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キヨメの慈雨 第一話 (ジャンププラス原作大賞・連載部門応募作品)

 進級時の恒例行事といえば、自己紹介だろう。ましてや、高校に入学してすぐの一年生のクラスとなれば尚更だ。その自己紹介が、御槌意澄みづちいずみは苦手だった。

 別に自分が嫌いな訳でも、他人に興味が無い訳でもない。ただ、言うことが無いのだ。新たなクラスメイト達は『カードゲームをやってます』とか『ギターが弾けます』とか『中学では陸上で県大会入賞しました』とか、それぞれ趣味や特技や個性を口にしているのに、意澄にはそれが無い。しかし非情にも、意澄の前の席の少女まで既に順番は回ってきてしまった。

 少女が立ち上がる。身長は170センチに届こうかというスラッとした少女だ。彼女を後ろから見る意澄の視界に、背中まで伸びる髪が広がった。席がクラスの最前列に位置しているため皆の方を向こうと彼女が後ろへ振り返ると同時、ダークブラウンの艶やかな髪から柔らかい匂いが漂ってきた。顔立ちはかなり整っており、肌にはハリがある。間近から見上げる恰好だからこそ余計にわかるが、制服のブレザーは胸元が内側から大きく押し上げられている。

(うわぁ、この子はモテるな。いや、これまでモテながら生きてきたんだな。これだけ女の子としての武器をもってるんだから、間違いない。この子だったら自己紹介なんてテキトーに喋っとくだけで、あとは周りが勝手に気にしてくれるんだろうなあ)

 意澄はぼんやりとそう思った。羨ましいともモテたいとも思わないが、こうやって自分とは決定的に違う人間を見るとどうしても自分と比較してしまう。決してかわいくはないし、モデル体型でもない。市内でもトップの県立進学校に入学したものの、天才どころか秀才でもない。歌が上手い訳でも字がきれいな訳でも絵が描ける訳でもない。せめてドジなところでもあればそれが愛嬌になったが、自分の欠点を必死に探すのもどうかと思うのでやめた。つまりは何も特別なものが無い人物。それが御槌意澄の自己評価だった。

 少女が話し始める。

「はじめまして、政本美温まさもとみおです。天領西中学校出身です。中学では生徒会役員をやってました。高校でもやりたいと思っています。よろしくお願いします」

 人の注目を集める話し方だ。狙っているのか自然にできているのかはわからないが、どちらにしろ意澄には真似できない。それにしても生徒会役員ときた。同じクラスにいるとはいえ、同じ世界にはいない。拍手を浴びることにも慣れている。そんな政本に対して意澄は、

(やばいよ何この優等生美少女は!こんなのの直後に自己紹介しろって無理でしょ!完全に喰われるよ!わたしだって没個性モブキャラなりに頑張ろうとしてるのに主人公兼ヒロインみたいな子が出てきちゃったよ!もう『趣味も特技もありません』とか言ったら変な空気になって終わるだけじゃん!)

 めちゃくちゃ焦っていた。だがそんな意澄の内心など知る由の無い担任教師が、『じゃあ次は御槌よろしく』などと言い放ってしまう。

(と、とにかく何か言わないと!)

 意澄は立ち上がる。少し目を泳がせたあと、うつむくと政本と眼が合った。まっすぐにこちらを見ている。目を逸らそうとしてすぐにそれは気まずいと思い、政本に倣って後ろを向くことにした。自分の席だって前から二列目なので何もおかしくはないと自分に言い聞かせた。

「えっと、御槌意澄です。天領東中出身です。趣味はアニメを観ることで、特技は料理です。よろしくお願いします」

 頭を下げると、拍手に包まれた。すごすごと席に着くと、また政本と眼が合う。彼女は明るく微笑んだ。

(い、言えた。何とか言えた。捻り出した。でも後味悪いな。嘘はついてないけど、アニメも料理もそこまで熱心じゃないし。趣味や特技って言い張るのは誇張なんだよね······)

 意澄の後ろの席の男子は、バレーボールをやっていてジャンプして手を伸ばしたら三メートルまで届くらしい。クラスがどよめいた。もはやみんな意澄のことなど覚えていないだろう。

