くうぼうさん

とある老紳士より、こんな話を聞いた。
その紳士がが未だ少年の頃だったというから、かれこれ60年、70年は前のことだろう。当時は日中戦争の只中で、人も物資もみな戦争に取られて都会では食うに困る生活をしていたが、幸いその紳士にはよい疎開先があったそうで、戦時中にもかかわらずのんびりとした田舎暮らしを楽しんでいたという。米も食料も、本当は全て国に差し出す、はずであるが、田舎の人間というのは狡猾なようで、自分たちが食べる分はどうにかして隠している。かつて少年であった老紳士は、どこから沸いてくるのかわからないが、と笑って続けた。新鮮な野菜や、量は少ないが白米等を食ることができていて、それはある意味幸福、平穏な退屈な疎開であった、と結んだ。
ある夏の日の午後である。友人達と相撲をとった帰り、青く実り始めた田のあぜ道を歩いていると、目の端に真っ白な入道雲が見えた。遠く山の端は白く濁り始めていて、先ほどまでうんざりするほど体にまとわりついていた熱が少し引いている。森の奥でヒグラシが鳴き始めたのを聞き取って、「いかんのう」と呟いた。夕立が来る。歩を早めたがまだ疎開先の家までは一里あった。雨足と競争しても子供の足で勝つわけがない。あと少し、というところで一寸先が霞むほどの夕立に降られた。幸い、家路の途中に小さな神社、地域の氏神社であろう、が鎮座していたので、そこで数刻雨宿りをすることにした。はげた頭と濡れたランニングを手ぬぐいで拭って、軒の下から滝のように溢れる雨を見上げていると、激しい水の音に混じって奇妙な声が聞こえてくる。それは幽かではあるが、大きなほら貝を、途切れ途切れ吹いているような奇妙な音だったらしい。少年であった老紳士はきっとそれをヒキガエルの声だろうと判断した。ぼう、ぼう、ぼう、ぼう。一定の間隔で鳴り続けるその声を可笑しいと感じ始めたのは、雨足が弱まって太陽が雲の切れ間から顔を覗かせ始めた頃だ。相変わらずヒキガエルの音は耳に届いていたが、それが先ほどより大きくなっている。ぼう…っほう…ぼうっほう…。ぼう、ぼう、と啼いていたと思われるその声は、今や人の声を含み、ぼうッ…ほう、ぼうッほう…と聞こえてくる。奇妙な居心地の悪さを感じた瞬間、背中に凄まじい寒気が走った。軒下を見上げる。小雨はまだ降り続いているが、前が見えぬという事はない。意を決して少年であった老紳士は走り出した。ぼう、ぼう、という声と古ぼけた神社を置き去りにした。
疎開先の家へ走りこんだときには、もう雨は止んでいて顔を出した太陽が、濡れた地面を再び熱し始めていた。ぬめる雨に濡れた体を土間の先へ投げ込んだ少年を見て、家人のばあ様がどうした、と声をかけてくれた。「ぼうぼう言うなんかがおった」とあがる息を抑えて言うと、ばあ様は彼をみながら「くうぼうさんにおうたんか」と言ったという。それが何か知らない彼が体を起こしてばあ様を見ると、「ぼうぼういうたろ。雨の中じゃろ」と聞いてきたという。うん、と彼が呟くと、ばあ様は無言で酒を持ち、ちょこに軽く注いで少年である老紳士へ差し出した。飲め、という事だと理解した彼はそれを一口であおる。口の中が一瞬燃えたので、渋い顔をした。ばあ様はそのあと、塩と米、そして榊をもって、少年の体を軽く叩く。ゴミでも払うように軽く全身を払った後、「祭りが近いけぇね」と言った。少年であった老紳士にはなんのことか全く解らなかったけれど、ばあ様の慣れた態度には不思議な安堵を覚えたという。
三日後には地域の夏祭りがあった。その前日、祭りの支度をしながらばあ様が「くうぼうさん」について教えてくれた。くうぼうさんは雨の日に出る。神社の軒下で雨宿りをする、子供を狙う。狙う、というが何をするわけではない。ただ耳元で、くうぼう、くうぼう、と繰り返すだけである。くうぼうさんにあった子供は、祭りの深夜、供え物をもって奥宮へ行かねばならぬ。それは一人でいかねばならないそうだ。「くうぼうさんに供え物もっていけた子は一生元気で過ごせるけぇの」とばあ様は少し嬉しそうに語ってくれた。「奥宮へついたら、「まことかしこみ奥宮の、…の大君様へたてまつる、たてまつる」と言え。そうしたら耳元でぼっと声がするから、声がしたら振り返らずに戻って来い。鳥居を過ぎたら振り返ってもええ。くうぼうさんがすわっとる」
振って沸いたような肝試しに、少年であった老紳士はうんざりしたが、くうぼうさんの奥の宮へ行けた、というだけで近所の子供からは一目置かれるという話を聞いて、まんざらでもなくなったらしい。よし、この上は立派に役目を果たして男をあげてやろう、と意気込む彼を優しくばあ様は諭したそうな。
「帰りは振り返っちゃならんし、口を聞いてんいかん。だまーって歩け。ずっと後ろでぼつぼついうじゃろうけどの。口聞いたら足が萎えるぞ。一生立てれんぞ」

