愛しいあなたへ

憎しみが、悲しみが、痛みが溢れても尚、美しく輝くこの世界へ―
私の大切な娘へ―

あなたにとってこの世界は、どう映るのでしょう。
今は眩く、幸福の内にあるこの日々も…明日にはその姿を変えてしまうかも知れない。
怒りや後悔に彩られる日々に、厳しい運命に囲われる日々になってしまうかも知れない。

けれどどうか負けないで。

確かに世の中は不条理なことが溢れている。
苦しくて、つらくて、どうしようもなくて、死んでしまいたいのに、それすら許されない日々。
負わされる重責。
待ち受ける宿命。
思い出が輝くのと同じだけ、影を落とす未来。
あなたは賢いから、きっと役目の意味を正しく理解できるでしょう。
でもあなたは優しいから、全てを自分が背負おうとするのでしょう。

つらかったら、投げ出しても良いの。
逃げたって良いの。

この地に生きる者たちは皆、宿命の為に生きよと言われて育ってきた。
でもそれは一種の呪い。
この地を覆い、他に道は無いのだと信じ込まされる。
でもね、自分を無くしてまで守るべき責務なんてどこにも無いのよ?
玉依姫という役目は、とても大切で、とても栄誉あることで、とても残酷。
けれどあなたが辞めたいと言うのなら、辞めたって良いんだから。

運命に、囚われないで。
悲しみに、沈まないで。
笑っていて。

母様はあなたが笑っているこの世界が大好き。
怒りと涙に満ちているけれど、それ以上に美しいもので溢れている。
大切な人を愛し、愛され、あなたを授かることができた。
あなたと過ごせた日々は母様の宝物。
あなたが生きる世界の為なら、【剣】に魂を捧げるくらい、苦じゃないわ。
でもきっと、私の死はあなたの心に傷を付け、あなたの心を凍らせるのでしょう。
それだけがひどく心残りだけれど……
あなたなら、この宿命を乗り越えられると信じているわ。
つらく寒い冬のあとには、暖かな春が訪れるって知っているもの。
春の陽射しの中で笑うあなたはとても美しいのでしょう。もしかしたらその時は、隣に誰かいるかも知れないわね。
その隣に立つ方にお礼を。あなたを支え、あなたを愛してくれている方にありがとうと――

明日行われる儀式で、あなたは玉依姫を継承するけれど…
私はあなたを檻に閉じ込めたりしない。
宿命なんてものに、私の大切な娘を囚われさせたりしない。

ねえ詞紀、憶えておいて。
いつだって、母様はあなたの傍にいるからね。
父様も母様も、あなたをずっと愛しているわ。

…………。

……。

私は頬を伝う雫を拭うことすらせずに、日記を読んでいた。

祭祀の道具や、歴代の玉依姫の持ち物を保管しておく部屋。
ふとした時に気になって掃除を始めたら、これが棚の上に積まれていたのだ。

母様…愛しい母様。
詞紀は檻を壊しました。
代々の玉依姫の魂を、母様の命を搾取し続けた【剣】を、この世から消したのです。
もう誰も宿命に縛られない世界に―皆が笑いあう世界に踏み出しました。
自由を、手に入れたのです。
ありがとう、母様……。

懐かしい母様の字が綴られた日記を胸に抱き、私は涙を零しながら微笑んだ。

「詞紀、ちょっとこちらに来てくれないか。」
「はい!」

母様、詞紀はもう大丈夫です。
もう悲しみに沈んだりしません、どんな困難にも諦めたりしません。
どうか安心してください。
母様…愛しています。

そうして私は部屋を出た。
大切な方が待つ、春の陽射しの中へと――

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