夏の涼香

空疎尊(くうそのみこと)は困っていた。
連日降り続く雨で羽根が濡れることに、ではない。カミである自分にとって、姿かたちなど特に意味を成さないし、そもそも風を使えば湿気など簡単に吹き飛ばせる。
周りに堆(うずたか)く積まれた本の多さに、でもない。自分で積んだのだから困る事などない。
では何に困っているのか。

「空疎様、こちらにいらっしゃいましたか。」
「詞紀。」

声がした方に首だけ動かしてみれば、急須と湯呑みを乗せた盆を持った、最愛の妻がそこにいた。
連日の雨に霞む事なく、変わらず美しい。いやむしろ雨の日独特の空気を帯び、その淑やかな美しさが増しているようにも思える。
そんな事、もちろん口には出さないが。

「先程、京(みやこ)からの使者の方が到着いたしまして、そのお土産に……あら?」

詞紀の視線が空疎の膝の上に行く。
先程から自分を困らせている、その元凶。

「猫、ですか?」
「見て判らんか、猫だ。」
「………。」
「何を笑っている。」
「気持ち良さそうに眠っているなぁ、と思ったのです。」
「ああまったく、こいつが我の膝で寝ている所為で続きの本が取れない。」

だがこの猫のおかげで妻の穏やかな笑みが見られたのだと思うと、これはこれで良かったのかも知れないとも思える。
膝の上で丸くなって眠る猫を微笑んで見ている詞紀に、それで、と促す。

「茶を持ってきたのだろう?冷めぬうちに飲むとしよう。」
「はい、どうぞ。」
「うむ。………。」
「………。」

空疎は、茶にうるさい。
最初、二人が夫婦となった頃、詞紀が淹れた茶は空疎に“不味くて飲めたものではない”と一蹴された。
しかし最近は―

「上達したな、詞紀。」
「お粗末様です。」
「しかし変わった茶だ、飲んだ瞬間に爽やかな香りが喉の奥から抜けていくような…」
「京で今流行っているものだそうです。京からの使者の方がくださったので、早速淹れてみたのですが…口に合ったようで何よりです。」
「うむ、悪くない。」

この長雨から抜ければ、次は茹だるように暑い日々が続く。これからの季節を思えば、この茶は人間達にとって貴重な清涼剤となり得るのだろう。
最愛の者と二人で茶を飲み過ごす、和やかな昼下がり。いつもの光景―の、筈だった。

「あ、こら、暴れるでない!」
「きゃあ!?」
「ええい、羽根にじゃれるな!跳び付くな!!」

和やかな時間は文字通り瞬く間に掻き消えた。
目を醒ました猫が空疎の服の袖から覗く羽根にじゃれ付き、怒られて膝から飛び降り、湯呑みを引っ繰り返し、積み上がった書物を蹴散らし、小さな猫は突風のように暴れ、そして去っていった。
残された二人は零れた茶を拭き、書物を整え、散らかった部屋を片付ける破目になった。
その間、空疎は終始怒っていたが、詞紀がどこか楽しそうなのを見るとその怒りも消えていった。
部屋の片付けが終わったのは、陽も沈みかけ、そろそろ夕餉の支度に取り掛かろうかという頃。
縁側に二人、腰掛ける。
雨はいつのまにか止んでいた。

「やれやれ、もう夕暮れではないか。」
「ふふ、やんちゃな子でしたね。」
「やんちゃの域を超えている。それよりも本当に火傷はしていないのだな?」
「大丈夫です、茶が掛かったと言っても服の上からでしたし…。お気遣いありがとうございます。」
「妻の心配をするのは夫として当然のこと。礼を言われるようなことではない。」
「それでも、ありがとうございます。私は、あなたのその心が嬉しいのです。」
「ふん…」

それきり、会話が途絶える。しかし嫌な沈黙ではない。二人で目の前の景色を、空気を、ただ愛でる。

復讐に囚われていた頃は、あの冬を迎えるまでは、こんな穏やかな日々を過ごせるとは思っていなかった。
玉依姫を利用し剣を手に入れ、オニを倒し悲願を遂げる。ただそれだけの為に生きていた。
玉依姫…詞紀もまた、己の使命の為に生きていた。生を渇望し、それでも使命の為に死ぬことだけが己の宿命、贖罪なのだと諦めていた。
空疎はそんな彼女を長く見守るうち、復讐以外の感情が浮かぶのを知った。宿命が、彼女が、生を望まないのであれば、自分が望む。復讐の道具としてではない、仮初の許婚としてではない、彼女を愛する一人の男として。
復讐心が消えたわけではない、オニに滅ぼされた一族や民を想えば、この手でオニを討ちたいと思う。しかしその為に詞紀が死ぬのは耐えられない。世を終焉へ導く力を内包していた詞紀に、世界の為に死ねとは、もはや言えなかった。
復讐よりもずっと大切に想えるものができたのだと悟ったあの時、空疎は全てを敵に回してでも詞紀を生かすと決めた。
そうして詞紀は贖罪よりも空疎と共に生きることを望み、空疎は復讐よりも詞紀と共に在ることを望んだ。結果、二人は世界を滅ぼすことなく平穏に生きていける日々を手に入れた。各々に、かけがえのない犠牲を出して。
今この平穏の世の為に命を懸け、そして散っていった全ての者達の為に、二人は生を謳歌すると決めていた。

