アカデミアと社会~2項対立を超えて~

(2021年に、一橋ビジネスレビュー誌Vol.69の特集「研究力の危機を乗り越える」に掲載された投稿論文です)

概要

学術に対する社会の風当たりが強くなってきている。本稿では、学術と社会の2項対立の構図を指摘し、社会に対する学術の価値が、知識の体系化と合意形成のプロトコルにあることを議論する。その上で、この2項対立を解消する方策を模索する。

1. 学術と社会の関係

学問、すなわち科学や工学、あるいは電子工学や経済学のように「学」という名がつくものはすべて、知識を生み出しそれを体系化する、という人間の営みを表す。世の中の理を知りたいという欲求は誰にでもある。趣味として学問を行うのであれば、興味の赴くままに学究を進めることは構わないし、その成果を誰に問われるわけでもない。しかしながら、学術が対価を受け取る職業(Profession)であるのならば、学術は社会の負託に答えなければならない。学術コミュニティ(本稿ではアカデミアと呼ぶ)における研究力とはすなわち、アカデミアが社会に与える価値を創造する能力といえる。

本稿では「学術」とは、社会において専門家として学問を追及する職業を指す。職業というのは、その業を通して対価を得る、という意味である。職業としての学問の歴史はそれほど長いものではない。中世までの学問の多くは趣味の学問であり、裕福な者が自身で行うか、パトロンが資金を提供していた。19世紀になって初めて、職業としての研究者が現れた。

19世紀以降は学問の成果が、社会に直接のインパクトを与えるようになり、職業としての学問が台頭してきた。学問の成果が社会に役立つ見返りに、社会は学術に対して対価を支払う。産業革命以来、高度な専門的知識が社会の繁栄に欠かせないものになった。特に、第二次世界大戦中のレーダーの開発、ドイツ軍の暗号エニグマの解読、あるいは原子爆弾の開発などは、戦争の帰趨を決めるインパクトがあり、このため、戦後は各国が競って科学技術政策に大きな資源を投入することとなった。

国による税金の投入は、その見返りを求めることになる。2011年の第4期科学技術基本計画においては,科学技術を「人類社会が抱える様々な課題への対応を図る」ものとして明確に位置づけている。このような背景の下、学術のあり方に対する見直しの機運が高まっている。

本稿では、我が国において学術に対する信頼が弱まっている、すなわち社会の期待と学術の現状のギャップが拡大していることを指摘し、その原因として学術と社会の2項対立の構図を考え、その解決方法を模索する。以下2節では、社会において学術への信頼が低下していることを示し、学術と社会の2項対立の構図がその主因であることを議論する。3節と4節は、社会における学術の価値を、知識の体系化の観点と議論の方法論の2つの観点から議論する。それらの観点を踏まえ、5節では2項対立を解消するための方策を考える。

2.学術に対する社会の信頼

2.1. 社会の圧力と期待

2020年9月、日本学術会議の事務局が提出した学術会議会員候補者105名のうち、内閣総理大臣が6名を任命しなかったことが問題になった。アカデミアの側からは「学問の自由に対する侵害だ」という意見が出たのに対し、菅首相は会員の選出方法について「閉鎖的で既得権益のようになっている」と国会で述べた。

2011年に、東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故の後には、多くの研究者が科学的な見地から放射線被ばくの危険度を合理的に見積もったが、彼らは「御用学者」として批判の対象になった (澤田, 2013).。

新型コロナウィルスの感染拡大が大きな問題になっていた2020年の4月には,厚生労働省クラスター(感染者集団)対策班のメンバーの北海道大学西浦教授(当時)が「何も対策を施さなければ約42万人が死亡する可能性がある」という予測モデルを示したが、実際には死亡者ははるかに小さかったことで、過剰な脅しではないかという批判を浴びた。

学術に対する批判がある一方、科学技術が国力、安全保障に大きく影響を与えることから、社会の学術に対する期待はさらに大きくなっている。第6期科学技術・イノベーション基本計画においては、その現状認識において「科学技術・イノベーションは、激化する国家間の覇権争いの中核となっている」と、科学技術基本計画の中で初めて「覇権」という言葉が使われた。

