『やがて君になる』七海燈子というキャラクターについて

 仲谷鳰氏作『やがて君になる』(以下「やが君」)を私が読んだのは今年2021年2月のことである。

 元々、アニメ化以降Twitterでフォローしてる方々の悲鳴が上がっており、興味はあった。しかしながら金銭面の事情やタイミングを逸し続けていたのもあって中々手を出せずにいて、今年に入ってようやく読み始めたのである。

 実のところを言えば、初めて読み終わった時の感想は「普通の名作だな」だったのであるが、諸事情あって読み返す内にキャラクターの感情の泥沼に足を取られてしまった。結果、丸々一ヶ月は日常生活に支障が出るレベルで感情を反芻してしまったほどだ。

 ちなみに登場キャラクターの中で一番好きなキャラクターは小糸侑です(自己紹介)。侑ちゃんかわいい。

 ともあれ、そんな具合にどっぷりと沼ってしまい、二次創作を書くにまで至ってしまったわけだが、そこで向き合わなければなかなかったことが一つあった。

 七海燈子というキャラクターについてである。

 このやが君という作品において、ヒロインである燈子という人物像は、主要人物の中で理解するに一番難解であろう。連載が終わってから読み始めた自分のような人間からすれば、全体を通して見ることができ、またあちこちでの考察を目にすることができたため、幾分かはできようが、それにしても難しいものだ。

 また、作中において燈子の「わがまま」は殊の外に目に付きやすく、事実侑と沙弥香を振り回している。それによって燈子は極端に評価が分かれるキャラクターだ、というのがこれまで観測してきた自分なりの見方である。この辺りは作者としてもだいぶキャラクターと読者の評価とのすり合わせに苦労されたものと思われる。

 つまるところ、そうなってしまうのは「燈子はどうしてそんな行動を取ったのか?」であり「そんな燈子を受け入れられるか?」という二点であろう。

 これについて、今回は前者について語っていく。後者は読者自身に委ねられるべき、というのもあるが、やが君という作品は前者を重視して作られているためである。

クスノキ:そもそも私はマンガにおいて「感情移入」は重要ではないと思っています。言葉の問題でしかないんですけども、「感情移入」って言葉が強すぎて、捉え方が間違ってしまうんじゃないかと。マンガに大事なのは「理解」だと思っています。(電撃大王に百合マンガが増えたワケ ~『やがて君になる』担当編集・クスノキ氏インタビュー

 編集氏による言葉だが、別のインタビューでも作者と共有されている考えであったことが分かる。またこれは侑についての言及であるが、侑に限らず燈子に関しても同様であろう。よって、自分なりに文脈を読み、その空白を浮き彫りにして想像していきたい。

 燈子については二次創作をするに当たって自分なりに考えてきた。特に侑が好きな私にとっては、燈子というキャラクターを避けては通れない道だ。何故なら私は侑沙も好きだが、侑燈を信仰しているからである(自己紹介その2)。

 そうした考察めいたものを、直近ではTwitterにて「#やが君同時読書会」という企画が行われたのでぽつぽつと放流してきたが、この度「やがて君になる Advent Calendar 2021」という企画が開催され、これを機に自分なりの整理を含めてこうして書いてみようと思ったのである。

 前置きが長くなってしまった。本題に入る前に、注意事項として三点。

 まず、今回は燈子を語るために、原作全8巻のネタバレを含む。基本ラインは原作8巻を基準に当記事を書くことになるが、引用が非常に多いため、細かい巻数や頁数を記すのは省略させていただくことにする。

 また、以降は個人的な理解とその出処となった部分である。違う読み方をする人もいるだろうし、自分の見落としや勘違いもあるかもしれない。あくまで今の自分における燈子理解をまとめたものだ。

 そして最後に、今回は物語中の燈子の思考・行動の理由にフォーカスを当て、主に台詞からそれを考え、理解できるよう努めている。絵や漫画としての表現等には深く突っ込まないので、その辺りご了承いただきたい。

七海燈子というキャラクターの構成要素

 すでに承知の方が多いと思うが、前提として物語における重要かつ自明な要素を列挙していこう。

1.表と裏の二面性を持つキャラクター。

 A.容姿端麗、文武両道の生徒会長。そしてこれは同時に燈子の中の澪像であり、燈子にとっては「理想」「特別」「完璧」な自分。

 B.侑にさらけ出す、甘えたがりな素の燈子。燈子曰く、「成績は平凡」「友達だって多くなくて怖がりでいつも誰かの陰に隠れてた」「何もない」「弱い」アイデンティティが確立していない自分。

2.表と裏の自分をどちらも嫌っている。

3.そのため、他者からの「好き」という縛り付ける言葉を受け入れられない。

 主な要素を取り上げれば以上であろうか。

燈子の二面性――「だけどある日そのままじゃいられなくなったから」

 燈子というキャラクターは、少なくとも燈子自身において、二面性があることが示されている。

 こうした二面性は、実はよく考えるとそう珍しい話ではない。というよりも誰もが抱く人間一個人の多面性である。それは現代哲学においては分人と呼ばれる思想であり、また仏教においては縁起という思想でも表れる。

 例えば堂島卓というキャラクターは、作中においては「男」であり「高校生」であり「元剣道部」であり「生徒会役員」であり「生徒」であり「息子」であり……と実に多面的な側面を持つ。接する相手によって、堂島というキャラクターの属性や振る舞いは変わるし、印象や役割も違ってくる。

 しかし燈子にとっては、そうした自身の二面性が一個人の自己として融和していない。真っ向から対立している。だからこそ、「弱い自分も完璧な自分も肯定されたくない」のだ。

自己嫌悪の根源――「私は自分のこと嫌いだから」

 実はここで肝心の情報が明文化されていない。それは、燈子が何故自分のことが嫌いなのかである。

 推測材料は散見されるのだが、燈子自身の言葉、あるいは侑の推測からはまるで浮かび上がらない。ここが燈子を理解するにおいて一つの大きな障壁となってくる。

 この辺りはやが君という作品が説明的なものを省き、あくまで説明は基本的にキャラクターや会話や絵によって成立させる作風というのがあるのだろう。この辺りについては今回の企画の中ですでに、「「やがて君になる」の悟らせ力」という記事が書かれてあるので読んでいただきたい。

 ともあれ、明文化されていないとはいえいくつか推測が可能ではある。

Ⅰ.そもそも1Bの自分が好きではなかった。

Ⅱ.そこに澪の死亡が重なり、自分のせいだと思い込んだ。

Ⅲ.そこから澪を模倣するも、詳細不明ながらそんな自分を肯定されたくない。

 a.それは素の自分ではないから?

 b.模倣を自分の物として評価され、「特別」としたから?

