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私が青嵐俳談に投句する理由<広瀬康の場合>

青嵐俳談大賞が発表され、いい機会なので記しておこうと思う。私が青嵐俳談に投句している理由を。

青嵐俳談とは?

愛媛新聞の俳句投稿欄である。選者は神野紗希先生と森川大和先生が毎週交代で担当。投句は毎週日曜〆切で、一人三句まで。年齢制限があり、十五歳以上~四十歳未満の方でないと投句できない。

青嵐俳談に投句を始めたきっかけ

職場の管理職との面談で趣味を聞かれ、俳句と答えたところ、「新聞に投句したりはしてないの?」と言われたからである。

もともと青嵐俳談のことは知っていた。なにせ元顧問が選者を務めている。元顧問がどんな選をするのか、気になったというのも投句を始めた理由の一つだった。

卒業してから十年が経っていた。何を今さらという感はあったが、「私は今の話をしているんだよ」と心の中のフリーレン(当時漫画版)が言ったというのもある。

青嵐俳談に投句をしてみた

2022年6月から投句を始めた。初回の投句の結果発表では、

人類のエンドロールとして蛍

という句を神野紗希先生選で人選にとっていただいた。これに味をしめた私は、それから今日まで毎週欠かさず三句、青嵐俳談への投句を続けている。

それまで夏井先生の一句一遊や俳句ポストやおウチde俳句くらぶに投句していた私は、兼題がないことに最初は戸惑った。しかし、その兼題がないということが青嵐俳談の魅力であると今ならわかる。

兼題がないので、結果発表の句がバラエティに富むのである。読み物として面白い。それらの句を読んで、斬新な句材に感心し、自分にはない視点に目を啓かれ、その作者でないとできない表現に感動する。

競い合うのではなく、深め合うというのが青嵐俳談の本質なのではないかと感じている。

土日を有意義なものにするためのたった一つの冴えたやり方

私の仕事は、平日が勤務日で、土日が休みである。だから土日の私はだらけきっている。

本屋で漫画の新刊を買ってきて読み、面白いアニメを一気見し、映画館に行って映画を観たり、アマゾンプライムで観たい映画に限って有料なことに心の中で舌打ちし、深夜ラジオをradikoのタイムフリーで聴きながら目が疲れるまでゼルダの伝説をする。

本当に書いていて恐ろしくなる。これが社会人男性の土日の過ごし方だろうか。もう少し他者と交流しろよと思うし、もう少し資格の勉強とかしろよと思うし、もう少し親孝行しろよと思う。

そんな私の堕落した土日を有意義なものにするのが、青嵐俳談への投句である。

日曜の24時の〆切までに三句投句できれば、私の土日には何ものにも代えがたい価値がある。そう信じて投句を続けてきた。

私が青嵐俳談に投句する理由

自分なりのものさしを創るためである。ものさしは、価値基準と言い換えてもいい。

詠みたいものを詠みたいように詠めるようになるには、何がよくて、何が悪いか、測るものさしが必要だ。そのものさしは選者との対話によって創ることができる、というのが、今の私の結論である。

毎週三句投句して、金曜日に結果が発表される。入選の週もあれば、全没をくらう週もある。そして時々、天地人嵐といった評価をいただける。

どうしてその句が選ばれたのか、どうしてこの句が選ばれなかったのか、どうして全没にしやがったのか、どうして天に選んでいただけたのか。

選者は決して理由を直接は語らない。しかし投句を続けていると、聞こえるはずのない選者の声が聞こえる瞬間がある。ちなみに、私が全没をくらう理由としては、以下の三つのどれかに当てはまっているからである。

①映像化や描写ができていない
②過去に良い評価を得た自句の再生産の下位互換句となっている
③同じような発想でもっといい句がすでに存在している

青嵐俳談に禁じ手はない。どんな言葉を使っていようが、どんなに定石を逸脱していようが、いい句ならばとられる。

両選者は自身のものさしのみを信じて選をしているのがわかる。でないと、ああいう紙面は生まれない。

なんとなく俳句を続けていくことはできる。しかし私は、確固たる自分のものさしを持ちたいと思う。悪い言い方をすれば、そのために青嵐俳談を利用させてもらっている。

自句の良し悪しを測るための自分なりのものさしを、信頼できる選者との選を通した対話によって創る。これが、私が青嵐俳談に投句する理由である。

結社でも部活でもSNSでもないつながり

最後に、青嵐俳談に投句している作者同士のつながりについて記して終わりたい。

青嵐俳談では、高校生や大学生は学校名、それ以外の者は住所地が作者名とともに掲載される。私ならば<西条 広瀬康>である。

人見知りの私は交友関係が狭く、青嵐俳談の作者様の誰とも会ったことがない。同じ結社に入っているわけでもない。というか私は結社に入ってないし、今後も入ることはないだろう。

高校生ならば、俳句部に入部すれば仲間ができるが、私はもういい歳した大人、それもあんなに忌み嫌っていたおっさんになってしまった。

SNSでフォローし合っている作者様はいるが、私がここで言いたい青嵐俳談上のつながりは、フォローフォロワーという、ボタンを押すだけでつながれる関係のことではないのである。

つながろうと思えばいくらでも簡単につながれるこの時代に、結社でも部活でもSNSでもなく、地方新聞の片隅にともに名を連ねるつながりを、私は勝手に誇りに思っていたりする。

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