学術に対する社会の期待は増大しているが、限られた国家予算の中から、学術に対する支出を減ずる圧力もある。日本の大学に支払われる運営費交付金はおよそ1兆円で、国家予算の1%程度である。これが適正な規模であるかどうかは、さまざまな議論があろうが、企業における研究開発費は、例えばトヨタ自動車では売上高に対しておよそ4%であり、その投資に対して得られる効果については厳しくチェックしているだろう。

2003年の国立大学法人化以降、国立大学及び国の研究機関に対する運営費交付金は、毎年定率削減されていて、着実に研究力を低下させている。筆者が運営協議会の委員を務めているある国立大学の附置研究所では、毎年運営費交付金を1.6%ずつ減らし続けていることが、せっかくの優れた研究所の力を削いでいる。毎年▲1.6%のために、この10数年で専任教員の数がおよそ10名減った。スピントロニクスを応用した画期的な素子や、量子計算に耐える暗号技術など優れた研究成果が出ているのに、運営協議会ではそれらの技術の可能性よりも、いかに競争的資金を獲得するか、という議論に時間を使っている。さもないと次の10年、さらに教員を減らさなければならないからだ。加えて、その限られた人員枠を、競争的資金獲得を支援する大学リサーチ・アドミニストレーター(University Research Administrator)に割り当てなければ生き残れない、という議論もある。

少子高齢化の進行に伴って、限られた国家予算の中から学術に対する投資がどれだけ社会に還元されるのか、については、今後も社会から厳しい目が向けられることは間違いない。社会の期待とそれに応える能力のギャップの拡大が、研究力の低下と捉えられているのではないだろうか。

2.2. 研究者側の問題

一方で、学術への信頼の低下には、研究者の側の問題もある。2014年に起きたSTAP細胞問題は大きな話題となった。科学ジャーナリスト榎木英介によれば、2018年時点で世界の論文撤回数ランキングTOP10のうち、日本人が半数の5名だったという(榎, 2019)。

学術の独立のためには、学術コミュニティすなわちアカデミアの健全性を維持しなければならない。一般の組織、例えば政府や会社などにおいては、健全性の維持のために統治(ガバナンス)の仕組みを持つことが多い。階層的な組織構造、厳密なプロセスやルール、それに相互牽制(会社でいえば外部取締役や監査役、我が国の政府においては、立法、行政、司法の三権分立)などである。

一方で、学術には統治という概念がなじみにくい。学術における合意は真理のみに基づき、誰かの恣意によって影響されてはならない、という強い信念があるからである。このため、アカデミアの健全性の維持は、アカデミア自身の自己浄化作用に依存している。そこで重要な役割を果たしているのが、各分野における学会の存在である。学会を運営するのは分野の研究者であり、それは自発的なボランティア活動である。学会は、論文の査読メカニズムなどを通して学術の健全性を維持する。このため、各分野の学協会をとりまとめる日本学術会議の役割は重要である。

研究不正などの多くの問題があるものの、大局的に見れば、日本学術会議が緩く連携する全国の学協会が、アカデミアの健全性を(かろうじて)維持している。これは、それぞれの学協会の構成員の不断の自浄努力によるものであり、組織的な統治の仕組みによるものではないのである。

2.3. 学術と社会の2項対立

学術に対する信頼が揺らいでいるのは、日本だけではない。2019年5月にG7各国の学術会議は共同で、参加各国の政府首脳に対する提言として、Gサイエンス学術会議共同声明「科学と信頼」を発表した。この提言は「科学に対する信頼を強化するには、科学的手法についての包括的な教育が重要である」という一文から始まっている。すなわちこの提言は「科学に対する信頼が弱いのは、科学に対する市民の理解が足りないから」という、サイエンス・コミュニケーションにおける欠如モデルに立脚している。

欠如モデルは「科学者と市民」という2項対立を前提としているが、そこには2つの問題がある。1つは、科学者も自己の専門領域を離れれば一市民に過ぎないことである。ターリ・シャーロットによれば、知的な人ほど確証バイアスにとらわれる傾向が強い(シャーロット, 2019)。科学者は、自分の専門領域では、自分の主観と客観を厳密に区別して発言するが、一市民としての発言にはそれほど注意を払わないこともある。高名な科学者が一市民として発言したことが、専門家の発言と捉えられるようなことがあれば、それは科学に対する信頼を損ねることにもつながりかねない。

