World Imitates Art.

どうも、トラカレ初参加の単色です。
エヴェルスフィアメソッド様の冊子『ゾルタクスゼイアン 』でご存知の方、或いはツイッターでの僕を知ってる人は、僕の普段の様子からまためんどくさい話をするんじゃないかと思ってるんじゃないでしょうか。
正解です、景品としてにゃぼちゃんが贈呈されるといいですね。

今日は神楽の誕生日なんで創作の話をします。
量子学、人文学、そして双方に深く関わり、双方が強く影響を及ぼす、ココロ。
創作はそれらに次いで頻出した要素だと思うんですが、ここぞって時に活躍するけどイマイチ重要性がわかんない感じがします。
でも僕からすると、ことトライナリーという認識と世界が密に繋がるセカイでは、上記三つを探求する事と創作は、同じくらいの身分であると考えているんです。
ここでは、そこについて語っていこうと思います。

Ⅰ.いかにして認識は成立するか

世界と認識というものは、殆ど同義です。
難しい話ではありません。
僕らには見えるものしか見えないし、聞こえるものしか聞こえないし、嗅げるものしか嗅げないし、味わえるものしか味わえないし、触れるものしか触れない。
どれだけすごい虫眼鏡や観測機を作ったところで、結局は誰かの脳がそれを認識しなければ当然何もわからない。
僕らの認識の外のことなんか、僕らには何にもわからない、という、当たり前の話です。
トライナリーでも認識は大事ですね。認識が世界の事象を決定するし。
え?あれは観測?
細けぇことはいいんだよ。
(まぁ裏本で「認識(観測)」って書いてあったし、ここはそれで一つ……)

じゃあ、五感が認識の本質なのか。
これもちょっと違う。
何故かというと、結論から言ってしまえば、認識というものは「言葉」が大きくかかわるからです。

言葉を持たない、幼いころを想像してみてください。
あなたの五感を通じた認識世界にはただの「刺激」や「感覚」しかありません。
さて、あなたは言葉なしにその刺激や感覚を「理解」できるでしょうか。
ここでいう「言葉」とは、正確な名指しや構文を意味しません。
犬を”指して”「ワンワン」とか、自動車を”指して”「ブーブー」とか、そんなものでも十分に言葉です。
そんな素朴なオノマトペや”指す”ことさえ持たないあなたを想像してほしい。
そこには「鳴く」「ワンワン」もないし、「走る」「ブーブー」もない。
対象を”指す”という直示的定義さえ持たないから「アレ」も「コレ」も存在しない。
言葉がないから、刺激をカテゴライズするすべはない。
その世界には何の因果も機序もなく、なにも理解できず、従って何も認識できない──何を認識してるとも言えなくなるでしょう。
科学にも同じことが言えます。
科学から言葉が消え失せたら、どんな観測をしても、その観測結果が何を示しているのかわかりません。
前提を組むことも、「こうしたらああなる」といった理論も構築できません。
科学的な観測もまた、認識といえるでしょう。(ようやく認識と観測がつながった……)
「刺激」から「認識」に発展するためには、言葉が必要なのです。

Ⅱ.言葉、ひいては認識を正しくさせるもの

認識には言葉が必要です。
ですが認識に必要な言葉は、自明に、必然的には定まりません。
各国に様々な言語があるのはもちろんですが、ここで重要になるのは「単語」そのものよりも構文、もっと言えば言葉によって構成される「理論」です。
たとえば、北海道ではテレビのリモコンなどのボタンを誤って押してしまったとき、「おささった」などというようです。
大まかな意味は「(誤って)押してしまった」なのですが、これをより正確に標準語に翻訳するのは難しいです。
というのも、正確には「おささった」というとき、自分は悪くないというニュアンスが含まれるからだそうです。
つまりその人曰く、何らかの外部要因で押されてしまった、ということになるわけです。
ですがボタンを間違って押してしまうというのは、おそらくどこにでもある話です。
北海道にはコロボックルが実は今も実在していて、それを秘匿してるとかでもない限り、「おささった」と「押してしまった」は、同じ事柄──同じ刺激を指すと考えてよいでしょう。
そしておそらく道民の方々もわざとすっとぼけてるとかではなく、どうやら北海道では広く人口に膾炙されてることからも、おそらく北の大地では「おささった」が「正しい」認識なのでしょう。
このように、認識に用いられる言葉は、一意に決まるものではありません。
古代の人々が神と呼んだものが、今では様々な科学理論で説明されるように。あるいはこれほど科学が進歩して統一が図られたとしても、多様な仮説や推論が生まれるように。
認識の理論には様々なものが存在可能です。