ふと顔を上げれば、遠くの空に瞬きはじめた星が見えた。
風が髪を揺らす。詞紀の黒く艶のある髪が、空疎の視界の端でさらりと流れた。
夏が近いとは言え、陽が沈めば未だ肌寒く、雨上がりともなれば尚更である。
カミである空疎にはこれぐらいの寒さなど如何ということはないが、詞紀はそうもいかない。

「詞紀、中に入るぞ。この時季、貴様にはまだ冷える。」
「私なら大丈夫です、空疎様。せっかく晴れたのです。今は、この景色を少しでも見ていたいと思います。」

雫を乗せ煌く葉達はまるで星々のようだと、詞紀が言う。
その横顔は生の喜びに満ち、全てを諦めていたあの頃とは違い、様々な感情に彩られていた。
美しい、と思う。
黒曜石よりなお黒く艶めき流れる髪も、雪のように滑らかな肌も、深く澄んだ紫紺の瞳も、紅を引かれ緩やかな弧を描く唇も、僅かに朱が差した頬も、その全てから生の輝きを見て取ることができる。
伸ばされた背筋も、纏う空気も、この季封の地を治める長としての誇りを持ち、凛とした佇まいを見せていた。
しかし、その内に翳りがあるのを空疎は感じた。

「詞紀、疲れているな。」
「え。」
「無理もない、あれだけの騒ぎだったのだ。いくら貴様が厄介事を呼び込む性質を持っていて、普段から厄介なことに慣れていたとしても、あれは疲れただろう。」
「ええと、まあ…そうですね、少し疲れしました。でも楽しかったので、空疎様が言う程では…」
「ほう、そうか。」
「はい。」
「時に…詞紀よ。貴様、昨夜はきちんと寝たのであろうな?」
「………。」

これほど判り易い者もそうそういまい、と空疎は心の中で嘆息した。
八咫烏一族は総じて睡眠をあまりとらない。それは元が八咫烏の空疎も同じこと。
しかし詞紀は人間。睡眠や休憩はしっかりととるよう、言ってある筈だが。

「昨夜も、いつもと同じように床に就きました。」
「偽るな、と我は以前貴様に言ったな?」
「……申し訳ありません。」
「まったく、我を相手に偽りを語るなと、言った筈なんだがな。…我には言えぬような悩みか?」
「違います!違うのです…。ただ、昨夜はとても蒸し暑く、寝苦しく思っている間に夜が更けてしまい…」
「寝不足になった、と。」
「はい…心配をお掛けして、申し訳ありません。」
「どうせ貴様のことだ、今日はもう休めと言ったところで休まぬのだろう。」
「そんなことは…」
「詞紀、申し訳ないと思うのであれば、今から我の言うことを一つ聞いてもらうぞ。」

詞紀の性格上、こう言えば大体に於いて詞紀は抵抗しない。
詞紀の顎をそっと持ち上げ、瞳を覗き込み、囁く。

「目を閉じよ。」
「あの、空疎様…」

詞紀が焦った声をあげるが、構わない。互いの吐息が混じり合う程の距離に顔を近付け、詞紀が目を閉じたことを確認すると―膝の上に、詞紀を寝かせた。

「えっ?あの、空疎様…?」
「何だ?」
「これは、いったい…」
「いったいも何も、貴様を休ませている。」
「………。」
「言ったところで聞かんからな、貴様は。ならばこうして無理にでも休ませる他なかろう。…それとも、何か別のことを期待していたのか?」
「そ、そんなことは!」
「まあそちらの方はまた別の機会に応えてやるとしよう。」
「空疎様!」
「起きるな、寝ていろ。」

起き上がろうとする詞紀の目を覆うように手を置き、そのまま数秒待つ。それだけで嘘のように大人しくなった。
眠ったかと思い始めた時、少し身動いだあと恥ずかしそうにこう言った。

「こんなところ、宮の者に見られたらどうするのです。」
「昨夜寝付けなかった己を恨め。」
「…やはり起きます。」
「夫の厚意には素直に甘えるべきだぞ、我が妻よ。」
「妻の羞恥心は夫に届かないんでしょうか、私の旦那様。」
「それ程に嫌か?」
「……………嫌、ではありません。」

消え入りそうに小さな声だったが、それは空疎を安心させるのに十分だった。

「ならば良いだろう?夕餉ができる頃に起こしてやる、それまで休め。」
「はい…」

僅かの後、規則正しい呼吸が聞こえてきた。手を離し見てみると、詞紀は安らかな顔で眠っていた。どこか幸せそうに見えるのは、自惚れだろうか。
詞紀の体が冷えないよう、少し暖かい風を周りに呼ぶ。柔らかに広がる風に、紫蘇の香りが混じっていた。
どうやら、夏はもうすぐそこに来ているようだ。

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