欠如モデルのもう1つの問題は「科学的に正しい」とされる意志決定が、必ずしも社会的善につながらないことである。我々の社会は高度に複雑化していて、多くの専門家の力がなければうまく運用できない。このため各分野の専門家が政府の意思決定に強く関与する、いわゆるテクノクラート政治が行われている。しかし、このことが社会の分断を招いてはならない。地球温暖化が人類の排出する温暖化ガスによるものであることが科学的に合意されたとしても、温暖化ガスを削減することを社会が選択するかどうかは、社会の価値観の問題であり、科学的な正しさとは独立に議論しなければならない。この際、意思決定に携わる者が「自分はこの分野のエキスパートなので、自分の判断が正しい」と考えているとすれば、それは高学歴エリートの驕りではないのか、とマイケル・サンデル (サンデル, 2021)は言う。

複雑化する社会は科学技術に深く依存していて、どの分野の専門家もそのシステミックな帰結を予測できない。また、社会の学術に対する期待も時とともに大きく変化していく。そのような社会で、この複雑さをてなづけていく、すなわち研究力を上げていくには、この2項対立の構図を何とかしなければならないのではないか。

3.学術の価値としての知識の体系化とその障壁

現代に生きる我々は、過去の人類の誰よりも豊かで安全な暮らしを送っている (ピンカー, 2015)。これは、我々個人の生まれつき備わった知能が向上したためではなく、現代社会が持つ体系化された知識によるものである。体系化された知識とは、記録され個人の枠を超えて伝達されていくものである。ジョゼフ・ヘンリックの著書「文化がヒトを進化させた」(ヘンリック, 2019)は、人類の進化が生物学的な進化ではなくて、知識の伝達によることを示している。我々が平安時代よりも良い生活ができているのは、我々の1人ひとりが平安時代の人々よりも賢いからではなく、我々の社会が、農学、冶金、医療、工学、数学など、現代の知識体系の恩恵にあずかっているからなのだ。我々が社会全体で持っている知識体系とは、人類文明そのものであると言っても過言でない。

我々の社会において、この「知識の体系化」という重要な責務を担っているのが、アカデミアである。アカデミアによって生み出され体系化された知識は、そのままでは社会の役に立たない。社会の負託に応えるためには、学術の成果をなんらかの形で社会の価値へ転換する必要がある。しかし、その転換を阻むものが3つある。

3.1. リニアモデルの呪縛

企業内におけるイノベーションにおいては、1980年代までは研究→開発→生産→販売というリニアモデルが主流とされていたが、今では、基礎研究の段階から市場を巻き込む形のプロセスが一般的である。一方、学術の世界においては、アカデミアでの知識の蓄積が始めにあり、それが企業への技術移転やコンサルテーション、知財、教育などを通して社会へ伝わっていく、という、広く言えばリニアモデルに近い考え方が多い。

実は、科学における新しい発見は、その応用より後に起きることもある。ニューコメンが蒸気機関を発明したのは1712年だが、熱力学の理論が構築されたのはそれよりもずっと後のことであった(例えばカルノーがカルノーサイクルの研究を行ったのは1820年代)。

マット・リドレーはその著書「人類とイノベーション:世界は「自由」と「失敗」で進化する」で、イノベーションは現場における小さな試行錯誤の積み重ねであり、天才のインスピレーションによるものではない、と述べている。もし、第4次科学技術基本計画が言うように科学(あるいは学術)が「人類社会が抱える様々な課題への対応を図る」ものであるのならば、そしてそれがイノベーションを必要とするのであれば、学術は「まずアカデミアの中で知識を創出し、それを社会に移転する」というリニアモデルを捨てて、より効率的にイノベーションを創出するような形に変化していかなければならない。このためには、学術と社会という2項対立の構図を改める必要がある。

リニアモデルを捨てる1つの方法は、シーズドリブンな考え方を改め、ニーズから説き起こす、プル型の研究開発を行うことである。企業では、具体的なゴールを決めて研究開発を行うことが多い。研究開発が製品やサービスの計画に組み込まれているからである。特に、特定の製品・サービスに強く依存するスタートアップでは、初期投資の資金を食いつぶす前に研究開発が成功しなければならないから、死に物狂いで研究開発を行う。

