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キヨメの慈雨 第二話 (ジャンププラス原作大賞・連載部門応募作品)

 男は両手を縛った女子高生を前にして尚、手を出せずにいた。自宅のリビングに、何かがいる。蛇と呼ぶにはあまりにもおかしな、青色の何かが。それが力強く少女に言い聞かせる。

「お前には、特別な力がある!」

 それは、少女に勇気を与えた。それは、暴漢に恐怖を与えた。たった一言で、両者の立場は逆転していた。


 チコに気を取られている男に、意澄は思い切り喉突きを喰らわせる。それから両手が自由になったことに気がついた。すぐに立ち上がり、呼吸がおかしな男から距離を取る。

「チコ!どういうこと?わたし手縛られてたんだけど!?」

 男から目を離さずに意澄が尋ねるとチコは、

「言っただろう、お前には特別な力があると。つまりそういうことだ」

「······いや説明になってないよ?何、あれってわたしを精神的に励ますやつじゃないの!?」

「覚えていないのか?私はお前に取り憑く代わりにお前は私の力を使うことができるんだぞ」

「じゃあ、さっきのはチコの能力······?」

「まあ、有り体に言えばそうなるな。私は、というよりお前は水を操ることができる。さっきのはお前の体を水に変えたんだ。肉体を水に変化させたり水を生成したりするのは精神・生命両方のエネルギーを消耗するから多用は控えろ。それと、敵が立ち上がるぞ」

 男はようやく正常な呼吸を取り戻したが、それでもその息は荒い。顔を真っ赤にして意澄を睨みつけ、怒鳴り散らす。

「何だよ!どうなってるんだよ!縄がほどけた訳でもねえのにどうして動けるんだ!おいジョーバク、どうなってるんだよ!?」

 ジョーバクとは何だ、と意澄が思ったとき、男の足元に煙が立ち上るようにそれは現れた。

 その動物の平均的な大きさを意澄は知らないが、常識的な大きさと言えるだろう。体高70センチほどの、下顎が妙にしっかりしたバク。それが、虚空から男の呼び掛けに応じて現れた。

 ジョーバクと呼ばれたそれが口を開く。

「あーっと、ありゃあおれと同じコトナリだな。間違いねえ。ただ、サイズが小せえから大したことないんじゃねえかな。早く縛ろうぜ、あのコトナリはお前がお楽しみの間におれが食っちまうからさ」

 コトナリ。意澄にはそれがどんなものか詳しくはわからないが、何となくチコやジョーバクのような不思議な生物の総称なのだろうと察した。それを、食う。コトナリは共食いが可能なのだろうか。

「そうだなぁ。おれとジョーバクなら、どんな女の子も縛り放題だよなぁ!」

「何それキモッ」

 意澄が思わず呟くと、男は奇声を上げながら腕を振り回す。決して拳の届く間合いではないが、何をするのか。意澄のその疑問はすぐに解けた。

 男の手から、縄が飛び出す。これが男の、ジョーバクの能力。先ほど何も持っていない男が意澄の両手を縛ったのもこの力を使ったのだろう。

 胴をめがけて飛んできた縄を意澄は横に跳んで回避する。続けて右足を狙われるがこれは足を上げて避け、首に飛んできたものは上体を反らしてかわし、左手に絡みつこうとする縄は手を引っ込めてやり過ごした後で縄を掴み、思い切り引っ張ると男が前につんのめった。向かってくる腹に思い切り右足を突き刺すと、男は変な声を洩らして壁にぶつかるまで後ずさった。

「すごい、体が勝手に動く!わたしもしかして戦闘センスある!?」

「図に乗るな、愚か者。私がお前の体を操っているだけだ。感覚や筋力も強化している」

「何それ、チコそんなこともできるんだ!」

 このやり取りに反応したのは、男よりもむしろジョーバクだった。

「お前、コトナリヌシの体を操ることができるのか!?まさか、上級コトナリ······いや、だとしたら、なぜこんな高校生なんかに憑いてるんだ!」

「······上級?私がか?ヌシの操作は皆できると思っていたが」

「えっと、よくわかんないけどチコは実はすごかったってことでいいんだね?だったらさっさとやっつけちゃおう、こんなやつら!」

 男が気味の悪い息を洩らしながら意澄を睨み、再び縄を発射する。それを意澄は難なく避け、掴みとり、打撃を浴びせる。それをしばらく繰り返しているうちに男は肩で大きく息をするようになった。しかし意澄もまた少し息切れし始める。いくらチコが体を操っているとはいえ、やはり元の体力は意澄のものだ。

(このままヒットアンドアウェイだとこっちが先にダウンするかもだし、何か決定打が欲しいな)

 そう思った直後、男が両手を使って縄を発射した。それもこれまでのように片方から一本ではない。十本の指から同時に縄が放たれたのだ。その縄は瞬時に蜘蛛の巣状の網を形作り、意澄に覆い被さるように飛んでくる。上下左右前後、どこに逃げても間に合わない。驚きつつも、男が苦悶の表情を浮かべたのを意澄は見逃さなかった。

(急激に力を使うとやっぱりしんどいんだ。たぶん、相手に限ったことじゃなくてわたしも同じ。でもやるしかない!)

