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ギリシャ旅


初めての1週間旅行。ギリシャに来る前は、正直に特に何も期待をしておらず、強いて言えば、哲学・パルテノン・ヨーグルトくらいだった。しかし始まってみれば、出会いの連続だった。のんびりと過ごした1週間だったけど、僕のとってはとても刺激的な日々だった。
そんな刺激的な日々を、飛行機の中で振り返っていきたい。
僕はこの旅で学んだことは3つある。それらを淡々と振り返り、読んでくれているみんなにこの学びを共有していきたい。

行動記録をざくっと書いてみた。

<行動記録>


1日目 Inn近くの地元レストランで食事
2日目 パルテノン神殿へ行く
3日目 アテネ内を散策 ヨーグルトをパルテノンを望みながら食べる
    ソクラテス・プラトンの石像を見つける
4日目 海まで歩いて行く(3時間)
5日目 部屋でのんびりする
6日目 国立美術館に行く 美味しい中華料理屋さんを見つける 海に行く
7日目 アテネを散策する
8日目 行きつけのパン屋さんでパンを買い公園で食べる

特に目立ったことはしていない。ただ全てが刺激だったことを改めて強調しておく。

<時間>


僕は日本にいた時もドイツにいる時は、忙しなく動いている。常に時間を気にしながら動いている。ただこの旅で学んだ一つ目のこと、それは時間という存在だ。これを読んでくれているみんなに「あなたにとって時間という存在は?」と尋ねれば、なんと答えるだろうか。もちろん、全てが正解であり、間違いなどない。ただ僕の答えはこうなるだろう。
「時代の目撃者」
なぜか?僕はテラスでコーヒーを片手に考えてた。この日の満ち欠けも、時間の経過もあの偉大な哲学者も僕達も同じように過ごしていた。時間という存在はこの地球が誕生する前から今日に至るまで存在している。今日、僕が服にコーヒーをこぼしても、大きな失敗をしても、この時間という存在からすれば、ほんの小さなことにしか過ぎない。
よくみんなが言う「時間が解決してくれるよ」これはどんな意味なのか、もう一度考えてみてほしい。もし僕が今日死んだとしても、おそらく何十年後には、だれの頭の片隅にもこの事実は消えてしまっているのかもしれない。「時間が解決してくれる」これは良い意味でも悪い意味でも魔法のような言葉なんだなと感じた。今日の自分は時間という存在を認識できているのだろうか。もしその存在を認識できていいないとすれば、僕は時間に支配されいる。事実、僕がギリシャに来るまでは時間に支配されていた。よく人生は有限という。僕はこの言葉に強い感銘を受けていた。確かに有限である。ただ考えて直してほしい。本当に有限なのかと。今日の世界史の教科書の最初の方に出てくるプラトンやソクラテス、僕は思う、彼らはまだ生きていると。
この辺りから岡田洋之佑は何を言ってるんだと、なってきているかもしれません。ただ僕は改めて考える機会を得て、また新しい発見をしました。
なぜ僕が彼らがまだ生きていると思うのか。勿論、彼らの肉体はすでに土へ還ったかもしれません。しかし、彼らの魂や言葉は今日の現代人にも受け継がれています。
ある哲学者の言葉をこの旅の間に見つけました。それは
「人間という生き物は魂と肉体に分けられる。その魂はただ死体を背負っているに過ぎない」
この資本主義の現代。僕たちはどう生きるのだろうか。お金を持てば持つほど、力が強くなる仕組みの今日に、僕達は何を残せるのだろうか。僕は改めて「人生は有限」ではなく「人生は無限」だと言うことに気付かされました。時間に支配されるのではなく、時間を認識して更に先の時間を見通す。時間という存在を知ることから始めなければいけません。だから「無知の知」は大切なんでしょう。

