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「人権擁護委員を呼んで来い」と言って、アクリル板を拳で殴りつけたことは憶えています。母の言動は前々から誰かに指示を受けているようなところがあり、頭が混乱するので本当にやめて欲しかったのですが、それは事件の時の被害者に対する行動にも共通する苦痛の余りの反応でした。

その後も母親とはまともな話をすることもなく、母親は正気を失っていきました。認知症とも聞きましたが、体も付随になって寝たきりの状態が続いています。

本当は聞きたいこともありましたが、どこまで本当のことを話してくれるかもわからず、事実を聞き出すには相応の説明も必要かと思いましたが、そうすれば取り乱して危機を煽り、不則の事態を招くことも考えました。世話にもなっていた被告訴人大網健二や被告訴人KYNの関与が大きいからです。

プライバシーの強い問題なので書こうか迷いもあったのですが、私が福井刑務所にいる間に、頭がおかしくなった父方の親戚の人がいました。宇出津で被告訴人大網健二、被告訴人大網周一の大網兄弟とは同じ大橋組という町内でもあったので、小さい頃からよく知る間柄でもあったはずです。

大橋組は中町という町内と並んで宇出津の中心部の商店街のある場所で、今は昔のような賑もなくなってはいますが、以前は商売をやっている家の多い町並みでもなりました。地図には書いてない町内なので地元以外の人には極めてわかりにくいとは思います。

町内が一番の意味を持つのは宇出津のあばれ祭りの時かもしれません。小学校の頃までは父方の親戚とも多少の付き合いはありました。宇出津の祭りも大橋組のその親戚の家に行っていました。親戚であることは被告訴人大網健二もよく知っていたはずです。

平成9年の1月18日に私が福井刑務所にを満期出所したことはこれまでにも何度か書いたと思います。そしてその年の7月の1日か2日の夜に、宇出津まで出向いてくれた被告訴人大網健二と被告訴人KYNの二人に手伝ってもらって、金沢の北安江の借家に引っ越しをしました。

引っ越しをするまでの間、何度か金沢に行ったこともありましたが、ほとんどは宇出津の家にいましたし、車もバイクも自転車もなかったので、家から出るということも少なかったと思います。

そんな時に、ときどき家に来ていたのが頭のおかしくなった親戚の人でした。疑いもなく精神病のような状態でしたが、人が誰かもほとんど認識ができていない様子で、会話も成り立たない感じでした。

私が母親から聞いた話では、なにか選挙の運動員のようなことをやっていて、選挙違反のような問題で警察の追求を受けたところ、深刻に悩んでいるような様子が続いて、そのうち壊れたような状態に発病したとのことでした。

その後、少し小耳に挟んだ2件ほどの地元の人の話では、そのような選挙の話もなく、真偽の程もわからないのですが、とても気になり引っかかることがあるので、事実の確認も私には難しいですが、この事実は他に被害を及ばさないためにも、明らかにしておこうと思います。

それは控訴審の公判における小島裕史裁判長の一言でした。軽く笑ったような感じで、親戚に精神病の人はいませんか?と私に質問をしてきたのです。それは木梨松嗣弁護士が一方的に請求した精神鑑定の実施が決まった直後の発言だったようにも思います。それ以外は考えにくいです。

その時の公判は始まってまもなく3人の裁判官が出てきた法廷の机の後ろのドアの向こうに引っ込み、2,3分か長くて5分、やはり2分もないような短い時間だったと思いますが、もとの机の席に戻ってすぐに、小島裕史裁判長が精神鑑定の採用を決定として告知したのです。

控訴審では被害者の兄が傍聴席で暴れて以来私は弁護人の席の前に長椅子をおかれてそこに座っていました。テレビなどをみていると現在はそれが主流になっているようにも思えるのですが、以前はテレビのドラマでも被告人は傍聴席の前で、裁判官に真正面で向き合うのがごく当たり前になっていたはずです。

自分で決めれるようなことでもなく、また説明もなかったのですが、付き添いの刑務官に連れられるままに弁護人席の前で長椅子に座るようになりました。長椅子では隣に刑務官が座るのは同じです。

傍聴人の前に座っていると、裁判官は正面になりますが、傍聴人席は真後ろになるので、着座や離席の時以外は傍聴人席の様子というのはわかりにくかったと思います。横に刑務官もいるので、後ろを振り向くわけには行かず、公判が始まっていれば裁判官から注意を受ける可能性も意識するものかと。

なんであれ被害者の兄が暴れたことで、座る場所が変わったのですが、おかげで法廷の全体を見渡せるようになりました。そのための演出だったのかと考えることもありましたが、木梨松嗣弁護士の指示、采配であるということも可能性としては考えることもありました。

前にも書いたことがあると思いますが、被害者の父親はずっと公判の傍聴に来ていたわけではありません。控訴審の初公判の時も姿はなかったと思いますし、一番印象に残ったのは、本来関係者が最も関心を寄せるはずの、判決公判にその姿がなかったことです。

その前回の公判では父親だけではなく、母親らしい人の姿もあり、ずっとすすり泣いているような様子でもありました。

判決公判に姿を見せなかったのはあえて解決を先送りにしたとも解釈出来ましたし、それが面会にも説明にも来なかった木梨松嗣弁護士の態度にも歩調を合わせるように重なってみえることもありました。

木梨松嗣弁護士の面会というか弁護人としての接見については、前にも記憶をまとめ整理するようなことをしたように思います。ただ、その内容に関しては触れないままお流れにしてしまったように思います。

木梨松嗣弁護士の接見というのは一度も事前の連絡がなく、いきなりの訪問だったと思います。時間的にも短いものだったと思います。ただ、初めての接見に関しては、事前に今日あたりに弁護士が来るということは、聞いて知っていたと思います。

たぶん面会に来た母親から聞いていたのだと思います。ちょうどお盆休みの終わりの頃だったとも記憶しています。

8月18日ではなかったかと思います。カレンダーで確認すると17日は月曜日なので、その可能性もあるかもしれません。

同じ日だったように思うのですが、京都の親戚の人が面会に来て、その前に別の面会がありました。拘置所の規則として面会は一日1回という決まりがあったので、事前にしっかり調整をして連絡を入れておくようにと、刑務所の職員からきつい注意を受けたことでもよく憶えています。

遠く京都から来たということでしぶしぶと許可を出したらしいのですが、その前に別の面会をやっていたのです。午前中のことであったのかもしれません。今の記憶でははっきりというかすっきりと思い出せないのですが、松平日出男の面会があったのもお盆過ぎの同じ頃だったと思います。

拘置所への面会はそれが最初で最後でした。すでに何度か市場急配センターの会社に手紙を送り、被害者AAさんの意識が戻ったらしいということも伝えてあったはずです。

金沢西警察署の留置場にいる頃は、3回か4回ぐらい面会に来ていました。終わりから2回目の時は、被告訴人浜口卓也と二人で一緒に来ていました。他に会社から面会に来たのは、被告訴人安田敏が一回だけでしたが、本人の意思ではなく、周りからあれこれ言われて仕方なくやってきたという感じでした。

時刻は5月17日7時31分を過ぎたところです。昨夜は,PC遠隔操作事件の真犯人からメールがあったというニュースを21時前のEテレの手話ニュースで知って、それに関する情報を見て回ったりして、そのまま眠ってしまいました。

自称真犯人からのメール(本日午前11時37分に送付されてきた) - 弁護士 落合洋司 (東京弁護士会) の 「日々是好日」 (id:yjochi / @yjochi) http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20140516#1400218482

上記は落合洋司弁護士(東京弁護士会)のブログのURLと記事のタイトルですが、普通には取得できないものです。ツイートのボタンをクリックして、送信用のウィンドウに出てくる文面をコピペしました。

落合洋司弁護士(東京弁護士会)本人が理解した上であえてそうしているのかも不明ですが、Hatena::Diaryの設定を日記形式にしているため、日付形式のタイトル名しか取得できないはずです。ブログ設定を選択すれば、普通にブログの記事としてのタイトル名を取得できるはずなのですが。

