金額にはなりますって」
「キミ、マイルスの価値をかなり低く見積ってるね!?」
「じゃあ、まさか……焼き肉プラス、シメのラーメン行けるくらいの金額で売れちゃう!?」
「焼き肉のシメでラーメンって、食べ過ぎだろ! ていうか、売・り・ま・せ・ん!」
 アナウンサーは呆れ顔で言った。しかしこのやり取りも、きっと「お約束」の範疇なのだろう。
「まあいいや。さて……マイルスの演奏を収めたオープンテープは、すでにサブ(スタジオ副調整室)のオープンデッキに用意されています」
 鴨川アナが、私の隣りにある古めかしいオープンデッキを見た。
 腰の高さほどの銀色の機械に、黒いテープがあやとりのようにセッティングしてあった。
 調整卓前に座った蓮池Ⅾが、私を振り返る。
「キミ、運がいいよ。このテープは滅多にかけないんだ。年に一度、彼の命日にしかかけない音源だ。大切な代物だからね。君なら、その価値が分かるだろう?」
 私は大きく頷いて見せた。
「勿論だとも」
「キミはやはり、マイルスに呼ばれて来たんだねえ」
 私の答えに満足したディレクターは、再びスタジオに顔を向けて、右手で小さく合図を出した。鴨川アナが喋り始める。
「それではお送りしましょう。マイルス・ハンコックの演奏で……」
 だが、スタジオの鴨川アナが声高らかに曲紹介している途中で、
「きゃっ!?」
 山野佳澄が悲鳴を上げた。
 突然、スタジオの照明が落ちたのだった。
「いま、停電しました……」
「真っ暗ですね」
「ラジオの電波は飛んでますでしょうか?」
「イヤモニから優さんの声は聞こえてるし、大丈夫じゃないでしょうか。まあ、いつもの心霊現象でしょう」
「いつものって気安く言うな」
「じゃあお馴染みの!」
「親近感出ちゃった!」
 ――は? 心霊現象……?
 私はふたりのトークに唖然としていた。
 ――本物の幽霊がここにいるっていうのに。
 蓮池Dは声を出さずに笑っているようだ。
「まあまあ。とりあえずリスナーの皆さんにはスタジオの照明なんて関係ないんだから、音楽いきましょうよ」
「そうだねえ」
 ふたりは呑気に会話しているが、私は驚きを禁じえなかった。
 心霊現象かどうかはともかく、そもそもラジオ局が停電するなんて聞いたことがない。放送局というのは災害時などに備えて非常用電源があり、決して停電しないように出来ているものなのではないだろうか。
 しかしよく見てみると、ミキサーのスイッチやVU計は透明な光を放っている。全ての電源が落ちた訳ではなく、サブの機械は動き続けているようだ。であれば、確かにラジオのオンエアは続いているのかもしれない。
 ――では、まさか本当に心霊現象? 
 ――いやまさか、そんなことって……
 私は自分が幽霊であることも忘れて、この状況をいぶかしんでいた。
「そう、これはいわゆるひとつの心霊現象だ」
 いつの間にか蓮池Dが、私を見つめていた。
「いや……心霊現象って」
「なあに。この番組では、よくあることなのさ」
 彼はニヤリと笑って、オープンデッキを指差した。
「毎年、マイルスの命日にはこのテープをかけている。特別な日だからね。だが、今夜はキミというゲストを迎えて、さらに『記念すべき夜』になったようだ」
「え?」
 美青年ディレクターは、私の横をちらりと見た。
「ご本人のおでましだ」
 私のすぐ右隣りに、ぼうっと青い光が現れ、瞬時に人の姿になった。
 私は、初めて見る私以外の幽霊らしき存在に、すっかり度肝を抜かれていた。
 そして、その背の高い黒人男性は――
「まさか……」
 彼はゆっくりと歩き出し、スタジオの鋼鉄の扉をすり抜け、隅にあるグランドピアノに辿り着いた。椅子に腰かけ、青白い光をまとった手で蓋を開くと、白い鍵盤が見えた。
「うわ……」
 鴨川アナが横目でその様子を見ながら、恐々と声を漏らす。
「今……スタジオのピアノの蓋が、勝手に開きました。そして、なんか鍵盤の辺りがぼうっと青く光っています」
「ほほう、今夜はそんな趣向ですか」
「どんな趣向だよ」
「いや、だからピアノが勝手に演奏される流れ?」
「そんな流れ、普通あり得ないだろ」
「まあまあ。せっかくピアノさんがヤル気出してるんだし」
「ピアノに『さん付け』するなー」 
 スタジオのふたりには、背の高い黒人ピアニストの姿は見えていないようだ。
 蓮池Dがクスクスと笑った。
「ご覧の通りだ。この番組では、毎晩のように奇跡が起きる。真夜中という時間と、ラジオの電波がもたらす魔法さ」
「魔法?」
「だけど今夜、魔法のスイッチを入れたのは、キミだ。僕からも礼を言うよ」
「え……?」
 どういう意味だろう。
「じゃあ聴こうじゃないか。伝説となったピアニストの、この番組だから聴ける生演奏をね」
 その言葉が開演の合図であるかのように、マイルスは大きな手を鍵盤に落とし込んだ。
 ――この曲は……
 彼が弾き始めたのはジャズのスタンダードではなく、ショパンの『夜想曲(ノクターン)』だった。私も相当なマイルスマニアだと自任しているが、彼がこの曲を演奏するのを聴くのは初めてだった。
 音楽は静かに柔らかく始まり、優美な旋律が次第に激しさを増していく。
 彼の長い指だけが成しえる強いタッチのピアノに私は酔いしれ……やがて私は、彼の来日コンサート会場を訪れたときのことを思い出していた。

