萌えに対する極刑

「酷い、酷い、酷いって思わないか、なあ」
と隣にいる、もう既に物体、と化している友人が俺に呼びかけた。
朝の眩しい光が、簡易なキッチンの小さな窓から差し込んできている気配は感じていた。けれども目の前にある原稿はまだ、半分ほどしかペン入れが終わっていない。髪の毛には消しゴムのカスがこびり付いていて、三日間着たままのスウェットにはスクリーントーンが張り付いている。

「俺達なんでこんな事しているんだろうな」

な、と瞳孔を押し開きながらこちらを見る友人を心底ウザいと思うのだけれど、指を動かさなければ、今日の締め切りに間に合わない。やかましい、や、さっさと手を動かせ、という罵声がまず浮かんだのだけど、喉は全く別の言葉を搾り出した。
「アリス可愛いよなあ」

自分が書き上げたエロ同人原稿の中で、お気に入りのキャラクターが足を広げ、蕩けた表情をしてこちらを向いている。可愛いな。そう思ったら、とりあえず俺の唇は絵の中の彼女に伸びる。ちゅっちゅっと音を鳴らしながら、紙を吸っていると隣からまた、少々ラリった友人が呼びかけた。

「可愛い。うん。アリスは可愛いんだ。可愛い事は正義だが、病気だな」
そういや、なんかそんな広告みたな、と俺は思い立った。けれど手はとまらない。

「病気。可愛いは病気。俺が朝立ちしてんのも病気。というか、この状態が疾患」
「精神疾患だ」

かぶせて俺も言う。何かを言わなければもう精神を保っていられない友人が続ける。

「酷いもんだよな。自分の病気を自覚していて尚且つそれに抵抗する方法がないなんて」

そうだよな。萌えは疾患だ。精神的な。俺の目の前にいる、あられもないアリスを描きだす為だけに、こんな人とも思えないような生活を続けている。萌えは人を人足らなくするんだ、なんて不幸なんだ。

「萌えに抵抗する、唯一の治療薬が同人だ、なんて。描き続ける事だなんて。お前何ページ進んだ?」

問われたので、端的に8ページ、とだけ答えた。

「すごいな8ページ。そういや8ってさ、横にするとインフィニティーだよな。英数字限定だけど。どうして漢字は英数字を使わなかったかわかるか?末広がりじゃなくなるからさ。それにさ、末広がり、八の漢字ってなんかスカートっぽくないか?中に何があるんだろうな」

また俺は端的に答える。「宇宙だろ」
宇宙!と大げさにのけぞった友人を完全にスルーする。やっと線入れが終わった。
「だったらさ、俺達はスカートの中に居るって事だ。俺たちが空を見上げることは全く正しい。だってパンツだもん。空色のパンツ。ほら、俺、パンツは水色が好きだつってたろ?当然だよ、空はパンツなんだから。だから皆、空を見上げると幸せになれるんだよ」

この言葉には反論した。

「だったら夜はどうなんだよ。パンツ黒いぞ」
墨入れを開始する。
「ばっか、お前それは夜だからじゃん。夜は娼婦にならなきゃ駄目じゃん。だから夜は色っぽいし、ちょっとエロいんだよ。だからこそ黒をはくんだ。んで、夕焼けは、生マン」
「だから赤いんだ」
と、納得した瞬間、どうしようもない馬鹿馬鹿しさが込みあがってきて、とうとう俺は原稿を描く手をとめた。そして額に手をあて、こみ上げてくる笑いを堪えたが、三日間徹夜続きの脳がその馬鹿馬鹿しさに勝てるわけがない。肩を揺らしながら笑い続ける俺の側で、まだ友人は力説する。

「履き替えてるんだよ。あの瞬間に。黄昏っていうだろ?よし、俺これからパンチラのこと「黄昏」っていうわ。確かにさ、パンチラ観たときのあの奇妙な幸福感は、夕焼けを眺めている時の感情と似てる」
笑い終えた俺が、再び友人に呼びかけた。
「あれだな、パンチラ=黄昏。文学だな」
「だな。文学だ」

再び二人でツボに入ってしまった俺達は、そのままひっくり返って暫く腹を抱えて笑い続けた。

30分そこらがたって、やっと笑いの熱も冷めてきた。笑いの後に来るものはやっぱりどうしようもない倦怠感だ。「終わらねぇ」と俺が呟くと、友人も「だなあ」とそれに返した。
今度は俺が行った。「酷いよな。なんで俺らこんな事してんだろうな」
冷静になった友人が言う。

「こりゃな、萌えに対する、極刑だよ。極刑」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?