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小説≪⑦・明日は海の日。なっちゃんと出会った日・⑦≫

   あおいさん、うちにご飯を食べに来ない?ーーいちばん最初に誘われたのは、彼女と初めてデートをした日の1週間後だった。レパートリーも少なく、食事に回すお金に事欠いていたぼくはすぐに飛びついた。そして毎月2、3度はごちそうになっていた。テーブルいっぱいのおかずが毎回並んでいて、そのうちのひとつはももちゃんが必ず作っていた。それらは必ず酸っぱかったり、辛かったり、水っぽかった。彼女の両親が同席していなければ指摘できるけど、とうぜん言うこともできずいつも無理して流し込んでいた。
 「いらっしゃい」
   いつものように、ももちゃんとその母親は玄関先で出迎えてくれた。ももちゃんの母親は、いつも以上の笑みをぼくに向けているように思えた。
「あおいさん」
   いつの頃からかももちゃんを真似て、彼女の母親はぼくをあおいさんと呼ぶようになっていた。
「ももちゃんとの婚約のことなんだけど」
   豪華な食事を終え、ももちゃんが取り寄せたという低糖質のアイスクリームを食べていたときだった。彼女の母親は満面の笑顔で口を開いた。
「え?婚約・・で、す・・か?」
    ももちゃんにとっさに目を向けた。彼女は頬を染めながらにこりとしていた。
 「婚約って言っても気負いしないでね。結婚しなきゃいけないってことじゃないんだから」
  婚約なんて、だったら婚約なんてしなきゃいいのに。心のなかの訴えなんて伝わる訳がない。
 「は、は、はい・・、はい。そう、そうですか」
   うつむいた。そんな訳ない。婚約は、結婚の約束と書くじゃないか。付き合ってまだ数ヶ月だろう。ぼくには結婚はおろか、婚約する気なんてない。
「あおいさん。ねっ?」
  彼女の高圧的な言い方は、婚約は絶対だ。反対はさせないというように聞こえた。今回の食事の、いつも以上の豪華さはそれを同意させるものでもあったのだろう。出されたものを遠慮なくすべて食べて、いつもは出ないお土産までいただいた。婚約はまだしません、そもそも婚約はしません、なんて言える訳がない。はめられた。ぼく、ももちゃんとその母親にはめられたんだ。お金が浮くからという単純な理由で他人の陣地に入り、いつの間にかそこに連れていってくれるように仕向けていた。蟻地獄だ。もう這い上がれないじゃないか。自業自得なのだから、ももちゃんを恨むのはお門違いだ。
   そうだ、思い出した。ももちゃんの父親は、初めてのデートのとき嫌な顔をしていた。婚約なんてやめなさいと言うとか、今こそ反対すべきじゃないか。彼をそっと見た。すると彼は身を小さくして、唇をかんでうつむいていた。圧、かな。そっか。そうだよな。分かってはいたけど。家の外では社長社長ともてはやされても、家の中ではヌシの妻の意向には従わざるを得ないか。この家の序列は母親、ももちゃん。かなり距離が空いて父親。ももちゃんと結婚したら、ぼくはその下のその下の最下層だ。意見なんて通らない。そもそも仲間がいない。母親はももちゃんの味方だし、父親はぼくを嫌ってる。
    ももちゃんとその母親は、婚約指輪はどこで買おうだと、どのブランドにしようと話を進めていた。婚約に同意してませんけど、なんて言えるわけがない。出したとて無視されるだけ。