他に気になる反応もありましたが、いずれも弁護士、ジャーナリストの姿勢としてとても参考になるものです。次はジャーナリスト江川紹子さんの気になるツイートを3つまとめてスクリーンショットにしたものです。これは自称真犯人のメールではなく、当日の公判に関したコメントでした。

2014-05-16-224106_【PC遠隔操作事件】江の島の監視カメラ映像を解析した警察官が証言。.jpg pic.twitter.com/buLTmnON6s

自称真犯人からのメールに関しては、意外な弁護士からの意外な反応もツイートで見るとが出来ました。本音という感じかと思いますが、本職の弁護士の見解、分析として参考になるもののいずれも一つです。

2014-05-16-223524_本当に真犯人からのものだとしたら、検察は赤っ恥。.jpg pic.twitter.com/7zhDdawUBU

2014-05-16-223402_私が真犯人なら、もう少し裁判所や検察官を泳がすな。日本の裁判所や検察官の事実認定能力が白日の下にさらされる。.jpg pic.twitter.com/JjzOJqr0vT

谷山智光弁護士のツイートですが、かねて注目している弁護士のお一人です。まめにチェックをしているわけではないですが、ツイート数も多くないのでたまに気がついた時にブックマークを開いて見ています。

京都弁護士会の所属ということも注目理由の一つですが、刑事弁護に熱心に取り組まれ、司法修習生の指導のようなこともされているそうです。次の世代の弁護士に影響を与えうる存在としても、それなりに注目していますが、刑事弁護の本質に関わるようなツイートも散見されます。

次は初めての試みになったかと思いますがTwilogでの検索結果をスクリーンショットしたものです。ツイートの日付もわかりやすく、全体と流れを把握しやすいので、これは好都合だと思いました。Twilogの新たな活用法の発見です。

2014-05-17-075249_弁護士 谷山智光(@taniyama)/「お茶屋」の検索結果 - Twilog.jpg pic.twitter.com/MQwEfgdZuu

今私が使っているノートパソコンは15.6インチの画面ではなかったかと思いますが、Twitterの画像をクリック拡大しても余り大きくはならず、正直文字の判別がしにくいです。

ディスクトップパソコンの大きな画面だと、Twitterの画像の拡大表示は横幅で1024ピクセルになっていたように思います。それだけあれば文字の判別に困ることは少ないように思います。

参考までに私はノートパソコンのディスプレイを1920x1080(16:9)の設定にしています。

参照にURLを指して提示しているのはツイッターの非常上告-最高検察庁御中_ツイッター(@s_hirono)のアカウントの写真付きツイートですが、同時にGoogleの写真サービスPicasaウェブアルバムにも同じ写真をアップロードするようにしています。

細かく言えばPicasaウェブアルバムにアップロードしてからツイートしています。自分が作ったスクリプトの関係で、Picasaウェブアルバムのアップロードに成功すると、ファイルのタイムスタンプが変更されて、ファイルブラウザでのファイルの並び順が変わってくれるので、確認にしています。

「お茶屋」というのは私自身、割と最近まで余り馴染みのなかった言葉で、余りピンとこなかったのですが、たまたまテレビで見た番組や特集のこともあって、金沢の茶屋街のことを意識するようになりました。

谷山智光弁護士の指す茶屋街というのは、京都のことで有名な先斗町のような花街で、舞妓さんとか芸子がいる古い伝統的なスタイルのお店のことかと思います。

LinuxでMozcという日本語変換ソフトを使っているのですが、先斗町と変換できず、確認も兼ねてネットで調べたのですが、どうも自分は北斗町と書いて「ぼんとちょう」と読むものと軽く勘違いしていたようです。詳しいことはしりませんが、知名度は高くイメージも共有されているはず。

本書においても金沢の茶屋街のことは被告訴人竹沢俊寿の家があるらしい(あったらしい)野町や、その周辺の石坂(いっさか)のことで書いていることがあると思います。石坂の周辺は市内配達の仕事でも通ることがありましたし、割と馴染みはありました。

増泉一丁目ではないかと思いますが、町から外れた通り沿いに、小さな漬物の工場があって、そこに野菜を運んだことが何度かあったのです。石坂とも近いので、花街と漬物の組み合わせというのも妙なものだと考えることはありましたが、漬物も金沢の名物の一つでもありました。

予定外の方向にずれてしまいましたが、白紙の状態の人にはわかりようもないことなので、私が体験した金沢市場輸送の実態に関する説明に、横道ですが舵取りをしたいと思います。それがより多くの人に影響を与え、対応の判断にも資するところがあると考えるからです。

本書においても何度も繰り返してきたように思いますが、本件事件の舞台となった市場急配センター株式会社の前身は金沢市場輸送株式会社です。

改めて整理をすると平成1年の秋頃ぐらいに、金沢市場輸送の市内配達が独立して市場急配センターが出来たと聞きます。新会社の設立というのは具体的な実感を伴うものではありませんでした。事務所もそれまでと同じ場所で全く同じように共有をしていたからです。

より大きな感心事は、会社が2つにわかれたことで、被告訴人竹沢俊寿が金沢市場輸送の社長から金沢市場輸送と市場急配センターの会長になったという話でした。

ここで気がついたのですが、「被告訴人竹沢寿俊」と単語登録したものを使っていたところ、「被告訴人竹沢俊寿」の間違いを登録していたようです。告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)にツイートしたものは変換できませんが、本書の前行までは正しいものに置換します。

ここで手違いで失われた部分を告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)のツイートからコピーします。同時にこの直前の行が、ツイートされていないあるいは投稿に心配したことに気がついたので、さきにそちらをツイートします。以下はコピペの内容です。

念の為開いていたEmacsのファイルをいったん終了して、viエディタでファイルを開いて、次のコマンドを使って文字列置換を実行しました。

:1,.s/竹沢寿俊/竹沢俊寿/g

置換の方法はsedと同じですが、1,.の部分はファイルの一行目から現在カーソルのある行まで、という指定になっています。そのあと現在行の後方にも意図せぬ間違いがないかは確認しました。

重要なファイルの変更にはEmacsを使わず、viを使うようにしています。一般的には常識かと思いますが、キーボードを打てばボタンに対応した文字が入力されます。これで意図せぬ文字が入ってしまうことを回避する癖がついています。

vimだと文字の挿入モードとコマンドモードが明確に分かれています。置換にはコマンドモードのみを使い、編集後は保存をしてファイルを閉じています。

Mozcの単語登録の方も修正しましたが、ATOK X3 for Linuxの辞書から引き継いだものから間違いを重ねていたようです。相当前からと思われますが、気がつくにも時間がかかったようです。

ついでの説明になりますが、本人は被告訴人竹沢俊寿の俊寿を「しゅんじゅ」と読むと私に話したことがありました。平成2年下3年ころのことだったと思います。それまでは「としひさ」と思い込んでいたので、ふざけた冗談で言っているのかと半信半疑のままでいました。

それに似たことがあったので、ついでにそれも書いておきたいと思います。これは検察官の対応としても考えさせられる要素があるのですが、常識からは外れると思うものの、なにが正しいのか本人でなければわからないとは思います。

それは告訴か告発のことで、検察事務官を一人伴い、金沢刑務所に聴取に来た浜崎はじめ(漢字が不明なので、ひらがなにしておきます。以降同じです。)検事の発言でした。

発言というよりは多分、私が郵送で提出した書面を読み上げていた時ではなかったかと思われます。被告訴人安田敏の敏を浜崎検事は「びん」と読み上げたのです。今の段階ではわざとらしい間に合せの対応しかできないですよ、という暗黙の意思表示にも理解されました。

ところが最近になって昭和の時代の右翼の活動家、赤尾敏という名前の瓶の字が、「びん」と読むとしったのです。なにかのニュースか話題に触れて、検索をしている時のことだったと思います。

以上でコピペで復元した部分の記載は終わりです。最後の行で「名前の瓶の字が」となっていたことも気がついたのですが、これは「名前の敏の字が」の間違いです。

本当はTwilogからコピペをしようとしたのですが、そこで一つの問題に気が付きました。プログラムで使われる特殊記号の文字が欠落した状態でTwilogに保存されているらしいということです。これも怪我の功名のようなたまたまの発見でした。