 改めて、推測であっても情報量が少ないことが分かる。

模倣の動機――「私がお姉ちゃんの代わりになろうと思ったの」

 ではそもそもとして、何故燈子は澪になろうとしたのか。この動機もやや不明瞭なところがある。

 無論、第十話において親戚の言葉を受けて「お姉ちゃんみたいに」「お姉ちゃんの代わりにならなくちゃ」とあるのだが、ここでの問いはその前段階についてだ。

 何故ならば、澪の葬儀においてかけられた言葉が仮に原因としても、本来それらからは飛躍した発想だからだ。

 そもそも親戚の言葉は葬儀の場ではおかしなものではない。葬儀は訣別のための儀礼であるが、それがために生者が死者に最も近付くタイミングでもある。死者に引きずられないための言葉として、死者に仮託して生へと振り向かせるのは手法としての一つであり、あれらを安易に呪いだと断ずるのは違うだろう。

 では全てが違うのか、となると無論そうではない。危ういのは「澪ちゃんみたいに立派に」というような言葉だ。それは「立派になるべき」という指向性を与えてしまうからだ。

 しかしそれにしても、一つ一つの言葉を見ていくと、そこから「燈子が澪として振る舞って欲しい」という意味がほとんど見られない。

「お姉さんの分もしっかり前を向いて生きていくのよ」「お姉さんの分も」「澪ちゃんみたいに立派に」「お姉ちゃんの分まで」

 そこから「お姉ちゃんみたいに」「お姉ちゃんの代わりにならなくちゃ」とは本来ならないはずなのである。

 いずれにせよつまりは、幼さや死に直面したショックというものも含んで、燈子の認知の歪みによって、そのような発想を得たと言っていい(あくまで物語上の文脈的理解においてはそうとしか言いようがないが、当事者という立場におけるものではないため注意は必要である)。

 とはいえ、だ。その言葉が、燈子自身の認知によるものが多分にあるとはいえ、結果として燈子を縛り付け、自己形成に影響し、苦しめ続けたということ自体は否定せられるべきでない事実である。が、その言葉群を呪いとして十把一絡げに非難するのには、一度冷静に考える必要があろう(無論、当事者においてその観点が必要かという点についてはまた話が違ってくる)。

 話を戻すと、ここで燈子は澪になるというヒントを得た形となったが、何故そうなるに至ったのか。三つほど推測が挙げられる。

ⅰ.燈子が澪の死の一因であるとして、罪悪感を抱えていたであろうこと。

ⅱ.燈子自身のアイデンティティ確立がまだできていなかった段階だった。

ⅲ.「いなくなったことが信じられなくて、許せなくて」。

 ところで、「私がお姉ちゃんみたいに振る舞うとみんな喜んでくれる。特別だって言ってくれる」というのが要因ではないか、という意見もあるだろう。

 しかし個人的にそれは副次的なものと思う。

 何故かというと、燈子自身、他者が喜ぶから澪の真似をしている、というような振る舞いは作中において見受けられないからだ。

 更に言えば、他者が喜ぶから真似をしているのであれば、父親の心配をあれほど拒絶しないだろうし、市ヶ谷知雪の言葉を受けてより正確な澪像に近付くために修正するのではないだろうか。

 この二点を突き合わせて考えると、「みんな喜んでくれる」というのは目的ではなく、あくまで自分が見てきた澪観のままに振る舞うのが間違いではないという肯定を示す言葉ではないだろうか。

 また、「特別だって言ってくれる」というのは、「みんなの前で特別でいることはやめられない」と突き合わせると、ある種自身が持っていなかったアイデンティティの代替行為を、澪の真似という形で取り行ってることにもなるのではないか。

 つまりは、「燈子自身が特別であるために」「澪の真似をする」のではないか。自己確立が未熟だった燈子が、他者からの称賛をもってアイデンティティとなそうとした。その動機の一つが罪悪感だったとして、いつの間にか目的がすり替わっていたことに気付いた燈子が自己嫌悪に走るのは想像に難くない。

 ここからでも、燈子は歪んだ自己形成をしていることが浮かび上がるだろう。

 ⅰ、ⅱは分かりやすく、また上記でもって幾分説明できようが、個人的に大きな理由の一つとして見ているのがⅲ、小題の前文である。

「いなくなったことが信じられなくて、許せなくて」

 ここにこそ、「七海燈子が七海澪になろうとした」理由が込められているのではないだろうか。

 燈子は姉離れができていないままに別たれてしまった。姉に縋り付きたい燈子にとっての一つの手段が、「お姉ちゃんみたいに」なることだったのではないだろうか。いずれにせよ明確ではないのだが……。

 なお、一転論を覆すようだが、舞台版においては、親戚の言葉が呪いじみたものとして強調されている。

 しかしその時の燈子の格好は小学生時代のものでなく高校の制服のままだ。この辺り、演出時間の都合などがあるだろうか、あくまで今の燈子における親戚の言葉の印象として受け取ってもいいと思われる。

燈子と「特別」――「私は特別な私のままでいたい」

 ともあれ、これによって燈子は誰にも頼ろうとせず、弱いところを見せようとしてこなかった。それはクラスメイトや先生のみならず、親友の沙弥香や恐らくは両親に対しても、だ。

「沙弥香もみんなも私のこと信じてくれてる」「……失望されたくない」

 演じる内に、燈子は他者から縛り付けられるだけでなく、自縄自縛の状態にあった。自分から「特別」でいたいと思ったのだ。

 けれどそんなことでは当然精神の摩耗がある。そんな折、降って湧いたのが侑という存在だった。

「でもわたしには、特別って気持ちがわからないんです」

「だから「好き」を持たない君が、世界で一番優しく見えた」「侑は実際とても優しい人だった。私をどこまでも受け入れて、ただそばにいてくれる」

「だって私、君のこと、好きになりそう」

 この流れについてはもう今更語ることでもないだろう。そうして恐らくは澪の死後、初めて他者に「特別」を見出した燈子は、第5話以降、特に第10話を経て顕著に、侑を弱さの捌け口として甘えてきた。

子供っぽさの理由――「甘え上手は妹属性なのかな?」

 こうしたところは、燈子の子供っぽさ――侑の言葉を借りれば「妹属性」があると言えよう。その根幹としては、1Bの燈子が未だ残っているからだろう。

 燈子は澪となるために、恐らくはこれまで周囲に心を許さず甘えてこなかったはずだ。

「沙弥香もみんなも私のこと信じてくれてる」「……失望されたくない」

 何故なら、そうした姿こそが燈子の見てきた澪像であったはずだからだ。それを小学生の頃から七年あまり模倣し続けてきたとなると、精神的な疲弊は察するにあまりある。本来の燈子が人見知りであるのだからなおさらだ。

 だが、本来の燈子を出すことはこれまで積み重ねた燈子のイメージ、つまりは澪像に反する行動だ。それは即ち失望に直結する。少なくとも、「好き」を「束縛する言葉」として捉えるような燈子にとってはそうだった。だからこそ燈子は人に甘えることはできなかった。親友たる沙弥香にさえ、両親にさえも。

 そこで、自分に期待も失望もしない侑が登場した。ほとんど反射的というか無自覚的な告白だったのであろう。しかしそこが唯一1Bの燈子が顔を出し、1Aの燈子を出して気を張り詰めずに済む場所であり、それは張り詰め続けてきた燈子にとって、オアシスが如きものと言えよう。

