見出し画像

コンテクスト(文脈/状況)を再構築する2【ユーモアは、人生の出来事から距離を置き、それを新たなコンテクスト(文脈/状況)に当てはめてみるための手段です。】

下の記事の続きです。

「I<わたし>真実主観性」432ページ~443ページです。

【Q:今の説明は哲学的に聞こえました。】

A:まさにそうです。哲学的見解は、より拡大された意味のコンテクスト(文脈/状況)から生まれます。そしてそのような見解は、それよりも狭い視点を解決に導き、哲学的抽象概念のコンテクスト(文脈/状況)自体を段階的に明け渡すことを可能にします。また、以前はわからなかった立ち位置を明らかにします。哲学的見解のもうひとつの利点は、非個人的な色合いが強いため、より楽に反省したり手放したりできることです。

【Q:例を挙げてもらえますか?】

A:「議論するに値しない」という表現がわかりやすい例です。この言葉は、争いより平和を優先させたことに加え、勝敗ゲームで勝つ見込みのある事を示しています。わたしたちはいつでもゲームそのものやメロドラマを手放すこともできるのですが、たいていはその選択肢を見過ごしています。「今日は自殺をするべきか映画に行くべきか」という風刺も、それを表しています。

ユーモアは、人生の出来事から距離を置き、それを新たなコンテクスト(文脈/状況)に当てはめてみるための手段です。ユーモアによって気持ちが楽になり、”ゆったりとした服のように世界を着る”ことができます。ユーモアは人生全体を慈しみの目で眺め、鮮烈な生と死の葛藤に巻き込まれることなく、人生と優雅に遊ぶ選択肢があることを示してくれます。

【Q:しかしそれは無関心につながりませんか?】

A:ユーモアは人生を包含し、そこには慈しみがあります。一方、無関心は人生を排除します。ユーモアは参加を許しますが、無関心は参加を妨げます。ユーモアは楽しみますが、無関心は退屈と倦怠感をもたらします。

信念体系ではなく、神に対して情熱を向けてください。それが唯一本物の決断であり、どんな状況においても適用することができます。世界に追随したいのか、それとも「神の真理」と調和したいのか、絶えず問い続けてください。覚醒を求めることは、この世的な成功を求めることとはまったく異なります。

【Q:あなたは、さまざまな性質を個人的特質ではなく抽象概念として取り上げているようですが。】

A:人生をさまざまな性質が相互作用していると見るのは、解放的なことです。そこに個人性を持ち込む必要はありません。立ち位置はプログラムであり、真実の自己ではありません。世の中は数限りない地位や立場を呈示していますが、それらは恣意的な仮定にすぎず、まったくの虚構です。わたしたちはそれに同意することなくただ観察し、世の中が其れをどうとらえ、それにどのような価値を置いているのかを尊重することもできます。わたしたちは世の中の見解を十分理解したうえで、そこから自由でいることもできるのです。

しい‐てき【恣意的】
〘形動〙 気ままな、自分勝手なさま。 自分の好きなようにふるまうさま。 論理的な必然性がないさま。

コトバンク

また、わたしたちには、ある性質や立場に同意する自由も与えられています。それが完全に自由意思に委ねられていることを認識することが大切です。すべての立ち位置は自発的です。霊的探究が進むにつれて、より原初的で公理的な立場に対面することになります。やがて信念体系や思い込みが明かされ、最終的に自律的で独立した自己の真理そのものが考察の対象となるでしょう。あらゆる信念体系を分解することによって、次のような問いに行き着きます。--その立場に固守しているのは”何か”、それを信じているもの、選択しているものは何か、そしてそれに管理されているものは何か。成長が進むにつれ、主要な自己の感覚は、精神活動の操作センターと一致するようになります。

わたしたちが”誰”と思っているものが、実は”何”である想像してみてください。突き詰めていくと、それは単に機能であって、まとまりのある独立的な存在ではないことがわかります。それは信念体系であり、すべての性質は自律的に働いているのです。思考や感情はおのずと起こっています。さまざまな形態の精神活動は何の断りもなく、ただ自発的に起こります。”わたし”という独立した自律的な存在は仮定にすぎません。人間の機能を司る操作センターを含め、あらゆる活動は自発的に起こっています。この操作センターは、トランジスタ・プロセッサ・ユニットのように、自動的に識別し、分類・仕分けし、記憶し、比較し、評価し、整理し、記録します。そしてこの中枢ユニットが”わたし”であることに同意し、それと同一化しているのです。すると今度はこのユニットが、非難や賞賛、恐れ、生存への不安や心配の対象となります。よきにつけ悪しきにつけ、そこには感情がつきまといます。また、快楽をもたらすか痛みをもたらすかといった帰結や立ち位置が、自動的に選択に大きな影響を及ぼします。