わかりづらいところもあるかと思いますので、端末の画面をスクリーンショットにします。

2014-05-17-110500_% tac kk_hirono140517。csv |cut -d’,’ -f3 | sed ’s/”//g’ | tai.jpg

jpgのスクリーンショットのファイル名は、自作のスクリプトの中で特殊記号のサニタイズ処理をしています。手っ取り早く全角記号に変換しました。今思えばサニタイズ用の関数でも探して処理したほうが良かったかもしれなかったです。

サニタイズのことをサニタライズとか思っていたのですが、間違いを書いてもいけないので、いつのもように確認のためネットで調べたところ、サニタイズは消毒という意味があることも新たに知りました。

まだ説明は書いていなかったように思いますが、このスクリーンショット用のスクリプトは、事前にマウス等で範囲選択した文字列の初めの31文字分だったかを、自動で抜き出してスクリーンショットの取得時刻と拡張子の間に挟むという仕様というか書式にしています。

なぜ日付時刻を先頭にしたかというと、ファイルの並び順をわかりやすくするためです。更新日時などで並び替えをすると、ちょっとした編集をしたことでも並び順に齟齬が生じてしまいます。

スクリーンショットということで初めはデジカメの写真ファイルとも区別するため、pngのファイル形式にしたのですが、ファイルサイズが大きすぎて一つ2MBを超えるものまで散見されたので、jpg形式に変更しました。

その前にpngのファイルサイズを縮小するためのソフトを使ってみたのですが、大して小さくならなかった上に処理に時間も掛かり、おまけにファイルの更新日時が変わってしまって収拾がつかなくなってしまいました。jpgに戻してからは問題ないと思います。

ちょっと勘違いしてスクリーンショットのファイル名だけにしていたようです。改めて掲載をやり直します。ファイル名から大体の意味はつかめる文字数にはなっていると思います。

2014-05-17-110500_% tac kk_hirono140517。csv |cut -d’,’ -f3 | sed ’s/”//g’ | tai.jpg pic.twitter.com/4TMj0CUJ97

ファイル名の文字数を控えめの数にしているのは、このように写真付きツイートのURLを、告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)のツイートに含めるためです。

画像ファイルは非常上告-最高検察庁御中_ツイッター(@s_hirono)に投稿したものですが、文脈の流れでの引用は告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)のツイートになります。

httpなどは含まれていませんが、Twitterの仕様としてリンクになるだけではなく、写真・画像ファイルそのものも、あたかもそのアカウントで投稿したのと同じように表示されます。

これもスクリーンショットとしてお見せしたほうが、ごちゃごちゃ書くよりわかりやすかと思います。文字列もファイル名の一部として利用します。

2014-05-17-114212_これもスクリーンショットとしてお見せしたほうが、ごちゃごちゃ書くよりわかりやすかと思います。文字列もファイル名の一部として.jpg pic.twitter.com/uzBZUIizD6

なお、意識してパソコンを使っている人は多くないと思いますが、ファイル名の長さには制限があります。私自身最近までOSの違いかと思っていたのですが、どうもファイルシステムのフォーマットで違ってくるようです。

Windowsパソコンの一般的なフォーマットはNTFSだと思いますが、Linuxではext4が主流のようです。古いWindowsパソコンやUSBハードディスクではFAT32でフォーマットしている例もあるかと思いますが、ざっと調べたところ、文字数制限に大差はないようでした。

DVDに焼くとき、Windowsパソコンでは扱えないファイル名が含まれています、などという警告が出ることもあるので、その時はファイル名を変更するなどの対応をしたいと思っています。

またファイル名の文字数の制限にはファイルの絶対パスの文字数も制限があるので、フォルダをコピーする際のパスの階層の深さにも注意が必要かと思います。さらに言えばWindowsによくあるフォルダ名に半角スペースが入るフォルダの階層は避けたほうが無難かと思います。

次は写真付きツイートをクリックで拡大した場面のスクリーンショットです。慣れていない人だとそういうことに気が付かないかもしれないので、念の為にご紹介しておきます。元の画像部分のマウスでのクリックになります。

2014-05-17-115735_次は写真付きツイートをクリックで拡大した場面のスクリーンショットです。慣れていない人だとそういうことに気が付かないかもしれ.jpg pic.twitter.com/kcB3flavSM

拡大した画像は右上のバツ点マークをクリックしても元に元に戻せますが、画像以外の余白の部分をクリックしても同じかと思います。またこの種のブラウザでの画像の拡大はボタンもない全画面表示になることもありますが、ESCキーを押せば元に戻ることがほとんどかと思います。

そういえばPicasaウェブアルバムのURLをまだご紹介していなかったと思います。間があくと操作方法も忘れ面倒なので「参考資料」は使わずに、タイトルとURLを掲載します。なお、これに限っては後日変更の予定もあるので、それもご説明しておきます。

告訴状の内容に関連したスクリーンショット - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/DgRfAJ

Picasaウェブアルバムでは一つのアルバムに2000枚までの写真・画像ファイルをアップロードできるという情報も見かけてはいるのですが、余り数が増えすぎると管理も取り扱いも面倒になると思いますので、一定の期間の区切りで別のアルバムにするつもりです。既に作成さたのが次です。

告訴状の内容に関連したスクリーンショット/2014年4月27日から同年5月8日分 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/201442758

「写真: 71 枚 – 45 MB」という説明があるのもわかりやすくて助かります。比較的データサイズが大きいのは、先ほどご説明したところのpngファイルが含まれているためです。

他でもだいぶん前に説明したようにも思いますが、全角スラッシュで区切られているのはDVDにも保存する予定のフォルダの階層です。実際私のパソコンの中では次のようなパスになっていますが、これはUNIXのパスなのでWindowsユーザには馴染みがないかもしれないです。

/home/a66/kk_hirono/告訴状の内容に関連したスクリーンショット/2014年4月27日から同年5月8日分

kk_hironというフォルダを丸ごとDVDに保存して添付提出する予定ですが、そこからの相対パスをPicasaウェブアルバムのアルバム名に対応させていることがお分かりいただけると思います。スラッシュの記号は半角のままだと問題を起こすことがあるので全角に置き換えています。

なお、Linuxを含めたUNIX環境ではWindowsパソコンで言うフォルダのことをディレクトリと呼ぶのですが、ディレクトリという言葉も最近は見かけなくなったので、一般的にフォルダとも呼びますが、違いがあるといえばあるかもしれないです。

ついでなのでLinuxのフォルダブラウザについても、スクリーンショットでご紹介しておきたいと思います。見た目はWindowsのそれと大差はないと思います。種類がありますが、これはnautilusというアプリです。

2014-05-17-123855_ついでなのでLinuxのフォルダブラウザについても、スクリーンショットでご紹介しておきたいと思います。見た目はWindow.jpg pic.twitter.com/NngSW2NoVj

さきほどファイル名名やパスの文字数に制限があると書きましたが、正確には文字列のバイト数だったと思います。WindowsパソコンとLinuxでは使用される文字コードも違っています。LinuxはUTF-8です。文字コードの問題は奥が深くてかなりややこしいです。

Picasaウェブアルバムだとファイルがファイル名を含めてアップロードする前と同じ状態で保存されておりますし、Exif情報も残っているようです。元のファイル名のままダウンロードすることも出来ます。

Googleにログインしていない状態だと、Google+の写真として表示されるかもしれません。同時に「Picasaウェブアルバムに戻る」というリンクが表示されることもあります。写真自体はGoogle+の写真として見たほうが見やすいかもしれません。

ほとんど見かけないので知られていないことかと思いますが、Google ChromeやFirefoxといったブラウザだと、Picasaウェブアルバムの場合、日本語を含むファイル名のファイルが拡大表示できないようです。出来ないというか画像のあるべき部分が真っ黒に表示されてしまいます。

どうもGoogle+だとそういう問題もないようです。アルバムの管理をする場合はPicasaウェブアルバムを使っていて慣れてもいるのですが、写真の閲覧に関してはGoogle+をそのまま使ったほうが良さそうです。

