るろうに剣心実写TheFinal 感想とか考察とか

とりあえず申し上げたいことはシンプルにこのふたつ。

(1)なぜ実写の剣心は贖罪の答えを出さなかったのか=主演氏&監督の嗜好と大人の都合が同じ方向だったからなのでは
(2)原作ファンは改変を悲しんじゃいけないのか=原作の剣心とはキャラクターが違うんだから悲しくて当たり前だった

かなりドライな内容です。Beginningまでもう少し様子を見たい方や、主演氏のファンの方は読まない方がいいかも知れない…すみませ…先に謝っておきます。

さて、初日に実写Finalを観て以来「実写はなんであんなことになっちゃったのか」を考えて考えて、気がつくと考えてしまっていて、先日ようやく自分なりのゴールに辿り着いたので、今は本当の良い意味でスッキリしています。いやーーたどり着いてしまえば実にあっけない答えでした笑

なんでこんな単純なことを考えるのに何日もかかったんでしょ…とはいえ人間の脳みそって無意識に自分を傷つけることは避けようとする造りになっているので。なので考えていく中でも、少しでも希望のある、救いのある要素をかき集めたいと思ってしまうのですよ。

しかし冷静に与えられた情報を並べてみたら、身も蓋もないほど明確に、確固たる意志を持って原作が改変されていた事に気づいてしまい…この過程を経てああなったなら、もうしょうがないわ…と、逆にスッキリしてしまったという、そういうお話です。
(あくまで個人の感想&考察です)

◆主演氏の剣心にかける思いと方向性

まずは10年間、剣心を演じてくださってお疲れ様と申し上げたい。あの顔・あの体格で何よりあの身体能力を備えた貴方が役者をお仕事に選んでくださって本当に良かったです。きっと真面目でストイックな方なんですよね、本当に命がけでアクションにも挑んでいただいて、心底からキャラクターの心情とシンクロしようとしてくださった。原作ファンとして、ここまでの意気込みで演じていただけたらもうそこは「ありがとうございます」しかないです。

ただその~~、同時に主演氏ご本人も原作およびアニメのファンであらせられたわけですが、映画づくりにあたっては「もうちょっとフラットな視点で原作見てくれてもよかったんじゃないですか??」という思いが拭えない。

いやね、ファンならありますよ誰でも、このキャラがお気に入りだとかこのシーンがどうしても好きなんだとか。100人いれば100通りの好みや解釈があるわけですから。主演氏は巴が好きで原作では追憶の章が好きで、追憶の章をふくらませたOVA追憶編が大好きなんですよね?でもそれは「ファンとしての気持ち」で大切にしまっておいていただいて、お仕事にあたっては客観的に見てバランス良く原作の要素を拾っていただきたいわけですよ。

だって自分の願望を押し通して、その結果原作の主人公を改変しちゃったら、それ素人が思い込みで作った二次創作と変わらなくね?

各インタビューおよび実写パンフレット(※1 ←本文の後に引用を掲載しています)によりますと、主演氏におかれましては脚本を読み込んで自分なりに演じるという一般的な役者の枠を超えて、脚本の段階から全体的な構成や、現場ではクライマックスのセリフまで「剣心と同化している」つもりで自ら考案してプレゼンしてしまう域に至ります。

つまり自分の中から「剣心としての俺が考えた最高の剣心」をひり出して、シリーズ作品の主演であるという立場を利用して(←敢えてこう言わせていただく)作品に落とし込んでしまったわけです。

(パンフレットは有料のものなので長々とはやめておきますが少しだけ)引用しますが、実際パンフレット内のインタビューでは
「剣心というキャラクターに対して自分の中で理想がありましたし」
と語っている。また、
「剣心がどんな時にどういうことをするのか、わかるんですよね」
とまで言い切っている。
でもそれってある意味本人の願望込みの思い込みなわけで、もっというと「剣心ならどうするか」が転じて「俺ならどうしたいか」というアプローチから生み出された剣心なわけで、客観的な視点が大きく欠けているのではないか。
それは純粋な「緋村剣心」ではなくて、もはやキミなんじゃないのかね…と思ってしまうのです。私は主演氏のファンだったはずなのですが、同時に原作もとても大切に思っているので、これはさすがに実写主演としての立場を利用してキャラクターを私物化されてしまったような気持ちになってしまい…正直モヤつきます。