しかしこれらすべてを理解したとしても、最終的に既知の核心を不可知に明け渡すには、非常な勇気と信念、神に対する信頼が必要となります。そして最後の瞬間には、疑念の残党と存在の恐怖が奥底からわき上がってくるでしょう。そのときに「何が起ころうとも、ただまっすぐ進みなさい」というマスターたちの教えを思い出し、全信頼を託してください。するとその言葉が本物であったことが証明され、最後の大きな障害の向こうに神の栄光が待っている事でしょう。

【Q:どのようにその最後の瞬間に備えればよいのですか?】

A:最後の瞬間について耳にしていること自体、すでに準備が出来ていることを表しています。あなたは、自己の死はすなわち存在そのものの消滅を意味するという幻想を、自ら進んで通り抜けなければなりません。もしあなたが「死は幻想だから、私は信じない」という信条を持っていたとしたら、最後の瞬間に、そのように考えているのは誰かという問いに直面することになります。すると、あなたはそのように考えた”わたし”など存在しないことを発見し、その幻想が溶解するか、あるいは死に対する恐怖に対峙することになります。霊(スピリット)だけが最後の戸口を通過することができるのです。自我(エゴ)は戸口の前に残され、通過することができません。

【Q:その地点において、肉体に関する怖れは生じるのですか?】

A:わたしの場合、それはまったく問題になりませんでした。それよりも”わたし”という感覚の核心が大いに揺すぶられ、恐怖に覆われていました。あたかも存在の根幹が危険に瀕しているように感じられ、自我(エゴ)は無我夢中で、自らの死に取って代わる非存在に抵抗していました。

大きな目で見れば、自我(エゴ)の構造上、その先に何が横わたっているのかは自我(エゴ)には知り得ないことがわかります。自我(エゴ)はどうにかして、馴染み深い”わたし”が残りつつ覚醒できることを願っています。自我(エゴ)は自らが消滅した後にのみ、至高の<わたし>が輝き出すということを知り得ないのです。わたしの場合、古代の賢者たちの「ただまっすぐ進みなさい。何が起ころうとも」という教えだけが最後の非言語的な”知”としてあり、馴染み深い自己のアイデンティティが消滅すると、そこには記憶のないまっさらな意識だけが残されました。すべての支柱が取り除かれた時、「究極の真実」がそこにあったのです。

【Q:では、その真実について話すことのできるものは何ですか?】

A:意識は多重的な能力を持っています。意識は再び話すことを選ぶかもしれませんし、選ばないかもしれません。しかし多くの場合、話すことを選びません。その場合、言葉を発することはありませんが、意識のフィールドに痕跡が残っていますから、後に魂の進化した別の修練者が最後の戸口の前に立ったとき、彼らは知るべきことを突如ただ”知る”ことができます。すべてがはっきりと説明されるわけではありませんが、暗示することはできます。最後の戸口に来たら、全部の荷物を置いていかなければなりません。

【Q:では、わたしたちが最後に明け渡さなければならないのは、自我(エゴ)の核心としての自己ではなく、それに対する執着心でしょうか?】

A:なかなか分かりやすい表現でいいと思います。個人的な”わたし”が存在の核心であり、生命と”わたし”という感覚の源であるという信条に対する執着が問題なのです。どんな妨げにあっても、その幻想を明け渡すことができたとき、”わたしである”という感覚さえも、普遍的で非個人的な<わたし>に源を発していることに気付きます。それはあたかも、日光が自ら光を発していると信じていたのが、後にその光の源は常に太陽本体であったと気づくのと同じことです。この気づきによって、大いなる解放がもたらされます。

【Q:上記の説明には勇気づけられますし、助けになります。】

A:ある意味で、覚醒した師は自我(エゴ)の死から生き残った者たちです。その師たちの言葉は、不確かさの中にいる生徒たちに道しるべとインスピレーションを与えます。真理について語ることで獲得できるものはありませんし、獲得する人物もいません。言葉はただ、「自己」の恩寵として起こります。

