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国崎さん36才の誕生日おめでとうございます。あなたにとって実りある1年になりますように。を記念して「へんなの『じいちゃん』」を改めて読みました。

   国崎さんは文章を書くのが苦手というけど、激ヤバ・アマゾン版を思いきり苦心して読み手にバレないようにごまかして感想を書いたわたしはなんなの?心に残る文章書いてるじゃんか。


  noteで国崎さんの『じいちゃん』のことを知ったのは、見取り図の盛山さんやリリーさんのnoteを読んでいたころ。なにげに読んだそれはスルッとわたしの心に入り込んできた。


   こんな思い出があった、と羅列しているだけなのに情景が見える。じいちゃんのハハハという笑い声が聞こえるし、ホッケを骨ごと食べるバリバリという音が聞こえる。文章のなかで言葉が躍動している。それはきっと色々な物を見て経験して感じてきたことが、今の彼の漫才に反映しているのだろう。


   風猫なんかを見れば分かるけど、国崎さんは 大げさなくらい体を動かす。風が強く吹いているとこ、ニャンチャンが耳に入るとこ、ニャンチャンのしっぽが出てきたとこなど。体を動かすことで状況を説明する。動きを伴う漫才は説明しすぎていて面白味がないという方もいるけど、わたしは漫才というのは子どもに分かりやすいものが一番だと思っている。子どもが理解できることは当然大人もわかる。小難しいことを考えなくても笑うことができる。単純なのがいい。なにも考えたくない。頭を空っぽにして楽しみたい。ストレスあるから正直なんにも考えたくない。



  

   後半部分では、じいちゃんとの言葉のやり取りはなく、国崎さんの心のうちを淡々と書いている。驚くくらい淡々と。その別れが近いことを感じ、じいちゃんとの過去を顧みる。その来るべきそれから目をそらそうと矢継ぎ早に話をする。じいちゃんが亡くなったと聞いたあとの彼の行動も秀逸。亡くなったはずのじいちゃんにとんでもないキャラをつけて漫才にした。漫才の内容を聞いた伊藤さんは、はははっと笑い、国崎さんはなんてやつだと思ったと書いてある。それは弔いみたいなもの。国崎さんなりの。身内が亡くなったとき、わたしにはそんな風に客観的に自分を見ることができなかった。芸人たるものなんでもお笑いに、と思ったのかな。それとも彼の強さだろうか?これを読んで、国崎さんのじいちゃんと伊藤さんのお母さんが亡くなったのはどっちが先なんだろうとぼんやり思っていた。身内の死を経験したのはどっちが先か。身内の死はこの上なく心をえぐられるから。

   

  この作品をぜひドラマ化して欲しい。国崎さんはそうだな、コミカルな役者さんがいいなと思うけど、最近ドラマを見ていないわたしには誰がふさわしいのかさっぱりわからない。伊藤さんは、ああ、伊藤さん自身がいいな。あの風変わりな髪型といい、人をやっかむところといい伊藤さん以外に伊藤さんは演じることはできないな。


   最後に。国崎和也さま。36歳のお誕生日おめでございます。あなたにとって実りある一年になりますように。


  ところでさっき見たがんばれ地上波で、国崎さんがVRを買ったという話をしていた。まあまあ、いい歳の子だし、買うのは別にいいけど目的がさ。彼女はいるけど、断られてそれで蹴散らすとかそういうことかな。そういうことと無縁な子と思っていたからショックだわ。でも、ま、健全かも。30代の子が興味なしってのは逆に大丈夫かな~って心配になるわ