『ブルーシート』舞台評 (飴屋法水作・演)『テアトロ』 2016年

詩的モダニティの舞台

 飴屋法水が現代美術の現場から舞台芸術の場に再び戻ってきた2000年代の中頃だろうか。彼の作る舞台芸術の作品の所々には、強くリリカルな部分が現れている。たとえば『転校生』のときに使われた、空間を常に満たし続けた時間を知らせる電話時報の音。それは、その場だけに成立する時間の瞬間性を際立たせた。『転校生』の舞台に立ったのは、実際の高校生たちだった。彼/彼女たちが卒業するまでゆるされる高校生という時間、それを端的に、しかし絶対的な限りある時間として示した。

 示される時間ともう一つの軸として、それが成立するための空間。この場合は高校の教室という同じく限定された空間がある。この時間と空間の二つを交差させること。演劇作品を構成する本質的な要素として、空間芸術と時間芸術としての演劇の特殊性を際立たせる結実がそこにはあった。

 2013年に初演されて、昨年には岸田戯曲賞を受賞した『ブルーシート』という作品もまた、同じような要素を持っていた。端的に初演のキャストが高校生だったということはある。福島県のいわき総合高校の演劇の実習授業として、この作品は作られた。今回、2年経った彼/彼女たちと新たなキャストを含んで、再び『ブルーシート』はいわき総合高校とフェスティバル/トーキョーの招聘作品として上演された。

 東京の会場は、池袋から少し離れた千川という駅の近く。合併により廃校となった豊島区の旧第十中学校のグラウンドで、広がる校庭を見渡せる一角だった。当日券で立ち見もでる盛況な状況であったとしても、どこかガランとした殺風景な印象がある。

 実際、そこに置かれた舞台美術は、なにかを抽象的に、もしくは具体的に提示するような舞台美術ではなく、まるで即物的なものとしてあった。上演に参加できなかったかつてのキャストの映像を見せるテレビとスピーカーを除けば、椅子や人体模型、部活の道具として金属バットやギターなど、学校にあるごくごく普通のものだ。ただし、東京の会場はいまや使用されていない廃校のグラウンドなので、学校のグラウンドだとしても、まったく違った趣が伴う。どこかしら、もうすでに終わったものという感覚が漂うのだ。

 たとえて言うならば、子供たちの声によって普段はにぎやかであるはずの学校が、夏休みや休みになると誰もいなくなり、瞬時に静けさに満たされたとき。しかし、それはまた再び賑やかな空間を取り戻すという前提があるからこそ、その対比が学校という特別な空間を成り立たせる。

 しかし、その旧中学校はかつてなにかあったかもしれない空間としての面影をどこかに残しつつも、もうその頃を取り戻すことがない。いまや完全になにもない空間となっている。だから、必然的にグラウンドに置かれたものは、今となっては必要のない、いつまでたっても取り戻されることがないものになる。それらは学校という場所だからこそ使用されるものであって、そこを離れたら価値をもたない。ある一時期の、ある場所の、特権的な時間と空間として過ぎ去った後のなかに置き去りにされるのだ。

 そのような、どこか空虚な感覚をはらみつつ、東京公演の初日は雨が降りしきるなかで行われた。基本的に物語の内容はシンプルだ。かつて『ブルーシート』に出演したものたちが中心となって、一昨年の初演時の物語をあるていど踏襲している。ただし、それから2年経っている以上、彼らにも当然変化が訪れている。

 正確に言うならば、そもそもとくに明確なストーリーラインがあるわけではない。基本的にはかれらが話しているかもしれないような日常の会話たちの集積として、いくつものシーンによって構成される。ただし、言葉は詩的な繊細さのなかで、ときに訥々と、ときに溢れるように語られる。また、非常に深く、聞いているものに響いてくる。

 たとえば、女の子が好きな男の子に告白するシーンがある。男の子は彼女のことをぜんぜん知らないといって断る。名前しか知らない、だからつきあうわけがない、とぶっきらぼうに言う。確かに、かつて学校という場所では、特によく知らないはずの人に対して、今から思えばなぜ恋心を抱いていたのか、理由がよくわからないことがある。

 しかし、その女の子は、かれの一生を予想して語ってみせる。よく知らないまま二人は結婚し、よく知らないまま二人は子供ができて、よく知らないまま年をとる、という未来の姿。きっとこういうようになると話す。それは、多くの人が歩むかもしれない道と言える。たとえその時でなくとも、大人になってだれかと出会って、そしてなにかいろいろあって人生を終えたとしても、概してそのようなものかもしれない。

 そして、本質的には誰であれ、誰かのことをよく知っているとは何なのか、ということに直面する。たとえつきあって、結婚して、その人と多くの時間を費やしたとしても、その人のことを知っているとは何なのか。そんな単純なこと、まるでかつて高校時代にふと思って、考えて、そしていつしか忘れていったことをさらりと話す姿は、かつて自分も経験したかもしれない姿を重ね合わせるだろう。

