大日月地神示考察-12【「こ」の巻】
2006年6月19日 天の日月の神 神人繋ぐ
簡単なようで難しい言葉だなと思う。例えば、美しい花を見て心が癒されるような気持になる時、それは理屈は不要だろう。人生においても、人間関係においても、人間の理屈を超えた摂理や感動があるという事かもしれない。
靈界現象が先に起こって現実の世界にそれが反映される。これは多分多くの宗教でも教えている基本的な目に見えない世界に対する考え方だと思う。スピリチュアル界隈でも異口同音で言われているのではないだろうか。例えば引き寄せの法則とか、ありがとうという言葉が幸せを呼ぶとか。これは多分、現実の世界に起こることは視えない意識の世界から産み出されるという考え方だと思う。
大日月地神示では随所に「靈人」という存在。つまり我々が肉体を持つ人間だとすれば、靈界にいる肉体を持たない人に対しての言葉があり、これもをの一つだろう。死ねば(肉体が滅べば)肉体を持った人間は靈人として生きるという考え方であるが、これについて否定的な考え方を持つ人達にとってはこの神示の内容は全く滑稽なもでしかないのだろう。
僕個人の考え方を説明するまでもないが、理屈としても感覚としても、目に見えない存在があり、そこに肉体を持たない人が存在していると信じているし、現実の世界で肉体を纏ったり脱いだりすることが輪廻転生だと思っている。だから、肉体を持たない人(靈人)が視えないけれども現実の世界にいろんな形で働きかけているのだろうとは思う。
まず、この考え方が大前提でないと、この神示を読む意味はない気がする。
そして、人民と靈人が一つとなって世の立て替えをしなさいという意味の事がこの神示には多く盛り込まれている。僕は最近、神社にお参りする時はこの事を意識して祈っている。神社にいるであろう存在、靈人に対して、共に天国のような社会を作りたいと願う事にしている。
この辺りの神示は理解が難しい。「根の国」は人と神の世界の間にある中間地点なのかなと何となく思う。
靈界にいても神の存在を信じない人達がいるということだろうか。あの世もこの世も肉体があるかないかだけで同じなのかもしれない。そう考えると、この世で生きる事も死ぬ事も、その魂が生きているうちの経過の一つであって、言ってみれば転勤みたいなものなのかもしれない。
死んだら(肉体が亡くなったら)確かに見えない存在となっていろいろな事が理解できるかもしれない。そして古今東西の宗教やスピリチュアル界隈で言われているように、肉体を脱いだ後は脱いだ後で行くべきところに行くから、この世界のように様々な考え方の人や経験値の高い人低い人関係なく同じ世界に住んで暮らすという事は無いという事が考えられるとすると、この世で暮らすことはある意味強化合宿みたいなものかもしれない。
ここは神人さんについて書かれている。彼はかつて王としてこの世で生きたことがあったが、改心させるために落として、皆のために生きる事をわからせる経験をさせこの言葉になっている。
誰かに言われたからそうするのでもなく理屈でもなく心から皆のために生きたいと思える事、それが世の立て替えの元になるということだろうか。
変われないものは人として生きる事が出来なくなる。そう示されている。この事は例えではなく(嘘でも方便ではない)本当にそうなるという意味だろうから切実だ。
果たして神と人と共に生きる事が出来る改心できたものたちが1割になるのはいつの事だろうか。。。
ここのところの世の中を憂いて、早くこの様な悪魔に支配されたこの世なんて終わってしまえばいい、早く地震でも起きて悪魔たちを消してしまって欲しい。そんな事を思うことが自称目覚めた人の考えのような気がする。僕もそういう考えをしがちだ。
しかし、そう考えている自分が悪魔と同じ穴の狢だったのかもしれない。
今、多くの大切な人々と幸せに生きている事に対する感謝だったり、これからもそんな世の中を願う事が人として当たり前の良心であるはずなのに、いつの間にか悪魔のような考え方になってしまっているのかもしれない。
曇りない心になる、そんな改心した人が多くなることが神の世になるために大切だという事だろう。確かに、その通りだと思う。
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