同様の考え方で、学術の世界にもゴール志向の考え方が取り入れられるようになってきている。国立大学の法人化以降、大学における研究活動をより社会に密着させるために、ミッション型の競争的資金(IMPACT、SIP、Moonshotなど)の導入が数多く行われた。これらは、社会課題から必要となる研究開発の戦略目標を政府が決め、その目標に沿った提案を大学や研究機関から受け入れるものである。これはいわば、政府が委託者となり、アカデミアのチームが受託者となる、委託型研究開発といえる。

しかし、このやり方は残念ながらうまく行っていないようにみえる。それには2つの原因がある。1つは、研究の委託側が、戦略目標が狙う社会変革事業の当事者でないことである。だから、問題の現場を知らずに「こうだろう」という思い込みで課題を設定する。一方で、提案者のほうも、目標が達成できなくても職を失うわけではない。企業における目標志向型の研究開発に比べれば、委託する側も受託する側も真剣度が大きく違う。企業の研究部門は企業のコストであり、研究の成果の有無が、研究部門の生き残りに直結するからである。

もう1つは、委託者と受託者の間の継続的な摺合せが難しいことである。国の税金に基づく競争的資金では、予算の執行に対するアカウンタビリティが求められるために、採択された提案書の内容を軽々しく変えることができない。しかし、複数年にわたるプロジェクト期間においては、当然環境は変わっていく。あるいは提案書に書かれた計画自体は変わらなくても、提案時に想定できなかった細部について、契約締結時にはなかった要求が発生する。したがって、受託者が研究を実施し、それを委託者が半期または1年ごとに予実管理を行う、という、委託者と受託者の2項対立の形では、世の中の変化に追従できない。

そうだとすると、ニーズドリブンの研究開発は事業と一体化した運営を行うべきであり、その成果は事業の成否によって評価されるべきではないか。

 3.2. 共同研究と知財

学術に携わるものが、社会のイノベーションを起こすためには、社会課題の現場を知らなければならない。そのための1つの方策が、企業との共同研究である。企業には特定の課題を解きたいという強いモチベーションがあり、また大学研究者としては、実際に社会にインパクトを与える研究ができる、という大きなメリットがある。しかし、ここにはイノベーションを阻む大きな障害がある。知財である。

多くの共同研究では、研究の過程で生じた発明は、特許出願やその持ち分について、個別に協議をする、という契約になっている。このため、共同研究契約に加えて、特許1件ごとに新たな契約を結ばなければならない。その際、多くの場合「この特許の利用については別途協議する」という条文になっているため、企業がその特許を利用して製品やサービスを作る場合には、さらに交渉事が発生する。

ここで、それぞれの交渉には情報の非対称性があることに注意したい。例えば企業が特許Aを製品Bに利用したい、ついては製品Bの売上高のX%をライセンス料として支払いたい、と申し出たとする。しかし、大学側は製品Bのコスト構造や売上予測を知ることができず、このライセンス料が適切な価格であるかが判断できない。当然、企業はライセンス料を限りなく低く抑えたいインセンティブがあり、大学側は限りなく高くしたいと思うから、腹の探り合いになる。相手が大企業の場合は、知財や法務の専門家が多くいるので、大企業の言いなりになりやすい。逆に中小企業からみると、充実したTLO組織を持つ大学の知財は使いにくい。ライセンスに関する困難な交渉が予想されるからである。

知財の交渉は技術的な内容を含むので、研究者が長く不毛な交渉に駆り出されることになる。その結果、研究者が本来行えるはずの研究活動に支障が出ることになる。

この問題への1つの解は、知財の取り決めを標準化し、交渉の余地を排除することである。筆者が統計数理研究所で知財を担当していた時は、共同研究契約締結時に、以下の項目を含めることを企業にお願いしていた。

  1. 共同研究で生じる共同発明は、企業側の判断で、出願するかどうかを決める

  2. 出願する場合には、出願前にすべての権利を定額(100万円)で企業が買い取る

企業は、発明が価値あるものだと思えば、ただちに100万円を支払う。1件の特許の出願や管理には数百万円のコストがかかるのが普通であるので、企業にとって特許1件に対する100万円はそれほど大きな金額ではない。大学の研究者から見れば、将来ライセンス料が入るかどうか不明な特許でも、ただちに100万円の研究資金を得ることができる。この方法によって、大学側は知財に関する交渉をほとんどしなくて済むようになり、また特許の管理にかかるコストもかからなくなる。特許1件あたり100万円が適切な価格であるかどうかは議論の余地があるが、この金額を事前に定額と定めておくことには大きな意味がある。金額についての交渉の余地を排除するからである。