 運良くホールの最前列に座った私は、彼の特徴である長い指や照明に光る汗までも、つぶさに鑑賞することが出来た。
 目を閉じて名演奏に集中したい気持ちと、いま目の前にいる彼を見ていたい気持ちとがせめぎ合った。ファンとして、これほど幸せな悩みがあるだろうか。

 あっと言う間とも思えるコンサートの時間が過ぎ去り――夢心地で帰宅した私を待っていたのは、当時住んでいた団地の玄関に貼られた、一枚のメモだった。

《交通事故。大至急◯◯病院に連絡を。電話番号◯◯◯―◯◯◯◯》

 携帯電話どころか、留守番電話も無かった時代だ。私は慌てて家の鍵を開けると、真っ暗な玄関先に置かれた黒い電話機から、その病院へ電話をかけた。
 そして――。

「ああ……」
 私は、ラジオ局の床にへたり込んだ。
「どうしたんだい?」
 ピアノ曲に耳を傾けながら、美青年ディレクターが声をかける。
「あの日、私が……私がマイルスのコンサートに夢中になっている間に、家族が……」
「君の家族が?」
「妻と娘が……買い物に行った帰りに、トラックにはねられて……」
「……亡くなったのかい?」
「……」
 私は力無く頷いた。
 両眼から止めどなく涙が溢れ出していた。幽霊も泣くんだな、と頭の片隅で考えた。
「あの日は私の誕生日で……たまたま同じ日にマイルスの来日コンサートがあって。だけど値段も高いし、私は諦めていたんだけれど……妻が気を利かしてチケットを買ってくれてたんだ。
 でも娘はまだ幼稚園児だから、ジャズのコンサートには連れて行けなくて。妻は『あなたへのバースデープレゼントだから、ひとりで愉しんできて』って、笑顔で送り出してくれた。考えてみたら、それが妻との最後の会話だった」
「そうか……」
「タクシーを呼んで、無我夢中で病院に駆けつけたら……ふたりとも、もう冷たくなっていた……信号無視の大型トラックにはねられ、即死だったらしい」
「つらかったね」
 蓮池Ⅾは限りなく優しい声で言った。
「私は葬式の準備の為、病院からいったん家に帰った。そしたら、冷蔵庫にケーキが入ってたんだ。妻の手作りのケーキで、ケーキには、娘がチョコクリームで『パパおめでとう』って」
 私は涙にえずきながら話し続けた。
「私がマイルスに熱を上げている間に、コンサートを愉しんでいる間に、妻と娘は死んだ。どんなに痛かったろう、どんなに辛かったろう。ひょっとして今際の際に、私の名前を呼んだかもしれない……ああ、コンサートなんか、行かなければ良かったんだ」
 私は泣き、マイルスのピアノ曲は流れ続け、蓮池Ⅾは黙って話を聞いていた。
「私は罪の意識にさいなまれて、会社を辞めた。何もする気が起きなくて、貯金を切り崩して生活した。貯金が無くなってからは、妻の死亡保険金で暮らした。妻の遺したお金を使うことは、あの頃の私にとって、妻との絆を感じることだった」
 光の差し込むことのない、真っ暗な洞窟の中に潜んでいるような日々を思い返し、私はうなだれた。
「妻と娘を亡くして何年か経ち、お金が底をついたとき……私はいよいよ、罪を償う時が来たと思った」
「自殺したのかい?」
 彼は率直に聞き、私は頷いた。
「走って来た大型トラックに身を投げた。運転手が何か叫んでいるのが、フロントガラス越しに見えた。私はそれを眺めながら、車体に圧し潰されて死んだ。トラックの運転手には申し訳なかったけれど……私には、妻や娘と同じ死に方を選ぶことしか、罪を償う方法が見つからなかったんだ」
「なるほどね……それで、全てが分かった」
 蓮池Dは腕組みをして言った。
「死んだ後に君が記憶を失ったのは、君自身がそれを望んだからだ」
「私が……? 望んだ?」
「良心の呵責の大きさに、君の精神が耐えられなかったんだ。それで君は死んだときに、生前の記憶の大半を失ったんだろう」
 ――そうか……。
 納得できる話だった。
「だが一方で、自死は大きな罪だ」
「……罪?」