自我(エゴ)の核心として”わたし”に執着することは、それが生命の源であると信じることなので、あたかも自らの命を神に捧げているかのようにみえます。安全に自らを明け渡すためには、信頼と確信、そして、すでにそれを体験したことのある人物の言葉が助けになります。ですから、あなたが自らの命と霊的な信頼を託すことのできる教えのレベルを確認することがきわめて重要です。

師にはふたつのタイプがあります。ひとつ目は知的で統合的な教師であり、彼らは真理について学び、正確に伝えることができるものの、その真理の完全な体現は未完成のままです。このような教師は、たいてい200台から500台の上部に位置し、優れた指導者でもあります。この場合、教えられた真理のレベルは、教師の意識レベルによって数値的に異なります。しかし、このような師には偉大な功績があります。というのも、彼らは教えることが上手で、特定の霊的実践方法を指導することができるからです。高度な滑りをすべて体験したわけではないけれども、優れたスキーのインストラクターがいるのと同じことです。逆に、スキーの達人でも、教えることはまったくダメな人もいます。ベートーベンは偉大な作曲家でしたが、偉大なピアノ教師にはなれませんでした。同様に、教える能力に恵まれない覚醒した聖者もいるのです。彼らの短い教えは不可能で、雄弁とは言いがたく、理解するのもたやすくありません。

ふたつ目のタイプは、誰にでも納得できる形で覚醒を解くことができる教師です。なかには、当人はあまり雄弁ではないけれど、師の言葉を理解する弟子たちによってそれが伝えられる場合もあります。

自我(エゴ)の死を生き抜いた師の中には、何年もの間、究極の真実について話すことができない者もいます。ほんのわずかの者たちが世俗に戻りますが、ほとんどはそのような選択はしません。

【Q:覚醒の状態について、また覚醒したいという”個人”に対しても戸惑いを感じています。本当に覚醒した人物は、それを”主張”しないという言い習わしがあります。ですから、覚醒したと言っている人物は勘違いをしているのではないでしょうか?】

A:自我(エゴ)の経験的現実の範囲外の状態を描写するのはたやすくありませんし、また質問者の二元的な現実のパラダイムに由来する問いに答えるのも非常に困難です。覚者とはあくまでもその境地ですから、それを”主張する”ことに何の目的もありません。主張するのは、自我(エゴ)です。現在ではキネシオロジーテストがあるので、どんな状態も確認することができます。

個人的な自己が覚醒したり変容したりすることはありません。ただまったく異なる状態にすっかり取って代わられ、それと同化し、沈黙します。たとえば、映写機のレンズを通ったものを一方から見れば、スクリーンに映る映画を見ることができますが、レンズの反対側から見れば眩しい光が見えるだけです。しかし、レンズそのものの働きが変わったわけではありません。

同様に、影は太陽光線に変化するのではなく、太陽光線がそれに取って代わるのです。自我(エゴ)を影にたとえると、それに取って代わった「自己」の光が覚醒の状態だと言えます。

先ほどのあなたの「本当に覚醒した者は、それを主張しない」という問いに戻りますが、これは「主張しない」ということで、一種の謙虚さを表しているのですが、それはそのようなことを言う人の霊的自我の投影にすぎません。しかし覚醒とは、一切の自我(エゴ)の消滅を意味しています。覚醒とはごくシンプルな事実であり、獲得するものではありません。そのような見せかけの謙虚さを示さなければならないような個人的功績も賞賛もありません。未熟な霊的コミュニティは、”覚醒したとされるグルやマスター”を過剰に祭り上げ、称賛し、カリスマ的な特徴を与えがちです。しかしこれらは投影にすぎません。覚者にとって、その境地はただあるがままの自然な状態なのです。

覚醒の状態は当初、風前の灯の自我(エゴ)にとって、劇的で鮮烈に映るかもしれません。しかし、自我(エゴ)が去った後、ただ平和がどこまでも広がるだけで、何も言葉にする必要はありません。なぜなら、その状態はあらゆる言語を超えているからです。他者に理解してもらう言葉で、その状態を描写するのは不可能です。

わたしの場合、三十年以上もその経験について語ることはなく、その間に段階的に普通の状態に戻る異化能力を身につけ、世の中で機能できるようになりました。その状態を理解できる人はいませんでした。しかし二度ほど、その状態を理解する有名な聖者に会いました。一人はムクタナンダで、もう一人はラメッシ・パルセカールでした。また、ニューヨークの通りで名前も知らない者同士、すれ違いざまに互いの完全で完結した境地を確認したこともあります。

