心、固めて

【巫の渡】を数刻後に控えた早朝、私は目を醒ました。
幾分早く起きすぎたとも思うが、今の私にはこの夜明けの景色すら大切に思える。もう、見ることはできない最後の夜明け。
周りも、…私の身体も、静かだ。どうやらオニへの変化は収まってくれているらしい。

『生きたいとは、思わないのか。』

昨夜、空疎様が放った一言が蘇る。それは私がとうの昔に諦めた願いだった。
罪人である私が抱いてはいけない願い。
今までも空疎様は時折私に“何故生きようとしない”という意味合いの事を訊いてきた。
そんなことは許されないのに。願う資格も価値も、私には無いというのに。

「寒い、な…」

ふと、眠る前の温もりを思い出し、一人自分を抱きしめる。この感覚もあと数刻後には無くなる。
感覚だけではない、私という存在が、宇賀谷詞紀という存在が、この世から消える。そして世界は終焉から救われる。
私一人が死ぬだけでこの世に生きる全てのものたちが救われるのなら、あの方がいるこの世界を救えるのなら、この生にも意味があったのだ。そう考えると少し楽になる。
代々の玉依姫が…、母様が守ってきた世界。空疎様と見た、輝く雲海と瞬く星々。温かな腕に抱かれ、あの方の優しさに触れた。
十分だ。それだけで十分だった。
あの方の心がどこにあろうと、もうそんなことはどうでもいい。死の寒さに震える私を温めてくださったあの方の温もりを心に灯し、儀式へ臨むと決めた。
美しいこの世界の為、私は死のう。
世を滅ぼす災厄、オニを内包したまま。
私がオニと共に死んだ後、空疎様はどうなさるのだろう。復讐の為に玉依姫である私に近付いてきたのだから、次代の玉依姫と婚姻を結ぶことはしないのかも知れない。
季封で、復興の手伝いなどをしてくださったら嬉しい。それとも幽世へ行き、風波様と共に生きるのだろうか。
あの方は、復讐の向こうに、何を見るのだろう。

そんなことを考えながら、私はまた夢の中へ落ちていた。幼い頃の記憶、あの罪の夢の中へ――

動くものがいない白い森の中、我は独り、佇んでいた。
夜明けの光が静かに森に差し込む。――あと数刻の後、あの女は死ぬのだろう、世の終焉を、オニを抱えて。
愚かなことだ。それが世の為の最善とは言え、自ら死に赴くなど愚行極まりない。

「生きたいとは、思わないのか。」

幾度となく発した我が問いに、あの女の答えはいつも決まっていた。
『宿命ですから』―と
抗うことを止め、粛々と運命に従うだけの人形。用意された答え。
だが、昨夜だけは違った。

『生きたいという願いを認めるのが苦しい』
『宿命を受け入れることしか、苦しみから逃れる方法がわからない』
『諦めることしか、知らない』

『何故そうも、私の心を掻き乱すのです』

あの激声は、あの激情こそが、我が見たかったものだった。
人形ではない、一人の人間としての…宇賀谷詞紀としての心。
生の淵から死を覗き込み、やっと人形の仮面を剥ぐことができたのだ。
苦しみにもがき、罪に喘ぎながらも激するその姿は美しかった。
己の心をありのままに映す瞳は、輝いていた。
あとは罪に抗うだけだというのに、あの女は未だ檻に囚われている。
死に向かおうとしている。

―そうはさせるものか。

あの女の魂に触れた時、我は確かに喜びを感じた。
寒さに凍えるその身体を抱いた時、愛しさが募った。
復讐だけを目的として生きてきた筈であったのに、我はあの女の生を望んでいる。
『生きたいとは、思わないのか』という問いの心中もまた、同じものだ。
もう、認めざるを得ないだろう。

復讐よりも大切なものができてしまったのだと。
復讐よりもあの者の生が、我には必要なのだと。

それにしても復讐の為に近付いた女に心を奪われるなど、滑稽な話だ。…だが、不思議と小気味好い。
復讐に身を窶していた時よりも、幾分、心が晴れやかになったような心地さえする。
あの時一族が我らに託した願いは、一族の血と誇りを絶やさぬことだった。復讐など望んではいなかったのだ。
我らが弱かった故、“弱い”という現実を受け止めることができなかった故、我ら兄弟は復讐という道に逃げ込んだ。
オニを討ちたいという想いは消えてはいない。だがそれは、一族が望んだことではない。
風波よ、お前も気付くだろうか。
気付かなければ、何れお前と対立することになるだろう。恐らくそれは、そう遠くない未来に…だが今ではない。

今は、詞紀と世界を救う手立てを考えねば。
詞紀とこの世を滅ぼす原因…それはオニだ。ではオニ滅ぼすのが正しいのか?
しかし今オニを斃そうとすれば、詞紀も死ぬことになる。それでは何も変わらん。
詞紀を救うには、オニを詞紀の内側から斃すか…詞紀からオニを切り離せばいい。
元々、勾玉によって無理に繋がれた魂だ、勾玉を用いれば詞紀とオニを分離できるかも知れん。
分離できたその時は、世に再び災厄が解き放たれることになるが…
その時は当初の目的通り、この命を賭してオニを討とう。
我ながら随分と不確定要素に満ちた策だと思うが、もはやこれしかあるまい。
まずは詞紀が最後まで死を選んだ時の為、儀式が行われる祠に仕掛けを施すとしよう。
その後に詞紀を説得し、幽世へ赴こう。説得がうまくいかなければ、無理矢理にでも連れて行く。
あの頑固者が、世に終焉を解き放つことを受け入れるとは思えないが、な…

「詞紀、お前を死なせはせん―」

そう呟いた後、我は森の奥にある祠へと向かった。

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