自分の狂気
「私は貝になりたい」(橋本忍監督)という映画の中で、主人公の兵隊(もともとは床屋さんだったと思います)は、木にくくり付けた捕虜を突き殺すことを強要されます。それは人殺しに慣れるための訓練なのでした。この作品は1959年に公開された日本映画の傑作で、フランキー堺主演。
絶命した米兵の姿はむろん哀れです。しかしぼくがそれ以上に哀れを覚えたのが、無理やり人殺しにさせられた、フランキー堺演ずる人の良い床屋でした。戦争の本当の悲惨は、人から殺されることではなく、人殺しにさせられることにある──ぼくはずっと、そのことを考えてきました。
「死刑でもはなはだ不十分」。一昨年の6月に大阪池田市で起きたいわゆる「校内児童殺傷事件」の遺族は、論告求刑公判の後でこのようなコメントを発表しています。むろんその通りでしょう。犯人を百回突き刺したところで消えないだろう深い憎しみ、癒されることのない悲しみ。
しかしここでも、この事件の本当の無惨は、ごく普通の心やさしかろう人々に消しがたく埋め込まれたどす黒い憎しみにあり、高邁な教育者であるに違いない池田小学校校長の口から発せられた、「死刑」というおぞましい言葉の中にあるのです。
人を真実苦しめるのは、他人の狂気ではなく、自分の狂気だ。(2003.05.22)
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