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平成10年の秋、安藤健次郎さんに出した手紙.dotx(公開用テキスト版)


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一 前略、手紙で私の話を聞いてくださると言われました。お忙しい中なのでだらだらと電話での話を聞くのも大変なことだし、要領よくと言われましても事柄の性質上簡潔な言葉や表現では無理があり、大切なことを伝えることが出来ません。

 初めは手紙を読んでもらえることなど考えていなかったので若干の戸惑いがありましたが、確かに無駄を省き要点をまとめ且つ必要な事柄を適所に添えるには書面が一番好都合だと思います。

 さて、これから私が記述することはこれまでに電話などでお話しした内容のいわば詳細のようなものです。いきなり会社に責任があると言っても単なる責任転嫁と取られるのが関の山なのかもしれません。しかし、文さんの性格や人柄を知る家族の方であれば私の話がそれほど出鱈目ではないことはすでにご承知のことと推察されます。

 そのような事情が確かにあったにせよ実際に暴力に及んだ私を非難し許せないと思われることも至極もっともな感情です。私自身自分が悪いと言うことは分かっておりますがただそれだけでは到底割り切れない問題であり、このままの状態ですますことは自身のみならず文さんやご家族の名誉、経済的な面での公正妥当な損害の分配という不法行為法の理念に照らしても著しく不当な結果であり、正義に反すると言わなければなりません。

 また無法者を放置させのさばらしておくことは社会的にも許されないことです。真に私自身にのみ帰責原因があるのならば個人間の問題でありますが、全体を俯瞰した視点に立ち合理的に解釈するならば民事問題の枠を遙かに超えた驚異的組織犯罪の存在が見えてくるのです。私も文さん同様にその犯罪の標的とされこころと人生そのものを踏みにじられているのです。

市場急配センターの組織的犯罪について

 私が文さんの働く市場急配センターに勤めるようになったのは平成3年の5月か6月の下旬のことです。私の記憶では5月だったように思っていたのですが会社の方での資料を見ると6月からと言うことになるのです。

 もともと市場急配センターと同じ会社で親会社のような金沢市場輸送にいたのですが、市場急配センターの方が独立した形で、その代表者が昭和63年の8月か9月頃に入社した松平日出男社長だったのです。安田敏の借金の保証人になったことがそもそものきっかけだったのですが、これも実はすでに会社側の意図した計画に乗せられての経過であった疑いがあるのです。

 もともと金沢市場輸送は鮮魚と青果を主体にした長距離輸送が業務だったのですが、昭和59年頃から市場関係の市内配達の方にも少しずつ手を回すようになり次第に本格化して行き、独立してやってゆけるほどの基盤が出来たところに登場したのが松平であり、平成元年の終わり頃には完全に独立した事務所を現在の場所に建て会社名もいつの間にか「市場急配センター株式会社」となっていたのです。

〉〉〉:Linux LibreOffice: 2023-09-28 22:26:09 〉〉〉
 昭和59年10月の時点では市内配達の仕事はまだなかったと思われる。市場急配センターの事務所の建物が出来たのは平成2年の春先。金沢港のイワシの運搬の仕事で平ボディ車の仕事がなくなり、その平ボディ車を市場急配センターの建物が建つ駐車場に持っていった記憶。その時点では中継をするとその場に3人でいたYTか藤田さんが話していた。
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 文さんが入社したのはそれからまもなくの平成2年の春頃だったと思います。それは金沢市場輸送の方で当時新型で出たばかりのホンダトゥディに乗り、駐車場に止めちょくちょく短時間の出入りをしていた文さんを見かけるようになったからです。

 実際にはその前から市場急配センターの新社屋の方にいたのかもしれませんが、それにしても社屋の完成からまだ日の浅い頃だったと思います。あるいは社屋の完成自体がその年の春だったかもしれません。

 私が市場急配センターの実質的同会社である金沢市場輸送で働くようになったのはですが、その前にも昭和59年の1月から10月まで、昭和61年の8月から昭和62年の1月間での間勤めいたことがあり、狭い会社で人数も大体25人ぐらいだったことから社員の顔ぶれはよく熟知していました。中でも最古参の運転手で昭和61年の12月頃から配車係をするようになったのが本恒夫という人物です。

 配車係というのは仕事を取って運転手に割り振りをするものですが、大きな会社は別として金沢市場輸送のような小さな会社では会社の運営自体を任された最高責任者のようなものだったのです。の運転手も同様ですが初めに入社したときから気さくに話しをしていたので配車係をするようになった彼は何かとよく話すようになりました。

 大型免許を取ったのに乗務する大型車がなかったので、それ以前に勤めていた中西水産輸送(中西運と同じ)の同僚で運転手から配車係になっていたYTという男の誘いで中西に戻ったときも私の家まで来て新車の大型車を入れて増車するから戻ってくれと勧誘したのが本恒夫だったのです。

 因みにYTは後日私の紹介で(実質的には彼の方から頼んできたような感じ)輸送に来て配車係をするようになり平成2年の6月頃までいました。文さんと同じ事務所で仕事をしていた姿も覚えています。

 彼はそれから守田水産輸送の子会社で都商事という運送会社で配車をしていました。守田水産も金沢市場輸送と付き合いがあり特に本恒夫が仕事のやりとりをしていたのです。一緒に青森の定期便などもして金沢市場輸送のスタンドで給油までしていたのですが、YTが守田の世話になった頃には付き合いは殆どなくなっていたようです。

 YTが去ったのは本恒夫の独善的仕事ぶりに嫌気がさしたのが一番の理由のようでした。ただ私には本恒夫と松平と吉村の間には表面的なライバル関係のようなものとは別に太いつながりがあるように感じられます。

 以来私は本恒夫のもとで長距離の仕事を中心に別の市内の仕事も一時期したりしていたのでが、彼のやり方に疑問を感じ次第に衝突することが多くなり、周りの本恒夫に対する評判も批判的な声や、運転手の給料よりずいぶん少ないと言いながら裏で竹沢と契約を交わし特別高額の報酬をもらっているようなことも耳にしていたのです。直接そのことで本恒夫に不信感や不満を抱いたわけではないのですが、内心で影響していた部分もやはりあったはずです。細かいことはここでは書きませんが、覚えていることはすべて裁判の資料の中で記してあります。

 一つ一つのことは大きなことではありませんが積み重ねてみれば普通に考えて意図的な挑発としか考えられないことで本恒夫と衝突して金沢市場輸送をやめることになり、そこに言い寄ってきたのがかねてから本恒夫のライバルで相性も悪いと知られる松平だったのです。タイプの違いはありますが、どちらも向上心は旺盛で松平の方が営業タイプだったのです。本恒夫の方はベテランの運転手のようなもので運送業の経験が全くないような松平とはやはり対照的でした。であると私は考えております。

 私が文さんを意識するようになったのは8月に入ってからでした。前妻に家出をされたのが確か7月18日で、8月の最初の土日には一度戻ってよりを戻したかに見えたのですが荷物を取りに行くと出掛けた神戸からは戻らずその月曜日に電話を掛けたところで彼女の意志を確認し、8月の盆前に彼女の実家に行き父親と話しをして彼女の望み通り判をを押した離婚届を渡したのです。

 ちょうどその頃から会社で文さんを意識するようになったのですが、それは文さんの態度に何らかの兆候のが察知されたからです。一番初めの方に覚えていることはある日の午後事務所にいると同じ事務員で文さんの上司に当たる池田が「文ちゃん、彼氏は?」と話しかけ、それに対し彼女が「高校の時いたけどいない」と答えていたことです。他の社員は殆どいなかったので二人の会話は息がピッタリしていて、どうも私に聞かせることを目的としていることを窺わせたのです。

 同じ頃に松平が自分と池田と文さんと私の分のアイスクリームを文さんに買いに行かせることもありました。前妻の借金の問題でサラ金の女性社員から会社に電話があったとき取り次ぎをした文さんが悲しそうに不安そうな顔で私に取り次いだあと会話が事務的だったことからか次にはうれしそうな顔をしているように見えたこともありました。

 他にも雑巾を使っていいかと声を掛けたところ、わざわざ近くまで駆け寄ってくれたり、私に対してはすごくうれしそうに明るく対応してくれたのです。それまでの彼女というのは無口で無表情な姿しか殆ど目にすることがなかったので不思議に思うと同時に諸々の事情で離婚のやむなきに至った当時の私の心を和らげてくれたのです。

 金沢市場輸送では仕事の面でも評価され認められ、他の社員ともよく話しをしていたので事務的に気を使ってくれているという気持ちが私の方には半分以上あったのですが、遂に確信めいた行動を見せてくれたのが前にお話ししたフィルム張りの一軒で、それを境に彼女の行動も一層顕著となり、直接彼女の方から話しかけてくれるようになったのです。これから先のことは前にほぼ話したし、時間と紙面の都合もありますので割愛します。今ここで話しておきたいことはその私と文さんの関係に関与した会社の連中の関与についてです。

 これもフィルム張りのあとだったと思うのですが、銀行のカードを作ったことで日中不在の私に郵便局まで取りに来るようにハガキをくれたのです。仕事の都合もありどうしたものかと池田に相談したところ、そばにいた文さんが「それ私の家の近く私行って来てあげる。」とはしゃいで言ってくれたのですが、それを池田が、何の理由だったか思い出せないのですがとにかく本人でなければならないと落ち着いた声で文さんを諫めたのです。

 会社の前に止めてあったバイクにまたがっていたところ、文さんが上から降りてきて私に「広野さんどっかいんがやったら送ってあげるか?」と声を掛けてくれたのですが、殆どその瞬間に二階の窓が開き池田が慌てた声で「広野さん乗ったらダメ、どっか行くんやったら私のくるまでいきなさい。」と確か鍵まで投げつけたのです。

 私はどこにも行く気などなくそんな様子でもなかったはずです。

 11月には、ある日トラックの洗車をしていた私を二階に呼び、池田が缶コーヒーとケーキを勧め、それを食べながら池田と話しをしていると池田に電話が掛かり、暫くして文さんが戻り、それを見て池田が「文ちゃん、ケーキ食べなさい。このケーキ広野さんが文ちゃんのために買ってきてくれてんよ」と言ったことがありました。

 同じ11月、松平にトラックのタイヤ交換で迎えを頼むとかなり遅れて文さんが自分の乗用車で迎えに来て乗せてくれたことがありました。これなども明らかに会社側の指示があったはずです。

 また、これも11月、池田に北國銀行での通帳の作成を頼んだところ、池田が文さんに頼んだといい、30万円と3万円を別々に入れたらしいと言いました。

 これらなどはほんの一例ですが、池田の態度は明らかに文さんの行動と密接に関係していました。当時の私は池田個人の出しゃばりのようなものであると考えていたのです。しかし嫁入り前の文さんを預かる立場を考えれば、離婚直後の私とことは慎重に吟味する必要性があり、好意的に見守ってくれているような感じもあったのです。

 この池田という事務員ももともと市場急配センターにいたわけではなく、なんと私が市場急配センターに来た直後から毎日市場急配センターで姿を見るようになったのです。つい数日までは金沢市場輸送の事務所の方で殆ど一日中姿を見かけていたのが一転して一日中市場急配センターで姿を見るようになりました。

 池田が金沢市場輸送に入社したのは松平より古く本恒夫が配車係になった頃から姿を見るようになったと思います。金沢市場輸送の事務所がまだ中央市場前の2階建てビルの中にあった頃です。そして確か63年の夏の初め頃だったかに現在のパチンコオークラの裏に新社屋を完成させて移転したのです。松平が来たのは移転したあとのことです。

 問題児東渡と浜上そして河野が市場急配センターに来ることになったのも私が市場急配センターに来てまもなくで7月の10日頃でした。

 金沢市場輸送では平成3年の12月から翌年の1月にかけて日野二台、三菱二台の計4台のウィング車を新車で入れ、1月17日の湾岸戦争勃発の朝に来た2315号に私が乗務し、2314号には口取修、三菱の二台にはそれぞれ小坂さんと東渡が乗務し、ミールの仕事と茨城県古河市の山三青果を中心にしていたのです。

 そのあと4月頃だったかに日野の二台のウィング車が新車で追加され、この二台には河野と浜上が乗務しました。この二台はそれまでの金沢市場輸送の茶色とクリーム色のカラーとは一新して全体的な白に赤と青のラインを引いたもので本恒夫の娘のデザインによるものと聞きました。

 さらに私が金沢市場輸送をやめるのに前後して同じニューカラーの三菱を一台入れたのですが、これに東渡が強引に乗務したそうでした。普通ならば一度新車に乗務するとかなり古くなって次の新車が当たるまで乗務するのが慣行だったからです。

 東渡は入社直後から傍若無人で恥知らずな男でした。七尾の共栄運輸という鮮魚と冷凍魚専門の運送会社にいたというふれこみと福島組という以前県の暴力団組織の勢力を二分し七尾に本部を置いていたいわゆるヤクザに所属していたとも自慢していました。

 大口が甚だしく少し頭もおかしいのではないかと思わせるほどで、周囲は呆れており、突然来た特異な存在だったのです。その東渡がやはり三菱の新車に乗務したと耳にしてから10日か半月ぐらいも経った頃次は会長の竹沢と松平がその入れたばかりの三菱の新車を市場急配センターに身売りするという話しを耳にしたのです。

 それと同時か少ししてその件でなにも知らされていなかった東渡が激しく怒りまくっているという話しが私の耳に入りました。そして一週間もしないうちだったと思うのですが、ある日の午後市場急配センターの事務所で東渡が台所の包丁を手に持ち松平のことを罵り殺してやるようなことまで口走りついには机の上に包丁を突き立てたのです。

 その時松平は出掛けていて不在で事務所の中は池田と文さんがいつものように事務の仕事をしていたのです。私は安田敏と市内配達から戻ったところでいつもより少し早い時間に戻ったように思います。すぐにその場を去るのも気が引けどうしようかと思っていたとき、電話が掛かり私宛だったので出ると相手は安田繁克でした。

 金沢市場輸送に前からあった箱の大きな四トン車で徳島行きのスイカを積んで向かっているが車の調子がおかしく重量的に無理があると言い本恒夫にもあるいは松平にも連絡がつかないなどと心配そうに困った声で話していたのです。

 細かいことは思い出せませんがとにかくこれも金沢市場輸送に前からあり当時は古くなって長距離には使用せず臨時の仕事に使っていた7180号という10トン保冷車で積み替えることになり、私は安田敏とその大型車をひっぱって安田繁克の待つ北陸自動車道尼御前サービスエリアに行き、そこで荷物の積み替えをして四トン車で帰ったのです。行きは高速でしたが帰りは加賀インターから八号線を走ったように思います。

 翌日いつものように早朝中央市場でマルエーの青果物の積み込みをしていると体を縮めタオルを首に巻き晴れているのに長靴のようなさえない格好をした松平が来て荷積みの手伝いをし、まもなく市場内の高瀬商店というパンやおにぎりを置いた皆が出入りしている店に誘いました。

 そして不安そうな声で昨日東渡に襲われ殺されるかもと思ったなどと話していたのです。この時も安田敏が一緒でした。同じ日の午後だったと思うのですが会社事務所で池田からも東渡の襲撃の話を聞きこちら方はより具体的で逃げる松平を包丁を手に市場の中まで追いかけ回し、最後はたまたま松平に同行していた者がいて武術の有段者だったので東渡を取り押さえ大事にはならなかったと本当によかったとすべてが終わったように明るい声でうれしそうに話していたのです。

 それ以来東渡が再度松平に危害を加えようとしたという話しを耳にすることはなかったのですが、暫くして東渡らがトラックごと市場急配センターに来るという話が決まったと聞いたのです。事務所の中でも池田と梅野がいて池田は不安そうに梅野は吐き捨てるように松平を非難し、いずれも先行きを案じ不服そうな態度でした。事前に松平からの相談もなかったことも不満のようでした。

安田繁克について

 彼が市場急配センターに入社したのはまだ市場急配センターが金沢市場輸送の一部だった頃すなわち市場急配センターが設立する以前で平成元年の終わり頃だったと思います。余り姿を見ることはなかったのですが彼のことはすぐに耳に入りまして実際に顔を見る半月か一月ぐらい前から噂の方が先行していたからからです。

 というのは当初、金沢市場輸送でイワシ運搬の持ち込みダンプに乗っていた堂野という人物のいわゆる愛人の息子だと聞いていたからです。ちょうど同じ頃金沢市場輸送の長距離10トンに乗っていた山田という人物の長女の彼氏が入社したのでどちらも社内の関心を集めていたのです。

 こちらの方は西口という青年で安田繁克よりは年上で私に比較的年が近かったかもしれません。私の認識ではこの先市場急配センターに来て暫くするまで安田繁克は堂野の愛人の息子だと完全に思い込んでいたのですが、市場急配センターで仕事をするようになりそこに16才の大野という少年が働いていて私などの手伝いをしていたのですがその大野の方が堂野の愛人の息子だと知ったからです。

 これも殆ど安田敏の口から聞いたことです。安田敏は当時市場急配センターに来て一月ぐらいだったのですが溶込みが早かったのかかなりの事情通になっていてずっと前からいる会社のように何かと説明が多かったのです。

 もともと私の紹介で金沢市場輸送の方に入社したはずの安田敏が大型免許取得のため大徳自動車学校に通うことになり、金沢市場輸送の仕事内容では困難なため昼の仕事が中心の市場急配センターに出向していたのです。

 初めに安田敏を本恒夫に紹介したのは5月の連休の時で実際に入ったのはそれから短くて10日ぐらい長くて20日ぐらい後のことだったと思うので大体5月の半ばから20日過ぎぐらいと考えられます。
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 4月の終わりの面接で、すぐに金沢市場輸送で仕事を初めていた記憶になっていた。
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 その間私の方は金沢市場輸送で長距離の仕事をしており時々安田敏とも会っていたのですがこのような二重状態は半月から一月ぐらいあったように思われます。

 そして私が松平に誘われ市場急配センターに来たのが22日頃でそれから5日ぐらいして私が市場急配センターに正式に入社したのと同時に安田敏の方も市場急配センターの社員ということに決まったのです。

 なぜ22日頃かというと初めは松平から一日1万5千円の条件でアルバイトとして入ったからで、それが25日締めの給料計算から正社員となりアルバイトの期間はわずか3日しかなかったと覚えているからです。

 とにかく市場急配センターに来て4,5日ぐらいで松平は近いうちに大型車を導入して青果物の長距離輸送をする計画なので是非私に乗務して欲しいと懇請したのです。そう言えば本恒夫の長距離のやり方も不合理であると批判し自分ならもっとよくできると力を入れて語っておりました。実際に市場急配センターを急成長させずいぶん利益を上げていると噂を聞いていた時期でもあり経営手腕は確かにありそうでした。

 実際に繁克と話しをしたのは平成三年の1月か2月頃金沢市場輸送の駐車場で雪のためスリップしていた彼の2トン車を替わりに雪から出してあげたときぐらいでした。その他にも挨拶程度はあったかもしれません。市場急配センターの事務所が移転してから 市内配達の連中と顔を合わせることはめっきり減っていたのですが、しかし、彼が乗るらしい乗用車の方は毎日のように金沢市場輸送の駐車場に止まっていたように思うのです。

 その乗用車というのは私の友人大網健二君が絡んでいたいわく付きの車だったので私もそれなりに注目していたからです。車種はずいぶん古い型のBMWでした。健二君は副業で車のブローカーのようなこともしていたのです。初めは同じ市場急配センターの笹田という男に納車する予定だったようですが笹田が不義理なことをしてトラブルになったとか詳しいことは分からないのですが大網君の方は珍しくずいぶん腹を立てていました。

 私は笹田の方からも苦情の相談を受けたことがあり、同じ市場急配センターのS藤という元ヤクザのチンピラのような男を連れて12月のイワシの仕事が始まった直後に金沢港まで二人で来たこともあったのです。

 このS藤も元ヤクザですが繁克の方も元ヤクザだとすでに聞いていたように思います。S藤の方は指を詰めており入れ墨も入れていたと思います。私にすればどちらもチンピラに毛の生えたようなもので一時的に所属していたぐらいと考えていたのですが。これまでに出てきた西口、S藤は繁克とも程度は分かりませんがかなり親しくしていたような感じでした。

 笹田の方は確か繁克らより前から金沢市場輸送で市内の仕事をしていました。入社したのは梅野と同時期ぐらいかもしれません。この笹田といつも一緒にいたのが峰田という男で文さんに電話をするようになった時期ぐらいに文さんはこの峰田の紹介で市場急配センターに入社したと会社で耳にしたのです。残念ながら誰から聞いたのか思い出せないのですがやはり多田敏明が一番有力ではないかと思います。

 峰田と繁克の付き合いは分かりませんがそれなりのものがあったと推定され、詳しいことは述べませんが色々な事柄が結びついて文さんの評価を下げる方向に作用したのです。実際に平成4年の2月下旬に梅野が峰田と大久保が彼女の交換をしていたなどと話し今時の若者の男女交際は予想もつかないほど呆れたものだというようなことを話していたことがありました。

 偶然なのか故意だったのか確かなことは分かりませんが後者であった可能性の方が高いと思われ、私の知識を利用した計算高さと計画の緻密性がこの点にも垣間見れるのです。大久保というのは笹田や峰田よりさらに前から市内配達をしていた男で私は彼とも顔を合わせればちょくちょく話しをしていました。峰田は彼女らしい少女を連れ会社の前でベタベタと抱きついていました。

 7月の初め頃だと思います。ある日の午前中繁克が市場急配センターの会社に来た彼と親しく話しをしたのです。当時市場急配センターの裏駐車場では半分近くのスペースがまだ金沢市場輸送の余り使わないトラックの駐車場になっていたのですがそこに止めてある大型ダンプが彼のもので今は臨時で長距離の仕事をしたりしているという話しでした。

 場所を変えて事務所の中の応接席でも話しをしていたのですがその横では文さんも自分の机でいつものように仕事をしていたのです。意識したわけではありませんが文さんの態度は全く普段通りだったと思います。

 繁克はずっと前に市場急配センターをやめたような口振りでこの前は東北から九州まで冷凍物を運んだようなことも話していました。この時点で都商事のトラックだと話していたように思います。先述した徳島のスイカの件はこの数日後だったと思います。

 スイカの件が東渡の包丁事件の同日であったことも既述の通りですがこの日の朝刊に片町で丸西水産輸送の社長が実弟に射殺されたという事件が報道されていたのです。丸西は山田が金沢市場輸送以前に勤めていた会社でもあり、また、かねてから評判のよくない会社としてよく知っていたのです。

 竹沢とも付き合いがあり私が前にいた中西とも付き合いがあったようです。竹沢は昔中西の社長を助けてやったことがあるとも自慢し口振りからは大きな貸しがあるようでした。会社でもその事件が話題になっていたところ、事務所で包丁を持った東渡もその件に関することを通称で名前を挙げて口走りまるで事件に触発され興奮しているような様子だったのです。

 私はこの事件のことを7月の10日頃とばかり思っていたのですが、出所後気になっていたので他の事とも併せ図書館で過去の新聞を調べたところ確か7月の20日頃の日付になっておりました。また、この頃になると繁克は堂野の愛人の息子ではなく松浦の愛人の息子であることも分かっていたはずでそのことに関しても繁克と話しをしたように思います。

 なお、私は以前堂野の紹介で保険外交員の女性から生命保険に勧誘され契約したことがありました。女性は30代後半か40代前半ぐらいで、私のアパートに直接来て前妻とも話しをしていました。これが大野という女性です。たぶん当時から名前の方は知っていたと思います。

 昭和61年の10月頃から金沢港からイワシを運搬するダンプが二台新車で導入されそれに乗務したのが三浦とその連れの同年代の人物でした。二人とも普通のダンプに乗っていたらしく仲間でした。
〉〉〉:Linux LibreOffice: 2023-09-28 23:02:01 〉〉〉
 その後の記憶では、2台のイワシのダンプが入ったのは昭和62年の春先、イワシの運搬の仕事が始まるのは早くて11月の終わりか12月初めからだったはず。また、昭和61年の10月だとまだ市内配達をやっていた時期。その時期にイワシのダンプを見ていた記憶はない。
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 もう一人は比較的大人しかったのですが松浦の方はもともとヤクザ者だったらしくいかにもそう言う感じの男でした。イワシの仕事は金沢港近辺でイワシが水揚げされる一番速くて11月頃から一番遅くて5月頃までの仕事でした。まともに仕事になるのは12月の後半から3月の終わり頃までです。初めはこのおよそ半年間だけの臨時社員のようでした。

 もう一人の方は一シーズンぐらいでいなくなりましたが松浦の方は毎年来ていて現場の主のような存在になっていたのです。私自身昭和63年の暮れから元年の2月一杯ぐらいと元年の12月の下旬から平成2年の2月一杯ぐらいの間このイワシ運搬の仕事をしたことがあり松浦のことはよく知っていたのです。

 堂野が来るようになったのは元年の12月の下旬からシーズンであったと思います。私などが乗務したのはダンプではなく普通の平ボディに和歌山の白浜の方で作った特製の水槽のようなものを積んだものでした。漁獲量が少ないときはダンプのみが稼働するのです。

 平ボディは昭和63年の12月頃に三菱が3台、イスズが2台の計5台を一度に新車で導入したものでした。輸送のダンプは一番初めに入れた2台のみで堂野のダンプは自分が持っていた普通より二台の大きなダンプをイワシ運搬用に改造したものでした。
〉〉〉:Linux LibreOffice: 2023-09-28 23:07:46 〉〉〉
 「二台」は「荷台」の間違いと思われる。荷台の大きさはよく憶えていないが、一般の土砂済みの大型ダンプよりかなり小さく見えた。キャビンという運転席の部分自体が小さく見えたが、古い型の三菱ふそうで、当時ほとんど見かけなくなっていた旧型車。
〈〈〈:Linux LibreOffice:2023-09-28 23:10:42 〈〈〈

 先に述べた繁克のダンプは金沢市場輸送が日通から払い下げてもらった普通と違ったダンプでいつの間にか繁克が金沢市場輸送のカラーに塗り替えて乗っていたのですが自分で買ったような話しでした。
〉〉〉:Linux LibreOffice: 2023-09-28 23:11:26 〉〉〉
 黄色い日通カラーしか記憶にない。市場急配センターの裏駐車場は平成3年10月6日の時点で、まだ金沢市場輸送の使わない大型車が駐車されていたが、その頃には被告発人安田繁克のダンプを見ていなかったかもしれず、一週間ほどして裏駐車場から金沢市場輸送のトラックが消えたが、その後も被告発人安田繁克のダンプを見ることはなかった気がする。
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 たぶん松浦が保証人か手形の裏書きをしたものと思われます。実際それらしいようなことも繁克の口から聞いたのですが細かいことは覚えていません。

 私が市場急配センターで市内配達の仕事をしたのは平成三年の8月一杯です。繁克が会社に来てダンプを見たり事務所で話しをしたことがあった以降この間に繁克と会ったことは徳島のスイカの件を別にして二度ありました。いずれも私が市内配達の荷積みで中央市場の中にいた時です。一度は金沢市場輸送の7180号に乗っていて高瀬商店の前で話しをしたのです。

 この時繁克は本恒夫が仕事のことで大阪方面の業者とトラブルを起こし、かなり大規模なかたちで右翼の街宣車が乗り込んでくるという話しをしていたことです。

 もう一度は都商事の日産の大型車に乗って来ました。この時私は初めて日産の新型車を少し運転したのでよく覚えていたのです。ちょうど同じ頃金沢市場輸送の金山という運転手が市場に来て私に「基本給50万円て、思うたようになると思っとるな」などと吐き捨てて行ったことがありました。

 喧嘩腰ではなくやるかたない憤懣を投げつけに来たようでありましたが、この行動もやや不自然でした。いちいち説明を加えていたのでは紙面が膨れ上がるので省きますが金山というのは金沢市場輸送の私より新しいのですが古い方の運転手で池田などとも親しくしていて東渡のストライキの時には一番乗りに尻馬に乗ったような人物でした。

 富山の人間で本恒夫とは、若い頃からの知り合いのようでいじめていたともはなしていました。本恒夫は金沢の出身なのですが、20代の初めから富山に行き飲み屋を経営するようになったとよく自慢していました。

 カラオケを初めて導入したのも自分のアイデアで先見の明があるといったことも話していました。数店舗を抱えるまでになったそうで10年以上は続いていたようですが、本人曰く「天狗になったがよ」で頓挫したらしく、つぎに静岡に行き、そこでこれも当時ほとんどなかったというサラ金屋を始めたそうです。

 人口の数とか計算に入れ静岡市を選んだなどとこれも実に自慢そうに話し、こちらも大成功を納めたらしく静岡に御殿のような家を建てて住んでいたとも話していました。しかし、結局詐欺罪で警察の追求を受け、身の危険を感じて家族共々金沢に逃げ、飛び込んだ先が金沢市場輸送だったそうです。

 運転手を始め1,2年ぐらいしてから司直の手が回り、逮捕されて静岡刑務所に1年か1年半ぐらい服役したという話しでした。その間竹沢が身元保証人になり、出所の時も出迎えに来てくれすぐに運転手に復帰したような話しでした。

 詐欺の事件は個人を相手にしたものではなく大きなものを相手にしたので賠償する必要もないが数億単位の詐欺であったとこれも得意そうに自慢していました。金山の方も富山で数店舗の飲み屋を経営していたそうですが、ギャンブルに懲り一晩に5百万円負けたりする博打を繰り返し、借金がかさんで金沢の方に逃げ、金沢市場輸送に落ち着いたそうです。

 借金取りからの追及をかわすため形式上の離婚をしているとも話していたのでかなり深刻な感じでもありました。本恒夫との付き合いは昔の話しでそれ以来付き合いはなかったようで、金沢市場輸送で本恒夫に会ったのも偶然のように話していました。金山については以前暴力団員であったと耳にした覚えもあります。

 本恒夫についても私が福井刑務所にいたとき知り合った富山の人物に暴力団員であったと聞きました。その人物は竹沢のこともよく知っているらしく昔仲間だったが仲が悪くなったと話し、やはり竹沢は裏で物凄い悪いことをしていたと話していました。

 彼の話では竹沢は朝鮮人で、それも20代の頃に朝鮮本国から日本に来たような話しで、竹沢の話をしたときすぐに「大日本平和会」だと言いました。これは関西に本部を置く右翼団体ですが実質的にほとんど暴力団のような話しでした。金沢の他高岡にも支部があると聞いたことがあります。

 この人物が出所後TKと金沢の片町でランジェリーパブを出したそうですが、資金はほとんどがこの人物の出資だと聞きました。

 名前は確かNというような名前でした。ちょっと違っているような気もするのですが一応この名前にしておきます。彼は平成10年7月29日6年の4月頃福井刑務所で私が工場出役を始めそれと同時に雑居房に入ったときその房にいた者で工場も同じ2工場でした。

 TKは2工場の中の当時嶺北と呼ばれていた班の班長で、私はその班に編入されたのです。他人と自由に話しを出来るようななったのは3年ぶりぐらいのことでそれも同じ金沢から来ていたので何かとよく話しをしました。

 作業中でも相手が班長なので作業の説明にかこつけ話しをすることが容易でもありました。一年ぐらいしてYKという男が来たのですが、これも金沢の男でTKとはかねてからの友人でした。

 YKは私の事件に強い関心を持ち何かとしつこく聞いてくることがありました。滝本組にいて自分で事務所を開いていたとも話していました。基本的に福井刑務所には現役の暴力団員は来ないのですが、辞めた者とか当局の認定を免れた現役組員らしい者も他にもいました。

 TKは薬物の密売関係の事件で服役していたのですが、片町で飲み屋を経営していて、YKの方も一軒飲み屋を出しているような話しをしていました。YKは恐喝、傷害などで薬物関係では運良く一度も捕まったことがないと話し、車のブローカーや他のことも手広くやっているように話していましたが、ほら吹きなのでなにがどこまで本当なのかはっきりしません。

 TKが仮出所した後後がまの班長になったのがYKでした。Nが出たのはTKより少し前だったと思います。このYKからTKとNが一緒に店を出したとか外から入った情報らしきものを私も聞いていたのです。

 商売は大盛況でまもなく二軒めも出しと聞きました。どちらかが「○○○ハット」という名前だったと片方の方は店の名を覚えています。刑務所で知った人のことを話すのはよくないことなのですが、これらの人物は私の事件と無縁ではないので参考資料の一つと一応の用心のために話しているのです。

 というのは、安田敏が市場急配センターに来て一緒に市内配達をしていた頃、安田敏は片町でバーテンをしていた頃、自分の勤める店の経営者がその前年に新聞などでも大きく報道された片町の薬物密売事件に関与していて逮捕され、自分も逮捕されるのではないかと恐れていたなどと話していたことがあったのです。

 私は関心がなかったので聞き流し、詳しく聞かなかったのですが、このようなことがあってTKと出会ったときはあるいはこの男が安田敏の知り合いではないかと考えました。安田敏の名前を出した覚えもあるのですが知らないと言われました。

 ただ能都町の穴水よりの方に釣りに出掛けたことがあるという含みのある言葉がその時あったのです。なぜなら安田敏の田舎は私と同じ能都町でありますが、10キロほど穴水よりの鵜川という町なのです。

 刑務所を出てから安田敏と電話で話したとき、敏本人からTKやYKとは仲間で、店長の友人でよく一緒に薬物をしていたと話していました。刑務所にいた頃以前聞いた店の名前もすっかり忘れていたのですが、それも教えてくれ店長の名前の他数人の具体的名前を挙げていました。

 TKもYKもよく知っていると得意そうにはばかりなく話していたのです。次にその時の電話の内容を記載したメモ書きを対象に説明を加えて作成した資料の抜粋を掲記します。

(11)安田から℡がかかる。
市場輸送で三回ぐらい免停
昨年 柳田運送 2月の終わり 70才ぐらい
岐阜 富山(?) ライスセンター・昨年
北都高速 20じめ(おそらく給料が20日締めのこと) 12.5から  
18万円(何の金額か覚えていないが、おそらく当時の安田の手取りか途中からの初任給と思われる) 大型 きょり(距離) 35万ぐらい
運行費なし  4時間とれたら.仮眠.下道    丸西と同じ
昨日 滑川(まず滑川−富山県の滑川市以外は考えられない).(読み方不明の二文字)事故(内容は覚えていないがまず事故と読める) 
丸西と愛ちゃん(愛ちゃんとは昵懇、仲良し、などという意味)
3分の一北海道(運転手の三分の一が北海道の人という意味) みなと(金沢市湊のことと思われる) 24風呂  食券300円
行き(行き荷)手積みなし  帰り手積み多い
80人ぐらい  99(?)㎞(何のことか覚えていない)
福山通運(たぶん、しかし何のことか分からない)
市場輸送 昨々年の夏(たぶん市場輸送には昨々年の夏頃までいたという意味と思われる)
修.えらぶっている(市場輸送の運転手、口取修のこと)
輪島の連中、いない 共栄(七尾の共栄運輸のこと、市場輸送にいた輪島の連中はみな共栄運輸に移り持ち込み運転手をしているという話だった。) 160円残る(持ち込みで純利益が160万円残るような話だった。私にすれば丸ごと信じられない話)
気仙沼(宮城県気仙沼市) ダンベ(船上げされた鮮魚の鰯を通称ダンベと呼ばれる水槽に入れ水槽ごと運ぶ仕事、記録の中にもたびたび出てくる)
下根(通称コウキ、もと山水運輸の運転手、安田とは昭和58年頃からの付き合いと思われる。私も安田が当時住んでいた観音堂のアパートで知り合った。)=浜田のトレーラー(蛸島の浜田漁業、これも記録の中にたびたび出てくる。市場輸送の得意先)
=一人もん(独り者)2年前に離婚
ヒロボ.山水のえらさま(現在山水運輸の幹部社員のような意味)