何年もかけて、意識の状態を確認できる方法が徐々に明かされたのです。そしてキネシオロジーの現象が、自我(エゴ)や形の線形領域と、その背後に横たわる非線形的な霊的世界の架け橋となる可能性を見出しました。

歴史を振り返っても、覚醒した聖者は臆することなく自らの境地を伝えました。そのうち、自らの境地を否定したり、覚醒していないふりをするものは一人もいませんでした。ブッダは、覚醒の崇高な境地について語り、それが後に「仏性」と呼ばれるようになりました。また、イエスは自らの境地を「全能の神、天の父であるキリスト」と描写しました。クリシュナは「自己」を「至高」と表現しました。「神の臨在」を認めないことは、「神の十全性と神性」を否定することです。覚醒した者にとって、それは不可能なことなのです。

さらに「覚醒した者はそれを主張しない」という言い習わしについてですが、それは覚醒はごく稀にしか起こらないので、それを主張するのは偽者であるということを暗示しているのかもしれません。何世紀にもわたり、数限りない偽教師が名乗りを上げましたから、あり得ないことではありません。しかし、今わたしたちは意識レベルを明らかにする客観的で証明可能なテスト方法を手にしているので、覚醒も教えの正当性も確認することができます。

偽教師とは、何かを獲得する目的で覚醒を主張する者たちのことで、彼らは名声や称賛や信奉者を欲しているのです。たいていこのような偽者には、熱狂的な信者がついています。彼らの問題については、すでに述べた通りです。

また、未熟練者には期待感があり、彼らは、覚醒した聖者はどこか謎めいた神秘的な雰囲気を持っていて、独特のふるまいをしたり、秘密の印を持っていたり、ひどい場合は、頭や額に瘤(こぶ)があると信じ込んでいます。彼らは、”特別”な姿とたたずまいを持った人物を待ちわび、本物の聖者が基本的にごく普通で仰々しい仕掛けを持たないことを知って、がっかりします。古くからの宗教芸術や聖像を見慣れているので、風にたなびくロープを着て現れる聖者を期待しているのです。しかし実際、唯一本物の聖者を特徴づけるのは、教えの質とその聖者に備わる意識のエネルギーフィールドのパワーです。さらに、目に見えないオーラがあり、師と生徒のオーラが融合しますが、生徒の意欲次第でそれは強まり、意識の成長が促されます。

【Q:”奇跡”とは何でしょうか?】

A:訪問者のカルマが十分に”熱して”いて、高次エネルギーの触媒が顕現することだけが必要であるならば、奇跡が起こる可能性があります。それは聖者の意志や意図によって起こるのではなく、ただ自然に起こります。たいてい聖者自身もそれに気づいておらず、後に、目撃証言を聞いて奇跡を知るのです。しかし、聖者はただそれを、木からリンゴが落ちるのと変わらない程度にとらえます。自然の事の成り行きとして、顕在世界に出現した奇跡を眺めるのです。

癒しもおのずと起こります。真の癒しにおいては、症状が消えたか消えないかはあまり重要ではありません。というのも、本物の癒しは内側から起こるからです。意識は全知の状態であり、肉体を超えています。本当に解放されるのは、必ずしも肉体的、精神的な症状ではなく、それに付随する苦痛です。コンテクスト(文脈/状況)が変容することによって、奇跡は起こります。実際の”事象”は意識のうちにあるので、苦悩する人の意識が変容することで自然治癒が起こるのです。それが外部に現れることもあれば、現れないこともあります。

【Q:本物の聖者は、「わたしは覚醒している(I am enlightened)」と言うでしょうか?】

A:この問いは、より深い理解を促します。答えは、いいえです。その言葉にはいくつかの誤りが含まれています。「~である(am)」と言った時点で、すでに究極の真理から分離しています。それは、”~であること(being)”や”~である状態(is-ness)”と同じく、自動詞的です。また「覚醒した(enlightened)」という言葉は、新たに追加された特質や属性の意味合いを帯びてしまいます。一方、「究極の真実」の<わたし>とは、「自己」のアイデンティティであり、完全かつ 完璧な声明です。「わたしは~である(I am that)」の「am」も「that」も余分で誤解を招きます。実際には、覚醒は状態や視点ではないと同時に、その両方でもあるので、覚醒について正確に表す言葉はありません。

猫は百%、猫です。猫には「猫」という言葉もいりませんし、自分が”猫”だと知る必要もありません。「猫」という単語は言語上の発明品であり、実利的な価値があるのです。自己存在や自己完結、自己アイデンティティの真実は、猫が猫であるように、すでに完成しています。