「全ての生き物は、生きる為に生まれて来て、生きる為に生きている。やがて命が尽きるその日まで生き続けるのが、使命であり目的そのものだ。人間だって例外ではない、ということさ。
 今更、幽霊の君を責めるわけじゃないし、僕にそんな資格も無い。だけど、どんなにつらくても、君には生き続けて、為すべきことがあったんじゃないだろうか。その役割が何だったのかは、今となっては誰にも分からないけれど。いずれにしろ君は、君の役割を放棄して、死を選んでしまった」
 私はうなだれて彼の言葉を聞いていた。私は死んだ後、幽霊の無力さを痛感していた。彼の言う通り、生きている人間にしか出来ないことが沢山あるのだ。
「だが、それだけじゃない」
 彼は畳みかけるように言った。
「君は自殺するにあたって、トラックのドライバーに『君を殺させる』という罪を犯した。これも重罪だ」
 確かにその通りだ。自殺はまさに自分自身の問題だが、あのドライバーには何の落ち度もない。それなのに、私は彼に『人殺し』をさせてしまったのだ。
 ――なんて酷いことを。
 私は、私自身が犯した罪の大きさを、改めて悔やまずにはいられなかった。
「つまり、君は『二つの罪』の罰として、何十年もの間、この世を彷徨うことになったんじゃないかと思う」
 恐らくその通りだろう。目の前の青年の洞察力の深さには、ただ驚くばかりだ。
 ――でも、それならどうして……
 どうして今日、私は記憶を取り戻すことになったのだろうか?
 手と唇の震えが止まらない。こんなに辛い記憶なんか、思い出さなくても良かったのに。全てを忘れたまま、永遠に彷徨い続けている方が遥かにマシだったじゃないか。私は頭を両手で抱え込んだ。
「物事には全て、始まりと終わりがある。全てにおいて、だよ。諸行無常なのさ。そしてそこには、人智の及ばないタイミングがある」
「タイミング?」
「君が死を選んだのは、何年の何月何日だい?」
「……一九××年、×月×日だ」
 私は、しっかりと記憶していた。
「ふむ。やっぱりね」
 美青年ディレクターは深々と頷いた。
「今日は君が死んで、ちょうど××年後の、×月×日だ。つまり今日はマイルスだけじゃなく、君の命日でもあるんだ」
「え……」
 眩暈に襲われた気分だった。
「マイルス・ハンコックの大ファンである君が偶然、彼の命日に、そして偶然、君の命日に、さらにまた偶然、よりによってこのラジオ局を訪れた――これはまさに奇跡のタイミングだとは思わないか?」
「奇跡の……」
「さあ、立ちたまえ。マイルスは今夜、君の為にピアノを弾きに来た。君には彼の演奏を見届ける、聴き届ける義務があるんだ」
「……」
 私はふらふらと立ち上がり、スタジオの中を見た。すると、マイルスもピアノを弾きながら、私を見ていた。
 マイルスは微笑みを浮かべながら、何かを呟き――その言葉は囁きとなって私の耳元に届いた。

『もう、いいんだよ』

『神様は、すべてをお許しになった』

『さあ……音楽を奏でよう』

 まるで光の棒で殴られたような衝撃を受け、私は再び号泣した。温かい雨のような優しい調べに包まれながら、私はなす術もなく、ただ涙を流し続けた。
「お疲れ様。これまで長かったね」
 蓮池Dは回転椅子に腰かけたまま、私に声をかけた。
「君はね、全てを忘れていたようで、実は全然忘れていなかったんじゃないかな。この世界を彷徨いながら、ずっと心の底で謝り続けていたんだと思う。
 そしてその想いは、人々にほんの少しだけ届き、ほんの少しだけでも、良い方向に導く力になっていたんだよ」

 そうだろうか?
 そうなのだろうか?
 そう言えば、そうだった気もする。
 今夜も危なっかしいお年寄りを見かけたが、小さい女の子が夜道をひとりで歩いていると心配になって話しかけたり、居眠り運転をしているドライバーを見かけたときは、目を覚ますように耳元で怒鳴ったりしたこともあった。
 幽霊の声が聞こえることはないし、大抵は取り越し苦労で、『たまたま』助かっていたような気がするけれど……時には、私の言葉が届いていたこともあったのだろうか。