 元より燈子は、澪の死によって自身における時間がほぼ止まっていた。もちろん外的時間を始め、経験や知識はきちんと積み重なってはいても、心があの時になおも囚われていたのだ。

「燈子のそれって起きてる間にその時のことを何度も思い出してるからじゃないの?」「昔のことを夢に見てるんじゃなくて、思い出すという行為をしている現在を夢に見ているのよ」

 ここから推察できるように、燈子は何度もあの時を反芻している。いくら時間が経過したとしても、内的時間はそこに留まったままだ。

 だからこそ燈子は子供っぽいところがあり、また侑に対して妹としての燈子を出すことができる。ある意味で侑を「姉の代わり」として見ていた面があるのだろう。

 しかしかと言って無駄に時間を過ごしてきたわけではない。燈子もそれが普通はどういう反応を引き起こすか、どういうことなのか、理解はしているしそのことについて考えてる。

 それでも侑に対してさらけ出せたのは、侑が「特別がわからない」と言ったからだ。

「あと少し、もうちょっとだけ踏み込みたくなる」「どこまでならそのままでいてくれる?」

 この辺りには、澪の死以降甘えられなかった子供が、ようやく甘え先を見つけ出したものの、甘え方のコントロールができない有り様でもあり、またそれにいくらか自覚的だからこそ、距離感を図ろうとしている様でもある(ところでその甘え方、一歩がとんでもなく大きくない?)。

「動物的」なキャラクター――「私の好きって、こういうことしたい好きだったんだ」

 ところで第2話において、燈子は早速侑の唇を奪う暴挙に出た。

 この行動についてもあまりに突発過ぎて理解が難しいところもあるだろうが、面白いのは、アニメで燈子の声を当てている寿美菜子氏は燈子を指してしばしば「動物的」という表現を使われることだ。また、インタビューでは当時のシーンについてこのように言及している。

 ──あのシーンを演じる上で燈子としての感情は照れだったんですか?
寿:私の中では照れでした。きっと燈子の中では「好き! でも好きだけを伝えたら終わっちゃうし、この気持ちを表すのって……これか!」という結果がキスだったと思うんですよね。気持ちを行動に起こした末に出たものがキスという結果だと思っていて。普段の燈子は自分を俯瞰で見られる人だと思いますが、好きという感情が溢れたときだけは俯瞰で見られなくて。キスが終わったあと、俯瞰で見たときに「外で周りに人がいるのに……!」と冷静になり、自分が歩けば歩くほど鼓動が早いことも感じて、熱くなっていくような感覚もあったんだと思います。「これが恥ずかしいってことなのかも」という気持ちがある中で「どうしよう」という言葉しか出てこなかったのかと考えると、照れだったり、もう後戻りできないことだったり、「進んじゃったんだ!」という驚きもあったのかなと思いました。(アニメ『やがて君になる』高田憂希さん&寿美菜子さんロング対談

 つまるところ、燈子は本来的には考えるよりも先に行動するタイプの人間であったのだろう。

 しかしそうした面は基本的には出ない。出るには出るのだが、それも理が通っている行動だ。それは燈子が澪を目指していたからだ。

 だがこれに関しては道理が全くない。燈子が取り繕い続けていたはずの素の燈子の面が出てしまっているのだ。

 これについて、こちらの感想記事での文章が個人的に面白かったので紹介したい。

燈子自身の「好き」という感情は侑が「特別って気持ちがわからないんです」と言ったところから始まっていて、好きという気持ち自体は物語を通じて変化がない。明確な理由があって生じたものではあるけどその熱量はそれこそ降って湧いたよう。侑が憧れていた感情を燈子は持ってた。
降って湧いたからこそ燈子は「好き」という感情の理不尽さをより思い知っていたのかもしれない。燈子が侑に言っていた「私を好きにならないで」というのは、燈子が今まで向けられてきた好きという感情が怖いというのもあるけれど、自分が侑へ向ける感情があまりにもコントロール不能だからこそそう思ったのかも。

 燈子において、「好き」は「束縛する言葉」であった。だが、果たしてそれだけだったのか?

 確かにその意味はあっただろう。燈子が好きになったのは、まさしく侑が「誰のことも特別に思わない」からだろう。

 しかし侑に対して抱き、ぶつけてきた熱はそれだけのものではなかったはずだ。

 自らの定義に縛られ「好きを持たない君はもういない」と燈子は侑から離れることができた――事実そうなりかけていた――はずなのに、そこで「寂しいな」となるのは、その定義だけではない、それまで育んできた「好き」があったからだ。

 ただ、燈子はその辺りをどこまで自覚していたかは分からない。そうした自分の衝動的な「好き」も定義に当てはめていたからだ。

 しかし、そうした燈子の「好き」の定義に変革をもたらしたのが沙弥香だった。沙弥香の「好き」の定義を聞くことで、燈子は自身の「好き」の定義から解放されたのである。

 その結果が、あの「私、侑が好き!」なのだ。

仲谷 侑については、連載開始当初からとかではないのですが、あの回に辿り着くまでには、「自分で選ぶ」ということをキーワードにした言葉で「好き」という思いを表現するんじゃないかなと考えていました。でも、燈子に関しては、ギリギリまで具体的には思いついていなくて。ずっと、どういう言葉で「好き」という気持ちを定義するのかなって考えていたんです。でも、最終的に、燈子は別に言葉では説明しないな、「好きなものは好き!」ってタイプの子だなって(笑)。(大人気百合漫画『やがて君になる』最終巻直前仲谷鳰に聞く「侑と燈子が『運命の二人』には見えないように」

 少々話が先走ってしまったが、ともあれ燈子は「好き」の定義に縛られていた結果、誰からの告白を受け入れられなかったものの、沙弥香によって解放される。

 だがそれで燈子が第34話で感じ取っていた怖さがなくなったわけではない。しかしそれでも、沙弥香の言葉を受けて、勇気を持った燈子は怖くても侑の「好き」を受け入れたのだ。

2巻――言葉で閉じ込めて

 さて、以上を踏まえて2巻第10話から紐解いていこう。

 百合不平等条約とさえ言われるこの一方的な約束なのだが、作者はインタビューにおいて、次のように言及している。

仲谷:燈子が相手の言うことを信じがちで、侑は最初に「誰のことも特別に思わない」って言い切りましたよね。あれが燈子の中ですごく大きくて、その言葉を信じたからこそ、燈子は侑を好きになれたんです。(中略)普通の人は、燈子みたいな美人が寄り添ったら惚れちゃうし、その瞬間から燈子にとって辛い人間になっちゃうんです。でも侑に甘えても好意を向けてこない。そういう部分で侑は燈子にとって特別な存在なんです。【コラム】 やがて君になる x 安達としまむら 特集! 仲谷鳰x入間人間x柚原もけ座談会

 つまり燈子においては「侑は誰も好きにならない」という前提があった。だからこそ侑に甘えられ、また侑が「好き」へと至る道筋が生まれたのである。

 それが明らかになってるのが「侑は私が何をしてもしなくても、きっと本当のところで興味なんかないんだ」だろう。これは燈子の心からの信頼の言葉だったのだ。

 逆に言えば、そう信じてなければそもそも燈子はあんな約束を言い出さなかっただろう。信じていたからこそ、そして侑が「ほんとは寂しいくせに」と的確に言い当てたからこそ、燈子は振り返って約束を持ちかけたのだ。

