空想シーソー

昔は「優しい」と言われることが嫌いだった。
褒め言葉として言われているのがわかっていても、素直に受け取れなかった。ひねくれていたのだ。

「優しい」という他者からの評価は「弱い自分」を突きつけられるようで辛かった。
あんな生い立ち(興味のある方はスタートを参照)だったので、基本的に自分よりも他人を尊重するべきだと思っていた。誰かに・何かに望まれて生きている人たちの方が大切だと。

父に抑制されて生きてきたことは人格の形成にかなり作用している。
希望はいつも通らなかった。自分が我慢するだけで相手が気持ちよく過ごせるならそれでいいと思っていた。

だけど親しくなればなるほどに、相手に気を遣わせていた事に気づいた。どちらかが無理し、それが積み重なった時に何が起こるか。いいことなわけがない。
自分に置き換えてみればすぐに分かることだ。優しくされっぱなしは落ち着かないよなぁと。
わたしが優しくした分だけ、返そうとしてくれた。カタチがなくても、ささやかでも、返ってきたものは確かにある。

だから今では“相手と自分のちょうどいいところ”を探すようになった。難しいけれど、あきらめるのではなく、探すようになった。
たまにワガママを言ってみる。それが通るか通らないかは重要ではない。
“言った”という行為が大切なのだ。
きっとそれだけで、相手の気はだいぶラクになる。

イメージ的にはこうだ。
あなたとわたしでシーソーをする。

相手が足で地面を蹴る。浮上する。風を感じる。のびのびと気持ちよくなる。相手が降りてくる。反動で自分も上がる。浮上する。太陽のひかりがあたたかい。ゆったりと気持ちよくなる。

この繰り返し。
シーソーは勝ち負けではなく、行為そのものや、体感を楽しむ遊具だ。しかも速さや高さを競わなくてよくて、お互い自由に楽しみつつ、反動が与えられそれぞれに作用する。すばらしい。

相手を思いやりすぎて言いたいことが言えないタイプの人は、「優しい」と評される事がわたしと同じように嫌かもしれない。
だけど優しくしないよりは優しくした方が何千倍も何万倍もいいことだ。
「優しくされた」という実感はその人の中に溜まっていき、消えることはない。
ひとりのよろこびは、様々なひとのよろこびに繋がる。
大好きなひとが笑ってくれていたらうれしい。
それだけの事だ。シンプルな事。
ひとに優しくできる、あなたは素敵だ。そして必ずやその優しさは返ってくる。
ただ目に見えるものとは限らないから、目や耳や心を研ぎ澄まし、見落とさないように気をつけたい。

みんなここにいて良い存在で、尊重されるべき存在で、これを読んでくれているあなたも、そのひとりだ。
多様性が認められることはわたしの中でとても重要な位置を占める。

みんなちがってみんないい、というフレーズは金子みすずさんの有名な詩だったっけ。教科書で習った人も多いかと思う。どこかの本に引用されていたり、本自体と出会った人もいるだろう。
久しぶりに読んだら、明快で、すがすがしくて、さっぱりしていて、心に染み込む。みんなちがっていいのだと、真から思える。まぁ読んでみてください。

わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。
わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。
すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。

(わたしと小鳥とすずと/金子みすず)

優しい人間でありたいと思う。
むずかしいことだとは分かっていても、うまくいかなくても、心がけるのは自由だ。
優しさにも色々ある。怒りの中に見える優しさもある。その物事にあった優しさを、投げかけることは出来るだろうか。
空想のシーソーに乗ったり降りたりする。悩む。生きている限り人は悩み続ける。でもきっと間違えてもいい、揺らいでもいい。
これからも追求していきたい。
「優しさ」について。


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