特にクライマックスに関しては、パンフレットでご本人が仰っていたようにBeginning撮了直後のテンションでひり出された「俺の理想の剣心」が反映されているわけで、原作の剣心にあったはずの「巴を亡くした15歳からの14年分の経験や成長」と、「神谷道場に流れ着いてからの、薫や仲間との心の交流がもたらした剣心自身の大きな変化」がすっぽり抜けてしまっているのです。巴を亡くした15歳の悲しみを昨日のことのように引きずりながら、29歳の剣心を演じてしまった。

そもそも今作って「贖罪の答えを出させるためにどんな手順を踏んでいくか」というアプローチでは作られていないのですよね。なぜなら「俺こそ真の剣心」であるところの主演氏が「剣心ならここで贖罪の答えなんて言えるわけがない。原作では言ってたけど。僕としてはそれは正しくないと思うので変えておきますね」とまで考えてしまったから。そして監督も作劇の都合上「贖罪の答え」を必要としていなかった。さらに本作Pら制作サイドとしても「贖罪の答え」があったら都合が悪かった。そんな三者の思いが一致して、今回の映画が出来上がったのではと思っております。以下、監督に続きます。

◆基本的に役者が演じたいものを尊重する監督の「撮りたかったもの」が主演と一致していた

長々と主演氏の話をしましたが、でも、映画をまとめるのは監督の仕事なわけですから、そういうところ込みでうまく物語のバランス取ってくださいよ…と思ってしまいます。

さて、公開前のインタビュー(もう映画誌などあちこちで量が多いので特に引用しません)で監督は、今回の最終章では「Beginning」が自信作であり、元々シリーズで最も撮りたかったものはこちらであると語っています。追憶の章に思い入れのある主演氏の嗜好と一致しているわけです。

実写るろ剣でもリアリティにこだわって来た監督なので、エンタメとしての「Final」よりも、よりリアルな時代劇として描きやすそうな「Beginning=OVA追憶編」に力を入れてみたくなる気持ちはわからんでもないです。でも、実写は今回がファイナルなので。シリーズの途中で好きなものを挟んでくれても「ああ監督はるろ剣のソコが好きなんですね、へえ~」で納得できますけど、何度も言うけど今回がファイナルなので!!主人公・緋村剣心の原作(無印)でのラストをぼかさずちゃんと描いてほしかったのです。いや描くべきでしょ!ファイナルなんだから!

さらに今回良くない方に作用してしまった(と、私が思っている)監督の撮影スタイルとして「役者の感性や現場での気持ち」を尊重するというのがあります。(※2)
たしかに、大河・龍馬伝の人斬り以蔵(佐藤健)の「涙ポロリ」みたいな素晴らしい奇跡はこんなスタンスの監督でなければ生まれなかったのかもですが。しかし想定外の涙ポロリくらいなら良いですけど「原作では本当はこういう結末だけど、僕はこういう解釈だから原作とは違う方向性にしたいんです」までのんじゃダメでしょうがと私は言いたい。

今回は監督も主演氏と同じ意向で進めたかったようなので、本来あるべき「そんな改変して大丈夫?」という議論が十分行われなかったのでは(多少はあったでしょうけど)とも思っております。監督も主演氏も「原作とは違う剣心を描く」という明確な意思があって、さらに監督は「原作ファンも文句言わずにこの内容を認めるべき(意訳)」とインタビュー(※3)で語っているくらいですから「原作のラストをいかにして描くか」という方向の試行錯誤は、脚本づくりの序盤で切り捨てられてしまったのではないでしょうか。