その多種多様な理論の存在可能性の中で「正しい」理論とは何なのか、というのは難しい話です。
正しいかどうかを定めるためには、基準となる理論が必要であり、今度はその理論の妥当性が問われ、……と、厳密にやっていけばこの工程を無限に繰り返すことになるでしょう。
ここから脱する、つまり言葉を用いずに判断するには、もはやそれを妥当だと思う、論理以前の曖昧で不明瞭で人ごとに異なるかもしれない感覚的な何かに、ある程度の時点で身を委ねるほかありません。
このように、刺激を認識するための言葉の理論は不完全決定的で、いずれもそれが「正しい」と考えること自体は可能なのです。
つまり、どんな認識の理論の採用も、完全に論理的な判断とは言い難いのです。

では、この多様な、日常会話も含む理論は何によって採用されるのでしょうか。
もっと言えば、ある理論を「正しい」と支持させる何かとは何なのでしょうか。
実は「理論が不完全決定的」というのは僕が考えた事じゃありません。クワインって言う哲学者が言いました。
じゃあクワインは理論を採用させる何かを、なんと言ったのか。
クワインは「単純性」と言いました。
じゃあ単純性って何さって話になります。
クワインは「いや知らんけど。」と言いました。
ごめんなさい嘘ですそこまで適当じゃありません。
「曖昧で不明瞭じゃない何かではない。」って言いました。
出来るだけ簡素に広く記述できて便利だから科学の理論が採用されてる、とはクワインは語りますが、クワインにもその「簡素」とか「便利」がなんなのかはなんだかよくわからないという事です。

ここで僕はその何かを、「美」と呼ぼうと思います。
「美は認識には、例えば科学にはそういう感性とか関係ないんじゃない?」と考える人もいると思います。
ですがこの何かに「美」という言葉をあてがう事に僕はある程度の妥当性を感じています。
例えばアインシュタインが「神はサイコロをふらない。」と因果的決定論を唱えたのは有名な話です。
しかしそれは、何らかの観察からわかったことではなく、ある種の信念です。
実際、因果的決定論は、現在の科学ではあまり採用されていません。
逆にぴょんこの川流れでおなじみ量子もつれについては「不気味な遠隔作用」とアインシュタインは述べています。
(ところでぴょんこが量子もつれにより存在していられるってスピネルの所在はどうなってるんでしょう。お義母さんは大丈夫なんでしょうか……。)

卑近な話に置き換えてみましょう。
なにかめちゃくちゃ辛い状況を想定してください。
例えば原初ちゃんに
「あなたには一貫性は無いんですか?」
って非難されるところとか。