 「おまえ、ももさんと婚約したんだって?」
  友達から久しぶりに電話があった。開口一番言った。
「なんで知ってんの?」
    傷が少し小さくなっていたのにまたひらいてしまった。ぼくは涙声で尋ねた。
「彼女のご家族から聞いて」
   彼女の母親が電話をしたのだろう。ももちゃんの結婚式に、友人代表として挨拶をして欲しいとかなんとか言って。
 「婚約する気はなかったんだ。婚約って突然言われて、もごもご答えていたら、知らない間に話が進んでいて・・。ま、そういうことになったよ。彼女、生まれて初めて告白してくれた相手だし、料理も、まあ、美味しいとは言えないけど、一生懸命作ってくれたり、自分を変えようと努力してるんだ。ぼくにはもったいないよ。ははは、は」
   努めて明るく言った。そうせざるを得ない。
 「まあ、色々あるよな」
  彼は何を悟ったのか同情してくれた。
「何でも思い通りには進まんよ」
  しみじみ言っているように聞こえた。まるで自分に言い聞かせるように。婚約して、結婚して、親になっている彼にもそれなりの悩みはあるだろう。将来の自分にもあり得る悩みを想像してうんざりした。
 「実は、彼女の父親から婚約に何がなんでも反対してるから伝えて欲しいって言われてさ」
「え・・?」
   耳を疑った。いま、なんて言った?何がなんでも反対してる?だったらなんであの時言わないんだよ。婚約する必要ないとか何とか。それが難しければ、少し早いんじゃないかとか言えたじゃないか。
「お前の本心を探って欲しいって言われてとも。ももさんたちに流されて婚約に同意したんじゃなくて、お前が本当に婚約したいかどうかを知りたいって。今のやり取りで、お前がももさんを大切にしてることわかったよ」
「いや・・、あのあの」
「俺が同じ立場なら、同じようにいい顔をしなかったと思う。この人と結婚するって娘が誰かを連れてきても、相手が乗り気じゃなかったら反対したくなるよ。お前が婚約に納得していることが分かれば、彼は安心するよ」
「まあ、うん・・。そうだね・・」
「彼女に多少の不満はあるかもしれないけど、彼女もおまえに対してもなにか我慢してるさ。お互い様だよ。彼には、おまえが婚約に同意してること伝えておくよ。結婚式楽しみにしてる。いつになりそう?」
「いや、あの・・・ああ」
    馬鹿だ。馬鹿すぎる。ぼくは間抜けだ。自分から認めるなんて。なんてことない内容の電話かと思っていた。断る最後の機会だったのに。どうしてそれに気がつかなかったんだ。蟻地獄のヌシに足をつかまれた。
   彼は奥さんとケンカした話や娘さんと2人でサーティワンに行った話し、だし巻き卵を久しぶりに作ったら上手くできた話しなどをした。けれどぼくの耳にはほとんど入らなかった。
  ぼくには、そんな明るい未来なんて絶対に来ない気がする。いや、来ない。

  「あおいさん。おばあちゃんのお誕生日プレゼントを買いたいから付き合ってもらっていい?」
  そう誘われたのはその週の水曜日だった。      あの日からぼくは、ももちゃんに対して少し距離を取っていた。ラインの返事をすぐに返さないとか、電話の折り返しもすぐにしないとか。そんなささやかな抵抗。けれどももちゃんが気がついている様子はなかった。
「それから、おばあちゃんがわたしの婚約者のあおいさんに会いたいって言っていて」
  あ、婚約者かあ、と言ってももちゃんはひとりでくすくす笑った。
「いいよ。はい。待ち合わせはどこにしようか」
「ええと。✕✕にしましょう。11時ごろでいい?近くに行きたいカフェがあるの。そこでお茶しましょ」
   ぼくは場所を思い浮かべた。繁華街にある待ち合わせスポットだから迷うことはないだろう。
「そうしよう。じゃあ」
「はあい。あおいさん、またね。待ってるね。遅刻しないでね」
   深いため息がでた。ますますだ。もうどうにもならないってこと。

❇️読んでいただいてありがとうございます。あおいさん、初めて好きになってくれた相手でしょうよ。その人と婚約するのってそんなに嫌かな。時期がまだ早いのか、それともまだ遊びたいってことか。あおいさんってそんな人だったかなあ。はあ、ショックすぎる。なっちゃんと一緒にいたときの、心の余裕がないあおいが好きだったのに。