そう考える理由として、パンフレットからはこんな情報も拾えました。

◆ワーナー的に「元人斬りの主人公が前向きに新しい人生を生きる」のは抵抗があったのでは

ふたたび少しだけ本文中で引用させてもらいますが、パンフレット内で小岩井Pは「復讐される側が主役の映画は、これまでなかったんです」と語っています。それだけなら「へえ~そうなんですか」という感じですが、彼はさらに「復讐される側が主人公である映画は、果たしてエンタメとして観ていて気持ちのいいものになるのだろうか?」という懸念があったともいうのです。

これってどういう意味なんでしょう。
A)復讐される側の主人公がずっと責められて、謝罪し続けるのを見て観客は楽しいのだろうか
B)復讐される側の、つまり謝罪すべき主人公が被害者を前に「こう生きたい」って宣言しても良いのだろうか

どっち?パンフレットの内容だけならどっちとも取れます。

ですが、最終的にAの方向性で映画が完成していることから、Bを描いてしまう事に対する懸念があったのでは、と想像できます。
しかし原作のラストは、はっきり言ってBです。

原作ラストで「剣と心を賭して闘いの人生を完遂する」という、つまり「剣を持てなくなる限界まで闘い続けてその中で死ぬ」ハードモードの生き方を選択した剣心ですが、いっぽう「薫と結婚して息子も生まれる」という幸せも得ています。もしかしてその「幸せ」を得ることが、謝罪すべき側の人間としてふさわしくないとか?

私の感覚では原作のラストってカタルシスの塊なんですが、小岩井P的には違うのでしょうか。なんだろう、海外でのヒットも視野に入れたいワーナーとしては様々な価値観でリスクマネジメントしなくてはいけないとか。うーんわかりません。

しかしもし監督や主演氏に原作のテーマを尊重する意思があったなら、おそらく初期の段階で話し合って、違う着地点を探したはず。どうすれば観客が納得いく形で「贖罪の答え」まで持っていけるのか、それに必要な要素を積み上げるための作劇になったはずです。でも、そうはならなかった。

◆しかしこれだけは言いたい

剣心の人斬りを責めるのは、戦争から帰還した兵士を「人殺し」と責めることと同じ。巴を斬ったことも不幸な事故として描かれています。きっと剣心は「巴が生きていてくれたら」と何度も思ったのでしょうが、いかんせん斬ったのは剣心本人なので「生きていてくれたら」という思考そのものにも罪悪感が生まれたかもしれない。それはまるでトラウマがトラウマを再生産するような、地獄のループです。

しかし剣心本人が自分を責めるのは分かりますが、ほとんどの読者はそもそも剣心を人殺しだと蔑んで見ていたわけではないのです。もっと自分を許してあげてもいいのにと思いながら、そんな誠実で不器用な剣心の物語を追ってきた。

だから薫や仲間と心を通わせることでもたらされた「剣心の前向きな変化」を喜びをもって受け入れることができて、だから原作のラストで「贖罪の答え」に至り「過去(巴)に別れを告げ」て、未来へ一歩踏み出した剣心に快哉を叫びたくなるのです。

たとえ剣心が自分を許せなくても「るろうに剣心」の物語が好きな読者や観客は本来、剣心を許して背中を押すポジションにいたはず。正しく「剣心」を描いていたなら、たとえ剣心が過去に人斬りだったとしても、人斬りになる以前から抱いていた彼の原点「この目に映る人々をすべて守りたい」という思いが受け入れられないなんてことあります?