時刻は5月18日9時34分を過ぎたところです。昨日は14時ぐらいかに電話があって、パソコンの調子がおかしいので見てほしいと頼まれて、結局それ以降、中断になりました。

昨日はいろいろと書いて、あちこちに飛んで、ごちゃごちゃになったかと思いますし、私自身、把握が普段以上に難しくなっています。金沢市場輸送と市場急配センターの成り立ちとその周辺事情について書いておきたいとも思っていたところではありました。とりあえずそのあたりから再開です。

<<<MARK-ID-6>>> [[#LINK-ID_6]] 金沢市場輸送:西念の元事務所_2013年09月05日作成 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム

やはり重要なところは「[[*参考資料]]」を使おうと思います。一覧的なまとめがあったほうがわかりやすいと思ったからです。ちょっと使い方を忘れていて、調べるのに時間が掛かりました。結局調べても見つからなかったのですが、C-c cとやってみるとうまくいきました。

URLのリンクを探すためにページ内アンカーを辿るのも非効率と思いますので、さいどタイトルとURLのみを掲載しておきます。「参考資料」は索引的なものとして、ご利用いただければと思います。私自身も作成の過程で、重複の内容に活用したいと思います。

金沢市場輸送:西念の元事務所_2013年09月05日作成 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/_20130905

あらためてPicasaウェブアルバムのアルバム名を見ると昨年の9月5日の作成となっているようです。今年のはじめの方だったかとは思っていたのですが、それよりかなり前のことで、けっこう意外でした。Googleマップのスクリーンショットだったと思います。

Googleマップの紹介だけでは年月の経過で内容が変わってしまうということも考えたからです。きっかけは前波の堤防であったかもしれません。

石川県鳳珠郡穴水町前波 - Google マップ : http://bit.ly/1gdF0RD

上記Googleマップの前波港ですが、今から3年ほど前に何度か魚釣りに行っていました。漁港の入り口の海に向かって右側の方に割と新しい堤防があったのですが、私が初めに行った時から地続きでした。

ところがGoogleマップで見ると、その堤防が付け根の部分が陸と繋がっていない、いわゆる離れ堤防だったのです。今日見たGoogleマップの航空写真では私が見たのと同じ地続きの堤防にはなっていました。

そんなこともあってGoogleマップやストリートビューの撮影日についても検索で調べたのですが、思うような情報は見つかりませんでした。

一月ほど前でしょうか、テレビでたまたまGoogleのストリートビューにヒストリー機能がついたというような情報に接したのですが、大都会や観光地あるいは東北の被災地から手始めというような話だったので、一般的になるのはまだまだ先と思われました。

私が2010年の12月20日ころから魚釣りに行くようになった小木港でも、姫側の一番大きな堤防は、数年前まで離れ堤防だったという話を聞きました。

小木の地元の人に何人か聞いたことがあるのですが、その堤防の名前もはっきりしないようです。方角としては西側にはなるはずです。また、私は1年ちょっと小木分校の高校にも通いましたが、ほとんど小木の海を見たという記憶が残っていないのです。

町の中の港の方はなんとなく憶えていますし、当時は船の数も多かったです。特に12月の後半から春に遠洋漁船が出漁するまでは、沢山の船が港にいましたし、船の姿で港の海も記憶に残らなかったような気もするぐらいです。

その港も港のは入り口の右側に白い灯台のある堤防がありました。この堤防は今もあります。出漁を見送る際、ホーク2というバイクで、足場板一枚になっていた堤防に駆け上がったことを覚えているのですが、港の外側の風景というのは不思議と記憶にありません。昭和57年のことです。

海に行っていろいろと話を聞いていると、小木でも自分の住む宇出津でも、かなりの場所が以前は海であったり、埋め立てになったと聞きました。昔は聞いたこともない、話題になったこともない話だったので、身近でもわからないでいることが多いものだと思いました。

私の中で小木港というのは昭和59年に金沢市場輸送にいた頃、当時の中央市場の風景とも重なるところがあります。関係者の多くが小木の遠洋漁船に乗り組んでいたことも、これまでに何度も説明を書いていると思います。

GoogleマップではなくGoogleストリートビューの画面をスクリーンショットした先ほど紹介のPicasaウェブアルバムですが、スクリーンショットを実行した時の感想としては思った以上に昭和59年当時と変わっていないという印象でした。作業に集中していたのでよくはみていないですが。

Picasaウェブアルバムでは個別の写真・画像ファイルの説明もしにくいと思うので、同じファイルをTwitterに投稿して、それで説明を行いたいと思います。

金沢市場輸送:西念の元事務所_2013年09月05日01時43分36秒.jpg pic.twitter.com/X5PhOLDLrs

上記画像のほぼ中央正面の2階建ての建物が金沢市場輸送の事務所のあったテナントビルです。ペンキが塗り替えられたのかもしれないですが、駐車されている車に注意でもしなければ、昭和59年当時と見分けがつかないようにも思えるぐらいです。

2階に窓が見えますが、右側から3番目か4番目が金沢市場輸送の事務所のあった部屋です。右から1番目や2番めの部屋というのは昭和59年当時も使われているのかいないのかもわからないような部屋でした。隣に社長室の部屋があったことも説明済みと思いますので、繰り返しはしません。

この画像の中の写真を見ても、商店とか市場という雰囲気が伝わるかと思います。当時の金沢市場輸送もそんななかに溶け込んだような雰囲気はあったと思いますし、活気のようなものも感じられる時代でした。

金沢市場輸送:西念の元事務所_2013年09月05日01時45分47秒.jpg pic.twitter.com/egpEFadijn

上記次の画像は、もう少し範囲を広げて左方向へとずらした状況です。車の数が多いので午前中の過能性が高いと思います。午後になると車の数も減り、夕方になると車も人の姿もほとんどないということが多かったと思います。

金沢市場輸送の事務所のあった建物と道路を挟んだ向かい側にも似たような建物がありますが、その裏側は中央市場の敷地内になります。先に説明をしておきたいと思うのは、その左側の建物の手前辺りのことです。自販機という文字も見えるかと思います。

時刻は5月19日8時20分を過ぎたところです。再開します。

建物の2階の正面から見て3番目か4番目の窓ガラスの部屋が金沢市場輸送の事務所であったことは昨日も書きました。左隣の部屋がアコーディオンカーテンで仕切られた社長室であったことも前に説明していると思います。

その社長室の左隣ではなく、私の記憶の感覚では間に1つかあるいは2つ挟んだ部屋が、市内配達の事務所のようになっていた時期がありました。全体の建物の真ん中よりは右側の方に部屋があったようにも思いますが、そんなに長い建物ではないので、だいたい中央付近だったのかと思われます。

いつ頃にその市内配達の部屋が出来たのかもはっきりとは思い出せませんが、市内配達の責任者のような立場で現場をしきっていた高田が、姿をくらました後であったと思います。会社かなにかの金を持ち逃げしたような話もありました。

昭和63年の7月と思われる時期に、二口町に金沢市場輸送の新しい事務所ができるまで、市内配達の事務所も継続していたはずですが、私は一回か二回ぐらいしか、気まぐれでその部屋を見物に入ったことがあるだけでした。

金沢市場輸送の長距離の仕事と市内配達のの仕事というのは接点もほとんどなかったと思います。強いて言えば春のたけのこの時期に、同じ中央市場内からタケノコを積み込んでいたぐらいかと思います。もともと別会社が同居しているような感じでした。

ついでに書いておきますと、被告訴人浜口卓也が2トン車で新潟県内にタケノコを運んでいるという話を聞いた時期がありましたが、タケノコを積む現場では顔を合わせていなかったように思います。

今、とくダネ!という朝の情報番組を横目で観ながら書いているのですが、「YAH YAH YAH」という曲が1993年の夜のヒットスタジオとして流れていました。平成3年の終わりか平成4年の初めころに、よく耳にしていた曲だという印象が強いです。

チャゲアスという歌手はほとんど関心がなく自分でカセットテープに録音した記憶もないのですが、歴代の楽曲の売上枚数の変化が紹介されていて、その激減ぶりに驚きました。市場急配センターは右肩上がりに急成長したはずなので、対照的にも思われました。