 そこには、燈子においてまた、「好き」の定義に起因して「人はそうそう変わらない」という思い込みがあったからこそでもあろう。

 この約束が一方的であるのは確かだが、しかし侑であれば――「特別がわからない」侑であれば、まだ不平等感は薄かったはずだ。

 何故なら侑は燈子を「好き」になることはないし、これを断ってもいいからだ。

 だが侑はそうしなかった。むしろその前に「ほんとは寂しいくせに」と縋り付いたのが侑だった。

 この時、燈子は侑から離れようとしていた。つまるところ、姉を模倣するためなら、止めようとする侑を切り捨てる選択が燈子にはできたのだ。

 一方の侑も断れたはずだ。なのにしなかった。侑が燈子のことを「好きになりたい」「好きが分かるかもしれない」と思い始めていたからだ。

「先輩と一緒にいられないなら、わたしに誰が好きになれるの」

「わたしは変わりたい。なのに嘘をついたのは、きっとわたしも寂しいからだ」

 4巻帯「わがままだ。あなたもわたしも」にもある通り、この約束も、ひいては侑が燈子を変えようとするのも、侑のわがままでもあった。前者は燈子を引き留めるため、後者は燈子を救いたいのと同時、燈子に好きになってもらいたい、という。

 何故これが侑の「わがまま」になるのか。燈子は変化を望んでいないからだ。それに変化を強いるのは、メタ的には正しいと読者は推測できるとはいえ、当事者にとっては道にそぐわぬ方向への強制でしかない。

 よって、強制でなくすために、侑は燈子を絆していく必要があり、その成果こそが第28話で燈子が侑を信じることで、自ら変化する方向へと向いていくことであった。

 話を戻す。とはいえ、やはり燈子の約束は一方的で都合がよすぎる、というのは否定できない。そして事実、第十話でもある通り燈子はそれを自覚している。

「この心地よさを知ってしまったら、もう二度とひとりには戻れない」「侑、好きだよ」「これは束縛する言葉」

クスノキ:ボツバージョンの燈子は2話にして「君は誰も好きにならない。私は誰も好きになられたくない。けど君が好きだから、都合が良いじゃん」みたいなことを直接言っていました。口八丁手八丁でがんじがらめにしてくるというか。侑を脅してくるちょっと怖い感じでした。(【特別対談】『やがて君になる』仲谷鳰×担当編集・クスノキ「エゴがキャラクターを決める」

 また同時に、自覚的だからこそ第17話で「落ち着いて、嫌われないように…」となる。ここで燈子は好かれるなどということを微塵も心配していない。やはり燈子は侑のことを信じているのだ。またこれは、きちんと約束が本来的に不平等であること、その中でああした行動は嫌われてもおかしくないことを自覚している証左でもある。

 しかし燈子は自分に向けられる気持ちを常に警戒している。

「その嬉しいって」「どういう意味?」

 これは侑だから、というよりも常に張ってある警戒線に引っかかったから、反射的に反応が浮かんだのだろう。だからこそ燈子は侑の言い訳を即座に信じ、「そうだよね、侑は」と笑えるのだ。

 しかしいずれにせよ、侑が誰のことも好きにならないという約束と信頼の前提がなければこれらの展開は成立しないのだ。

 そしてもう一つ、侑側の問題として燈子に自分が人を好きになりたいということを打ち明けていない点がある。

「わたしと先輩は違うんだよ」

 第3話で侑は燈子をある意味見限っていた、というのは確かにある。だからこそ侑はそれ以上のことを燈子に話さなかった。ここにきてそれが大きな亀裂となったのである。

 しかしそうした擦れ違いがあったからこそ、燈子は侑を好きになり、また厄介な約束ができたのだ。この辺り、侑が本当にアロマンティック・アセクシャルだったのか、という問題があるのだが、今回はそこが主題ではないため脇に置いておく(あくまで個人としては、本作はそうした属性からの脱却というべきか、一個人の問題として捉えている節がある。そのため、侑がそうした属性ではないと考えている)。

4巻――「お姉ちゃんになるのが間違いなら、私は何になればいいの」

 しかし、不安定とはいえ辛うじてバランスを保っていた燈子のメンタルが一気に崩れる事態が起こる。それが市ヶ谷知雪の登場である。

「……私が知ってる姉はなんというのか、なんでも自分で完璧にこなせて、憧れでした。……そんな姉の姿は知らなかった」

「あれで案外、妹の前じゃ見栄張ってたのかな」「俺には逆に完璧な澪なんて想像つかない。君のほうがよっぽど立派に生徒会長してるよ」「そうだな、姉妹とはいえ」「澪と七海さんは、あんまり似てないな」

 それまで自分が見てきた、信じてきた、真似してきた澪の姿が、ただの一面でしかないことを突き付けられたのだ。それも、自分が見ていた澪像に対して正反対にも思える姿によって。

 叶こよみの脚本でもそれは示唆されており、本当は自分が見てきたものは一面でしかないと薄っすらとであれ分かっていたのだろう。

 けれども燈子はその問題から、澪になるという目的のためにずっと目を逸らし続けていた。

 恐らく澪が亡くなる前に言われたのであろう(そして場合によって亡くなったあとでも言われたことがあるかもしれない)「先輩(燈子)はお父さんにで、お姉さんはお母さん似」と「よく言われた」ことからも、窺える。本当は自覚があったはずなのだ。そう言われていたはずなのだから。

 そうして目を逸らしていたことが突き付けられ、燈子の歩みが揺らぐ。

 これまで正しいと思ってきた道に対して、「本当に正しいのか」という疑問が生じたのだ。

「でもそれじゃ、私は誰を目指したらいいのかわからない」

 それでも燈子は突き進むしかなかった。自分にそれ以外の意味を持っていなかったから。他に道がなかった。

 同時に疑問が生じたことで、文化祭のその先にまで目を向けることになるが、しかし燈子にとって自分とはなんの意味がないものだから、その先が見えなかったのだ。

5巻――「私のこれまでやってきたことが間違ってるって言いたいの?」

 それでも燈子は夏休み、侑との水族館デートを経て、「…矛盾、しててもいいんじゃないですか。べつに」という言葉を受けたのもあり、辛うじて意気を立て直した。

 だがそこに水を差したのもまた侑であった。

 侑が想いを込めて変更した脚本は、もうすでに脚本の主人公と(脚本の途中まで)同調し、同時に自分の道に疑問を抱いていた燈子に間違って届いた。

「何も持ってない私が何者かになるには、誰かに成り代わるしかないと思ったの。でもそれは違ったんだね」「違った…?」「私のこれまでやってきたことが、間違ってるって言いたいの?」

