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第10章 神の本質【宗教は、神を理解することは普通の人間には不可能だということを前提にしています。】

とても難しそうにも見えるタイトルですが、知らないことを知りたいという探究心や、優しい世界を創りたいという気持ちや、探し求めているものを見つけたいという気持ちで、読める人は読める、読まない人は読まない内容です。是非、ベストタイミングで読んでみてください。

※2022/10/18追記 耳で聴いて学習 第10章 神の本質ができました。

『I<わたし>真実と主観性』P216~P222

歴史を通して人類は、「神の意志」や「神の言葉」、「神の法則」、「神の掟」について耳にしてきましたが、これらの言葉は往々にして、希望というよりはむしろ恐怖をもたらしました。ですからわたしたちは、人類が実際にどのように神の真実について知るに至ったのかを調査し、その中で何を信じ、証明することができるのかを検証していきたいと思います。

伝統的に、神に関する知識は、啓示や啓発、インスピレーション、内観の他に、思索や演繹から得るというのが主な方法でした。神学は特殊な宗教研究であり、人が神に対する理解を知的に発展させたものでした。

神学とは主として、知が生じ、認識論や形而上学的な哲学に融合していった要素を歴史的に検証するものです。したがって、あらゆる形式の知に不可欠な基本的要素が、分析と思索の焦点となりました。

形而上学(けいじじょうがく、英: Metaphysics)は、基本的な哲学の仮説を批判的に考察し,存在するものはそれが存在するかぎり何であるかを明らかにしようとする哲学の一分野。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

宗教は、神を理解することは普通の人間には不可能だということを前提にしています。まして、神の真理を経験することなど到底あり得ないわけです。こうして歴史的に、宗教が、「神性」の本質について知ることのできる民衆の主な情報源となりました。

あらゆる宗教の真理は、神秘家の気づきから生まれたものです。そしてその神秘家たちこそが、宗教が創立する起源となったアバターたちでした。彼らは一様に神を悟った霊的な天才であり、自らの経験と情報と知識を人類全体のために分かち合いました。彼らの覚醒のレベルを、前述のテクニックを使って測定してみると、下記のような値が出ました。

キリスト   1000
ブッダ   1000
クリシュナ   1000
キリストの使徒   930
モーゼ   910
ゾロアスター   860
ムハンマド(コーランを記した当時)   740

『I<わたし>真実と主観性』P217

ここに挙げた以外にも、歴史上のすべての偉大な覚醒した教師やマスター、聖者や聖人たちの真理を理解すると同時に、当時の神聖な経典や教えの信憑性を測定することができます。わたしたちは信頼できる情報のまさに核心にたどり着いたのです。それは、あらゆる人種や民族、宗教的境界を網羅した交差的な検証法であり、何世紀にもわたって、まったく異なる文化を測定しても、一致した結果を出しています。

集合的に見てみると、「神性」の本質について記された検証可能で信憑性の高い経典はどれも驚くほど共通しており、相互に関係もしています。そこには、あらゆる知識の上に君臨するとも言える、減じることのできない真理の礎が姿を現し、現代ではこれが、近年発見されたツールによって検証可能となりました。そのため通常の知力があれば、現代人の誰もが、理解できるような方法で教えを把握し、伝え、示すことができます。わたしたちは今、論理的で検証も可能な現代版の神学を手にしたと言えるでしょう。

ここで、「真理」とは証明可能なものではなく、また、証明の対象ともならず、「論理」の主題のように、測定可能な知識のカテゴリーに属しているものではないと認識することがきわめて重要です。真理とは、唯一主観的に体験することによって実証可能なのです。”証明可能なもの”とは単なる命題にすぎませんが、例えば空間のような実在のものは、”is(在る)”状態なので、ここに議論の余地はありません。わたしたちは記述に対して挑戦することはできますが、主観性という真実に対しては無力です。

霊的な知識に関する検証可能で信頼のおける資料全体の中から、わたしたちは究極の真髄を抽出することができます。それは、完全に信頼できるものの核心をなすもので、あらゆる立ち位置や損得勘定を超えています。こうした経典の言葉の起源とも言える、主観的真実の源と、歴史を通じての人類の霊的な体験から、絶対的確信をもって以下のことを提示することができます。

1. 神は、「創造」の「全体性」、「十全性」として顕在し、同時に、「至高の神」、「無限の潜在的可能性」、有形の前の源、あるいは"虚"として非顕在である。

2. 神は、時間やあらゆる空間の表現や所在を越えて無限であり、始まりも終わりもない。

3. 神は、全知全能にして遍在である。

へん‐ざい【遍在】 の解説[名](スル)広くあちこちにゆきわたって存在すること。「全国に―する民話」

goo辞書

4. 神は、源であり、意識、気づき、知、直観の礎である。

5. 神は、生命エネルギーの唯一の源である。

6. 神は、進化と「創造」の源であり、両者はまったく同一のものである。

7. 神は、平和、愛、静寂、美の源であり、そのあらわれである。

8. 神は、すべての宇宙と物質を超越していると同時に、「存在するものすべて」の源である。

9. 神は、存在とその潜在的可能性の唯一の源である。

10. 神は、究極のコンテクスト(文脈/状況)であり、宇宙と万物がそのコンテント(内容/中身)である。

11. 神は、あらゆる形に内在する先天的な、存在の無形の源である。

12. 神は、知性や証明可能な領域に属していない。

13. 神は、"I-ness(<わたし>である状態)"の主観性の源であり、本質であり、それが覚醒と呼ばれるものである。

14. 神は、「自己実現」という根源的な主観性である。

15. 神は、記述的に言うなら、内在的で超越的である。

16. 人類が経験する「神の臨在」は、年齢、文化、地域を問わず共通している。

17. 「神の臨在」を人間の意識が経験すると、主観的な変容が訪れる。それは人類史上、共通の現象である。

18. 神の本質は、人間の欠点を含んでいない。欠点とは、欠乏感や支配欲、偏愛、二元的な物の見方、価値判断、憤怒、義憤、恨み、制限、恣意性、虚栄心、復讐心、嫉妬心、報復心、脆弱さ、局部性などである。

