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『魂のゆくえ』映画評(ネタバレ有)

 福岡市の天神にあるKBCシネマで観た『魂のゆくえ』が大変良かったので、感想を書きます。1週間以上前のことで、東京ではもしかしたら公開館数や上映回も限られているかも知れません。

 僕がこの映画を観たいと思ったのは、脚本・監督のポール・シュレイダーという人に大きな影響を受けたからです。彼が脚本した映画『タクシー・ドライバー』は、僕が映画好きになるきっかけになった作品の1つです。

 初めて観たのは高校1年生の時でした。この時の僕はみんなと同じものを享受し、同じ価値観の中でちっぽけな「個性」を伸ばしあう学校生活に辟易していて、週刊少年ジャンプとか、Mr.Chirldrenとか、イケメン俳優ブームとかを死ぬほど憎んでいました笑。海外ドラマを観て・洋楽を聴いて現実逃避していた。その時にたまたまTSUTAYAで借りたのが『タクシー・ドライバー』でした。

 もう吹っ飛ばされました。どう考えても「主人公になってはいけない人」が、ただ妄想や陰謀論に囚われて社会を逆恨みしていく。それだけならまだ無害ですが、その危ない思想を行動に移してしまい大殺戮をくりひろげるのに、世間は彼をヒーロー扱いして何の咎も受けない。客観的事実だけでいえばそういう話です。ラストが「いい話げ」に終わるのがまた恐ろしい笑。

 ただし僕が衝撃を受けたのは、そんな到底感情移入しようがない主人公トラヴィスの妄想・妄言を、次第に応援してしまう映画の持つ不思議な魅力でした。どんなにヤベーヤツでも、いやそんなヤツだからこそ友達はいないし、でもソイツの生活にカメラが入れば「かわいげ」があったり...その気づきというのは、映画でなければ味わえないものでした。


 さらにクライマックスの血みどろの銃撃戦は、観ている自分の中に眠る暴力性を呼び起こし「いいぞ、やっちまえ!」と大いに盛り上がった後で、惨劇を俯瞰する天井からのドリーショットに画面が変わった瞬間に、ドーンと気分が沈みます。「いや、こんなヒドいものをなぜ喜んでいたんだろう」と自己嫌悪したくなるくらいに。強制的に観客の感情をコントロールし、揺さぶったり大きく飛躍させるー映画表現の凄さを初めて感じたのも『タクシー・ドライバー』でした。以来、僕は本格的に映画を観るようになりました。

 マーティン・スコセッシはその後『タクシー・ドライバー』とまったくおんなじプロットで『キング・オブ・コメディ』を撮ります。デニーロ主演だし、妄信的な主人公が身勝手な行動で他人に迷惑をかけまくるのに、やっぱり咎められないどころか名声を手に入れてしまうあたりは、もはやリメイクと言えます。『キング・オブ・コメディ』を観たおかげで、僕は『タクシー・ドライバー』のコアとなる部分がより明確に理解出来ました。

 それは、狂気ともいうべき個人の盲信こそが人間を人間たらしめているということです。言い換えれば、

誰に否定されても壊れない信仰や崇拝、哲学がなければ人は生きていけないものだ

ということです。
それをものすごく極端な人間を例にアプローチしているわけですが、スコセッシはこのテーマをいくつかの作品で繰り返していて、最近だと『沈黙-サイレンス』がやはりそんな映画でした。

 殉教者として神を盲目的に信じることだけが、信仰のあり方なのか?なぜ神は助けてくれないのか?いや、そもそも宗教なんて合理的でないものを信じる意味があるのか?映画を観ていると様々な疑問が浮かびます。暴力やロジックや絶望が、ひたすら主人公のロドリゴ神父が信じているものを破壊して行きますが、それでも最後まで彼から奪えなかったものは…というラストには感動しました。(『市民ケーン』かよ!とは思いましたが)

 このテーマはダミアン・チャゼル監督の『ファースト・マン』なんかも同様です。※完全にオチに触れるので、まだ観てない人はここでブラウザを閉じてください。

 この映画は一言で言えば、娘が死んだショックから立ち直れない主人公ニール・アームストロング船長が、生物が存在しない「死の世界」である月に行くことで、その娘を埋葬する物語です。地球では娘の心は安らげない、静かな月に行かせてあげたいという彼の中での謎理論は、妻にさえ理解できない屈折したものだし、冷戦下の宇宙競争も彼にとっては個人的な旅行でしかないのです。物理的な途方もない距離、アウタースペースに向かう物語ですが、実は狂気と妄想にとらわれた男が自分のインナースペースを旅する物語でもあります。

 チャゼル監督は前作の『ラ・ラ・ランド』でもミアが歌うオーディションの歌詞の中に「ひとつまみの狂気が肝心なの」という言葉を忍ばせています。女優を目指すミア、モダンジャズを再興したいセバスチャン、主人公2人はどちらも夢という狂気にとらわれ、でもだからこそ生きているのです。