覚醒とは、単に猫のようにあるだけです。その事実だけで完全で完璧であり、新たに追加された状態ではありません。それは筋違いの承認も確証も必要としないのです。

「覚醒(enlightenment)」という単語は意味論的に正確です。というのもこの言葉は、自らの本性が「自己」の光であり、それが内側から気づきとして、そして深遠な自明の「真実」としてわき起こってくることを認識し、悟ることを意味しているからです。

【Q:覚醒の可能性を認めようとしない人は、疑いが妨げになっているのでしょうか?】

A:とても重要な指摘だと思います。確証を得るための現実的な疑いというのもあり、それは合理的で知恵の一部です。

しかしながら、病的な懸念と呼べるものもあり、それは肥大化した自己陶酔的な自我(エゴ)の表れです。当人は自らの虚構の全能性が「真実」の潜在的可能性によって否定され、挑戦されているように感じるのです。時としてそれは、深刻な精神障害を招き、憎悪や恨みなどの誇大妄想を生じさせます。

わたしたちは平等と平和、霊的な真理を生きた多くの偉大な指導者が暗殺された史実を認識しています。イエス・キリスト、マハトマ・ガンジー、エイブラハム・リンカーン、アンウォール・サダト、マーティン・ルーサー・キング、ジョン・F・ケネディなどがそうです。このように多くの有名な指導者の暗殺に加え、未遂に終わった事例もたくさんあります。(ローマ法王暗殺未遂事件など)。先のような病的な妄想に取りつかれた人物は、言うなれば潜在的に神に殺意を抱いているのであり、自らの肥大化した自己陶酔的な自我(エゴ)が神より偉大であることを証明したいのです。また、歴史上の偉大な芸術作品も狂人の攻撃にさらされました。「ビエタ」などもそうです。さらに、ある砂の彫刻家は「最後の晩餐」を創作しているとき、夜中に何者かに破壊されるために、何度もイエスや使徒の頭を作り直さなければならなかったと言います。彼は最終的に修復をあきらめ、すべてを壊してしまいました。

美を汚したいという欲望は、落書きにも見ることができます。世の中には美を憎み、美を汚すことに喜びを感じる者がたくさんいます。--幼児殺人などもその一例です。また、連続殺人犯は女性の美を憎み、手足などを切断することでその美を冒瀆しようとします。無差別殺人犯やどんな種類の殺人者であれ、神の権威を否定しています。妄想が膨らんだ精神病質者は、指導者たちやこの熱狂者の自我(エゴ)を脅かした人物たちにとって、最大の脅威となります。

有名な霊的指導者たちは、”死ぬかどうか見てみたかった”という理由で毒を盛られました。ときにはこうした狂人的な行為が政治にまで及び、オクラホマ連邦ビルや、世界貿易センタービルの爆破事件が起こりました。その規模が大きければ大きいほど、より民間の注目を浴びることで攻撃者は快楽を得るのです。嫉妬深い誇大妄想者は、(自我(エゴ)の根底において)自らが神より優れていることを証明したいのです。低次アストラル界にはこうした存在がはびこっています彼らは神の主権を憎みます。というのも、それが自らの肥大化した自我(エゴ)の主権や正当性を脅かすからです。

悪とは神の対極ではなく、神の否定にすぎません。虚偽が真理の対極ではなく、その否定であるのと同じことです。自己の神格化は神性には向かわず、病的な誇大妄想や宗教的な狂言を招きます。

最後まで読まれたあなた!さすが75です。(75は、数霊/かずたまで、さすが=さ(11)す(13)が(51)=75です。)

今日は、12/28 KIN119で、あと4日で、2022年を迎えます。2022年は、宇宙人とのファーストコンタクトが起こるように、人類の意識をさらに上げ続ける必要があると思っています。われわれは、創造主(神)の無条件の愛のパワーを使える力を持っています。それが、非個人ということであるのでしょう。筒となって、愛が基盤の気づいている心の立ち位置で、それぞれの得意な事を、愛、喜び、平和、純粋な意志のエネルギーで、実践していきましょう。

実践すればするほど、自我(エゴ)が同一化しようとしてきます。一歩ずつ、やっていくしかありません。気づいた人から、お互いの能力を引き出すことをやって、この地球を、ただただ愛の光のみの地球にしましょう。

地球人類の集合自我(エゴ)に光をあてていきましょう。

やればできる! ティモンティひさのり


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?