 ここでは燈子が自分に抱く価値観が問題となっている。燈子は未だに自分になにかしらの意味、価値を見出していない。燈子は自己形成が確立していないためだ。

 何故なら燈子にとって、自分の価値というものが、澪の模倣でしか生まれてこなかったからだ。本来の燈子では成し遂げられなかった。燈子自身は昔から変わっていないという自覚があった。だからこそ、燈子ほどの人間が「私のままの私になんの意味があるの」「自分が自分だって言えることが、ほかに何もわからない」と言うのである。

 燈子の自己嫌悪には、自分にはなにもないという考えがあり、だからこそ澪に成り代わることで自己を形成しようとしていた側面もある。それを新しい脚本では否定されたように燈子には思えたのだ。

 だから燈子は、拗ねた。侑を避けた。

 けれど、市ヶ谷に「役の考えが飲み込めてない」「迷ってるなら人と話してみるのも大事」と言われ、沙弥香の「燈子のため」という言葉もますます燈子の心を搔き乱した。

「沙弥香も侑も私が間違ってるって言う」「お姉ちゃんになりたいと思うのは間違いだって」「……私にはほかに何も無いのに」

 そうして燈子は侑に迫った。自分は間違ってるのか。どうすればいいのか。

 その精神安定剤として、「侑のこと好きな部分は私だって言い切れる」ことを確かめようとした。

 燈子の行動や思考はすべて燈子の中の澪像が基準だった。その中で、第24話で表れているように「侑が好き」というのは燈子にとって唯一のアイデンティティとなってしまった。

 一方の強い自分が否定されたのだから。もう一方の弱い自分で天秤の均衡を保とうとした。

 けれど侑はキスを拒んだ。そして想いをぶつけた。

「先輩がお姉さんみたいになりたいと思うならそれでもいい。間違いだなんて言いません」「でもほかに何も無いなんて思ってほしくない」

「みんながそう思ってるのは、私がお姉ちゃんの真似をしてきた結果で…」「お姉さんみたいになるためにずっと頑張ってきたのは先輩です!」「全部、先輩のものです」

「でもその気持ちは、先輩宛てだってことだけは認めてください」「もらったものを無かったことにしないでください」

 この侑の言葉を聞いて、燈子は信じた。

「まだ自分が何か持ってるなんて思えない」「この劇が終わった後に、私に何が残るのかわからない」「それでも今は」「侑を信じたい」

 これは燈子が信じやすいというのもあるが、侑がこれまで積み重ねてきた信頼の結果でもある。

「それでも侑の言葉だから信じたかった」

 これまで燈子を好きになることなく、支え寄り添ってきた侑だからこそ、燈子はその言葉を信じたのである。

 そうでなければ第10話のように、燈子は侑から離れられたからだ。

 この辺り、アニメ第13話のアニオリたるエチュードの場面は、アニメ初見勢に対する解答を示すと同時、このことについて、脚本ができていないとはいえまだ侑の言葉を信じ切れていないという燈子の状態を示唆しており、2期において完成した脚本に対して渋っていた燈子が、今度は侑を信じることで演じられる対比の構造として強調するためのシーンとしての役割も想定されているのであろう(ところで2期はいつですか?)。

6巻――「本当に私のものだったらいいなって」

 そうして燈子は生徒会劇で主人公を演じることで、自らの歩みを追認して、役柄と融和していき、自身の二面性と折り合いを付けることができた。

「自分が劇をやるのはお姉ちゃんがやり残したことだからで、文化祭が終わったらそこで全部終わると思ってた」「私のものだと言われても、よくわからなかった」「私はお姉ちゃんの代わりでしかないと思ってたから」

「本当に私のものだったらいいなって」

 こうして燈子は「自分が嫌い」ということに折り合いを付け、自分を少しは好きになってもいいと知り、それによって他人からの思いを受け取ることができるようになったのである。

 自身の努力も人からの好意も、一度自分のもの、自分に向けられたものとして受け取れるようになった。そこには「澪の代わりとしての燈子」という自らが付けたレッテルではない、二面性を自己として融和させた「燈子自身」への自己形成及び認知の進みがあったのだ。

 だから侑は、その一歩先を見た。

 これまでは言ってはいけなかった言葉が、言えるのかもと。

 しかしこの変化は同時に、侑から「燈子にとっての特別性」を剥奪するものでもあった。

「先輩が劇団に入ったなんて知らなかったです」「ごめん、言ってなかったね」

 文化祭と中間考査と打ち上げの間のどこに体験入団を決めて行くタイミングがあったのか、そもそも月日が明確でないために判断が難しいが、少なくとも「こないだ練習行ってきたって」という台詞から、体験入団に行ったのは中間考査の前後ではないかと思われる。その間生徒会も休みであるはずのため(第8話参照)、直接会う機会は減っている。

 会えば、あるいは連絡すればいいのに、となるが、基本的に侑から燈子に会いたいということはできない。また、燈子からすれば、これまで狭窄していた視野が一気に開けたことで、目移りしているような状態だ。それ以前にテストが迫っていたのだから、通常時に比べて連絡が少なくなるのも不思議ではないかもしれない。

 とかく、燈子は侑以外を受け入れ、視野が広がったことで、言うなれば親離れを始めたのだ。

 けれど親は親。燈子は相変わらず侑を特別に見て、そして信じ切っていた。

「侑は変わらないなぁ」「ねぇ侑」「これからも今までどおり、そばにいてくれたら嬉しいな」

 だからこそ、笑顔で侑にそう言ったのだ。

 だが、燈子には肝心の視点が抜けていた。侑がどんなことを思っているのか考えてこなかった(人間に必ず分かるものではない、そのようなものであるという前提を置きつつ)。

 だからこそ、第34話はあんな結末となった。

「……ごめん」

 侑ファンのトラウマ。絶望の言葉。

 しかしこれは燈子の聡さと優しさから出た言葉である。

「侑が私を好きになることはないと思い込んで、信じ切って、ずっと侑に甘えてた」「好き?」「いつから?」「これまで侑にどれだけの言葉を閉じ込めさせて、どれだけの嘘をつかせてきたんだろう」

 侑からの告白を受けた瞬間、燈子はすぐに侑の心情へと考えが及んだ。

 基本的に燈子というキャラクターは聡い。

「沙弥香の好意の大きさに気付いてなかったわけじゃない」

 ここからも分かるように、他者からの好意に敏感だし、だからこそ燈子は沙弥香に対して最後の一線を譲ってこなかった。

 だが、その聡さが侑に対しては働かない。そもそも「どうして燈子は侑の気持ちに気付かないのか」という声も度々見かけるが、それは読者の情報量と燈子の情報量の違いを忘れ、また同時に侑に感情移入してるから起こるものだ。

 燈子が侑の気持ちに気付けなかった理由はいくつかある。

一.燈子が侑を信じたこと。

二.そもそも侑が燈子に「人を好きになりたい」ことを明かしてないこと。

三.侑の振る舞いが燈子との求めに対して完璧であったこと。

四.燈子に余裕がなかったこと。

五.恋は盲目。

 他人の好意に多少敏感とはいえ、燈子の目は常に自分、ないし自分の澪像に向けられていた。そして他者に対しては警戒していた好意を、侑に対しては信頼していたからこそ、全くの無警戒だった。