祭囃子がまだ遠くで聞こえている。奥の宮の入り口で、稚児衣装を着せられた彼は、供物を盛った木箱を抱えて立っている。地域の大人が入り口に集まっていて、彼の出発を労っている。昼間に灯した明かりが道に沿って燃えているのだが、帰りまではもたないだろう、ととある爺様が言った。くうぼうさんは火を嫌がるらしい。時刻が0時を迎えて、彼は周りの大人に「行ってきます」と告げた。
気をつけてな、と労いの言葉が掛かる中、彼はその足を鳥居の中へと踏み出した。道はゆるい坂道になっている。ぐっと口の端を結んだ。虫の音と、人の声が段々遠くなっていって、通り過ぎるかがり火が燃える音だけ近く、遠く、聞こえてくる。長い坂道と薄い暗闇をぬっていくら進んだかしれぬ。脇の下には、じっとりと汗がにじみ始めていた。そしてはたと足を止めた。それは岩屋の間にある、小さな小さな社だ。綺麗に整備されていて、榊と神酒が添えられている。ここか、と彼は覚悟を決めた。そして、声を張り上げる。
「まことかしこみ、奥宮の、○○の大君様へ、奉る、奉る!」
とたん、耳の後ろで

「ぼッ」

と男の声がした。心臓が一気に凍って足が萎えた。瞬間、風が吹いて明かりを全て吹き消してしまった。震えだした手を励まして、供物を社の前に供える。先に供えて置けばよかったと心底後悔した。ぼッぼっという野太い声はまだ自分の後ろ、いやすぐ目の前、隣、上、あらゆるところから聞こえてくる。足も腰も歯の奥も、全てがぶるぶると震えてかみ合わない。吐き出す息も震えてままならない。一刻も早く、この不気味で不可思議な場所より走り去りたかった。しかし、体がいう事を聞かない。必死で首を動かしたら、流れで肩が後ろを向いた。やっと踵がきびすを返す。ぼっぼっという声は相変わらず色々な場所から聞こえてくる。ばあ様が言った、口を聞くなを忠実に守った。震える足は今にも走り出しそうであったが、この暗闇ではそれもできなかった。慎重に、暗い夜道に足をだす。ぼっぼっ子供があたりで遊ぶように、いたるところから声がして、また消える。いつしか、暗闇の中でその声を聞いていると、奇妙な安心感に襲われた。この野太い男の声をしたあやかしは、実は子供ではないのか、という予想が自分の中に沸いてでた。子供ならば恐くはないし、寧ろ遊んでやりたいと思う。のう、と声をかけようとした己に驚いて口を噤んだ。これが罠か、と理解してまた背筋が寒くなった。
少年であった老紳士は、一層奥歯をかみ締めて歩みを進めたという。すると、あたりに溢れていた声が少しずつ減っていき、最後は自分の少し後ろを何者かが、声も発せず着いてくるようになったという。目の先に、鳥居が見えてきた。あたりは暗い。くうぼうさん、なるものが人を嫌い、火を嫌う所為だろう。帰りは暗いから、気をつけるように、と爺様から言われていた。
鳥居を抜けた先から、気配が消えた。押し殺していた息が肺の奥からどっと溢れてきて、思わずひざをついた。そして、暗闇の先の鳥居を振り返った。
予想したとおり、そこには髪の長い子供が居た。真っ赤な肌をして、一つ目の子供だった。それが彼を見つめじっと立っている。呆然と「くうぼうさん」を眺めている彼の目の前で、その子供は膝をつき、頭を地面に擦り付けた。全てが信じられなくて、呆けたまま鳥居と闇を見上げる彼の前で、くうぼうさんは、じんわり、闇に溶けていったという。

齢90を超える老紳士はそれを全て笑顔で私に語った。くうぼうさんのお陰でこの年まで病気知らずじゃ、と笑っていった。けれども、と老紳士は付け加える。
「奥の宮でいうたあの祝詞な、どうしても、大君様の前の名前がおもいだせん」

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