「あなたが泣くことはない」という曲は1万9千枚だったという。

ちなみに平成4年当時も、トラックも軽四も音楽を聴くのはCDではなくカセットテープでした。家にCDはあったので、レンタルレコード店から借りてきたCDをカセットテープに録音していたと思います。

「YAH YAH YAH」(1993年発売)というような文字がテレビの画面に出てきました。これはテレビの間違いではないかと思います。

CHAGE and ASKA - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/CHAGE_and_ASKA

上記ホームページなどで調べたのですが、たしかに平成5年の発売のようです。ドラマ『101回目のプロポーズ』の主題歌の方は私の記憶とも一致し、平成3年だったようです。

「YAH YAH YAH」という曲を耳にすると決まって平成3年の終わりから平成4年4月1日までの被告訴人多田敏明との関係を思い出すのですが、どこかに記憶の混同があったのかもしれません。たまにあることですが、自分の記憶に不安を感じることもあります。

「YAH YAH YAH」という曲を耳にしていたのは長渕剛の「しゃぼん玉」という曲がヒットしていた時期と重なると思っていたのですが、長渕剛のアルバムの方は、カセットテープに録音してトラックで聴いていたと思います。

「YAH YAH YAH」の方は録音もしていなかったはずですがよく耳にしていたという憶えがあり、それは「愛は勝つ」というヒット曲にも似ていました。録音はしていませんでしたが、よく耳に入ってくる曲でした。ラジオが多かったとも思われます。

長渕剛 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/長渕剛

で確認したところ、「10月25日、シングル『しゃぼん玉』リリース。ミリオンセラーとなる。」となっていました。思っていたよりは1,2ヶ月先に出た曲だったようです。ドラマもあったようですが、ドラマのことは記憶にありません。

そういえば平成9年の2月か3月ころに、長渕剛が主演の2時間ドラマをテレビで観たことがあり、数年ぶりに刑務所から出てくるような話ではなかったということを思い出しました。

同じホームページですが、どうも「1月24日、『とんぼ』の続編に当たるテレビドラマ『英二ふたたび』が放映。」の部分のようです。1997年になっているので、平成9年です。

あるいは首都圏と石川県では放送日が異なっていたということも、ありえないことではないのかもしれません。私が福井刑務所を出たのは1月18日なので、これでは早すぎるという気もします。

また、その長渕剛が主演の2時間ドラマを観た日の前後に、突如被告訴人KYNとK君が宇出津の家に来て、越坂の天国に行ったということも、自分の記憶の感覚としては残っているのです。

よく考えてみると、たしかに被告訴人KYNが訪ねてきたのは、福井刑務所に迎えに来てから一週間ぐらいあとだったかもしれません。配管の仕事で宇出津に来ていると話していました。

他にも宇出津の方で配管や水道の修理のような仕事を請け負うことがあると話していましたが、私が一緒に仕事をしているときは、一度もなかったと思います。

同じ頃と言いますが、平成9年の前半ですが、被告訴人大網周一ともちょくちょく宇出津の新村の銭湯で顔を合わせていました。彼もこちらに仕事に来ていると話していましたが、柳田中学校の体育館の工事とか、より具体的な話はしていたち思います。

この新村の銭湯というのは2年ほど前にボイラーが壊れたらしくいきなり店じまいになりました。新村というのも住所ではないので普通に調べてもわからないと思いますが、数馬酒造の斜め向かいです。建物は今も残っています。

市場急配センターの話に戻します。高田がいなくなってから、市内配達の別の部屋ができたと思うのですが、現場を管理する責任者が不在になったようなかたちでもあり、臨時代行のような立場になったのが被告訴人梅野博之という話も小耳にはさみました。

長距離運転手の間で、市内配達のことが話題になることはほとんどなかったと思います。接点自体がなかったので、話題自体が出にくかったとも思います。被告訴人梅野博之の名前も聴くことはなかったですが、たぶん小林健一あたりから聞いたのではとも思われます。

被告訴人梅野博之に関しては、顔を合わせると彼の方から愛想よく一言二言、言葉を掛けられることはあったと記憶していますが、目立たない存在でもありました。

前にも書いていると思いますが、初めに会社で姿を見るようになったのは、被告訴人本恒夫が配車係をするようになった頃で、昭和61年の12月ころと思われます。被告訴人池田宏美とも同じ頃ですが、思えば竹林も同じ頃だったと思います。

いままでいずれもたまたま偶然に入社時期が似たような時期になったものと考えていたのですが、改めて考えると偶然ではなかったという可能性もあるかと思いますし、竹林の存在というのも今一度気になってきました。

被告訴人梅野博之に関しては市場急配センターへの入社時期を、金沢西警察署の供述調書において、昭和ではなく平成と述べたのか、そういう記載になっていたように思います。初めに見た時にすぐおかしいとは感じていました。

被告訴人梅野博之に関して他に記憶に残っているのは、山中温泉の慰安会に参加していたことです。着いてすぐに大浴場に入ったのですが、そこで姿を見たという場面の記憶だけが残っています。

その慰安会は一泊でしたが、私には金沢市場輸送で初めての慰安会でした。新年会などもなかったですが、強いてあげれば昭和61年か62年の年末に、片町の居酒屋のような場所で飲み会のようなものがありました。雪国という曲が、巷で大ヒットしていた時期だと思います。

雪國 (曲) - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/雪國_(曲)

によると「「雪國」(ゆきぐに)は、歌手・吉幾三が1986年に発表した作品。」ということで、昭和61年のようです。ロングヒットにはなったと思いますが、それほど耳には馴染んでいない時期だったと思うので、やはり昭和61年の可能性が高そうです。

片町でも昔、相撲茶屋輪島という店があったときく辺りの店で、バナナビーチというディスコもあったのと同じビルではなかったかと思います。

2次会のような感じでそのビルか、左隣のビルの上の方の階にあるスナックに行ったような場面も記憶しているのですが、HとUの姿があったことは記憶に残っています。Uに関しては長野からリンゴを積んで一緒に滋賀県大津市の市場らしい場所で夜中に荷降ろしをしたということでも既に書いていると。

時刻は5月28日9時29分を過ぎたところです。長い間中断していました。10日近くで10日までは経っていないように思っていましたが、連携投稿しているTwitterで確認したところ、ちょうど9日目だったようです。

2014-05-28-092656_告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター.jpg pic.twitter.com/XnTY4WLsIL

フォロワーの整理もしたところです。廣野秀樹(@hirono_hideki)と告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)は基本的に相互フォローをすることにしています。

PC遠隔操作事件の真犯人が自供をしたか、その前に警察が河川敷でスマホを埋めるという不審な行動を見つけて検察が保釈の取り消しを請求するというニュースを見たのが5月の20日ころではなかったかと思いますが、様子見も兼ねてお休みをしていました。

現実的な問題として参考になる反応があり、それは期待を大きく超えた収穫であると同時に、自分が取り上げる告発等の問題はいっそう理解が難しいのかもしれないという気分にもなりました。客観性の記録としてのことを重視しました。いくつか挙げておきます。

社会・世相・時代の参考情報/落合洋司弁護士(東京弁護士会)/自称真犯人からのメール(本日午前11時37分に送付されてきた) - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム

https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/1137

142文字ということで一つのツイートにはおさまらなかったので、タイトルとURLを別々のツイートとして分割しました。短縮URLを使えば済む話でもあるのですが、永久保存版的な意味を感じてのご紹介なのでURLもそのままに。

社会・世相・時代の参考情報/落合洋司弁護士(東京弁護士会)/遠隔操作事件で、被告人が全面否認から全面自白へと転じ、弁護人も嘘をつかれて騙されていたと赤裸々に語って - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム

https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/vTCsYC

社会・世相・時代の参考情報/PC遠隔操作事件/そんないい加減な男に騙されて裁判を続けていた自らの責任についてはどう取るのか/かつて佐藤弁護士、片山についてこう語っていた - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム

https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/PC04

こまかいのはすべて非常上告-最高検察庁御中_ツイッター(@s_hirono)に写真付きツイートをしています。かなりの数になっていると思いますし、いちいち言及は出来ませんが、後日のための記録でもあります。刑事弁護、刑事司法の歴史的な資料としても参考になるのではと思っています。