このあと触れますが、どうもBeginningを効果的に盛り上げるためにFinalが踏み台にされている感が拭えない。でもそれって、今回の実写の選択って結局、原作のいちばん大切なところを殺している事になりませんか。…和月先生はあれで良かったんだろうかほんとに、いやホントに。

◆そもそも「贖罪の答え」ってナニ

原作を読めばわかることですが、維新後の剣心は作中通して「人を助けたい」「人を斬らない」「自分は罪人である」という気持ちを抱いています。その上で、京都編では「死も厭わない」状態だったところから「まだ死ねない」という気持ちが芽生えます。さらに人誅編ではもう一度自分を見つめ直し、人斬りになる前から抱いていた剣心の原点「目に映るすべての人を守りたい」に立ち返ります。そして薫や仲間たちと生きていくために、物語の集大成であるところの「人斬りの罪を償うために生きている限り闘って人を助け続ける」という答えに至るのです。

そもそも巴も「この人は今たくさん人を斬ってるけれど、新しい時代が来たら必ず斬ったのより多くの人を救うはず。だからここで死なせてはいけない(意訳)」と考えていました。なんならFinalでもそう言ってました。つまり剣心が「生きて人を助ける」のは巴の願いでもあったはず。それをわかっていなくちゃいけないはずの剣心ですが、原作でも中盤までは、罪の意識から「自分が生きる」方へ意識を向けられなかった。それが「生きる」方へシフトチェンジしたから、「贖罪の答え」を見つけたから、ようやく巴の笑顔を見ることができたのですよね。

「贖罪の答え」はちゃんと巴の願いとも一致しているのに、なぜFinalできちんとここへ到達させなかったのか。それは、原作で剣心が徐々に変わっていく経過の中で、ターニングポイントだった「帰りを待ってくれている人=薫や仲間がいるから死ねない」という衝動。この剣心の衝動を描くには、薫や仲間への気持ちも描かなくてはなりません。

実写シリーズを「Beginning」で締めるための導入が「Final」だと仮定すると、「Final」の段階で、原作と同じ描き方で、特に薫への愛情を描きにくかったのではないか、観客にそこの印象を強く持たせたくなかったのではないか、「贖罪の答え」はそのために却下されたのではないかと思ってしまうのです。

物語のテーマ的にも各キャラクターの心情的にも、どう考えてもまとまりが良いのは、最終章の前半に追憶要素を持ってきて、原作と同じ流れでオーラスに持っていく方なんじゃないかと思うんですが。それでもなにがなんでもシリーズ最終作に「Beginning」をもっていきたかった理由が何なのか、キャラとしての巴が気に入ってるので掘り下げたいというのは別にそれで良いのですが、シリーズ全体の構成としてはそれ以上のちゃんとした答えが欲しいところです。自信作と言われる映画の完成度とは別に、締めに持っていった納得のいく理由が知りたいですね。

◆殺されてしまった原作の良さ。巴を尊重するために、剣心はひたすら謝らなくてはならないの?

しかし剣心も人間なので、たとえ根っこの性格はそのまま、抱えた「罪の意識」も変わらなくとも、時間が経てば情の部分で変化が起きることもある。出会うべき人に出会えばそれまでとは違った衝動が起こることもある。自分の内面の変化に、当然葛藤はあったでしょう。それでも原作の剣心は、贖罪の意識はそのままに過去への思いに対しては区切りをつけた。

ある意味残酷かもですが、時間が経つということ、リアルに人間が生きていくことってそういうものだと思うのです。もちろん、亡くした愛しい人を変わらず忘れられないというドラマの良さもありますが、それは流れてきた10年の間にはあったかもしれなくて、しかし原作では描かれていない。

原作で描かれたのは、変わっていく人間のドラマ性でした。そして真面目で優しくて罪悪感の強い剣心が、人のために死も厭わぬ覚悟で闘いながら、自分の欲や人間くさい一面をギリギリのところでようやく見せる。個人的にはそこが原作で描かれる人間の面白くて深いところだと思っているのですが、そんな剣心は実写では描いてもらえませんでした。

おそらく主演氏の理想の剣心は、「生きたい」ので「罪を償いながら生きる」という「被害者側から見たらある種の開き直り」とも取られかねない、そんな感情が起こらないほどに繊細で、原作剣心よりさらに大きな罪悪感を抱えた存在なのかもしれません(原作剣心の罪悪感もたいがいMAXレベルだとは思うのですが…)。そして過去を乗り越えて自ら変わる事を許せないほどに、むしろ巴に縛られていたいのかもしれないと。