金山、寺川、武田(役職)=(これはたぶん現在市場輸送に残っている私が知っている運転手のことと思う。)
武田4トン(武田は現在4トン車に乗務しているという意味と思う。私自身この話を忘れていたが大型に乗務していた武田が4トン車になぜ乗務しているのか意外な話)
急配(この位置でなぜ「急配」と書いてあるのか意味がよく分からない)
東京ストアーなくなり、東陸、宮陸今でもやっている。一番いい仕事
小林七尾.スギヨ.下関=(七尾の小林運輸の仕事で下関に行っているという意味だと解されるがよく覚えていない。私がいた当時七尾の小林運送とは取引が無かった。)
池田.荒川.(九州の)=(九州の池田運輸の配車係の名前が「荒川」という意味だと思うが、なぜ安田とそのような話をしたのか覚えていない。私が急配にいた頃安田は池田運輸の仕事をしていないはずなのでその名前も知らなかったはず、)
 
ヤクザ 七尾 松下 オレより二つ年下 富山の男=(これも現在何の話であったか覚えておりません。)

ハートブレイクの次ラ○○○=(これは安田がハートブレイクの次に勤めた片町のスナックの店の名前だと思います。記録の中でも何度か出ているはずなのですが、店名はまるで覚えていなかったので特定されていないと思います。)

別居=(誰のことを指しているのか覚えがないので分かりません。)
近しい=(近しいとは、仲がよい、または馴れ馴れしいという意味です。)
京都会津小鉄=(京都に本部のある有名な広域暴力団であることは周知の事実ですが、誰のことを指しているのか思い出せません。)
吉○.別れ.8ぐらい上.健○=(吉○とは多分安田が安田がハートブレイクの次に勤めたラ○○○の店長というか経営者のことと思います。そうだとすればこの人物は薬物取締法違反で逮捕され、安田自身も逮捕を恐れていたという話に符合することになります。健○というのは私が福井刑務所で一緒だったTKのことだと思います。この時の安田の話ではラ○○○のマスターとTKは仲良しでよく店にも来ていたそうです。安田本人もかなりよく知っているような口振りでした。ここには書いてありませんが一緒によく麻雀をしていたようなことも聞いたような気がします。)
シャブ.LSD.ハッパ.しょつちゅう=(これはラ○○○の店長とTKなどがしょっちゅう色々な薬物を一緒に楽しんでいたという話です。)

昨年捕まった.ヒ○○.今シャブ.去年だったかたぶん=(これはTKらの薬物乱用グループの仲間のことだと思います。この時安田は楽しそうになめらかな口振りで話をしていて、私のまったく聞かないことまで勝手に話していたのです。捕まったのはたぶん去年で、現在はシャブを使用しているという意味だと思います。)

つれ(連れ、すなわち仲間やグループという意味).飲みやつれ(誰を指しているのかよく分からない)

YK.愛人が片町で店.広小路.ほら吹き,知らない車も
吉○の所でよく一緒にシャブをやっていた.ヒ○○.富山=(これもTK同様福井刑務所で一緒だった人物です。TKとはかねてからの友達のようで刑務所内でも親しくしていました。愛人が片町で店とありますがこれはほら話なのか事実なのか不明です。このことも私はすっかり忘れていました。もしかすると安田が店長と一緒に薬物をしていると言ったのはTKのことではなくYKのことだったのかもしれません。しかしどちらも同じであったという公算が大です。因みにTKは薬物の二刑持ちでの服役、YKは薬物では捕まったことがないと言う話で確か恐喝と傷害のような話でした。こちらも二刑で、いずれも初回は執行猶予の判決をもらっているそうです。)

○○けんいち.会津小鉄.せいどう会.コンヤ系(紺谷組、小松に本部のある県内を一昔前七尾の福島組と二分する勢力の暴力団だった。数年前に内部分裂か、幹部の台頭により消滅し、現在は宮越となっているらしい。少し聞いた話なので詳しいこと正確なことは分からない。).ホソウ店(何のことか分からないが、現在は舗装工事の仕事をしているという意味ととられる。)

ダンプ.鶴来.穴水.羽咋.全部用意,車も.個人.ダンプ4台.一月二回(不明).話ついとる.週三回.事故多い(不明).住まいが優先=これは安田が北都高速に行く前か北都高速をやめて新たに勤める就職先のことだと思う。現在の私の頭の中ではその後に安田から聞いた話との混同があるように思うが、安田と話したのはこの時と、8月の盆に彼の自宅まで行き直接話をしたときだけだったように思います。するとやはり電話をしたときが次の就職先のダンプの話をしていたことになります。週三回とか事故が多いというのは北都高速の話で、週に三運行が当たり前で事故も多いということだと思います。また、この時に安田から聞いた話ではたしか会社は鶴来で社長が一人だけのようなことを言っていたように思うのです。しかし、その後だと思うのですがダンプの会社は内灘にあるとか内灘に住んでいるようなことを話していた記憶があります。ここに書いてあるのは個人会社でダンプ4台を所有しているという意味だと思います。

国勝物流=(ここで安田の口から国勝物流の話が出たように思うのですが内容は覚えておらず、メモ書きもされていないようです。国勝物流とは北陸ハイミールでミールを納入していた倉庫の管理会社のことです。詳細は記録にたびたび出ていると思いますが、平成三年の1月下旬の安田の門柱でタイヤを爆発事件ではその倉庫の責任者格の人物が安田の主演する偽装計画に参画していた可能性があり、市場輸送や松平社長との関係も軽視できない会社なのです。あるいは私の方から国勝の話を向けたのかもしれません。安田の口からも具体的な話を聞いたような気がするのですがこれも覚えがありません。)

頭かかえとった.言いたいこともいえんかった.顔出したいと思っとった=(これは安田が松平の事件直後の言葉を話していたものかもしれません。ただ、言いたいこともいえなかったという言葉は誰が誰に対して言っているのかよくわかりません。)

情報.アホになった.目玉あっち向いて=(情報とは私が使った言葉だと思うのですが、要するに安田のもとに入った情報のようです。この時、彼はまったく他人事のように屈託無く話していました。)

加賀の方=(小松の八幡温泉病院のことを言っているのだと思います。)

つぶやいとった.なんで誰も来てくれん(文)=(彼女が病院で意識を取り戻したとき、彼女はそう言ってなぜ誰も見舞いに来てくれないのか不思議がっていたそうです。この時の安田の声には弾みがあり、笑っていました。)
助かりやろ(秀樹が)..交通事故.うらみもない.救い=これを見ると私が助かったなと言うことになりますが、何が助かったのか覚えが無く、交通事故というのも不明です。恨みがないと言う言葉も誰のことを指しているのか思い出せません。お前せいと言う言葉はお前のせい、つまりお前の責任と言うことになりそうですがそのようなことを安田に言われたような記憶はないのです。安田は終始、諂いにも似た低姿勢な態度で逆に私を怒らせないような配慮まで感じられたぐらいだったのです。

罰金40万円.輪島.保険で処理.見舞い10万円もはろたか.ババァが悪い.不服申立.徐行違反=安田が以前柳田運送で働いていた頃鳳至郡柳田村の笹川辺りで老婆に接触する事故を起こした話のことです。この話は昨年の八月の盆に安田の自宅で彼に会ったときにもまったく同様の話をしていました。
〉〉〉:Linux LibreOffice: 2023-09-28 23:51:24 〉〉〉
 平成9年8月のお盆休みに、被告発人安田敏の自宅で被告発人安田敏に会ったという記憶は残っていない。鵜川の被告発人安田敏の実家は、玄関先から中に声をかけた記憶だけ残っている。たぶん保育所の前辺りで被告発人安田敏の兄の妻という女性に会った時のこと。被告発人大網健二が同行していた。
〈〈〈:Linux LibreOffice:2023-09-28 23:53:51 〈〈〈

トッチすぐダンプ.やめて=トッチというのは多田利明の通称で、彼は私の事件後すぐに市場急配センターをやめてダンプに乗っているという話でした。

デブおるんないか(和田)=和田はまだ市場急配センターにいるのではないかという話です。和田のことはよく知らないと言う口振りでした。

一ヶ月ぐらいですぐ.東渡.秀樹がいなくなってから=私がいなくなってから一ヶ月ぐらいで東渡は市場急配センターをやめていなくなったという話だったと思います。私がいなくなる20日ぐらい前から東渡が会社により着かなくなりやめると言い、七尾で2トン車の会社を始めるなどと話していたことは記録にあるとおりです。そう言いながらもたびたび会社に姿を現し、私がいなくなったあとも私に対する処置の会議の席でただ一人私を市場輸送からの功労者として擁護するような発言をしていたことも安田から西署で聞いた話です。

本ともめた.帰り積まなくなった.会長すごく怒っておる=誰が本ともめたのか話の内容を覚えていません。帰り荷を積まなくなったというのは市場急配センターの長距離運転手全般のことを指しているのかもしれません。会長とは竹沢会長以外に考えられませんが、誰に対して怒っているのかも不明です。あるいは安田に対してのことなのかもしれませんが、彼が市場輸送でケンカ別れをしたようなことも彼から聞いた覚えがありません。

いまだにミーティングで俺の話しとる.池田の仕事.イバラギ.ナスビ=これはどうも安田本人のことを話しているようで、池田運輸の仕事でトラブルを起こし、それがいまだに会社内で話題になっているような感じにとれます。ナスビがその時の積み荷と考えられますが、イバラギの方は荷物の降ろし先なのか積み込んだ先なのかはっきりしません。たしか池田運輸は埼玉か群馬の辺りにも営業所があり茨城近辺から青果物を積み込むことは十分考えられることなのです。私も一度群馬の伊勢崎市辺りと群馬県の埼玉・茨城の県境辺りから池田運輸の仕事で青果物を積んだことがありました。確か九州から東京で池田運輸の青果物を卸したときで、一泊して積み込んだのです。このことも記録の中に記載があると思います。平成三年の春先ぐらいだったと思います。

山三やっていない.三年ぐらい前.9〜10万の運賃=私が市場急配センターにいた頃一番のメインだった茨城の山三青果の仕事は三年ぐらい前にやめてやっていない話のようです。9〜10万の運賃というのは私が聞いていた運賃より安いようです。どのような経緯で彼がこの話をしたのか詳しいことは覚えがないのですが、今では東渡同様全くの他人であることを強調しているような印象がありました。

北都の傭車延着=これもよく覚えがないのですが、傭車に頼んだ北都の運転手が延着をしたようです。北都と言っても「北都高速」なのか「北都運輸」なのか不明です。そして誰のどの仕事で延着したのかもはっきりしません。あるいは北都高速が延着をし、そのあとにも庸車で頼んだ運転手が延着することが続きそれで山三からはずされたという話だったのかもしれません。

丸魚.富山.金沢だけ.あと中継=丸魚というのは石川中央魚市の商標です。このあとに中継のことなどが書いてありますが、魚の仕事となると山三は青果専門なので考えられないことになります。もっとも考えられるのは東陸と宮陸のいずれかの東北便のことです。こちら方は今でも続いていると聞いたように思います。ちょうど山三の記載と間になっているので延着の件もどちらのことなのかはっきりしなくなりそうなのですが、いずれの北都も鮮魚を運搬していたとは考えられないので、やはり延着の件は山三と言うことになりそうです。

月10回以上.手取り.45万円ぐらい.50万円以上=これもどの会社のことを指しているのかわかりません。一月に10回以上の運行で給料が50万円以上、手取りでも45万円以上もらっているということになりますが、市場輸送の現在の給料体制や状況を安田から聞いた覚えも現在の私には記憶にないのです。当時(安田から話を聞いた当時)の私はもっと大きなことで頭の中がいっぱいで細かいことは深く考えず、考える余裕もなく、思い起こすこともなく話を聞き流していたのだと思います。また、人との電話でメモを取ったのもこの時が初めてで、見ればすぐに思い出すという安心感でなおさら深く考えていなかったようです。

230.180=この数字も不明ですが、唯一考えられるのは市場輸送の持ち込み運転手の売上額ぐらいです。つまり180万円から230万円の間が一月の売り上げです。

山○ひ○○.前にいた輪島の男=これは私が市場急配センターに入ってしばらくした頃に市場輸送に来た運転手で安田同様(安田はそのまま市場急配センターに移籍した)出向社員として市場急配センターで市内配達をしていた青年です。同じような青年がもう一人いていつも二人一緒にいました。もう一人の方はたしか輪島市の三井の出身だと話していたように思います。また、池田が文さんに女の子みたいなどと話していました。こちらは十月頃にやめてゆきました。山○の方はその後翌年になってから(平成4年)市場輸送で大型の保冷車に乗務していました。あるいはもっと早い時期だったのかもしれませんが三月頃に初めて知ったような気がします。二人とも私より年下で山○が山○○の同級生ぐらい、もう一人は学校を出たばかりぐらいだったかもしれません。あるいは山○の方は私より一つ年下ぐらいだったかもしれません。ただ、ひ○○という名前であったことは今聞いても初耳なぐらいで容姿に照らしてもかなり以外の感があります。どちらかと言えばいかつい感じなのですが、外見とは違い話すと大人しい感じでした。

頭おかしくなった.独房に入っとると聞いた.母ちゃん泣いとるぞ=刑務所にいた頃の私に関する噂のようです。この時も安田は文さんの時と同様うれしそうに笑っていました。

オジコ.守田=オジコこと○○○○は現在も守田水産輸送で運転手をしているという話でした。金沢で生活するようになった去年の夏頃、日産ディーゼルの大型車に乗った彼らしい人物を私も見かけたことがあります。

輪島やめ.ウロコ.輪島トレーラー.守田新車10トン=輪島屋鮮冷をやめてウロコ運送に行き、それから輪島屋鮮冷に戻ってトレーラーに乗り、それもやめて現在は守田水産輸送で新車の10トン車に乗務している、という話になりそうです。これもオジコのこと以外には考えられないのですが、ウロコ運送に行ったこととトレーラーに乗っていたことは今聞いてもまったく意外な話です。因みに現在輪島屋鮮冷のトラックはまったく見かけたことがありません。おそらくつぶれたものと考えられますが、噂を聞いたこともありません。

市場.守田駐車場=市場急配センターの会社の正面から見て右側の敷地が現在守田水産のトラックの駐車場となっていることは私も実際に見て知っているのですが、これも安田から聞いたという覚えはあまりないのです。因みに反対側の左手の敷地(中央市場より)の方はなぜか郵便局の10トン車がいつも必ず2台ぐらい駐車しています。あるいは市場関係で市場急配センターと取引があるのかもしれません。また、看板だけが郵便局で市場急配センターのトラックが下請けで郵便局の仕事をしていることも考えられます。私が一度平成4年2月の10日頃に石川丸果 で郵便局の仕事をしたことがあるのですが松平社長が石川丸果 の課長を通じて郵便局とつながっていることも考えられることです。

茶○.ウロコ.10トン=安田と同じ水産高校の出身でオジコと同じ珠洲市三崎の出身でもある茶○○○さんが今でもウロコ運送で10トン車に乗務しているという話のようですが、これも安田の方から自発的に出た話だと考えられます。

タヌキ.松=松平のことをタヌキ親父だと言っていました。私の話を誘う言葉だという印象がありました。

事件.タヌキ=詳細は不明ですが、事件に関しても松平の対応はタヌキのようで不信感があると言っていたようです。誘いに乗らなかった私にさらに踏み込んでみたような感じでした。

ローカルいそがしい.4トン増えた=現在(話をしていた当時ことなのかそれとも安田が市場輸送にいた当時のことなのか、市場急配センターの噂を耳にした当時のことを指しているのか不明です。これまで使った現在という言葉もほぼ同様の趣旨です。)

怖い人.池田.頭何かんがえとるかわからん=事件後池田宏美が私に対して述べていた印象のようです。これも誘い水のような挑発的な感がありました。

あれからすぐに免停.1月半.秀樹がいなくなって=私がいなくなってすぐに免停になったという話です。刑務所に面会に来たときの松平の話と一致しています。1月半というのは私がいなくなってからの期間なのかそれとも免停の期間なのかはっきりしませんが多分前者の方ではないかと思われます。

東名でパトカーに追跡.6点ひかれた=これも松平の話に符合します。松平の話では東名の岡崎インター付近でした。安田もこの時同じようなことを話していたかもしれません。

岐阜.ライスセンター=これも松平の話と同じです。安田は免停になるのでしばらく岐阜に行かせてくれと言い、面会に来て話していたときにはすでに岐阜に行っているようでした。

急配.その年11月頃に戻った=私が以前安田から聞いていた話ではライスセンターの仕事は毎年12月の10日頃まででその後三ヶ月ぐらい出稼ぎ手帳の失業保険のようなもので遊んで暮らせる金額の支給を受けていたようです。

輸送に移った.2年前ほどやめるまで=市場急配センターから市場輸送に移りその後この電話の二年ほど前まで勤めていたそうです。安田の話では私がいなくなってまもなく、市場急配センターは長距離の仕事を撤廃して市場輸送に引き継いだそうです。この話はほかから聞いた話とも同様です。概算になりますが話をまとめると私がいなくなった平成4年4月1日から長くて半年以内、短くて3ヶ月ぐらいで市場急配センターの長距離はなくなり運転手も市場輸送に移籍したようです。

携帯030−115−3397=安田から聞いた彼の携帯の電話番号のようです。少なくとも私の方から教えてくれと言ったことはありません。彼の方が積極的に伝え、連絡を期待しているようでした。不安が見え隠れしていることがありありと伝わっていたので、情報を欲しがっていることが強く感じられました。

急配.おかげ=何の話なのかわかりません。

浜口はずつと続いとる=浜口さんはその後もずつと急配にいるという話です。ずいぶん出世しているようなことも話していたと思います。配車係をしているということはほかからも聞いています。また、ジャガーという高級外車に乗っているとも友達から聞きました。たまに急配の前を通るのですが、ジャガーを見たのは一度だけでたしか銀色か黒っぽい銀色だったと思います。4ドァーだったので、もしかすると竹沢会長が乗っていた2ドァーのジャガーを譲り受けたのではないかという私の考えは違っていたようでした。また、去年の夏頃のことになりますが彼はもうじき急配をやめると話していたそうです。その後彼のことは聞いていないので現在のことは分かりません。彼と会ったことは出所以来一度もありません。その他梅野からですが、体をこわしてしばらく入院していたとも聞きました。

愛があった.色々=現在の妻のことで、その後色々とあったけれど愛があったので今でも続いていると話していました。私に対する当て付けのようでもあり、私と文さんの関係を否定することが精神の安定にもつながり、また、そう信じているようです。これは彼の事件に対する考え方を象徴している言葉のように私には感じられました。他の者もおそらく同様だと考えられます。言い方を替えれば現在の精神の支柱にさえなっているようで、反面、梅野という例外をのぞきおびえのようなものが強く出ているのです。これらは私が想像していた以上に顕著な反応でした。
安田敏が暴力団と関係を持っていたことは十分考えられることであり、その過程で竹沢や松平と知り合ったのかもしれません。私が安田敏の事件に対する関与に大きな関心を寄せているのは、連中の共謀関係の存在を証明するために他ならないのです。控訴審では全く違ったかたちで安田敏の関与を認識していたのですが、それは安田敏の個人的な異常行動と事実を捉え位置づけていたのです。しかし、控訴審の判決が出て冷静に過去を分析するにつれ、可能性の一つとして安田敏と会社の結託を考えるようになったかもしれません。

 添付する「証拠番号5」という資料は、私が平成5年9月7日に控訴審判決を受け、当日に起こした問題で49時間革手錠をつけられまま72時間保護房に入れられた後、半月ぐらいだったかで処分が決まり25日間の懲罰を受け、それが終わってから作成を始めたもので、10月の半ばぐらいだったかから11月の終わり頃にかけて完成させた資料の一部でありますが、昨年パソコンの練習がてら機械に入力したものです。

 電子文字なので簡単に複製や転写が出来ます。この資料は特別な意味を持つものです。すなわちこの直後の12月の上旬、上告審で国選弁護人になった東京の斐川雅文弁護士が私の依頼に応じて郵送してくれた捜査段階の事件の資料をようやく目にすることが出来たからです。

 控訴審の段階では松平、池田、梅野の三人組の半ば過失責任と安田敏や東渡の異常性が偶然に競合した現象だと認識していたものが、さらに突き詰めて再吟味することにより、連中全体の共謀ではないかと推測するようになり、その視点に立って供述を展開して全体像を明らかにしたのが懲罰後に作成した資料だったのです。

 なお、この資料は、当時国選弁護人の選任に不服を抱いていた私が控訴審の私撰弁護人である木梨松嗣弁護士に上告審の弁護人を依頼しながら郵送していたはずです。したがって上告審には提出されていないかもしれません。

 そして、福井刑務所での第二次再審請求の際、自分の母親に頼んで裁判の資料を集めてもらおうと頼んだところ送ってきたのが、木梨松嗣弁護士からの事件記録でこの中に「懲罰後の書面」も含まれていたのです。
〉〉〉:Linux LibreOffice: 2023-09-29 00:05:00 〉〉〉
 「自分の母親に頼んで裁判の資料を集めてもらおうと頼んだ」というのは記憶になかった。
〈〈〈:Linux LibreOffice:2023-09-29 00:05:32 〈〈〈

 「証拠番号5」は市場急配センターに来た頃から平成4年1月20日過ぎ頃までを対象とした内容で、全体の3分の一ぐらいだと思います。この全部をまとめたものより大部だと思われる資料が控訴審の判決前に作成した「上申書」ですが、こちらの方は私の手元に全くなく、裁判所に提出後見たこともありません。

 判決の1週間ぐらい前にまとめて裁判所に送付したのですが、カーボン紙で取った複写の方は随時木梨松嗣弁護士に送っていたのです。
〉〉〉:Linux LibreOffice: 2023-09-29 00:06:47 〉〉〉
 被告発人木梨松嗣弁護士に複写を送っていたことは記憶になかった。
〈〈〈:Linux LibreOffice:2023-09-29 00:07:12 〈〈〈

 また、「証拠番号5」には福井刑務所で再審請求の時に加えた補足説明と訂正が含まれ、さらにパソコンへの入力の際にも若干の補足を加えていたかもしれません。知れませんというのは、長い間私自身事件に関する資料を全くに近く読んでいないからです。

 参考までに添えますので、平成5年当時の私の認識内容であることなど上述の趣旨を念頭に置いて読んでみてください(現在の私の考えと違う部分や、ごく一部に混沌としていて記憶が固まらなかったため不正確な部分もあるかも知れません。)。

 そして12月になって、木梨松嗣弁護士には何度お願いしても聞き入れてもらえなかった関係者の供述書の閲覧がようやく実現したのですが、その内容は私の推測をより確かな事実として裏付け、推認させるものでした。

 梅野や繁克に較べれば露骨ではないのですが、安田敏の供述内容は事件前とは別人格を思わせるほど冷静で常識的な内容でした。しかし、実際には平成三年の12月のことを9月頃の出来事として供述していたり、ことさら虚偽としか考えられない部分があり、全体的に他の連中の供述内容に歩調を合わせているのです。

 性格の問題もあると思いますが、供述には自分の関与を悟らせない慎重な配慮が窺え、良くできているなと感心したほどです。偶然であったと見えた安田敏の入社が計画の一端であったとすれば、彼の自白を引き出すことが全容の解明に大きな力を発揮するのです。また、これが一番期待できる道筋かも知れません。

 何故に連中が私や文さんを犯罪目的の標的に据えたのか?。結論から言えば分からないことばかりです。しかし、個々の事実をつぶさに検討するならば、その一つ一つが一つの目的に向かって綿密かつ周到に計画されていたとしか考えられず、そう解釈することが極めて常識的なはずなのです。

 しかるに日常的な生活の中で彩られた事実は一つ一つを取り上げるならば他愛のないものであり世人を納得させるようなものではなく、事実を体験した当の私本人がいくら言葉を尽くし、表現を試みても十分なものにはならないのです。

 個人の力がいかに微力なものであるかを痛感すると同時に、よくよく考えるならばその方面の専門職である警察や検察の国家機関ですら個人の中に在る真実を明らかにすることは容易ではないのです。敢えて仮定された事実に社会的なお墨付きを与え確定的なものとして処理するのが裁判システムだという側面があります。

 一般の人は、関わりも興味も持たない世界が表面的世界の裏にあるのです。裁判制度の問題点、弁護士制度の問題点などその筋の本を見ればこれでもかというぐらい書いてあるのですが、ほとんどの人はそのようなことも知らず、関心もないはずです。

 実生活において一生涯のうち裁判所に関わりを持つ人の方が圧倒的に少ないのですから当然と言えば当然だと思います。必要を感じ一念奮起して法律や裁判の勉強をした私にしてもおよその理解を得るまでには多大の労力とそれ以上の時間を費やしました。

 いわゆる娑婆とは別世界の施設の中で特殊な生活をしていたから出来たことかも知れません。実社会でもお金に不自由がなく生活に困らないのであればできることかも知れませんが、例外を除き一般には困難なことだと思います。

 私が何故ここでこのようなお話をするのか。その意義は幾つかあります。まず最初にお断りしておきたいことは私の説明することがかなり専門的なことで前提知識がなければ理解が困難な上、さらに十分な説明をする能力にも欠けていることです。

 このことは二重の意味で意思の疎通を阻害するかも知れず、このことに憂慮を覚えるのであります。一般的に私のようなことを言う者は、理屈ぽいと思われ、第一段階で相手方の不評を買うようです。物事を合理的に突き進めるならば一般との乖離を生じ、おかしな話しになるようです。特に日本人にはその傾向が強いと私は思います。結果だけを求め、結果に合わせて物事を組み立てることの方が多いのではないでしょうか。それに合わせることが潔く、理屈をこねることは恥とされます。切り捨てて行かねば先には進めないと考えるならば一理はありますが、それにも問題の別と程度というものがあるはずだと私は思います。

 その筋のプロである日本の警察や検察がどれほどの捜査や立証をしているのか、私なりに研究しましたが、自ずから人間としての限界があると思いました。この中には敢えて限界を設けることで人権保障機能を守るという大きな存在もあるのです。

 この存在は、真実追求において大きな制約になると同時に捜査機関の恣意的判断によって真実をゆがめることを阻止するという大きな働きもあるのです。このことは刑法を適用する手続を規定した刑事訴訟法が、まず最初に次の如く書いてある通りだと思います。第1条【目的】この法律は、刑事事件につき、公共の福祉の維持と個人の基本的人権の保障とを全うしつつ、事案の真相を明らかにし、刑罰法令を適正且つ迅速に適用実現することを目的とする。この理想とはほど遠いと言われているのが現状ですが、刑事事件に携わる人々に対し自戒を与える訓示としては立派な文言だと思います。法律というものは固くて融通の利かないものだと一般に思われているようですが、私はまず最初に自分が服する日本国の法律が納得できるものなのか不合理なものであるのかを自分なりに勉強しました。

 そこで見えたものは、法律は沢山の利益を守るためにバランスよくまとめられていると言うことです。また、それは決して固定されたものではなく、動きは鈍いが流動的に社会の変化に合わせて歴史的に変化すると言うことです。鈍いと言うことは慎重という意味も併せ持っています。そしてそれを誰が動かして行くのか、もちろん国会や政治もありますが、個別具体的な事例での個人の力も寄与しているのです。次に私の説明を補足する参考文献を紹介します。

 世の中には数多くの争いがある。個人レベルの小さなもめごとであったり、国家レベルの政治的な戦争であったり。目的もまた、様々だ。規模は違えど、これらの争いには共通するものがある。当事者同士は両者とも、「権利のために」戦っているという点だ。権利の侵害やその回復を目的として争いは起こる。つまり彼ら自身は「自分の権利のために」戦っているのだ。

 「権利のための闘争」の著者、イェーリングは「権利のために闘争すること」をその著書の中で奨励している。『権利のために戦うことは自身のみならず、国家・社会に対する義務であり、ひいては法の生成・発展に貢献するのだ。』しかし実際のところ、私には「権利のために闘争する」ということがよく分からない。

 それはきっと彼が著書の中で述べているように、『権利侵害によって自分自身ないし、他人がどんなにおおきな苦痛を受けるか、経験したことのないものは権利の何たるかを知っているとは言えない。』からであろう。

 実際、私はこの平和な時代に生まれ、特に権利侵害を感じることもなく生活をしてきた。生まれてから少なくとも現在までは、自由と平等はそこに当たり前に存在していたのである。しかし、これから先も自由と平等を享受していくためには、それらの権利の重要性を理解し、自覚することが大切となるだろう。

 それでは、「権利のための闘争」とはどういうことなのか、著者の意見と私の意見を比較させながら、また男女差別など身近な問題に置き換えながら理解していきたい。はじめに著者の主張から見ていこう。権利は人から与えられるものではなく、自分の力で勝ち取るものであり、そして自分の力で得た権利でなければ、それはいつ取り上げられてもおかしくはない。よって、権利のための行動は人任せにはしないで、自分が参加することが大切なのである。

 もし権利を侵害されてもその行為に抵抗せずに、蹂躪されるままでいたら、この世の中は無秩序状態になってしまう。それを避けるために人びとは権利のために戦わねばならないのである。では、なぜ彼は、権利のために戦うのは自分のためになるからと言わずに、「義務」としたのか。それは、権利を勝ち取るのは一人の力では足りないからである。

 権利を享受したい人はみな、強い権利感覚のもとでそのアルバイトに参加しなければ、権利を守ることは難しい。だからである。権利者は自分の権利を守ることによって、同時に法律を守り、法律を守ることによって同時に、国家共同体の不可欠の秩序を守るのだと言える。権利者は国家共同体に対する義務として権利を守らねばならないのである。

 自分の権利を守ることで、国家共同体の秩序を守り、法の存在意義を確認する。このように、著者は、個人の権利感覚と、国家共同体の秩序、法の有効性は、互いに比例関係を持っているのだと述べている。しかし実際には、苦労のすえ権利を勝ち取った人々はその権利を堅固に守るが、それに続く人々、はじめからその権利を保有できた人々は、実際に勝ち取った人に比べ、概してその権利に対してありがたみは少ないといえる。

 では、自由と平等といったような、一度社会に浸透した権利は、新鮮味がなくなるにつれ侵害されやすくなると、言えるのだろうか。たとえば男女差別に関して、このような例がある。1986年に男女雇用機会均等法が施行された。そのため87年前後から、会社は男性と同様の条件で働く「総合職」を入社させだした。しかし、内実は法律とはほど遠く、「第一世代」と呼ばれる女性たちは「同等」を求めて会社と闘ってきた。そして「海外出張をする権利」などをようやく勝ち取ったのだ。しかし、下の世代である総合職の女性は、海外出張を「当然の権利」と認識し、それを断る。

 その行為は、歯を食いしばって「海外出張する」権利を勝ち取った者にとっては、権利の重さを理解していないように見えるかもしれない。しかし、本当にそうなのだろうか。努力しないで権利を持っているものはその権利に対して執着心がないのか。そうではない。この場合にはこう考えられる。彼女は「海外出張をしない」権利を行使しているのだと。「海外出張をする権利」はすでにそこにあるが、「しない権利」を行使することも彼女に与えられた権利なのである。つまり、出張を断った女性は「男女平等」という権利を軽んじているわけではない。むしろ男女平等という権利を十分に認識しているからこそできた行動とも言える。

 ようやく勝ち取った権利も社会に浸透するにつれ、ありがたみが減少する。しかし、権利感覚までもが低下するわけではない。むしろ、「そこにあるはずの」権利を侵害されれば、人は当然のように反抗するだろう。私はこの点で、イェーリングの述べている『何の苦労も無しに手に入った法はコウノトリが持ってきた赤ん坊のようなもので、これはいつキツネや鷲が取っていってしまうか知れない』というくだりに反論したい。イェーリングは権利侵害を許すな、闘えと何度も述べている。

 彼は平和のためには闘いつづけなければと考えているようだ。それは以下の文面からも感じ取れる。『財産も権利の双面神(ヤーヌス)に他ならない』のくだり、『平和を享受した世代に代わって登場した次の世代が、戦争という厳しい労働によって平和を回復する』。イェーリングのこの文には、闘争によって権利を得るがそれは次の世代の平和な生活の中で食いつぶされてしまう、といった意図がありそうだ。確かに、平和な時代とそうでない時代は交互にやってくる。戦争と平和はヤーヌスかもしれない。

 現在、日本は平和な状態にある。しかし世界においては多くの紛争があり、また、起きようとしている。日本は当たり前のように平和な生活をおくっている。この状況を見てイェーリングは、日本では権利を食いつぶしているというかもしれない。だとすると、次の世代は戦争の時代というわけだ。しかし、平和の次は戦争、戦争の次は平和といった構図を取らなくても、権利は守っていけるのではないか。この考えもイェーリングに言わせれば「権利侵害の経験のないものは…」となると思う。しかし、平和な時代に生活している私たちの世代も権利を軽んじているわけではない。これからも社会には改善の余地がたくさんあるが、改善への道が血染めの道である必要はない。権利感覚を人々が自覚さえしていれば、平和な状態を保ちつつ、権利の回復や改善を求めることは可能であろう。

 イェーリングは平和な時代の権利感覚について、悲観的な見方をしているが、新鮮味がないせいですたれてしまう権利などはもともと大切じゃないもので、権利の真価というものはそれが浸透したときこそ計れるものだと思う。平和な時代にも権利はすたれるだけでなく、発展もしていくのである。

 これはインターネット上でコピーした論文です。論者の見解は私とは違いますが、これも生活体験や価値観の違いを考える上で参考になると思います。「権利のための闘争」という本は、私も出所後になりますが読みました。

 所有権に関する色彩が強いというのが私の印象でしたが、所有権より生存権や人格権の方が強い利益だと考えるのが私の見解です。生存権や人格権の具体化されたものが所有権だとイェーリングは述べているようですが、私の立場はよりストレートに人格権や平穏に生活する権利を問題にしているので、その点のギャップが幾らかあったのと、所有権に優越させて人肉を切り取る考えは現代法の公の秩序善良の風俗(第90条【公序良俗違反】公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は無効とす。)に合致する私には首肯出来ませんでした。

 これも法律に関する考え方の一つです。法律というものを突き詰めて考えて行くと哲学に結びつきました。実際に法哲学という学問もあります。社会学というものも法律に深く関係し、経済や世界情勢、政治などすべてもものを視野に入れて統括されているのが法律です。その法律の最上位に位置するのが憲法ですが、上位に行くにつれ抽象化し、原則化するのも法律の特徴です。

