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令和6年3月16日付告発状の草案/金沢弁護士会の組織的犯罪性が問題となる市場急配センター殺人未遂事件(01)


金沢弁護士会

令和5年度金沢弁護士会役員・会長1名副会長6名の刑事責任の概要

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 金沢弁護士会に電話をするようになったのは昨年9月の20日頃と思います。その2,3日前に金沢地方法務局輪島支部に電話を掛け、金沢弁護士会による人権侵害の相談をしたことはよく憶えています。

 きっかけとなったのは杉田水脈という女性政治家に法務局が人権侵害の勧告を出したというニュースでした。

 このあと過去の記録を調べながらできるだけ正確な事実の経過を記したいと思いますが、今は現在の記憶のまま、まずは概要をお知らせします。

 印象的によく憶えているのは能登町の旧柳田村にある野球場から金沢弁護士会に掛けた電話でした。会話の内容はあまりはっきりと思い出せないですが、大事なことをお伝えしたと記憶にあり、その場で撮影した写真もあるので日付の特定はできるはずです。

 次に、とても印象的な場面として記憶にあるのは、志賀町町長が逮捕され、志賀町役場に石川県警察の強制捜査が入ったというニュースの2,3日前で、金沢地方検察庁の担当者に金沢弁護士会に対するガサ入れ(強制捜査)を求め、それを金沢弁護士会の事務局長に伝えたことです。

 強制捜査の目的物は告発人廣野秀樹と金沢弁護士会との電話の録音データになります。最初に電話をしたときから金沢弁護士会ではガイダンスで、この会話を録音させて頂くというメッセージが流れていました。

 金沢弁護士会が任意の提出に応じなかった場合という条件付きでしたが、会話の内容が非常に大事な証拠物だと考えました。

 次に、10月28日になるのか、土曜日の午前中に金沢弁護士会から書面が届きました。前日の金曜日の電話で本日に郵送するような話は聞いていたように思うのですが、消印が金沢南郵便局で18時を過ぎた時間となっていました。

 その後、大きな動きとなったのは12月14日のことで、まず午前中に珠洲警察署の担当者から電話があり、午後にその担当者が令和5年11月6日付告発状の写しを持って自宅に訪れ、刑事告訴として受理できないので返却すると言われました。

 金沢地方検察庁への刑事告発の補充書の提出後に、告訴状を提出するような話をしていたのですが、まだ刑事告訴の手続をしていないのに不受理などと言われたことになります。

 この珠洲警察署というより石川県警察の対応に告発人廣野秀樹は憤慨し、日本弁護士連合会にも電話を掛けたのですが、このときに金沢弁護士会の役員を被告発人に加えるような話を金沢弁護士会の事務局長にしました。

 少しも驚いた様子はなく、被告発人に加えるのはかまいませんが、当会としてこれまでのような対応は出来なくなります、などと言われ、その時は面倒が増えるだけと考え、その場で撤回する旨、事務局長に伝えました。

 12月25日付で告発補充書を金沢地方検察庁に郵送で提出し、年末の電話ですぐに1月中頃に再度、告発補充書を提出すると金沢地方検察庁の担当者にお話ししていたのですが、1月1日夕方の能登半島地震で、その日の夜から避難所での生活となり、予定が大幅に狂い、生活の見通しも立たなくなりました。

 1月26日まで宇出津小学校の避難所にいて、その1月26日の夕方からは小松市のホテルでの生活となりました。2次避難先になります。

 1月の中頃に電話をしたときと思いますが、担当者に2月9日を期限に補充書を出してほしいと言われました。その時の電話が最後だったのか、それから2,3日後の電話が最後になるのかわからなくなっていますが、それ以降、4月の年度替わりからずっと話をしていた担当者は電話に出なくなり、新たに別の担当者が対応するようになりました。

 体調を悪くしているとは聞いていたのですが、2月の中頃に地震で怪我をした可能性を尋ねたところ、怪我ではないと言われましたが、まだ当分出てこれそうにない、という話でした。

 期限最終日の2月9日に、令和6年2月9日付告発補充書を直接、金沢地方検察庁に出向いて提出しました。

 このときに、金沢地方検察庁の記録係で、平成11年の安藤健次郎さんの傷害事件の判決謄本の交付を求めたのですが、すぐには出せないと言われ、2月16日に出直すという話をしました。