 没個性な少女は、自己紹介が苦手だった。
 



 昼休み。入学式翌日の昼休み。それは高校に入って初めてのお弁当タイムであり、初めての交流の場であり、初めての高校からの友達をつくるチャンスだ。各クラスで大いに盛り上がり、クラスのグループチャットを作ろうとかこの部活に入ろうとかそういう話をすることだろう。

 それなのに、御槌意澄は学食にいた。『一年生は使うべからず』みたいな噂に怯えながら十五分も並び、ようやくきつねうどんにありつけたところだ。

(ああ今頃クラスでは色々グループが形成されていっているんだろうなぁ。完全に出遅れた。出遅れティアヌス帝も真っ青なぐらいに。学食がこんな混むもんだとは思わなかったし、そもそもいきなり学食行けとか言われるとは思わなかったし。お母さんが夜勤明けで弁当作れないっていうのはわかるし、昨日は夜勤当日なのに入学式に来てくれたのは感謝してるけどさ!五百円玉渡すだけって、せめて何か言ってよ!いや、でも待て。朝コンビニ寄ってパンとかおにぎりとか買っとけば昼休みを教室で過ごすことができた······?ああもう!)

 何か得体の知れない負のオーラを出しながらうどんを啜る一年生を周囲の生徒は不審な目で見るが、意澄は気づかない。うどんを完食し食器を返却したところで、意澄は考える。

(一刻も早く教室に戻りたいところだけど、どうしよう。わたしがいないから周りの人達は学食に行ったって察してくれるだろうけど、今戻ったら早食いの女だとか思われないかな?それはちょっと微妙かも······)

 そもそも自分が教室にいないことに誰も気づかないという可能性を全力で無視して、意澄は自販機の前で足を止めた。買いたいものは特に無いが、少し時間が欲しい。

(······校内の配置がどんな感じか、ちょっと遠回りして見ながら戻ろう)

 そう決めて、意澄は歩き出した。職員室や理科教室、部室棟を確認しながらも、意澄は考えていた。

(何か、特別なものが欲しいな。人外じみた超能力とか、怪物じみた身体能力とか、そういうのじゃなくていいから。自己紹介に困らない程度の、みんなにちょっとだけ注目してもらえる程度の、ささやかだけど特別なものが)

 昼休みになると誰もいなくなる、校内の辺境である家庭科教室の前を通って二年生の自転車置場の方を見やったときに、それは聞こえた。

「特別な力が、欲しいのではないか?」

 今度は無意識に、足が止まった。周囲を見回すが、誰もいない。ただただ自転車が並んでいるだけだ。

「特別な力が、欲しいのではないか?」

 もう一度声がした。先ほどと同じ、かわいらしい女の子の声だった。声がしたのに誰もいないことにも驚いたが、意澄の心の内を覗いたような問いかけだったことにも驚いた。

「誰?どこにいるの?」

 恐る恐る、意澄は尋ねる。

「こっちだ。茂みの中にいる」

 そう言われて自転車置場の横にある、校訓が彫られた石碑を囲うような茂みの中を探すと、声の主はいた。

 それは、青色の蛇だった。いや、蛇というにはかなり短く、20センチほどしかなかった。それに、顔がやや大きく胴が太い。それは、前に本で読んだ、

「······ツチノコ?」

「違う!断じて違う!私はツチノコではない!」

 かなりの声量で怒鳴られた。だが直後に青い蛇は呻き声を洩らす。

「どうしたの?もしかして、どこか痛いの?」

「き、気にするな。それよりお前、特別な力が、欲しいのではないか?」

「えっと、そりゃあ欲しいけど······それよりあなた、大丈夫なの?」

「欲しいのだな?」

 心配する意澄の言葉を遮るように、青い蛇が尋ねた。気迫を感じるが、どこか必死な言葉だった。

 それに対し意澄は、

「特別な力は確かに欲しい。もしあなたがそれを叶えてくれるんならそれはありがたい。でも、もしそのことであなたが危ない状況になるんならお断りだよ。だってほら」

 意澄は青い蛇を片手で掴む。「やめろ!」と威勢のいい声を出すが、全く抵抗は無い。そのままごろんと仰向けにすると、蛇の白い腹は傷だらけだった。それも、生傷ではなく古傷のようだった。