<自然>


実を言うと、僕は観光地に行っても特に何も感じないことが多々ある。「あーなるほどね」程度で終わることもよくある。今回の旅で訪れたパルテノン神殿はどうだったか。正直に最初は「あーなるほど」と思ってしまった。ただ一回座って喋りながら考えていると、生きとし生けるもの人間の理性が創造された場所であることが次第に理解できるようになってた。歴史というロマンに少し触れられたかなと思った。でも鳥肌が立つほどでもなかった。その翌日くらいに海に友達と3時間かけて歩いていった。
そこでみた光景とその迫力は自分に大きな刺激を与えた。
この与えられた衝撃を言葉にするならばこうだ。
「地球が生きている」
僕は一瞬ではあったがこの地球と繋がれた気がした。そして同時にあの哲学者たちにも会えた気がした。何千年も昔でも、あの哲学者たちは同じ山脈とこの海を見たんだ。そして人の生き方について説いていたんだ。その瞬間、僕の名前でもある洋之佑という名前が頭に浮かんだ。僕の岡田洋之佑の洋は海という意味を込められているそうだ。
あの海が運んできた風に言葉では表現できないメッセージを感じた。そして初めて海で鳥肌がたった。僕の両親にこの素敵な名前を与えてくれたことに大きな感謝をしたい。
人間という生き物は自然の法則には逆らえない。しかし、人類は進歩し過ぎたが故に逆らっている。人間は賢い生き物だから、こうなることは否定しない。だた自然の法則を知ることが必要だと思った。僕は別に神を信じない。でも全て自分に起こることには偶然はなく、必然だと思いっている。いつも僕が新しい挑戦をする時は山に登ったりする。それは自然という力を相手に自分が挑むことで、新しい何をを教えてくれるような気がするからだ。人間と時をともにしてきた自然を僕達はどう対話すべきなのか。便利になり過ぎた時代だからこそ、心で何かを感じることが必要なのではないかと教えられた。

<現代>


この便利になり過ぎた現代を僕達はどう生きるべきなのか。単刀直入に、人間は「考える」という行為をやめてはいけないと思った。たとえば、今日どこかの駅からどこかの駅に行くとすれば、みんなはどうするだろうか。僕だったらGoogle Mapを開いて調べる。しかし、これがひと昔前だったらどうだったろうか。おそらく、時刻表を見て、どこで乗り換えできて、何に乗るのかを考えていたと思う。もっと昔なら書いた地図を頼りに進んでいたり、太陽や北極星をもとに進んでいたと思う。しかし今日はどうだろうか。行き先を入力すればおしまいだ。便利になり過ぎたからこそ、「どうでもいいこと」について考えなければいけないのだろうということに着想した。僕の場合だと「夢を叶えるために何をすべきだろうか」ということを淡々と考える。こんなことをテラスでずっと考えてた。でも考えて考えて考えた末に僕は何故か泣いてた。思考が巡り巡ったのだろうか。僕は涙が溢れ出ていた。
この考えるという行為を無くして、本当の幸せは手に入るのだろうか。僕の解釈だと「いいえ」だ。欲しいものが全て手に入っても、しばらくすれば「幸せ」という感情はないだろう。それが当たり前になってしまえば、もう幸せとは思えなくなる。
僕はこの旅行で友達とくだらない話をして、どこまでも歩いて、めっちゃ笑って、一緒にご飯を食べたりして思ったことがある。これが僕にとって幸せなのかなと。ただまだ断言はできない。なぜならば、僕はまだ人生という旅を途中だから。当たり前の日常を当たり前に過ごすこと。大きな挑戦をして、失敗をして苦労をすること。これらが表裏一体となって幸せになるのだろう。僕の夢は「ひとつでも多くの環境問題をビジネスを通じて解決する」こと。僕は間違いなく茨の道を歩くだろう。別に僕は富豪になりたい訳でも、名声を得たい訳でもない。ただ誰かの心の中で生き続けたい。そして今日が最期の日のように当たり前の日常を大切に生きる。これがこの旅で学んだこと。

<終わりに>


刺激的な毎日で日々新しい感情との出会いだった。僕に欠けていたものが少し見えた気もした。
なぜ?という言葉と自分なりの解釈、そして信念を持つことは生きる上でとてつもなく大切なことだと学んだ。これからも夢に向かって岡田洋之佑らしく歩んでいきたいと思います。
ここまで読んでいただきありがとうございました。

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