 その数日前に、母親の転院が決まっていて、それが2月16日でした。転院先の病院は金沢地方検察庁から比較的近い、卯辰山の近くの病院になります。歩いて行ける距離なので2月9日に病院で、それまでに電話で何度か話をしていた相談員の人と病院でお話をしました。

 2月16日は、金沢市平和町の金沢市立病院からの転院でしたが、平和町のコンビニ・セブンイレブンで再審請求の意見書の印刷をしました。金沢弁護士会に提出する書面と同じ内容で作成しました。

 2月9日だったように思い出しましたが、金沢地方裁判所刑事部に立ち寄ったところ、いつもの次席書記官から金沢地方検察庁検察官検事脇坂涼平による意見書を渡されました。

 その場で印刷されたもので、白黒のコピーでしたが、1月17日付となっていました。当日、金沢地方裁判所刑事部に立ち寄ることは知らせてなく、ただついでなので近況報告という目的で直接、顔を出したということだったのですが、いきなり意見書の話がありました。

 この2月16日の後、いつだったのか記憶がはっきりしなくなっていますが、朝に金沢弁護士会に掛けた電話で事務局長と話をして、ぞんざいに感じる対応があったので、それまで3月14日を期限としていた最終判断を変更し、まず変更のない被告発人の追加を決め、金沢弁護士会にも伝えました。このときは不在だといわれたので、伝言として電話口の女性に伝えたのですが、その数日後にも金沢弁護士会に電話を掛け、短い電話でしたが、まずストップはかからない役員を被告発人に追加すると事務局長に直接伝えました。

 これが金沢弁護士会に掛けた最後の電話になると思います。伝言の電話がその前ですが、伝言の前の電話で、金沢弁護士会との信頼関係が壊れた、もう話を聞くといわれても応じられないと伝えました。10月の書面と同じことで、何も調べていないといわれたからです。

 10月の書面が金沢弁護士会から来る前、3週間ぶっ通しで聞き取りに応じる、宿泊費のホテル代だけ金沢弁護士会で出してほしいと条件を出していました。11月6日にも直接、金沢弁護士会で役員などの聞き取りに応じると話していたのですが、事前に断りを受けていました。

 数年来のインターネット上の情報だけでは、十分な判断が出来ないと思うから聞き取りに応じる、無条件に受け答えをすることと、確かな記録として録音を頼み、必要があれば録画にも応じると話してありました。

 この3週間というのは警察署での取調べの期間を想定したもので、取り調べの可視化の要請に応じるかたちと考えたものです。

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市場急配センター

小松市と北陸新幹線

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 3月3日に始めるつもりでいたのですが7日になっています。セーフモードの解除になりますが、金沢弁護士会が独自に調査する時間を設け、だいたい半年ぐらいになったかと思います。

 金沢弁護士会の対応次第で状況は変わっていたはずですが、いずれにせよ金沢弁護士会が独自で調べて考え、行動する機会を優先しました。

 現在、金沢地方検察庁に行っているのは刑事告発の手続で、3月16日に新規の告発状を提出することになっています。ただ、一週間ほど前に3月16日が土曜日だと知って、金沢地方検察庁に電話で確認したところ書面の受け取りは出来ず3月18日の月曜日以降か、今回は郵送で済ませることも考えています。

 令和3月16日付と決めたのは北陸新幹線の延伸、金沢敦賀間の開業日ということで、弁護士鉄道に重ねてなぞらえた新しい時代の幕開けを意識したことになります。記憶しやすく、忘れても調べやすい日付ということもあります。

 1月26日から2次避難先として小松市で生活をしていますが、この小松駅も北陸新幹線の停車駅になります。1月1日の能登半島地震がなければ、まず小松市で生活することはなかったと思いますが、北陸新幹線の敦賀延伸も余り関心のあるニュースではなく、身近に感じることもなかったと思います。

 新幹線は、たぶん昭和52年の9月の能都中学校の修学旅行で乗ったように思いますが、それ以来、縁がなく、昭和40年代後半にも京都や尼崎の親戚のところに行くのに母親と乗ったような気がするのですが、はっきりしない記憶です。尼崎の親戚の家というのは全く記憶にないですが、そこから大阪万国博覧会に行ったような記憶をずっと持ち続けてきました。

 電車で小松駅から金沢駅の間の乗車というのも昭和61年の3月以来で、片山津温泉で結婚式をして、一泊をした翌日に加賀温泉駅から金沢に帰ったという記憶が鮮明に残るのですが、被告発人大網健二と関係者KYNの3人でした。