 段階的構造とも言いますが、下位に位置する特別法の方が現実には具体的で実効性を有するのです。例えば民法の例外が商法であり、商法の例外が借地借家法、貸金業の取り締まり等に関する法律、手形法などです。これら特別法が優先的に適用されるのです。さらには条例など無数に近い法令があり、個別具体的な事案にどの法律が適用されるのかは解釈上の問題もあり、素人ではなかなか分かりません。

 専門家の間でも様々な見解があり、いわゆる学説というものがあります。法律を具体的に解釈するに当たって一番の指針とするものが判例です。特に最高裁の判例は法律の解釈・適用の統一を図ったもので大きな威力があります。高裁の判例も控訴や上告の法令・判例違反の理由になります。この最高裁の判例ですら絶対的なものではなく判例の変更によって変化するものなのです。この変化を起こすのは実際に裁判所に係属した個別具体的な事件なのです。日本の法律はアメリカのような判例法ではなく、大陸系の実定法なのですが、この実定法というのが明文によって明らかにされたいわゆる六法を中心にした法令集です。しかし、実質的にはやはり判例の解釈が法令の解釈となるのです。そして特に重要なことは一つ一つの事案は大きな側面と要素が絡み合った複合的な存在だと言うことです。一つの要素が別のさらに大きな意義を持つ要素によって淘汰されることもあれば、複合的な力を持つこともあります。今一番私が言いたい大切なことは法律はまず前提に事実を対象にするということです。真実という言葉は本当の事実であり、虚偽と区別される嫌いがありますが私がいう事実は虚偽を含まない歴史的社会現象としての事実です。さらにその事実においても客観的事実と主観的事実というものが考えられます。主観というのは個人の認識内容であり、認識内容の事実が現実の客観的事実とは一致しない場合に事実の錯誤という問題が出てきます。逆に主観という事実が法律的に大きな意味を持つ場合があります。人を死なせたという事実があるとする。法律的には、この時行為者に殺してやろうという意思すなわち故意があれば殺人罪、うっかり死なせてしまったとすれば結果は同じでも過失致死罪です。この場合いずれも刑法が適用され故意であれば第199条(殺人)人を殺した者は、死刑又は無期若しくは3年以上の懲役に処する。■未遂罪を罰する(203条)となりますが、単なる過失であれば、第210条(過失致死)過失により人を死亡させた者は、50万円以下の罰金に処する。にしかならないのです。一般には第211条(業務上過失致死傷等)業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、5年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。重大な過失により人を死傷させた者も、同様とする。で処理されますが、これらの違いがいわゆる構成要件の問題です。構成要件というのは法律の解釈上極めて重要なものです。刑法の場合罪刑法定主義という考えが大きな意味を持ち、国家の刑罰権の濫用を阻止し、個人が自由に振る舞うことを保証するためあらかじめ明文の規定によって規定された法律でなければ刑罰を受けることはないというもので、言い換えれば法律に書いてあるようなことさえしなければ刑務所に行くことはないと国家が国民にした約束のようなものです。今では当たり前のようなことですが、昔は時の権力者の恣意や場合によっては気分次第で刑罰を受けたわけで、このことは17世紀のイギリスのマグナカルタや、フランス革命などに由来した人類全体の変化でもあるのです。私の稚拙な説明より次に日本国憲法の中の関連規定を紹介しておきます。憲法の刑罰に関する条文はこれがすべてです。
第31条【法定の手続の保障】
何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
第32条【裁判を受ける権利】
何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。
第33条【逮捕の要件】
何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。
第34条【抑留・拘禁の要件、不法拘禁に対する保障】
何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。
第35条【住居の不可侵】
(1)何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第33条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。
(2)捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する各別の令状により、これを行ふ。
第36条【拷問及び残虐刑の禁止】
公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
第37条【刑事被告人の権利】
(1)すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
(2)刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。
(3)刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する。
第38条【自己に不利益な供述、自白の証拠能力】
(1)何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
(2)強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
(3)何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。
第39条【遡及処罰の禁止・一事不再理】
何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。
第40条【刑事補償】
何人も、抑留又は拘禁された後、無罪の判決を受けたときは、法律の定めるところにより、国にその補償を求めることができる。
刑法に関する最高法規はこれだけしかないことになりますが、ここに大きな問題が集約され、刑事訴訟法などに具体的な内容が示されているのです。実際の裁判においても覚醒剤などの強制捜査などで問題になるのが令状主義に関する第35条で、この場合は手続上の欠陥として(法律上は瑕疵と呼ばれる)無罪になることも珍しくありません。ただし殺人などの重要事件では、このような問題で無罪になった例はなく、問題の程度で結論が異なる一例です。
罪刑法定主義に関する規定が第31条です。この「法律の定める手続によらなければ」というのが刑法の他特別刑法と呼ばれる覚醒剤取締法、大麻取締法、暴力行為等の処罰に関する法律などの各条文で、これら刑法の他にも商法や建設業法、宅建業法などの中にある罰則に関する条文です。そしてさらに刑事訴訟法などの手続法に則って適正な刑罰を科されることを保証しているのです。刑法の罰則に関する個別の条文で第二編罪第77条以下に規定された各則と呼ばれるものです。これと別に第一編総則において全般的に共通する項目が列挙され、ここがまた大きな意味を持ちます。例えば刑法の原則は故意犯のみを処罰するもので過失を処罰するのは例外で特別に規定がある場合に限ると明らかにされています。未遂においても然りで特に処罰する旨の規定がなければ未遂は処罰の対象ではありません。また、犯罪の完成である既遂と未完成である未遂の場合を特別に区別する規定もありません。あるのは自己の意思によって犯罪を中止した場合の中止犯の場合は裁判官が量刑において減刑しなければならないとするのみです。この中止未遂の成立もかなり厳格な要件が要求され、ほとんどの場合は外部的な問題によって既遂にならなかったという障害未遂とされ、この場合裁判官は減刑する義務を負いません。裁判官の一存で左右できるのが任意規定(任意法規)、裁判官を拘束ししなければならないのが強行規定(強行法規)です。民法においてもよく出てくる言葉ですが、民法の場合当事者間の契約で左右できるのが前者、契約が無効とされ決まった法律が適用されるのが後者です。民事においても構成要件は同義なのですが、こちら方では構成要件とは国家によって認められ保証された権利の内容であるといわれています。

 安田敏が非常識な行動をとるようになったのも今思えば私と文さんの間に接触が始まってからのことです。もともとヒッピーのようなところがあったのでそれほど不自然には感じていなかったのですが、その安田敏が自分の非常識さと平行して文さんを自分の同類のように決めていたのです。そして文さんの方でもそれに合わせたような言葉を見せることがありました。具体的には片町に飲みに行くのが好きで飲み友達が沢山いるようなことを話していたことです。

 8月の末に新神田の「飛天龍」という焼肉屋で会社の飲み会があったのですが、ふとしたことから私は安田敏に自宅まで強制的に送り返され、そのあと二次会があったらしく片町に行き、文さんも一緒にいて、よく飲みに来ているとか飲み屋に勤める友達が沢山いると話していたそうです。この二次会の話しは焼肉屋を出る直前まで誰からも話題に出ていなかったことです。

 店を出てから急に決まったのかも知れませんが、本当にそのような二次会があったのかも疑わしく、実際にあったとしても意図的に私をはずした可能性が大です。店を出た時点で東力のアパートまで安田の車で送られたのですが、その時浜口卓也も同乗していて、私のアパートに灯りがついていないのを見てずいぶん意外そうに驚いていました。

 翌日の話しでは二次会の後安田敏と浜口卓也は安田敏の知っているスナックに二人で飲みに行ったそうです。安田敏がお金を持っていなかったとか彼女を紹介しなかったとか浜口卓也の方も不満を口にしていたので、この話しは両者に共通するものです。

 私が安田敏に文さんのことを好きだと相談したのは9月の20日過ぎ頃だと思います。繁克と吉浦が完成直後の控室に来たときのことは別のところで書いてあると思いますが、その時の会話の中で安田敏は結婚すると好きな女が出来ても告白できないと語っていたことがありました。あるいは文さんのことを指しているのではないかと感じたことを覚えています。

 ずっと以前にも私に好意を寄せてくれているらしい女性を安田敏に紹介し、彼を傷つけてしまったようなことがあったので、友人関係を考える上でも文さんのことは早めに話しておいて方がよいと判断して、その意味でも彼に相談したのですが、私の一抹の不安は杞憂のようであり、彼は意外そうでもなく明るく私の話を聞いてくれました。

 彼の口から一番に出たのは、やめておけということと、同じ会社で毎日のように顔を合わせるのでダメだったらお互いに会社にいずらくなる。大変なことになるという口振りだったのです。私はそれまでの文さんの自分に対する態度、つまりフィルム張りを手伝ってくれたことなどを詳細に話したのですが、彼は軽く受け流し、同じ会社やし気遣っとるんや、今時の若い女の子というのは皆そういうものだといい。特別な気持ちなどないときっぱりと断言していたのです。

 今思えば彼のその態度はその場の私の会話に即したものではなく、あらかじめ決められていた言葉をそのままに話していたとしか考えられません。安田敏に相談してすぐに同姓である安田敏の妻にも私は文さんのことを相談したのですが、妻の話はより一般的で世相を反映した説得力のあるような内容でした。

 この妻の名前はたしかユミだったとおもいます。漢字は分かりませんが確かこのような名前だったと思うので以下この名前を使います。彼女と知り合ったのも安田と再会した直後、つまりその年のゴールデンウイークの前後でした。

 ちょくちょく花里のアパートの方に遊びに行き、彼女もいたことの方が多かったのですが、おかしく感じたことは、彼女が私の前で決して顔を見せなかったことです。8畳一間のアパートだったので必然的に同じ部屋にいることになるのですが、部屋の半分近くを占める別途の上でシーツのような毛布を頭からかぶり何時間もそのままでいるのです。私がいることを嫌がっている風でもなく話しはしていたのです。

 安田敏にいわせれば妊娠して顔がむくんでいるので人前に出たくないという説明でした。一応納得の出来ないではないような説明だったので深く気にしてはいなかったのですが、印象的だったのはその彼女が、私の前にその姿を見せた日のことです。それは忘れもしない12月22日の夜で、浜口卓也に頼めなかった文さんのためのプレゼントを安田敏に頼もうと訪問したときのことです。

 彼女は当然のように起きて家事などをしていたのですが、それは出産寸前でお腹が大きく出ている姿で、ほとんどの女性はそのような姿を極力人に見られたくないのではないでしょうか。しかもマタニティの洋服のようなものであれば余り目立たないはずなのですが、彼女の格好は昔高校生か中学生が体育の授業の時に来ていたような地味なトレーナーでお腹の張り具合が大きく目立つものだったのです。

 安田敏の自宅での電話の線抜きが始まったのも11月に入った頃からでした。電話に出ない上、その時に限って午前中から仕事の予定が決まっているのに何度連絡してもつながらないと、私は松平や浜上から責められ、花里まで迎えにいけとまでいわれていたのです。

 そして今考えれば丁度この線抜きが終わった頃から文さんが自宅の電話に出なくなったのです。今思えば意外なほどに私はこの二つの事実を関連づけて考えることはありませんでした。そう考える余裕がないほど当時は状況がめまぐるしく、不可解で不合理なことが次々と生起していたのです。

 ここでは詳しく述べませんが、その一つが東渡の行動で、この頃に東渡が運転手から配車係になったのです。安田敏と東渡の常軌を逸した言動はなにが起こっても不思議ではないような先入観をすでに私の脳に埋め込んでいたのです。これは文さんにおいても同様で、免疫や社会経験から考えればより以上であったことは容易に推定されます。

 そしてこの非常識な状況の中で唯一の常識の道標というか水先案内人の役割を担ったのが池田であり、松平であったと考えられます。殊に松平においては東渡の包丁事件でも見られるように自分が被害者で弱い立場の経営者であることを強調いていたのです。

 10月頃の安田敏の話ですが、文さんは頻繁に片町に飲みに出ているとともに、ロックバンドとも付き合いがあり、兄もそのようなつながりがあるらしいと話していました。このバンドの話の中で安田敏と文さんの共通の友人ないし知人で、「カジ」という名前が出ていました。

 これは漢字で書くと「梶」、「鍛冶」、「加地」といった名前が考えられます。この事実も先日まで安藤という名前も知らなかった情報不足の私に、作り上げられた文さんのイメージとして定着していた要素の一つなのです。

 なお、この「カジ」という名前については、安田敏のことで後日おかしなことがありました。それは事件直前の3月29日の日曜日、誰もいない会社一階で安田敏が電気もつけず一人で電話をしていたときのことで、たまたまそこに入った私が、別の電話にかかってきた受話器を取り上げると若い女性の声で安田敏を呼び出してのです。

 初めは安田敏の名前を出さず、ポケットベルが鳴ったので掛けたというので間違い電話ではないかと聞き返したところ、先方が観念したように安田敏の名前を出したのです。「カジ」という名前は初めに先方から名乗ったものですが、聞き覚えのある名前だと感じていたのです。

 これなども文さんと知り合いの今時の最先端のような男、同じ名前の女性で結婚している安田敏と付き合っている女という構図で、私の文さんに対する見方に悪影響を及ぼそうとした工作だったのかも知れません。勘ぐりすぎのようですが連中のやることというのはこの程度のレベルであり、深層心理や個人的社会経験にまで踏み込んだ極めて巧妙なものとしか考えられない事実が他にも散見されるのです。

 おそらく心理学や政治的権謀術数、法律にも精通した竹沢や松平、東渡らが立案し、練り上げたものであると思います。私と文さんとともに連中の手練手管に翻弄されていたのです。竹沢は饒舌で講釈師のようなところがありました。人間的には以前からに馬鹿にしていたような私ですが、頭の方はよく世渡りがうまそうでした。

 また市場急配センターに移った頃には竹沢夫妻に対し、同情心や恩義のようなものも持つようになってしたのです。実際に市場急配センターでは東渡と浜上の二人が、竹沢が私を養子にして会社の経営を託するという話しも冗談のように本当のように話していたのです。12月の19日頃には夫妻が市場急配センターに来て私にジャンパーとズボンをくれ、翌年の2月頃にも市場急配センターの一階で私を夫妻で食事に誘うことがありました。養子になる気など毛頭なかったので冗談でも断ったのですが、老いた哀愁のようなものを漂わせていたのです。因みに竹沢夫妻には子供がありません。精神医学や心理学については添付する資料を参考にしてください。

浜口卓也について

 彼が市場急配センターに来たのは平成元年の夏か秋頃でした。正確なことは現在思い出せませんが裁判の資料の中ではもっと正確で詳細な記述があるはずです。
〉〉〉:Linux LibreOffice: 2023-09-29 00:40:36 〉〉〉
 平成2年6月の片山津温泉「ホテル長山(あるいはホテルながやま)」での一泊の慰安会は、会社の事務員と認識していた被害者安藤文さんの姿がなく、被告発人浜口卓也はまだ市場急配センターに入っておらず参加していませんでした。すぐ後に退社したYTと藤田さんの姿はありました。
〈〈〈:Linux LibreOffice:2023-09-29 00:43:59 〈〈〈

 私にすれば突然金沢市場輸送の会社で顔を合わせたのですが、その半年ぐらい前に彼は私の自宅に電話をしていたらしく前妻に連絡を取るように頼んでいたそうです。市内配達の仕事をすることで私に相談したかったそうですが、なぜ私に連絡が伝わらなかったかというと確かにそのような電話があったことは妻から聞いていたのですがその相手というのが妻の言葉ではどうもカーボこと中○○也を指していたのです。それで能都町姫の中○の実家の電話番号を探して連絡を入れたのですが話しは全く噛み合わず結局そのままにしていたのです。

 二人とも田舎の先輩に当たるのですが浜口卓也の方は年も私より一つ上で中学も高校も同じで自宅の方にも何度か遊びに行ったことがありより親しい間柄でした。中○の方は私より3つか4つぐらい上で一時期一緒に遊ぶことが多かったのですが先輩を介した間接的な間柄でした。

 まず中○の方が昭和63年の秋頃だったかに市内配達の仕事をするようになったのです。金沢市場輸送の会社が移転して2,3ヶ月、松平が来て1月ぐらい後のことでした。正式な社員ではなく当初から自分で購入した2トン車で仕事を請け負ういわゆる持ち込みを始めたのです。それから2,3ヶ月ぐらいして次は同じ先輩で3つ年上の山○シンイチ(漢字不明)さんが来て同じように持ち込みの仕事を始め半年ぐらいかすると冷凍機付きだったかの新車の2トン車を購入しました。

 それからさらに半年ぐらいかして浜口さんが来たのですが彼もシンイチさんと同じような2トンの新車を自分で購入したのです。もちろん持ち込みです。シンイチさんは遊び仲間とは別に中学の時相撲部に入っていた関係でいつも水産高校の方に練習に行っていたので知っていたのですが社会に出てからも間接的な友人関係で何度か遊んだことがあり、昭和59年頃彼を金沢市場輸送に紹介し面接を受けたこともあったのです。

 カーボの方も同じ昭和59年の秋私がやめた直後に金沢市場輸送に入社し4トンの長距離に乗っていたようで比較的長く1年以上はいたようでした。この入社の方は私の紹介とは全く関係ありません。オジコこと干○○行という珠洲の男の方はやめる一つぐらい前に紹介で金沢市場輸送に入り同じく4トンの長距離に乗っていました。

 そもそも私が長距離のトラックに乗るきっかけになったのは昭和58年の8月から11月頃にかけて観音堂の安田敏のアパートに居候していたとき、当時中西水産輸送で4トンの長距離に乗っていたオジコがちょくちょく遊びに来ていて、一度誘われて広島から静岡にかけた運行に同行したことがきっかけのようなものでした。
〉〉〉:Linux LibreOffice: 2023-09-29 00:44:54 〉〉〉
 行き荷が山口県の宇部市で、その日に広島県の三原市から荷物を積んで、翌日に静岡県清水市で荷降ろしをして、山梨県内の国道20号線から大糸線経由で新潟県糸魚川市に出て金沢に戻った記憶。
〈〈〈:Linux LibreOffice:2023-09-29 00:48:07 〈〈〈

 観音堂の安田敏のアパートは長屋のような二棟向かい合った古いアパートでそこの5所帯が知り合いの若者ばかりでたまり場のようになっていたのです。その一つがヒロボこと山○という珠洲市出身の私より2つ年上の人物で安田とは同じ年になります。彼は遊んでいた半年後ぐらいから、すなわち59年の春先ぐらいから当時はまだ高井水産と呼ばれていたのですが現在の山水運輸に勤め始め現在もいるようです。山水は石川中央魚市の下請けで関西から金沢の鮮魚輸送を独占的に行っている会社でヒロボは現在中央市場で中継と呼ばれる福井、富山方面などの荷物の配送に従事しているようです。つまり毎日夜になれば市場に出て朝方まで荷物の積み替えなどをフォークリフトを中心に行っています。かねてから顔を合わせば暫く話しをしていたのですが彼の口からはいつも安田敏のことが出ていました。現在安田は宇出津から金沢の市場に鮮魚を運送する仕事をしているらしいので頻繁にヒロボとも顔を合わせていることが考えられます。
〉〉〉:Linux LibreOffice: 2023-09-29 00:49:17 〉〉〉
- Xユーザーの刑事告発・非常上告_金沢地方検察庁御中さん: 「新崎という運送会社のことは全く知らず、宇出津で聞いたこともない名前だったのですが、柳田運送は割と大きな会社だったのか、トラックを見かけることも多かったのですが、それもずっと前に会社がなくなったようです。そういえば新崎のトラックもここ数年は見かけていないと思います。」 / X https://twitter.com/kk_hirono/status/1167234624021360640

 この新崎のことは被告発人安田敏に電話で聞いたような記憶。崎山に会社があるとも話していたが、崎山で新崎のトラックをみたことはなく、辺田の浜の農免道路にトラックの駐車場があった。8年ほど前はたまに宇出津の魚市場でトラックを見かけていたような記憶。
〈〈〈:Linux LibreOffice:2023-09-29 00:51:14 〈〈〈

 同じ中継で、こちらは中央市場の正門側の方で仕事をしているのが守田水産で、まずこの中継部門が平成2年頃から都商事の看板を掲げるようになっていたのです。その現場責任者のような男が大西真でした。

 浜口卓也が文さんと私の関係についてある程度認識していると初めて私が意識したのは12月21日のクリスマスプレゼントの会った日の夕方のことです。その日の夜、私は藤江陸橋下から投げ捨てたプレゼントを拾いに行き、その足で南新保の彼の自宅アパートに行ったのです。24日のクリスマス当日に会社で文さんにプレゼントを手渡してもらうことが目的でした。結局言い出せなかったのですが、飲みに誘われ二人で片町に行ったのです。

 次が年が明けて平成4年の一月の初めのことで、ある日の夕方二階で浜口卓也、河野、竹沢が大型車の増車のことで日産ディーゼルの人と話をしていたとき、丁度会社に戻った私が台所にコーヒーメーカーにコーヒーが沸かしてあるのに目を止め、どれともなく「コーヒー飲んでいいけ?」と声を掛けたところ、即座に文さんが「うん」と気持ちを込めた大きな返事で答え、その場で仕事の手を止め私のいた台所に来て食器洗いを始めたのです。

 意外な状況に戸惑った私は入れ替わりで台所を出たのですが、出入り口付近まで来たとき丁度話し合いが終わり、浜口卓也が来て笑いながら私の背を押して台所の中に入れようとしたのです。この時咄嗟に私は浜口卓也に前日の夜に追突されたことを話しました。この事故は入江派出所の扱いになったので正確な日付が期待されます。

 出所後問い合わせをしてその日付を聞いたのですがやや納得のいかない日付だったかもしれません。その日は天気が余り良くなく、金沢ではまだ雪が降っていなかったように思うのですが山間部では大雪の恐れもあるような気象情報がありました。仕事柄冬場の天気は気に掛けるのですが、そのことでも浜口卓也と話しました。私は今から大阪に行くところで、浜口卓也の方は関東に行くと話していました。

大西真について

大西真は私が初めて金沢市場輸送に来た頃から大型車で長距離に乗務していました。本恒夫と同じ頃から会社にいたようですが勤務態度はあまりよくなかったようです。仕事自体は問題ないのですが時々休んだりしていたのかもしれません。本恒夫とほぼ同期だったのですが本恒夫が配車をするようになって衝突が度々あったようで、そのような不満をよく私に話していました。本恒夫より年輩で当時50才ぐらいだったと思います。昭和63年から平成元年のイワシのシーズン、松浦とともにもう一台のダンプに乗務していてこの頃私は毎日のように大西と一緒にいて毎日のように食事をおごってもらったりパチンコや、私はしないのですが雀荘の付き合いをすることもありました。競馬場に行ったこともあります。

 大西は池田に気があったのかしれませんがその頃三人で北安江のアップルグリムというレストランに三人で食事に行ったことがあり、大西の奢りで池田、水谷、など5,6人で片町に飲みに行ったこともありました。イワシの仕事が終わって大西も長距離の仕事に戻ったのですが2,3ヶ月ぐらいすると本恒夫に我慢が出来なくなったのかやめて行き、守田水産に行き半年ぐらいか大型の半分持ち込みのようなことをしていたのですが、それから中継の仕事をするようになったのです。

 平成3年の春頃には新車のクラウンに乗るほど出世していたのです。その前から大西に守田の大型の持ち込みのような仕事をしないかと誘われていたりしていたですが、家族のこともあり毎日家に帰れる仕事にかわりたいと考えていた私は大西に大型車での中継の仕事に使ってくれないかと頼んでいたのですが4トン車ならばあるが大型は今のところ空きがないようなことをいわれていたのです。

 大西の息子の○○の方も当時守田にいたのですが私の入社を歓迎して強く勧めていたのです。○一はまだ松平が来る前から金沢市場輸送で市内配達の仕事をしていたのですが何度か入退社を繰り返し、大西がイワシの仕事をしていた時期には1年か1年半ぐらい少年院に行っていたのです。その後金沢市場輸送に戻り市内配達の仕事をしていたのですがたぶんその途中に松平が来て、もともと勤務態度がよくない上、若くて血の気が多いので荷主かなにかとトラブルを起こし、そんなことが重なって松平に首にされたそうです。○一は松平のことでずいぶん腹を立てており私に色々と話していたのですが、○一の方にも問題があると考えていた私は彼の話をほとんど聞き流していたのです。

 浜口卓也も一時期大西真のもとで深夜中継のアルバイトを松平に内緒でしていたようです。YTが守田に行ったのも大西の紹介かどうか分かりませんがその可能性があることは考えられます。YTは同じ中西で配車をしていた藤田という男を金沢市場輸送の配車係として入社させていたのですが、この二人で当時まだ中西運輸商がしていた佐川急便の九州便を金沢市場輸送で取ろうと計画していたのです。

 九州の運転手を5,6人ぐらい一度に連れてきていたことがありました。暫く保冷車で金沢市場輸送の長距離のメインである東北便の鮮魚輸送をさせたのですがちょうど雪があった時期でもあり務まらないと考えたのか短期間で皆いなくなりました。

 このうち一人だけ残ったの者がいて名前がちょっと思い出せないのですが東渡が来てから彼と親しくしていました。YTらにいわせれば佐川の定期便をひっぱる事業はYTの手柄となるので本恒夫が横やりを入れてねちねちと妨害したそうです。YTはこの話しをよく私にしていました。

 その後守田で一任するとか別の会社でやるとか色々言っていたのですが、結果はやや意外な方向に落着しYTは守田に行き、行動を共にするはずであった藤田の方は津幡の方にあるらしい協共運送とかいう会社に行きそこの配車係になったのです。

 平成3年の秋頃には松平を訪ねて市場急配センターに来ていたこともあり、その後協共の仕事で加賀の大聖寺の大同からホィールを宇都宮まで運ぶ仕事を私も二度ほどしたことがあり、後の方は事件の一週間ぐらい前の仕事でした。
〉〉〉:Linux LibreOffice: 2023-09-29 01:03:54 〉〉〉
 長い間、平成4年3月の下旬の一回だけの記憶になっていた運行。
〈〈〈:Linux LibreOffice:2023-09-29 01:04:44 〈〈〈

 平成4年の4月1日が事件当日です。2月に九州に行ったとき帰り荷の世話を受けたのも協共の営業所で電話だけのやりとりでしたが佐川の仕事をしているようでした。藤田の方が松平とは付き合いが表面的にはあったようですが(内部のことはわかりません)、この時の九州からの電話ではYTのところにも電話を掛け、他に津山という以前中西運輸商で配車をしていた人物のところにも電話を掛けたのです。
〉〉〉:Linux LibreOffice: 2023-09-29 01:05:47 〉〉〉
 YTに電話をかけた記憶はなく、津山さんが電話に出たのも協共の営業所という記憶になっていた。大牟田市の運転手も同じ。
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 この時私は丸2日ぐらい九州で泊まり結局空荷で金沢に帰ったのですがこの時の状況も何か胡散臭いものがあったのです。出掛けにまず文さんの裏駐車場が終焉したことも私にすれば大きな出来事でショックを受けたのですが、翌朝北九州から会社に掛けた電話で松平が慰めるような声で何回でも電話してくれと言い。

 午後福岡からの電話では文さんが優しく対応してくれたり、荷物がなくて帰るときの電話で文さんが「また電話してください」と意味ありげなことを言ったり、些細なことのようですが当時の状況に照らせばめまぐるしいことが続いていたのです。松平はまだ九州にいて欲しいと言っていたのですが私の方が断って帰ったのです。

 これと似たようなことは市場急配センターでの通常の例外的仕事のもう一つである四国の松山に行った運行の時もそうでした。通常の仕事というのは関東と関西折り返しの運行がメインだったのです。文さんが電話に出ることを一日一回などに限り微妙な状況操作の一角を担っていたのが梅野も梅野で、福岡市須崎埠頭からの電話、愛媛県西条市付近高速道路パーキングからの電話、翌日の姫路バイパスからの電話など随所の現れこの計画性が最も露骨に現れたのが3月18日の清水行きのミールを積んだ夕方の電話でした。

安田繁克

 八月中に繁克が私の前に姿を現したのは先述した二回ですが、次に会社に来たのは9月の中頃で、丁度当時建築中だった2階建て市場急配センター事務所の一階を運転手控室のようにした工事が完成した直後でした。

 文さんとのフイルム張りの件があったときはまだ建築中で丁度大工さんが出入りしていたのです。当日は特に午前中の方が集中的でした。午後は始めたのが遅いか何かで文さんと二人きりでフイルムを張っていたときにはあるいはいなかったかもしれません。

 この時の目撃者は午前中が(9時頃)、山下強と多田敏明。午後の方が、竹沢、松平、カベヤの三人です。記憶のつながりは余りはっきりしていないのですが繁克が金沢市場輸送の吉浦と二人で来たのは完成直後だったのであり、またまだ安田敏には文さんのことを好きだと相談していなかったので、やはりフィルム張りの直後であったと思います。

 この時出来たばかりの控室の中で繁克と吉浦と安田敏と私の四人で暫く雑談をしていたのです。すでにこの前から繁克が仲買の若い女の子と付き合っていることは安田敏から何度か聞いていたのですが、繁克本人の口からそのことを聞いたのはこの時が初めてで、自分の方から彼女に声を掛けたなど安田敏の質問に対して具体的に話していたのです。

 私自身少し前まで市内配達の仕事をしていたとき中央市場の仲買から荷物を積んでいたのでその女性の顔は知っていました。特に多田敏明などと長話をする姿を何度か見かけたことがあり、山下強とも話していることがありました。

 確か会社の取引上一番有力な感じの片山青果の社員だったと思います。もともと市場急配センターは中央市場内の青果仲買が出資して作られた株式会社だと金沢市場輸送の武田などから耳にしていたのですが、昨年の秋(平成9年)鳴和の職業安定所に行ったとき見た市場急配センターの求人広告で仲買から設立された安定した会社のようなことが謳ってありましたのでこのことはまず間違いないはずです。

 この時繁克はほとんど受身のかたちで大人しく話しをしていたのですが、印象に残っていることはともに来た吉浦の方が彼女の作り方のような話題の中で、脈があると思われる態度の女ならば確実に物に出来るようなことを話していたのです。

 その次に繁克が会社に来たのは10月の10日過ぎの私が給料をもらった日でした。大型に乗務して2、3回ぐらいはまだ10日払いの給料日でしたがそのあとは他の市場急配センターの社員と同じく5日払いになりました。この時はまだ10日払いだったと思います。11月も10日払いでした。

 この時だったと思いますが、繁克はS藤と一緒に来ていたと思います。ただ繁克とS藤が一緒に話しをしていた姿は記憶にないのです。別行動のような感じを受けた覚えがあります。この時繁克は顔を目のあたりを中心にひどく殴られた痣を作り、目の中にも黒目の三分の一ぐらいの大きさで充血した血の固まりのようなものまで出来ていました。話を聞くと片町でケンカになり一緒にいた者がケンカが始まると逃げて行き自分だけ集中的に殴られたような話しで、一緒にいた友人は多田敏明の従兄弟のような話しでした。
〉〉〉:Linux LibreOffice: 2023-09-29 01:13:22 〉〉〉
 被告発人安田繁克とS藤が二人で市場急配センターに来ていた記憶はない。S藤は9月から10月に2,3度姿を見せ、一緒に食事に行ったこともあったが、頼まれて1万円を貸すと、それ以来姿を見せなくなった。次に姿を見たのが平成4年5月28日で金沢西警察署の二階。
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 控室で話しをしていたのですが、丁度昼時で、文さんが二回から降りてきて私に何か話しかけたのです。確か買い物に行くが買ってきて欲しいものはないかと尋ねたか、頼んでいた弁当のようなものを届けてくれたのだと思います。このように文さんが私に使いを言ってくることは何度かあったのですが、私がいる周辺で同じことを他の社員に尋ねることもありました。

 これも文さんの単独の行動とは思えず、池田か松平の指示だと考えられます。この時も文さんは繁克がそばにいるのに全く気にしていない感じでした。7月の繁克の話しや彼の私の事件の供述調書では、少なくとも私が市場急配センターに来る2ヶ月前には市場急配センターを辞めたいた話しなのですが、実は私が竹沢会長と直に話しをして金沢市場輸送を辞めた直後、その足で市場急配センターに電話を掛けたとき、電話に出た文さんが安田敏への取り次ぎに対して、どちらの安田ですかと聞き返していたのです。

 繁克の他に安田という名前の社員がいたとは考え難く、このことはまだ繁克が市場急配センターで仕事をしていたか、少なくとも文さんの認識ではまだ市場急配センターで仕事をしていると考えていたと強く推認させる事実なのです。市場急配センターでは仕事の内容もありますが毎日会社に顔を出しているわけではなく、短時間で日報や伝票だけを出していなくなる社員も少なくないのです。

 極端に言えば日報や伝票だけを提出することだけが事務所に顔を出す用事のようなもので他の事はほとんど直接市場の売場に出向くか電話で事足りるような感じです。また、この時の繁克との会話ではより個人的な話しをし、かねて繁克が以前暴走族のリーダーをしていたという話しを聞くと、具体的に「狂走恋命」という名前までだし、自分は3代目とか4代目のリーダーで後任のリーダーがよくなかったなどと話し、そのことは多田敏明のことを指しているようでもありました。

 ヤクザを辞めたときのことも聞いたのですが、こちら方は2月1日の夜の方だったかもしれません。世話になった兄貴分のような人物の名前や組織の名前も挙げていたのですがほとんど覚えていません。組織の方は滝本組だったような気がします。突然ずらかり、数ヶ月してから兄貴分に会ったがなにも言われなかったと屈託なく話していました。

 これ以来繁克の姿を見かけることはなく、問題の2月1日に彼は極めて不自然なかたちで私の前に姿を現したのです。最も、私はすべてが計画的な出現であったと考えてほとんど間違いないと思っています。また、これまでの間、繁克が文さんとの交際を仄めかす言動は一切ありませんでした。また、その日私は、S藤を銀行に付き合わせ、中央市場の前の食堂で食事をおごりました。

 その数日後、来たばかりの新車で中央市場の裏の石川丸果倉庫で馬鈴薯を積んでいたとき、佐藤が一人で来て、頼み込んだ挙げ句に1万円借りていったのですが、それっきり姿を見せなくなったのです。

 平成4年2月1日の夜のことでした。その日私は夜10時頃だったかぐらいまで会社にいたのです。一人ではなく東渡、浜上、水口もいました。解散ということになり乗用車に乗るため皆で裏駐車場に出ていました。そこに見慣れぬ4WDが表の方から入ってきてゆっくりと裏の方に通り過ぎていったのです。不思議に思ったのは他の四人が示し合わせたように押し黙りその不審な車のことを全く無視していたことです。帰りがけに東渡は私に、「これからマツに配車してもらえや」と捨てぜりふを残して行きました。