原作で縁との再会後に出た「このまま(巴の)幻に取り殺されるか」というセリフは、「幻でも会えたら嬉しい愛しい人」というよりは、むしろ「歓迎できない亡霊を見てしまった」という、きわめて「現実的」で巴サイドからしたら残酷なニュアンスを含んでおり、もしかすると監督も主演氏も絶対に実写剣心に言わせたくない一言だったのではないでしょうか。原作のこの時点では、剣心はある意味巴の死を乗り越えて、薫や仲間たちと生きる未来を模索し始めていた。でも、巴との関係性を描くBeginningを本丸に持っていきたい実写制作陣からしたら、ここでそんなに吹っ切れていたら困るわけです。

で、ともかく実写最終章では「贖罪の答」を出さない方針となり、薫と仲間たちの扱いに困ってしまったと。

◆「贖罪の答」が不要になった実写剣心にとって、薫や仲間ってナニ?結果どうなった?

ところで宣伝では「薫との絆」「仲間のために」「帰るべき場所」などの謳い文句がありましたが、おそらくこれは宣伝のためだけのフレーズです。映画の広報は専門の会社に発注するので、監督たちが宣伝のテキスト内容を全部考えているわけでは無いのです(もちろんメインビジュアルとかメインのコピーに対して要望や意見は言うでしょうけど)。TVCMとかはおそらく、原作を知っている宣伝会社の人がうんうん考えて作ってくれたのでしょう。

そして実際の作中では、薫や仲間から剣心に対する気持ちの流れは汲み取れましたが、剣心から彼らへの気持ちは極めてドライなもので一貫して感じられませんでした。

そもそも実写縁が剣心に与えたかった「苦しみ」ってナニ。原作では「最も大切な姉」を奪われた縁が仕返しに剣心の「今一番大切な人=薫」を奪うことが人誅の肝で、一連の戦いの最中、剣心は薫の無事を常に心配してピリピリしていた。でも実写映画での剣心は、縁に狙われるかも知れない神谷道場を放って街中を警戒していました。その結果薫が攫われて場所も知らされているのに、すぐには向かおうとしなかった。えーと、心配じゃないんですか?実写剣心にとって、薫を失うことは大して苦しみじゃないわけね?

ということは、東京や関係先が襲われることが縁が与えた苦しみ?でもそれって責任感とか罪悪感から来るもので、原作の「薫を亡くした」のと同レベルの苦しみではないですよね…わからん…。しかし仮に実写の流れで薫が死んだと思い込まされたとしても、廃人になるまでの落ち込みは描かれなかったかも知れないとも思っていて。

たとえば雨の中薫が剣心を迎えに行くシーンは、1作目の林の中で過去を振り返っていた直後のシーンと重なりますが、剣心は薫としっかり目を合わせること無く「かたじけない」と1人で歩いていってしまう。つまり「腹が減ったでござるよ」でごまかす1作目の剣心から進化させていないのです。ここは1作目から時を経た2人の変化を描けるシチュエーションなのですが、そういう活かし方ができていない。そしてパンフレットにこの続きのシーンの2人を思わせる写真が載っていましたが、実際はカットされている。ということは、変化が描けなかったのではなくて、逆に変化していなくて構わないと、つまり薫との関係性は人誅の要ではないというのが、編集段階の最終決定なのではと思えてくるのです。

左之助もそうなんですよね。左之から剣心への気持ちはラストバトルに満身創痍で駆けつける姿など、これでもかと描かれていましたが、たとえば「あいつらには無理でも俺には話せ(意訳)」のシーンでも剣心は左之助と目を合わせようとしない。

最終的にラストバトルに際しては、原作剣心は自ら仲間たちに助力を頼みましたが、実写剣心は1人で孤独に縁の所へ向かった。その後斎藤や仲間たちが加勢に来てはくれますが、それは仲間たちからの剣心に対する気持ちの表れであって、剣心から仲間への気持ちの表れではない…なんとなく制作陣の意図が見えたようで、この辺りでもうすっかり冷めていた私は、宗次郎の登場でさらに完全に現実に戻されることになります。