 前談はこれくらいにして「魂のゆくえ」の話に映りますが、早い話がやっぱり『タクシー・ドライバー』やここまで挙げた関連作と同じようなテーマの映画でした。※以下はネタバレになる上、特にラストシーンに絞って話をするのでまだ観ていない方は、ブラウザを閉じてください。

<あらすじ filmarksから引用>

トラーは、ニューヨーク州北部の小さな教会「ファースト・リフォームド」の牧師。ある日、トラーはミサに来た若い女性メアリーから、環境活動家の夫マイケルが思い悩んでいるので相談に乗ってほしいと頼まれる。仕方なく出向いたメアリーの家でマイケルと話したトラーは、彼が地球の未来に思い悩むあまり、メアリーのお腹の子を産むのに反対していることを知る。必死に説得を始めるトラーだが、心の底ではマイケルに共感し自分の説明に納得のできないもうひとりの自分がいる。一方、彼は自分の所属する教会が、環境汚染の原因を作る大企業から巨額の支援を受けていることを知る。本当の正義とは一体何なのか。トラーの信仰心は徐々に揺らぎはじめ、やがて怒りにも似た感情が彼を蝕んでいくのだった…。

 映画を観てると、たまに「えーっ!ここで終わり!?」というタイプの作品があります。「魂のゆくえ」はまさにそんな映画で、ラストシーンで困惑した人が多いと思います。なにぶん難しい話も多く、特に宗教がらみの話になってくるので、僕も完璧には理解してません。
 まず原題のfirst reformedは、最初の改革派教会という意味だと思われます。「改革派」とは世界史で習う、宗教改革の指導者ジャン・カルヴァンの思想的な流れをくむプロテスタント系の教会のこと。カルヴァンが提唱した予定説は、人は生まれた時から全ての運命が決められているという考え方です。突然交通事故にあったりとか、宝くじに当たるとか、そういった偶然に思えることさえ。

(※余談ですが、漫画『バガボンド』で沢庵和尚が宮本武蔵に説く考え方は、この予定説に近いものだと思います)
 運命が決まってんなら努力とかやってらんねーよ、ケッ!と思いそうなものですが、カルヴァンはだからこそ個人はそれぞれ、神から与えられた使命を全うすべきとして、労働(金儲け)を肯定しました。これが資本主義の発展に大きな影響を与えたといいます。(かなり噛み砕いた説明)


 悪人がのさばっているのに、善良な市民が苦しんでいる世界の不条理さ。そこに説明をつけるという点では、予定説はかなりリアリスティックな考え方だと思います。一方で『魂のゆくえ』に登場するメガチャーチ「Abundant Life」のように、金儲けだけに苦心する人を増やして社会の格差を広げていることを考えると、非常に皮肉だと思います。もともとカトリックの政治的な腐敗、拝金主義を否定するために生まれたのがプロテスタントなわけだし、「Abundant Life」=「豊かな人生」という会社の名前がもうすでに痛烈な皮肉になっています。

 主人公のトラー牧師は、若い夫婦のメアリーとマイケルから相談を受けます。夫のマイケルは過激なエコロジストで、つまり神の存在を否定しています。映画は冒頭からトラーとマイケルによる問答が長く続きます。トラーはマイケルに対して、たとえ人間は愚かだとしても子どもを生み育てることには意義があると説きますが、しかし同時に独白のナレーションでマイケルとのやり取りを非常に楽しんでいるとも言います。


 なぜなら、彼もまた「神の存在」への不安、「Abundant Life」の布教方法への不満を抱えているからです。イラク戦争という大義なき戦争に息子を送り、戦死させてしまったことへの罪の意識があるトラーは、カウンセリングのつもりでマイケルと話すはずが、逆にマイケルの思想や哲学に大きく影響されていくのです。

 映画の前半はこんな感じで、主人公トラーの悩みが次々に積み重なっていきます。トラーは日記を書きますが、自分の思いや考えを強く他人に主張できないタイプの人間で、その抱え込んだストレスを解決する方法はもっぱら酒。それでどんどん体を壊していき、とうとう胃ガンを宣告されます。

前半は悲惨な話もありつつ、思わず失笑してしまうようなシーンもいっぱいあります。特にマイケルの葬儀のシーンのバカバカしい感じは爆笑。メアリー(アマンダ・サイフリッド)が気まずそうに遺灰を海に捨てるとこはサイコーです。

 しかし後半になると映画のトーンが全然違ったものになってしまいます。病におかされたトラーのもとを訪れる未亡人のメアリー。2人が「ザ・たっち」のコントみたいに身体をくっつけ、ヨガのような呼吸をすると、いきなり身体が宙に浮きます。モロにタルコフスキーやん笑!と思いました。

余談ですが、この5年くらいでタルコフスキーのオマージュがある作品も相当見受けられます。『レヴェナント』とか、『アトミック・ブロンド』とか。前回、一般教養としての『ブレックファスト・クラブ』をやりましたが、ジョン・ヒューズとタルコフスキーがいま何故かアツい笑。