「こんなに傷だらけで、抵抗もできないほど弱ってるんじゃないの?どうしてわたしにあんな質問をしたのか知らないけど、わたしのためにあなたに負担がかかるんだったら、わたしはいらない」

 そう言って意澄は青い蛇をそっと元に戻した。すると蛇は舌打ちをして、

「お人好しか、愚か者。こんな人の言葉を喋る異形の者を目にしたら、少しぐらい驚け。それと、なぜあんな風にお前に尋ねたかだが······お前になら話してしまってもいいか」

 青い蛇はまたわずかに呻いた後、

「お前に取り憑くためだ。取り憑いて、お前の体力を使って私の体を癒すためだな。私は人の心が読める。力を求めるお前の心を見抜き、都合がいいと思った訳だ。お前の同意が無ければお前に取り憑くことができない。私はお前に取り憑く代わりに、お前は私の力を使うことができる。どうだ?お前のためなどではない、自分勝手な問いだよ。そこで聞こう。特別な力が、欲しいのではないか?」

「いいよ。わたしとしても願ったり叶ったりだから」

 即答だった。わずかに蛇が目を丸くしたが、意澄は構わず続ける。

「わたしはあなたを助けたい。あなたはわたしを使って傷を治したい。だったら何も問題ないじゃない。それで、取り憑くってどうするの?何か儀式みたいなのが必要なの?」

「··················」

 青い蛇はなぜか唖然としていたが、やがて呆れた声で、

「特に儀式などはいらない。お前の同意さえあればな。既に私はお前に取り憑いている。後はゆっくりと体力の回復を待つとしよう」

 そう言って青い蛇は、湯気のようにぼんやりと消えかけていく。

「あ、ちょっと待って!」

「······何だ?」

 意澄が止めると、蛇は億劫そうに返事をした。あまり長いこと喋らせない方が良いのだろうが、それでも意澄には確認しなければならないことがあった。

「わたしの名前は御槌意澄。この高校の一年生だよ。あなたは?」

「······ここは高校なのか。道理で若いエネルギーを感じる訳だ」

「え?あなた、ここがどこだかわかっていなかったの?」

「ああ。先ほど目を覚ましたらここにいた。なぜここにいるのかもこの傷も心当たりが無い。
というか······わたしの名前は何だ?」

「えっとじゃあ、あなたは記憶喪失ってこと?」

「有り体に言えばそういうことになる······ようだな」

 意澄は少し恐怖を覚えた。記憶を失うほどのダメージとは、どれほどのものなのだろうか。意澄が思わず頭を撫でると、蛇は舌打ちして、

「やめろ、雑に扱うな。なぜだかわからんが、私はそのように扱われてはいけない気がする」

「何それ、照れてる?」

「やめろ!手を離せ!······そういえば、なぜ私は頭を撫でられているんだ?」

「えっと、そりゃあなたを慰めたくて」

「いやそうではない。私の頭にはツノがあって、撫でられないはずなんだが······いや、どうなんだ?本当にツノがあったのか?これは本当に正しい記憶なのか?」

 この蛇、どうやら考え込むと周りを気にしなくなる性質らしい。仕方ないのでしばらく頭を撫でているが、蛇が一向にこちらへ注意を向ける気配が無いので我慢できなくなった意澄は、

「つまり、あなたは自分の名前さえ思い出せないってことね」

「······そういうことになるな」

「じゃあ、わたしが名前つけるよ」

「ほう、面白い。一つやってみろ」

 意澄は一秒の間もなく満面の笑みで、

「ツチノコちゃん」

「絶対に却下」

 一秒の間もなかった。

「え~いいじゃん!あなた、どう見てもツチノコだし」

「私はツチノコではない!断じて!」

 怒鳴った蛇がまた呻き声を洩らすのを見て少し申し訳なくなった意澄は、

「じゃあ『チコ』」

「······チコ?」

「うん。どうかな?」

 チコ、と蛇が口の中で感触を確かめるように呟いて、

「ふん、悪くないな。なかなか愛らしい名前じゃないか。気に入ったぞ、意澄」

 満足そうな蛇を見て意澄も顔を綻ばせた。

「良かった。よろしくね、チコ!」

 チコは目を細め、体から力を抜いた。

「意澄、私はしばらく眠る。姿が見えなくなるが、お前の傍にいるから気にするな」

 それだけ言い残してチコは目を閉じ、今度こそ湯気のようにぼんやりと消えていった。

 『ツノの無いツチノコ』で『チコ』ということは黙っておこう、と意澄は密かに決めた。


「えー現在、天領市内で立て続けに女子生徒が性犯罪の被害に遭っているようです。暖かくなるとやべえやつらがどんどん現れますので男女関係無く気をつけて下校してくださーい」

