眠れるヴィーナス
女性の裸をスケッチする。できるだけ正確に。自分自身が納得できるように。本人が知らないあいだに。
一人でいる時はそんな芸術的なことはしない。真っ白な紙に鉛筆や黒ペンで、文字ともイラストともいえないものを書きなぐる。心に溜まったストレスを吐き出しきると楽になる。一時だけとはいえ心の中に何もなくなる。
連れ帰った女性と一晩をともにする。彼女より早く起きる。布団をめくりスケッチする。そこで彼女がまだ目覚めなければ鉛筆をペンに替える。1人として同じかたちの女性はいない。頭のかたち、指のかたち、胸のかたち、お尻のかたち、脚のかたち。本当はずっと眺めてリアリティーを求めたいけれど、寝てるあいだに書くのが俺の礼儀。書きたりないなと思うときは脳に焼きつける。
女性を初めて好きになったのは16歳のとき。相手は予備校の先生だった。学期末に試験の結果に両親は納得できなかったらしい。テスト用紙を俺に返しながら母親は怒りながら言った。夏休みの間、予備校に行きなさい、と。衣食住のスポンサーになっている両親の意見に反対なんかできない。そのときはオニだと思ったけど、いまとなっては感謝している。
先生に一目惚れした。恋というのはこういうものだと思う。教室に入ってきた先生から後光が射していた。きれいなひと・・。こんなにきれいなひとが世の中にいるんだ。このくらいの年齢の女性と普段触れあうことがないから余計に緊張する。ここでは予備校という共通点がある。講師と生徒という間柄ではあるけれど。先生を好きになったことで成績を悪くしたくない。予習も復習もきちんとして、教壇の近くの席に座って、授業もきちんと聞いて先生に好印象をもってもらえるようにしよう。
分からないことがあったらいつでも講師室に聞きにきて、そのことばに何度も通った。それは先生の自発的な言葉ではなくて、マニュアルに書かれているものだと分かっているのに。問題の答えが分かっていても行った。ただただ、先生と話がしたくて。先生に俺の存在を知って欲しくて。先生は美人で優しくて立ち居ふるまいがスマートだった。ガサツで口の悪いクラスの女子どもに見せてやりたい。
先生、お休みの日は何をしていますか?アウトドア派ですか?スイーツは好きですか?イタリアンとか好きですか?フレンチは?(イタリアンだのフレンチだのよく分からないくせにそう言っていた。)どこのブランドが好きですか?この質問に、先生はどこそこのと言ったけど、さっぱり分からなかった。たぶん大人の女性が好きなブランドなのだろう。俺の服のほとんどは母親が買ってくる。友だちとたまに服を買いに行くこともあるけれど、母親がくれる服代なんてたかが知れている。ビームスだのアーバンリサーチだのナノユニバースだのアローズなんていうのは、お金のある大学生のお兄さんの着るブランド。お金のない俺らは、ウイゴーだとかニコアンドとかレイジブルー、ディッキーズなんかを買いあさった。とにかく安くて、オシャレで、大人っぽく着こなせる服を。
講師室に行くたびに質問を繰り返した。ちがう、質問なんて大義名分。先生と一緒にいたい、話がしたい、同じ時間を共有したい、共通点が欲しい。好きな食べもの嫌いな食べもの、好きなお笑いビ番組、芸人さん、アイドル、漫画家さん、アニメ、ゲームはなんだろう?俺ら、週プレとかスピとかヤンマガとかヤンジャンの巻頭グラビア目当てに買うんですけど、最近だと、どのグラビアのコにそそられました?ちなみに俺は・・。あ、やべ。アイドルだアニメだゲームだなんて先生とは真逆の世界のものだ。特にグラビアなんて質問、口が裂けて言えない。
ある日、先生は言った。「予備校以外で生徒さんと会えないの、ごめんなさい」俺の下心はとっくに見抜かれていたってわけだ。
その日、授業の復習と明日の予習を終えて予備校を出たのは5時をすぎていた。おなか、空いたな。ジュースでもいいや。どこかに自販機ないかな、キョロキョロ見渡したときカフェが目に入った。そこには先生がいた。視線は空を泳いでいた。ぽろりと頬を伝った涙。先生は泣いてる、ように、見えた。大人だって泣きたいときはあるだろう。楽しいときや悲しいときや悔しいときに。けれどそのときの先生の涙の原因はどれにも当たらないように思えた。こういうときは何て声をかけたらいいんだろう。歩道のまんなかでうじうじしていた俺に先生は気がついたらしい。バックから出したハンカチで涙を慌ててぬぐった。後ろを歩いていた高校生ぐらいの人から舌打ちをされた俺は、逃げるようにカフェの中に入った。そして先生のそばに駆けよった。「こ、こんちは」足がもつれて転びそうになった。かっこわるう、顔を上げると先生はぐうで口元を隠しクスクス笑っていた。先生が笑ってくれたのなら恥ずかしい思いをした甲斐があるや。先生のとなりに座った。メニュー表を見ながら財布のなかの金額を思いだした。昨日ジャンプを買ったっけ。ジャンケンで負けたから俺が払ったんだ。あああ、ちくしょう。あの時ぐうを出してりゃ、こんなに迷うことないのに。「ウーロン茶をください」一番安いから。他に選択肢はない。ううう。ダージリンティーとかカモミールティーとか、おしゃれなものにしたかった。そしたら先生は、少しだけでも俺を大人扱いしてくれるかもしれないのに。