 東渡らが帰ってから私が帰るまで幾らか間があり、会社を出て距離にして100メートル弱ぐらいの金石街道に出る信号待ちでいきなり繁克に声を掛けられたのです。同じ市場急配センターの運転手の多田敏明を探しているということでした。

 その日の日中一階控室で東渡らの誰かが多田敏明が珍しく4トンで古河に行っている。雪が多いので戻るのは10時頃になるなどと話していたのです。それを知っていた私はその旨を彼に話し、出来れば一度文さんのことについて彼に話しを聞いてみたいと考えていたので、一緒に会社で多田敏明を待つことにし、二人で会社に戻ったのです。

 彼の奢りでビールなどを買いに行き、控室で話しを始めました。この時、彼は文さんとは付き合ったことがないと言い、一度だけ文さんの自宅に電話をしたことがあるが、それは会社の者のポケットベルの番号を尋ねるための電話だったと言いました。一方で、切り出しから「あの娘口悪いやろ」、「前に県庁に勤めていたからそのプライドを持っているもんやと解釈していた。」、「ディスコによくいるような感じやけど堅い女や」、「母親は塾を経営しているか講師をしているらしく、父親も堅いしごとをしている。」、「彼女が泉中で、自分が高中の出身で共通の友人もいたから会社でよく話し、友達を交えて一緒に飲みに行ったことも何度かある。」と言ったようなことを話していたのです。

 そして多田敏明が来たのは話しを始めて1時間か長くて2時間ぐらい経った10時半か11時頃でした。いつもはよく喋る多田敏明がその時は大人しく自分から話すことはほとんどありませんでした。多田敏明の前で文さんの話はあまりしなかったと思います。

 それ以前だったと思うのですが、会社で文さんのお父さんは弁護士をしていると聞いたことがあったのですが、このことを誰から聞いたのかはっきり思い出せないのですが、多田敏明以外には考えにくいのです。

 繁克も文さんの家庭は教育一家だと話していました。普通以上に厳しい家庭と割と奔放な私生活という矛盾したようなイメージが私に植え付けられていたのですが、このことは文さんが繁克と付き合っていたのかどうかと言う話しにも共通する曖昧さだったのです。もともと私としては文さんが繁克と交際していたかどうかと言うことは重大な関心事ではなく、以前のことは仕方のないことと諦め、聞きたくない気持ちの方が強かったのですが、同じ会社の仲間として顔を会わすこともあるのであまり関係を損ねたくないと考えていたのです。

 確かにその10日ぐらい前に浜口卓也から文さんと繁克の交際の事実を知らされたときはショックでした。それは彼女が高校の時以来彼氏がいないと自ら話していたことと、同じ会社の中で男性と交際し、それがうまくいかなかったのに私に対して積極的な行動を示した考え方に普通ではないものを感じ、人間性に疑問を持ったからです。

 繁克の口からも間接的に文さんと交際していた時期に人間不信になって苦しんだという言葉がありました。また、「広野さん、女殴ったん。女のためを思ってやろ(若しくは女をよくしようと思って)、ワシ、殴りたくなる女初めからつきあわんぞいね。」と、これも文さんのことを示唆しているような意味ありげなことを自信ありげに話していたのです。

 これは私の前妻の話の時に出たものでありましたが、一方で、あまり知らないはずの前妻のことはあまり話しも聞いていないのに無批判に評価しておりました。繁克の結論は文さんと交際の事実はないと言うことで終始そのことをこだわりすぎているぐらいに強調していたのです。

 この件について繁克は供述調書のなかで、トラックに乗っていたら突然前に私の車が割り込んで、降りてきた私が「お前本当に文ちゃんと付きあっとるんか」などと脅迫的に問い質した、という事になっており、多田敏明の存在もなく、無線仲間を探していたという話しになっております。この一事からもこの時の繁克の出現は明らかな計画性を窺わせ、意図的に事実を歪曲して利用していることが明らかです。

 多田敏明の方も供述調書の中で私が繁克と会って話しをしたことがあるらしいと供述し、自分がその場にいたことは暗に否定しているのです。

 初めて多田敏明に文さんのことを話したのは12月の中頃でしたが、彼の第一声が「広野さん、事務員喰ってしもたん」でした。これは1月21日の火曜日の夜に初めて浜口卓也に文さんのことを話したときと全く同じで、彼も喰ったのかと言って来たのです。

 かいつまんで事情を話しと極端に一変して「鬼のような女」だと言いだし、「お前、あの女の顔見て普通の女じゃないがわからんか?」、「ワシゃどうも好きになれん、まあ、かもうがだけタダやし会社でかもとるけどな」と言い、続けて「でもいいところがあると一つだけ思ったことがある」と前置きの後、「前にヤス(繁克)と付き合っていたとき毎日弁当を作ってきていた。」と感心したように話していたのです。

 そして彼の方からはっきりさせろという話しになり、文さんの自宅に電話を掛けたのですが、この時に初めてお父さんが電話に出られたのです。この直前までの経緯は添付する「証拠番号5」の中に詳細に書いてあります。会社に戻り、文さんが帰った後で控室に入ったところ、そこに浜口卓也の他、浜上、東渡、水口、河野、山下などの安田敏を除くほとんどの大型運転手が居て、入ってくる私の姿を見てニヤニヤしていたのです。

 そこで浜口卓也の方から自宅に食事に来るように誘われたのです。浜口卓也は当然の事実のように文さんと繁克の交際を肯定していたのですが、意外なことに彼自身の供述調書のなかでは、会社の中で文さんと繁克が交際している姿を見たことは一度もないようで、繁克本人の口から聞き、あまり親密な交際ではなく知り合いの付き合いのような口振りあったと供述しています。なお、文さんが繁克のために会社に手作り弁当を持ってきていたという話しは梅野も自分の供述調書の中で認めている事実です。

 一方、多田敏明の方ですが、彼には12月に文さんのことを話して以来ちょくちょく文さんのことを相談していました。それまで相談していた安田敏と折り合いが悪くなったので丁度入れ替わったかたちになります。

 細かいことは今はっきりと思い出せないので省略しますが、とにかく彼の態度も何かを隠しているような煮え切らないものでした。繁克のことを私が知ったのは浜口卓也から話しが初めてで、そのことを多田敏明に話したところ彼も白状した感じで、文さんが繁克と一緒に自分のアパートに何度か遊びに来たことがあると言っていたのです。

 それでも親密な交際ではないようだったと話していました。一番明確なかたちで彼が文さんのことを話したのは2月の23日の土曜日の昼過ぎから翌日曜日の明け方にかけた新潟行きの仕事に彼を付き合わせた時のことでした。この時は珍しく彼の方から同行したいとしきりに言ってきたのです。

 一方で松平と東渡は多田敏明を連れて行くことに反対し、当時険悪な関係になっていた安田敏を連れて行けとしきりに勧めていたのです。結局松平らの意見を私が押し切って多田敏明を連れていったのですが、その仕事というのは前日か前々日に四国の松山から積んできたイヨカンを新潟県の六日町と中条町の各市場に卸しに行く仕事でした。

 遊び好きで交友関係もずいぶん賑やからしい彼が土曜日の夜になぜわざわざ仕事の付き合いを自発的にするのか不思議に思ったのですが、このことは12月24日のクリスマスの夜に古河からの山三青果の定期便の福井中継に来ていた彼がすごくにこやかに愛想良く仕事をしていた時にも感じたことです。
〉〉〉:Linux LibreOffice: 2023-09-29 01:29:01 〉〉〉
 被告発人多田敏明を連れた新潟への出発が土曜日ということは全く記憶になかった。四国の徳島行きの出発は長い間、2月18日と勘違いしていて1年ほど前に2月19日と確認。徳島県小松島市でのミールの荷降ろしが2月20日で、愛媛県松山市の上組の仕事でいよかんを積んだのが2月21日、その翌日が2月22日で土曜日と確認。
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 いつものことですが彼は気分の変調が著しく機嫌の悪いときはものすごくムスッとして黙っているのです。この新潟に出掛けたときも1時間ぐらいは機嫌が良くよく話していたのですが、急に喋らなくなり六日町を出てからは疲れたようで眠たがっていました。

 六日町と中条は同じ新潟県内でも逆方向になり普通に走れば2時間ぐらいかかると思います。その中条の市場に着く寸前頃から彼が暗い顔で話しをするようになり、文さんの話題になったのです。土曜日の深夜はどこの市場も休みなので当直の人しかおりません。その当直の人を探すのに時間が掛かったのか、その間に彼は文さんと繁克の事を色々と具体的に話したのです。

 今すべてを思い出すことは困難だと思いますが、どれも印象的な話しだったのでよく覚えています。まず彼は、文さんが繁克のことを今でもすごく恨んでいると断言しました。そして繁克が仲買の彼女の方を選んだのは文さんの方が問題があり、人間的にも劣るからであるように話しました。以前文さんの方からいい格好をして来てくれと頼まれ、文さんの自宅に行きお父さんと一緒に酒を飲んだことがあると繁克から聞いたと話しました。お父さんは堅物というか面白みのない人間で話題も乏しく、すごくまずい酒だったと話していたそうです。あの繁克が気を使うぐらいだからよほど堅苦しい家だと多田敏明は感心したように話していました。自分も以前ヤクザの娘と付き合ったことがあるが、それ以上に気が張り大変だとも意見を述べていました。

 中条を出てから金沢に戻る途中、食事をしたり米山S・Aに立ち寄ったりしたのですが、多田敏明は不機嫌で寝ていることが多くあまり話しませんでした。覚えているのは長岡ジャンクション(関越道との分岐地点)の手前あたりで、彼が働き、同世代の者より高い給料をもらっているのにお金を使わず、手持ちのお金も少ないのは彼女が以前サラ金で作った借金を支払っているからだと秘密を打ち明けるように話したことです。

 丁度この頃会社で東渡が多田敏明は若いのに給料をもらいすぎているなどと多田敏明の生活態度を非難していることもあったのです。これもたぶん作り話だと思いますが、その意図は私の前妻のことで共感を呼び、心を許し、信頼を高め胸襟を開かせることが目的の一つで東渡らの指図であったと考えられます。

 金沢に戻ったの時はまだ暗かったのですが、会社にトラックを止めその中で多田敏明が語りだしていた頃にはすっかり明るくなっていました。2月なので6時過ぎぐらいまで多田敏明とトラックの中で話しをしていたと思います。金沢に着き20日ぐらい前に繁克とビールを買いに行った諸江の24時間の酒屋に寄ったのはまだ4時半頃ぐらいではなかったかと思うのでかなりの時間多田敏明と話しをしていたことになります。

 多田敏明が起きて喋りだしたのは酒屋を出て北安江の交差点を右折した頃からです。それからの話題は文さん一色だったと思います。初っ端から思わず殴りつけてやろうかと思うぐらい挑発的な事を話し始めたのです。

 これも細かいことまで今思い出せませんが、会社にいると一階で浜上と東渡の二人が、トッチ(多田敏明の通称)文ちゃんと付き合えばいいがい、といい。彼を二階まで連れて上がり文さん本人の前で同じことを話したところ、文さんは「だって多田君、彼女おるんやろ」と言いながらもまんざらではなかったと話していました。

 以前にも自分が免停中に松平が市内配達に文さんを同乗させたことがあるらしく、その時だったか彼女が事務員をやめて運転手をしようかと考えているなどと自分に話していたそうです。また文さんの軽四を借りて買い物に行ったこともあると自慢げに話していました。この時も私は会社のことを考えて若い多田のことをぐっとこらえて、最後はお互いに禍根の残らないように話しをまとめたのです。

 多田は文さんの隙を狙っているような存在でもあったのです。女をモノにするには失恋直後が一番だと以前聞いたことがありますが、多田は実にその機会を辛抱強く窺っているようでもあり、あるいは文さんの言う好きな人とはまさか多田のことかも知れないと言う思いも僅かながらあったのです。

 安田敏と多田敏明は同様に私から情報を収集する諜報員のような存在で、私の考えていることや行動はすべてに近く松平らに筒抜けだったのでする。安田敏は東渡らとともに工作員としても活躍しました。長くなるのでここでは書きませんが、11月の工事現場突入事件、1月終わり頃の清水倉庫タイヤ爆発事件、2月14日のバレンタインデー当日の白菜散乱事件、2月終わり頃の追突事故に伴う東渡らとのゆすり事件など尋常ならざる行動を連発していたのです。

 バレンタインデー当日の非常識さには私も我慢の緒が切れ50万円の保証人になった借金の残債を一括して池田に支払い借用書もその場で破り捨てたのですが、自分から私に対する支払いもしないで3月の初めには150万円ぐらいだったかの車をローンで購入し、詐病で得た何十万円だったかのお金からも私の返済には充てようとはせず、見かねた東渡の進言で一応何万円だったか会社に払ってやったと自慢げに一言だけ言いに来たのです。会社からもそのお金は私に渡っておらず、今考えれば20万円だったか30万だったか忘れましたが私は丸損したことになります。

 そしてこのこと以来、私は極端に安田敏を無視し避けるようになったのですが、彼の方はベルトを無理矢理に渡そうとしたり、泣きそうな顔で私に話しかけて来るようになったのです。この泣き出しそうな顔や声というのは以前から文さんが度々見せていた姿ですが、これさえも連中は利用して私の思考や価値観を攪乱したのです。言い換えれば文さんと安田敏の姿がだぶり重なって見えたことになります。

 他にも多田敏明が以前、文さんが会社で若い運転手から階段を上っている途中にパンツが見えたとからかわれ、彼女は上まで登っていたのに下まで降り、相手に詰め寄って「銭とるろお」と凄まじい剣幕で脅しつけたことがあると話していました。この時は相手の男の名前など出なかったのですが、3月の中頃、多田敏明と西口の三人で北安江の焼肉屋に行った時、帰りがけに文さんの話題が出たとき、西口がすぐに「そう言えば、前にパンツ見えたって彼女をからかって怒られたが誰やった、安田(繁克)やったな」と話していました。
〉〉〉:Linux LibreOffice: 2023-09-29 01:40:09 〉〉〉
 この被告発人多田敏明の前ふりのような話は記憶になかった。
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 ここでも第三者の裏付けがあって事実の存在を補強しているのですが、西口にも連中の意向を受けて行動していた節がいくつかあるのです。また、この時西口は文さんのことを「いかにも今時の女の子という感じ」といい。初め入社したときとても務まりそうもないと思っていたが意外にがんばっていると感心したように話していたのです。

 この「今時の子(娘)」という言葉は、池田が頻繁に文さんを指して使っていた言葉ですが、1月の終わり頃には、「あの娘なんにも分かっとらんげん。可哀想な子や、可哀想な子やと思っとりなさいひろのさん。」と電話で私に話していたことがあり、「あの娘会社でしおらしいしとるやろ、でも友達との電話聞いとったら頑固なことはなしとるわ」などもあきれたように話していたのです。

 この時の状況は朝から詳細に覚えております。1月25日の土曜日文さんが、事件後お母さんにねだって買ってもらったというネックレスを黒い服一枚の上に付けて会社に来ていて、なぜか退社時刻の5時前に泣きそうな顔で足早に私が居た控室前を通り過ぎていったことがあり、またその時は軽四を裏駐車場の大型車が止める場所のど真ん中に止めていたのです。その夜に気になって文さんの自宅に電話したところ、お母さんが出て、この時初めて不機嫌で警戒した対応を見せたのです。

 この件があってから初めて文さんと電話で話したのが、月曜日(27日)かあるいは火曜日(28日)のことで、朝、ハイミールでミール移動をしていた私に会社から連絡が入り、急きょ七尾に関東行きのベニヤか材木(ベニヤならば林ベニヤ、材木なら能登木材、いずれも七尾の丸一運輸の仕事で東渡の紹介によるもので一番多かった行き荷)を積みに向かったときで、まず津幡のスタンドから電話をしたとき対応に出た文さんに1月21日のことを謝ったのですが、分かったと言いながら彼女は不満足な様子で、さらに電話を掛けて謝ったところ彼女が「あん、あん、あん、」などと恫喝するように怒って電話を切ってしまったのです。

 津幡の先の能瀬という所から会社に電話を掛け直したところ梅野と池田が交互に出て、文さんは金沢市場輸送に仕事に出掛けたと話したのです。そして池田が私を叱りつけ、彼女の家に電話を掛けるな、さみしくて話したいことがあるなら私の家に電話しなさいと言い、彼女が私のことで悩み会社を辞めると言い出したというのです。池田の方からもこの件で何度か会社の方に連絡を入れるように指示があり、七尾で荷物を積んでからも会社に何度も電話したのですが、文さんが出ることは一度もなく、夕方暗くなってから北陸道に乗り富山の先のパーキングあたりから掛けた電話で、文さんが会社を辞めないことに納得して帰ったと聞き、その時に先の池田の個人的意見というか言葉が出たのです。
〉〉〉:Linux LibreOffice: 2023-09-29 01:43:29 〉〉〉
 富山の先ではなく、富山インターの手前の呉羽パーキングエリアだったという記憶。富山インターの先にもトイレだけのパーキングがあったかもしれないが入った記憶がなく、入ったことのあるトイレだけのパーキングは朝日インターの手前の黒部パーキングエリアという記憶。
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 この時私は山梨行きの二カ所卸の荷物を積んでいました。そして予定外に東京で一泊させられ翌日の夕方池袋の三越デパートから展示会の引き上げの荷物を積んで金沢に戻ったのです。展示会の荷物は問屋町のトナミ航空で降ろします。その日は荷物が降りるのが遅く会社に戻ったのはお昼頃でした。会社にほとんど社員はおらず、控室で一人でストーブにあたっていると松平とカベヤが来て、松平が優しく意味ありげに「今日は仕事しないでいいから一日ここでストーブの番でもしとれ」と言って出掛けていったのです。少しすると次は池田が一人で出掛けて行きました。このような雑用はほとんど文さんがしているので池田が会社を出ることはあまりないのです。これで会社の建物では私と文さんの二人切りになりました。

 このような状態が1時間ぐらい続き、途中に市内配達のおじさんが一人少し寄っていったぐらいでした。私は外でトラックの洗車を始めたのですが、まず松平の長靴を借りるのに二階に上がり、一人で居た文さんに長靴の場所を聞いたのです。洗車中もなんどか文さんが二階の窓から顔を出し、私のことを気にしていました。松平らが作ってくれたせっかくの機会を無駄にする気かという非難も込められているように感じられたのです。

 ようやく意を決して二階に上がり、彼女に話しかけようとしたときに金沢市場輸送で冷凍イカの積み替えを手伝っていたという多田敏明と和田の二人が二階に上がってきて、文さんとの個人的な話しは実現しなかったのですが、その時の文さんは恥ずかしそうでうれしそうでした。これも松平らの仕組んだことだと考えられるのですが、このように松平らの言葉一つで文さんの態度や気持ちは極端に不機嫌になったり、上機嫌になったり変化していたのです。逆に事件当日は極端に不機嫌で警戒的でした。

 松平は供述調書のなかで、私と文さんの関係は全く最近まで気付かなかったと述べているのですが、それは明らかな嘘です。先に2月に松山に行ったことを話しましたが、その行き荷というのは同じ四国の徳島行きのミールでした。これを積んだ当日私は午後まだ早い時間に安田敏に手伝ってもらって積んだのですが、20トン積みだったかの重量オーバーで金沢東インターからの乗り入れが危ぶまれたので秤のない方の料金所が開く確実な夕方6時以降の時間帯を狙ってそれまで会社で待機していたのです。

 その夕方、二階で退社しようとする文さんに松平が声を掛け、「今から北野さんのとこ行くんか、それとも例の彼氏と今からどっか行くんか」と意味ありげな調子で言ったのです。彼女は返事をせず足早に階段を下りて帰っていったのですが、そこで池田が横から「あの娘彼氏なんかおらんよ」と心配そうなやさしい声を掛け、それに対して松平が偉そうに「ワシがいい男一人紹介したんや」と言い、続けて繁克のことを話題にし、結婚したらしい、他にもいい娘おったけど今の娘を選んだらしいなどと暗に文さんとの関係は過去のものになっていることをやけに強調していたのです。

 また、「ワシや、何してもいいけど子供だけは作るなと言ってあったんや」などと彼らの間に性的関係があったことを当然のものと示唆するような言葉もあったのです。今時の若者だから当然言えば説得力があるようですが、このような意味も含めて池田らは文さんを今時の若者の典型のように型にはめていたようです。松平の安田に対する態度も実に寛容で温かいものでした。私に遠慮しているようにも見せながら直接安田敏を注意することは一度もなく、トラックの気違いじみた暴走運転や度重なる当て逃げ、についてもすべて私に対して間接的に注意していたのです。

 こんなことも2月14日、螺旋状の東名高速豊川インター登り口で減速せずウイングのトラックから50個ぐらいの白菜の大箱が飛び出すぐらいの運転で散乱させたという話しを当日浜口卓也と飛鳥食堂から戻ったときに会社前で松平から心配そうに聞かされた私は、午後会社に戻り、文さんが買ってきたらしい社員に対するチョコレートを無造作に口に放り込みながら私の説教など問題にしていないあきれた態度に見切りをつけた私は、松平に安田敏を首にすることを強く進言し、以降安田敏がどのような不祥事をしでかしても一切責任は負えないと厳しく申し渡したのです。
〉〉〉:Linux LibreOffice: 2023-09-29 01:49:42 〉〉〉
 喚起されたような飛鳥食堂での食事の記憶。昭和59年はつけもできてよく行っていた飛鳥食堂だが、平成3,4年当時に食事に行った記憶はほとんど残っていない。たぶん昭和59年当時と同じ店舗で、店内は喫茶店のような雰囲気で、夜は飲み屋になるような話も聞いていたが、夜遅い時間に行くことはなかったという記憶。
 これまでの記憶は、金沢中央卸売市場の裏門の道路で、大型トラック同士すれ違ったところから始まっていた。事実ではない可能性の高い話を、その前に被告発人松平日出男から吹き込まれてことになる。
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 この時も浜上などは私の方が言い過ぎ悪いように言っていました。梅野など私のことを本当の馬鹿だと確信したようにニヤニヤしていましたが、これが彼らの感覚なのです。

 浜上らにとって安田敏の存在が大事だったのは、当初から割りの悪い仕事はすべてに近く私と安田敏に押しつけていたからです。また、浜上が事件にどれほど関与していたかは不明ですが、東渡と密接に結びついていたことは確かなことです。

 繁克のことに関しても2月の終わり頃に、東渡らの麻雀仲間で私が金沢市場輸送にいた頃から会社に麻雀に来ていた内浦町小木出身の男が、金沢市場輸送でイワシ運搬の仕事を始めたらしくその時に若者から怒鳴られ、手鉤まで振り回されて脅されたと控室に来て話し、その場に居た東渡と浜上が示し合わせたようにそれは繁克のことに相違ないと断言していたのです。

 その小木の男というのは元漁師らしく体格も恰幅も良い男で、小木の漁師のことは地元のなのでよく知っているのですが、口が悪く気性も荒い者が多いのです。年輩の者ほどその傾向が強いようです。昔は出先の港で刃物を持った殺し合いなど珍しくなかったと聞きます。実際その男は、まだ私が金沢市場輸送にいた頃、会社で東渡をいじめ馬鹿にし、使いもさせていたのです。

 こちらも芝居だったのかも知れませんが、その男が繁克に恐れをなしていたとは考えにくく、それ以上に社交的で利にさとい繁克が無意味なケンカを仕掛けたとは考えられないのです。私に繁克を怖い男だと思わせることが目的だったのかも知れませんが、その数日後(2,3日後ぐらい)の3月1日の日曜日の夕方、私は会社で繁克の姿を見かけているのです。多田敏明と浜口卓也が一緒で浜口卓也が控室に入ることを勧めたのですが、繁克は嘘がばれたようなそわそわした態度で顔を出して中にも入らずすぐに帰っていったのです。
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 これはずいぶん前に記憶から消えていた事実。3月の10日から15日頃に、市場急配センターの駐車場で被告発人安田繁克の車だけを見た記憶はずっと残っていた。なぜ忘れていたのか不思議に思えるぐらい。
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 その時私は前日の土曜日に七尾で積んだ千葉県我孫子市行きに出るところだったと思います。繁克に会ったのはこれが最後でした。一月ぐらい前の北国新聞に同姓同名で同じ年の男が40代の男と共謀して女性問題をネタに150万円だったかの強請を働き恐喝未遂罪で逮捕されたという記事がありました。

 まず繁克本人のことと思いますが、住所は東力ではなく古府だったかで、職業は共犯とともに建設作業員でした。供述調書を作成して当時はイワシの時期も終わっていたようで持ち込みで「金太」という会社の鉄鋼材料を運んでいるように書いてありました。金太という会社は知らなかったのですがが最近になって鉄鋼関係の大きな会社だと知りました。

 どういう伝で金太の仕事をするようになったのかはっきりしたことは分かりませんが供述調書の中には桐畑運送松任営業所の契約運転手なっています。思い当たる節は私が二度目に中西運輸商に入社したときトレーラーの運転手でその後暫くして免許取消となり、配車係に転向し、YTが金沢市場輸送に来て半年ぐらいだったして同じく金沢市場輸送で配車係をしていた藤田という男が中西運輸商に来る前にいた会社が桐畑で同じ桐畑から中西運輸商に来た運転手が他にも数名いたと思います。

 藤田については前にも書いてあると思いますが、それとは別に、私が二度目に金沢市場輸送に入社した頃だったかにいた運転手で、割と長く会社にいて確か市内配達をしていたのですが、その男が桐畑に行きその娘だったかと結婚したような話しも聞いたことがあります。ちょっと変人のようなところがある人物でおかしな噂もちょくちょく耳にしたはずなのですが細かいことは覚えていません。

 名前の方も思い出せないのですが、根○(○○)という名前だったかも知れません。確かにこのような名前の人は覚えているのですが同一性の保証は出来ないのです。無口な男でしたが割と会社寄りの感じで、突然やめていなくなったのですが、その前までは割と責任のある立場を任されていたようです。
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 最初に東北便の福井中継をしていたという記憶がかすかに残る。
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 この時の上司で市内配達を統括していたのが高田という人物です。間はあったものの松平はこの高田の後任というかたちになり、その間の暫定的な責任者は梅野かあるいはこの根○だったかもしれません。

 高田は竹沢の話では詐欺師のような男で、あちこちで大きな借金をして逃げ回り、最後は会社の金を横領して姿をくらませたそうです。実際会社まで右翼団体のメンバーが数人高田を訪ねて押し掛けてきていたこともありました。しかしその中の隊長のような青年は馬鹿に礼儀正しく丁寧で私にはヤクザが他の事務所に挨拶に来ているように見えたのです。その団体は確か富山の方の右翼団体だと聞いたように思います。

 いずれにせよYTと繁克の関係から考えてその筋から紹介されたと考えるのが有力かも知れません。中西運輸商には一時期水谷○○○も行っており、谷内という金沢市場輸送にいた運転手も一時行っていたことがあったらしく(私と同時期だったらしいが会うことはなかった。)、この谷内はその後守田水産輸送に行き、新車で持ち込みをしていたのです。

 彼が金沢市場輸送から守田に行った運転手の第一号で、その後山田も持ち込みで守田に行きにかかり、横槍を入れて阻止したのが竹沢で、その時の条件で輸送でも持ち込みを認めるようになったのです。水谷もその後守田で仕事をしていました。水谷は金沢市場輸送に何度も出入りをしていたのですが、初めに入社したのが私が二度目に入社した昭和61年の8月頃の直後でした。彼は輪島の出身で、同じ輪島でも気の荒いことで有名な海士町の者でした。江戸時代九州の方から漂流した部落民のようなもので身内で婚姻を繰り返し、血が濃く団体精神が強いのです。子供の頃からスパルタ教育を受け、鍛え上げられているそうです。

 金沢ではあまり知られていないかも知れませんが能登では有名です。実は浜上もこの町の者です。水谷が入社して一年ぐらいしてから次々と同郷の者を入社させました。職安に募集しても来てのない会社でしたから水谷の貢献度は高いものでした。沖○、山○○、平○兄弟、○渡、小○、○原などが入れ替わり入社して運転手をしていたのですが、前の三人は持ち込みになりました。出所後安田敏と話しをしたとき彼ら輪島の連中は、一人残らず金沢市場輸送をやめて現在は七尾の共栄運輸で持ち込みをしていてずいぶん稼いでいると聞きました。

 金沢市場輸送にいた頃私は彼ら輪島の連中と親しくしていたのですが、もともと内浦の方と輪島の方は仲が良くなく、同じ能登でも遠い存在だったのです。そんなところに安田敏が来たもので私は益々彼を一緒に仕事をさせたいと考えたのです。他に口取修という男がいましたが、彼は同じ内浦町の松波と小木の間にある新保という在所の者でした。中学校は小木中です。彼は私が一度目に金沢市場輸送に入社して辞めた前後に入社していたらしくそれ以来金沢市場輸送にいて古株の運転手になっていたのです。

 地元では嫌われ者というかあまり相手にされない存在だったと聞きます。ただ中○とは前から知り合いだったように聞いたかも知れません。安田敏にも地元では似たような傾向があり、とりわけ私と同じ宇出津の者からはあまり相手にされていなかったようです。私が間にいたから付き合いをしていたような側面もあり、彼の方でも私を伝にしていたのかも知れません。因みに能登の方では年功序列が著しく昔の軍隊のような上下関係があったのです。

 そんなこともあり、さらに宇出津や小木、姫、真脇といったところ以外の者はもともとさげすまされて見られていたようです。私はそのようなことにこだわりがなかったので子供の頃から色々と友達づきあいをしていたのですが、こだわる者はこだわりが強く相手にしないか馬鹿にしていたようです。逆に言えばそのような土地柄の者は宇出津などの者に対して恨みを持ち、上下関係でも激しいいじめにあったりして恨んでいたようです。

 能登ではこのような部落間の対立のようなものが昔ほどではないと思いますが残っているようです。松波で唯一付き合いがあったのが先輩の友達で○田という人で、彼は安田と同じ年で同じ水産高校本校を退学してしばらく遠洋漁業の漁師をしていたのです。中○も同じ頃漁師をしていたようです。小木は県内唯一の遠洋漁業基地ですが(姫も同じだが小さい)、中卒者や高校退学者の多くは小木の漁船で遠洋に出ていたのです。現在は国際問題などもあり儲からなくなったので漁師をする者は少ないのですが、当時の友人の大半は漁師を経験していました。私は一度も乗らなかったのですが誘われることは何度かありました。

 山○シンイチさんも同様で、当時(昭和57年頃)○田さんとシンイチさんと中○、それと珠洲の三崎の伏○○さんがよくつるんでいたようです。かれらは当時二十歳近かったようですがいまだに集まってシンナーを吸っていたらしく、今あげた全員かどうかは分かりませんが。とにかくこれらのメンバーの中の数人が松波の○田さんの町営住宅でシンナー遊びをしていて安田敏が発狂したらしいのです。

 数日間意識不明で生死の境をさまよったとも聞きますが、その前に彼は深夜に隣の住宅に押し入り、就寝中であった夫人の首を締め上げたそうです。駆けつけた友人に引き離されそこを飛び出して、「カァ、カァ、カラスが呼んでいる」などと叫びそのまま松波駅まで走って駅の周辺をウロウロしているところを通報されてそのまま金沢の松原病院まで送られたそうです。これは個人のプライバシーに関することなのでうかつに話しことは出来ず、他言も控えていただきたいのですが、彼は1年ぐらいだったか入院して、その後22,3歳ぐらいの時にも私と付き合いが途絶えて暫くしてまたシンナーを吸って発病し同じ松原病院に入院していたそうです。

 これは私が金沢市場輸送で初めて入社していた頃に相当しますが事実を知ったのはだいぶん後だったかも知れません。この発狂の件も安田敏が地元の仲間から疎んじられた大きな原因です。彼はそのことでかなりの疎外感と孤独感を感じていたようでした。

 それでも金沢では珠洲の出身者も含めかなりの数の友人はいたようでした。その首を絞められた夫人の話に戻りますが、夫人の夫は福島組系木下組の組員で名前は忘れたのですが、カズさんと呼ばれていたかも知れません。この人物が私が二度目に金沢市場輸送にいた昭和61年頃に竹沢を訪ねて金沢市場輸送に来ていたことがあったのです。

 この人物の上司に当たるのが○田という蛸島出身の人物で一時期頻繁に新聞に出たりして大きなことをしていたようです。パチンコ屋にダンプを突っ込んだり、恐喝をしていたようですが、地元では経営型のヤクザとして力をつけていたそうです。実は昭和57年頃当時私は17才だったのですが、所属していた地元の暴走族が○田の世話を受けるようになり、宇出津のそばの田浦というところに一軒家を借りてそこを事務所のようにしてたまり場のようにさせたのです。

 福島組の名前の入った特攻服まで用意され、家財もそろえられていたのです。私たちのほとんどはヤクザを極端に嫌って避けていたのですが、逃げられない立場にいた者もありました。一悶着あったのですがほとぼりが冷めた頃無断で田浦の家を利用することが度々あり、その場によくいたのが中○でした。彼はそれ以前滝本組の司会という事務所に出入りしていたらしくなにか刑事事件を起こして拘置所にも入っていたと聞きます。

 実は浜口卓也も17才ぐらいに高校を退学になって暫くしてから19才か20才ぐらいに漁師になるまで金沢の松本組でヤクザをしていたのです。田舎者はかなり極端にヤクザを嫌うこともあって組員当時はほとんど田舎には帰っていなかったようです。

 金沢で友達の所で顔を会わせることが、何度かあった程度でした。私が昭和58年の春頃、当時私は18才だったのですが、白菊町の伏○○さんのアパートで居候させてもらっていた関係もあって、そこによく来ていた松元組の○という人物に世話になり、組事務所にも行ったりすることがありました。

 彼は北友会という福島組などの上になる組織の幹部をしていたそうです。絶対に組に入れないという話しで他にも友達がいて伏○○さんも瓦屋の正業に就いていたので付き合っていたのですが、この人物が中○のことをひどく怒り半殺しにしてやるなどと公言していたのです。その後一緒になったことがあったと思うのですが一応許されひどい目にはあわなかったようでした。

 そう言えばオジコも少年時代滝本組だったかでチンピラをしていたと聞きます。他に珠洲のケイタロウと呼ばれる男がいてその後漁師をした後、20代になって福島組の組員になったのですが、安田はこの男とかなり親しくしていました。昭和61年か62年頃カマロという外車を借りて私のアパートに遊びに来ることも何度かありました。私はすでに結婚していたこともあり、安田敏のことはほとんどかまわなくなっていたのです。

 自分の方から聞いたこともないのですが、彼も涌波の事務所に出入りしていたのか知れません。私の記憶では福島組が若者を集め派手なことをしていたのはこの涌波の事務所が初めてで新聞にも事件を起こし載っていたようでした。観音堂のアパートにいた時分、ケイタロウは神田のアパートにいて同じアパートに珠洲の三崎の通称コウキという私と同じ年の男がいて彼も山水に入社して長い間働いていたようです。ケイタロウの部屋にも安田敏に連れられて遊びに行ったこともあったのですが個人的に話すことはありませんでした。

