文明人のハビタブルゾーン(2023年9月)

何らかのタガが外れたように太平洋高気圧が日本列島に張り出して、小さい頃に住んでいたタイのような懐かしい酷暑がそこらじゅうにずっと続いていると、いやがおうにも地球温暖化という使い古されたフレーズと、今後の環境の変化、引いては人類生命の継続可能性ということについてたびたび考えてしまう。
人類の文明が複雑なプロトコルを経て新たな叡智を獲得し数十年後に再び継続可能な生活環境に戻る、という楽観的な将来を考えたいけど、結局 文明の本質って何なんだろうな、文明によりもたらされた物へのわれわれの依存性が、こうでなければ生きておれないハビタブルゾーンを狭め続けているのではないか、という考えが頭から離れない。

古典的な考え方として、われわれが考えやすい「生命」は液体の水が適温で存在し続ける天体にしか住まえないだろうということで、そういう場所をハビタブルゾーンと呼んだりする。ただ、現代のわれわれは適温の水だけで生きているわけではない、生活必需品がとても多いし、そのうえ日増しに増え続けている。
高度文明に支えられた安全・安心・便利な生活と感じられる一方で、それらはさまざまな工業的プロトコルに強く依存性のある、最近のプログラマーにわかりやすい比喩としては node_modules の中身より不安な薄氷上の毎日と考えるべきなのかもしれない。

今年の夏の暑さのような酷暑を経て、単純にゆであがって死んでしまう生物も多いことだろう。そのような生物に由来する工業製品と、さらにそれら製品に依存する産業、巨大なサプライチェーンの一端たる産業がどれほど死に瀕しているのか、われわれはすべてをよく把握できていないだろう。何にせよほとんどについては失われてから発生する破滅的な積木崩しによってはじめて気づくのだ。

失われたものが予想でも結果でも、われわれはそれらへの依存性を減らす対応しか取れない。では、最低限度の文化的な生活を維持する前提で、われわれは究極的にはどこまで依存性を減らすことができるのだろうか?
ここからは突拍子もない思考実験になる。
最低限度の文化的な生活、これは既に現時点で維持できるものではないことを今年の酷暑が強く示唆している。それでも維持したいなら、それは仮想世界の中に押し込めるほかないのかもしれない。優美な芸術作品、豊かな食生活、快適な温湿度、開放的な性生活。そのようなものを、単に人間の神経を電気的にハックすることで実世界で体験することに近似できるのであれば、物質的な依存性というのはデータセンター設備と電力、そして最低限の生命維持装置に集約することができる。これが究極的な形だろう。
電子的に構築された仮想世界にとらわれる人類、というのはSF世界ではずいぶん古典的な世界観で、その割に、なぜ人類はそこにとらわれなければならなかったのか、という根本の理由づけがこじつけっぽく処理されがちだ。たとえば名作映画の「マトリックス」では、人間の体が生体電池として期待できるから機械が人体を栽培しているのだ、とされていたが、そんな非効率が選択されるわけあるかよ。
われわれの文明環境が物理的に行き詰まるという切実さの中でようやく、見た目に無限のリソースを感じさせることができる仮想世界の必然性がわかりやすくなってしまうというのは、ほんとうにシャレになってないなと重い気持ちになってしまう。

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