や、宗次郎好きなんですけど。仲間を差し置いて今ここで剣心と共闘するのはキミじゃないんだよ…という思いが強くてですね。確かに宗次郎は人気キャラクターですが、私も好きですが、るろうに剣心の物語としてはこれじゃない、仲間への気持ちをあんな雑に描いた後に、背中を預けて共闘するのは宗次郎じゃない

監督は神木くん好きだもんね、役者の格としても人気面でも申し分ないですしね、とか、アミューズ…とか、映画の最中だというのにワクワク感ゼロで大人の事情まで頭をよぎってしまい、せっかくの「過去に囚われた人たちに答えを〜(意訳)」のアツいシーンもいまいち心に響かなかった。監督としてサービスのつもりのサプライズだったかもですが、残念ながら私には「実写剣心にとって仲間なんて必要ないんじゃないの…監督から見たら剣心組ってそんなにショボいんですね。まあ過去作からの扱いで監督の気持ちはなんとなく知ってましたけど」という残念な思いをズラズラと思い起こさせる効果しかなかった。まあ、そこも人それぞれですけどね。私はそう感じたんです。

そしておそらく実写剣心は「愛しい巴の弟」であるところの縁をものすごく大切に思っていて、とにかく外野を交えず1対1で向き合いたかった、ひたすら謝罪したかった、だから1人で行った。「縁と向き合う」のと同時に「愛しい薫」を確実に救うため仲間とともにアジトに乗り込む原作剣心は、監督と主演氏からすれば描きたいテーマからずれていたのでしょう。

作中、剣心の特に強い感情が読み取れるわかりやすい目の演技があったのは、縁と会ったシーン・すまなかったのセリフ・縁が薫をかばったところ、の3箇所でした(私調べなので異論はあるかと思いますが)。とにかく実写剣心の気持ちは縁と、縁を通して巴に向かっている。なのでクライマックスの「巴の望んだ(願った、でしたっけ?)未来のため」というセリフはものすごくしっくり来ましたが、同時に言った「仲間のため」がとても空虚な、とってつけたような言葉に聞こえてここでも真顔になってしまったのでした。

ついでにというか一応ラストバトルについても触れておきます。
原作では、一度は縁にたやすく破られた天翔龍閃が、二度目では「贖罪の答えに至ったために迷いが消えて、未来へ強く強く一歩を踏み出すことができた」から、最高の威力を得て縁を破るわけです。これ、二度目の天翔龍閃を撃つにあたってすごく重要なトリガーなんですよね、剣心にとって答えを出すことが。でも実写では答えは出していないので。

なぜ実写のあの流れで急に九頭龍閃と天翔龍閃が決まったのか、剣心パワーアップと縁弱体化のトリガーは何だったのか、あれっ何かそれらしい決定的な演出あったっけ?的なポカーン状態のまま終わってしまった…たしかに殺陣はすごかったけど。たしかに「縁、すまなかった」は良かったけど。縁の腕にそっと触れたところも優しみが溢れていて素敵でした。でも、形勢逆転となった理由が伝わってこない…ポカーンな気持ちが邪魔してせっかくのクライマックスなのに感動できなかった。そんな感じです。

で。実写、勝手にものすごく期待してたけど、原作者の和月先生とは別な人たちが「原作とは違います、オリジナルです」(※3)と言って出してきたものなのだから、私にとってつまらなくても、もう仕方ないなと。剣心祭りみたいな公開期間を心の底から楽しむのは私は無理だけど、剣心ファンとしてせっかくなので大勢の人に観てもらいたいですね。

