はじめてうどんを半玉残せた日

私は食べ物を残すという事が出来なかった。

捨てる訳ではなく、取っておいて明日食べるというのも駄目だった。そうしようと冷蔵庫に余りをしまいこんで5分も経つと、喉の奥に小骨が刺さったような罪悪感に苛まれる。気になって気になって仕方がなく、結局は根負けをして余りを冷蔵庫から取り出して無理矢理かき込んでいた。たとえどれだけお腹がいっぱいであっても同じだった。


心当たりはあった。母だ。母の子供の姉、弟、そして私はそれぞれキャラクターのようなものを決められ、求められていた。

姉は清く正しく勉強が出来る子。

弟は体育が好きな爽やかなサッカー少年。

そして私のキャラクターは、大食いでお調子者な子であった。

元々はお調子者で済んでいたのだが、ある時期過食に走り袋いっぱいのパン耳を貪った事をキッカケに大食いというキャラも押し付けられることになってしまった。

食事が残るたびに、「ほほえみ、食べない?」と私にだけ母は尋ねる。

その頃の私はまだ母の愛を信じており、母の期待に応えたいという思いもあったため、なるべく断らず食べていた。

しかし、時々どうしても食べられずに断ると、母は目を見開き、魚のような口をグエッと開いて

「えーーーー、余っちゃうじゃん!」

と大声で言った。その度に母を悲しませた、望まれたキャラをこなせず失望させたという気分になり、次第に無理にお腹に詰め込むようになった。

未だに食べ物を残せないのは、食べられなかった時の母の反応が忘れられないからだと思う。母がいないところで食事をしても、心の中の幼い私が純真無垢な瞳で「残したらダメだよ」と訴えてくる。それを無視して残そうとしても、残った食べ物がだんだん恐ろしく思えてきて、隠したくなる。出来ないから、食べる。

残したらあの母の顔と耳障りな甲高い声がどこから聴こえてくるような気がして、いつもどこか不安だった。



しかし、最近になって、母との関係に一応自分なりのけじめをつける事が出来た。そのためか、母にかけられた細々とした呪いが少しずつ薄れている。

今日、どうしても我慢できなくてうどんを食べた。しかし既にお腹はいっぱいだったので、ひと玉食べきるのは正直しんどい、そう思った。

その瞬間、私の頭に閃きが走った。


「これ、半玉だけ食べて残せばいいんじゃ?」


半玉だけ、食べる。即ち、半玉を残す。残してどうする。捨てるか。いやそれは出来ない。腐っていない限り食材を捨てる事なんてとても出来ない。じゃあどうする。やっぱり食べるか。母の顔が浮かぶ。潰れたカエルのような口が開く。

余っちゃうじゃん!

記憶の母が叫ぶ。

私はもう一度温まったうどんを見て、考える前に皿を用意して、そこに半分取り分けた。そして勢いに任せて冷蔵庫に入れて、一先ず半玉うどんをすすった。美味しかった。そのまま皿を洗い、風呂場に行ってシャワーを浴びた。そしてワセリンを顔に塗りながら、冷蔵庫の中のうどんの事を考えた。やはり気になる。しかし、私のお腹はもうすっかり満足を訴えていて、これ以上入れたら気持ち悪くなるぞ、と警告していた。私は十数年ぶりに自分の体の言う事に耳を傾ける。

うん、なるほど、わかった、もういい。私は残す。あのうどんを食べるのは明日の私だ。何故ならば、ここに母はいない。母が私の残したうどんを見て大げさに残念がることはない。たとえ食べたとしても母を喜ばせる事には繋がらないし、もうそんな事をする必要はないのだ。

母はきっと、私がうどんを残す事だけにこんなに苦悩しているなんて知りもしないだろう。なのに私だけこんなに母の影に苦しめられなければいけないというのはなんとも理不尽だと思う。しかし、もういい。私はもう食べ物を残せるようになった。それでいい。これで母を悲しませたとしても、そんな事、もうどうでもいいのだ。

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