路輪一人の・一人・映画・ごっつ

一人ごっつ


龍三と7人の子分達

網走ばんがいちであり、昭和ヤクザ任侠伝であり、仁義なき戦いであり、その全てのパロディーである。

映画館を出た後、肩で風を切りたくなったのは、龍三親分が粛々と誇らしげに警察に連行されていったから。なんてカッコいいんだろう。

それから徒然と考える、随分昔に、実話ナックルズか何かで現役ヤクザの作家が、自分達を「スサノオ」に例えていた。彼らは野放図に暴力を行使し、悪びれもせず、他人も自分も考えず、自分達の利益にのみまい進する、それが結局愛しい姉を岩戸の中に押し隠してしまう事であっても。岩戸の中に隠れた姉を想ってスサノオは泣くのだ、「ああなんて俺はバカだったのだ」と。

男性性を究極まで突き詰めていくと、やはり原始、それはスサノオに行き当たる。つまり、ヤクザに行き当たる、そして、ヤクザ、暴力を行使する職業が、ロクデナシの生き方が、ここまで繰り返し物語として語られる由縁はつまり、彼らのすがすがしい「豪快さ」にあるのだろう、とうちは想う。

風俗のストレスからうちを救った、MMORPG、その仮想空間にもヤクザはいて、私は彼らがとても好きだった。何故なら

「俺たちは、いい人間じゃないよ。俺たちは悪い人間だ。だからなんだ?」

彼らは一貫してこのスタンスを崩さなかった。彼らはシンプルに自分の立ち居地を決めていて、それを表現していた。そのシンプルさは強靭だ、せせこましく自分の在り方について、言い訳と弁護を繰り返す私のような存在に指を突きつけて笑う彼らの姿勢に憧れた。このパロディー映画を観た直後、思い出したのは彼らの言葉だ。

悪党の語源は格好良い奴って意味なんだぜ。

かっこいいって、そういう事なんだろう。

言い訳も、泣き言も言わず、俺らがやってる事は悪い事だ、だからなんだ、と言ってしまえる強さ、うちはこんな小さなところに、男性の意地と愛嬌と照れと健やかさと、まぁ色んなものを観てしまう。そうして「好き!」と言ってしまう。

年を取ったからって、「悪い事」をやっちゃいけないってわけじゃぁない。悪い事を考える能力と実行できる体力と、そして全ての責任を自分の背中に背負ってしまう男の人がすげい好きだ。このへん照れるけど、好きだ。かっこええ。

其の上で、老いという悲しみが、切々と全編に流れている。泣きたくなる、けれども笑わなければならない。何故なら龍三親分は、清々とした顔で死んでいくのだから。



あと気がついたのが、アレ、介護現場リアルすぎてわろたwwwww

墨はいってるじいちゃん多かったなあ・・・なんて。


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