 以前私の友人に暴行を受けたという話しも聞いていたので同じ宇出津の私とはあまり話したそうでもなかったのです。ケイタロウには彼女がいてその彼女の友達でいつも一緒にいたのが、同じ珠洲市の蛸島の男で○井(通称ミッチョ)の彼女でした。

 ○井の方も安田と親しくしていたのですが、以前暴狂悪女という暴走族に所属していたとかで交際範囲もある程度あるようで、詐欺師のような感じの男でした。私が観音堂の安田敏のアパートで居候を始めた頃石○という男がいて彼は紺谷組山本総業(通称ヤマソウ)の組員で組から逃走中だったのです。

 居候をするようになって暫くしてたまたまスタンドで石○の知人と一緒になり、そこで誘われて増泉の中央防災という昔社会問題にもなった消火器売りを始めたのです。1月だけ売り上げなしに日給を日払いくれるというので行ったのですが、私は人を騙すことが出来ずほとんど一本も売らずに辞めたのです。しかし、少し遅れて入った安田敏はその仕事に生き甲斐を見出したらしくずいぶんがんばっていたようです。

 石○はその間に安田敏を説得して追い出したような感じになっていたのですが、救いがたいなまくら者だったのです。安田敏は出張が多くなり、県外で消火器を売っていたのですが、それにつれ付き合いも減り、年が明けて金沢市場輸送で長距離の仕事をするようになってからは全く付き合いがなくなっていたのです。私が付き合わないようになってから安田敏は石○を消火器売りに誘い一緒に仕事をしていたそうです。新潟県で逮捕されたとか噂を耳にすることがありましたが、そのうちにシンナーを吸って松原に入院したと聞いたのです。

 私といるときはシンナーはやっていませんでした。この中央防災の社長というのが当時25才か28才の男で輪島の○という男でした。一見してヤクザ者かその筋の感じでしたがいわゆる強面のタイプではありませんでした。この○が消火器屋を辞めた後数年して、石○とともに福島組に入り、当時山口組と一和会の抗争が多発していた頃、鉄砲を持たされて鉄砲玉を命ぜられ、二人でそのままとんずらしたと安田敏から聞いたことがありました。

 最近まで意識しなかったのですが、やはり安田敏は私の知らないところで暴力団と交際していたのかも知れません。その関係で誰かの紹介で松平らと知り合ったことも十分考えられるのです。カマロに乗ってきていた頃以来、安田敏と付き合いはなかったのですが、その後風邪の噂で「サムライ」という片町のディスコで働き始めたと聞き、さらに一年ぐらいかして電話があり、片町の「ハートブレイク」という店でパーテンをしている。金はいらないから飲みにこいとか、パーティがあるから来いなどと何度か電話があったのですが、一度も行かなかったのです。

 それからさらに数ヶ月か一年ぐらいして電話があり、アパートを借りて住んでいるから遊びに来いと言われ、丁度暇だったので行ったことが一度あるだけでした。丁度平成二年の秋頃ではなかったかと思います。その時彼はハートブレイクの次の店も辞め、大きなキャバレーのようなところで厨房の仕事をしているような話しだったと思います。

 福島組のことでもう一つ気になるのは以前市場急配センターで持ち込みの仕事をしていた確か○という名前の人物です。私と同じ宇出津の者と聞きましたが、年はかなり上のようでした。初めてこの人物を見たのはまだ7599という保冷車に乗務していた頃でトナミ航空の展示会の仕事に行ったとき、展示会の商品を持ってきていたのを見かけたのです。箱に宇出津の住所が書いてあったので目に止まったのですが、たしか大脇昆布という社名でした。それが半年ぐらいかして市場急配センターで市内配達の仕事をするようになっていたのです。数ヶ月かして、平成元年だったと思いますが私は5月頃から11月頃まで野々市の北都運輸で専属の市内配達の運転手をしていたのです。金沢市場輸送からの出向というかたちでした。配達先多く務まる者がいないような話しでしたが終わる時間も早く私には楽な仕事でした。

 そんなときに持ち込みの○の姿を見たのですが、松平の方から仕事をやるなというクレームが出たと聞きました。キュピーの製品の配達が主だったのですが、その営業所の担当者がたしか石本という人物で、本恒夫や松平とはかねてから親しかったようでした。彼らからも北都に入社することや持ち込みをすることをしきりに勧められていたのですが断っていたのです。

 出所後私は宇出津にいて青年センターのようなところの無料のパソコン教室に通ったのですが、そこは遠島山公園にあり、歩いて通っていたのですが、木下組の家の前を通っていたのです。その時に気付いたのですが、大脇昆布という小さな会社は木下組の隣りにあったのです。木下組は私が子供の頃からあるヤクザです。向かい聞いた話では木下の組長はもともと輪島の者で地元にいずらくなって宇出津に流れてきたと聞きました。

 市場急配センターにいたころ、浜上と水口が福島組のことを話題にして福島組の組長は輪島の人間で、七尾に出たと話していました。他にも朝鮮人ということを何度か別のところで耳にした覚えがあります。これが本当だとして、竹沢もNの言うとおり朝鮮人だとすると昔からの知り合いだったことが考えられます。北都運輸はその後かねての噂通り倒産したのですが、それまでは県内で一番か二番の規模の運送会社だったのです。松平は事前に知っていたらしく損害は受けなかったと自慢げに話していました。

 北都運輸などは石貨協という運送業者の団体に属していたそうですが金沢市場輸送もその中に入っていて協会の赤字を高速道の割引をまわすなど補填するようなこともしていると竹沢が話していたことがありました。私の知っていることなどごく一面にすぎないのですが、これらの中に事件の端緒があるのかもしれません。可能性として一番考えられるのは保険金目的の偽装殺人ですが、これも金沢市場輸送でかけたものではなく中西運輸商でかけていたものかもしれません。いつ死んでもおかしくないような仕事は中西運輸商にいたときの方が遥かに多く、私の方も若くて命知らずだったからです。

 実際に死人が出たことは僅かな数でしたが事故の多さは圧倒的に多く、有名だったのです。佐川急便から切られたのもそれが一番の理由だと聞きますが会社のやり方を変えようとはしていなかったようです。推測の域を出るものではありませんが、むやみに捨てることの出来ない推定の選択肢なのです。

前妻について

 私が前妻A子と知り合ったのは昭和60年の4月の終わり頃でした。今思えば安田敏が金沢市場輸送に現れたのも同じ時期です。これも連中が意図的に作出した演出だったのかもしれません。私は前妻との離婚自体も連中の作戦が大きく影響していたのではないかと思うのです。つまり文さんとよく似た立場だったということになります。

 池田のような身近で指示をする人間はいなかったと思いますが、よからぬ入れ知恵をしたり、私に関する情報源を収集していたと考えられ人物は、YTの妻だった孝代(漢字のほうははっきりしない)、○○の妻、堂野の愛人大野、口取修の妻などです。これはあくまで仮定的な話しであって、違法な行為に荷担していたと安易に決めつけることは到底許されず、迂闊に話せることではないのですが、一応このような状況も仮定されると言う意味で書いているのです。

 とりわけA子と親密だったのが孝代でした。前妻が初めて家出をしたのは平成元年の5月頃だったと思うのですが、この時孝代が一緒に家出に誘ったり、女性週刊誌に記載されている求人情報を一緒に見たりしていたことはA子から直接聞いていた事実です。私は孝代との交際を好まず、A子にもそのように言うようになったのですが、きつく付き合うなとは言わず、長距離で家を空けていたのでどれだけ付き合いがあったのか判然としませんが、一時期はかなり頻繁に付き合っていたようです。

 孝代に飲みに誘われ、その席で子持ちでもかまわないから結婚してくれと男性に頼まれたとか真偽不明の話しもA子はしていたことがありました。もともと作り話をするような癖があったので話半分で聞いていたのですが、A子は細かいことまでよく話し、それで嘘がばれ私に殴られることも度々ありました。家出の件も私の反応を見るというのが大きな目的の一つだったのかも知れません。

 私が初めて彼女に泣きを入れたのも初めての家出の時でした。彼女はそれに満足し、味をしめた感があったのですが、2度目の栃木県行きの時はずいぶん手痛い目に遭い懲りていたのです。痛い目というのは仕事を始めてすぐに連れていた次男ともどもお多福風邪のようなものにかかり、数週間寝込んだりして、結局一月ぐらいの間に20万円ぐらいだったかの借金を作りその時は弟に尻拭いしてもらったようでした。

 3度目の家出が平成3年の7月18日(17日のどちらか)になりますが、家出の度に彼女は有り金のほとんどを持ち出し、サラ金からの執拗な催促を残して行きました。これだけ見ればとんでもない悪妻で今時の典型のようですが、彼女がサラ金に手を出すようになったのは私がパチンコでお金を使うようになったことと、彼の父親が三国ボートに狂いサラ金に手を出し、マイホームの資金から娘である彼女の預金通帳にまで手を出したという問題が根本にある他、時期は思い出せないのですが彼女の母親も家出をして行方知れずになっていたことも大きく影響していたはずです。

 母親の家出についても男と逃げたとか、いろんな話しをしていたのですが何が本当なのか実態はつかめなかったのですが、今思うと彼女は本当に母親に見捨てられたかたちだったのかも知れません。初めてコンパニオンをしていることがばれた昭和63年の秋頃私に血ダルマになるまで殴られ、加藤整形外科に運ばれたとき駆けつけた母親は私を厳しく叱りつけていたのですが、その2,3ヶ月後ぐらいに失踪したように思います。このように彼女の両親にはだらしのないところがあり、娘に対する根本的な愛情や責任感も感じられなかったことから、私は彼女の両親をまともに相手にせず、正月も盆も実家に返すことはしなかったのです。

 本人に親だと思うなといい問題点を指摘することもあったのですが、彼女はひどくショックを受け、「分かっている、分かっているけと言わないで」と泣き崩れていたのです。一人の弟もいたのですが、私は彼女とのトラブルで一度弟を殴ったこともあり、相手が無口な性格だったこともあってほとんど話しをしなかったのですが、弟が金沢に出てきて中央市場で鮮魚の仲買の仕事を始めたのも私と仲良くなりたいという気持ちがあったのかもしれません。

 少しの間アパートに居候していて、その時は彼女も楽しそうだったのですが、私が仕事でいなかったこともあるのですがほとんど話したり、どこにも誘わなかったのも彼女らを傷つけていたのかも知れません。

 私がパチンコに狂うようになったのは出先の県外で時間を持て余すようになったことと、口取修や水谷、山田などの運転手仲間の影響も大でした。会社自体もパチンコオークラの駐車場と隣接していたので、仕事の待ち時間など気楽な会社の連絡先でもあったので、しょっちゅう行っていたのです。鮮魚の仕事は港での待機が長く、泊まりと呼ばれるものがしょっちゅうでした。

 一番多かった仕事は九州の博多港と宮城県の石巻、塩釜港からの定期便でしたが、九州はほとんどが泊まりで連休にあたると2,3日自由時間が出来たのです。博多港の場合は天神などの繁華街にも近く、歩いてゆける距離で、東北の場合は主に仙台市内でパチンコ屋に行っていたのです。基本的に定期便の得意先だったので現地の会社から現金の前借りをすることも度々でした。このいわゆる運行費の前借りだけで毎月20万円ぐらい給料から引かれていたのです。最初のうち会社は私に相談せず、少ししか引いていなかったので経済感覚がいよいよおかしくなり、妻の方でもお金がないとは言わず、ぼんぼんと私に現金を渡していたのです。

 これは結婚当初からA子が親戚にもらったと嘘をついて家具をローンで買っていたことがあり、自分の罪の意識をごまかすために私に同様のことをさせていたようでした。お金の計算が出来ないということと経済観念がなかったのです。彼女は当時まだ二十歳前でしたのでそれもあるのですが、私の方も経済的に苦しい時期を乗り切りようやく高収入を得るようになったので心に隙が出来ていたのです。

 市場急配センターの長距離の仕事などと較べれば遥かにきつい仕事だったのですが、中西運輸商での殺人的な激務を経験していた私は、金沢市場輸送の仕事などかったるく、現地についてもなかなか寝られず、時間を持て余したのです。

 他にも博多の市場では当時市場の中にトラックを止めて寝ていたのですが、活気のある市場なのでとてもうるさく寝付けなかったのです。その上市場の前にカモメ会館というパチンコ屋があったことが災いしました。

 A子が初めに家出したのは神戸でした。当時私の友人も神戸に住んでいたのでそのことも彼女の動機になっていたのかも知れません。コンパニオンのことで私に殴られたとき、私はそれに誘った近所の主婦のアパートまで血だらけの彼女を連れて行き二度とさせるなと断ったのですが、病院にはその主婦らのリーダー的、近所のマンションに住む主婦が来ていたのですが、その主婦の旦那はヤクザであるのでトラブルを起こすなとA子から言われました。

 1週間か2週間ぐらいだったか入院するように言われていたらしいのですが彼女は一晩で退院してきました。近所の主婦というのはいずれも同じ東力です。A子は一時期近所の40代ぐらいの主婦らとも付き合っていたようでした。実は本恒夫も同じ町内だったのです。本恒夫の夫人については見たことがないのでよく分からないのですが、A子の方は関心を持っていたようでした。その後借金のこともうち明けられ、仕方がなかったので暫くコンパニオンをすることを認めたのですが、その時のコンパニオンというのが増泉の会社(?)で、社長というのがなにかの事件で新聞に出たことがあり、A子に教えられたのですが、たしか名前が二つある在日朝鮮人だったように思うのです。

 近くまで来るまで送ったことがあったのですが増泉でも竹沢の家があるらしい野町に近いところでした。あるいはこのあたりからすでに竹沢の計画は進行していたのかも知れません。思い出しましたが、A子がコンパニオンをするようになったのは、その前にヤクルトの仕事をしていて集金のお金を自分らの支払いに回したことが大きな失敗につながったようでした。家計のことはしたくないというのを強制的にさせたのが間違いだったのかも知れませんが、極力嫌がっていたのをさせたのも主婦の自覚をもたせるためだったのです。

 それに私自身の不徳も重なって家計は破綻していったのですが、表面的には顕著に現れず生活レベルは下がらなかったのです。彼女はサラ金の借金の一部しか明らかにせず、私に不自由をさせるようなことはしませんでした。今思えば私の経済感覚もかなりおかしかったのですが、普通に考えて借金を借金でまかなう連続で金利ばかりが膨れていったようです。そして彼女は借金がばれて私に殴られることに戦々恐々とし、場当たりに支払いを続け、先に書いたような家族のことでも心を痛め悩み、自暴自棄になっていたようです。一方で明るい性格だったので私との生活は決して暗いものではありませんでした。

 金沢大学病院での精神鑑定の時、山口教授からなぜ離婚したのかと質問を受けたのですが、返答に窮しました。今はそれが分かります。答えは不信感であって、それは文さんとの関係においても同様のものであったのです。

 私の中では前妻との離婚に至るまでの葛藤が文さんとの葛藤に続いていたのです。子供の存在も大きかったと思います。特に長男の秀旭は生まれた頃から私によくなついていたのです。「ぼく、お父さんちゅき」と妙に力を込めて言い切っていました。

 そのように性格のはっきりしたところがありました。平成元年の夏頃だったと思います。当時私は北都運輸で市内配達の仕事をしていたのですが、朝が少し早く、終わるのが4時頃で直接家に帰ることが多かったのです。金沢市場輸送の会社には週に何度しか顔を出していなかったように思います。会社の仕事はしていなかったので特に出向く必要もなかったのです。

 その頃借金返済のため前妻はコンパニオンの仕事に夕方から出掛けていました。送迎の車が来ていましたがそれが4時頃で、たまに私が遅れるとその間二人の子供達は家に待っていることになったのです。そんなある日、家に戻ると長男と次男の二人が台所で、包丁を手に持って大根を切っていたことがありました。驚いたのと同時によほど腹を減らしていたのかと不憫に思いました。

 サラ金屋の若者が二人の子の手を引いて家から出ようとする私に、執拗に返済を迫ったこともあり、情けのようなものは一片もありませんでした。妻の借金状況を正確に把握したようとサラ金屋を回ったこともあったのですが、中には暴力団事務所のようなものもあり、妻がかなり多額の借金をあちこちで借りまくっていると言われ、それでも私より女の妻の方が借りれる資格は高いとも聞いたのです。

 貸す方は強気で後ろめたさなど一切ありませんでした。人の家庭などどうなってもかまわないという本性がむき出しになっていたのです。自分の見えないところで膨れ上がる借金は、実際の額よりずっと重く私に精神的負担を与えていたのです。その間隙に生じていたのが不信感であったと思います。平穏で仲のよいような家族生活と、狂ったように借金を続ける妻、この両極端な繰り返しが交互に私に煩悶を与えていたことは、今思えば文さんとのこととも実に共通しています。

 もともと前妻はあまりお金を使わない方だったのです。洋服や装飾品にお金かけることなどなく、食事面でも肉類も食べれなかったので粗食な方でした。知り合った頃は中西運輸商のトラックで一緒に運行に出ることが多かったのですが、そんなときでも食堂に入るとうどんか卵どんぶりか焼きめしぐらいしか食べなかったのです。一度だけ広島県の三次トラックステーションで定食を食べさせたのですが、そのことが妙に印象に残っているぐらいなのです。

 このことは昭和61年3月に結婚してからも変わりませんでした。中西運輸商を辞めた直後に結婚したのですが、会社を辞めた理由が120日と90日だったかの二つの免停が一度にやってきていたからで免許がない以上満足な給料も期待できなかったので辞めたのです。辞めたときの給料も一月まるまるで数万円でした。はっきり思い出せないのですが3万5千円ぐらいだったかも知れません。

 なぜそんなに少なかったのかというと中西運輸商の会社の特徴でありとあらゆるものを差し引いたからです。仕事自体もきついものでしたが実に非情なものでした。社長は給料袋を手渡すとき自分は中身を見ていないと言っていました。会社の規則に従った給料だと言いたかったのかも知れません。実に厳しい会社でしたが、それによって得たものも大きかったように思います。

 つまり長距離の仕事がよくできるようになったということですが、これが開花したのが金沢市場輸送だったのです。中西運輸商では他の運送会社と仕事内容が格段に違いました。感覚が違っていたと言った方がよいかも知れません。一週間に福岡二便に広島二便の4便を走ったこともありました。これだけでも普通の会社では殆どないことなのですが、佐川急便でのホーム作業が長時間でもあったのです。

 仕事はほとんどが佐川急便の仕事で九州と広島便でした。直接佐川の下請けであったわけではなく、広島の西日本運輸興業という会社の下で仕事をしていたのです。この会社はのちに倒産し、同じ佐川の仕事は九州運送がするようになったそうです。

 このあたりに人脈を掴んでいたのがYTでしたが、彼が中西運輸商に入社したのは夜間のホーム作業のアルバイトに来ていた彼を私が誘ったのが始まりだったのです。60年の秋頃だったように思います。そして私が辞める一月ぐらい前にはオジコも私の勧めで再度中西運輸商に入社したのです。

 YTとオジコの付き合いもこの頃からのものであったと思います。前妻の話ではこの○○○○○○をしていたのが○○○という話しでした。YTが金沢市場輸送に来た頃、彼はまだ松任のはずれのオレンジ団地というところに住んでいたのですが、金沢市場輸送に来てまもなく、市内の黒田に転居したのです。

 そのアパートの数十メートル先に58年頃から住んでいたオジコのアパートがありました。<省略>オジコは私が中西運輸商を辞めた後数ヶ月で辞め、その後、輪島屋鮮冷と守田水産輸送の間を何度か行ったり来たりしていたようでした。平成2年の5月頃の筍の時期、中央市場でYTとオジコと顔を会わせたことがあったのですが、オジコの方が私を意識していたようで全く目を合わせようとはしませんでした。

 あるいは平成元年だったかも知れません。<省略>金沢市場輸送に来てからYTとはあまり付き合わなくなりました。離婚して会社のに近くで一人でアパートを借りたようなことも聞いていましたが一度も遊びに行くことはありませんでした。YTが来たのは私が新車の時から乗務していた7599号を降りる直前だったので63年の12月の終わり頃だったと思います。最後の方の運行でYTを乗せて宮城県の石巻港に行ったことがあったからよく覚えているのです。当時免許取消中だったYTがトラックの運転をしたがったのですが、させなかったことが彼にはかなり不満だったようです。石巻のハローマックに着いてトラックの中で寝たのですが、雪が降る時期の早朝に彼はクーラーを掛けていて私は寒くて目が覚めたのです。

 中西運輸商を辞めた頃の話しに戻りますが、一番お金がかかるような時期に免停になり、給料も満足にもらえなかった私は、近くの高田舗装という会社でアルバイトをしました。春先で一番忙しい時期だったので仕事は昼夜に及んだりしました。正社員になることを勧められていたのですが、免許が戻ったら運転手に戻ると決めていた私は断っていたのです。それもあってか少し暇な時期に入ると暫く連絡するまで休んでいてくれと言われ、それっきり2週間ぐらい連絡がなかったのです。給料の方も初めの取り決めより日当が安く、深夜などに出た残業もほとんど付いていなかったように思います。社員からは男気のある人夫出の社長のようなことを聞いていたのですが、その後近くの雑貨屋で偶然出会ったときなども後ろめたそうに愛想笑いをするなどせこい感じがありました。その社長の家というのは八日市にありました。入社した頃の松平の噂でも押野とか八日市あたりに住んでいるという話しでした。些細なことのようですが、このようなことも私の意識の中では共通点があり、影響を与えているのです。

 その社長の姿を見て会社の経営とはなりふりも構わず非情に徹しなければならないものかと私は感じ、そのことが私と文さんの関係について松平がとる曖昧な態度の解釈に微妙な影響を与えていたのです。

 こんな折りに私の前に現れたのがかつての友人安田敏だったのです。彼の方から訪ねてきたように思うのですが、数年ぶりの再会でした。前年の夏頃に安田敏が金沢市場輸送で市内配達の仕事をしていると耳にした私は、中西運輸商のトラックで金沢市場輸送まで行き安田敏のことを尋ねたのですが丁度少し前に辞めて岐阜に行ったようなことを聞いていたのです。

 思えば安田敏が私の元に訪ねてきたのはその年すなわち昭和60年の12月だったかも知れません。それ以来ちょくちょく付き合いがあり、61年の6月2日に長男が生まれて一週間後ぐらいに私は安田敏が働く岐阜県海津町に行ったのです。山下工務所というところで建築のアルバイトのようなことをしていたのですが、それが本来の目的の仕事ではなく、9月から12月の初め頃まで続くライスセンターの仕事をする約束だったのです。

 3月ぐらいで120万円ぐらいだったかの給料と出稼ぎ手帳による失業保証金がもらえるという話しだったのです。結局私は8月の20日頃に辞めて戻って来たのですが、出稼ぎの元締めのような存在であった富田という親父がライスセンターの仕事に私の枠がないようなことを言いだしたことで私の方から身を引いたような一面もあったのです。富田というのは珠洲市正院の者でずいぶん前から出稼ぎの仕事をし、若者を珠洲を中心に集めてライスセンターの仕事をさせる人夫出しのようなことをしていたようです。

 山本工務所の仕事というのも農協に対するサービスのような側面があったそうですが、人がいなかったので苦し紛れに安田敏に私にもライスセンターの仕事をさせると行っていたようでしたが、いざ時期が近づくと定員が一杯で困っていたようでした。はっきり断られたわけではなかったのですが何となく避けるような帰ってもらいたいような態度が感じられました。このようにライスセンターの仕事は人気があり、珠洲以外では採用しないのが原則だがその例外が自分だったと安田敏は話していました。この時は二度目のライスセンターで、一度目というのが金沢市場輸送を辞めた直後で、この仕事のために辞めたものと思われます。

 智を紹介したのは○井光雄であったと考えられます。この終わり頃に珠洲から二人の若者が来ていたのですが、そのうちの一人で当時ソアラの新車に乗っていた人物が、後にトナミ航空の社員として働いていました。そして岐阜から戻った私がすぐに働いた先が金沢市場輸送で、長距離ではなく市内配達の運転手として働いたのです。これは当時免許の点数が全然なかったことと、大型免許取得のためでした。点数が戻れば長距離の仕事に移る予定でした。

 そして市内配達をしながら試験場に通い9度目ぐらいに大型免許を取得したのです。丁度誕生日の翌日で11月27日の合格でした。この頃にも市内配達の合間にちょくちょく長距離の仕事にも臨時で走っていました。大型を取ってからはポンコツのイスズの10トン車で名古屋にミールを運ぶこともあり、市内配達はしなくなり、浜田漁業金沢工場から松任の日通の倉庫までミール移動をしていたのです。この頃一緒に仕事をしていたのが田舎の先輩の一人で、私が金沢市場輸送に勤める以前に高卒直後に勤めていたこともある蛸島のTSさんでした。彼も当時は免許取消中で、免許を取り直してまもなく前にいた新田商店という金沢港の魚屋に戻り、二、三年後に自殺したのです。

 この自殺についても金沢市場輸送との関連の可能性が全くないわけではありません。ただ不幸な結果になって以来、誰もが話題にすることすら憚っているという現実を体験しました。無関係であったにせよ、このことが連中の計画立案について参考になったことは考えられます。水産高校を出た直後に、金沢市場輸送に働いたと聞きますが、同じ水産高校を出て中央市場のウロコ水産に入社したのが安田敏でした。彼らの間にどの程度の付き合いがあったのかは不明ですが、同じ高校の数少ない同級生同士だったと言うことは確かです。因みに蛸島のTSさんは年齢的には安田敏より一つ上になります。一度別の高校を辞めてから水産高校に入学したからです。蛸島のTSさんは蛸島の出身で、浜田漁業でも働いていたことがあるそうです。金沢市場輸送と蛸島の浜田漁業の関係は濃く、私が初めに入社した当時の配車係が北浜太一という男で、その後金沢市場輸送を辞め蛸島に帰って浜田漁業配車係をしていました。

 彼には弟がいて、弟の方も金沢市場輸送で大型の運転手をしていたのですが、事故で免許取消となり、その後浜田漁業金沢工場で倉庫の作業員をしていました。金沢市場輸送がミールの仕事をするようになったのも私が中西運輸商にいる当時で市内配達と同じぐらいだと思われます。その前からも少しの仕事はあったのかも知れませんが、本格的に始めたのはその頃からです。ミールの仕事というのは浜田漁業の持つ、蛸島丸という船団が金沢港近辺を中心にイワシを捕り、工場で加工して魚粉の肥料にしたものです。昭和63年の暮れには北海道の釧路から進出した北陸ハイミールという工場が完成し、金沢市場輸送ではそこの仕事もするようになったのですが、この仕事は山三青果同様市場急配センターが請けて、その下請けで金沢市場輸送が仕事をするスタイルとなっていたのです。

 この件で文さんもミールの仕事には関与していたことが考えられるのですが、その過程で会社にとってはまずい情報を知るところとなり、連中に命を狙われたことも可能性の一つとしては考えられなくはないのです。したがって簡単には切り捨てることの出来ない事柄の一つなのです。ハイミールでは輪島丸という輪島の船団を使っていたのですが、蛸島丸からイワシを買うことの方が圧倒的に多かったようです。

 平成2年のイワシの時期に市場急配センターから出張員のようなかたちで出向いていたのが小○○一という男でした。元警察官で白バイ隊員もしていたそうです。金沢市場輸送に入社したのは私が二度目に入社した頃だったと思います。あるいは松浦などと同時期だったかも知れません。

 初めのうちは目立たない感じで、会社の雰囲気にもそぐわない感があり、正式な社員ではなくよそから出向しているのではないかと感じていたことは、当初の文さんに対する私の個人的な見方と実に同じでした。彼と親しくするようになったのも一緒にイワシの仕事をするようになってからで、彼も池田同様いつの間にか金沢市場輸送ではなく、市場急配センターの社員になっていたのです。警察官時代の彼は熱血漢で、私用の乗用車にまでサイレンを登載し、それで取り締まりを行い、注意された上司と口論なり、警察を辞めたと話していました。こんなことならばそれほど珍しくない話しだったのですが、イワシの仕事をしていたとき、父親は最高裁の判事だと聞き、当時最高裁が日本に一つしかない裁判所とは知らなかった私ですが、やはり半信半疑でした。金沢市場輸送の事務所で竹沢本人もこの事実を肯定し、判事の父親と自分は旧来から友人であるとも自慢そうに話していました。このことが下地にあったこともあり、丁度一年半後ぐらいに文さんの父親が弁護士であると聞いたとき、それに比較すればありそうなことだと思い、容易に受け入れた嫌いがあったと思います。小○はまた群馬に実家があり、巨大な梅林を所有しているなどとも話していました。

 金沢市場輸送にいるのも父親が若いうちの社会勉強の一環として勧めたような話しでした。そんな彼がイワシの仕事では焼酎のボトルを飲みながら車を運転し、始終酔っていました。自宅の玄関先には何度か行ったことがあったのですが、顔も見ず、帰ってくれと言われたのは彼の妻が初めてでした。この妻の態度も安田敏の妻の態度に共通点がありました。小○が会社を辞めたのは平成2年の6月頃でYTらと同じぐらいが少し早いぐらいだったと思います。文さんもその時期にはすでに会社にいたと思うのですが、二人を同時に会社内で見た記憶は私の中にはないのです。

 父親が病気になったとか家庭の事情で退社するような話しだったのですが、一人寂しく消えていったような去り方で、それより当人に嘘がばれたようなそわそわした落ち着きのなさのようなものが感じられたと印象に残っています。会社を辞めることに気が引けていたのかも知れませんが、逃げ去るような気配が伝わっていたのです。その後一度だけ偶然に彼に会うことがありました。平成3年の2月か3月だったと思います。その時私は、富山の魚津から積んだYKKのアルミサッシの荷物を熊本県の八代市内で降ろし、翌日鹿児島市内の市場から白菜を積んで翌日の夜中に長野市内の市場に卸し、空車で古河の山三青果に向かう途中、翌日の朝、群馬県の前橋市内の国道50号線上でバイクに乗った小林に声を掛けられたのです。彼は私の姿を認め引き返してきたような話しでした。信号待ち中の話しだったので短かったのですが、確か桐生市の方に住んでいるようなことを聞いたような気もします。

 小○と並んで、いえ、より以上に不審な人物が竹林です。もともとの奥の方に家があり、その自宅の方にも一度遊びに行ったことがあったので、小○ほど素性のはっきりしない男ではないのですが、彼も平成2年のイワシの時期に私と一緒にイワシの仕事をしていました。もともと長距離の運転手をしていて、私が二度目に中西運輸商に行く直前すなわち昭和62年の1月頃に金沢市場輸送に入社していたのです。

 一見して坊ちゃんタイプというか童顔でもあり、トラックの運転手という感じではありませんでした。年の方は私より二つ年長で水谷○○○と同じでした。生意気なところもありましたが長距離運転手時代から親しくしていました。彼は高校卒業後、石川トヨタに入社し、6,7年ぐらいいて辞めたような話しでした。長距離に乗るきっかけというのは結婚資金を貯めるためだったそうです。実際長距離時代の彼は、徹底した吝嗇家で食べるものも満足に取らず、仕事をしていました。

 それで数十万円だったか百数十万円の指輪をプレゼントしたという話しも社内で知れ渡ったいました。相手の女性は、一度も見たことはなかったのですが、珠洲市の正院の出身のようでした。なにか貧乏というか生活の楽ではない家庭で、父親もいないような話しだったように思います。

 そのためずいぶんな援助をしたと彼は後に話していました。彼の話では恩義を掛けたのに失礼なことを言われ許せなかったので別れたような内容だったと思います。その女性と別れてから彼は一変して金遣いも派手になりました。

 そんな頃に丁度一緒にイワシの仕事をするようになったので私も彼にはずいぶんおごってもらいました。スナックに飲みに行くことも何度かあり、片町に行ったことも一度ありました。すべて彼の奢りで、私が出すというと「お前は遊び人でないので出す必要はない」などと独自の哲学のようなものを語っていました。このように頻繁に奢ってもらったことは丁度一年前の大西真と似ていました。両方ともイワシの仕事で、イワシの仕事は船の都合で待機する時間が長く、暇を持て余す反面、夜中でも連絡があれば仕事に出なければならず、それもいつ終わるのか分からず、始終仕事に拘束されていたのです。イワシが捕れる以上は延々ととり続けるというのが基本的方針で、一度ミール製造の機械を止めると70万か80万円の損害になるという話しもありました。それだけ一緒にいる時間が長かったともいえます。

 松平が入社した当時から、依然石川トヨタで営業の仕事をしていたと聞いていたのですが、この話しは竹林からも裏付けられ、部署が違ったが松平のことは知っていたと話していました。そして松平が競馬に狂い、会社の金を横領したことも話していました。この横領の話しも松平が来てまもなく誰かから聞いていたように思うのですが、これも第三者によって裏付けられた感がありました。たぶん初めに聞いたのは水谷からだと考えられます。水谷も昔ブローカーをしていたそうでした。あるいはその当時から松平のことは知っていたと話していたかも知れません。竹林の方もブローカーをしていたらしくオークションの権利を今でも持っていると話していました。彼らに共通するのは車のブローカーという仕事です。

 前に私の友人と笹田のトラブルのことを話したと思いますが、友人の話ではその筋で最高実力者の人物から圧力が掛かったので、笹田のことにはもう手が出せないと聞いたのですが、これも松平が中に入って手回しをしたと考えるのが最も自然な解釈だと思います。中○と一緒に市場急配センターで仕事をしていた「河村(又は川村)」という人物も依然ブローカーをしていたと聞きます。この河村という人物の方が中○より先輩で、松平の元で仕事をする話しを取り決めたような様子でした。河村というのは私と同じ宇出津の者のようですが、年の方もだいぶん上で、面識はありませんでした。

 竹林は反会社的で竹沢や会社の悪口を頻繁に口にし、話していたとおりイワシの仕事が終わるとすぐに辞めていったのですが、それも演技だったのかも知れません。また、彼女と別れた直後に、竹林が池田と肉体関係を持ったという噂も社内にありました。このことも池田の信用性に疑問を持たせていたのです。竹林は水谷よりさらに年上だったかも知れません。

 小林よりは下だったと思います。小林は平成2年当時で27才か28才ぐらいという話しでした。また、イワシの仕事が暇になった時期だったので4月頃になっていたと思うのですが、小林が会社に頼まれてコンピューターの入力をしている。しても一銭の手当にもならないが他に操作できる者が会社にいないので自分に回ってくるとぼやいていたことがありました。このことから考えると文さんはまだ入社いていなかったのかも知れません。

 文さんのお母さんの供述調書では、確か平成元年の11月頃に入社したような話しだったのですが、それは私にとっては明らかに考えられないことです。文さんが入社したのは竹沢夫人の親戚の税理士が入社した2,3ヶ月後ぐらいだったと思います。その年のゴールデンウィークに片山津温泉の「ホテルやがやま」で行われた慰安会にも文さんの姿はありませんでした。