 トラーがトリップしてみる地球のヴィジョンは、美しい森や海、白銀の山から、一転して環境汚染で土地が荒廃していくようなイメージです。トラーはこれを奇蹟(神と直接触れ合う宗教的な体験)だと考えます。メアリーの名前Maryは聖母Mariaの変化形だし子どもを身ごもっているので、彼女は聖なる存在なのです。


 そしてトラーはこの体験を通じて、マイケルの代わりに爆破テロを起こすことが自分の天命なのだという妄想にとらわれていきます。ここからはもう完全に『タクシー・ドライバー』で、深夜の街を車で徘徊するところはモロに寄せています。前半は音楽が全くついてないのに、トラーが狂気に落ちてからはイヤーな音楽がずーっと流れるのです。
 何よりこの映画を観ようと思う人の8割くらいは、あの『タクシー・ドライバー』のポール・シュレイダー監督最新作だからという理由で劇場を訪れているわけですから、トラーが自爆テロを起こして教会中が血と肉片まみれになる結末を想像しながら、「どうなる?どうなる?」と緊張せざるをえません。しかし、それこそがまさに後半の演出の狙いであって、ミスリードさせられた観客はラストで「えっ!?」と見事に驚かされるのです。

 式典に参加する社会の敵を皆殺しにするつもりのトラーでしたが、来るなと忠告していたメアリーが参列してしまいます。計画は失敗し、トラーは有刺鉄線みたいな針金を体に巻きつけて血だらけになります。そこにメアリーが現れると、彼女はトラーと抱き合い2人は熱い接吻を交わします。カメラは2人の回りをグルグルと回り、ポジティブな感じの音楽がジャーンとそれを盛り上げます。そしてブツッと映像と音楽は途切れ、エンドクレジットがポンと入る。

 まさに「えっ!?終わり!?」としか言いようがない終わり方。バイオレンスを期待していた人にはかなり肩透かしだったかもしれません。あるいは「えっ、この2人がデキちゃうの?」と思った人もいるかもしれません。この結末は、表面上は『タクシー・ドライバー』の裏返しです。トラーの計画は成就しないし、一言でまとめると「何かがあると2時間期待させた結果、何も起こってない」映画なので笑。


 ラストのキスシーンは現実の映像ではなく、トラーの妄想です。それはキスシーンでカメラをグルグル回す演出は、基本的に現実ではないという文法みがあるからです。一番有名かつ、その後のキスシーン演出に決定的な影響を与えたヒッチコックの『めまい』では、主人公の男の妄想の「異常さ」を際立たせるためにカメラが2人の周りをグルグルと回ります。

最近だと、『ラ・ラ・ランド』のクライマックスで、「はい、ここから妄想シーケンスですよー」という合図のようなものとして、このカメラグルグルが使われています。

 トラーがメアリーを貪るように抱きしめるのは、じゃあ人妻への横恋慕なのかというと、そうでもありません。なぜならトラーにとってメアリーは神の意志を告げる存在だからです。しかしそもそもトラーがメアリーと見た奇蹟でさえ、彼の妄想に過ぎないこと。メアリーが本当に聖なる存在だと思って見ている観客はほとんどいないでしょう。だけどトラーは、あの奇蹟を信じ込んでいるから常軌を逸する行動に出ているわけです。

 ラストシーンの意味をかみ砕いていえば、「自爆テロこそ神が私に与えた使命」と勝手に解釈し行動しようとしたトラーのところに、「それは違いますよ」という神の回答を持ってメアリーがやってくる。トラーはショックで自傷行為に走りますが、それをメアリーが「愛」で赦す、という風にトラーが自己完結した、ということだと思います。

 マイケルが過激な思想に傾倒している間も、メアリーは否定的でした。世界はどんどん残念なことになってるけど、私は子どもを堕ろしたいとは思わないとトラーに伝えるのです。人間はやっぱり生を全うすべきだ。その根源の力はやっぱり「愛」であって、暴力ではない。

その真意を受けとったトラーは、恐らく腐敗仕切った「Abundant Life」の中で、ただのお土産屋と化したfirst reformed教会で、それでも牧師として人々を救い続けるでしょう。あるいは教会を辞めて、自分なりの布教活動を始めるかもしれません。
 いずれにしても、トラーは妄想と危険思想から解放されました。ただし、彼を解放したのはまた別の妄想であり、常人には理解されない狂気なのです。しかし、それこそが宗教の本質だということも本作は描いています。


 アイドル、アニメ、プロレス...「普通の人」にはどうかしてると思われるような傾倒は、当人にとっては「それがあるから、こんなクソみたいな世界を生きていける」という必要不可欠なものです。そんな「普通の人」には到底感情移入できない傾倒を、強制的に理解させる装置として映画を使うことに、ポール・シュレイダーは一貫してこだわってきたのだなと改めて感じさせる映画が『魂のゆくえ』でした。

主人公の感情が変化した後の行動までを描いてこそが普通の映画ですが、本作に関しては一番エモーショナルなところでブツッと映画を終わらせることで、その後のトラーの行動を観客それぞれが解釈できる余地が生まれるし、ずっと余韻が残るという点でも素晴らしかったです。

 

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