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noteを書こうという淡い決意

noteを書こうかなと思い立ちました。

言いたいことは終わったので、ここからは蛇足。この文章も思い立ったままに書いているので長いですごめんなさい。
結論ファーストがいいってよく言うじゃない。

きっかけ

きっかけは大きく2つ。

ひとつは、留学をしてアカデミックにがんばっている方のnoteを読んで、何かを掻き立てられたから。
負けてらんない的な。すでに圧倒的に敗北はしているんだけども。

もうひとつは、今学期がこれまでの大学生活で最も暇なこと。
正確には、喫緊の課題に追われていないということだ。決して暇をしていいような本の積まれ方じゃないし、やりたいことを妄想すると、やらなければならないことで溢れている。

哀しきかな、やる気が出ない

とはいえ、だ。私は「やらなきゃ」「やるべき」があると、やる気が消え失せる体質なのである。

私という人間を語る上で欠かせないこの観点について、少しだけ自分史を紐解かせていただきたい。

私は、北海道の田舎に生まれ落ちた。
2歳でもっと田舎に引っ越した。
母曰く、田舎に来たのは受験競争の喧騒から距離を取るという意図もあったらしい。これについては感謝が絶えない。

ご想像の通り、特に勉強で競争する環境ではないし、その気もなかった。
というよりはその考えに至ることもなかった。
ずっと野球とスケートをしていた。坊主頭だった。

首都圏育ちの母は、さすがにまずいと思ったのか、小学校中学年くらいから「少しは勉強したら?」と言うようになってきた。
どこで親が失敗したのか、あるいは成功したのか知らないが、私は意に背く指図を受けるのが嫌だった。
どれくらいって? 冷えてしなしなになったナンくらい。

よくある悪循環である。

母:「勉強しろ」
おれ:「はい」
 (部屋でこっそり友達から借りたゲームをする)
 (部屋にこっそり母が来る)
怒りを表に出さない母:「何をしているのかな?
おれ:「こ、これは兄の部屋にあったもので、なんか面白そうだなと思って見てたんだ!ついさっき見つけたとこ!(嘘)」
 (ゲームを没収される)
賢明な母:「自分で計画を立てて、それを守るならゲームしてもいいよ。30分勉強したら15分ゲームしていいとかさ」
おれ:「はい」
 (計画をプレゼンするのが面倒なのでまたこっそり借りる)
- ダ・カーポ

ちなみに兄もこんな感じ。血は争えないらしい。

高1くらいまでこの調子だった。
高校受験する時は、聡明な母は言っても無駄なことに気づいたのか、それとも諦めたのか、何も言わなくなっていた。

高1の後半くらいから、ちょっと勉強が楽しくなってきた。
受験期は「受験のための勉強なんてクソ」という調子に乗ったマインドだった。おかげで勉強は楽しかった。

「やりたい」勉強はできるようになった。「やりたい」範囲は広いので、勉強好きなんだなって最近思い始めた。
これまでの人生で、勉強モチベの描く線はゆるやかな正の傾きの一次関数くらいだ。

しかし、「やるべき」勉強ができない。
この文章を書いている今も、昨夜の計画ではロシア語の文法書(あと10ページほど)を終わらせ、優雅に『ゾミア』を読んでいるはずだった。

寝台列車で枕にしたら、首がバキバキになった。

「やるべき」とはいえ、それは「やりたいこと」の手段なのだから、できて然るべきだと思う。
そう思うと、それは本当に「やりたいこと」なのかという疑問も禁じ得ない。

それでもやってみようと

それでも、という少々気持ちが出てきた。ついさっき。

モチベーションや勉強法(大学受験期に好きでよく見たり読んだりしていた)の話では、「宣言すべし」という黄金律がしばしば語られる。
それに短絡的に乗ってみようじゃないかという話であります。

本や映画の感想なり、ふと思ったくだらないことなり、長いにしろ短いにしろ、何かしらを。誰かに宛てたものではなく、完全に自分のために書きます。
頻度は、あまり決めたくない。「べき」になるから。
まだそんなこと言ってら。

最低でも2週間に一つくらいは書きたいですね。下手な鉄砲でも。

2023年12月22日。今日は冬至。
ちなみに、私の1番好きなアーティストはゆずだ。

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