 なお、この慰安会の時に、金沢市場輸送の輪島の連中と市場急配センターの口取修や中○や山○シンイチさんらがケンカになったと聞きましたが、私は宴会場を離れて寝ていて、夜中に輪島の連中に起こされて一緒に金沢に戻ってきたのです。両方ともが自分らが勝ったような話しをしていたようですが詳細は不明で、その存在すら疑問があると私は考えています。

 この時に繁克が活躍したという本人の話もありましたが、輪島の連中の屈強さを考えれば大いに疑問です。シンイチさんであればボディビルに近い体格なので簡単に負けることは考えにくいのですが、そのシンイチさんも地元の海士の連中からすればたいしたことがないと噂に聞いていたことがありました。

 因みに高校時代、水産高校のその年代では彼が一番ケンカに強いと聞いていたのです。その一つ上にも輪島の人がいて一番強いと聞いていたのですが、輪島に帰るといつもいじめられていると聞きました。海士の連中が強いのは集団行動を取るからだと聞いていましたが正確なことは分かりません。中○も輪島の連中に暴行を受けたことがあると耳にしたことがあります。珠洲の人間も基本的に宇出津などの者を嫌っているようですが、輪島の連中も周辺の者に嫌われているそうです。しかし、○○も初め輪島の者は嫌いだと強い口調でいいながら、その後金沢市場輸送の輪島の連中とは仲良くしていました。

 彼らの間にどの程度の付き合いやつながりがあったのかは不明ですが、水谷が以前小木の漁船に乗っていたことから中○や浜口卓也とは顔見知りであったことは確かなようです。水谷が以前トラックに同乗させていた人物で「エイチャペ」と呼ばれる者がいたのですが、彼は以前福島組に所属していたと聞きます。指も何本か落としていました。昔の噂では海士で一番ケンカが強いと耳にしていたのですが、水谷に話すと大笑いで否定していました。

 松平が以前石川トヨタに勤めていたという話しは、竹林の他、平成三年の八月に市場急配センターに入社した人物からも聞きました。名前の方がすぐに浮かばないのですが、松平のかつての同僚のようで、たまたま競馬場だったかで再会したことがきっかけで市場急配センターに誘われたそうです。彼も松平と同じように会社の金を横領したことで石川トヨタを辞めたと話していました。10月か11月頃、石川丸果 の倉庫で馬鈴薯の積み込みを手伝ってもらっていたときに彼の方から話してきたのですが、彼はすでに松平の横領の話しを私が知っていることを当然の前提として話しを進めたのです。松平本人の話では石川トヨタを辞めてから市内黒田あたりで中古車販売の仕事を1年2年ぐらいしていたが儲からないので辞めたという話しでした。また、私に車を買い換えることを再三勧め、一度は新型車のカリーナを試乗車として持ってきたこともありました。丁度平成元年の秋頃でした。彼の方で私の信用調査をしたらしくローンを組むことが妻の借金で難しいと知ったようで、彼の態度は一変して、それ以来車の話しはしなくなりました。

 前妻との結婚生活において一番平穏で懐かしいのが、昭和61年の秋でした。中西運輸商では些細な事故でも給料が半分以下になるなど生活の安定性などまるでなく、一度運行に出ればいつ戻れるか分からず、金沢に戻ったとしても家に寄ることも出来ず、木越の佐川急便から折り返しの運行に出ることが毎度のことでした。1年3ヶ月ほどいた間に運転手の中で継続勤務が2番目に長くほど人の出入りが激しく、また、運転手の大半は地元ではなく、九州の人達で仕事の内容上その方が家に帰れるそうでした。ようやく落ち着いた先が、たまたま思い出して電話を掛けた金沢市場輸送だったのです。

 その当時の配車係は藤村という男でした。19才の時金沢市場輸送にいた私のことはよく知っていて、かなり印象が悪かったらしく、なにかあったらすぐに辞めてもらうという条件を何度も念を押されての入社だったのです。

 当時は暴走族のようなことをしていた少年時代の延長のようなところがあったので、態度も口も悪かったようでした。辞めるときにも事務所の机を蹴飛ばして怒鳴りつけたりしたことがあったのですが、それで2,3日出勤しても無視されたので自然に行かなくなって辞めたのです。

 免停が来ていたことも一つの理由でした。この時も竹沢は情けない感じで何も言わずに黙っていたのです。事故処理のことで会社側の方に問題があったので腹を立てたのですが、確かに私の方にも問題があり、会社の対応はいわば常識的であったといえます。この時金沢市場輸送を辞めてからは一時北海道で働きたいと思い実行したのですが、まともな就職先がなく賃金レベルも金沢とは比較にならないほど低かったので二十日ぐらいで札幌で知り合った二人を連れてその中の一人の車で金沢に戻ってきたのです。

 戻ってから暫く土方のアルバイトをし、免停が明けると同時に中西運輸商に就職したのです。仕事がきつく飛ばすことで有名だったので敢えてそのような会社を求めて入社したのです。思った通り厳しい会社でしたが、魚屋というか水産輸送の名残も残っていて気楽な面もあり、辞めたいと思うこともあまりなかったのですが、長期の免停や先行きの生活不安で辞めたのです。休みも何も要らないからどんどん走らしてくれと社長に頼んでいたぐらいだったので当時の私はやはり変わっていたようです。

 いくら飛ばしても自由だということも魅力で、当時は飛ばすことが好きだったのです。勢い何度も危険な目にあったのですが、幸い大きな事故を起こすことは一度もありませんでした。この性格は次第に治まっていったのですが63年頃まで続いていたように思います。当時は4トン車だったのですが、長さも大型車と変わらず、高さは大型と同じ最高の3.8メートルのトラックに乗務していたのですが、本来押水町の優水化成という発泡スチロールの製品を作る会社の仕事をするために作ったような大きな4トン車で佐川の荷物を満載にして走っていたので重量の方も大型より床が低い分だけよけいに乗るぐらいでずいぶん負担の大きい重量オーバーで走っていたのです。

 そのため月に2,3回づつぐらい高速道路でタイヤが爆発していました。タイヤの取り替えも自分でするのが社長の絶対命令だったのでずいぶん危険な場所でタイヤ交換をしたりしていたのです。爆発するのをバーストというのですが交通量の多い名神がほとんどで、東名高速の名古屋インター付近でも前輪がバーストしたことがあり、一度に二本バースとしたこともありました。それをおもちゃのようなジャッキでトラックの下にもぐって作業していたのですから大変危険だったと思います。居眠り運転もしょっちゅうでした。
〉〉〉:Linux LibreOffice: 2023-09-29 03:10:48 〉〉〉
 東名高速の名古屋インター付近で前輪のバーストは、金沢市場輸送の大型保冷車7599号という記憶。中央自動車道との分岐点付近だったような気もする。
〈〈〈:Linux LibreOffice:2023-09-29 03:12:17 〈〈〈

 居眠りでぶっけたことも何度かありましたが、不思議なぐらい大きなことにはならなかったのです。端から見れば私は世間知らずで命知らずの馬鹿者であったに違いないのですが、会社の評価も高くよく仕事をすると褒められていました。

 佐川急便では会う相手すべてに挨拶をしなければならないなど、本来の仕事以外でも厳しい面があったのですが、それも次第に日常化していたのです。運行の途中にも何度も会社などに連絡を入れなければならない特徴もあり、この特徴も長い間私に残っていたようです。好きな運転手の仕事に戻れた私はごく普通に与えられた仕事をしていたのですが、別人のように真面目になったと金沢市場輸送でしきりに評価されるようになりました。そうなるまで時間はそれほど掛からなかったと思います。

 反面で他の運転手からすれば面白くないところもあったかもしれません。私を持ち上げて他の社員を利用するようなところも金沢市場輸送の特徴だったのです。私が大型の長距離に乗務するようになってからはバブル景気のもあって仕事量は増えて、運行内容も変化して行きました。例えば九州便でも一泊して帰るのが普通の運行なのですが、私は折り返しを強く希望し、それが当然とも考えていたので次第にそのようなことも増えていたように思います。

 本恒夫に配車が替わったことも最大の違いだったのですが、私の存在も他の運転手に影響を少なからず与えていたと思います。何時タイヤが飛ぶか分からず、スピードも出せず、バランスが不安定なトラックで厳しい時間制限の中九州まで折り返しの運行を繰り返していた私が、安定性のよく視界も広い大型車で仕事をすることは以前とは考えられないぐらい楽だったのです。

 中西運輸商ではたとえ泊まりでも何時荷物が出たという連絡が入るか分からず、佐賀県の鳥栖市という田舎のスタンドにずっと待機させられていたので、次の仕事が決まっていることも精神的にずいぶん楽でした。飛ばすことも好きだったのでどんなに急ぎの仕事でも苦にならず、却って熱が入ったものです。

 給料の面でもずいぶん楽になりました。当時の私にすれば金沢市場輸送はいいことづくめの会社でもあったのですが、他社に比較すれば条件が良いとは言えないことも分かっていました。一番持て余したのが泊まりの時間でした。これがパチンコをするようになった原因であることはすでに書いていると思います。さらに借金の問題が出て、毎月かなりの額を支払わなければならないと言う精神的負担が向こう見ずだった性格に変化を与え、雪の東北のアイスバーンでスリップしたりしたことも単なる事故以上に生活の問題として恐れるようになったのです。山形では10月の10日過ぎに橋の凍結で車体が斜めになって蛇行したり、鹿児島の高速道路でも140,150キロの最高速度で走行中橋の凍結でスリップしたりしました。

 反面でトラックの運転にもすっかり慣れ、初めに7599号で松山に行ったときに居眠りをして以来、以来金沢市場輸送の仕事で居眠りをすることもほとんどなくなっていました。それより生活面での不安や前妻との問題でがより堅実なローカルの仕事を希望するようになり、冬場はイワシの仕事をしたり、日通や北都運輸のローカルの仕事をしたのですが、これも本恒夫の采配によるもので、感謝すべき面もあったのです。本恒夫とは運転手の中で私が一番よく話していたかも知れません。彼も仕事と家庭以外には楽しみのない男で私に共通するところもあったのです。本恒夫が中西運輸商に戻った私を会社に戻すために説得に来ていたこともすでに話していると思いますが、その私にすぐに新車の保冷車に乗務させたのが竹沢だったのです。

 当時の運送会社では現在と違って古株の運転手が新車に乗務し、早くても5年ぐらい会社にいなければ新車に乗れないような社風があったのです。本来ならば運転手の中からも反対の声が挙がりそうなのですが、ほとんどの運転手と仲良くしていたこととよく仕事をすると認められていたので文句を言う者はいなかったようです。

 仕事にも運転にも自信を持っていたので周りのことも気にならずにいたのかも知れませんが、このような状態に持っていったのも竹沢の老獪な状況操作が影響していたと考えられます。逆に私と入れ替えのようなかたちで中西運輸商から金沢市場輸送に来た河野はポンコツのトラックを親不知でぶっけただけで長い間ぼろくそに言われ、平成三年の春まで6年ぐらいも新車を与えられなかったのです。

 他にも会社に対し、反抗的な態度などがあったようですが、それは外見上で示し合わせたものであったのかも知れません。彼も私たちの事件に関して一応の注意を要する人物の一人なのです。7599号には昭和62年の4月から63年の12月の末まで乗務していました。水谷や山下、竹林らと仲良くし仕事をしていて楽しい時期だったのですが、私生活の面では次第に悪化していったのです。

 仕事から帰ると妻が子供を残していなくなっていたり、財産をほとんど持ったままの家でも何度かあり、一時的な家出も何度かありました。それにつれて前妻に対する不信感も増幅していきました。一度出れば暫く帰れない長距離の仕事上、仕事に響く負担も私には大きかったのです。このことは文さんとの関係にも極めて強く影響を及ぼしています。

 何度も文さんの自宅に電話を掛け、清算を求めたのも同じ轍を踏みたくないという気持ちが強かったからだと思います。逆に言えば会社の連中は、普通の仕事をしている人には分からない長距離の仕事上の問題点を巧みに利用したとも言えます。

 わざと話の内容の違う仕事を指示したり、嘘をつくことが何度かあり、私が休みたいと同時に当然に休みが期待できる状況に置いて、敢えて次の仕事を指示することもありました。具体的なことは書くと長くなるのでやめておきますが、事実については事細かに裁判の資料の中に記載してあります。

 例えばクリスマスの日に東京に行くことを指示されたのですが、詳しいことは分からないのですが私より文さんの方がショックを受けたようでした。本恒夫もクリスマスの日に二晩続けて羽咋郡の富来の港にイワシを積んで泊まらせるなどどうでもいいような仕事を敢えて私に与えたようなことがあり、この時は蛸島の浜田漁業の仕事で北浜太一がしつこく念を押して富来の仕事を私にさせたのですが、家庭持ちの私に敢えてそのような仕事をさせることはやはり普通ではなかったと思います。

 このあたりが微妙な線ですが、他のゴールデンウィークでも敢えて集中的に仕事をさせられていたのですが、こちらの方は他の社員が休みを取ったしわ寄せと筍の忙しい時期であったことを考慮すればそれほど不公平でもないのです。盆も正月も他の仕事から較べれば最低限の休日だったのですがこれも仕事柄仕方がなく、他よりも一日ぐらい休みが少ない程度でした。本来ならば運転手の家庭のことも考慮して仕事の割り振りをすべきはずなのですが、金沢市場輸送でも逆にそれを悪用したような嫌いもあったのです。

 平成二年の正月前だったかにも本恒夫に九州に行けと命令されたのですが、その言い方もぞんざいだったので、私も怒って断ったのです。以前は基本給の他荷物を積んだ走行距離のみの歩合だったのですが、他の運転手の失敗で九州まで空荷で魚を積みに行ったときも、空車なので会社は一銭の手当も付けず、高速代すらまともに出さなかったのです。もっと不合理なことが沢山あったのですが、それらは徐々に改善され、東渡が来てからはもっと良くなったように思います。

 一番良くなったのは高速の利用頻度が高くなったと言うことです。59年当時は鮮魚の仕事でも東京まで大半を下道で走らされたのです。空車の場合高速に乗れないことも徹底されていたのですが、本恒夫が配車をするようになって話し合い如何で状況に応じて乗れるようになりました。

 給料も次第に上がり、平成になってからは冷凍車(保冷車を含むが当時はほとんどが冷凍車になっていました。)で手取りで40万前後、多い月で43万円ぐらいの手取りがありました。総支給の明細は税金対策のため正確ではないという話しでしたが、50万円を超えたことは一度ぐらいあったかないかぐらいだったと思います。市場急配センターでは50万円の基本給でしたが、手取りでは40万にみたず、38万円ぐらいだったと思います。

 仕事の内容は金沢市場輸送の方が格段に濃厚だったのですが、62年当時ではその時の方がよく仕事をし、高速の利用も少なかったのに36,7万ぐらいの手取りだったと思います。

 私が一番懐かしく出来るならば出直したいと考えていた時期が61年の秋頃なのですが、当時の私の仕事というのは早朝にマルエーのスーパー松任・寺井などのに魚を配達し、午前と午後の二便で青果の仲買の荷物を片町・小立野方面に配達する仕事だったのです。市内配達の仕事だったので手取り収入も安く、あるいは16,7万円程度だったように思います。

 子供のミルク代にずいぶん気を使った覚えがありますが、スーパーで安いものを選んでなんとかの生活でした。車を一方的にぶつけられた時でさえ、非常識な相手の中年に強い態度をとれなかったぐらいに守りの生活になっていたのです。余裕がないので家計の方は私がやりくりしていたのですが、前妻も不服を見せることはありませんでした。

 まだ車のローンも残っていたと思うので切りつめても毎月2万円ぐらい竹沢夫人の前借りしていたと記憶にあります。竹沢に中西運輸商に戻るのでやめたいと申し出たときには、すがるような反対の上、100万円この場で渡すから翻意してくれとまで言われたのです。それでも慢性的な金欠を打開するため、収入の良い大型車に乗務するために中西運輸商に行きました。

 昭和62年の1月の後半だったと思います。4月まで2,3ヶ月しかいなかったのですが、この時には23日ぐらい一度も金沢に帰れないことがあり、23日ぶりぐらいに家に帰ったときも朝大阪に荷物を降ろしてから夕方に富山の佐川急便に九州行きの定期便を積みにはいるまでの間で日中の数時間でした。

 それから2度ほど九州に行って1月弱ぐらいで一晩家にいれる休みをもらったように思います。この休みというのは普通の仕事をしている人が夕方に家に帰って翌日にまた出勤するのに似たようなものです。

 中西運輸商の仕事を知っている前妻も不安感を募らせていたようでした。刑務所にいることを考えれば比較にならない話しですが、普通に生活することを考えればやはり異常でした。そんなこともあり、配車係の一人もやめることを勧めたので金沢市場輸送に戻ったのですが、その配車係は名前は忘れたのですが本恒夫とも仕事上仲良くしていたようでした。

 そんな関係で7599に乗務してからも(金沢市場輸送のトラックで)、中西運輸商の仕事で佐川の仕事をしたことがありました。この頃になると中西運輸商もすっかり佐川の傘下になり、特訓道場のような佐川の教育もやらされ、それも私にはなじめなかったのです。街頭で大声を張り上げさせられる予定も組み込まれていたのですが幸い雨で中止になったのです。この頃には金沢の運転手も結構いて先に書いた桐畑からの移籍グループもそうだったのです。

 やめたときにも中西運輸商の社長は愛想が良く、給料も手取りで36万円ぐらいありました。金沢にあまり戻れなかったのは九州から大阪・中京方面の佐川の営業所間の往復をやらされていたからです。九州で朝荷物を降ろした夕方に滋賀県や大阪で荷物を積み始め九州に向かうという運行スタイルも他にない特徴でした。運行が長くなる原因が三角運行と呼ばれるもので、例えば九州から東京に行き、東京から金沢に帰るというスタイルですが、これならば長くても一週間ぐらいで家に帰れるのです。

 金沢市場輸送では長くてもその程度だったので1週間以上家を空けるということは殆どなかったと思います。市場急配センターでは泊まり自体がほとんどなく、経験したのは1月の終わり頃に池袋、2月の初めの福岡、2月の中すぎの四国、3月の20日頃の清水から向かった古河での泊まりの計4回しかなかったのです。

 これは半年で金沢市場輸送の一月分にも満たないぐらいでした。松平も私が泊まりを嫌っていることは熟知していたはずで、私からもそのように話していたと思います。泊まりが嫌になったのも家庭での不和が少なからず影響していると思います。狭いトラックの中で知らない土地で一人で丸一日をつぶすことは体は楽ですが、誰だって嫌なことだと思います。仕事だから我慢していましたが敢えて必然的に繰り返す必要は高くないことだと次第に意識が変わっていったのです。

 市場急配センターに移った当時の私の仕事も、早朝の小松方面へのマルエーの青果物の配達の後は、偶然なのか故意なのか、昔と同じ片町・小立野方面の配達でした。安田敏の方は根上だったのでその間にも話しをする時間はかなりありました。午後は免停中の多田敏明に替わって内灘・高松方面の配達に行っていたようでしたが多田敏明を同乗させて一緒に行くことも多かったようです。

 私の方はたまに大野やその友人で夏休みのアルバイトに来ていた高校生の少年を同乗させることがありました。どちらも安田敏の方が仕事量も少なく早く終わっていたので安田敏を午後の配達に付き合わせることも何度かありました。安田敏と岐阜で別れた直後に始めた仕事を同じように始めたことは昔のことを意識せずとも意識させるものがありました。

 その頃の私はようやくサラ金や妻の家出のことも落ち着いたと一息ついた気持ちと、長男も来年からは小学生なので心機一転がんばらなければならいという新たな気持ちだったのです。そこに晴天の霹靂のような妻の家出が発生したのは7月の18日のことだったのです。この時の私の衝撃は、事件当日の文さんの話に次ぐ人生二番目の大きさでした。いつもとは違う予感があったので、その数ヶ月前から妻が仕事に出ていた海産物屋に電話したところ、二、三日前にやめたといわれ、家に帰ったところ離婚の書き置きがあったのです。自分自身相当のショックを受けていたので、端から見てもしばらくは普通ではなかったと思います。

 多いときで43万円、前借りをせず、逆に有料道路代も自腹で出していたので会社からのバックもあって40万円をくだらない給料を数ヶ月間続けて丸ごと手渡し、妻の方もコンパニオンの仕事で多い日で残業やチップを含めると一日に1万円以上もらっていたらしく、普通でも2時間の仕事で6千円はもらっていたらしいのでサラ金の残債はめっきり減り、その話しを信じてコンパニオンの方もやめてもらい海産物の配達という普通の仕事をするようになっていたのです。

 徐々に良くなって来ているという実感がそれまで我慢していた本恒夫の理不尽な指示にも強気な態度をとるようになり、ついにはやめて市場急配センターに移っていたのです。前妻には事後報告になったのですが、長距離の仕事を辞めたことで前妻の方もショックを受けていたようでした。

 恐らく誤魔化し続けていた金利のみの返済計画が破綻すると直感してのショックだったものと思います。一日1万五千円という話しを変更した松平の市内配達で30万円の給料という話しも、税金で引かれ手取りでは21万か22万円ぐらいになっていました。ひたすら発覚を恐れての一時的な処置で家出したのかも知れませんが、その時の私は前々からの不信感が一気に高まり、完全な絶望を感じたのです。

 それでもなお未練があったので、家に戻ることを頼み込み説得していったんは戻ったのですが、一時的に荷物を取りに来たようなもので先に述べたようにすぐに帰ったのです。これで完全に戻れないと私は確信しました。それまでにも何度か家出をしていた前妻ですが、毎日のように電話を掛けてきていたのも彼女の特長でした。

 世間一般の家出とは本質的に違ったところがあったのですが、彼女の人間性にすっかり信用できなくなったのです。得体の知れない背景に覆われているような恐怖感があったのです。それを私は運命的なものと考えることが多かったように思います。

 周囲からもそのずっと前から前妻とはうまくいかない別れた方がお互いに良いといわれ、私はそれに反発する気持ちでがんばっていたのですが、完全に負けたという敗北感も強くありました。あれだけ自信を失ったこともそれまでになかったと思います。

 思い起こせば、前妻が海産物の仕事をするようになってから毎日子供を預けていた託児所で、長男が教えてもらったらしい、「我と来て遊べや親のない雀」、「やせ蛙負けるな一茶ここにあり」という俳句を何度も何度も繰り返していたことも感受性の強い子供が肌で感じた気持ちを現したサインだったように思えました。

 前年の家出の時は長男を引き取り、妻が次男を連れたのですが、自分と同じ片親の長男の姿を見るのは実に忍びなく、「アキは、アキは、?」と何度も次男晃博の所在を尋ね、次男の方も長男の姿がないと「にいたん、にいたんは?」と悲しそうに訴えていた声が強く心に残っていたのです。

 また、長男の方でもお父さんの方が好きだといいながらも、ふざけていて怖い目にあったとき、「お母さん、たしけてぇ、たしけてぇ」と呼んでいた声が、明らかに私より妻の方を頼りにしており、長距離に出ていた私より、極端にいえば倍近くも一緒に過ごした時間の長い妻の方が一緒に生活する方がふさわしいと考えるようになっていたのです。二人の兄弟の将来を考えれば引き離すことは酷に失すると結論を出すしかありませんでした。

 二度目の家出以来、私は妻に何度も次のことを忠告しました。一つは絶対に家出をするなということ、今度出るならばそれ相当の覚悟で子供も二人とも連れて行けと言うこと、自分の方は絶対に出ていって欲しくないし、別れたくもないということ、そして借金のことは正直に言えさえすれば絶対に怒らないので全部話し、問題があれば相談してくれということでした。

 一緒に生活する以上信頼関係こそが一番大切で、お金の問題はいずれ解決できることなのでとにかく正直に話してくれと何度も何度も繰り返していたのです。しかし、後で思えば初めの家出の時で、彼女は信用を決定的に失い、私の方も心から彼女を理解し、許すことはなかったと思います。結局、最初のつまずきから彼女とは溝ができそれが長い年月を掛けて深まっていったのです。しかし、根本は別のところにありました。

 もともと彼女との結婚は、私の本意にかなったものではなく、はっきり言って彼女の方から無理矢理のかたちでさせられたようなものでした。私も本心から嫌だったわけではないのですが、決して望ましいかたちで結ばれわけではなく、強引さに押し切られたのと同時に、彼女の熱意にもほだされたのだと思います。

 結婚式当日の写真を見ても私はふてくされたような顔をしていて実際不機嫌でした。なにか大きな忘れ物をしていてそれを自分でも見つけられないようないらだちだったのだと思うのですが、漠然としながらもその答えは分かっていました。結婚したのが21才の時だったので、それまでの21年間において一度も本当に好きになった女性と巡り会えなかったことが心残りだったのです。

 その意味においても離婚直後の文さんとの出会いは運命的なものを強く感じ、同時に逆の意味での運命の仕返しのものとも思われたのです。結婚の前後と、最後の離婚の前後に安田敏が登場したことも運命的に思え、なおさら彼の言葉をむげにはできなかったように思います。それまで私は自分から女性に交際を申し込んでうまくいったことも一度もなく、つまりOKの返事をもらったことはありませんでした。本当に思い詰めて交際を申し込んだこともなかったので、そんな相手すらいなかったことになります。

 反対に女性の方から交際を申し込まれることはかなりあり、かなり明確なかたちで好意を示された女性の数を合わせれば20人近くになったと思います。しかし、これにも私は一度としてOK返事をしたことはなかったのです。これらの事実を傍目でみても私の恋愛観は一般とは違っているようです。しかし、求めているものは極めて平凡であって普通の結婚なのです。

 恋愛と結婚を別個に考える人の方が多いように思いますが、私の場合、両者は不可分一体の如しであって常に理想の女性を思い描いていたように思うのですが、空想が現実になったように現れたのが文さんだったのです。これは容姿のみを指すものではなく、人柄や価値観を含めた彼女の存在そのものを指すものです。

 当初から美人でスタイルも良く、品のある女の子だと思っていましたが、それだけであるならば似たような女性は他にも見かけると思います。顔も人なりといわれますが、意志の強さとかわいさを表に窺わせる文さんの顔立ちはとても魅力的で、さらに平成三年の秋以降の彼女の私に示してくれた行動は、他に類を見なく見聞したことさえないぐらいにすばらしいものでした。

 しかしながら天才と気違いは紙一重といわれる如く絶妙なバランスにおいて不安定なものだったのです。あまりに理想的すぎて自分の考えが先行して色づけ、本当の姿をゆがめているのではないかと自問自答を繰り返しました。

 仮に一面を捉えているにせよ、それ以上の問題が彼女自身にあるのではないとも疑いの目を向けたのです。安田敏がゆうように、彼女ほどの女性であれば彼氏がいない方が確かに不思議でした。そのような男性の存在を常に私は意識していたので、それに沿う文さん本人の言葉も決して嘘や冗談とは思えなかったのです。

 はっきりした彼氏がいないと言うことも彼女の気むずかしさを推認させ、彼女の言動もそれに沿うものだったのです。このような彼女の外見から印象づけられた見方は私個人の特性に基づくものではなく、恐らく普遍的なものであって、そのことは私などより社会経験の豊富な松平らは軽々に熟知していたはずだと思います。

 私もかねてから第一印象は良くない方でした。外見のみで一目惚れのようなことをされたことも何度かありますが、自分を知ってもらって好意を持ってもらったことの方が多かったように思います。世間ではラブレターをもらったり、バレンタインデーにチョコレートを沢山もらう男の人がいるようですが、そのようなもて方をしたことは一度もありませんでした。

 飾らない性格だということもあると思いますが、全く黙ったままで女が寄ってくるほどの男でもなかったのかもしれません。また、21才に結婚してからは一度も別の女性と親しくなることはありませんでした。私の方でもそのような気持ちは全くなかったので機会もなかったのでしょうが、自分からそのような機会を作らないように心がけていたということも事実です。結婚した以上、別れるということは嫌でしたし、妻に対し、本質的な取り立てた不満もなかったのだと思います。正直言って常軌を逸した亭主関白で、妻からも王様のように威張って何もしないと言われていました。周りの見方は妻に対し、同情的であると同時によく我慢して一緒にいるとあきれていたようです。しかし、彼女の真摯な姿も当初からの私と前妻の関係を知る者であれば認めざるをえなかった感じでした。とにかく前妻は熱烈に気違いじみたぐらいに私を愛してくれました。

 そして、かたちの上では結婚したものの本当に愛を感じさせなかったのも私だと思います。ただの一度もプレゼントなどしたことがなく、指輪さえ買わなかったのです。どんな安物でもあげていたならば、私と彼女の運命もずいぶん違ったものになっていたかもしれません。彼女の方では結婚を決めた頃から自分からタバコをやめると言いだし、以来6年間一度も私の前でタバコを吸うことはありませんでした。付き合い始めたのが彼女が16才の時で、17才の結婚でした。

 まだ子供だからタバコも好きで吸っていたわけではなく簡単にやめられたのだろうとしか考えていなかったのですが、最後の平成四年の1月の電話の時、電話の向こうで彼女は長男にタバコのお使いを頼んでいました。長男の声を最後に聞いたのもその時でした。楽しそうな声で返事をしていましたが、ついに自分一人で買い物に行けるまで成長したのかと思いました。

 後になるとあの時長男は金沢に来て私に会えることを期待して楽しみにしていたのではないかと思えてならない声でした。実際私の方から子供は絶対に連れてくるなと言う条件でアパートにいれなければ会うことは出来たはずなのです。前妻の方からもどのように子供に説明していたのか、考えただけで思い気持ちになりました。このような不幸を二度と繰り返したくないという気持ちが結婚を前提に据えた女性との交際をより慎重に考えさせた一因でもありました。

 言い換えれば今度結婚できたならば過去の反省のうえにたって同じ失敗は二度と繰り返したくなかったのです。まず最初に出たのは相手をよく見るということだったように思います。羮に懲りて膾をふくという諺がありますが、まさにそのようなものだったと思います。意識しすぎて却って不自然になるという言い方もできると思いますが、そうさせるだけの条件もまたそろっていたのです。

 そもそも文さんのような女性が、離婚したばかりの私のような男に本気で好意を抱いていてくれていなどとはとても考えられなかったのです。離婚のことで自分自身にすっかり自信を失っていた時機でもありました。女性にもてた経験がないというわけでなく、どちらかというば客観的にもてた方だったのですが、相思相愛の成就という経験はなく、そのことがとても信じられないぐらいに大きな重みを持っていたのです。

 実は文さんとのこととかなり似たような経験もありました。中学1年の時から好きで、まともに話したこともなかった女の子から、高校に入って電車通学の中で、別の話しやすい女の子を交えて話しかけられるようになり、しばらくすると、好きだった女の子の方から「広野君、女の人と付き合ってみる気持ちない?」と聞かれたあと、続けて「私と付き合ってみない」と言われたのです。突然のことに私は茫然としました。

 続けて彼女は恥じらいながら「言っちゃったぁ」と言っていたのですが、その場で私は席を外しました。二、三日してからその場にいた男友達を介して交際を申し込んだのですが、その時点で彼の方から諦めた方がよいと言われ、彼女から伝言で帰った返事も「友達として」というものでした。これも私はすっかり断りの言葉だと解釈したのですが、大きく影響していたのは安田敏と故郷を近くする友人の態度だったのです。

 それ以来私の方でも彼女を避け、一緒に話しをするようなこともなくなったのですが、それから一年半ほどすぎた頃、金沢から帰りの電車の中で偶然会い、その場でも親しく話しかけられ自宅の電話番号を教えられて掛けてくるように頼まれたのです。初めの時が高校に上がってすぐの春で、二度目の出会いが17才になったばかりの頃で私は髪を金髪に染めて無職の不良少年だったのです。年が明けて金沢の浅野本町の方で自動車整備工場で仕事をするようになった頃にも彼女の家に電話掛けていたことを覚えているのですが、私の方では交際しているという意識はありませんでした。

 そしてなにかをきっかけに私の方から電話をしなくなったように思います。次に電話をするようになったのは同じ年の秋に名古屋に行きバイク屋に働いていたときのことでした。この頃も彼女は全く普通の高校生でした。いつも私に対して明るい態度で接してくれていた彼女でしたが、手紙の返事で彼女がピンク色の当時流行していたハイティーンブギの手紙を送ってくれたのです。内容は他愛のないものだったのですが、その返事で私はすっかりお前は自分の女になったような自信過剰の内容の手紙を送ったのです。

 それで送られてきたのが水色の手紙で、私のことは友達以上に考えられないという内容のことが書いてあったのです。私はすっくり落胆し、二度と電話をも掛けない男らしく諦めるようなことを書いて送ったのです。友達からスタートしょうという手紙をもらったこともあったのですが、その水色の手紙だったかどうかは覚えていません。

 そしてその年明けのの正月に田舎に戻り、しばらく近くの造船所で働いたりしていたのですが、そんなある日、突然彼女から電話が掛かり、弟のことで相談したいので今から自宅に訪問したいと言われたのです。

 相談の内容は中学生の弟が学校でいじめられて困っているというものでした。弟を連れて私の家に来たのですが、相談の内容とは違って彼女はすこぶる明るく楽しそうでした。弟をいじめていた同級生は、当時極めて親しくしていた後輩の弟であったので僅かな影響力のようなものを使えば、それなりの効果も期待できたのですが、友人とも相談した上、それでは却って弟が学校で嫌な思いをすることにもなりかねないという結論を出し、その旨を電話で彼女に伝えたのです。

 その時も彼女はいじめの件などどうでもいいような感じで明るく応えてくれ、成り行きは覚えていないのですが、友人を交えて能登半周のドライブに出掛けたりもするようになったのです。電話も何度か掛けました。彼女の方から掛けてくることは弟の件以外になかったかも知れません。このことも文さんの態度と共通するものがありました。

 彼女の方から映画に誘われることもあったのですが、見たくない映画だったので他に何も考えずに断ったこともありました。その頃彼女は丁度高校を卒業するところだったのです。高校を卒業すれば故郷の北九州に帰るようなことを話していたのですが、彼女は金沢に出て野々市のスーパーで働くようになり、寮に入っていたようです。この頃が白菊町の伏○○さんの所で居候していた時期とほぼ重なります。

 そのあとで春頃になると小林運送で長距離運転手の助手をするようになったのですが、金沢の中央市場で仕事をするようになったのもこの時が初めてでした。市場の前から彼女のところに電話をしたこともありました。電話も数回あったのですが、彼女の寮に近い喫茶店で一度あったこともありました。二人切りではなく彼女の方で同郷に近い下関から来たという同僚の女の子とを一人同伴させていました。

 そして最後に会ったのが初めて二人で香林坊に映画を見に行ったときでした。外国の恋愛物のような映画でしたが、会話は殆どなく、出たところで食事に誘ったのですが、あっさり断られて別れたのです。明るい感じで帰っていったのですが、そんな食事の誘いを断られたという些細なことも私には大きな打撃となり、映画を見ているときも当時すっかり身に付いていた不良少年の態度が彼女に恥をかかせ不興を買ったと思い込み、小林運送の会社の上にある寮で彼女に完全に身を引く決心の手紙を書いて送ったのです。