まず第一に言及したいツイートのスクリーンショットがあるのですが、比較的早い段階だったと思うものの、探し出すのに少々手間が掛かりそうです。9日以内というのは確実なのですが、情報の数が多いからです。とりあえず次のようにコマンドを使うことにしました。

2014-05-28-095653_kk_hirono/告訴状の内容に関連したスクリーンショット.jpg pic.twitter.com/XgYvOSPFJZ

lsというのはファイルやディレクトリの一覧を表示させるコマンドです。普通にlsと使うと名前順に並ぶのではと思います。先頭に日付データを使っているので意図したとおりになるようです。更新日時順にするときは-rtというオプションを使うことが多いです。

2014-05-25-072305_「真実の犯人は自分だが無罪を主張してくれ」と言われたときに、無罪主張に最善を尽くさなければならないのが刑事弁護の倫理です。.jpg 、というファイル及びそれに関連した情報であることは見つけました。

日付がわかったのでTwilogで、まとまったというか塊になっているはずの情報を確認しておきたいと思います。カレンダー的なデータの検索や表示はTwilogの得意とするところです。

非常上告-最高検察庁御中_ツイッター(@s_hirono)/2014年05月25日 - Twilog http://twilog.org/s_hirono/date-140525

自分の活用が不十分なのかもしれないですが、Twitterだけだと日時的な横のつながりを調べるのが不可能だったりします。Twilogでもツイートの日付の部分がTwitterの固定URLへのリンクになっているので、そちらから開いてご紹介をしておきたいと思います。

2014-05-25-085956_刑事弁護人の責務(義務)、そして倫理.jpg pic.twitter.com/WhAOmKE7Lf

2014-05-25-085249_江川さんの報道は警察批判が目的でなく、警察・検察の立証が十分かどうかの反証を試みていたと思います.jpg pic.twitter.com/rr6BAgWekH

2014-05-25-084932_まれに弁護人が有罪意見を述べて懲戒されるのはそういうケースです.jpg pic.twitter.com/BN08deXJM1

2014-05-25-084536_弁護人が漠然と公正を考えて反証を加減するなどということがあれば、却って公正が害されるのです.jpg pic.twitter.com/SA47W6n7fC

2014-05-25-081539_非常上告-最高検察庁御中_ツイッター.jpg pic.twitter.com/OtRR8p8AJF

2014-05-25-081025_片山被告人にだまされた格好の佐藤弁護士について、「意味不明な弁護人批判(非難?)が出てくるのは必至だし可哀想過ぎる・・・」.jpg pic.twitter.com/kPimPVPbqw

2014-05-25-080957_櫻井弁護士は「鍛えられた刑事弁護人はマスの評価は気にしないから大丈夫だと思いますよ」と記し、佐藤弁護士への信頼を示していた.jpg pic.twitter.com/BgbtISBqz2

2014-05-25-080349_法律は、「ばれなきゃ罪にならない」と定めているのではなく、「証拠がないと有罪にできない」と定めています.jpg pic.twitter.com/lc2fAYzBM8

2014-05-25-074403_佐藤弁護士が被告人の無罪獲得のために全力を尽したことは、刑事弁護人として「見込み違い」「軽率」等と批判や揶揄されたりする理.jpg pic.twitter.com/F30Gn4FwJl

2014-05-25-072305_「真実の犯人は自分だが無罪を主張してくれ」と言われたときに、無罪主張に最善を尽くさなければならないのが刑事弁護の倫理です。.jpg pic.twitter.com/HefMHol0xV

以上になるかと思います。Twilogは写真のサムネイルをクリックすると、Twitterのツイートがブラウザの新しいタブで表示されるようです。今までもそうやって使っていたような気もしますが、改めて仕様を確認できました。よく出来ているサービスです。

もう一週間は経っていると思っていたのですが、5月25日だったとは意外です。3日前ということになるのでしょうか。それに朝の8時前後にスクリーンショットを投稿していたようです。画像の保存と投稿は同時に自動でやるようにスクリプトも変更しています。

櫻井光政 (okinahimeji)さんはTwitterを使っています https://twitter.com/okinahimeji

名前がなかなか覚えられなかったのですが、ツイッターアカウントを自分のFirefoxのブックマークに登録しました。けっこう注目している弁護士ではあったのですが、これまではブックマークもしていなかったし、ツイートはリストのTLに流れてくるものをたまに見ていた程度です。

弁護士名の確認とブックマークの登録が目的だったのですが、気になるツイートを2つ目にしたので、ご紹介しておきます。

2014-05-28-105100_ブレーキがなければもっと速く走れるのにって感じですねRT@avocadosk 会社に法務部があると業務効率悪化する旨の発言.jpg pic.twitter.com/Ny9jnXh5xT

2014-05-28-105137_・・・PC遠隔操作事件、STAP細胞の件から考える弁護士のPR問題 http://.jpg pic.twitter.com/vlRMOu4iRG

櫻井光政弁護士のTwitterのプロフィールは次のようになっています。140文字でおさまらなければ2つのツイートに分割します。

渋谷・桜丘法律事務所の所長弁護士。認証保育所「きらきら保育園」理事長。会計人コース/中央経済社と季刊刑事弁護/現代人文社にコラムを連載中。季刊刑事弁護のコラムをまとめた単行本「刑事弁護プラクティス」,好評発売中。

自分のスクリプトの文字数のカウントでは106字と出ました。少なくとも1年以上前から見てきたプロフですが、とりわけ私が注目をするのは「渋谷・桜丘法律事務所」の部分です。

H12-05-22_上告審国選弁護人山口治夫の手紙_01.jpg pic.twitter.com/vXBsmZVwCX

改めて確認しましたが東京都渋谷区桜丘町で南渋谷法律事務所でした。一時は同じ事務所なのかと思ったこともありますが、東京だと同じ住所の町内でも沢山の法律事務所があるのだろうと想像します。

金沢市でも法律事務所がある町内は尾張町、大手町,小将町などが多いと思いますが、いずれも金沢地方検察庁、金沢地方裁判所の近くです。有名な兼六園も近く、金沢の中心部の一つです。

渋谷区桜丘という思い出深い共通点もありますが、櫻井光政弁護士の場合、Twitterのプロフィール写真の見た目が、小堀秀行弁護士(金沢弁護士会)に似ていると感じたことも大きいです。運命的とまでは思ってこなかったですが、とりわけ個人的に記憶に結びつく色濃いイメージがありました。

廣野秀樹(@hirono_hideki)/「okinahimeji」の検索結果 - Twilog http://twilog.org/hirono_hideki/search?word=okinahimeji&ao=a&order=allasc

2014-05-28-121008_廣野秀樹(@hirono_hideki)/「okinahimeji」の検索結果 - Twilog.jpg pic.twitter.com/jDpo9DCRoH

確認したところ、2012年06月25日(月)に私が初めて櫻井光政弁護士のツイートをリツイートしたようです。アカウントの存在を知ってからリツイートするまでは時間的にかなり近接していたものと思われます。

17時57分になりました。午後はいろいろあって中断していました。昨夜の次のブログ記事に対するコメントが原因です。結果的に久しぶりに珠洲警察署に電話かけて相談することにもなったので、それはそれで良かった面もあるかと思います。

佐藤弁護士赤っ恥。(花田紀凱) - 個人 - Yahoo!ニュース http://bylines.news.yahoo.co.jp/hanadakazuyoshi/20140524-00035636/

一時はFacebookのアカウントにペナルティを課されたのかとも思ったのですが、どうもブログ主が私のコメントを非表示にして、コメントを拒絶する設定にした可能性が高そうです。一連の経過は、次のスクリーンショットとしてPicasaウェブアルバムにまとめました。

経緯及び社会の反応/坂本正幸弁護士/FBのほうだが、刑事弁護を泥棒神社のこと?とか書いてきたやつがいたのでブロック - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/FB

結構前にTwitterの方でブロックされているのと同姓同名の弁護士だったのですが、本能を示していたことに昼ころになって気が付きました。

刑事弁護を泥棒神社のこと?とか書いてきたやつがいたのでブロック_FBログインなし_2014年05月28日15時04分54秒.jpg pic.twitter.com/yiSZL80aLh