 それだけではない。ギターを弾く生徒、金属バットやフラフープで遊ぶ生徒。それぞれの生徒におそらく当て書きした台詞のなかにある個人の特徴的な部分を話す彼らは、他愛もないからこそ、そのどれもが観客も過ごしたかもしれない高校生の頃のありふれた光景となる。少なくとも見たことがあるかもしれない風景としてある。そして、そのありふれたなかに、同じように福島の第一原子力発電所の事故の影響が、かれらの日常として語られる。

 それは、日常と非日常を区分けできるものではなく、普段の生活とは確かに違っていても、曖昧な線上にある空間だったのではないか。たしかに、震災に近い日の記憶が語られもする。そのときは間違いなく非日常的だろう。しかし、そこから日が経ってあらわれたのは、日常空間のなかに入り込んだ、本来非日常的であったはずの空間である。その距離感が圧縮されて普段の生活となっている。

 彼らが両親の仕事を語るシーンでは、震災や電力関連の仕事に関係しているものもいる。どこか口ごもっているのではないかと思わせながら、しかし普通に話すかれらの背後に何があったのか。そこに否が応でも観客に想像させる彼らの日常の変化がある。

 今回の作品は初演から2年後ということもあって、今の彼らの現状を示す台詞も多い。アルバイトやいま働いていること。初演の時に書かれた戯曲にはない台詞がかなりある。テレビモニターで映される、かつて参加していまは妊娠中のため参加できない子の姿もそうだ。まったく、内輪的な感覚に終始することなく、常に作品の外部の状況と否が応でも接点をもつ構成となっている。

引き裂かれた抒情

 だから、そこには先に述べたような、すでに終わった時間のなかにある空間としての旧中学校の校庭というものとは、まったく背反するように途切れることなくなだらかに変わっている持続のなかの時間が現れる。それはどこかわれわれの通常の感覚とは違う歪な空間であると同時に、時間の本質でもある。物理的な時間ならば何年の何月、何日、何時と区切ることはできる。しかし、空間のなかの時間というのは本質的には純粋に持続されるものである。区切りというものは人間の感覚以外のなにものでもない。過去と現在という区切りは時間そのものには本来的にない。

 具体的に言ってしまうならば、震災と福島の原発事故がもたらしている時間の変化が映し出されているこの作品は、廃校となった学校を使ったことや卒業した高校の生徒たちという、幾重にも重ねられた区切ることができない時間を提示している。だから、平田オリザの『転校生』とは本質的に違う。高校生という限られた時間はあったはずなのに、それがむしろ区切りとして映されるのではなく、その地点から段々に変化しつつづける姿に焦点があたる。

 また、確かにこの作品は高校生たちの日常をリリカルな言葉にのせて描いているかもしれない。奏でられる音もそうだ。それは一歩間違えばセンチメンタルになる。しかし、この作品が感傷的でまったくなく、ノスタルジックでもないことに、その近接性がありながらも絶対的に違うことの重さがある。1980年代の演劇の流行ともなったノスタルジーというタームは、いまなぜか姿をかえてリバイバルしている。たとえば、マームとジプシーが野田秀樹の『小指の思い出』を選び上演することもそうだ。それこそ、出演だが飴屋法水もそこにいた。また『cocoon』でも、凄惨さにかき消されそうになりながらも全体を覆うノスタルジックな思いを見つめる視線が含まれていた。

 では、それこそ80年代に演劇活動に手を染めていた飴屋法水もそうなのだろうか。実際にその頃の作品を見ていないので何とも言えないが、少なくとも、この2000年代の作品たちはノスタルジーとは絶対的に似て非なるものだ。どれだけセンチメンタルな音があっても、どれだけかつてあった風景を回想しても、そこにまったく耽溺しない。劇詩ともいえるようなポエティックな要素もあるが、それは抒情に浸らない。むしろ、浸ろうとする瞬間に常に現実が介入させられる。それは福島の現実を映そうということとも微妙に違う。むしろ、キャストたちの姿をただ描こうとしているだけなのではないか。その意味で、かつてのアンダーグラウンド演劇のように、その舞台に立っているものたちを見ているだけなのだ。

 願わくばまたいつか、それは何年後か、それとも遥か先のことになるのかはわからないが、またこの作品を見てみたいと思う。その時は、私たちが考える時間として区切られた地点である2011年3月11日というのは、おそらくかつて起こったあの時のこととして、その時間の中に閉じ込められているかもしれない。しかし、この作品は初演から二年経って上演された今回と同様に、あのとき、あの地点から変わり続ける持続のなかにある時間を生きる彼/彼女らの姿を舞台に現すだろう。


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