 彼女との関係はそれが最後でした。返事はいらないようなことも書いていたので返事もなかったのです。私が最後まで彼女と交際したいと考えなかったのは好きな面も大きい反面、価値観に違いのような物を感じ、将来を展望すると一抹の不安を感じたこともあったからです。互いに理解を深められたならばあるいは容易に除去出来る程度のものであったのかも知れませんが、それ以上踏み込むことはせず、けじめというか踏ん切りをつけたのでする今思えば当初の文さんに対する態度にも共通するものがあったようです。

 しかし、その意味内容はかなり違ったもので言葉で説明することは難しいのですが、会社のことや前妻のことなどいくつかの要因が絡み合い、前妻のことで傷ついていた状態でこれ以上傷つけば本当に立ち直れないという存在自体にかかわるような危機感が根底にあったのだと思います。文さんの私に対する態度は感謝して余りあるものであり、最高の思い出として残したい、文さんに万が一裏切られるようなことがあれば人も人生も完全に信じられなくなるような根本的な不安が先走っていたのです。自分自身を呑み込むような存在感が文さんにはありました。文さんのことで自分自身を見失わないように私は常に一歩一歩を確かめるように接することが精一杯だったのです。

 その後高校時代の女の子は、<省略>本当に私のことが影響していたかどうかは分からないのですが、このようなことも文さんとの関係において考えさせられる材料となっていたことは確かなことです。しかし、その女の子と付き合っていたという意識はなく、片思いだだったとばかり思っていました。

 そうではなく、交際していたと考えるようになったのは事件後拘置所で考える時間が多くなったときのことでした。文さんともことも同様で、本当に交際していたのではないかとひらめいたのは7月か8月ぐらいだったので事件から4,5ヶ月も先のことになります。もっとも当時は、なにより文さんの容体のことで頭が一杯で他の事など考える余裕がなかったのです。裁判のことも同じように考える余裕はありませんでした。

 私の性格について、思いこみが激しいとか、しつこいなどと言われることがあるのですが、実際女の人に対してしつこく交際を迫ったことはなく、そればかりか他の男のような女性をものにするための努力もしたことがなかったように思います。全くなかったとは言えませんが、相思相愛のかたちで成就するのが極めて自然な恋愛だと当然のことのように私は考えていたのです。だから見栄や物を使って相手を落とすという考え方にはなじめませんでした。今思えば非常に贅沢で理想主義的な発想かも知れないのですが、長い人生を共に過ごすパートナーを選ぶと考えればそれほど不合理な考えではないと思います。また、相手に特別なものを求めているわけでもありません。

 8月に離婚して以来、前妻から連絡があったのは11月前後に数回と、1月に一度でした。いずれも復縁を望むものであり、文さんとの関係とも奇妙な重なりがありました。前妻が安田敏などと同様に会社の意向を受けて行動していたのではないかと以前は考えたことがあったのですが、それぐらいに微妙なタイミングで前妻から連絡があったのです。離婚後東京の方に行くという電話での前妻の声は実に悲しそうなものでありました。11月頃の電話では、一生懸命に私の機嫌を取り、会話を多く持とうという努力が窺えました。

 そしてもう掛けてくるなと言うと、ひどく怒っていたのですが、怒鳴りつけた電話で、それまでならば言い返しの電話を掛けてきていた彼女がそれっきり電話をしなくなり、突然に掛けてきたのが1月の電話だったのです。当時の詳細も裁判の記録の中には沢山書いてあると思いますが、今の私にすればもう書くのも嫌なことです。その時の電話で彼女は、「私のこと好きやったん」と聞いて来たのです。

 「嫌だったら結婚しとらんやろ」と返事を誤魔化したのですが、「あんた、嘘いえん人やもんね」という諦めたような言葉が彼女の受け取り方だったのです。文さんのことも好きな女が出来たとはっきり伝えました。その方が文さんにも迷惑が及ばないと前妻の性格から判断したからです。

 その前妻のことも端から見れば私の方が一方的に見捨てられ、逃げられたようなかたちになっていたのですが、そうではないのではないかという自分自身の判断の方が強く、事件後もたぶん一度は面会に来るだろうと言う私の予想も的中し、5月の10日すぎぐらいだったかに西署に面会に来ました。

 その場ですぐに復縁を申し出られたのですが、これは即座に断りました。しかし、私たちの会話は離婚前から変わらない雰囲気だったので、留置場の巡査からも「お前ら本当に離婚しとるんか?」と呆れられたぐらいでした。そのような意味でも前妻との離婚は世間一般に考えられているような離婚とは本質を異にしたものだったのです。

 これまでに書いた私のこれまでの女の人との関係を見ると、明らかな共通項があるようです。事後的な客観視だから出来ることかもしれませんが、私の方に決断力と実行力がなかったことが知り合った女性を傷つけてきたように思います。今書いた他にも他の数人の女性との間にも似たようなことがありました。

 女性に関して恵まれすぎていたという側面もあるかも知れませんし、ある意味でうぬぼれのようなになっていたことも否めないと思います。前妻からの連絡はそれが最後で、その年の秋には友人から再婚したという話も聞きました。子供のことは心配するなということだけが伝言だったようです。

 刑務所を出てからも前妻や子供について情報を得たことは一度もありません。友人も恐らく知っていることはあると思うのですが、何も知らないと言います。約五年ぶりに戻った社会で過去の痕跡は一片たりともなくなっており、私のアルバムもなくなっていました。唯一考えられることは前妻が持ち去ったということだけですが、これも確認の術はありません。
〉〉〉:Linux LibreOffice: 2023-09-29 09:47:37 〉〉〉
 10年ほど前押入れの中で、カセットケースに入った写真を見つけている。
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 ここではっきりさせておかなければならないことは、当時の私の意識として前妻とのことは文さんのことと別個に考えていて、文さんのことがなかったにせよ、前妻とはやり直すつもりはなかったということです。

 11月の初め頃にはその旨を前妻にも文さんにも伝えました。誤解があるといけないので若干の説明をしますが、文さんに前妻との離婚のことを具体的に話したことはありません。正式に交際してもいないのに、そのようなことを話すことは非常識で、文さんの心の負担にもなりかねないと危惧したからです。また、その日は前妻からも電話があり、文さんにも電話をしたのです。たぶん、前妻に電話をするなと断ってから、文さんのこともはっきりさせようと電話を掛け、諦める旨をこの時も伝えたのです。

 10月12日、初めて文さんの自宅に電話を掛けた直後にも前妻から電話があり、これが離婚後初めての前妻からの電話だったと思います。当時の私は、離婚したことを会社の安田敏以外の誰にも話さず、ばれることをひどく恐れていました。そしてようやくばれて松平に中央市場前の食堂に誘われて聞かれたり、東渡に嫌みをいわれたのも丁度その頃で11月の中頃でした。人目を気にするというか、そのことは金沢市場輸送において前妻のサラ金のことを知られたくないという気持ちでびくびくしていた頃からの連続で、なにかしら文さんのことも知られたくなく穏便に済ませたいという気持ちがあったのです。

 それとは裏腹に文さんの態度は逃げる私に追い打ちを掛けるように積極的で、しかも会社を中心にしたものでした。舞台を会社に据えることは文さんの譲らない要求のようでした。実際にそれが、11月の終わり頃からの裏駐車場の行動に発展し、それが終わった2月以降は、私が会社にいる時間に合わせた金沢市場輸送への出向きがあったのです。いずれも会社側の協力なしには考えられない行動でした。

現在の生活状況について

 私は現在、昨年の11月10日から勤めた加田設備工業で働いています。代表である加田義満君は子供の頃からの友人で、同じ宇出津の出身です。事件前にも付き合いがあり、彼にも彼の妻にも文さんのことは何度か相談していたので事件のこともよく知っています。

 出所後7月一日から金沢で生活するようになったのですが、初めに勤めたのは高尾の方にある土建会社で、昔の友人が営業課長をしていてその紹介で入ったのですが、会社にも仕事にもなじめず、仕事中に怪我をしたこともありまして10月の中頃ぐらいにやめました。

 それから自分で仕事を探し、二社ほど面接にも行ったのですが、先々を考えて事件のことや裁判のことも一応話したところ、相手方の反応は普通と違ったものであり、一つは1週間経っても連絡のないまま、もう一つの運送会社の方は断られました。

 正直言って、このままではまともな会社に勤めることは出来ないと確信し、事件のことなどひた隠しにしたまま就職することも考えたのですが、狭い金沢なので何時どこで情報が入るかも知れず、不本意な裁判を黙認することは矜持が許さなかったこともありました。

 本当にしたかったのは刑務所で勉強していた法律に関する仕事で、司法書士会にも事務員の斡旋を申し込んでいたのですが、所長らしき人の対応も素っ気なく、とても期待のもてるものではありませんでした。生活のこともあり、事件のことなども考えると、やる気があるなら使ってやると言われた加田君に頼る以外に事実上選択の余地はほとんどなかったと思います。

 一つだけ気に入ったのは一人前の職人になって世間から認められれば、場合によって一日7万円の日当をもらうことも可能だと聞かされたことでした。学歴も資格もない私が、人一倍の稼ぎを望むならば、それが一番の近道とも思われたのです。当初は住宅や道路の穴掘りのような仕事だと考えていたのですが、機械や大規模建造物の設備など仕事内容は予想していたより高度なものであり、多くの知識や経験も必要なようです。

 最近になって少しは図面も読めるようになりましたが、完全に理解するにはまだまだ時間も掛かるし、それより自分自身の努力が必要だと痛感されます。今年の5月頃に加田さんから「2級管工事施工管理技師」の試験を受けるように勧められ、申し込みをしたのですが、事件のことなど再び考えるようになって、試験の方は事実上諦め、7月の中頃以来勉強をしたことはありません。加田さんには良く聞かれ、勉強をしていると嘘を言っているのですが、この点も心苦しく、嫌いだった嘘つきに自分がなっていることにやりきれない思いです。

 かといって本格的に試験勉強に取り組めば、この手紙もずいぶん簡素なものにせざる得ず、せっかく与えてもらったあるいは最後の機会を無に帰してしまうので、当初から割り切った判断で今年の試験は捨てたのです。恩に着せるような言い方かも知れませんが、私は自分の判断で手紙の作成に全力を傾注させたのですが、それもほんの初めのうちで、実際この手紙は、これまで事件に関して作成した書類のうちで一番身に入らず、だらだらと時間ばかり掛けてきました。

 初めのうちは旧盆の休みのうちに仕上げるつもりだったのですが、ほとんど何もしない日が続き、つぎはぎの短時間のつなぎ合わせで書いています。全体としてのまとまりもなく、趣旨のはっきりしない失礼な手紙かも知れませんが、まともに相手にもされていない以上、現状に即したかたちだと思っています。

 夏頃から仕事が忙しくなり、家に帰るのは毎日7時半から9時頃で、深夜に及ぶこともあります。7時前に家に帰ることは十日に一度ぐらいだと思います。朝も比較的早く、6時20分頃に起きて7時に会社に着くように向かいます。休みは日曜日のみなのですが、盆前は二回続けて日曜出勤があり、盆のあとは一度休みがあったほか、日曜日に仕事に出てくれと言われたのを断ってきました。

 本日は9月6日の日曜日なのですが、本当は今日も仕事で、ずいぶん忙しそうだったところを裁判所に提出する書類を作成するためだと言って無理を言って休みだのです。夏場は蒸し暑く、雨で濡れることも多く、正直言って体の方もばてていたのですが、とりたてた加重労働をしているわけでもなく、精神的な面でやる気がないことが負担を重くしているようです。

 ようやく手紙を読んでくださると言われ、見方によっては進展したともいえるのですが、無駄なこと、どうでもいいこと、理解できないことなとど言われては、もはや本当にどうでもいいことのように思えてきたのです。

 社長や、周りの友人からも文さんのことを話すことは露骨に嫌がられるようになりました。二人だけいた連絡の取れる友人も一人は全く連絡をよこさなくなりました。もう一人が今の社長です。会社には社長を含め、四人いるのですが、仕事以外に付き合いはしていません。私の方から避けているような感じでもあります。他にも仕事の関係の若者から誘われることもあったのですが、断っていました。

 携帯電話にも仕事以外に電話が掛かることはありません。出所後の私は、事件前以上に孤独な存在となり、完全に身に浸みているようです。どうしてそうなったのかというとすべての前提に文さんを位置づけていたからなのですが、最近になるとその希望も儚く、消え入れそうなぐらいに薄い存在になっているのだと思うことの方が多くなりました。

 やはり出所後に金沢などに出ず、県外に出れば良かったと思うようになりました。それにしても安藤さん家族の最終的な納得のゆく、言葉をもらってからでないと出来ないと考えていたので、これまでの経過は一応納得のゆかないものでもありません。とにかく、この事件に関連して友人にひとかたならない世話になり、何一つ報いることの出来ないまま、その相手にも終わったこと、過去のこと、などと厳しいことばかり言われ、裁判をしていること自体がものすごく汚くて恥ずかしいことのように嫌みを言われ続けてきました。

 あまり知られていないようですが、日本の刑務所では考えられないぐらいの運動不足です。五年近くも異常な生活をしていた上で、夏場の土方の仕事は想像以上に体にきついものでした。中西運輸商をやめて土方のような仕事もしたことはあったのですが、その時は夜を日に次ぐ突貫工事でもなんと楽な仕事だと感心していたぐらいでした。

 人一倍のお世話になりながら、不本意な仕事に従事し、不満を口にすることも出来ず、流れに流されることは自己否定の連続です。まるで覇気がなくなり、腑抜けになったと最近自分でも思うようになりました。仮に再審の裁判が始まったとしても今更どうしたという気持ちの方が強いかも知れません。逮捕されて以来誰からもまともに相手にされず、それでも刑務所の中でも自分の考えを曲げずに頑張って来たのですが、出所して以来の現実の方が打ちのめされるに十分なものでした。

 すべて私が悪いと言われ続け、最近になると自分でもそう思うようになりましたが、そればかりはどうしようもないことです。憎まれ嫌われて当然かも知れませんが、執拗につきまとったとか、機会に乗じて姦淫したなどと言われ、そのままの事実が裁判所で認定され判決を受け、刑の執行まで受けたことは個人を責めるにしても底知れぬ不気味感を禁じ得るものではありません。

 陥穽を設けられ理不尽な仕打ちを受けた会社の連中に対しても、一矢を報いるどころが、逆の立場で馬鹿にされた状況です。推測以上に手応えを得たことも事実なのですが、相殺してもやり切れぬものに変わりはありません。人生の敗北者になったというか、それ以前にまともな扱いを受けていないのです。死にたいと思えば、死ねと言われた、蓄憤が高じて不感症な腑抜けになりました。日々の生活においても堪え忍ぶことは多々ありますが、大意を貫くために決して問題は起こさずにいます。

 私が目指す大意とは悲願成就でありますが、それはすでにお話ししてあることです。それもどうでもいいことだと言われ、周りからも仕事の方が数倍大事だと説教され、返す言葉もない、情けない状況です。

 お父さんやご家族の真意も測りかねている状況で、このようなことを書くことにためらいはありましたが、少なくとも外形や言葉を前提にする以上、このように解釈する以外にないのです。このことは文さんとの関係に実に似ていると思います。文さんの言葉の裏にある本当の意味を理解し、信用しきれなかったことが一番の間違いであったと強い反省に立ち、これまで精一杯の努力をし、それを貫こうと決意していたのですが、ここまではっきりと露骨に嫌がられ、まともな相手にされない以上、自分の気持ちばかりを貫こうとすることは互いにとってさらなる不幸にしかならないと考えるようになったのです。

 お金を貯めるようなことも以前言いましたが、全く貯まっていません。弁当代以外にお金を使うことは殆どないのですが、残るはずのお金はすべてパチンコ屋に呑み込まれています。日曜の昼に家にいると昨年と同じような状況が思い出され、気が変になりそうです。行く当てもないのでパチンコで気を紛らし、一時の気休めとともにお金がなくなります。

 以前のような射幸心もなく、勝てないことも十分承知しているのですが、見事なぐらいに負けの連続で、盆休みだけで8万円ほど負けました。仕事が忙しいのでパチンコに行く暇もあまりないのですが、僅かな資産がきれいになくなり、最近では生活にも影響が出るようになりました。パチンコ屋にいると昔のことも思いだし、そこから抜け出せないでいる自分を感じますが、将来に希望がもてない以上、それもいいのではないかと最近では考え方も変わってきたように思います。

 端から見れば甘え以外の何者でもないかも知れませんが、次元の違うレベルで希望がもてないのです。他に女性を見つけて再婚することも周りから勧められたことがありましたが、そんな気持ちにはなれません。まず仮の相手に対しても失礼なことです。相手を傷つけ自分も傷つくことが分かっている生活を始める気にはなれません。

 前にいた土方の会社でも、暗いとよく言われ、周りまで暗くなると言われました。事件まで人から性格が暗いと言われたことはなかったのですが、いよいよ梅野が供述していたように暗くて何を考えているのか分からない人間になりつつあるようです。自分らのシナリオ通りに事が運び、現実化することを密かな楽しみにしていた連中ですが、私は今も為す術もなく、連中の思い通りの人生に翻弄されているのです。悔しいという気持ちはほとんど感じません。ハッパを掛けられて奮起するほど単純な問題ではなく、大切なものを軽々に扱われることのやり切れぬ憤りで一色です。

 加田さんには、アーク溶接の試験も受けさせてもらいました。学科は受かったのですが、実技で落ちました。私は20万円ぐらいの材料を練習のために消費したそうです。協力会社の一つである新本設備では、社長から工場の鍵まで渡してもらい、自由に練習することを勧められたのです。それで仕事が忙しくない頃は、仕事が終わってから安原工業団地の新本設備に行き、一人で溶接の練習を毎日のようにしました。やればやるほど難しさを感じる溶接ですがそれなりに向上もありました。仮付の仕方など基本的なことが分かっていなかったこともあり、試験では失敗しましたが、初めのうちはアークの発生自体低電流の裏波溶接ではなかなか出来なかったので、それを考えると少しだけ上達したのですが、まだまだ本腰を入れた練習が必要です。

 まず基本級を受けてからになりますが、配管屋にとって値のあるのはN-2Fというパイプを巻く試験です。これがなくても普通のパイプは巻けるのですが、これがあればガス管の溶接も出来るようになり、持っている人も少ないらしいので勲章のようにすらなるそうです。ちなみに新本設備でも10人ぐらいの社員がいてうちの会社とは違って溶接配管が主流で毎日のように溶接しているらしいのですが、N-2Fを持っている人は一人もおらず、その前提となる裏波溶接の基本級A-2Fも一人か二人ぐらいしか持っていないそうです。

 私が挑戦するのはこのA-2Fです。今度10月に試験があり、数日前に社長が申し込みをしてくれたのですが、この手紙を出した頃からは仕事が終わってから溶接の練習をしなければならないと思います。

 本職の現場の方でもかねてから社長に職長になって現場を持つことを勧められています。図面もまともに読めないので、まだまだ早いと思っているのですが、やらなければ分からないことも事実であり、ある程度のリスクを払ってまで機会を与えられることは本来感謝しなければならないことだと思っています。

 職長になれば材料の拾い出しから注文、現場での打ち合わせもしなければなりません。それだけ自分の時間も減ることにもなります。ただ現場の流れをある程度把握できるので、予定は立てやすくなるかも知れず、その点は好都合かもしれません。管工事の試験も溶接の試験も社長が費用を出してくれました。落ちたら給料引きだと冗談のようにしょっちゅう言っていましたが、本心ではなく、引いたことはありません。

 他にも消防設備士や、配管の技能の試験も近いうちに取るように勧められています。12月頃にある配管の2級技能の試験は受けず、10月に予定されていた給水配管責任技術者とかいう試験も勧められたのですが断っていました。

 本来ならばこのような仕事の試験にも頑張らなければならない状況なのです。社長からは丁稚からだと言われて、10ヶ月ほど経ったのですが、手元と言われる一応の仕事は出来るようになり、時々自分で配管することもあります。配管の仕事と言っても、大工、鉄筋屋、左官屋、斫り屋と似たような仕事もあり、色々なことをします。基本的なことでは文句を言われることも少なくなり、人数のうちにいれられ、それなりの期待もされているようです。

 仕事を覚えて、今まで出来なかったことや、ずいぶん時間の掛かったことを短時間で処理できるようになることはそれなりの楽しみもあり、裁判のこともなく、普通に家庭を持っていたならば、毎日家に帰れ、休みもあるので悪くない仕事だとも考えています。他の二人の若者にはいつでも独立することを口にしている社長ですが、彼も配管屋を初めて4〜5ねんぐらいで23.4才の頃に独立したのです。

 私のように30歳を過ぎてから配管の仕事をするようになり、独立した人もいます。新本の社長もそうです。金沢では大きな会社の配管屋は少ないらしく、一人で仕事をしている人も珍しくありません。私に対して独立は勧めていませんが、力をつけ、その気になれば反対することはないと思います。

 仕事を覚えることが直接的に身になると言う意味ではやりがいのある仕事です。仮に独立したとしても会社とは無縁になるわけでも商売敵になるわけでもなく、応援と云って忙しいときに助け合ったり、仕事を回すことも出来るのです。

 裁判のことや事件のことを罵る社長ですが、真意は測り難く、お前は溶接だけ覚えて鉄工所で働けばいいと口にすることもありました。そうすれば鉄工所の父ちゃんと毎日話しが出来ると冗談のように言っていましたが、本来うちの会社では、溶接を使う、機械の配管や、スプリンクラーの配管は数が少なく、より技術の要求されるらしい衛生の仕事の方が多いのです。

 現在の現場は、辰口の新いしかわ動物園、辰口庁舎の大きな現場の他、瑞樹住宅の三軒の住宅、旭工業団地近くのわかさ屋美術印刷の機械の配管などです。このほかにも細かい仕事を受けることがあり、4人の他、他社の応援を得たり、逆に応援に出ることもあります。わかさ屋の仕事は短期のものですが、溶接の配管です。溶接の配管では仮付と言って面を着けずに溶接をするのでアーク光線で目がやられ、開けているのがやっとになることもあります。

 この点も書類の作成などには心配なところですが、仮付も上達すればそれほど負担にはならないようです。私はまだまだ未熟なので、先日も仮付した配管が根本から折れ、下に落ちることが二度ほどありました。あまり高所ではなかったので大事にはなりませんでしたが、場合によっては大変なことにもなりかねないので、溶接の腕を磨くことはやはり必要不可欠なのかも知れません。パイプの方もまともに巻けません。平板の溶接であれば、一応出来るのですがパイプの溶接は特別難しいように感じます。

 お父さんの会社も鉄工所と言うことなので溶接が連想されるのですが、昨年休職中に偶然見た就職情報誌でマニシングなんとかという特別な加工をしているらしいことを知り、その後テレビ番組で偶然に世界最先端の技術であることを知りました。

 溶接の仕事は熱くて危険も伴うのですが、難しいだけにやりがいのある仕事で、一番身につけたい技術なのです。新本の社長に頼めばいつでも練習させてもらえ、溶接棒などの材料も社長が用意してくれるので恵まれた環境にあると言えば、本当に恵まれているのですが、仕事以外のことで先行き不透明な現在の私にすれば、今ひとつ身が入らないことも正直なところなのです。

 今の管工事の仕事にせよ、極めて小さな少人数の会社なので裁判が始まるようなことがあれば影響もそれだけ大きく、迷惑をかけることになると予想されます。新聞やテレビで報道されるようなことがあれば、現場においてもどうなることか予想すらつきません。会社の方でやめてくれと言われるかも知れず、そうなれば今までのことは水泡に帰し、次の仕事の当てもありません。

 私一人の力では、生活して行くこと自体どうなるかわかりません。そのように考えると再審の裁判が始まること自体が荒唐無稽な絵空事のようにも思えるのですが、反面で、私の事実主張に、一度の反論もしなかった検察庁の対応や、会社の者を召喚しなかった裁判所の態度は明らかに通常の裁判手続からはかけ離れたものであり、このままのかたちで終わることは常識的に考えられないのです。

 忙しい中何度も裁判の傍聴に来ていたお父さんが、事実審理の私の本人尋問の際に一度も姿を見せず、金銭も真実も目的としない民事訴訟に及んだことも常識的に考えられないことです。これでよいと口にしながら、本当にこんなことで気が済むのか、到底理解できず、かといってその真意も掴みきれないものがあります。

 文さんが廃人同様となり、以前の精神というか気持ちや記憶を失っているのかと考えたこともあります。これまで事件以来文さんから連絡のあったことはもちろんのこと噂さえただの一度も耳にしたことはないのです。社長もこれまで一度も連絡のないこと自体がお前のことなど問題にしていない証明だと言いましたが、これも確かに常識的に考えれば至極当然の理と認めざるを得ません。恩讐を超えてアウフヘーベン(物事についての矛盾や対立を、相互の矛盾や対立の否定のうえに、より高次の段階で統一すること。止揚。)することが本当にできるのか、あるいは出来ているのか、ひたすら信じ続けてきたことも最近になっては自信がもてなくなってきました。

 やはり私のしたことは絶対に許されず、破廉恥で軽蔑に値する行為だったのか、それ以外の何者でもなかったのかと自問自答するようになりました。見えていた答えが見えなくなってきたというのが正直な気持ちだと思います。強姦などと言うことは最悪最低の評価であって、私と文さんの関係は、そのようなものとして扱われたのです。

 思い出すだけでとても嫌な気持ちになりますが、すべて私の行為から出たことだという答えは目に見えています。責任転嫁の詭弁として会社の者を責めていると一般的に見られるとも思います。前に勤めていた土方の会社で、友人の上司で実質的に会社を任せられている人物に、ある程度の事情を話したところ、会社を訴えるなど辞めておけ、現に会社に勤めている従業員にも迷惑が掛かると言われました。

 私の存在などそれだけのものでしかなく、現に生活をする社員の利益が優先されるのです。これは単なる世間一般の考え方だけではなく、法律においても共通する考えなのです。すなわち、例えば殺人事件の場合、殺された者の利益と
殺した方の利益を対等なものとして考えるならば、殺した方も死刑にするというのが当然のこととなり、被害者に落度がなく、加害者に不正な目的があったならば道徳的評価においても対等な罰を与えるのが当然と言うことになります。

 このような考え方はカント、ヘーゲルに代表される必罰主義で18世紀のヨーロッパにおいて提唱されていたそうです。ともあれ、現代社会においてそう簡単に割り切れるものではないことは言を待たず、犯罪者の更正改善を主目的としたいわゆる教育刑主義が採られていることは、存在しなくなった被害者より、社会に存在する犯罪者に重きを置いて処理がはかられているのです。殺人事件と言えば、最もかたちのはっきりした犯罪であって、正邪が誰の目にも明らかであると考えられますが、そうでないかたちのはっきりしない犯罪であれば、検挙されることは極めて希であって、よほどの契機がなければ表に出ないと言えます。

 我が国には古来清濁併せのむという言葉がありますが、うやむやのかたちにされた者はぬくぬくと温存されるようです。とりわけ、会社というのは個人のみならず、社会においては公共の財産として扱われています。全体の利益を優先させるならば、私など虫けらに等しいようです。本来ならば夥しい利益と同時にそれに応じた厳しい義務も課されているはずなのですが、義務を追及され責任を負わされることはあまりないようです。極端な例が計画倒産などであって、法人が壊滅しても作り上げ、利益を貪った連中は、ほとんど責任を負わないと聞きます。法人格否認の法理とか、役員の責任も商法には規定されていますが、そのままのかたちで実行されることはほとんどないようです。

 一方において過酷とも思える責任を負わされた例もあります。不動産会社の従業員が会社に置いてあった鍵を使って、仕事上紹介した女子大生のマンションに忍び込み強姦した上殺害したという事件で、会社側は鍵の管理不十分と社員の経歴をよく調べずに採用したという点を理由に一億円以上の損害賠償を命じられたのです。一応加害者本人と共に連帯責任というかたちのようでしたが、事実上刑務所に入った加害者に支払い能力はないので、会社が全責任を負わされたのと同じです。このように一見的外れのような判決でも、損害賠償法の理念を貫くならばかような結果になるのです。

 民事においては、わざとやる故意の行為と、知らずにやる過失の行為はほぼ同様の扱いにされています。正否を評価する刑事裁判とは異なり、民事の目的は損害の公平妥当な分配なのです。情状酌量という言葉が刑事裁判にあり、それに相当するのが過失相殺ですが、不法行為においては裁判官はそれをしないことも出来るそうです。主張があった場合必ず判断しなければならないのが、債務不履行の場合です。債務不履行とは次の条文に基づくものです。第415条【債務不履行による損害賠償の要件】債務者が其債務の本旨に従いたる履行を為さざるときは債権者は其損害の賠償を請求することを得。債務者の責に帰すべき事由に因りて履行を為すこと能わざるに至りたるとき亦同じ。 一方の不法行為とは、次の条文です。第709条【不法行為の一般的要件・効果】故意又は過失に因りて他人の権利を侵害したる者は之に因りて生じたる損害を賠償する責に任ず。債務不履行と不法行為の違いについて詳しく説明する暇はありませんが、一言に債務不履行と言っても借りた金を返さないものから婚約破棄にまで多岐に渡ります。不法行為についても一般的なここの条文の他、使用者責任、動物の管理者責任、工作物の瑕疵についての責任などが別の条文に規定されています。業務の執行につき生じた損害を賠償する責めに任ずるという第715条【使用者の責任】
(1)或事業の為めに他人を使用する者は被用者が其事業の執行に付き第三者に加えたる損害を賠償する責に任ず。但使用者が被用者の選任及び其事業の監督に付き相当の注意を為したるとき又は相当の注意を為すも損害が生ずべかりしときは此限に在らず。
(2)使用者に代わりて事業を監督する者も亦前項の責に任ず。
(3)前2項の規定は使用者又は監督者より被用者に対する求償権の行使を妨げず。
は、最近の判例で暴力団の組長の責任問題が論議され、判例は類推適用を認めました。拡張解釈とも言われているようですが、かたちより実質に重きを置いた判例の一つだと私は理解しています。一方、会社の者の責任について会社自体すなわち法人がどこまで責任を負うべきかという問題は、第44条【法人の不法行為能力】
(1)法人は理事其他の代理人が其職務を行うに付き他人に加えたる損害を賠償する責に任ず。
(2)法人の目的の範囲内に在らざる行為に因りて他人に損害を加えたるときは其事項の議決を賛成したる社員、理事及び之を履行したる理事其他の代理人連帯して其賠償の責に任ず。の問題として扱われているようです。これに関係した事件が近年石川県の裁判所でありました。

 参考まで紹介します。(賠償請求事件[金沢セクシャルハラスメント事件、証拠番号5に編綴します。)この事件は女性の地位向上や絡んだいわゆるセクハラ事件として全国的にも報道されていたようでした。刑務所の中で読んでいた法律関係の本にも取り上げられていたと思います。因みに当時は郵送で法律時報という本をほぼ毎月読んでいました。その中に出ていたかも知れません。このようなセクハラ問題としての視覚から論じられた姿と実際に読んだ判決文とでは印象にかなりの違いがありました。

 この被害者の女性にも問題があると感じたからです。とても純粋な被害者とは思えません。実はこの事件の加害者は私の田舎の人で、息子が私の同級生なのです。そんなこともあり、友人にこの事件のことを尋ねたことがあるのですが、実態は経営する建設会社が大きくなり、同業者の画策にはめられた事件だと聞きました。

 少なくとも友人は疑いを持たずそのように解釈しているので、地元での評判もほぼ似たようなものだと考えられます。一般の人には理解されていないことだと思いますが、民事裁判において、事実を主張するのは当事者なのです。当事者とは訴える原告と訴えられた被告で、事実とは当事者の間で展開される攻撃防御です。法律的就中民事訴訟法的に言えば、請求の理由であり、刑事訴訟上の訴因に相当するもので、裁判所に持ち出された事実の範囲ということになります。民事裁判においては、裁判官といえどもこの事実の範囲を超えて判断を下すことは許されず、判決に盛り込むことも違法になります。

 簡単に言えば、民事裁判の事実とは、歴史的社会現象的な事実とは異なり、あくまで当事者の主張する言い分が事実として問題にされるのに過ぎないのです。この反面において、当事者には自分に有利な事実を主張する義務があり、これを怠れば、因って生ずる不利益を甘受しなければなりません。裁判官が判断してくれると言う考えは問題の外なのです。法律上立証責任と言われるもので、単に主張するだけでなく、証拠によって証明しなければならないのです。一般に不法行為では権利侵害を受けた原告の方が証明責任を負い、債務不履行では履行義務を負うものに義務を果たした事実を立証する責任があると言われています。一方が立証したならば、他方がそれに対する反証をしなければならず、返答に窮し、何もしなかった場合、相手方の訴えを事実として認めたものと扱われます。いわゆる擬制自白というものです。法律においてよく出てくる言葉の一つなのですが、推定するというのは反証により覆る可能性を含んだ取扱いであり、みなすというのは反証の機会も与えず、そのように確定的に扱うという意味なのです。実質を問題にせず、形式で扱うという意味にも取れると思います。

文さんについて

 最近まで私は、文さんが自分のことをどう考えて行動していたのか、そのことばかりにこだわり、気に掛けていたように思います。これは裁判の認定した事実とも絡んでいるのですが、本当に彼女が私のことを嫌がり、迷惑がっていたとしたらどうしょうかと真剣に悩みました。

 そうであったとすれば私のしたことは全く無意味であり、救いようがないからです。いずれにしたところで救いようがないのかも知れませんが、その時点において悲愴な決意を抱いたことまで無意味であったとすれば、自分はどうなっていたのかと自分自身に疑いの目を向けなければならず、底知れぬ不安を隠せません。

 実際に文さんとのことは細部に至るまでこと細かく脳裏に刻まれています。時系列にしたがって順序立てることはこれまでに何度もしてきたことなのですが、正直言って物事が多すぎて収まりがつかないのです。ある程度の時間的な配列は長距離運行という仕事の性質上明らかにすることが出来ました。

 事件前半月の運行については確定的に覚えています。しかし、それ以前とすると部分的にはっきりするほか曖昧な点も少なくないのです。迂闊に日時を特定し、裁判に臨めば相手方に虚を衝かれ、自家撞着の憂き目にあわないとも限りません。もとより人間の記憶には限界があり、普通の裁判においては、頃という言葉が当然に使われ日時の特定などさほど重要なことではないのですが、しかし、これも本件の特殊性に鑑みれば出来る限りの特定の労を惜しむべきではないと、出来る限りの努力を続けてきたのです。

 例えば、1月の16日に文さんのコーヒーメーカーと日産ディーゼルの新車納入打ち合わせの件があったとすれば、その日に私は関西に運行に出ていて、空車で帰ったとは考えがたいので次に会社に夕方いたのは18日の土曜日のみとなり、21日にトラックで文さんと話しをしたことを考えると、それまでに駐車場で二度文さんに声を掛けたことは考えにくくなるのです。全部で三度というのが私の認識なのですが、二度しかなかったことも全然考えられないことではないのです。はっきりしていることは二度目と思われるときに文さんが今から美容院に行くと言っていたことと、その時に事前に中央市場から買ってきていた缶コーヒーを彼女に渡したことです。

