『火傷するほど独り』 「テアトロ」 2016年7月号

物語の可能性

 かつて「物語から遠く離れて」いくことが、小説の小説たるゆえんであることが論じられた。一九八〇年代の日本のポストモダン・ブームのころ。たとえば、蓮實重彦の『小説から遠く離れて』の一章では、井上ひさしの小説の物語について言及された。その批判の根底には、小説とはなにか、ということがあった。小説とは物語を描くものではない。いかに書くか、それはエクリチュールの生み出す快楽へと誘うことが、小説というものであると述べられた。ヌーヴォー・ロマンやベケットなどのモダニズム文学の核心を敷衍したと言ってしまえばそれまでだが、日本の文学シーンに明確に小説とは何かが提示された。だからこそ、その理論は一世を風靡し、それまでの小説の概念が刷新されたように時代には映ったのだろう。

 その実践は、最近発表された蓮實重彦の三作目の小説『伯爵夫人』をみれば顕著にわかる。ポルノかのようなエロティックな描写の連続であっても、そこにポルノ小説とは絶対的な違いがある。エロスを描くことが目的ではなく、書くことそれ自体が退屈なまでの快楽であり、そこに浸ること。描写とはそのようなものである。

 だから、たとえ井上ひさしが文壇的には数多くの審査員をして、おこぼれを授かっていた演劇業界にとってはありがたい存在であったとしても、晩年には小説を生み出していないのは、その問題を越えられなかったことが関係するのではないか。むしろ、演劇業界ならば許容できてしまったのである。

 ただし、その一定以上の意義をもった物語論も、現象としては「ニューアカ」と呼ばれた、ニューアカデミズム・ブームの中にあり、新しい学問の起こりというよりもトレンドになってしまった。その影響を受けて生み出されたニューアカ・キッズたちのような、言説の周辺をたむろする亜流の人々の言葉をいまだに見ると、もはや恥ずかしさしかない。当時の最新のものとして飛びついて以来、その後何も学んでいない。いまとなっては罪作りな現象だ。

 しかし、同時にすでに経過したはずの物語論はまだ終わっていない。すでに前提となっているというよりも、知らないことによって昨今の作家たちの物語は紡がれている。たとえば、山谷典子作、藤井ごうが演出した『名も知らぬ遠き島』という作品。ここで扱われる、戦争や抑留といった問題は、物語を推進させるための動力にすぎない。これほどまでに通俗的な物語に仕立て上げたのは、確かに見事としか言いようがない。ここまでくると物語論の欠落というより、善意を伝えるために対象そのものを見つめるための倫理は完全に看過されている。

 むろん、物語を紡ぐことの問題は、つねに繰り返されている。なにも八〇年代に提唱された物語論の特権的なものではない。たとえば、岸田國士はどのような台詞が描かれるかが重要であって、そこにどのような物語が描かれているかに関しては否定的であった。たとえ、背景には同時代的にプロレタリア演劇の戯曲のような明確な筋とテーマによって戯曲の伝えるべき目的がある作品たちが対置されたとしても。そこには物語を提示するのか、エクリチュールそれ自体を提示するのかといった二元的な論がある。戯曲派は、台詞という劇詩、もしくは口語体の文体そのものを提示することが主眼となった。

 さらに補助線をひけば、チェーホフを例にとればよい。チェーホフの戯曲がそこにある物語を提示することに留まるだろうか。むろん、そのような演出がありうるのは確かだ。しかし、日本の戯曲でおそらくもっともチェーホフの導入に成功した作品の一つであり、岸田國士に瀬戸内海の劇詩人と称された小山祐士の『瀬戸内海の子供ら』などを見ても、少なくとも物語が重要なのではなく、そこで書かれる台詞のやりとりと関係にこそ重きがおかれる。遡って考えても、それらは何も新しくはない。

 だが、そのような歴史の果てに物語はどのような姿を見せているのか。単に知らないという論外ではなく、それらを踏まえて物語はどのように描かれているのか。ワジディ・ムアワッドという作家はその状況を代表する一人である。

『火傷するほど独り』

 そのムアワッドの作品が再び日本に招聘された。静岡芸術劇場が主催する「ふじのくに せかい演劇祭」が彼の作品を、しかも一人芝居の作品を呼んだのだ。すでに『頼むから静かに死んでくれ』という邦題で、『沿岸』が二〇一〇年に同じフェスティバルで上演されている。そのときも妄想とファンタジーが入り交じったなかで、凄惨な光景があった。もっとも彼の名前がここ数年日本でも脚光を浴びている理由は、世田谷パブリックシアターが『炎 アンサンディ』という映画化(邦題:『灼熱の魂』)もされた代表作を、日本人キャストと演出家で上演したからだろう。それが、いくつかの演劇賞を受賞したことは記憶に新しく、近々に再演もなされる。