似た考えを、個別の大学でなく、例えば国立大学全体に適用してはどうだろうか。つまり、国立大学82校共同で、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスのような「共通のモデル契約書」を作るのである。この場合、共同発明ではなく、大学の単独の発明を対象とする。

  1. すべての特許は、希望する企業に対しては、その企業の規模やビジネスの内容に化関わらず一律定額(100万円)でライセンスする

  2. 排他的なライセンスを求める企業に対しては1,000万円でライセンスする。ただし、その時点でライセンスを既に受けている企業に対しては、排他的条項の適用外とする

企業にとっては非常に透明性の高いものであり、大学の特許を利用する大きなインセンティブとなる。これによって、大学発の特許が広く使われることが期待できる。

3.3. 知識の社会への受容

遺伝子組み換え技術や人工知能技術など、学術の新しい知見が社会やその価値観に大きな影響をあたえる可能性があるとき、それらがイノベーションを通して社会に受け入れられるようにするにはどうしたらよいだろうか。たとえば、建築や土木など、現代社会のインフラを支える様々な知識について考えてみよう。我々が橋を渡るときに、橋が落ちるのではないかと心配しないだろう。それは、土木工学という膨大な知識体系があり、その知識体系を社会全体が信頼しているからである。

このように、体系化された知識を社会のために役立てることを、直截的に行っている分野は工学である。工学とは、科学で得られた基礎理論を応用して、実際の社会の問題を解くための手法を構築する。どんなに良い基礎理論があったとしても、社会が求めない技術は、(少なくとも当面は)工学の対象とならない。ひとたび社会に実装されるとなればしかし、その影響がどのように社会に受け入れられるかが問われる。このため、工学は常に社会との対話を行っている。特に重要なのが、安全に関する合意である。

工学は一般に、技術の完全性を主張しない。橋やビルなどの構造物を、考えられるあらゆる事象に対して100%安全に作ることはほぼ不可能であるし、できたとしても構造物の有用性を損なうほどのコストがかかるからである。このため、例えば、土木工学ハンドブックには、安全係数表という小さな表があり、そこには構造、材料、過重などの理論計算の上に、さらに予測不能な事象に対するマージンとして加えるべき強度の係数が記されている。この表は、決して100%の安全性を保証するものではなく、ここまで余裕を持たせれば、経験的にほとんどの場合をカバーできる、ということを示しているに過ぎない。しかし、同時にこの表は、ここまでやれば、社会はそれを安全な構造物として認める、という「技術と社会の暗黙の契約」と見ることもできる。

このため、工学においては常に社会との接点が欠かせない。特に、社会に大きな影響を与える可能性のある新技術についてはそうである。近年進歩が著しい機械学習(特に深層学習)は、為政者による市民の監視や差別の助長、意思決定の誘導などに使われる懸念がある。このため、機械学習の研究コミュニティは2017年に、日本ソフトウェア科学会の中に「機械学習工学研究会」を立ち上げたり、機械学習の安全性や品質を担保するためのガイドラインを作っていることで、社会との対話を進めている。

学術全体においても、工学のやり方に学ぶところが多いのではないかと思う。

4.意識されていない学術の価値:合意形成のプロトコル

社会における知識の体系化が学術の主要な価値だが、それに加えて、あまり意識されることがないが、学術が持っている大きな価値がある。それは合意形成の方法論である。まず、科学においてどのような方法論があるかを見て行こう。

4.1. 科学における合意形成

科学は世の中の理を明らかにする学問である。多くの場合自然現象を観察し、それを法則へ一般化する、という作業を行う。ある現象を説明するためには、いろいろな法則が考えられるが、より単純な法則で広い現象を説明できるとき、その法則は「より良い」とされる。それが科学の根本的価値観であり、「オッカムの剃刀」と呼ばれる。

