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コレラの時代の愛:コロナの時代に通じる「愛」の神話

コレラの時代の愛
2007年 アメリカ映画
原題:Love in the Time of Cholera

フー流独断的評価:☆☆☆☆☆

神話には真実が秘められている。「神」話は、「真」話に他ならないからだ。太古から語り継がれてきた神話と同様、我々は日々、自らの時代の神話を創り出している。このような壮大な感覚を抱かせてくれる作品はめったにない。『コレラの時代の愛』との出会いは、僕にとって奇跡だった。

ノーベル文学賞を受賞したガブリエル・ガルシア=マルケスの小説を原作としている。監督は、才能あふれるマイク・ニューウェルだ。僕は、『コレラの時代の愛』こそ、マイク・ニューウェルの代表作であり、最高傑作だと思う。

『コレラの時代の愛』は、あまり多くの人に知られていないかもしれない。原作の知名度も、ガルシア=マルケスの代表作である『百年の孤独』にはおよばないだろう。映画の方も、大々的に前宣伝されるわけでもなく、ミニシアター系の地味な文芸作品の扱いだったと思う。しかし、だからこそ、僕にとってはとても私的で、他人から踏み込まれたくないような、思い入れがある作品であり続けている。

神話には、時代背景があるようで、実は重要な要素ではない。『コレラの時代の愛』は、おそらく19世紀後半から20世紀前半のコロンビアという、われわれにとってあまりなじみがない国が舞台だ。疫学的には、高温多湿、劣悪な衛生環境でコレラという伝染病が蔓延している。政治的には、左派と右派、民主主義と独裁主義が常にせめぎ合っている。

原作に描き込まれたそうした時代背景は、映画においても凝りに凝ったディテールが描かれているが、それらはなにも主張しない。主張しないどころか、主人公の「愛」の遍歴は、それらとまったく無関係である。これこそ、マイク・ニューエルの演出の勝利だろう。精緻をきわめた時代描写は、時代に影響されることがない主人公の普遍的な「愛」を際立たせるのである。感染爆発しようが、戦争が起きようが、革命が始まろうが、人間本来の営みはそれらにまったく影響されない。これこそ、ガルシア=マルケスの主張であり、マイク・ニューウェルが描きたかった本質ではないだろうか。

神話が語ろうとする人間の真実とは何だろうか。それは「愛」である。「愛」とは、恋愛であり、性愛であり、親子愛であり、同胞愛である。『コレラの時代の愛』は、これらの愛の諸相を、余すところなく丹念に描いていく。まさに現代の神話である。

「神」話は「真」話であるがゆえに、あらゆる誤解と幻想を打ち砕く。たとえば、結婚とは、恋愛の帰結なのか。性愛に、恋愛感情は必要なのか。親子の情とは、対価を求めない、無私のものなのか。同胞愛とか愛国心というものは、本当の「愛」なのか。これらの命題こそ、人間存在そのものへの永遠の問いかけだろう。科学や哲学をもってしても、正解を導くことができないからこそ、「愛」は絶対なのだ。

僕は泣いた。76歳の主人公、フロレンティーノ・アリーサの年齢には及ばないが、僕も立派な高齢者だ。「ああ、地球の裏側に、自分の同志がいた」。この事実に感動したのだ。フロレンティーノ・アリーサが、小説の主人公か、実在の人物か、そんなことは愚問であり無意味だ。なぜなら、『コレラの時代の愛』の作品世界は、「真」話なのだから。

いま、われわれは「コロナ」の時代を生きている。駄洒落ではない。ガルシア=マルケスは、見事に予見していた。一世紀前の「コレラ」が、現在の「コロナ」であることを。

もう一世紀もたてば、また別の「コ※※」が蔓延していることだろう。しかし、「愛」をめぐる人間の真実には何の変りもないはずだ。『コレラの時代の愛』を観終わった後の、包みこまれるような感覚。100年後の世界にも、間違いなくフロレンティーノ・アリーサは存在するはずだ……。それは「僕」に他ならない……。この幸福感こそ『コレラの時代の愛』が「愛」の神話たる所以だろう。

監督:マイク・ニューウェル
脚本:ロナルド・ハーウッド
製作:スコット・スタインドーフ
製作総指揮:ダニー・グリーンスパン、ロビン・グリーンスパン、アンドリュー・モラスキー、クリス・ロー、マイケル・ノジック、ディラン・ラッセル、スコット・ラステティ
出演:ハビエル・バルデム、ジョヴァンナ・メッツォジョルノ
音楽:アントニオ・ピント
撮影:アフォンソ・ビアト
編集:ミック・オーズリー


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