 だからこそ、燈子にとって侑の告白は青天の霹靂だったのだ。

 しかしそこで燈子は侑が裏切ったと責め立てることもなく、自分のしてきたことを思った。だからこそ謝罪の言葉が自然と出たのだ。

 そもそも燈子というキャラクターは優しい性格を持っている。

 振る相手をできるだけ傷付けないように配慮することもだし、後輩の悩みを自分から話を振ってまで聞く姿勢を持つ。

 なにより、姉を轢き殺した運転手を恨む描写が一切ないことだ。これはよくよく考えればいっそ異常なくらいである(描写がない=そんなことを一切考えてない、というわけではないことは前提として)。

 また、燈子の「好き」の定義は相手ではなく自分に起因している。相手の裏切りが怖いから、という相手に原因を帰属していない(それが全く含まれていないというわけでもないが)。

 無論、そこにはそうなるに至った経緯として自分の責任を感じているのもあるだろうが、それにしたって作中に描写が一切ない。

 基本的に燈子は――というよりもやが君の主役たる侑・燈子・沙弥香三人ともに――他者に責任を問わない(「侑のせいだよ」はさておき)。都合の悪い原因を自分に起因させている。だからこそ、燈子は澪になるなどということを始めることにもなった。

 故に燈子の口から謝罪の言葉が出てしまった。第1話で告白しながら第2話ですぐに引っ込めたが如く、燈子は思ったことがすぐに口から出ることがある。普段はきちんと言うべきかどうか考えて言うことのできる燈子だが(「私を好きにならないで」等)、強い感情が湧いてきた時、燈子の口は思いをそのまま出してしまう。

 いずれにせよ、タイミングが最悪だったのには変わりないが。

7巻――「私は侑の気持ちに応えられない」

 実は燈子が「好き」を受け入れるにおいて、問題は2つあった。

壱.燈子が自分自身を嫌っていること。

弐.燈子の「好き」の定義。

 この2つのハードルを越えなければならなかった。弐の問題を解決するには、その前提となっている壱を解決しなければならない。そして侑が文化祭で解決したのは壱だけだったのだ。弐についてはなんの解決もしていないのだ。

 もちろん、文化祭の成功という体験を経て、燈子は他人からの思いを自分のものと受け入れられるようになった。それは事実だ。だからこそ、侑は一度は「今の先輩になら言っていい……?」と思ったのだ。

 だが、それは「好き」の定義を変えたわけではない。自分の成してきたこと、他人からの思いを受け入れられるようになっても、燈子にとっては未だ「好き」は「束縛する言葉」だったのだ。

 侑も恐らくそれは感じ取っていただろう。だからこそ、「きっと先輩はこれからも変わってく」「だからいつか」と、絶望と共に希望を持って呑み込もうとした。

 だが、侑は零れてしまった。その「いつか…」の一滴に耐え切れず。

 そうして燈子は謝り、侑は痛みに耐え切れず逃げ出した。

 「好き」の定義が燈子の中にまだあったからこそ、燈子は「好き」を「怖い」と感じた。

 これはメタ的な発言になるが、これは侑と燈子から特別性、運命的なものを排し、一人と一人として改めて向き合わせたのである。この辺りは作者インタビューでも言及されている。

──「運命の二人」と言いたくなるくらい相性の良い二人だと思いますが、なぜですか?
仲谷 たしかに、すごく相性が良い二人だし、お互いにこの相手しかいないという風に見えてしまうかもしれません。でも、二人は文化祭の生徒会劇とか、いろいろな出来事を通して変化していくし、変化した後の二人は、お互い以外の相手とも恋愛するという選択肢も持てる人間になっていると思うんです。だから、最初から侑には燈子しかいないし、燈子には侑しかいない、みたいな見せ方にはならないようにということは、ずっと意識していました。数ある選択肢の中から、お互いを選んだんです。(最終巻発売『やがて君になる』仲谷鳰に更に聞く「やっといちゃいちゃしているところを描けるなって」

 何故なら、その特別性こそがそれまで燈子を縛り付けていた「好き」であったからである。

「「こういうあなたが好き」って「こうじゃなくなったら好きじゃなくなる」ってことでしょ?」「「好き」は束縛する言葉」

「侑はもう私の特別じゃない」「好きを持たない君はもういない」

 だからそのままでは駄目だった。たとえ6巻で燈子が侑の告白に頷いたとしても、この定義が残ったままになってしまう。

 そもそも救う側の侑と救われる側の燈子という図式は、文化祭を終えた時点で終わっている。もうすでに燈子は救われたのだから。実はとっくに特別性が解消されていたのだ。

 これについて、こちらのブログにて少し面白い見方をされている方がおられたので、紹介したい。

恋愛物語において、こういうキャラクターの重大な過去が解決されることと恋愛の結実が同一視されることもある。
「やがて君になる」はそういう方向性を採らず、むしろ過去が解決されることによって七海燈子との(小糸侑から見て)距離が開いたような描き方がなされていた。

 「助けるという苦労を負ったのだから、その報いがあるべきであり、助けられた側は助けた側を好意的に見るはずだ」という報いの論理だ。これは多くの物語で採択されている構造であるし、また道徳的な一面もあるのかもしれない。

 あるいはまた単純に、侑の想いが成就して欲しいという読者としての肩入れも一つであろうが。

 話を戻して、無論、あのまま穏やかに変わっていって、最後には同じ結論に至れる道もあったかもしれない。

 だがその道中必ず登場するのは佐伯沙弥香だ。沙弥香は第36話で侑と燈子の変化を見て決意した形であるが、あくまで個人的にはどの道告白していただろうと思う。

 だが、ここも推測ではあるが、その場合、燈子は沙弥香を選ぼうともしないだろう。

 何故なら侑が告白してないからだ。そうなると燈子にはまだ逃げ場があったし、「好き」に向き合おうとする理由もなかったろう。

 だからこそここにおいて必要になってくるのは、侑の告白のあとに出てくる佐伯沙弥香だった。

 二人の近しい人に告白され、燈子はようやく二人と「好き」に向き合う。二人が信頼を積み重ねてきたからこそ、ここで燈子が二人に、そして二人が口にした「好き」に向き合わなければならなくなったのだ。

 だが一人では当然これまでの定義しか出てこない。燈子は沙弥香に問うた。

「会った頃の私の印象と、いま沙弥香が知ってる私はもう違うでしょ?」

「それでも好きでいられるもの?」

 燈子が「好き」に対して向き合うことになったのは、侑や沙弥香が逃げ場でなくなったというのもあるが、「変わっていく人をどうやって好きでい続けられるんだろう?」というものもあった。

 自身と二人の変化によって、人は変わっていくと改めて実感した燈子は、「束縛する言葉」たる「好き」という定義が揺らいだのだ。人は変わり続けるがために、燈子の定義たる「好き」で居続けるのは不可能だ。なら、「好き」とはなんなのか? 変わっていった侑と沙弥香に対して、これまでの定義では受け入れられないのだが、それでいいのか?

