個人的に好きな作品で無題

私の家にゴリラが住み着きだしたのは、今からちょうど三ヶ月前のことだった。残業続きで疲れきった体を引きずりながら玄関の扉を開けた時のその衝撃を、一体どうやって表したらいいのか。真っ暗な部屋の中に一匹のゴリラがいて、何か言いたそうな物憂げな表情でこちらを見つめている。そして丁寧にも正座をしていた。私は全人生でこれ以上ない、という絶叫をあげて近隣住民に助けを求めたのだが、最初は血相を変えて飛び込んできた隣の部屋の旦那さんも、顔にパックを貼り付けて私の部屋を覗いたおばさんも、何をどう間違えたか、今やそのゴリラと談笑をするまでの仲になっている。そう、驚くべきことにゴリラは人の言葉を解したのだ。これを発見といわず何といおう。 
私はやっきになって、国の研究機関にサンプルとして提供しようとしたのだが、喋るゴリラが居るんです、と電話口で告白した瞬間、鼻で笑われて電話をきられた。個人的にこの国の暗部とはこういったところに集約されると思う。 
さて、件のゴリラとの生活といえば、こちらが拍子抜けしてしまうほど普通、であった。いや、この場合普通、という単語は似つかわしくないのだけれど、人語を解すゴリラというのは人間社会のルールが良く理解できてるらしい。一番心配だった排泄の処理も自分でトイレで行っているし、残業で遅くなった折、食事を作ってくれているときもある。この夜食が美味ければ、このまま彼女と二人きりの人生も悪くないか、と思えるのだけれど、如何せん味付けが微妙である。また、ゴリラゆえに卵を触れない。これは、食べ物ではないとゴリラは判断したらしい。 
微妙な味付けのチャーハン(卵抜き)を頬張りながら、私は彼女に語りかけた。 
「あんた、食べないの」 
目の前のでかいメスゴリラはどこで手に入れたのか解らない植物を頬張りながら、「あたし、草食ってるから大丈夫」と私に告げた。 
「っていうか、それどこで買ってきたの。誰のお金使ったの」 
チャーハンを含みながら、怪しい発音でメスゴリラに問うた。聞き取れるか不安だったが流石に三ヶ月寝食を共にすると、いくらか相互理解ができるようになっているらしい。メスゴリラは抑揚もなく、あんたの金で買った幸福の木、と告げた。食料になるんだね、というと、うん、と帰ってきた。 
咀嚼した米を喉に流し込みながら、再び私は彼女に告げる。 
「てか、なんであんた私の家に居るのよ。草食うならジャングルかえんなさいよ、ジャングル」 
言い切った直後から、開いていたウーロン茶のペットボトルを真っ逆さまに喉に流し込んだ。最近、自分の行動がゴリラなのか人間なのか、少し怪しくなっている。ゴリラは私の言葉を聞いて少し俯いた。ゴリラは実は繊細だ。 
「あたし、もう嫌なんだよね」 
私は、大きく息をはいて呼びかける。「何が」 
「ゴリラで居ること」 
俯きながらメスゴリラは物憂げなため息をついた。私は彼女の女優のような表情を見ておきながら 
「でもゴリラだよね」 
と返した。ゴリラは少し頭を振って私に言う。 
「人間は綺麗じゃない。お化粧をして、お洒落して、楽しいじゃない。ゴリラじゃ駄目。毛深いし、醜いし、匂いだって…」 
「でもさ」 
メスゴリラの言葉をさえぎって私は言った。 
「あんた達にも、美人とかイケメンの基準ってあるんでしょ?まさか人間のイケメンが好きってわけじゃないでしょうに」 
私をまっすぐに見つめたメスゴリラの表情は不可思議だった。いぶかしむ様に私を見て首を傾げた後、メスゴリラは私に言った。 
「人間は理解してないんでしょうけどね、私達サルの類は、皆人間を真似してるのよ。人間の生活や、人間の文化に、すごく憧れているの」 

退社の時間は今日も、夜八時を過ぎていた。かばんの中に財布とアイフォンと日記帳、それから幸福の木を詰め込んで、帰り支度を行いながら私は先日のゴリラとの会話を反芻する。
人間に憧れるゴリラは、会話の最後で恥ずかしそうに私に告白をした。 
「あのね、貴方の化粧水、一度だけ使ってみたの。貴方みたいに、綺麗になれるかなあって」結局なれなかったけど、といって口を開けたメスゴリラの顔は恐かった。恐かったがたぶん笑っているのだろうから、ひとまずそれは可愛い仕草なのだ、と私は解釈する。 
暗い夜道を急ぎながら、かばんの中の幸福の木を思う。言語を介すというのは、多分精神性や文化を解すという事ではないのか、と最近の私は感じ始めている。事実、森の民であったあのメスゴリラの現代女性には無い奇妙な貞淑さに、惹かれ始めている自分が居た。滑稽で奇妙なこの生活が、今や自分と自分の女性を省みるいい材料になろうとは、誰が予想しただろう。 
私は浮かれる足でもって、自宅玄関の鍵を開けた。ただいまーと声をかけ、いつも帰ってくるおかえりー、に耳を済ませた。 

玄関は暗かった。そして自室も。私は最初、あのメスゴリラめ、とうとうイケメンゲットするために出かけやがった、とほくそ笑んだのだが、どうも様子が違う。部屋の空気がよどんでいた。 
ぐう、ぐう、とゴリラの細い息が聞こえた。何かあったのだ、と瞬時に理解した。部屋の明かりを咄嗟につけると、そこにはゴリラが二体居た。 
ゴリラはゴリラに覆いかぶさっていた。そして多分、下にいるのがメスゴリラなのだろう。あの強面の癖にどこかチャーミングな鼻の形に見覚えがあった。そいつが、ゴリラの下で息を殺して泣いている。 
「何してんの」 
酷く冷静だった自分の声に驚いた。多分、であるが予想する。これはレイプだ。 
次に言った、何してんの、は咆哮に近かった。私の倍はあろうかというゴリラをどこから出たのか解らない力で突き飛ばし、私はメスゴリラを抱きしめた。 
床に転がったゴリラは、いてえ、と呟きながら私達を見た。メスゴリラが私の腕の中で震えながら泣いている。 
「何してんの、ってレイプだよ。人間って、こういう事するんだろ?」 
そいつは確かに、人間の声をしていたし、人間の言語で私に答えたのだけれども、私にはそれがどうしても人間の言葉に聞こえなかった。獣でもなかった。例えるなら、怪物だ。 
怪物を前にして、私がとった行動は、『逃げる』ではなかった。台所に目を走らせ、ステンレスの包丁を持ち出して、私は怪物をさした。叫びながら何度もさした。返り血が私の体をぬらして、床に、幸福の木に、染み入っていく。全てが終わった瞬間、衝撃があった。頭蓋に叩き込まれたそれは、メスゴリラのこb

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