「お疲れ様」
 彼はもう一度言った。
「君の長いひとり旅は、もう終わりだ」
「でも……」
 マイルスのピアノを聴きながら、私は絶望していた。
「そんなこと言ったって、だからって、これからどうすればいいんだ。許されたって言ったって、私の罪の意識は全然変わらないし……相変わらず、私はひとりのままだ。妻や娘を亡くしたことに、変わりはないじゃないか!?」
「違うよ、ご同輩」
 取り乱す私に対し、蓮池Ⅾは静かに言った。
「ひとり旅は終わりだ、と言っただろ? 見上げてご覧」
 天井を見ると、白い光が輝いた。
 その眩しさにたじろいでいると、やがて光は、ふたつの人影となって私の前に降りてきた。
 ――まさか。
「パパーっ!」
「あなた……」
 数十年ぶりに聞く娘と妻の声に、私の感情は沸騰しそうだった。
「何故……どうして!?」
「ずっと見てたの。あなたのこと、ずうっと見てたのよ。でも、あなたが心を閉ざしているから、私たちの声は届かなくて……」
「ずっと……?」
 ――そんな。
 私は、ずっと独りぼっちだと思っていたのに。
「人の意識というのは、ラジオの周波数のようなものでね」
 蓮池Ⅾが言った。
「心のチャンネルが合わないと、お互いに受信することが出来ないんだ。生きている人間だってそうだし、死んでしまったら尚更だ。今夜、ようやく君の心は開かれ……ずっと君のそばにいた奥さんやお嬢さんと、話が出来るようになったのさ」
 ――私は、独りぼっちではなかったのか――。
 喪われた筈の愛する妻と娘は、いつもそばで私を見守ってくれていたのだ。
「パパッ!」
 娘が、乱暴に私の腰をこぶしで殴った。
「んもう! おそいよっ!? はやくおたんじょうびケーキ、たべようよ!」
「そうよ。ママとふたりで一生懸命、作ったんだもんね」
「うんっ!」
 得意げな幼稚園児の手を取り、彼女の視線を追うと――見慣れた団地の扉が現れた。
 金属製のドアノブを回して扉を開けると、数十年ぶりに見る我が家だった。
 靴箱の上には、恭しく電話が置かれている。妻が毛糸で編んだカバーがかけられている。あの日、病院に電話したダイヤル式の黒電話だ。
 廊下の向こうにはリビングがある。
 リビングには手作りのケーキが置かれ、ロウソクの火が灯っているのが見えた。
「さあ、お誕生会しましょ。あなたの命日だけどね」
 茶目っ気たっぷりに妻が笑った。
「いこういこう!」
 娘と妻に両手を引かれ、振り返って蓮池陽一Dに会釈をする。
 ふと、スタジオやサブには、さっきまで見えなかった幽霊たちが沢山いることに気づいた。
 ――私の心が開かれたから、見えるようになったということなのかな。
 そう考えながらよく見ると、確かに、幽霊たちの中にも私が見えている者と、全く見えていない者がいるようだった。
 スタジオの中から、私たち家族を見つめている白人の少女がいることに気づいた。とても羨ましそうな顔をしている。腰よりも長い金色の髪が見事だった。水色の寝間着を羽織った少女は、私と目が合うと慌てて山野佳澄の後ろに隠れた。
 蓮池Dがその様子を見ながら、微笑んだ。彼には、全ての幽霊の姿が見えているようだ。
「このラジオ局には――このラジオ番組には、色んな魂が寄ってくる。生きている人も、死んでいる人も。寂しい魂たちが、まるで吸い寄せられるように集まってくるんだ。ご同輩、今夜、私たちの番組を聴いてくれてありがとう」
『ご同輩』と彼が私を呼ぶ理由がやっと分かった。
 彼の体は、わずかだが透けていた。
 彼自身も私と同じ、死者だったのだ。
 ――なのに何故、生きている人間と同じようにふるまうことが出来るのだろう?
「パパ! はやくいこうよ!」
 幼稚園児がふくれっ面で見上げていた。
 そうだった。今の私には、もっと気を回すべき、大切なことがあるのだった。
「さあ、行きたまえ」
 美青年ディレクターはウインクをした。
「今日は君の再出発の日だよ。本当におめでとう」
 マイルスのピアノは、いつのまにかショパンの『夜想曲』から『ハッピーバースデー』に変わっていた。
 家族三人で頭を下げ、団地のドアを閉める。
 ドアを閉めても、楽し気なピアノの旋律は聞こえ続けている。
「あなた、おめでとう」
「パパ、おめでとう!」
「うん……」
 靴を脱ぎ、廊下を三人で歩きながら、私たちは声を揃えてハッピーバースデーを歌った。
 ――さあ、久しぶりに何を話そうか?

 夜はまだ、始まったばかりだ。

(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?