 もともと小松市というのは、後々不思議に思うほど仕事で来ることが少なかったのですが、少なかったから印象に残っていることもあります。これは昨年(2023年)に提出した告発状にも記載をしていると思います。

 仕事の目的地として来ることは少なかった小松市ですが、仕事でも私生活でも小松市内を通過することは多く、ほとんどが北陸自動車道か当時の国道8号線、それと安宅の関や小松空港に近い道路でした。

 私生活では、妻の実家が加賀市の片山津温泉の近くにあったため小松市は通過点でした。現在は違った道路も出来ていそうですが、国道8号線の御経塚の交差点から北陸自動車道の片山津インターの前を通るのが安宅の関や小松空港の近くを通る道路でした。

 中西運輸商では片山津インターに降りることが多く、カードの使える軽油グループのガソリンスタンドがあったことと、佐川急便の加賀営業所がいつのも仕事先でした。

 中西運輸商にいたのは昭和59年12月20日頃から昭和61年の2月一杯になります。片山津温泉での結婚式はその年の3月10日頃になると思います。

 確認はしていないものの多分、令和5年11月6日付告発状で、小松市内の「くるまやラーメン」のことを記載していると思います。1月26日に小松市に来てから小松市立図書館で平成3年の小松市内の住宅地図をみて、当時の場所を確認したのですが、思っていたより小松警察署に近い場所のようでした。

 小松警察署の建物は金沢西警察署と同じように建て替えとなっているのですが、小松警察署の場合は現在の場所と全く同じなのか未確認です。現在は国道305号線となっている当時の国道305号線沿いですが、道路から奥に入った場所に新しい建物が出来ているのも金沢西警察署によく似ています。

 金沢西警察署の場合は建物がかなり大きくなり、ネットで調べた情報では管轄も広くなったということです。すぐ横に神社の鳥居や参道があるので、前の建物とほとんど同じ場所ということがわかります。

 小松市に来てから気がついたことは、夕方のまだ薄明るい時間、小松市の「くるまやラーメン」に入って、翌日の同じ時間帯には、レストラン十字で被害者安藤文さんと二人でいたということです。別々の出来事としてはどちらもよく憶えていたのですが、一日違いの同じ時間帯ということは考えにありませんでした。

 被害者安藤文さんとの関係が始まったのは平成3月9月ですが、8月中にも意識することがあり、その8月の終わり頃まで市場急配センターで市内配達をやっていて、早朝に受け持っていた仕事が小松市内のスーパーへの成果物の配達でした。

 この市内配達は22日から始めたはずですが、5月か6月か記憶がはっきりしなくなっていて、早い段階で、記憶とは違うことが金沢市場輸送の運行表にありました。

  • 135_斐川雅文弁護士郵送 平成05年12月06日から平成6年6月5日まで閲読許可証 運行表コピー(4枚) 4枚_1-4|再審請求と刑事告発の証拠方法公開サイト\金沢地方検察庁御中 https://note.com/hirono2020kk/n/n93d56fc4686d

 確認のために調べたのですが、平成3年6月18日に「神戸 空車」となっています。19日から25日まで休みとなっています。神戸から戻ったのは翌日の朝で、その時に会社をやめると言って帰りました。配車係兼社長の挑発的な態度に反応してのことですが、これも予め仕組まれた手はずの可能性が高いと考えています。

 あと、さきほどたまたま目に入ったのですが、5月16日に小松で行き荷を積み翌日の17日に川崎で荷下ろし、同じ17日に古河で帰り荷を積み金沢に帰ったことになっています。

 この時期、小松市のコマニーから2,3度、金沢市場輸送で長距離の荷物を積んだような記憶はあるのですが、川崎市内の荷下ろしというのが記憶にありません。川崎市から古河市に向かったという記憶もないのですが、首都高の湾岸線から東北自動車道に向かったという経験もなかったような気がします。

 大田市場から古河に向かったときの首都高速のことも思い出せずにいるのですが、これはすべて夜中の移動だったと思います。

 神奈川県川崎市というのも長距離トラックの仕事で、小松市と似たような印象のある場所で、行き荷も目的地となることが少なく、市場の他は川崎大師の近くぐらいしか記憶になく、横浜市の通過というのがほとんどでした。

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平成4年傷害・準強姦被告事件の原因を全て作り上げた組織犯罪の概要



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