2019/7/25 一人断腸亭日乗

シリーズ・うちとお笑い

お笑い界が激震中ですね。
吉本っていう会社がクソブラックってみんな知らなかったんだっていう驚きとか昭和の芸能界のエグさを知らないんだっていう驚きとかで何を批判しているのかよくわからなくなっている毎日。梅雨は明けたし、地獄の季節もやってくるので僕は主にかき氷を食べて生きています。

ツイッターがメモがわりならこれもメモ、ツイッターは思いついた事を書けるけど長文には向かないので長文メモとしてnoteは機能しています。

お笑いと文書の関係は実は深いと僕は思っていて、それは僕が趣味で文書書き始めて結構な時間が経っているからだ、と思っている。昔はそんな事思わなかったし、純文学と笑いなんか対極に位置するものだと思ってた。

そういえば昔、坂口安吾と忌野清志郎は同ジャンルだって共感覚を披露した事があるけど全くウケなかった。だから今回もきっとそんなウケない話になる。僕には全て分かってるんだ、だってかき氷を食べているからね。

上岡龍太郎の喋りの美しさ、返しの絶妙さはもう夏目漱石に近しい。あの人の語りは確かに落語の美が詰め込まれていた。座り落語ではなく立ち落語に講談師の名調子、伝統芸能の美。けども伝統芸能とは確かに美であるけれども快に弱い。彼が潔く芸能界を引退したのも頷ける、伝統芸能は段々に高尚にスノッブになっていくものだから。

スノッブ化に歯止めを止めたのは漫才ブーム、紳助のビート漫才、けどもあの人の喋りもやっぱり高座、講談師のそれ。それを松本人志がぶっ壊した。

上岡龍太郎を夏目漱石で例えるなら、紳助は三島なんだよなあ、そして実は松本人志もこの、純文学的漫才の継承者ではある。
喋り、返しの妙技。話芸としての漫才。
松本人志はその伝統芸能にSFを取り入れた筒井康隆系芸人なんですよ、あの人。

伝統芸能の宿命として換骨奪胎を行わなければ死んでいくというのがある。芸人の世界も同じ、純文学は難しいので読みたくないですって言う人いると思う。人の目に触れられぬ芸術や表現なんか石ころと一緒、石ころには色をつけそれが宝石だと錯覚させなきゃ価値はでない。

エンタの神さまという番組でお笑いはラノベ化した、と僕は思っている。喋り、返しは出来ない、動きと衣装と表情の3D化、それは確かにテレビウケはするだろうね、派手で楽しくて明るい。でも僕は個人的にこのラノベ系お笑いが好きじゃない。お笑いって畢竟、悲しみから生まれるものだから。
悲しみがないものは長続きしない、何故なら人生とは哀しさだろうから。哀しさがあってそれを笑ってまた哀しむこのサイクルこそが人生CLANNADも人生。

吉本の木村天然素材vs伝統芸能大崎一派。

でもさ、ぶっちゃけラノベも純文学もどっちも楽しめる世界がいいよねって思うよね。ラノベからハルヒは始まったし、化物語もそうだしさ。そういえば宮迫が「そないに吉本悪ぅ言わんといてえや」って言ってたのでそうだよねって事でこのお話は終わりにします。

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