自殺少年

月曜の朝、出社を急ぐ由美の目に飛び込んできたのは、高いオフィスビルから飛び降りようとする少年の姿だった。 
少年は五階立てのビルの屋上の、そのフェンスに足をかけて体を乗り出している。危ない、と体がこわばったが大声を出すのも恥ずかしいので、そのまま少年を見つめていた。 
少年はイライラする速度でようやっとフェンスを乗り越えると、鳥にでもなったかのように両手を真っ直ぐに広げた。そうして胸を前にして屋上から飛び降りた。 

由美の金切り声が響く中、少年は地面へと落下した。 
ごつ、と鈍い音が聞こえたあとアスファルト、トマトがぶつかって破裂したような赤い絵が描かれた。少年は粉々になっている。 
震える体を包み込んで座っていた彼女に、スーツを着た男が声をかけた。 
「どうしました」 
あれ、あれ、と震える声で死体を指差すと呆れたように男は言った。 
「ああ、自殺少年でしょう。ほっとけばいい」 
驚いて男の顔を見た。そうして辺りの人間をみた。 
皆、怯える由美の姿に怪訝な視線を向けてはいるが少年の死体を見てはいない。今この場で奇異なものはあの少年ではなくて、自分なのだ。証拠に誰も、救急車や警察を呼んでいる様子がない。 
震えながらも彼女は考えた、自分がおかしいのか、それともこの人たちが可笑しいのか。けれども彼女は、自身の意思を貫くような青臭い強さを持っている人間ではなかったので、男のいう事を信じようとした。 
震える体で大丈夫です、と答えて立ち上がった。 

それでも気になって死体を見ていると、死体の周りの血液がみるみるうちに集まって死体に吸い込まれていく。まるでビデオの逆再生をみているようだった。すると死体は少年になって、彼は再び屋上へと駆け上がっていく。 
ぶるりと体が震えた。確かに関わらないほうがよいと思ったので、重い気分を引きずりながらも彼女は時間通りに会社へと向かった。 

退社時間、彼女の頭の中にあったのはやはりあの少年の事だった。 
なぜ屋上から飛び降りて、生きているのにまた死のうとするのだろう。 
悶々としながら歩いていると、例のビルへと差し掛かった。 
屋上を見る。やはり少年は屋上で手を広げている。そうしてひょいと足を出して一気に落下してゆく。またごつ、と音がして少年の体は砕けてしまう。 
思わず目をそらした。血のにおいの充満する中、やはり人はそれを何か日常の一つとしているようで見向きもしない。そんな間に少年の体が再生して行く。 
ぐずりぐずり、と内臓がうごめいて骨が形成されて、つぶれた右目も引っ込んでしまった。 
怪我一つない健康な体でもって、また少年は屋上へと続く階段に駆け出そうとする。 
「待って」と思わず由美は声を掛けた。 
少年は振り返って高く可愛らしい声で由美に言った。「なぁにお姉さん」 
「どうして死ぬの」と由美はきいた。我ながら馬鹿らしい質問だと思った。 
少年は笑って言う「死んでるんじゃないよ。空を飛んでいるんだよ」 
少年は輝く笑顔で由美に言った。「お姉さんもおいでよ。すごく楽しいよ」 

すでに太陽は沈んでおり、眼下には車のヘッドライトの洪水が見える。ただ風だけが強くて、由美の長い髪を右へ左へとはためかせた。 
少年は笑いながら由美に言った。 
「僕ね、すごく飛びたいの。お空を飛びたいの。飛行機だとお空を飛んだ事にならないから、ここで飛んでいるんだよ」 
そういいつつ、ごそごそとフェンスをよじ登る。思わず声がかかる「危ないわ」 
フェンスを飛び越えた少年は「大丈夫だよ」と由美に笑いかけた。いつものように腕を広げて由美に言った。 
「ほら、僕鳥さんになるよ」 
す、と出された足は空気を踏む。重力に逆らえず落下した鳥は、真下でごつ、と鈍い音を立てた。思わずフェンスに駆け寄って少年を探す。 
やはり真っ赤な血を振りまいて彼がアスファルトに横たわっている。 
見つめている由美の目に長い髪が絡みついて、少年の死体が見えにくくなった。邪魔な髪を耳にかけたら、視界が開いた。しかし少年の死体がない。 
思わず辺りを探すと、彼は居た。彼女の丁度真下で手を振っている。 
思わず体が動いた。フェンスを乗り越えて、彼女は風の中に立った。 
足元にはもう何もない。風しかない。 
頭に少年の声が響く。僕、鳥さんになるよ。 

す、と手の力が抜けるのを感じた。風に流されて体が倒れた。 
脳内を引き裂く重力の中で、彼女はかつてない開放感を感じている。 
明日も、明後日も、昨日も、全てがここにはない。 
長い長い幸福な時間だった。自分は鳥になったんだと感じた。 
おねえさん、気持ちいいでしょう、と少年の声が響く。 
そうだね、と言いかけた時に何かが割れた。頭だと意識したけれど、もう目は見えなくなった。 

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