 意澄はアッパーカットのように腕を下から振り上げた。瞬間、何の変哲もない床から噴水が湧き上がる。上昇する水の塊は網ではなく男の手をはね除け、網の軌道をわずかに逸らす。そのことで生まれた空間を転がって意澄は網を回避した。ギリギリと脇腹が痛み、汗が滲む。先ほどチコが言った通り、水の生成にはエネルギーを使うようだ。

 噴水が勢いそのままに男の顔にぶち当たった。男の視界がほんの数秒奪われているうちに、意澄はリビングから飛び出した。一瞬だけドアの方を見やるが、決して逃げない。勝手のわからない他人の家で若干迷子になるが、すぐに洗面台を発見した。高圧でぶつけてぶちのめすにしても顔を包んで気絶させるにしても、大量の水がいる。だがそれだけの水を生成すると体力が保たないだろう。そのため、水道水を確保しに来たのだ。

 蛇口を捻ろうとして、意澄は驚く。蛇口が縄で固く縛られていたのだ。試しに捻ってみるが、チコに強化された筋力でも動かせない。意澄は一瞬だけ自分の貧相さを恨み、すぐに浴室のドアを開けた。だがそこの蛇口もまた固く縛られている。

 ガチャリ、とリビングのドアが開く音がした。五秒後か十秒後かわからないが、すぐに男はこちらに向かってくるだろう。意澄が洗面所や浴室に来ると読んで、予め対策していたのだから。

 意澄は舌打ちし、浴室に入って扉を閉め鍵をかける。だがこんなものは気休めだろう。いくら筋力の強化が無いとはいえ、相手は成人男性だ。浴室のドアぐらい何度か体当たりすれば壊せるだろう。

 使えそうなものはないか、辺りを見回す。浴槽には蓋がされている。もしかしたら、お湯が張ってあるかもしれない。期待しながら意澄は蓋に手をかけ、そして凍りついた。

 まだ17時を少し過ぎたぐらいだ。風呂にはまだ早い。それなのに、もうお湯を張るだろうか?もしお湯を張っていなかったら、何のために蓋をしているのだろうか?そして、暴漢が潜んでいたこの家は、元々誰の家だっただろうか?一度インターホンを鳴らしたのに中々応答が無かったのは、誰かをここに隠すためなのではないか?

 そこまで考えて、意澄は蓋を凝視した。蓋の下にあるのは、勝利へのラストピースかもしれない。でも、もしそうではなかったら。意澄は取り返しのつかないものを見てしまうことになるのではないか。意澄のできたばかりの友人は、意澄に陰惨な状態を見られることで、取り返しがつかなくなってしまうのではないか。そう思ったら、この蓋を剥がせる訳がなかった。

「············ごめん」

 呟き、意澄は蓋から手を離した。代わりに使えそうなものは他にないか、もう一度見回す。風呂掃除用の洗剤があった。チコをリビングに置いてきてしまったが、出てきそうな気がして試しに尋ねてみる。

「チコ、これ操れるかな?」

 すると案の定足元の虚空からチコが現れて、

「いや、水の成分があまりにも少ない。無理だな」

「そっか······じゃあどうしよう」

 男がドアを破ったタイミングで洗剤を顔面にかけて隙を作りそこから肉弾戦で畳み掛けるか、と意澄が考えていると、あることに気がついた。

 浴室にあるシャンプーもボディソープも、男物だ。女子高生が使うようなものではない。おまけに、美温のあの美しい長髪を維持するためには、シャンプーだけでなくコンディショナーなどが必要だろう。だがそれも無い。

 つまり、

(どういう訳か知らないけど、ここは美温の家じゃない!美温が住所を間違えて伝えた······?
何にせよ、この蓋は開けて問題ない!)

 意澄が蓋に手をかけたそのとき、

 ゴシャッ!!という音と共に、勢いよく浴室の扉が破壊された。意澄の見通しが甘かった。あまりおすすめはしないがやってみればわかる。浴室のドアは、思い切りぶつかればすぐに破ることができるのだ。

 ドア板越しに男にプレスされる。かなり重く、身動きが取れない。

「蓋の中、覗かなかったんだ。偉いね~」

 男が馴れ馴れしく話しかける。

「おれはいつもね、女の子を楽しませるときはその子に目隠しするんだ。おれの顔を見られないようにね。でも、その蓋の中には目隠しできなかった子が入ってる。わかるかい、おれの顔を見た子は生かさないよ。いっぱい楽しませた後で申し訳ないんだけど、殺しちゃったんだ。で、その蓋の中にはその子の死体が入ってるって訳。このことをずっと誰かに言いたかったんだけど、何の勘違いか君が来てくれて良かったよ~。君は始めからおれの顔を見てるし、楽しませた後で殺すつもりだったからさ」

「あんた誰に向かって喋ってるの?」

 語ることで悦に入っていたような男を、意澄は浴室の外から冷めた目で見ていた。浴室の外といっても、浴室の小窓から家の外に出たのだが。それに気づいた男が慌てて何かを叫びながら玄関に向かっていった。

 意澄は言う。

「チコ、もうひと頑張りだよ!」

 家の外は、既に暗い。


〈つづく〉

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