 SHRで何やら物騒な連絡がされていたが、さして珍しいことではないので意澄はぼんやりと聞き流していた。三年前から天領市の治安は悪いのだ。

 それよりも『クラスの雰囲気』ができつつあり、その萌芽に自分が立ち会えなかったことが意澄にとっては問題だった。昼休みにサツキとメイもびっくりの不思議な出会いを果たしてしまった訳だが、それと引き替えに意澄はクラスのグループチャットを作ろうという話に乗り遅れてしまっていた。

(どうしよう、誰かに入れてもらうしかないよなあ······でもこのクラスで誰もわたしの個チャなんかもってないし、わたしから言い出すしかないか。誰に?いやホントに誰に言えばいいんだ?このクラスの中心になるだろう人すらも把握できていないのが痛いな。とりあえず、前の席の優等生美少女さんに話しかけよう······)

 そう思いはしたものの、遠い。たった1メートルもないはずの政本までの距離が、果てしなく遠い。次元が違うとか位相が違うとか、そういうレベルで話しかけづらい。午後の様子を見るだけで、彼女には常に誰かが話しかけているのがわかった。今だって政本は隣の席の女子と会話している。そこに割り込んで頼まなければならないのは中々に気が引ける。かといって、いくら没個性の意澄でもクラスのグループチャットに一人だけハブられてるとかいう強烈な個性ボッチは嫌だ。

 一人悶々としている意澄をよそに、担任がプリントを配り始めた。どうやら、入学二日目に志望大学調査のプリントを配ってきやがるらしい。さすがは地方の進学校(笑)だ。

(プリント······ハッ!そうか!政本さんがプリントを配りに後ろを向くタイミングで話しかければいいのか!そうすればあくまでも自然なタイミングで話しかけられる!うおお脳汁すごい!孔明とか黒田官兵衛の境地に立った!)

 下らないことを確信し、意澄はその時を待つ。担任が七枚組のプリントを先頭の政本に手渡す。そして政本がこちらに振り返ったタイミングで、意澄は自らの策の致命的な欠陥に気づいた。

(これ、わたしも後ろにすぐ回さなきゃじゃん!やばい、ここで話しかけたら超不自然なんだけど。これ、もしかして詰み?)

 迷っていたほんの一瞬の内に、政本は前を向き直してしまった。意澄は呆然としながらプリントを後ろに回す。

 結局、そのままSHRは終わってしまった。本格的にまずい事態に陥った意澄が次の手を考えようとしたそのとき、政本がこちらに振り返って、

「意澄ちゃん、初っ端から学食行くなんてチャレンジャーだね。『一年生は使うべからず』みたいな噂なのに」

「··················え?」

「ああごめん、いきなり意澄ちゃんって馴れ馴れしかったね。意澄ちゃんって呼んでもいい?」

「もちろんいいよ」

 即答してから、意澄は状況を理解した。政本美温が、自分に話しかけている!

「良かった。意澄ちゃん、学食どうだったの?」

「えっと、すごく混んでたよ。前日に食券の予約ができるから、行くんだったらそうした方がいいかも。でも値段は確かに安かったし、定食注文しても購買でアイスが買えるぐらいお釣がくるよ」

「そうなんだ!今度行ってみよっかな」

 何だかベラベラ喋ってしまったが、政本は笑顔で応じた。

(すごい!チャンスだ!というかこの子めっちゃいい子!)