科学においてある法則が正しいとされたとき、「それより良い法則が見つからない」ということは証明できない。「光は直進する」という法則を考えだしたのはユークリッドだとされているが、その後、蜃気楼など光が直進すると考えると説明できない現象が観測され、フェルマによる修正「光は媒体の中の最短経路を進む」につながった。同様に、ニュートン力学 は、人間社会のスケールでは正しいが、光の速度に近いときや、素粒子のレベルでは成り立たないことが発見され、相対論や量子論につながった。つまり、科学で正しいとされるものとは「その時点で得られた証拠に基づく最善の合意」に過ぎないことに注意する必要がある。

この「合意」はどのようにして形成されるのだろうか。相互に依存関係のない複数の事象を観察して、それらの共通部分を抜き出すことを帰納的推論という。帰納的推論で得られた法則は、それが絶対とは言えない。その法則に合わない事象が将来観測されるかもしれないからである。では、帰納的推論において、提案された法則に従う事象が、何個観測されれば合意が形成されたとされるのだろうか。

科学者も人間であるので、認知バイアスの影響を完全に排除することはできない。科学者が陥りやすいバイアスの1つは、自分が信じる仮説を支持する証拠を重視し、そうでない証拠は無視しがちだとするもので、「確証バイアス」と呼ばれる。それ以外にも、ノイズのあるデータからありもしない法則を見つけ出してしまったり、効果のない薬を(プラセボ効果によって)効いてしまったように解釈してしまったりするバイアスもある。

このため、科学者たちは長い年月をかけて、自分たちのバイアスに影響されずに真実を見極めるための様々な道具立て(ここでは「プロトコル」と呼ぶ)を発明してきた。専門家の相互の批判的精査(ピア・レビュー)に基づく論文発表や、統計的仮説検定を用いたデータ分析、薬学における二重盲検法(医師と患者の双方に薬/偽薬の別を知らせない方法)などは、科学における代表的なプロトコルである。

科学におけるプロトコルは、完成したものではない。バイアスが私たちの判断をにぶらせる状況はどんどん新しく見つかっているからである。2015年のNature誌に掲載された記事 “Fooling Ourselves” (Nuzzo, 2015)は、「科学とは、自分を騙す方法の発明と、騙されない方法の発明との、終わりのない競争である」という、ある天体物理学者の言葉を紹介している。

4.2. 学術一般における合意形成

科学における合意形成の仕組みはしかし、必ずしもすべての学問分野に適用されるわけではない。例えば歴史学や経営学においては、再現実験を行うことは非常に難しい。加えて、統計的に有意な数のサンプルが得られることも稀である。そのため、観察研究で得られた少数のケースについて多角的に検討を加えることで有用な知見を導くという、ケーススタディという手法を使うことが多い。

数学においては、公理系に基づく厳密な証明がほぼ唯一のプロトコルであったが、近年情報技術の発達により、計算機による自動証明も行われるようになった。計算機による証明は非常に長く複雑であるため、その証明ステップを数学者が手作業で検証することは不可能である。このため、自動証明のソフトウェアに誤りがないかを、ソフトウェア工学的に検証することで、その証明が正しいという合意に達することになる。もちろん、ソフトウェアに誤りがないことを証明することはほとんど不可能なので、機械による証明の結果は、あくまでもその時点での合意に過ぎない(後にバグが発見されることもある)ことに留意する必要がある。

多くの学術分野において、ピアレビューによる論文として出版されたものは、(その時点での)合意だと見なされる。しかし、インターネットの発展によって、2点、新しい動きがあり注意が必要である。1つは、ピアレビューの形態は取っているが、実質的にレビューが行われない、品質の低いジャーナルの出現である(ハゲタカジャーナルと呼ばれる)。このようなジャーナルは、論文の数を増やしたい研究者と、出版料で稼ぎたい出版社の利害関係が一致することで現れてきたと思われる。このような論文は、学術における合意とみなすべきではない。

もう1つは、プレプリントサーバの出現である。物理学や計算機科学などでは、ジャーナルや国際会議に投稿する前に、公開のプレプリントサーバに論文を投稿することが常態化しつつある。これによって、注目を集める論文については、多くの人がその追試をすることができ、論文の信頼性が高まる。プレプリントサーバで十分に注目を集め、追試され、よく議論された論文は、ピアレビューによる論文出版を待つまでもなく、学術における合意とみなすことができる。