上記があとで撮ったスクリーンショットですが、次のような刺激的なコメントをしていたので、ちょっと黙っていられなかったのです。

引用)→ これを赤っ恥といってしまうあなたは刑事事件をそして刑事弁護を全く理解していない。恥をさらしたのはあなただ。

ありがちな弁護士の発言なのでそれほど驚きはしなかったのですが、真剣な取り組みを自覚させてくれたことが、珠洲警察署に電話をしたきっかけにもなりましたし、今後もすばやい対応で連絡を入れるという話にもなりました。

佐藤博史弁護士やPC遠隔操作事件に関しては、言いたいことも沢山ありますが、その都度、廣野秀樹(@hirono_hideki)でツイートをしたり、別の形でも記録を残しているので、必要に応じそちらの客観的な資料を参考にしていただければと思います。

櫻井光政弁護士に関してはNHK連続テレビ小説あまちゃん、のことでも書く予定がだいぶん前からあったのですが、中途になっていたと思います。まだ、櫻井光政弁護士の名前を出していない段階だったかもしれません。

告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(@kk_hirono)/「あまちゃん」の検索結果 - Twilog http://bit.ly/1k1r6lp

上記のTwilogで確認したところ、「10:18 - 2014年5月6日」に「あまちゃん」というキーワードがありました。全部で今日の分を含め3件の該当でしたが、昨年の8月27日となると、本書の連携スイートなのか確認を要します。

今一度、廣野秀樹(@hirono_hideki)のTwilogで「あまちゃん」に言及した部分を調べてみます。前回の5月6日にも検索をしたのですが、別の方向に筆が走ったまま、中途になっていたようです。

廣野秀樹(@hirono_hideki)/「あまちゃん」の検索結果/Page 3 - Twilog http://bit.ly/1k1t1GC

2014-05-28-183820_廣野秀樹(@hirono_hideki)/「あまちゃん」の検索結果/Page 3 - Twilo.jpg pic.twitter.com/kxCl1cUzxo

私のTwilogでは2013年06月19日(水)のリツイートになっているので、これを見た時、自分の記憶違いかとも思ったのですが、どうもこの時刻は私がリツイートをした時点での時刻のようです。本来のツイートは残っていると思いますので、次にご紹介します。

Twitter / okinahimeji: 「あまちゃん」を見るたびに小泉今日子演じる母親の言動に激しい ... https://twitter.com/okinahimeji/status/345364182486634496

2014-05-28-184306_「あまちゃん」を見るたびに小泉今日子演じる母親の言動に激しい不快感を抱いてしまう。.jpg pic.twitter.com/FvrcuwCdmR

ご本人のツイートは「11:16 - 2013年6月14日」になっています。再度自分のTwilogを確認したところ、つぎのように初めて「あまちゃん」をみたというツイートの日付が6月12日なっていました。

2014-05-28-184826_NHKの連続ドラマ「あまちゃん」、初めてみた。印象的なオープニングの音楽。.jpg pic.twitter.com/X8ZpvM0hsG

これが正しいとすると、私は重ねて記憶違いをしていたようです。櫻井光政弁護士のツイートをたまたま見たのが、視聴のきっかけという趣旨のツイートは、別の機会にも行っていました。次のように。

2014-05-28-185454_HKの連続テレビ小説を見るようになったのは、「あまちゃん」の途中から、弁護士のツイートで母親役を批判していたのがきっかけ。.jpg pic.twitter.com/4qLHdziOit

問題のツイートは「0:59 - 2014年4月18日」が投稿日時になっていました。割と最近のことで、やはりどこか勘違いしたままツイートしていたのかもしれません。

まあ、そういうこともありうるということが勉強にもなったので、テキストのコピーよりスクリーンショットの撮影を多用するようになりました。

問題のツイートの内容は次のとおりです。

引用)→ 「あまちゃん」を見るたびに小泉今日子演じる母親の言動に激しい不快感を抱いてしまう。少年事件扱っている他の先生方は平気なのだろうか。

私自身、昭和56年の8月28日の事件で、金沢少年鑑別所に入って、その時に担当になった家裁だと思いますが調査官の人の対応が、その後の岡田進弁護士の対応の理解に、相当の影響を受けたという経緯もありました。

昭和56年夏の終わりことで影響を受けたのは調査官のことだけではありません。けっこう前に書いていると思いますが、当時17歳だった七塚の少女MKと東金沢の少女MSのことです。その二人と被告訴人大網周一の4人で行った、加藤整形外科病院へのお見舞いに付き合ったときのことです。

ちょっと長い説明にもなるかと思いますし、ストレートに掛けない分、多少ややこしくなるので後回しにしてきましたが、ついでもあるので先にこの説明を行っておきたいと思います。被疑者、被告人という立場で十分な弁解が出来なかった、大きな理由の一つでもあります。

まず、加藤整形外科の場所ですが現在も同じ場所にあるのではと思います。割と最近Googleマップで少し見た覚えがあります。神田か新神田にあった自動車学校がなくなっていたのに気がついた時とお名瀬だったと思います。

加藤整形外科の道路を挟んで向かい側には高中(たかちゅう)こと高岡中学校がありました。そこに中学校があるということも知らないでいたと思いますが、被告訴人多田敏明の話を聞いて初めて知ったようにも思います。

2014-05-28-192435_加藤整形外科 金沢市.jpg pic.twitter.com/YdId8Wz3EY

あらためてGoogleマップの地図を見ると、かなり斜めにずれた場所に高岡中学校はあるようです。ほぼ真向かいと思っていたのですが、確かに大豆田大橋の大きな通り沿いに住宅らしい建物はありました。

被告訴人大網周一ら4人で加藤整形外科に行ったのは昭和59年の10月ころだと思います。当時私は16歳で車の運転もしていなかったので、金沢の地図には明るくなかったのですが、覚えやすい病院名だったということもあり、あとになってその場所があの病院だと思い返したように思います。

病院にお見舞いというか面会に行った相手は、少女二人の知り合いで面識はなかったのですが、本人ではなく乗っていたというバイクには印象に残る記憶がありました。次の辺りの増泉の借家のような家の前によく停まっていたバイクだったからです。

2014-05-28-195628_第一島崎アパート - Google マップ.jpg pic.twitter.com/VqYWLUobPk

Googleストリートビューの使い勝手が悪くなっていて、バッテンマークが出て前進が出来ず、クリックをすると真っ黒な表示になっていました。それで場所の確認にも手間取ったのですが、この第一島崎アパートという辺りが、ちょうど昭和56年当時の被告訴人大網周一のアパートでした。

2014-05-28-200631_石川県金沢市増泉1丁目の昭和56年当時の記憶に残る風景.jpg pic.twitter.com/wgbbBuURER

次はGoogleストリートビューです。マウスホイールの拡大で確認したのですが角にあるのは「山上美容室」となっていて、唯一記憶に残る建物です。右手の小路が突き当りになっていて、その右側の一番奥に被告訴人大網周一のアパートがあったと記憶しています。

「山上美容室」の前の並びの通りですが、その美容室から参考画像に見える奥行きで、だいたい50メートルはどのところに問題の借家のような家がありました。暴走族のたまり場になっている家でしたが、ずいぶんと古い建物でまるで江戸時代の怪談を思い起こさせるような雰囲気の建物でした。

たぶん平屋だったのだと思いますが、それもずいぶんと天井が低そうな建物でした。江戸時代の武家屋敷は屋内で刀を振り回しにくいようにあえて天井を低くしていたとは聞きますが、民家らしい建物でそれらしいものをみたのは、後にも先にもその建物だけです。

二方向の通り道(反対方向は石坂(いっさか))の一つなので、よく前を歩いていましたが、その民家の前ではホンダのCB400Fがよく停まっていました。昭和56年の当時既に幻に近いような名車という感じになっていたと思います。

ホンダ・ドリームCB400FOUR - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/ホンダ・ドリームCB400FOUR