 それに対して、沙弥香は沙弥香なりの「好き」を伝える。

「好き……って」「今のままのあなたじゃなきゃ嫌だったことではないけど、どんなあなたになってもいいってことでもないと思う」「だからなんだろう……」「あなたは私の好きなあなたでいてくれるだろうっていう、信頼の言葉、かな」

 「束縛」ではない「信頼」の「好き」。無論束縛的な意味合いが全くの皆無というわけではないが、沙弥香の言葉が燈子に響いたのは、自身の弱さを知ってなお告白した沙弥香の想いがあったからなのだろう。

 強い燈子も弱い燈子も見た上で、沙弥香はそれを「燈子」という一個人で見たと言えようか。ここでは二面性のある自己の融和もあるのではないだろうか。

 変わっていく人を「好き」になる定義。強さも弱さも「燈子」として受け入れられた。

 だからこそ、燈子は「初めてかもしれない。好きだって言われてこんなに穏やかな気持ちでいられるのは」となったのだろう。

 だが、二羽の鴨が降り立ち、隣り合って川を渡っているのを見て燈子の脳裏に浮かんだのは、「隣を歩」く侑の姿だった。

 これからを一緒に歩んでいくことを想像して、そこにいたのは沙弥香ではなく侑だった。沙弥香の「好き」に触れたからこそ、至ったことである。

 それは恐らくは元より燈子の中にあったものだ。「好き」だと定義してきたものだけでない、これまで抱いてきた衝動的なものであり、積み重ねてきた想い。

 無論それは沙弥香に対してもあり、だからこそ燈子は沙弥香を選ばなかった。隣に立っていて欲しい「好きな人」がいたから。

 これまで燈子は選ぶ必要がなかった。「好き」と言ってきた相手は一律断るし、侑には安心して「好き」をぶつけられたから。

 けれど、侑は変わる。変わった侑を、それまでの燈子の「好き」ではいられなくなった。でも燈子は侑の存在を忘れられなかった。

 そして沙弥香の告白。沙弥香の「好き」。それに触れることで、燈子はようやく「好き」の多義性に触れ、自縄自縛の「好き」の定義から抜け出し、二人から選ぶことができたのである。

 「侑が誰も好きにならない」という条件的な好き――特別性を剥ぎ取らなければならなかった。そしてその特別性がなくても好きになれる、いや、好きだったのだと気付く。

 それが、燈子の出した結論だった。

「沙弥香からは逃げちゃいけない」

「好きだって、これまで何度も言われて、そのたびに逃げてかわして」

 ここから分かる通り、燈子はこれまで他者と真剣に向き合ってこなかった。常にその目は自分に向き、また自分の中の澪像に向けられていた。

 何故ならば、燈子は澪となる、または澪の代わりに生徒会劇を成功させる道すがらだったからである。

 何故燈子は多くの人に好かれるよう振る舞ったのか? それは澪がそうだったからだ。だから、本来的にそうでなかった燈子は、その模倣に苦慮した。

「どうやって周りに好かれるか考え続けて」

 そのために、燈子は自身からすれば打算的な人付き合いが多かったのだろう。全部が全部そうではないにしろ、しかし決定的なところは相手に、そして自らも踏み込まなかった。

「燈子は誰とでも親しげに接するし、近付きやすい印象を人に与えるけど、本当のところ、一定以上の距離には決して近寄らせない」

 一定以上の距離には近寄らせないということは、近寄らないということでもある。

 表面上はそれで問題はないし、応対だって心の底からである必要はないのだから。

 だからこそ、他者へと目を向けてこなかった。正確には向ける余裕がなかった。それが本来的に聡い燈子が侑の気持ちに気付かなかった理由の一つでもある。

 侑の告白の場合、侑の方から逃げていったのもあるが、やはり燈子の方も動けなかった。動こうとしても拒否されて、そこで終わり。関係の終わらせ方さえも模索できていない。

 燈子が初めて向き合った相手が、沙弥香だった。

 それは、佐伯沙弥香という人間にとっての最大の成果だ。これまで積み重ねてきたものが決して間違いではなく、最大限の信頼を得た証左だ。

 それが同時に、燈子における沙弥香の限界だった。この辺りはインタビューで語られているのでそこに譲る他ない。

───沙弥香は待ちすぎたから、出遅れたんでしょうか?
仲谷:沙弥香は自虐を込めて「待ちすぎた」って言ってますけど、実際に沙弥香が行けたタイミングがあったかというと、無かったんですよね。沙弥香は一年の時から常に最善の選択をしてきました。そのあたりはノベライズの『佐伯沙弥香について』2巻を読んでいただけるとわかると思います。「待ちすぎた」のではなく、この形しかなかったんです。(【コラム】 やがて君になる x 安達としまむら 特集! 仲谷鳰x入間人間x柚原もけ座談会

 そしてそのためには、燈子が「選ぶ」というステージに立たねばならない。

 そうして侑を選んだ燈子は、侑へと想いを伝えるべく走った。

8巻――「私、侑が好き!」

 侑と会って(ほぼ)開口一番の告白。これには意表を突かれた読者もいるかもしれない。

 だが、メタ的な観点で言えばここで謝ってはいけない。侑は不安で、すぐに怯えていたからだ。出入り口側を燈子が制圧しているとはいえ、謝ってしまえば侑はまた逃げ出してしまう可能性があった。実際、侑は約束を破ってしまったことを気にかけていた。

 とはいえ「動物的」な燈子にとってはそんな打算ではなく、思うままを伝えただけだろう。

 そうして第34話で動けなかった燈子は、今度は自ら踏み込み、侑を逃がさないよう手を掴んだ。

「…なんで?」「好きになったところは、もう変わってなくなってしまったのに?」

 その問いかけに、燈子は侑の不安を溶かしていく。「好き」を伝えていく。

 内容としては文言こそ違えど、本質としては沙弥香に言われたことと同じような内容だ。変わってしまった侑の、それでも今はまだ変わっていない好きなところを挙げていく。

 だが、そこには確かにあったはずの「特別」がない。それはもう変わってしまったことだから。

「それが、先輩にとって特別なこと?」「ほかの人じゃなくてわたしが特別だって、先輩はどうしてわかるんですか…?」

 燈子にとっての「特別」を失ってしまった侑は、どこか縋るようにして訊ねる。

「だって侑ばっかりなんだもん」「頭が侑でいっぱいで、幸せだけど、時々泣きそうで」「ぐちゃぐちゃになるけど、絶対なくしたくない」「侑じゃなきゃやだ」「侑が好きだよ!」

 「特別」な侑への「好き」がなくとも燈子は侑が好きだった。むしろ、燈子は自身の「好き」という定義に、自分が侑を好きな理由、好きだという想いを全部ぶち込んで理解していた。

 燈子における「好き」は、侑の言葉を借りれば「わけがわからない「好き」」「自分ではどうしようもないような、出処のわからない大きな気持ち」に近似するものだった(これは侑にとっての元々の「好き」の定義であり、これがイコール燈子の「好き」にはならないことは留意しつつ)。