このように、学術の各分野において、異なる合意形成のプロトコルがあるが、そこに共通するのは「批判的検証に基づく合意形成」という考え方である。学術に携わる者は、常に自分の誤りに敏感であり、批判的検証を歓迎する。多くの批判的検証を生き延びたものが、学術における合意形成となる。

学術はイデオロギーではなく、宗教でもない。学術とは、我々人間が持つ認知バイアス、認知限界をよく理解した上で、それでも真理に近づこうという営みなのである。

4.3. 社会における合意形成

残念ながら、社会における合意形成は、情報技術の進展に伴って大きな危機を迎えつつある。SNSによるエコーチャンバー効果は、社会の極端な2極化を招いている(笹原 2018)。機械学習技術の進化は、人間の認知バイアスを巧みに利用して、人々の意見を誘導することに利用されている。しかも、多くの人々はそのことに気づいていない。

民主主義や資本主義に基づく我々の社会は、個人が理性的な対話を通して合意に達することができるという仮定に立脚している。もしこの仮定が崩れるのであれば、それは大きな危機といえる。

ここに、学術の大きな価値がある。理性に基づく議論による意思決定が難しい今の世の中で、学術に携わる者(あるいはもっと直截的に博士号の学位を持っている者)は、自分の認知バイアスにとらわれない合意形成を行うための、職業的な訓練を受けている、と言ってよい。そのことの価値を、学術に携わる人々には、もっと自覚してほしいと思う。

5.2項対立を超えて

学術への信頼を取り戻すには、学術と社会という2項対立の構図を崩す必要があることを述べてきた。ここでは、そのための具体的な方策を3点提案したい。

5.1. 人材の交流

1つ目は、アカデミアと社会との人材の流動性を上げることである。我が国においては、大学の人材が民間企業に移籍することが極めて少ない。このため、学術で培った考え方やスキル(たとえば合意形成のノウハウ)が、なかなか企業や政府に流れて行かない。大学人がアカデミアを離れて民間に行くことが少ない理由は2つ考えられる。

1つは、研究者がアカデミアを離れることを「キャリアの失敗」と見なす傾向が強いことである。アカデミアにポストがないからやむなく民間企業に就職する場合もあるだろうが、研究者としてはあまり成果が出なくても、別の職種、たとえばコンサルタントとして活躍できる人はいくらでもいる(岩波書店編集部,  2021)。また、長期的にアカデミアのキャリアを志向していたとしても、人生の一時期、企業で実際のビジネスの現場を経験するのも研究者として将来役立つのは間違いない。

もう1つは企業側の問題であり、特に伝統的な日本企業では、特定の分野の研究をしたがる博士号取得者よりも、若くて柔軟性のある学士・修士の新卒を採用したがる傾向がある。しかし、この状況は急速に変わりつつある。特に、スタートアップ系の企業においては即戦力を求める傾向にあり、筆者が勤務するPreferred Networksにおいても、多くのアカデミア出身者が活躍している。

これは、研究者ではなく、学生の例だが、ノースイースタン大学では、学生を数か月間、企業や国際機関に派遣して、そこでの実務を経験させるというCo-opというプログラムを実施している(アウン, 2020)。学生は、派遣先の課題を理解し、その課題を解くのに必要な勉強を行う。大学で予め決められたカリキュラムを履修するのとは大きく違う。

長寿化が進んで就労年数が増えている。大学で学んだことだけで一生働けるという時代ではない。アカデミアと民間とをもっと自由に行き来することで、学術と社会の双方の考え方や価値観を理解する人材が増えれば、学術と社会の分断は小さくなるに違いない。

5.2. アクティビストとしての学術

アカデミアに在籍したままでも、社会との接点を積極的に持っている研究者も多い。ここでは、それらの人々をアクティビストと呼ぼう。東京女子大学の桑子敏雄教授は、元々は哲学者であったが、2000年ころからダムや道路など公共事業の現場に招かれ、行政と住民との間のコミュニケーションを取り持つ活動をされた。その結果「社会的合意形成」という新しい知識体系を構築した(桑子, 2016)。

情報科学芸術大学院大学の小林茂教授は、民主化したデジタル技術などを水平思考してモノづくりを楽しむ人々の顕在化をめざす、いわゆるメイカー・ムーブメントの活動をされている。岐阜県大垣市において2010年より隔年で開催しているメイカームーブメントの祭典「Ogaki Mini Maker Faire」では総合ディレクターを担当されている。