先生の涙をもう見たくなかったし、無言が怖くて俺は友達の話をした。こういうやつがいるんです。好きな人がいるっぽいけど断れるのが怖いから告白しないんだって。男子3人と女子3人で遊園地に行って観覧車に乗せたんですけどやっぱり告白できなくて。そんなことしてる間に隣のクラスの男子に告白されている、その子いまはその人と付き合っていて・・。気がつくとウーロン茶が来ていた。息継ぎもせずに、1人しゃべりをしていたことに気がついた。でも先生はにこにこして俺のつまらない話を聞いてくれてたらしい。「お友だちが多いのね。うらやましい。大人になると友だちって増えないから。ライバルはできるんだけど」大人、子ども。先生は大人、俺は子ども。先生と同じ位置にいたい。同格でいたい。でも一回り近く年の差がある先生と、どうすれば同じ位置にいて同格になれるだろうか。
「早く帰りなさいね。おうちのかたが心配されるわ」会話が途切れたとき先生はそう言った。そりゃ当然だ。7時近い。でも先生と一緒にいたい、もう少しだけでいいから。そうだ。アリバイをつくってもらおう。「親に電話をしてもいいですか?」席をはずした。カフェの外に出た。もちろん親ではない。幼なじみに。友だちのなかで彼が一番融通をきかせてくれそうだから。「どした?」頼みごとがあるんだけど。彼はめんどくさいなとモゴモゴ答えた。何かを食べているのか、パリパリという音が聞こえた。ああ、お腹空いた。彼に断られたら困る。じゃあと提案した。「ジュースおごるから」彼は声のトーンを上げた。「来週のヤンマガと再来週のヤンジャンたのむよ。その次の・・。」ううっ、いくら飛んでくんだろう。「他の選択肢は・・」言い終わらないうちに彼は言った「ないね」彼の意志は変わりそうになかった。仕方ない。それで先生ともう少し一緒にいられるのなら安いものだ、と思おう。それで手を打った。
電話を切り、空を見上げた。雨がそぼふってきた。「先生、どこかでやすみませんか?」カフェに戻り、すぐさまそう口にした。どこかなんて、ファミレスや満喫なんかじゃ、もちろんない。断られてもかまわない。笑顔で聞き流される覚悟はできている。けれど先生はその意味を瞬時に悟ったらしい。こくんとうなずいてくれた。
雨が急に降ってきたことも理由なのか、 ホテルはとても混んでいた。だけれどラッキーなことに部屋が取れた。女神の先生と一緒だからかな?うれしい。俺が選んだそれは広くてきれいだった。ベットも広くてきれいだった。先生はベットのそばにカバンとジャケットを置いた。初めて入るホテルの部屋に圧倒された。俺は今からここで先生と・・。ぼうっと突っ立っていた俺は促されて、慌ててそれにならった。
それは夢のなかにいるかのような幸せな時間だった。
なんの前触れもなく目が覚めた。寝息、誰かの寝息。ちがう、先生の寝息。真横には、はだかの先生がいる。胸がまだどきどきする。いつかは経験することだろうけど、うまくできたんだろうか?先生が目覚めたら、このことにはなにも触れないほうがいいんだろうか、それと触れるほうがいい?マンガや大人のDVDを見て予習はした。経験済みの年上のいとこや友だちの兄ちゃんなんかにそれとなく聞いたけれど、上手くいかなかったの連続でちっとも参考にならなかった。シュミレーションはしたけれど、実際のは全然違っていた。それらでは分からなかった、女性特有の甘い匂いや体の柔らかさ、先生の吐く心地よい息。想像や2次元の映像ではわからなかった感覚。終わったら腕まくらをすると余裕があるって思われるぜ。いとこのひとりが言っていた。ほんとかな?腕がいたくて、それは3分と持たなかった。「気持ちだけでいいよ、ありがと」先生はそう言って俺の額にキスしてくれた。未経験なんてのは見通されていただろう。挙動不審だったし、声だってうわずっていたし、緊張してのどはからからだった。もし手順というものがあるならば、めちゃくちゃだったと思う。1234567ではなく、6415273だとか先生にとっては迷惑な順でコトがすすんだかもしれない。