 『オイディプス王』の物語をベースに、レバノン内戦、もしくはムアワッドその人の流転を重ね合わせることができるこの作品は、『オイディプス王』の物語が現在においてもまったく古びることなく、いや現在だからこそリアリティをもって迫ってくることを示している。いわば、悲劇という理不尽な物語は、カタルシスが導入されることを含めて、必要とされているのだ。それはもはや物語は出尽くし、これ以上何もないという状況を越えて、いまだからこそ出尽くされたはずの物語の原型が必要とされることを知らしめる。

 今回上演された『火傷するほど独り』という作品は、博士論文を執筆している大学院生の男の物語だ。かれは同じくカナダのケベックの先達で世界的な演劇人であるロベール・ルパージュの一人芝居の作品について執筆している。論文の提出日が急遽早まり、急いで結論を出すという事態に陥る。ロシアでレンブラントに触発された『放蕩息子の帰還』という作品を作っているというルパージュ自身にインタビューをしようと試みるなかで、父が突然倒れたことを知る。そして、医者から容態が悪い父へ言葉をかけるように言われ、その中でさまざまな記憶が回想される。

 ベイルートでの子どもの頃の思い出、爆撃によって爆風に晒された母のこと、アラビア語のこと、ケベックに着いたときのこと、何気ない個人のエピソードとそれを打ち破るように外部の凄惨な世界が迫る。もちろん自身の内面世界のなかへと深く入り込んでいくからこそ、ただ淡々とエピソードが並べるだけなのに、それらの一つ一つの話が深みを増す。エピソードだけを単体でそれぞれ取りだすと、逆にたとえどれだけ悲惨な世界であろうと、父や母など家族をはじめとした、日常の世界が存在していることに気づかされる。父を媒介にした他愛もないモノローグとして語られる典型的な小さな物語だが、レバノンからケベックへと、気温や風土、個人の経験が移動を繰り返すなかで見えてくる。そこには広大な展開があるかのような感覚に陥らせる。記憶のなかで現れるロードムービーといっていいかもしれない。

 むろん、テーマなるものをあえて取り上げてしまえばアイデンティティ、ひいてはカナダのケベックという地域やムアワッド自身の問題が透けて見える。作品と作家性を別に考えるテクスト論で読むことが、まるでまったく意味を成さないように色濃く個人の経験が反映しているようなのだ。むしろ、フィクションであろうとその背景や関連に、否応なく個人の経験の所在を読み込ませてしまう。それはテクストが外部を導入しているのだ。物語であることを拒否するというよりも、それらを踏まえた先に耐えうるテクストの強度がある。神話と物語、ギリシャ悲劇などの古典といった世界と同等に肩を並べることが、現代の文学でも可能なのだと教えられる。

 ラストシーンに近づくと、父との会話、もしくは博士論文のためのルパージュへの面会のためのアポイトメントも、実は意識の戻らない彼が、病院のベッドの上で昏睡状態の中で妄想的に語っていたことがわかる。倒れたのは父ではなく彼だった。そして医者は、意識はもどるだろうが失明は免れないと語る。この作品もまた『オイディプス王』のように、かれは聡明に自身の内面世界を悩みながらでも見渡そうとしていたが、目が覚めたならば失明がまっている。

 しかし、その妄想の世界と現実世界にはいくつかの食い違いがある。彼はすでに博士論文の結末を書いている。指導教授も彼の才能を認めている。ルパージュのアイデンティティや記憶といった問題を、彼自身の経験とともに、彼の軌跡のなかで考えようとしたのだ。それは論文といったような抽象的なものとは、一線を画している。客観性よりも、彼の読み込みが色濃く経験と共に現れているようなのだ。そして彼は何を求めて、何を残して、何を失ったのか、そしてどこに戻ろうとしているのか、そのもの自体を問いかける。

 その意味で、この作品はルパージュ自身を論文で読み込むなかで、作品からいくつもの外部の世界を導入しようとしている。ムアワッドという作家性、そのなかでとりあげられるルパージュの世界とその外部、メタシアターとはまったく違いながらも、テクストに作家性がいくつも貼り付けられる。そのすべてに、まるでムアワッドという強固な作家がおり、あまりに強い個性がある。それは単に個性や特異な経験というだけでなく、単独者としてのシンギュラリティと言い換えてもいい。

 この作品の翻訳者でもある藤井慎太郎の解説では、タイトルについて触れられる。「単独者たち」というのが原題になる、と。いくつもの複数性の単独者たちがいること。それは、アイデンティティと記憶の複数性を語っている。自己同一性とでも訳されるアイデンティティというものは、なにか一つに還元されることとは違う。そもそも私が成り立つのは複数の視点や私をはじめとした幾重にも重ねられる私自身の認識によって成り立つものだ。この作品にあるのは、いくつもの単独者たちの視点によって作られたなかで浮かぶ、ムアワッドという存在ではないだろうか。


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