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追いつかれないように

マンガの最終回みたいにきれいに方がついて終わり、なんて死は存在しない。
死は、人を誰しも待ち受ける終点ではない。
背後から忍び寄り、あらゆる思考の途中で追いつかれてしまうのだ。

そういうことを2019年の暮れ頃からなんとなく考えていた。
死は平等ではないし、死んですべてから解放されることもない。
臨終の瞬間にうっかり浮かんでしまった未練が、自身の脳神経に焼きついてとどまったまま暗闇に落ち込んでいくのだ、と細かに想像して、あああやっぱり進んで死ぬもんじゃねえよなとすっかり縮み上がってしまった。

それから数か月経って、死に至る(かもしれない)感染症が自分たちに追いついてこようとしていて、なんであんなこと考えたんだろうって思っている。

COVID-19と名付けられた感染症について国の施政者は中途半端にぶん投げてしまったので、なんとなく自律や良識というよりは自己欺瞞みたいなものが街並みにあふれてしまった。
自分の店は不要不急ではなくて必要だから開けていてもOK、来る人の体温をチェックして消毒もしてるからOK、不要不急だから営業時間を短縮したのでOK、不要不急でも閉めていたら干上がっちまうから開けていてもOK、不要不急だから店を閉めているうちに廃業しちゃったのでOK。表向きはOKだけど実は闇営業をしているよ。エトセトラ。
実に奇妙なのはこれが個人の判断に委ねられているところだ。俺たちはこれで良いのだOKOKという個々の主張が外を歩くだけで平時よりもへばりついてくるようでたいへんに息苦しい。そしてこれは俺自身も例外ではないから市井では一種の共犯関係が新しく構築されているとも言えそうだ。
(なお異なる主張によるいさかいは当然ありえるが、俺たちは理性でそれを避けるべきだ)

中国・欧米で感染が爆発的に拡がり、それによる死者数も世界的にはずいぶん多くなったが、幸いにして俺が住む日本では今のところ感染による死者数は少ない。
年間の自殺者数の方が多い。2011年の東日本大震災のときもそうだった。俺はそのとき、命は不平等が過ぎてつまらないものだと思った。
いずれの死からもなるべく追いつかれないようにしたい、それは自分だけでなくて身近と感じる人々に対してもそうだ。
諸々の先行きが明瞭になるまでにこれからあと2年はかかるのだろうと思っている(季節性の要因もあるのではないかと疑義が生じた後、検証ができるのは早くて次の年、という観点から)。
それまでは不確かな道を、俺は今はこれで良いのだ、お前は今はこれで良いのだと言い聞かせ合い、しかしどこが欺瞞であるかも毎度考えながら歩いていくしかない。

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