見出し画像

自分の意図して作り出した世界観が他者に作り変えられてしまったら

ここ数日、上記の原作問題ニュースに心を奪われている。

しかし、どんなにニュースの文字を追ったところで、当事者じゃない自分が全てを知ることはできない。怒りが湧くというより、ただただ悲しいなという気持ちではある。


ここから先は自分の話

これはあくまで自分が何かを作り出す時の話だけど、
その動機には「世界への伝わらなさへの憤り」が少なからずある。

こういう考え方、こういう世界観が世界には必要なはずだとまず考える。でも、その考え方は現状の世界にほとんど存在しないことが多い。だったら、自分で作り出すしかない。ゼロからそれが出来上がった世界とその変化を、自分以外はイメージできない。多勢に無勢だ。

イメージを伝えるために自分の手で何かを作り始める。絵だったり、映像だったり、文章だったり、組織だったりする。少しづつ伝わることもあるし、全く誰にも伝わらないまま終わることもある。

とにかくゼロから何かを伝えるために作り出すというのは、最初の慣性も強く、回り始めるまでがとにかく辛い。本の中でたまに、手押しの歯車に例えられるが、孤独だし、何のためにやっているの?と言われるし、説明しても理解されないし。エネルギーは未来の妄想とそれをどれだけ自分で信じることができる力しかない。

奴隷が回す謎の棒

少しづつ回り始めた歯車をリスペクトのない誰かに作り変えられてしまったらどうだろう。多分僕だったら心が耐えられないと思う。唯一のエネルギー源だった未来が、意図しない形に書き換えられてしまうから。

自分の作り出した世界観を広めるために、自分以外の手を借りるタイミングがいつか来ることは理解できる。

だから、手を借りる役割になった時に、人を見極めるもしくは見極めることが得意な人と出会うことは必須だと思う。そして自分が手を貸す役割になった時、いかに相手をリスペクトできているかが重要になるんだろうなと思う。


なんてことを考えたここ数日でした。

読書人口を増やす、読書を楽しく語り合う場所を作るために読書会を運営しています。 活動に賛同いただける方いらっしゃいましたらサポートをお願いいたします。 いただいたサポートは読書会の活動に使わせていただきます☺️