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繊細さん

 私は昔から、人よりも周りの感情や状況に敏感だったのかもしれない。
テレビを見ていても、外を歩いていても、他の人がとても気になって、誰に言うでもなくよく同情や心配をするだけしていた。

 これはちょっと自分が変なのかもしれないと思った出来事があった。

 それは多分小学校2、3年生の頃だったと思う。私は小学校のときの記憶が、なぜだかパズルのピースが抜け落ちたように、断片的にしかなく、覚えていることと言えば、3.11といじめられていたときと大好きだった先輩が卒業する時に廊下で私を見つけてくれたときの笑顔くらいなのだ。

 これも曖昧な記憶だが、共働きで忙しかった両親は、私が学校が終わって家につく時間には勿論いなかったし、8つ上の兄も多分学校で、私は家で一人かお手伝いさんと過ごすことが多かった。
その時間もテレビや、古いVHSでアニメ映画を見ていた記憶が朧気にあるだけだ。

 ただ、鮮明に覚えている、あるCMがある。

 名前は忘れてしまったが、花粉症薬のCMで、黄色い花粉の格好をさせられた、中年で小太りのおじさんたちが森を歩いていたら、薬を模したキャラクターに出会い、撃退されてしまう。というものだ。
花粉のトゲトゲした被り物を被らされたおじさんたちは、みるみるうちに小さくなって吹き飛ばされてしまう。

 たったこれだけのことなのだが、8歳か9歳の私には衝撃で、何故、おじさんたちが花粉の格好をさせられる上に、殺されるのだろうと思って、同情して、少し泣いた。

 我ながら意味がわからないなとも思うけど、きっといまそのCMを見ても同じことを思う気がする。
だから、ニュースを見ていても、本を読んでいても、痛ましい事件や事故があると、色んな気持ちが自分の中で渦巻いて、どうしようもなく悲しくやりきれない気持ちになって、疲れてしまう。

 「この子は、昨日まで普通に生きていて、明日も普通に生きるだろうと思いながら過ごしていたのに、急に自分の意思とは別に先の未来まで奪われてしまったんだ」、とか、「この子の親はいつもと同じように朝その子の背中を送り出して、その子と夜ご飯を一緒に食べられることが当たり前だと思っていたのに、帰ってきた姿が変わり果てていたらどんな気持ちだろう」、とか、「周りの友達や仲間は、その子と「またね」といって別れたかもしれないのに」、とか、考えだしたらきりがないのだ。

 でもそれも、私がその当事者ではなく、ただの画面越しに、文章越しに存在する傍観者だからできることなのだ。そしてきっと、こうやって考えるだけなのも自己満で綺麗事でしかないのだ。そう思うと余計に虚しくなる。
 
 普段は安全圏から見下ろして、その瞬間だけ、被害者を痛むことで同じ目線にいるように感じながらも、どこか距離を置き、ずっとそこに留まることはしない。
 
 なんて、浅はかで勘違いも甚だしい行いなんだろう。その行為をする(してしまう)ことで、自分の中の善を注ぎ足しているような感覚があるのも心底気持ちが悪い。まず、自分が安全圏にいると思っている時点でそれも勘違いで、その感覚が有る以上、見下しているようなものなのに。

 こんな気持ちになるくらいなら、少し鈍感でも、素直な人間に生まれたかった。

 そんなことを思っても、それは無理な話だし、こうやって考えてしまうのは自分の意志とは別で不可抗力なのでしかたがない。割り切って付き合っていくしかない。

 生きづらさを感じることもある。

 白杖を持った人が点字ブロックを見失っていたのに気づいたのに声をかけることが出来なかった。ヘルプマークをつけた人がしゃがみ込んでいたのを見たのに声をかけることが出来なかった。

 私は見つめているだけで、それが解決していることを願ってもう一度振り返る。

他の人が声をかけているのを見て、安心する。
何に?
その人が無事であることにか、気づいていたのに無視をした自分を責めなくて済むからか。

 そういう時、私は自分がこの世で一番醜く、みっともないモノに感じるし、誰かに責め立てられて、指を刺されている気分になる。

 でも多分この世には私みたいなこんな人間が沢山いるんだと思う。皆気づかないだけで。
ただ、ごく僅かな、周りに気づき優しくて思いやりのある強い人がいるから、社会は廻り続けるのかもしれない。

 私は弱いから、そんなふうにはなれないかもしれない。

 でも、人より周りに敏感なら、その分表面だけでなく行動も優しくありたい。
声をかけるのを怖がり、なにかに巻き込まれることに躊躇しない。そんな人間でありたい。

そしたら、都合のいい、この自分も、少しは好きになれる気がする。わからないけど。

2021.12.21(めっちゃゾロ目!) 

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