巴や縁に対してだけでなく、薫や仲間への愛情に溢れた本物の剣心には、過去の原作や連載中の北海道編でいつでも会えるのでまあ無問題です。

◆さいごに。原作ファンの悲しみとは、抱いてはいけないものなのだろうか

正直観た直後は本当に、自分は長時間一体何を見せられていたのだろうと思いました。もちろん、良かったところもたくさんあるのですが(縁や操や蒼紫。まっけん最高オブ最高でした)、そういうものをすくい上げて無理やり喜ぶ気にもなれないほど「これって『るろうに剣心』なのか??」というガッカリした気持ちでいっぱいでした。実写は実写として楽しめばいい、そう思い込もうとしてもすぐには無理でした。というかそもそも、たとえ実写が原作を蔑ろにしていても、せっかくの実写映画化なのだから、原作ファンとしてはありがたく思わねばならないのだろうか?

そんなとき読んだ原作者・和月伸宏先生のインタビュー(※4)をきっかけに、ブクマしてあった2016年の和月先生インタビュー(※5)を読み返したのです。そしたらちゃんと、なぜ私が悲しかったのか答えが書いてありました。悲しいのはあたりまえだったんですよ…いやこれも、理由がわかればスッキリするというシンプルな話でした笑
以下、ここで読んでほしいので本文の後でなくこの位置で引用します。

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映画にするにしても舞台にするにしても、究極的にストーリーが多少変わってもそれは仕方がない。でもキャラクターはちゃんと押さえておかないとおかしくなっちゃう。自分の作品も人様の作品も含めて、やっぱり面白いかそうでないかというのは、だいたいキャラクターが崩れてしまっていないかどうかなんですよね。なぜなら読者はマンガのキャラクターたちを愛してくれていて、「このキャラクターたちをもっと見たい」という気持ちがあるからストーリーを読んでくれているんだと思うんです。だからメディア化されて、キャラクターが変わってしまったら、やっぱり原作ファンは悲しいんですよ。
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もうね、これに尽きますよね。これは実写最終章が発表される前のインタビューだから今作の剣心の改変は関係ないけれど、でも和月先生はちゃんとファンの気持ちをわかってくださってる。だから今回の実写に関しても、大人として表向きはハッキリ言わないけれどやはり思うところはあるかもしれなくて、もしかしたら我々のもどかしい気持ちにも思いを巡らせてくれているかも知れない…。ていうか今回の実写の改変、嫌だったと正直に感じても良いんだ。そう思ったらなんだか実写についてのアレコレを切り離すことができて、スーーっと楽になりまして。和月先生ありがとうございます、なんてファン思いの優しい人なんでしょう…このインタビュー思い出せてよかった。もう一生ついていきます…!

おかげで改めて別物として認識できるようになると、ようやく一周回って実写に対して「あれも『IF』の物語としてはアリなのかもしれない」と思えるようになりました。私にとって内容はつまらなかったけど、アクションとか画づくりとかのクオリティは本当に素晴らしいですし、ここは文句なしに日本映画の最高峰と言って良いのではないでしょうか。1作目から積み上げてきたノウハウは伊達じゃなかった、すごかった(拍手!)。

これをきっかけに原作にも興味を持って(私も実写から入って原作ファンになった勢)、原作の正史を改めて知ってもらって、北海道編も追ってくれる人が1人でも増えたらそれでいいじゃないか、そんな感じです。Beginningもまだあるし観に行くけど、気持ちの上ではFinalで実写卒業かな〜。
<おわり>

◇以下、本文中で(※)を入れたところの引用部分です。長文でお疲れのところすみませんが、こちらもぜひご確認ください。

(※1)
映画.comインタビュー 佐藤健×武井咲、5年ぶり「るろうに剣心」に“帰ってきた”最高の瞬間
2021.4.23
僕は一つ挙げるとするなら縁との最後の一騎打ちにおいて。どういう風に決着がつくか、どういう風にそのシーンを終えるかということは、色々とアイデアを出させてもらいました。あと、具体的に剣心が言うセリフも撮影のギリギリまで自分で考えて、「ここではこういうことを言いたい」と伝えましたね。大友監督はずっと待っていてくれて、ありがたかったです
    *
和月先生にお話を伺った際に「少年漫画として、縁との戦いの中で剣心が出した答えをちゃんと『言葉にする』ことに心血を注いだ」とおっしゃっていたんです。このエピソードは原作でもほぼ最終回に近いものですし、「いろいろな過去があったけれども、これから自分はこういう風に生きていきたい」を表明することが大切だったと。もちろん原作のその考え方は素晴らしいと思います。ただ、僕は今回の戦いで、答えを出すのではなく縁との“向き合い”を演じたかったんです。剣心自身の答えではなく、縁に対してどういった言葉をかけるか、どのような存在でいるかをメインに考えていきました。