これらの活動は、必ずしも今のアカデミアでは業績として高く評価されないかもしれない。アクティビストとして社会で活動している間は、論文執筆などの研究活動ができないし、新しい分野に挑戦する場合は、論文の良い投稿先がなかなか見つからないからである。にもかかわらず、このように、研究者がアクティビストとして社会と積極的に関わることは、社会の課題を研究者がいち早く発見し、また学術の知見を社会に還元することのできる方法であり、学術と社会の橋渡しの1つのモデルと考える。

5.3. 専門家とは何か、現場とは何か

瀬名秀明著「インフルエンザ21世紀」(瀬名, 2009)は、2009年の新型インフルエンザのときに、関係者の方々がどのように対応したか、丹念に取材を重ねて書いた本であるが、この中で専門家とは何か、現場とは何か、が繰り返し問われている。専門家は決してすべての現場を知ることはできない。しかし、専門家は現場を全く知らないというわけにはいかない。なぜなら、「自分の現場というのは、本来ボキャブラリであって、コミュニケーションツール」なのであり、1つの現場を知っていることが、他の現場の様子を想像するための道具になるからである。学術に携わる研究者は、必ずしも民間に移籍したり、アクティビストとして社会で活動したりする必要はないかもしれないが、少なくとも自分が専門とする分野の現場には足を運ぶべきである。

加えて、本書では「3つの対話」を繰り返していくことの重要性が述べられている。それらは、

  1. 真実へ至る対話、

  2. 合意へ至る対話、

  3. 終わりのない対話

である。

学術に携わる者は、1の真実へ至る対話は得意だろう。科学のプロトコルとはすなわち、真実へ至る対話であるからである。2の「合意へ至る対話」は、集団の意思決定に関するものであり、民主主義の根幹である。ここにも、批判的検証による合意形成という、学術のスキルが活きるはずである。そして、3の「終わりのない対話」は、「どのような社会が望ましいか」という、社会の価値観についての対話であり、これについては専門家も、自分の専門性は一旦置いておいて、社会の一員としての対話を繰り返さなければならないのだろう。

科学者・専門家と市民が時には融合し、時にはその立場を入れ替えながら、対話を通して意見交換していくことで、学術と社会の融合が進むのではないだろうか。そのことが、社会からみた学術の価値を向上させ、ひいては研究力の向上と捉えられることになるのではないか。

参考文献

  1. 榎木英介. 2019. 『研究不正と歪んだ科学―STAP細胞事件を超えて』日本評論社.

  2. スティーブン・ピンカー. 2015.『暴力の人類史 上/下』幾島幸子・塩原通緒訳,青土社.

  3. 澤田哲生. 2013.『御用学者と呼ばれて』双葉社.

  4. ジョゼフ・ヘンリック. 2019. 『文化がヒトを進化させた―人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』今西康子訳,白揚社..

  5. ターリ・シャーロット. 2019.『事実はなぜ人の意見を変えられないのか―説得力と影響力の科学』上原直子訳,白揚社.

  6. マット・リドレー. 2021.『人類とイノベーション:世界は「自由」と「失敗」で進化する』大田直子訳,NewsPicksパブリッシング.

  7. ジョセフ・E・アウン. 2020.『ROBOT-PROOF:AI時代の大学教育』杉森公一 ・西山宣昭・中野正俊・河内真美・井上咲希・渡辺達雄訳,森北出版.

  8. マイケル・サンデル. 2021.『実力も運のうち 能力主義は正義か?』鬼澤忍訳,早川書房.

  9. Nuzzo, Regina. 2015. "How scientists fool themselves–and how they can stop." Nature News 526(7572): 182.

  10. 笹原和俊. 2018.『フェイクニュースを科学する 拡散するデマ、陰謀論、プロパガンダのしくみ』化学同人.

  11. 桑子敏雄. 2018.『社会的合意形成のプロジェクトマネジメント』コロナ社..

  12. 瀬名秀明. 2009.『インフルエンザ21世紀』文藝春秋..

  13. 岩波書店編集部編. 2021.『アカデミアを離れてみたら―博士、道なき道をゆく』岩波書店.

  14. 丸山宏. 2019. 『新・企業の研究者を目指す皆さんへ』近代科学社..

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