小説家達の命日

ここにペンがある。
設えは木工、職人の手によって削られた表面は鼈甲の如く輝いており、周囲を飾る銀製の装飾にもこだわりが見えた。ペン先は真鍮、よくインクを吸って、材質を選ばずに良く書ける。そのペンで書かれた文字は、たとい文字を読めぬ子供であろうとも、老人であろうとも感心をさせた。一つの物に命が宿るとは、果たしてこうした事である、それを如実に人々に見せ付けた、素晴らしいペンであった。
そして、そのペンは今たった一人の老人の手の中に握られている。人づてにそのペンを奇しくも手に入れることが出来た彼は、小説家でもなんでもなく、ただの郵便配達員だった。幼い頃から、字の美しさが取り柄だった彼は、代筆の副業を行っている。学生の頃に修めたカリグラフィーの技術も仕事を後押しした。今日はとある婦人から渡された、秘密のラヴレターの代筆である。女性を意識しながら、柔らかな、美しい字体で彼は彼女の、燃えるような愛の言葉を書き綴っていく。
彼の手の中で体を躍らせながらペンは足元の紙を見た。薄い薔薇のプリントされた高級紙に、自分の靴跡をつけながら、ふと昔の事を思い返す。幾万もの愛の言葉の中で彼は踊った。彼を操るのはほぼ小説家達、彼らは愛を知らず、愛に飢え、それゆえに美しい愛を書き綴っていた。ペンは知っている、文豪の手にあったとき、妻と口汚い口論を行う主人の姿を。或いは、女流作家の手にあった時、夫の留守に若い男を部屋に上げ、派手な嬌声と共に夫を嘲る彼女の声を。紙に書かれる事の半分は虚飾だった、それは長い年月をインクと共に過ごしてきた彼だからこそ、理解できた。
貴方の事を想うと、何もかもが燃え尽きてしまうの。何もかもが色あせて、貴方が居なければ、私は色すら思い出せないの。
なんと美しい嘘だろう。紙に書かれた嘘というのは、魔法のように一瞬だけ世界をその通りに変えてしまう。だが、嘘は嘘だ。魔法が解けた世界というのはどうしようもなく虚しい、それをこの文字を書く人間は知っているのだろうか。
ペン先を軽く傾けて彼は老人を見た。深く刻まれた皺、そして遠くを見つめ、一心にカリグラフを綴っていく彼に迷いはない。

嘘を、嘘としてしまうのは、人間の意識だ。そう、ペンは理解した。嘘をつづる人間の心に、迷いがなければ世界は変わる。たくさんの文豪達が、悩み苦しみ、そして改変しようとしてきた世界の謎を、ペンはやっと理解した。その瞬間に、足が折れた。

「ああ」

頭上で老人のしわがれた声が聞こえる。曲がってしまったペン先を如何にかして直そうとしたが、直らなかった。折れてしまったペンにもう意識はなく、彼は既に全てを手放してしまっている。

「これはダメだ」

そういいつつ、老人はペンをゴミ箱の中に投げ捨てた。これが、小説家達の命日である。

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