シリーズ・うちとマスキュリズム
、男性に対する性差別(男性差別)の撤廃を目指す思想や運動である。
ソースがうぃき。
考えているのでs。フェミニズムとマスキュリズムを統合する新しい思想はないかな、と。
お前なんかに考えられるわけねーべwwwwって、うちもそう思うんだけどねwwwww
思うに、フェミニストは愛されたいんだな。
そして、女性のマスキュリストは「愛したい」のだ。
うん。そうなんだ、愛したい、のだ。愛されたい、のじゃなく、愛したいのだ、情熱的に、偏執的に、盲目的に!自分の人生全てを使って、「愛した」時に幸福を感じるんだ、愛された、時ではなく、「愛した」時にのみ、力を発揮できるんだ、愛される、という言葉が信じられないのだ、だって人間は変容する事を知っているから!
DVと風俗を経験して、それでも、一人の男性を愛し続けた20代、其の上で捨てられた20代でも、うちが死ななかったのは「愛していた」から。
全部を捨てて、例えば「プライド」「打算」「年齢」「欲望」「嫉妬」全部を捨てて、それでも捨てれなかったのが「愛している」っていう事実だけだった。だから、うちの中の真実は徹頭徹尾これだけ。「私が愛している、という事だけが真実」
それ以外は全て嘘。私も嘘、彼の感情も嘘、何もかもが虚構、でも、「好きだ」という感情だけ捨てられなかった。だからそれを持って地獄を渡った。それでよかった、と思っている。
愛される幸福がよくわからない私にとって、フェミニズムは胡散臭いものでしかないし、愛する幸福がわからない人にとっては、うちがわからないだろう、
ただ、どっちも本来必要なんだよなぁ。
この世に不必要なものは何一つない。無論(極論ではあるが)戦争すら。
うちが、怖がっているのが「愛された」時に、自分が傲慢になってしまう可能性。自分の中の悪魔、サタンの顔をよく見ているから、きっと私は傲慢になってしまう。そのサタンを起こさない為にも、私は「愛する」事だけを自分に課した。サタンを眠らせる、「愛され方」を知ったときに、多分、色んな意味で私は完成するんだろう。今のうちは「愛する」事しかしらない。
愛する事もまた悪魔を生み出す、うちが、エドゲインや、ヘンリーに涙するのは、彼らが、愛する事しかしらない人だったからだ。母親に殴られ、馬鹿にされ続け、それでも母親を愛そうとして狂ってしまった人たち、彼らも「愛する」事しかしらなかった。
三島、三島、貴方もまた「愛した」ただ、「愛した」日本文化を、文化の奔流を、滔滔と流れる文化の大河をただ「愛した」
愛される事がきっと、怖いんだなあ。
という事に気がついて、しみじみ。けど、理解できたから、と言ってそれを実践するのはまた別のハナシ。「私を愛して!」なんて恥ずかしくていえないづら、から、「もしよかったら、私を愛してくれませんか」っていえるようになるまで、自分を壊して、再構築しよう。まずは、そこから。
実はすごくわかるんだ、「愛された瞬間、ダメになる」
誰だっけ、自分の作品がウけている、って言われた瞬間、「嘘だろ?馬鹿ばっかだな」って思っちゃった作家。
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