 意澄は思わずニヤケてしまいそうな表情筋を抑えて、

「あ、あの~政本さん」

「美温でいいよ」

「え、あ、じゃあ美温。お願いがあるんだけどさ。ちょっと恥ずかしいお願いなんだけど」

「どうしたの?」

「クラスのグループチャット、招待してくれない?わたし、このクラスの人の個チャ、誰ももってなくて······」

「何だそんなことか!いいよいいよ、意澄ちゃんの個チャを登録して、あたしが招待するから」

 何の気なしに言う美温に意澄は目を輝かせて、

「ありがとう!美温!美温様!イケメン!美少女!主人公!ヒロイン!」

「わあわあ何かいっぱい褒められた······はい、これでちゃちゃっと完了っと。招待したから、意澄ちゃんももう入れると思うよ」

 スマホに美温からの招待が来ていたのを確認した瞬間、意澄は招待を承諾した。これで晴れて意澄はハブられボッチを回避することができた。

「よし!!!!!!」

「何その力強いガッツポーズ、意澄ちゃんは一体何を抱えていたの?」

 笑いつつも美温は荷物をまとめ席を立った。

「それじゃ、あたしはそろそろ帰ろっかな。じゃあね意澄ちゃん、また明日」

「うん、じゃあね美温」

 欲を言えば美温と一緒に部活見学に行ってボッチルート完全消去を目指したかったが、美温は異世界人(誇張)であるためにそれはやめておいた。美温も色々用事があるだろう。

 とにかく、今日一日は高校生活にとって大きな前進があった。何だか不思議な出会いもあった。ツチノコに取り憑かれた女子高生ってなかなかに強烈な個性になるかも、などと考えながら、意澄も荷物をまとめ始める。

 だが、彼女の四月十一日はまだ終わらなかった。



 家に帰ると、リビングで夜勤明けの母が寝ていた。意澄の母である御槌凪沙みづちなぎさは夜勤明けの日は毎回夕方まで眠り、意澄が夕飯を作り始めると目を覚ます。意澄は、母が本当は起きているのに夕飯を作りたくないがため寝たふりをしているのではないかと内心疑っている。今日は敢えて何もしないでいてやろうかと思っていたがとにかく空腹だったため、とりあえず米を炊く。それから父の仏壇に手を合わせた。

 自室に置いた大きなリュックからクリアファイルを出し、さらにその中から今日配布されたプリントを取り出す。こういったものを親に全く見せない人もいるそうだが、意澄は小学校のとき給食費の引き落としを知らせるプリントを出さなかったために散々な目に遭ってから、毎日配布物を見せるようにしている。

(ん?二枚ある······?)

 意澄が違和感を覚えたのは、志望大学調査の用紙が二枚あったからだ。まったく同じ文言が書かれた二枚の紙が意味することとはつまり、

(誰かのを間違えて持ってきちゃった、ってことか。これはまずい。明日学校で訊いてみよう)

 そう思って何となくプリントを眺めていると、『〆切 四月十二日』の文字があった。

「今日配ったものが明日〆切ってどういうことだクソ高校!!」

 思わず叫んでいた。んー、と眠そうな声で母が抗議してきた。モノがモノだけに一日で提出できる代物ではないと思うのだが、なぜか明日提出。一年の四月段階での進路希望は全く問題ではないということなのか。それならどうしてこんなものを書かせる(ご丁寧にも脱はんこの時代に保護者印が必要)のか意澄は理解に苦しんでいたが、

(ハッ!そうだ、これが無くて困ってる人がいるはずなんだから、とりあえず訊かないと。マジでクラスチャット入れてもらって良かった、美温ありがとう!でもクラスチャット記念すべき一言目がこれってどうなんだろ、わたし『提出〆切が迫っている他人のものを間違えて持ち帰る不注意迷惑女』みたいな個性キャラ付けされないかな······?)

 などと考えながらスマホを開くと美温からメッセージが届いていた。

『意澄ちゃん、志望大学調査の紙って二枚持ってないかな?家帰ったらリュックの中に無くて、探しても見つからなかったから一応きいとくね!』

(わたしですぅぅぅぅぅぅ!ごめんなさいわたしですぅぅぅぅぅぅ!!思いっきり恩を仇で返してるよ、明智光秀も真っ青のひでえやつだよ、わたし!)