    *
パンフレットは有料のものなので、長々と引用しませんが…少しだけ↓
パンフレット内キャストインタビュー
「剣心というキャラクターに対して自分の中で理想がありましたし」「剣心がどんな時にどういうことをするのか、わかるんですよね」「僕が考え得る中で、剣心ができる最大の行為が、あのような終幕だったという感じです」

(※2)
ファッションプレス 映画『るろうに剣心 最終章』大友啓史監督インタビュー‟佐藤健演じる剣心を軸に、宇宙が回る”

2021.04.19
でも考えてみたら、人によって違う感情が湧き出るのは当然の事ですよね。同じシチュエーションにあったとしても、僕が感じる感情と、10代、20代、30代の俳優が抱える感情は全員同じな訳がない。置かれた環境やジェンダーの違いが絡んできたら、なおさらね。
でも、だからこそ演じる人によって、その人独自の解釈が生まれ、それは映像/物語の世界を一層豊かにするし、唯一無二の表現にすら繋がると思うんですよ。僕はそんな瞬間に立ち会うことが好きですね。

(※3)
(1)シネマカフェ 佐藤健×大友啓史監督で『るろうに剣心』対談!「使命感」で挑んだ最終章を語る

2020.12.20
「『The Final』は原作と違う、オリジナルストーリーになっているんですよ。そういう意味で、原作者の和月先生の感想というのは結構気にしていて心配でしたが、映画を観て喜んで下さったのなら、凄く嬉しいし報われた気持ちになります」
「作品に入る時もそうでしたが、入る前の準備から時間を掛けて監督とやり取りさせていただいたので、その時間がやっと報われたというか、あそこで粘って良かったなという気持ちですね」

(2)ファッションプレス 映画『るろうに剣心 最終章』大友啓史監督インタビュー‟佐藤健演じる剣心を軸に、宇宙が回る”
2021.04.19
>一方で実写映画は、原作とも比較されやすいジャンルですよね。
その点に関しては、原作ファンの思いも十分にわかるのですが、映画の作り手の一方的な思いで言うと、そろそろ間違い探しはやめてくださいね、と言いたいです(笑)。真っ白い心で、1つの作品として見てもらえるのが一番の映画の楽しみ方。

(※4)
KAI-YOU 和月伸宏インタビュー『るろうに剣心 最終章』に至る、実写と漫画が歩んだ10年

2021.4.23
これを読んで、おかげで2016年のインタビューを思い出すことができました。内容については特に引用しませんので下のリンクから読みに行ってみてください。北海道編含めた剣心の結末について、和月先生らしい優しいお考えがサラリと書かれていますよ。

(※5)
コミックナタリー ジャンプスクエア創刊9周年記念 和月伸宏インタビュー「エンタメの基本は笑顔とハッピーエンド 和月伸宏とジャンプスクエアの9年

2016.12
本文中の引用部分以外にも読むべきところが多いので未読の方は下のリンクからぜひ!

◯原作マンガで実写The Finalのその後を読みたい方はコチラ
 るろうに剣心-明治剣客浪漫譚・北海道編-

正当な続編が連載中!剣心、まだまだ世のため家族のため仲間のために頑張ってます!

◯これが真実の「るろうに剣心」。実写とは違う、原作漫画のストーリーを知りたい方はコチラ
 るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-
ジャンプコミックスも販売中ですがお得な文庫セットもありますぞ!



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