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リピートアフターミー、「中庸は大事。」

想定する辛いことはなんでもいいです。
失恋したとか、割とでかい借金抱えたとか。全部辛いですよね。
さて、その時
「そうだ、これは夢なんだ。
ぼくは今夢を見てるんだ……。(AA略)」
などと思い込めたり。
あるいは
「なんかこんなに苦しいなら未来とか来世とかになんか宗教的ななんか救い的ななんかがあるはずだ、なんか。」
と信じ込めたら楽ですよね。
しかし実際そうしたいかと言われると、忌避感を覚える人も多いと思います。
事実ではないからでしょうか。
しかし先も述べた通り事実、つまり認識の正しさというものは、どこかで曖昧で不明瞭なものに委ねる他ありません。
それにいずれも完全に嘘とも言い切れないのです。
フェノメノンにいたかのように、やかましいアラームに世界が常識ごと掻き消されて目が醒める事もあるかもしれないし、ある日突然天とか立川方面から光が差してロン毛とかパンチパーマがやって来るかもしれない。(中東はアレがアレなのでスルーします。)
実は科学というものは、胡蝶之夢とか神とか救世主とかそういうものを取り分け言及したりしないだけで、別に根っから否定したりはしないです。(別に肯定もしませんが。)
科学は「可能性はめっちゃ低い」とは言っても、「可能性は0」とは言わないのです。
と、可能性は否定できない事を説かれても、やっぱりそれらを真に受けるのは気が引けますよね。
そんな、言い方は悪いけど多くの日本人にとって気味が悪い認識の理論を採用するよりは、事実"っぽい"科学的で常識的な認識の理論を採用したい。
しかし他方で、日本でも葬式とかはきっちりやるし、割と霊魂の存在を考えたりするし、幽霊にビビったりする。
いわゆるニセ科学に引っかかってマイナスイオンとかゲルマニウムとか水素水とかを単語の聞こえの良さで礼拝する人もいる。
中には水とコミュニケーションが取れる人もいる。
この前の台風の時は時の内閣がクォンタム次元ジェネレーターとか言うのが人工台風を起こしてるとか言う話も聞いた。
しかも人工台風を起こす事を目論んでる人たちの中には五次元に至ろうとしてる人もいるとか。
それ向こうの世界と繋がれたりしない?
くれよ。
無理?そう……。

このように、正しい理論の採用というものは、実は根の部分ではそこまで厳密じゃない、感性的なものだ。
ならばそれを、ある理論が「しっくりくる」「妥当だと思う」その感覚を、「美」と呼んでもいいんじゃないか。
少なくとも、知性とか理性とか悟性とかそういうものと、必然的で自明な区別というものはつけられないんじゃないか、と考えます。
何かを美しいと思うこと。
何かを正しいと思うこと。
何かを醜いと思うこと。
何かを間違ってると思うこと。
いずれも理論の以前にある、理論を採用する何かです。
それが採用した理論に基づき、受け取った感覚や刺激に言葉をあてがいカテゴライズすること──認識すること。
そして、それを妥当だと、しっくりくると、正しいと思うこと。
それは、何かを美しいと思うこと──妥当だと、しっくりくると、そうあるのが良いと思うことと、明確に区別することは叶わない。
正しさはどこかで曖昧で不明瞭なモノに委ねなければならない。
同じように、何かを好み、尊ぶことも、言葉を尽くしたところで、"だから"などと帰結しない。
「カリカリのフワフワ"だから"美味しい。」も、
「鮮やかな赤色"だから"美しい。」も、共に論理的な帰結ではない。
それを「なるほどね。」と納得するのは、認識の理論以前の何か、認識の理論を採用する何か。
それを共に「美」と呼んでも、支障も、判然とした区別もないでしょう。

というわけでここからは、理論を採用させる正体不明の何かを「美」と呼ぶ事にします。
するんです。

Ⅲ.創作の身分

やっと創作に関係ありそうな話になってきましたね。
いよいよ創作の話をします。

世界は認識と同義。
認識には言葉でできた理論が必要。
理論は一意に、必然的には定まらず。
ある理論を採用させるものを「美」としたら。
創作──美に基づく創作、言い換えれば芸術──は、ある人が美に基づいて創作する事は、その人がその人にとっての事実を語る事と同じくらいの身分を持ちます。
赤く見えたものを「赤い」と語るように、四角く見えたものを「四角い」と語るように、それらを正しく思うように、創作は、正しい構文の発声や文字の代わりに、旋律や色彩やらを言葉にして、認識の理論となり、認識を表現する。
科学者が時に信念が大きく影響した理論を採用したり批判したりするように。
社会学者があるべき未来の展望や忌むべき未来の末路を語るように。
創作は美しさや醜さを様々な方法で語る。