 すぐさま謝罪のメッセージを送り、美温の家まで持っていくと申し出る。美温はやはり断ってくれたが、ここで引き下がっては申し訳ない。再び持っていくと伝えると、気をつけてね、という一言と共に美温の家の住所が送られてきた。意澄はそれを地図アプリにコピペし、すぐさま靴を履いた。

「お母さん!ちょっと出掛けてくるから!」

「んー、雨が降るらしいから早く帰ってきてね。それと夕飯になりそうなもの買ってきてくれると嬉しいな」

「やっぱり起きてるんだ!」

「これも含めて単なる寝言」

 流石に無理があるだろうと心の中でツッコミつつ外に出て、自転車に乗る。

(でも、ちょっとおかしいな。美温、確か西中って言ってたのに、この住所だと天領川の向こう側なんだけど。引っ越したのかな?)

 そんなことを思いながら十分ほど自転車を漕ぐと、大きな川に出た。

 天領川。天領市を東西に分ける一級河川。水源地付近の豊富な降水量と数多くの支流によって常に満たされている、天領市民の生活基盤。そして、三年前の夏に超常的としか形容できなほどの豪雨に触発されて支流と共に氾濫を起こし、4306人の市民の命を奪った張本人。その上に架けられた鉄橋を、意澄は渡っていく。土手ではショベルカーが忙しく腕を伸ばし、腰を捻っている。

(堤防の補強工事ってまだやってたんだ。確かに後世の防災は大事だけど、それでいなくなった人が戻る訳じゃないよ)

 あの豪雨は多くの人の命を奪った。意澄の父もその一人だ。それだけでなく、生き残った人達も、住む場所や働く場所など、様々なものを失った。そうした人達はこの街を離れ、残された人達はまた失う痛みを経験し、そして傷ついた街から離れていく。そうしてまた誰かが失って、傷ついて、離れて。三年前は六十万いた天領市の人口は今年になって四十八万人を切った。それでもこの街に残った、いや残るしかなかった人々が今の天領市を形成しているのだ。

(なんて、センチな気持ちになることの方がよっぽど無意味か)

 橋を渡りきって意澄はため息をつき、気持ちを切り替えた。目的地はすぐそこだ。

 

 あれほどの優等生美少女はどんな華やかな家に住んでいるのかと身構えていたが、意外にも普通の一軒家だった。表札が無いためこの家で合っているかはわからないが、美温を信じてインターホンを押す。

 中々返事がない。失礼だろうかと思いつつ、もう一度押すと、低い男の声で返事があった。

「······どちら様で?」

「えっと、わたしは美温ちゃんの同級生の御槌意澄といいます。美温ちゃんのプリントを間違えて持ち帰ってしまったので、届けに来ました」

「······そうか。まあ入りなよ」

 男はそう言うと、すぐにドアを開けた。中肉中背の、メガネを掛けた四十代の男だ。

「いえ、お構いなく。これを美温に渡していただければ······」

「いいから、入りなよ」

 男は意澄の腕を持ち、半ば強引に家の中へ引き入れる。

「お、お邪魔しまーす」

 意澄は恐る恐る靴を脱いだ。玄関には意澄のもの以外に男の靴一足しかなかった。美温はまだ帰っていないようだ。男がドアの鍵を閉める。

「こっち入って」

 男に案内され、意澄はリビングに足を踏み入れた。

 ガチャリ。ドアが閉まった。

 その瞬間、意澄はうつ伏せに押し倒されていた。抵抗しようにも両手が動かない。後ろ手で縛られているのだ。しかし、先ほど男は何も持っていなかった。

(一体どうやって!?)

 立ち上がろうと膝を曲げたところで、前方に回った男が意澄の髪を乱暴に掴んだ。

「ひひ!ひひひひひ!」

 男が気持ち悪い笑みを浮かべた。担任が言っていた『女子生徒が性犯罪の被害に遭っている』という物騒な言葉が、意澄の目前に迫る。

(やばいやばいやばいやばいやばい!)

 そうはわかっているが、考えがまとまらない。心臓が狂ったように跳ねる。目を瞑ったら恐怖に呑まれる。とにかく周囲に目をやると、それはそこにいた。

 体長20センチほどの、顔がやや大きく胴が太い、青色の蛇のような生物。記憶喪失の、傷だらけの生物。

 チコと名付けられたそれは、名前をくれた少女に力強く語りかける。

「意澄、お前には力がある」

 その声を聞いただけで、不思議と安心できた。暴漢など気にも留めず、ただ意澄にだけ、チコは語りかける!

「お前には、特別な力がある!」

 その言葉を信じて。少女は、戦う決意を固めた。


〈つづく〉

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