「noteの人格」と「本当の人物」との差異について。


いま考えていることを率直に。

いま、というか以前から、もっといえばnoteを始める前から考えていることで、過去の記事(これとかこれ。デジャヴ)でもたびたび触れていることです。

要するに、「ネット上の人格と、実際の人物の相違を、書き手はどこまで許容しているのか?」あるいは「どこまでキャラを作っているのか?」あるいは「どこまでが本当で、どこからが嘘なのか?」という問題。

例えると、Aという体験をする。文章がうまい人は少し脚色をしてA+Bにする。もっとうまい人はA+B+Cにする。もとのAからはだいぶ離れたけれど、文章単体でみれば面白い。(A+Bの小さな例としては、悔しいときに唇なんて滅多に噛まないけれど、「唇を噛んだ」と書くとか)

あるいは、もうAは無視して、Dという記事を書く。(ここまでいったら嘘だけど、面白ければ良い、という考えもある)

僕が自己紹介を難しく感じたり、エッセイを書けない理由が、ここにあると思っていて、要するに自分じゃない自分を紡ぐ可能性があって、躊躇している。

「事実をそのまま書けばいいんですよ」という声もあるけれど、「事実をそのまま書く」ということがいかに難しいことか。(そんなことはなくて、みんなは普通に書いていて、僕が考えすぎなのかもしれない)

一人称を僕にして、ですます調にすれば、柔らかい印象になるし、
逆に一人称を俺にして、言い切れば、生意気な感じになる。

一人称と語尾だけでも印象は変わるし、使用する単語を変えれば、表現を変えれば、印象はいくらでも変わってしまう。いずれにせよ、実際の自分からは距離ができてしまう。

前回書いた小説は事実をベースにしていて、最初に書こうとしたのは中学時代の恋愛話で、

酷い四角関係で全員で傷つけあって別れた。

の詳細になるんだけど、この部分を単体のエッセイにしようとしたけど冷静に書けないし(冷静でなければ虚飾が入る可能性がある)、僕の視点でしか書けないので、相手を一方的に悪くいうこともできて、でも相手だけが悪いなんてことは多分なくて、そんなことを考えているうちに、書けない。折衷案として、ある一つの小説になった。

noteはプロレスみたいなもので面白ければいいということで、ある程度のキャラ作りや、装飾はオッケー、という割り切りもあると思う。

または「ありのままの自分」なんて幻想だから、自己との乖離なんか気にせず書きたいように書く、というのもあると思う。

体験を文章にすることに対して、正確に書けないからといって、後ろめたさを感じるのは考えすぎ。だとは思っているので、今夜は雪が降る前に寝ます。頭を冷やします。

(なんだか数ヶ月に一回この話題が出てる気がする、自分の中で。きっと答えはすぐには出ないので、また小説というテイにするのかもしれない)

(今回の記事でちょうど100記事らしい。偶然にも節目として真面目な記事。いつもふざけたことばっかり書いてるのでたまにはこのまま載せます)




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