 私の記憶にある一度目の時はほとんど偶然に近いようなかたちで文さんに声を掛けたと記憶しているので、事前に会うことを意識し、コーヒーまで準備していたとは考えにくいのです。また、このように彼女に直接声を掛けることを確定的に決意したのは、日野自動車からの電話で文さんに食事の誘いを掛け、会社に掛けた夕方の電話で自宅に電話を掛けてくださいと言われて掛けた電話で、お母さんが出て、この時もいないと言われたことがあり、その翌日と思われる電話で文さんに「文ちゃんのお母さんっていい人やね。しばらく家にでんわせんし、そのかわり今度直接声掛けるし。」という話しをしたことが端緒となっていたのです。

 なお、この電話は七尾から関東に向かう途中の県境付近の魚市場前の公衆電話から掛けたものでした。この事実も私は1月の中頃のことと記録において記述してきたように思うのです。初めに文さんに自信を持って声を掛けようとしたのは片山津に新年会に行く前日で11日の金曜日の夕方のことでした。この時は北野さんからの電話でダメになったのですが、12日の土曜日に新年会があり、翌日の日曜日に一人だけ仕事で、トナミ航空から池袋行きの展示会の荷物を積んで出たのです。

 そして富山県内の高速道から文さんの自宅に電話を掛けたところ11月の終わり頃以来で彼女が出てくれたのです。このことを考えれば、やはり掛けてくれと言われながら彼女が出なかったのもそれ以前であったと考えられます。

 3年中は頻繁に自宅に電話を掛けていたのですが、年が明けてから電話を掛けたのは、1月の25日、この時はお母さんが出て、初めての厳しい態度、その前の21日の浜口卓也自宅アパートからの電話では初めてお父さんが出たのです。その次に掛けたのが2月の16か17日で、この時はお父さんが出て、やや厳しい感じでいないと言われました。

 そして最後に掛けたのが3月23日の夜で、久安にいるという文さんに代わって両親と話しがしたいと思って掛けた電話で、すぐに文さんが出たのが最後の電話だったのです。

 これらは記録中のどの記述を見ても必ず一致しているはずだと自信を持てます。ところで、出所後に松平からあずかった会社の記録によれば、16日から20日頃に掛けて私は山梨から池袋に行っているのです。細かい点は省きますが、そうだとすれば前妻に会ったことも名古屋から帰りではなくなりますし、多くの矛盾が出てきます。会社の記録は、この点だけに止まらず、ほとんど半分以上の運行が私の記憶と相違しているのです。ですが、会社の記録は高速道の領収書やスタンドでの給油伝票も添付され、体裁を整えたものとなっています。

 なぜそのようなことになったのか私には不思議でたまらないのですが、はっきりしていることは運転手が作成する業務日報の筆跡が区々に異なっていることです。このことばかりは誰が見ても明白であり、裁判所の書記官も納得していました。給油の伝票についても大阪で高速道路の料金所を通過した2時間ぐらい後に津幡で給油しているのです。西インターであればなんとか可能かも知れない時間での移動なのですが、津幡であればまず不可能であり、津幡で給油した理由も見出せません。

 河野と宇出津にミカンを運んだこともあったのですが、これも12月中という私の記憶に反して11月10日頃になっています。この時期にミカンが大量に僻地まで出回ったとも常識的に考えられないのです。他にも色々ありましたが、昨年の春頃以来、会社の記録に目を通してはおらず、その時点においても十分な精査、検討はしていなかったのでまだまだ、はっきりすることはあると思います。

 なぜ会社がそのようなことをしたのか、それよりそのような工作をどのようにしてすることが出来たのか、不可解という他はありませんが、推察されるのは、事件後に工作したこととそれ以前に準備していたという二点です。他にもはっきりしていることは繁克が供述調書において、市場急配センターをやめたのは10月頃だったと供述していることです。

 これは私が初めて文さんに交際を申し込んだ時期に相当しますが、連中は繁克との破局と私の登場を結びつけたかったことが窺われ、破局で動揺していた文さんに心の隙があったことを当局に印象づける意図があったと推察されます。いずれにせよ連中が事態を正確かつ詳細に把握していたからこそ出来たことであり、練り上げた計画性が窺えるのです。

 このような事件のことを話題にすれば切りがないのですが、それはやはり過去のことであると最近になって気付くようになりました。過去にどんなことがあったにせよ、はっきりしていることは既に6年半も文さんとは会っておらず、声も聞いていないという現実です。

 先日の電話の中でも自宅に電話を掛けることは文さんのためにならないというお父さんの言葉がありました。反面において会社に私からの電話を許してくださっていることは僅かにチャンスの余地を与えてくれているのかも知れません。少なくとも自分の都合の良い方に解釈すればそのようになります。

 どちらが本心であるか一番答えを分かっているのはお父さん本人だと思いますが、現状においても私の心は傷を深め、諦めることを度々口にするようになりました。思えば、事件前の文さんに対する態度にも酷似するものがあります。事件の一月ぐらい前、友人の奥さんに次のようなことを言われました。「広野さん、その人のこと好きなん、それともその人が自分のことを好いてくれとるから好きなん。」という言葉です。彼女に限らず大方の見方はそのようなものであったと思われます。

 見方を変えれば、私がなぜ逡巡を捨て去れず、自分の気持ちだけでどうにもならない状態に置かれていたかは誰にも理解されていなかったことになると思います。どんなに言葉を重ねて説明しても結果は変わらなかったと思います。結果から理由を考えるというのがほとんどの人のものの見方で、それも不合理な意味ではなく、視界の限られた人間の限界が介在していると私には思われます。カントの批判哲学(ひはん‐てつがく【批判哲学】ひはんてつがく(ドイツkritische Philosophieの訳語)認識の前提、原理、目標、限界などの検討から出発する哲学。カントやカント学派の主張した立場。批判主義。先験哲学。Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988.国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988.)が思い起こされますが、このようなことを口にすれば変人思われるのがおちです。情実と利益に従って行動するのがほとんどの人の現実のようであり、哲学や法律など非現実的な別世界の物事だと少なくとも私の周りの人は考えているようです。

 彼らを非難しているわけでなく、日々の暮らしに負われ。仕事と家庭の生活を維持するならば、そのような余裕など殆どないはずであり、仕事の試験をなおざりにした私など見方によれば最低の人間で、人のことをとやかく言う資格もないのです。これは余談のようですが、私をこれらをすべて含めた現実の姿を対象に据え、自分なりの判断で、自分なりの努力を重ねてました。出所してからずいぶんおろそかになりましたが、刑務所にいるときは司法試験も遙か射程に据えて法律の研鑽に勤しんで来ました。

 事件を中心に置いてきたので、勢い刑法と民法が中心になりましたが、体系を把握するため全般的な勉強もしました。刑務所で得たものと言えばそのような知識であり、勝つためには必要であると当初から思い立って実行したものです。誰からの教示もありませんでしたし、すべて独学です。パソコンも独学ですが、これも裁判のためです。ちよっと違っていたのは文さんがパソコンを操作していたことが、より興味を引いたことです。事務系の仕事をしたいと思ったのも文さんの影響です。それまでの私にすれば机に座る仕事など全く想像すら出来ないぐらいに嫌な仕事でしかなかったのが、好きになり、今でも心から断ち切れずにいるのですから、不思議なものです。ここで一言お断りをしておきたいのですが、私の話はすぐに横道にそれ、主旨が滅裂でいい加減なようですが、一度に多くのことを説明するにはこのような方法も一つなのです。これらの中からより詳しく正確に知りたいとお望みの事があれば別の機会に説明させていただきます。

 さらに失礼なことになるかも知れないのですが、この記述において読み返しや校正は時間の都合上行っていません。誤字脱字があるかもしれないのですが何卒お許しください。さて、本題に戻りますが、本件においては私の性格や独自の価値観のようなものの多分に影響していたと思います。くどくど述べることはしたくないのですが、例えば、女を喰うという言葉を私は大嫌いです。性的にものにすることを指標する俗語のようですが、食べたと言う表現も虫酸が走ります。

 少なくとも金沢市場輸送で運転手を始める前の私の周りはそのような考えの人間がほとんどでした。ほとんどは会社でも比較的重要な位置に就き、自宅も購入して今ではすっかり落ち着いているようですが、やはり彼らとは根本で考え方が違っていてなじめないところがあります。当時は意識しなかったのですが、そんなこともあってか次第に離れて行きました。今では全くに近く付き合いはありません。そのような点だけで人を評価することにも躊躇を覚えるのですが、長距離の仕事をするようになってから自分の方から誘いも断り疎遠になっていったのです。

 彼らの目から見ても私はやはり偏屈者なのかも知れません。しかし、このような偏屈な点が文さんには好感を持っていただけたのでないかと思うのです。結婚したら自由がなくなるとか、縛られるという考えも私には妥当しません。本当に望んだ結婚であれば厭うことなどなにもないはずではないかと私は考えるのです。とはいいながら奔放な点も自分にあると自覚し、先に述べた彼らより自分が人間的に高位であるとか優れていると考えることもありません。自分は自分であり、自分に合った伴侶を見つけたいと私は常々考えていたのです。向こう見ずにこの一点を強行したのが先の結婚の失敗の一つであったという反省もあります。

 やはり相手の立場も尊重しなければならないと思います。しかし、その基盤にあるのが信頼関係であって、信頼関係を築くことに急になっていたという側面も前妻とのことにはあるのです。なお、浜口卓也の供述調書では、そのような私の価値観とは裏腹のような内容を本人が私に説諭したような供述があり、文さんのことをそこらにいる女とは違う芯の通った女で一筋縄ではゆかないと諭したように言ってありますが、そのようなことを言われた記憶は私にはなく、仮に私の記憶違いだったとしても先に述べた会話の内容は確実な事実であり、趣旨の相反する話を聞いていたならばそのように印象に残っていると思うのです。

 私の周りの評価について、傍目には封建主義で、男性優位の戦前の思考の持ち主と思われているように感じますが、無粋な論議も望まず、私も己一身の真実を追い求めてきたのです。このような私個人の考え方を敢えて思想上の問題という表現で書きますが、事件に至ったのはそのような個人的な価値観に裏打ちされた思想上の問題だけではありません。私はより現実的に文さんのことを考えていたのです。よくよく考え、考え抜いていたことなので今でもはっきり覚えていますし、基本的な考えも変わりません。

 すなわち、文さんの堅持する態度では、好きな人ないし彼氏の存在は明らかであり、それが私でないことも彼女自身が再三再四、口にしていたことでした。初めて文さんに告白した10月5日以来、彼女の態度は一貫したものであり、友達として付き合って欲しいという私の頼みにも即座に「ごめんなさい」と断ったのです。彼女本人が行動で示した態度は明らかに私との付き合いを積極的に考えているとしか考えられなかったのですが、態度と言葉の二律背反はどうにも理解出来なかったのです。

 一般的に考えられたのは、当時の若い女性の風潮として、同時に複数の男性と付き合い、本命や足などに使い分けているという自然に耳に入る情報でした。いかにも自分本位な考えのように思われますが、反面において男の方もずいぶんだらしなくなっているという印象がありました。文さんは繁華街を中心にした遊び友達と正反対のような生き方をする私に興味を抱き、会社の同僚として仲良くしたいと考えているのかと解釈したりしたことを覚えています。

 一時は彼女が覚醒剤のような薬物を濫用し、自分の行動が制御できないのかとも考えたこともありました。しかし、彼女の行動には一筋の一貫性があり、どのように考えても私のことを真剣に考えていてくれると思われたのです。ほぼ絶対的な論理性を持って理解する一方で、彼女本人もそれを否定し、周囲も誰一人として私の考えを認め、肯定してはくれなかったのです。

 初めて彼女に交際の申し出を断られたときも、ずいぶんショックでした。ごめんなさいという言葉が脳裡から消えず、二度と聞きたくないという言葉をその後も続けて連発されました。離婚したこともあるし、自分が社会的にも信用が薄いという引け目や、離婚していることの負い目もありました。品があり、身なりもきちんとしているので一見して普通以上の生活水準の家庭の子であると見受けられたのです。先行きは暗く、早く諦めた方がお互いに傷つかず、その方がよいと考え、すぐに諦めると言ったのです。

 この「諦める」という言葉も私が彼女に対して連発した言葉です。私の推測になりますが、彼女もこの言葉に傷つき、避けようとする気持ちが強かったのではないかと思います。それが会社の連中の舵取りによって、自宅での電話対応の拒否、会社での裏駐車場の行動に発展したものと思えてならないのです。その後も彼女の態度は一貫しており、事件後西署前で離れるまでいささかも変わらなかったのです。事件のことを思い出し、それを記述することは私もつらいのですが、結果から一般に想像されるような凄惨さはなかったと思います。信じられないようなことですが、彼女は一度も、「やめて」とか「許して」などという言葉を発せず、「痛い」とさえ言わなかったのです。

 致命傷となった私の蹴りは、悪夢にとりつかれたような感覚が最大限に達し、反射的に出たの行動だったのです。もう殴らないから本当のことを話してくれという何度かの言葉にも彼女は耳を貸さず、ふいに外に這い出ていたのです。なにかうごめく化け物のようにその時の私の目には映ったのです。会社の者に対する不信感も彼女言動に呼応して最大限に達していました。

 既に自分自身を見失い、自分の脳も信じれらなくなった私は、彼女本人に問い質すしか方策はないと思い込み、事実を一番知っていると思い込んでいた彼女に問うたのです。民事裁判の過程で私の供述調書を読んでいられるかも知れませんが、強姦の故意を強調した部分を除けば概ねその通りの状況でした。

 とりわけ会話の内容はありのままに近いと思います。警察官の令状請求に伴う報告書のようなものにも「彼女に不信感を抱き、その真意を問い質すことを決意とし、」などという下りで、私の動機を明らかにしています。この点も裁判では一切問題にならず、判決では「自己の意に沿わない彼女の態度に立腹」したとか「何度も交際を断られたことに立腹した」ような事実認定がなされています。これは裁判所や検察庁の方で意図的に事件の核心をはずしていたとしか考えられないことです。

 警察署においても同様で、明確に私が、犯行の契機となった裏駐車場のことを供述していたのに刑事は全く問題にすらしなかったのです。具体的な情況を訊ねられることもありませんでした。なぜ文さんを殴ったのか、それは裏駐車場のことを尋ね、はっきりと知らないと言われたことでした。それまでの彼女の態度から考えて、話し合いのみで心を開いてもらえるとは考えられず、その他のことも絡んで私は悲憤慷慨の極に達したのです。

 私に対して逆恨みの当て付けのような言動を見せていた彼女にもどれほど自分が真剣に思い詰めているかを示したかったのです。殴っても彼女は知らないと言い張り、本当に知らないような態度だったので、何とも言えない恐怖心が心の底から突き上げました。思わず出た言葉が、「お前は、本当に不気味な女やな」でした。

 言葉で説明することは難しいのですが、その時の感覚というのは車を運転中大事故を起こしかけた瞬間のようなものでした。なおかつ頭の中がはじけ飛んだような衝撃だったのです。事件後においても長い間私は、自分自身の精神に不安を持ちました。警察で自分の気持ちについて十分なことを言えなかったのもそれがあったからです。皮肉なことに17才の時、偶然に近いかたちで松原病院に安田敏を見舞いに行った時の初めて見る衝撃的な光景が過去の記憶を再燃させ、その半年ぐらい前に突如として鑑別所に収容されたときの独房での恐怖感も留置場での拘禁と連動していたのです。

 裁判の過程においても私の行動は常軌を逸したものとして弁護側から請求された精神鑑定が裁判所で認められ、平成5年の3月1日から31日まで間、金沢大学付属病院で精神鑑定を受けたのです。結果として記憶や精神に異常はなく、歪んだ人格特性に基づく人格反応といわれ、爆発型の精神病質の傾向を持つと判断されました。

 山口教授の鑑定結果だったのですが、教授の態度も常識的に真意とは考えられませんでした。心臓が止まりそうになり全身のふるえが止まらない恐ろしい薬物検査もされたのですが、それは身体に極度の負荷を与え、極限時の脳の異常反応の有無を検査するらしいものでした。それにおいても異常は出なかったようです。

 身体的にもきつい検査でしたが、一昔前なら脊髄から脳まで管を通して検査をしたりしたそうですから、それに比較すればさほどではなかったかもしれません。既にその前から拘置所で精神医学関係の本を何冊も読んでいた私は、精神鑑定についても普通以上の知識はあり、次に何をされるのかわからないという不安な日々を送っていたのですが、その不安も事件に至るまでの不安感に比較すればそれほどとは感じませんでした。

 保護房で戒具を付けられたときも、息をするのもやっとで立つこともままらない苦痛が49時間続き、その間痛くて睡眠もとれず、食事もほとんど摂らず体もかなり衰弱したのですが、その時の衰弱感というか独特の感覚は、中西運輸商にいた時に何度も体感した感覚を呼び起こすものでした。

 これに近い衰弱感が事件前数日間の私の体にも現れていました。体の限界を超え、生命の綱渡りのような仕事を経験していたので、危機感が一層募っていたのだと思います。中西運輸商では連続運行でそのような状態になったのですが、事件当時は仕事内容以外に文さんのことで眠れず、食欲のないことが多かったのです。

 このままでは大事故を起こしかねないという不安も強くありました。特に事件前日の古河から名古屋の運行では、中西運輸商以来の精一杯やっとの思いで運行を終えたという経験があったのです。私がいた頃の中西運輸商は、ハードなことで有名な佐川急便の配達運転手の間でも中西運輸商は気違いだと言われていました。九州男児などといわれ、日本国民の中でも特に男気があり勇猛果敢と言われる九州の運転手も中西運輸商は日本一きつい運送会社だと言う者が少なくなかったのです。これは自慢話などではなく、客観的状況の比喩として引き合いに出しているのです。

 市場急配センターでの仕事内容については割愛しますが、一言で言えば、それまでの長距離の仕事の中で一番楽であったことは間違いありません。比較にならないような仕事内容で、それを金沢市場輸送で大型車に乗務した当時の給料計算に換算すれば総支給で30万円ぐらい、平ボディ車の運転手並かそれ以下です。それが市場急配センターでは50万円だったのです。

 業界自体の給料水準もかなり上がっていたので一概には言えないのですが、それだけの違いがあり、松平が運転手を優遇していたことは参考にもなると思うので摘示しました。会社の経営について知識がないのであまりはっきりしたことは言えないのですが、竹沢と松平は当初から営業利益など度外視して私と文さんを計画にはめるためにのみ、長距離部を市場急配センターに設け、舞台を設営したとしか私には考えられないのです。

 蹴る瞬間目をつぶったかして状況を見ていなかったのですが、刹那の後の光景は異常に苦しんだ文さんの姿でした。転げ回るようなものではなく、静かに呻くような苦しみ方でした。普通の怪我ではないとすぐに判断できました。頭を打ったとは考えなかったのですが、顔の骨が折れたか、蹴りが鼻か目の周辺の弱い部分にに当たってしまったのでないかと危惧しました。

 声を掛ける必要などなくとにかく至急病院に搬入しなければならないと判断しました。迂闊に声も掛けられないと言う動揺もありました。消防署が頭に浮かんだのですが、一番近いところで駅西だったので、時間が掛かると思い。直接病院に運ぶことも手続面で時間が掛かると憂慮され、一番近くて適切な手続が期待できるのが西署だったのです。

 急いで西署まで向かい、正面向かいの道路横に車を止めた私は、不安の念や後ろめたさが入り交じった状態で文さんに声を掛けたのです。強情を張り通されたという思いもあり、「オレ、お前のために人生棒に振ったようなものやな。刑務所行くかもしれんけど。今から警察入るし、救急車を頼む、病院に連れていってもらう、最後に聞くけど本当に車止めておった覚えないがか?」などいうないようの言葉を、本当の目的は彼女の容体を窺いながら声を掛けたのです。彼女は子供のような声で、「一体なんの話しや、私知らんよ、」などと言い、最後に少し拗ねたような感じて「なんやそれ」といったのです。

 大怪我を負っていると思い込んでいた私だったのですが、彼女が少し眠そうな感じで平然と受け答えをしたので緊急を必要とするほどの大怪我ではないのかも知れないとある種の期待も込めて判断したのです。

 同時にそれまで怪我のことで後ろに退いていた不信感も再び顔をもたげ、彼女のこれほど殴られながらも問題にしていないようなかわいい声に愛しさが倍増し、どんな事情があろうと自分のものにしたいという気持ちと、普通の女性として最も意思確認が確実であると思われる性行為に臨んでみようという気持ちが合致したのです。彼女の行動による一貫した意思を再確認したという自信もありました。

 この機会を逃してはたとえどんなに文さんが私との交際を臨んでも両親が許すはずがなく、すべての事情は棄て去られるとも考え、家族の方々に不可解な事実に目を向けてもらうための既成事実の創出という意味でも唯一有効な方法だと思ったのです。これらのことを私は車で交差点を通過するぐらいの短時間で考えたのです。そして近くに車を移動させ、行為に及んだのですが、文さんは黙ったままでした。なすがままに身を任せるとともに一言も口にしなかったのです。

 様々な思いが去来し、私は体の方でいうことが聞きませんでした。ずいぶん長い時間が経過し、なんとしても遂げたいと思っていた行為ももはやこれまでかと諦めかけた頃、彼女の方で「イャ、イャ、イャ」と悲しそうな弱々しい声で反応したのです。言葉の上では拒絶なのかも知れませんが、それまでの状況から判断するとこのままで終わるのは嫌だと訴えているように聞こえたのです。「黙れ」と一言いうと、彼女は素直にその前と同じように静かに黙っていました。

 本当に嫌なら一言で終わるはずがなく、彼女のそれを望んで静かにしていてくれたのだと思った私は、気が楽になり体の方もいうことがきいて思いを遂げることが出来たのです。彼女の容体も心配だったので必要最低限の時間で完遂しました。しかし、行為が終わると自分の考えがまたしても自分本位で都合のよいものに思え、彼女の真意が分からなくなり、あるいはさほど重要なことだとも考えず、私に対する義理として身を任せたのではないかとも思えてきたので、またしても彼女を挑発するような言葉を向けたのです。

 「このまま街に、放って来てやろうか」などと言いました。文さんは黙ったままでした。既に顔面は血だらけでずいぶん痛いだろうと可哀想になりました。彼女にしてもこれほどの目に遭いながら、それでもなお心を開かなかったということは話したくないよほどの事情があったに違いない。自分の方も大変なことをしてしまった前途多難である、一人では嫌だが彼女と一緒なら最高の幕切れにもなると思い、一緒に死のうかと声を掛けたのです。この時ばかりは力強い声ではっきりと嫌だと答えました。

 このメリハリの違いで先程はやはり黙っていてくれたのだと安心しました。「嫌なら病院行くぞ」と言葉を返したところ、彼女は「ここどこや」と甘えたような声で問いかけたのです。あまり平然としており、病院のことも口にしなかったので、ますます思いの外怪我はひどくないのではないかと思った私は、出しかけた車を止め、迷惑をかけた松平社長に一言謝っておきたいと思い、彼女に松平の電話番号を尋ねたのです。彼女は、会話を遮るように社長など知らないといい、すぐに続けて、「広野さん、目見えん、私目開とる」と言い出したのです。目に怪我をしているかも知れないという先程の危惧感が現実のものとなり、私は急いで西署に戻りました。

 その前に彼女の気持ちを落ち着かせ、自分の気持ちも落ち着かせようと自販機に止まり、ジュースを買いに出て、文さんにもいらないかと声を掛けたのですが、彼女はまたしても眠そうな甘えた声で「いらない」と言いました。途中彼女から「広野さん」と甘えた声で名前を呼ばれたように思うのですが、全体が夢の中の出来事のような状況にあったなか、この言葉だけは、先程までの高ぶった気持ちも落ち着き、病院に一刻も早くという焦燥感に支配されていたこともあり、夢か現か定かではないのです。

 それまでの言葉をほとんどすべてはっきり記憶しているのは、全神経が文さんのことに注がれ、集中していたからだと思います。これは文さんとの関係全体にもあてはまることです。福井刑務所で二回目の再審請求をすることになったのは丁度民事訴訟を提起された頃ですが、その段になって初めて見た警察の報告書のような書類の中で、出頭の時に文さんから直接事情を聴いた警察官が、誰に殴られたと声を掛けると、文さんは私の方を指さしたと記載されています。
〉〉〉:Linux LibreOffice: 2023-09-29 10:48:31 〉〉〉
 前から気になっていたが、存在が確認できていない書面。
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 このことからも目が見えないと彼女が言ったのは、真実ではなく、ここで話し合っても埒があかないと考えた彼女の咄嗟の嘘だったと思われるのです。医学的には脳の怪我の影響で視界もぼやけていたのかも知れないので確定的な根拠にはならないと思うのですが、裁判においてはこのような論駁も相手方から出るかも知れません。

 客観的には流血の惨事で痛ましいという他はなく、裁判で事実を争ったりする私の態度は、人間性を疑われ、異常だと決めつけられるかもしれないのですが、私にとって文さんの終始一貫した姿勢の結実は、まさにこの西署での離れの時であり、それが脈々といきついでいたのです。

 皮肉なことにそれを文さん同様お慕いする家族の方々に叩かれ続けてきたことは、やり場のない悲しみと憤りでした。現在では、こんなことでご家族の怒りがおさまるとも期待がもてません。理性や論理の上では、まず自分自身がしっかりして基盤を作り、ご家族のご宥恕とご理解を求めるべきことは重々承知しているのですが、今のていたらくは先にお話ししたとおりです。私の悲願についてはお父さんにお話ししてあり、そのこと自体はいささかの変わりもありません。事件前も今も自分の言動を客観的に観察すれば、変わっていない筋があると思います。

 本来諦めるなどと言う言葉は、それにふさわしい場合を除き、相手方にとって失礼であり、口にすべき言葉ではないと反省されることです。それでもなおここで思いの丈を明らかにしたのは、偽りのない真の気持ちを理解していただきたい一念からのものです。この手紙によって今すぐに文さんに会わせて欲しいなどと言う気持ちも毛頭ありません。今回は最初の一歩として事実に目を向け、これからのことを真剣に考えていただきたいのです。直接文さんに謝り、許して欲しいという気持ちもありますが、文さんとのことは、多大のご迷惑とご心痛をおかけしたご家族の理解と協力なしには、絶対にうまくいかず、またしても文さんを傷つけてしまうと憂慮されるので勝手な行動をする気は毫もありません。

 ただ、分かって欲しいことは、私の夢になりますが、仕事に専念し、生活を維持向上させ、文さんとともに終生生活し、月に二度ぐらいは一緒にどこかに出掛けたり、遊びに行くことと、年に一度ぐらいは一緒に旅行も出来たらいいと思うことです。

 ささやかな願いになるかも知れませんが、私にとっては事件前も今も変わらないことで、障害を負われたこともいささかの遜色もなく、消長を来すものではありません。勝手な解釈になるかも知れませんが、私にすれば、あくまで私にすればになりますが、結婚を互いに前提に約した交際後に彼女が不慮の交通事故に遭い同様の怪我を負ったと考えれば、割り切れないことではなく、私のための証として身を挺してくれた傷であればなおさらのこと愛おしさが募ります。

 このことについて一言添えるならば、比較的最近まで私は、文さんのことを「志士仁人は命を惜しんで仁をたがわず、また身を殺して仁を成し遂げることがある」、「朝に道を聞かば夕べに死すもかなり」という言葉に事件当時の文さんの姿を重ね合わせることがありました。事件が発生した同じ年の9月頃に官本という刑務所内のその本の中での解説も私が一番新しく持つ辞書とでは語意の解釈がまるで違っています。

 官本の方はかなり古いもので、太古の漢文を翻訳したものですが、明日に道を聞かば、のほうも朝に人間として誠の姿を見たならば夕方に死んでも悔いはない、というような内容だったと思います。

 志士仁人の方もはっきり思い出せないのですが似たような意味でした。それが最近の辞書では次のような解釈に変容しています。晢仁人(じんじん)は生(せい)を求めて以(もって)仁を害することなし (「論語‐衛霊公」の「子曰、志士仁人無二求レ生以害厦仁。有二殺レ身以成厦仁」から)志士や仁者は、自分の生存のために、博愛の徳にそむくようなことはしない。自分の生命を捨てても、人道をまっとうするものである。Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988.国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988.、晢に道を=聞かば[=聞いて]夕べに死すとも可なり (「論語‐里仁」の「子曰、朝聞レ道、夕死可矣」による)朝に大事な道を聞いて会得したなら、その晩死んでも心残りはない、の意で、道(真理)のきわめて重要なことを強調したもの。Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988.国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988.昔の辞書の方がより謙抑的で誠実だったと思います。

 このように同じ物事でも取り扱う人の人生経験やそれに基づく主観が反映されるのです。これは裁判においても似たようなところがあるそうです。そのように私は文さんのことを自分の信念を貫いた孤高の人のように思っていたのですが、次第に現実的に考えるようになり、比較的最近になっては、文さんは自分の好意の行動で、私が憤慨することがどうにも理解できず、会社の連中の布いた布石である(ふ‐せき【布石】
ふせき1 囲碁の序盤戦。戦いが起こるまでの石の配置。配石。石くばり。
2 (—する)将来のために、前もって手くばりをしておくこと。「政界進出への布石を打つ」Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988.国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988.)私に対する不信感や恐怖感が先だって金縛りにあって何も言えないような状態ではなかったかということです。

 また、それ以前に思っていたことですが、文さんも私とのことがうまくゆかない原因を会社の連中に感じていたのかも知れません。それ故、あえて目先の問題として処理することなく、問題を持ち越したのではないでしょうか、事件当日はその時期としても寒い方でした。それにも関わらず、文さんは薄い長袖シャツ一枚で、上着を羽織らないまでか所持もせず、その初めて見るシャツには道化師すなわちピエロが描かれていたのです。ピエロという存在にも多義があると思いますが、自分のためではなく、人のために演技をする意味があると思います。参考までに辞書をくれば、次の如しです。ピエロ(フランスpierrot)〈ピエロー〉サーカスなどで、演技の合間に登場して道化を演じる者。また、その役。滑稽な化粧とだぶだぶの衣装で、おどけたしぐさや無言劇などをする。道化師。Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988.国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988.、どうけ‐し【道化師・道外師】どうけし(ダウケ‥)1 ⇒どうけがた(道化方)2 いつもおかしなまねをして人に笑われる者。また、道化を業とする人。
Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988.国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988.、私が描くイメージもここにはありません。

 当日彼女と会ったときその服を着ていることはすぐに気付いたのですが、その意味するところを深く考える予想はありませんでした。文さんの行動を一々解釈していたならば、ほとんど毎日、会う度の連続で意思表示があり、一日に数回あることも多かったのです。そして私の出した答えは絶えず文さん本人においても否定され続けていたのです。文さん個人特性であるとしか考えられませんでした。

 当時の私は客観的事実に反して、主客を転倒して文さんを見ていたのです。すなわち、本来ならば会社の連中が文さんを翻弄していたのに、専ら会社の連中の方が文さんのわがままに振り回されていると見えていたのです。本末転倒の問題を事実として既成化する力も現実にあるのであり、心理学の本でも見たことがありました。これも福井刑務所で読んだ官本で、嘘の社会心理とかいう有斐閣の本でした。名前は思い出せないのですが、西洋の有名な心理学者の著述を引用したものでした。

 連中の中でもとりわけ竹沢は心理学や権謀術数の知識に長けていると思えてなりません。私が現在、少し読んでいるマキャベリ(マキアベリマキアベリ(Niccolo di Bernardo Machiavelli ニッコロ=ディ=ベルナルド—)〈マキャベリ〉イタリア、フィレンツェの政治家、政治学者、歴史家。「君主論」で現実主義的政治論を展開。著「フィレンツェ史」「ローマ史論」「戦術論」など。(一四六九〜一五二七)Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) ゥ Shogakukan 1988.国語大辞典(新装版)ゥ小学館 1988.)の中でも、一般に手段を選ばない策略家で殺戮を好む暴君のように言われているマキャベリが懐柔による人心操作にも意を払っていたことが書かれています。

 この本も出所した当日に購入した10冊ぐらいの本のうちの一冊なのですが、ようやく最近になって目を通したものです。精神医学や社会学、哲学などにも関心を寄せ、本を読み漁った私ですが、その目的は首魁(1 さきがけること。また、そのもの。さきがけ。2 かしら。首領。首謀者)竹沢を打倒することが事件の全貌解明であって、勝ちを征するための不可欠の要素であると位置づけていたからに他なりません。犯罪小説もかなり読んだのですが、想像を妄執に発展させ、実社会において実行するという連中に共通した要素を掌握するための参考として聞き置いていたのです。

 兵法の本も読み、関連があると思われるあらゆる知識を吸収しました。現実の社会においては、23才と24才の青年がそろって「共謀」という漢字を読めず、一人がしばらく考えて山勘で当てた程度でした。それほどの意識しか犯罪について持ち合わせてはいないのです。
 
 文さんについてお話ししたいことは尽きないのですが、今の段階においてあれこれ話しをすることも適切であるとは思えません。最後に私が一番言わせていただきたいことを話します。それは、文さんを粗野な言葉で傷つけてきたことを謝りたいのです。

 互いに傷つけあってきたことでもありますが、人としてましてや6才年上の成人として文さんを包み見守る包容力がなかったことは非難されて仕方がありません。度が超えた点も確かにありました。弁明になるかも知れませんが、その言い訳をさせていただくと、やはり文さんの存在が自分にとって大きすぎたことと、文さんがいい加減な男の毒牙にかかって人生を踏み誤ることを極度に恐れ、嫌われ悪者になってでも、よくなって欲しいと願ったから、あえて苦言を呈し、諫めたのです。

 そして自分がどれほど真剣で愛おしく思っているかをストレートに伝えたかったのです。会社の連中に対しても、私は金沢市場輸送時代から不信感を抱き、油断のならない連中であると一線を画していたのです。そんな連中も、ニコニコと雑用や弁当の買い出しに行ってくれる文さんに、邪心を抱いているなどとは露も思わず、そう考えたくもなかったのです。

 不審を感じることがあったも、そのような考えをもたげる自分自身を卑小で恥ずかしい男だと思いました。そのような好意的な見方が本来目に映っていたものを歪め、目を曇らせていたのです。当時のことを私が詳細に記憶しているのも常に状況を注視し、分析していたからです。当時の結論は先にも述べたように主客を転倒させたものでした。文さんと知り合うまでの私は、虚無的な思考の持ち主であり、反面において現実のみを重視する理想主義者でした。恋愛物などのドラマも嫌いであり、人の生死を軽々に興味本位に扱う殺人事件のドラマも嫌いでした。作り事を軽視し、嘘を侮っていたことが連中に足下をすくわれる素地になっていたとも思います。連中は、軽蔑されることに喜びを感じるようなマゾヒストであり、その裏で相手を貶めることに至高の快楽を感じるサディストなのです。

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