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ポモとライスシャワーとミリオンダラーベイビー

ついったーでこんな記事が流れてきた。


クソクソ面白い書評で、読みこんでしまった。問題の全てがここ、とは言えないけれど、今世界を覆う「正義病患者」達への処方箋ではあると思う。病巣は色々とある。けどそれなりに「効く」本なんじゃないだろうか。


さて、上の記事を参考にしつつ、今日僕が語るのは

ライスシャワーとミリオンダラーベイビーについて。

ライスシャワーとミリオンダラーベイビー


語るって言っても、聞いてる人がその知識を搭載しているとは限らない。だから最初に言わなくちゃいけないね。まずは、ライスシャワー。

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日本競馬史に残る名馬。最近はウマ娘に実装されてて、こんな可愛らしい姿で僕たちを楽しませてくれる。でもライスシャワーは現実にいた、名馬なんだ。サラブレッドとして作られ、生まれた彼は過酷な調教に耐え、必死で走った。そして、死んでしまった。

僕はいつもライスシャワーの走り、栄光と挫折を駆け抜けた彼の肉体を観るたびに、こんな言葉を想起する。「まるでミリオンダラーベイビーだ」

そう、ライスシャワーはミリオンダラーベイビーだ。

個人的に、だけども、僕はクリント・イーストウッド作品がとても好きだ。

そりゃあ若くて最高にイケメンだった頃のダーティーハリーなんかも好きだけど、僕が最近の彼に感じているとても静かな魅力。僕は彼が主演する物語ではなくて、彼がメガホンを取る、イーストウッド監督作品に、何故か惹かれてしまう。

「15時17分、パリ行き」や「アメリカン・スナイパー」とかも好きで、何故なんだろうって考えると、それがある種の「普遍」を扱っているからじゃないか、と思っている。普遍。実に反エントロピーだ。


彼の作品は正直、少し古臭い。

アメリカの田舎。枯れた麦と大きい三角屋根の家。ベランダのハンギングチェア、西部劇の世界。強くて乾燥した日光、優しい風。見渡す限りの平原。パイプを咥えたグランパ、クッキーを焼いているグランマ。大きな犬。食事の前のお祈り。

アメリカ的なものが全て詰まっている。聖書と銃を携えて、彼らは土地を開拓した。沢山の罪と沢山の間違いを犯しつつ、それでも自分と自分の大切な人を守る為に行動し、選択した。僕はそれを責めようとは思わない。そんな歴史があった。そして今がある、それだけだ。

懺悔が必要?ミリオンダラーベイビーみたいに、教会で頭を下げながら神父に祈る?聖書を捨ててしまったアメリカは狂った、と僕は思っている。

アメリカは聖書を捨てて「正義」を信奉するようになった。

進歩的左派はアイデンティティ・ポリティクスを行うことによって、左右対立をますます激化させている。進歩的左派はモダニズムではなく、ポストモダニズムと強く連携してきたことで、無残なことになっている。今や進歩的左派は、理性とリベラリズムから逸脱したがっている。

上の記事からの引用。そう、そうなんだよ。ソーシャルジャスティスウォリアー、SJWは新しい魔女裁判だ。彼らは枢機卿になろうと必死だ。これが正しい、あれは間違っている、これはおかしい、これこそが正しい。

こんな事は「どんな人間であっても」判別できるものじゃない。全ての物事は正解であり不正解、不正解であり正解だ。一個人の、一思想の、一潮流が判別するべき事ではないのだけれど、皆必死で、「免罪符」を買おうと努力している。

免罪符はどこから買う?そう「権威」だ。リベラリズムは、結局権威に落ちてしまった。キリスト教がその権威で、沢山の人を魔女と糾弾し、財産を没収し殺したように。「自分が魔女ではない証明書」を買う為にみんなが人生を費やしている。バカな話だと思わない?

LGBTを守れ→それ以外は?→敵だ殺せ→そんなのおかしいよ→おかしくない

黒人差別反対→黒人さんに殴られた酷い→この差別主義者め!

女性差別反対!→女性が犯罪を犯しました。→無罪に決まっている!

でもこれは彼らにしてみれば「正義」

クソくだらないクソの様な正義。現代アートを行うものだけが称賛されて、それ以外の普通の人達が達成できない正義。そんなもの、僕は口が裂けたって正義だなんて呼びたくない。

なんで僕がこれを正義と呼びたくないか、なんてあたりまえじゃん。だってこれは僕の大切な人達を傷つける。結婚した友人、子供のいる友人、家族全てを傷つける。だから僕は「正義」に反旗を翻した。ポモは普通の人達を救わない。ポストモダンや高尚な学術論文の全ては、一般の人達にとってケツを拭く紙以下だ。だってそこに僕らの名前は載ってない。

普通に女の子、男の子が好きで、ちょっといたずらをしてみたり、王子様を夢見たり、男女で結婚して、苗字が変わってみたり、子供が生まれて、怪獣のおもちゃをかってみたり、魔法少女のステッキを買う、そういう普通の人たちの普通の生活の話なんかしていない。

意味がない。

はっきり断ずる。意味がない。これは所謂、頭が良くて暇な人達の、愚かで時間ばっかりが余っているバカ者どもの、遊びでしかないんだ。

米国では「woke(目覚めた人)」達が今日も、誰かを差別してる。主に白人男性を。結婚して専業主婦をやっている女性を。ゲイの告白を断った男性を差別して殺している。

同じように日本でも、日本文化や日本の国体、天皇や歴史を嘘と言い切り、日本国民全てを侮辱するヘイトスピーチを垂れ流している人達がいる。日本って書いてあるところを別の言葉に変えてみればいい。奇麗なヘイトスピーチが出来上がる。でも彼らにとって、それは正義で、正しい事なんだよ。不思議な話でしょう?

アメリカは聖書を捨ててしまった。聖書にはいろいろな言葉が書かれてあるけど、本質は多分一つだと思う。そしてその本質をしっかり実践しているひとりが

「クリント・イーストウッド」だと僕は思うんだ。


正しいものがわからないじゃないか、って君は言うかもね。

正しいものが「知」でもなく「正義」でもないのなら、いったい何を信じて歩けばいい?

ずっと昔から変わらないんだよ、それは。それだけは変わらない。そして変わらないんだよ、とクリント・イーストウッドは言い続けてる。

君の大事な人を守りなさい

それでいいんだ。海の向こうの話じゃなくて、知らない人の泣き顔でもなくて、君の大事な人。お父さんとかお母さんとか、友達。恋人。弟やお兄ちゃん、お姉ちゃん。妹。そういう人達を守ればいい。

僕の手も、きっと君の手も小さい。その手で守れる人だけを守っていい。それが、僕らの幸福だ。僕らは幸福を享受していい。僕の手を取る人、僕が手を引く人、その人の幸福はきっと、僕の幸福だ。それは感じていい事だと僕は思う。


 応用ポストモダニズムにも、重要な問題提起と注意喚起が含まれている。しかし「聞いて信じろ」「黙って聞け」という独断的態度はいただけない。リベラリズムは、こうした問題提起と注意喚起、様々なアクターの声に耳を傾け、公平を心がけて慎重に検討する(場合によっては問題提起を理性的に批判する)。リベラリズムはそうした地道な「進歩」を信じる思想だ。



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