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「埏」〜みち〜

「埏」と書いて“みち”と読む。これは「墓穴へ入る道」「地の果て」を表す言葉だそうだ。人生と書いて道とも読むがこの「埏」とはもっと先の何とも感慨深い表現なのではないだろうか。この世に生を受け「未知」から始まり「人生」を経て「埏」で終える、私達の年代になるとそろそろこの「埏」を深く考えないといけない。

迷い

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よく耳にするのが「何か良いことない?」という問い。何をもって良いことなのだろうか。聞いてくる人達は大抵今の人生に苦労していない人が多い、要するにある程度財を蓄えた人に多い様に感じるのだ。現状に必死な人は良いことを探してる暇は無いという訳では無いだろうが取り敢えず目の前にあることに必死なのは間違いないからそれどころじゃなく「何か稼げることない?」である。では良いこと探しをしている人達の特徴としてあげられるのは何なのだろう。

聞いてみると「ワクワクできること」や「打ち込めること」らしい。私は人生を掛けて取り組んでいる事が既にあるからそれが無い気持ちはよく分からないのだが、私の所感で言えばこれまでの社会でいう「真面目」「努力」「忍耐」で様々な結果を出して来た人達で自分で全て決断して来たと思い込んでいるのだが実の所「社会の常識」と言ったルールに沿って思考して来た人達の様な気がする。簡単に言うと「お金」や「世間体」そして「見栄」を前提に何かに取り組んできた人達ってこと。だからこのままで良いのかと迷っている。

問うてみる

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何か良いことない?と聞かれたら私はありきたりの提案をしてみる。「こんな商売はどうですか?」「こんな仕組みを作ってみては?」と。誰もが「それはああだから」「こうだから」と煮え切らない様子。そりゃそうだろう、既に誰かがやってて外見からは良さそうに見えるのだがある程度結果も見える。お金の計算がたつのだ。そんなモノを欲しているのではない。自分自身で考え出し、そして出て来たアイデアで勝負したいのだろう。「こんなこと誰もやってない!」とワクワクしたりドキドキしたいのだ。

だから今度はそんな提案をする。すると返ってくるのは「そんなの上手くいく?」とか「自分にできるか?」と言った返事。そんなの知る訳ない、俺がやるんじゃないから。自分でやるしかないのだが一歩が踏み出せず、それでも先にあるものを欲しがる。誰もがそうだろうが先ずはやってみることだ。これまでやって来た見本のある事柄なら真似ればできただろうがオリジナルのアイデアにはマニュアルがない。だから「ドキドキ」できるし「ワクワク」できるのだ。そう、もう目の前にソレはあるのだ。たった一歩踏み出すだけなのだ。

誰もがやってることをあっちの世界への手土産にするのか?俺はまっぴらごめんだ。先に逝った奴らに退屈させた分だけビックリする手土産を提げて逝くつもりだ。それが私の「埏」

最後までありがとうございました。


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