彼女の裸を書きたい。急にそう思い立った。体を重ねた感覚は時間が経てば忘れてしまう。だから彼女の何かを手元に残しておきたい。参考書が入っているかばんに目をやった。彼女を起こさないように、ベットからそっと降りた。大学ノートとシャープペンを出しベットに戻った。そっとシーツを取り、あぐらをかいた。あああ、っと慌てて体操座りにした。そしてナニを隠すために膝の上にノートを置いた。デッサンをどこかで習ったらわけじゃない。でも自分なりに精一杯書こう。裸の彼女は弓の字で横たわっていた。さっきまで・・ごくんとつばを飲みこんだ。いや、だめだ。ひたっている場合じゃない。先生がいつ目覚めるかわからない。まず軽くデッサン。頭の部分は円、体は楕円に。髪を書いた、目を書いた。ストレートだと思っていたけど軽い天パなのかな。髪は肩あたりで波打っていた。腕を書く、脚を書く。細い腕だ。ぼくがほんの少し力を出して握ったら、ぽきんと折れてしまいそうだ。お尻が大きいからデニムはあまり履かないようにしてるの。そう言ったけれど俺にはわからない。だって先生以外の女性の裸を見たことがないから。脚には程よく筋肉がついていた。高校生のときに長距離の選手だって言ってたっけ。デッサンするにはふさわしくないノートとペン。だけれど一生懸命書いた。書いては消して書いては消して、ノートがぼろぼろになりかけていたけれど、書くのをやめなかった。頭が小さすぎるかな・・腕が長すぎるかも・・お尻が小さすぎるかな・・脚が細すぎるかも・・。目の前にいる人を書くだけなのに、ちっとも上手くできない。バランスが取れない。どうしたら目の前にいる先生を、このノートにそのままうつしとることができるだろうか?先生の体がぴくんと動き、ノートをとっさに背を隠した。軽べつされる・・。それは嫌われることよりもうんと嫌な行為だった。きらい、もう話さない、そう言われたほうがうんといい。先生にシーツをそっと掛けた。ベットから慌てて降りてかばんにノートとペンを押しこんだ。かき足りないな・・。先生は寝息をくりかえした。かばんに目をやった。この先生は俺だけの先生。
休日返上で予備校に通うことにした。もっと成績を上げて先生にほめてほしい。今の俺に休日はいらない。お腹がすいてきて、コンビニでおにぎりでも買おうとスマホだけ持って外にでた。信号待ちをしていたら横断歩道の向こうに先生がいることにき気がついた。手を上げて、俺の存在を気づかせようとしたとき、その隣の男性が視界にはいった。単なる知り合いではないように思えた。先生は笑顔を向けて、親しげに話をしていた。先生よりも10センチぐらい背が高く、体格のよい人。さわやかな笑顔。遠目で見てもそのスーツは仕立てがよく、身体中から自信がみなぎっていた。『将来を考えている人がいるの』ベットのなかで先生はそう言った。大学のときのサークルの先輩だとも。あのひとが、その。結婚する予定の・・。エンゲージリングはもう買ったんだろうか?どうしてかわからないけど、ブルカリが浮かんだ。いや、もしかしたらハリー・ウィンストンのリングだって贈ることができるだけの収入があるかもしれない。月々のおこづかいの半年分を前借りできたとしても、俺には4℃のリングが精一杯。
『俺、先生と寝ました。』そう言っても彼はきっと動揺しないだろう。『彼女が初めて?どうだった?上手くできた?男なんだから当然リードしただろう?』笑いながらそう言い、大人の余裕を見せつけるにちがいない。嫉妬なんて1ミリもせずに、お子ちゃまのわがままに彼女が付き合っただけだと思いながら。知らないあいだに出た涙は頬をつたった。俺はただの生徒、彼は先生の婚約者。予備校に通わなくなったら俺と先生の関係は切れる、彼は先生とこの先の人生を共に過ごすのだろう。
付き合った女性やそうでない女性を自宅アパートやホテルに誘う。そのたびに彼女たちの裸をデッサンする。けれどどんな女性もいまだに彼女の裸を越えることはできないでいる。
これは、そんな背伸びばかりしていたクソ生意気なガキンチョのおはなし。あのノートはとうの昔にどこかにいってしまったというのに。彼女の顔も体の形も心地よさも柔らかさも甘い匂いも、何もかもわすれてしまったというのに。
❇️読んでいただいてありがとうございます。ある日、noteへの投稿を1ヶ月続けようと決意しました。気がつけば今日で46日目。は~、この根性なしが46日!!すごい。自分をほめてやりたい!!