 最初からでなくとも、本当は全部元から持っていたはずだった。それをファイリングする際に、一緒くたにしてしまったからこそ、侑への「好き」という想いを見誤っていた。

「強く握られた手が」「少し震えているのはわたしじゃない」「先輩のほうだ」「まだ怖いんだ」

「私は侑が好きで……侑も…」

「怖いけど、先輩は言うんだね」

「侑も私を好きでいてほしい」

 燈子の「好き」の定義、それへの「怖さ」はまだ完全に拭い切れてはいない。それでも燈子は勇気を振り絞った。

 それが分かったからこそ、侑も痛くて、つらくて、悲しくて、怖いはずの言葉を返した。

 燈子が先に(怖いながらも「好き」になることを)侑に乞うたからこそ、侑もそれに応えたのである。

 余談ではあるが、侑も侑で自身の「好き」の定義に囚われていた。

「「好き」って、誰かを特別に思う気持ちって、ある日どこかから降ってくるようなものだと思ってたんです」「自分ではどうしようもないような、出処のわからない大きな気持ち」「でもわたしの「好き」はたぶんそうじゃなくて、自分で選んで手を伸ばすものだったよ」

 こうなったのは、侑が少女漫画やラブソングのキラキラして眩しい言葉から憧れ、それらが侑における恋愛のロールモデルとなったからである。

 だがもう一人、侑の恋愛観に影響を与えた人物がいた。

「小糸のこと、特別だって思うから」「小糸と特別な関係になりたいんだ」

 そう、元中学生男子生徒くんである。

 侑は彼に告白され、想像した通りに心が浮付かなかった。戸惑ったからこそ侑は彼に問いかけたのだ。

「…どうしてわたしと付き合いたいって思ったの?」

 本来ならば、沙弥香のように「私のどこが好み?」――つまり「どうして好きなのか」訊ねるはずだが、侑はそうしなかった。

 「好き」云々はともかく、彼の気持ちに応えようとしたのだ。だがそれは叶わなかった。

「わたしも付き合おうって答えられるようになりたかった」「でもわたしには特別って気持ちがわからないんです」

 何故ならば、付き合う――「特別な関係にな」るためには、「特別だって思う」ことが必要だと、彼は言ったからだ。

 これが侑における恋愛ロールモデルのもう一つの形となった。だからこそ、第44話にて燈子から「侑って案外、恋人とか付き合ってるって言葉使いたがるよね」と言われる。侑にとっては「特別だって思う」からこそ「特別な関係」=付き合うという構図が、彼によって示されていたからである。

 しかし侑は、第39話において槙と燈子について、「好き」について話し、「それでも「好き」がほしい」と思った。燈子の呼び出しを受けて走る中で考え(第40話冒頭)、また燈子の「好き」の定義が変わったことを聞いたことで、侑もまた自分の「好き」の定義から抜け出すことができたのだ。

 これ以降はエピローグであり、また燈子の思考や感情や行動理由は随分と明文化されている。こちらがあまり口を挟む必要はないだろう。

船路

 月日は流れ、第45話は当時から三年が経過していた。短くはあるが、そこにおける燈子の変化について、いくらか言及してみたい。

「た、単位は取ってるよ」

 燈子は「完璧」ではなくなった。でもオーディションを受けるなど、道を見出して歩んでいる。澪の代わりという意識はもうなく、自分の道を進んでいるのが伺える。

 「自分がどういう役に向いてるのか、ちょっと悩んでるんだよね」というのは、だからこその悩みだろう。

「今度ドタキャンしたら怒るからね」

 侑が燈子に対して怒れるようになっている。実はここの二人の変化はかなり大きいのではないだろうか。

 7巻までは侑が自分の気持ちを押し隠す展開が多かったが、こうして対等に接することができるようになったのだ。それは侑だけではなく燈子もそうしたところを受け入れてるからこそだろう。

「沙弥香おめでとう…」

 燈子は沙弥香の前でも元来の子供っぽさを隠さなくなった。それはやはり、「完璧」ではなくなったからなのだろう。

「何になってもいいよ、侑は」

「責任は取るつもりだよ?」

 燈子は人の変化を受け入れるようになった。そしてそれにきちんと向き合う姿勢を持った。

 こうして作中における燈子の変化が示されたのである。

終わりに

 以上、大変長く、また時間の都合上非常に雑文となってしまったのだが、七海燈子について、自分なりの考えをまとめてみた。

 中には少し穿った見方もある。燈子が姉の代わりになりたいという点は、作者の意図からすればそのままに「親戚の言葉を受けて、それを信じてしまった」というものであろう。ここを代表するように、個人的な解釈理解が多分に差し挟まっているのは否めない。これはあくまで燈子を理解するために、燈子の内面を分析していったものだということを、言い訳がましく主張させていただく。

 燈子本人も幾分自覚的な通り、彼女の行動は決して褒められたものではないものも多い。当記事は連載終了後に一気読みしたからこそ言えるものであって、連載中における燈子の行動は、読者の中には相当な負担であったであろうことが、色々見ていると推察される。

 実際、要素だけで言ってしまえば、自分も燈子というキャラクターを好ましく思えなかった可能性もある。自分は許容できたのでよかったのだが、かなり攻めたキャラクターではないだろうか。この辺りは作者の好みとしてデザインされているので、致し方ないところもあるのだが。

仲谷 燈子は、私の好きなヒロイン像が強く反映されているというか。とにかく面倒くさい女の子をメインにしたくて(笑)。現実に燈子がいたとして、私だったら絶対にこんな子は手に負えないけれど、主人公は、そのすごく面倒くさい子を助けられる。そういう構図が好きなので、そうなるのはどういう人物なのかな、というところから考えていったんです。(大人気百合漫画『やがて君になる』最終巻直前仲谷鳰に聞く「侑と燈子が『運命の二人』には見えないように」

 しかし作品を読むに当たって忘れがちなことがある。それは燈子が小学生から自己形成に失敗した高校生であること、そしてこの物語は正解を求めるものではないことである。無論前者はそれで許されるべきという話ではないが。また後者は作者のインタビューを読んでいくことで、意識的に気を付けて描かれていることがよく分かると思う。

 読者というのは得てして正解を求めがちである。殊に読者という立ち位置が全体を見ることのできる俯瞰視点のため、よく作品批判の中にそうした評価が挙げられるのを見る。しかしキャラクターの失敗も含めて一つの作品なのである。そのキャラクターの生き様であり、信条であり、物語である。

 人間は失敗する生き物である。人間を題材とする以上、どのような形であれ失敗を描かないことはできない。

 燈子はめんどくさいキャラクターである。それは間違いない。作者が保証している。

 そのめんどくさい行動、思考、言動に「共感」することもできる人もいるし、できない人もいる。だが「共感」はできずとも、「理解」することはできるはずだ。少なくとも、作者はそう考え、説明的にならないように描写している。

 その「理解」の助けとして、当記事が少しでも役立てられれば幸いである。




なお、今回の企画作品として、この自分なりの理解を元に二次創作小説を投稿しております(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=16603888)。もし興味がありましたら、こちらの方も読んでいただければ幸いです。

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