19. 「神性」の表現がバラエティに富んでいるのは、無限にある人間の知覚や、自我(エゴ)とその立ち位置の障害を反映しているからである。

20. 「神の臨在」の純粋性は、伝統的に神聖さという、言葉では表現できない特性の本質であり、わたしたちが「聖なる」と表現するものの源となるものである。いかなるコンテント(内容/中身)も含まないそれは、「無垢さ」と同一のものである。

21. 人間の思考や感情、あるいはその根底をなす自我(エゴ)の構造という障壁を超越することができれば、内在的な神としての「自己」がおのずと立ち現れる。それは、雲が過ぎ去った後に太陽が輝くのと同じである。

22. 神は、コンテクスト(文脈/状況)であり、あらゆる「創造」のカルマ的統一性の源となるものである。それは、あらゆる知覚的な描写や時空の制限を超越している。

23. 真理は、それについて知ることによってではなく、同一化することによってのみ実証可能である。

「神性の真実」に関する上記の声明は、二〇〇三年七月一三日(KIN141)に、公衆の面前でその信憑性が絶対であることが確認されました。調査は、二百人以上もの観衆の前で、公開講座の最中に行われたものです。観衆は百人ずつのキネシオロジーテストのチームに分かれ、同時に全員で、各声明の真実性をテストしました。そして結果は百%「正」となり(測定値1000)、その工程はビデオに収められています。このテストを実施した目的は、「真理」に関する確かな情報を現代に提示することであり、現代人が懐疑的に見ている歴史的な記述や聖職者の権威に依存しなくても、検証可能なテスト法があることを紹介することでした。

伝統的に自己実現とは、啓発、あるいは超越的な気づきであり、あらゆる障壁がなくなったときに、「恩寵」によって人間の意識がその本質を理解できるというものでした。しかし、悟りや啓発の目撃者は、それがただ起こったことしか告げることができません。奇妙なことに、その時点では上記のような”意味”はありません。重要性や結論は後になって導き出されるのです。

おん‐ちょう【恩×寵】
1 神や主君から受ける恵み。慈しみ。
2 キリスト教で、人類に対する神の恵み。

デジタル大辞泉

人間の意識というコンテント(内容/中身)の全体性に光が当てられてはじめて、意識のレベルの行き先と起源が明らかになります。それは地図によって、ある道路がどこに行き着くのかが明らかになるのと似ています。したがって、聖者やアバターはさまざまな方向性がどこに行き着くのかを指摘しているにすぎず、それは物理法則で言えば重力のように確実な絶対的カルマの法則や「創造」の神性に従っているのです。

次に聖者は、「創造」のカルマの法則が自我(エゴ)のあらゆる幻想や過ちに取って代わることを確認します。霊的な教えが伝えるメッセージは、肉体がニュートン的な線形的な物理法則に基づいているのと同じように、霊的な身体が非線形的な霊的真理の法則に基づいているということだけです。そして、このふたつはまったく異なっています。人間の意識の進化が初歩の段階にあるために、アバターや神秘家や聖者は、ふたつの領域の違いを教えるために啓示を受けたのです。

人間の生命は、段階的なプロセスや次元を象徴しているかのように見えます。というのも、生命としての意識が細胞という最も単純な生命エネルギーから形を持つまで精緻化し、動物王国を経て霊長類になるまで進化を遂げ、さらに知力も発達することで理解力が生まれたからです。そしてさらに知性が育つことによって、探究したり意味を理解したりするようになり、形からその本質を抽出できるようになります。それが、コンテント(内容/中身)に対するコンテクスト(文脈/状況)です。そしてコンテクスト(文脈/状況)から源について推測したり、探究したりする霊的な気づきが生まれます。

動物は知ったり、愛情を持ったりすることはありますが、自らの源や運命について何の知識も持っていません。一方、霊的な聖者とは、源を発見する意識レベルに至ることによって現れるものであり、発見したことを全体の情報として伝えます。その霊的な情報によって、肉体が滅びた後に魂の運命はどうなりうるのかが明かされるのです。

このニュースを耳にした人類の中には、嬉々とする者もいれば恐れおののく者もおり、彼らは権威主義者となります。そしてグループを結成し、なかには独自の奇妙な体験を告白する人物が現れてくることもあります。そうした人物たちはグループから脱退して、明かされたことについて独自の解釈を始めます。彼らはさらに、自らの声明を”ルール”や”規則”、あるいは権威ある宣告とし、それらが後に”教会法”や”法律”、宗教的教義となるのです。

こうしたずれは、不適切なものに過度の重点を置くことによって、やがてその教理の元である真理を曇らせ、失墜させてしまいます。ひどい場合は、著しく内容を歪め、原本とは正反対の主張をしていることさえあります。神の名のもとで、罪なき人々や異教徒やアメリカ人を殺すのはその最たる例です。

意識の純粋さは、同時に弱点でもあり、霊的真理に背くエネルギーの攻撃に対して防御する術がありません。人類が入手できる検証可能な霊的情報を調査した結果、あらゆる「創造」のカルマ的な統一性は、時間や表現を超えて、その顕在において不変であり、わたしたちが神と呼ぶ統一性と完全に調和していると結論づけることができます。

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