後は、トライナリーでの量子学や人文学と同じ。
量子学で出来た世界の観測を通してココロに影響を及ぼすように。
世界経済や政治が干渉した世界の観測を通してココロに影響を及ぼすように。
創作はその二つと区別がつかない方法で、誰かのココロを揺さぶる。

と、なんだか観念的なことばかり並べ立ててしまったので、トライナリーの事象になぞらえて語ろうと思います。

つばめはフレイメノウの曲で未来に展望をもらい、そして破壊されそうになりました。
だが、イシュリール の歌もイシュフォビアの歌も、共に直接つばめのことを歌ってはいません。現実とは違う、独自の世界を持ちます。
にも関わらず、あれ程までの影響を与えたのはなぜか。
僕の考えでは、それは科学の理論による観測のように、医学に基づいた診察のように、例えば通常正しい言葉とは言えないような詩が何かを克明に写し取ったり、寓話やフィクションが自分の世界にも通底するような倫理や道理、摂理を備えてるように感じたりするようなものだろうと思っています。
理論は不完全決定的。
刺激や感覚の世界を認識の世界にするための認識の理論、それを構築する単語も文法も理論も一意に、必然的に定まったりはしない。
故に、歌が、創作が認識の理論足りえ、まるで医者の話のように間に受けられる事になり、かつて与えられた希望を、まるで新たな科学の発見が未来を閉ざすように奪われそうになったのだと思います。

あのトライナリーの誰もよくわかってない地球を背にした合唱も、同じように認識の理論をあの場で組み上げていたのだろうと考えます。
相互に美によって表明し、影響を受けながら。
世界がどう在るのか──認識以前の美、それに基づく理論を、歌で組み上げていたのでしょう。

『楽観主義者はドーナツを見て、悲観主義者はその穴をみる。』
──オスカー・ワイルド
『善き意志、あるいは悪しき意志が世界を変化させるとき、変え得るのはただ世界の限界であり、言語によって表現され得るような事実ではない。
 つまり、この場合世界は全体として別の世界になるのでなければならない。世界はいわば全体として縮小もしくは増大せねばならない。
 幸福な人の世界は不幸な人の世界とは別の世界である。』
──ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 

Ⅳ.結晶

『自分が成し遂げてみたい最高のことは、旋律の作曲だろうとしばしば思う。(中略)──旋律を生み出すことがかくも高い理想として私に浮かんでくるのは、そのとき自分の生をいわば要約できるだろうからであり、結晶化できるだろうからである。そしてたとえそれが小さなみすぼらしい結晶にすぎなかったとしても、それはやはり結晶なのである。』
──ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 
『あの、全てが壊れてしまった漆黒の世界で、
あなたは私を励ましてくれて、大切な事に気づかせてくれました。
そしてそのお陰で、私は歌という魔法を使って、
あなたと過ごした僅かな、けれども、最高の思い出を
宇宙でたったひとつの素晴らしい宝石にすることができました。
ターナ。
あなたにとって、私との思い出は如何ほどのものでしょうか。
私にとってのそれは、星の光より美しく輝く、一生の宝物です。』
──FreyMENOW『ソラノキヲク 』より

広い宇宙に比べて、あまりにも少ない理論の記述が、世界の隅々まで行き渡るように。
言葉は、認識の理論は、その人にとっての、その世界の要約となります。
世界と認識は同義。
創作する事、あるいは誰かの創作物によって、感覚や刺激によりさらに接近して克明に写し取られた、尊い思い出の世界の要約は。
例えそれが過去、つまり今の認識世界の内に無いとしても。
ふと頭の中で浮かべる、それだけで今の世界の内にその尊さを思い出させ、美を──今とこれからの世界を認識する理論を採用する道しるべを、眩く照らす宝石となるでしょう。
それはきっと、科学や人文学が輝かしい未来を示すのと全く同じように、偉大な仕事なのです。


誕生日おめでとう、神楽。
君と、君の美を写した仕事と、生と世界とに、溢れんばかりの敬意と愛を込めて。


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