上記ホームページに情報がありましたが、1974年の発売だったというのは私自身初めて知りました。「生産台数はFOUR-Iが約1,000台、FOUR-IIが約5,500台とされている。」というのも知らなかったのですが、もともと数に限りがあって希少性が高かったようです。

当時はバイク好きの誰もが憧れるような、実際に見かけることも少ないバイクだったので、なおさら印象に残っていたというのもあります。

ある夜、その民家の前を通りかかった時、少女MKら6,7人が外に出ていて、民家を追い出されるとかなんとかと話をしていたのです。細かいことは憶えていないですが、それならという感じで、そのメンバーが被告訴人大網周一のアパートに転がり込むことになりました。

男というのは当時19歳だった岐阜の少年、私とは同い年だった羽咋郡富来町の当時16歳だったYYという少年。岐阜の少年に関しては現在名前も思い出せなくなっていますが、けっこう年上に見えていました。

少女というのは松任市の同い年のSKが同じく16歳だった他は、全部が17歳になっていたかは不明ですが、学年で私より一つ年長だと聞いていたように思います。七塚のMKと東金沢のMSをあわせて少女は全部で6人だったように思います。

転がり込んでから連日連夜の大騒ぎで3日目ぐらい8月28日の早朝に、通報を受けた金沢中警察署の警官が来て補導されました。新聞には13人と出ていたように記憶しています。ちょっと前にたまたま来た当時21歳かあるいは24歳ぐらいの穴水町出身の男も補導というか成人なので逮捕されていたと。

岐阜の19歳の少年は警察が来るとすぐにトイレに入って、そのまま逃走しました。それも10月ころだったと思いますが、入江のアパートで被告訴人浜口卓也に警察を装った訪問で、肝を冷やしていたのも記憶にありますが、その時は彼女と二人固まった感じで逃げようとはしませんでした。

その時付き合っていた彼女とは松任市の少女SKでした。他の少女はみな金沢市内と聞いていたように思いますが、七塚のMKは中村町の姉のアパートにも住まいをしていて、鑑別書を出てからはその姉のアパートにも遊びに行った記憶があります。

前にも少し書いているように思いますが、入江のアパートというのは七塚のMKが服役中の暴力団員に、鍵をもらって自由な出入りを許されているというアパートでした。何度かそのアパートで鑑別書を出た後もシンナー遊びをやっていた頃に、加藤整形外科病院に行ったのです。

8月28日、金沢中警察署に連れて行かれたのは男女13人で、小立野の少年鑑別所に家裁から連れて行かれたのは、少女一人のほかは、私と被告訴人大網周一、それと伽のYY,それと私より1つ年上のTAで、少女一人の全部で5人だったと思います。

午前中には金沢中警察署で取り調べを受けていましたが、午後になってバスに乗せられ、連れて行かれた先が家裁で、その後にはバスで鑑別書に連れて行かれました。まったく想像にもしない急展開でした。

私は全くの初犯でしたが、自分以外のシンナーの吸引を認めず、また警察が連絡をした母親がたまたま不在だったということで、一緒に鑑別書に送られたようです。独房に入れられた時は、正直涙を流しました。

鑑別所では28日以内に審判があって処分が出ると聞いていたと思います。私は母親が面会に来た時の態度が悪くて職員を驚きもさせたようです。それにニグロという細かいパーマの髪型にしていましたが、不利になるとは聞いていたものの髪型も変えず、切りませんでした。

少年院に行くことになるかもしれないと言われていたのですが、確か26日目に審判があり、試験観察という処分が出て、釈放というのは鑑別所を出されて自由の身になりました。当日の夕方遅くには宇出津に帰っていたと思います。

時刻は5月29日11時36分を過ぎたところです。再開します。

2014-05-29-112559_金沢家庭裁判所 Google マップ.jpg pic.twitter.com/L8sn1DSPhM

上記は金沢地方裁判所の建物をGoogleストリートビューでスクリーンショットしたものです。中程に見える3階建ての建物がそうだと思います。左手にみえる仮設の建物は新築工事中だった金沢地方裁判所の一部と思われますが、工事はだいぶん前に終わって新庁舎になっているはずです。

どうも2つまえの写真付きツイートを含むツイートが、投稿に反映されていないようです。

直接、ブラウザからTwitterに投稿をやってみたのですが、サーバ内部エラーが出ました。なにか問題のある文字列が含まれているのかもしれません。URLだけで試してみます。これでエラーがでるようならが、Twitterの仕様変更が考えられます。

pic.twitter.com/L8sn1DSPhM

なぜか今度はうまくいったようです。

2014-05-29-112959_金沢地方検察庁の周辺 - Google マップ.jpg pic.twitter.com/wdptJdWeml

今度は問題なくうまくいったようです。前回の「2014-05-29-112559_金沢家庭裁判所 Google マップ」の投稿では、たまたまエラーで失敗をしたものの、投稿が成功したのと同じ情報が残されていて、重複した投稿と判断されたのかもしれません。

「金沢地方検察庁の周辺」をみれば一目瞭然かと思いますが、金沢地方検察庁と金沢地方裁判所は近くにあって、その間に挟まれるようなかたちで金沢家庭裁判所もあります。

金沢地方裁判所の前の建物と金沢家庭裁判所の建物の間には、お堂のような古い建物があって、それが金沢弁護士会の建物だったのですが、数年前の取り壊しになったようです。陪審員裁判が最後に開かれたとか、はっきりは忘れましたが、歴史的な意義もある建物だったと何かで見ました。

それと、昨夜のGoogleストリートビューで画面が黒くなるという現象ですが、Firefox固有の問題で発生していたようです。今日はGoogle Chromeでやってみたところ、以前通りにクリックで前進することができました。

金沢弁護士会の古い建物ですが、私はそこに出向いて相談する弁護士の紹介を受けたことがありました。平成9年の秋だと思いますが、その時に紹介を受けて事務所を訪問したのは、「畠山美智子弁護士」だったと思います。

2014-05-29-123921_畠山美智子法律事務所.jpg pic.twitter.com/lpSvZNxvfx

今度も投稿がうまくいったようでよかったです。尾張町に近い場所ということで私の記憶とも一致するような場所ですが、住所が大手町になっているらしく。これはいささか驚きました。大手町というのは自分が思っていた以上に範囲が広いようです。木梨松嗣弁護士の事務所も大手町だったかと。

当時は同じ頃に、西村依子弁護士、小堀秀行弁護士にも相談に行きました。西村依子弁護士に関しては、本書において既に記述をしているかと思います。畠山美智子弁護士と同様に、受任を断れたものの、相談料もいらないと言われました。

畠山美智子弁護士には主に民事裁判としての損害賠償請求について話をしたという記憶がありますが、なにか驚いた様子で、「あなたの方が詳しい」などとも言っていました。厄介払いに必死だったという印象もその場の場面として記憶にあるのですが、午後の時間で薄暗い状況だったようにも。

昭和56年の話に戻します。

2014-05-29-131538_告訴状の説明に伴う昭和56年当時の場所.jpg pic.twitter.com/LwbPFPdM5c

告訴状の説明に伴う昭和56年当時の場所 https://mapsengine.google.com/map/edit?hl=ja&mid=zFhFi3M9JKtg.kl83clWFiHL4

Googleのマイプレイスという地図サービスを使って目印を作成しました。風船のようなマークが出ていると思いますが、見出しの部分にある色分けとマークの位置が対応しているはずです。加藤整形外科に関しては検索結果の住所位置から自分の地図に追加をしました。より正確かと思います。

マイプレイスのレイヤーを別にして「主に平成4年以降に関連のある場所」というマップを作成しました。以下はスクリーンショットとマップのURLです。

2014-05-29-134853_主に平成4年以降に関連のある場所.jpg pic.twitter.com/AeOzl6BXuA

告訴状の説明に伴う昭和56年当時の場所 https://mapsengine.google.com/map/edit?hl=ja&mid=zFhFi3M9JKtg.kl83clWFiHL4

どうもレイヤーの表示の仕方を別にしても、URL及びリクエストパラメータの値は同じようです。ページのタイトルも同じです。

URLとタイトルのすべてが同じだったので、Twitterの投稿に失敗していたようです。面倒ですが、マイプレイスを別に作成しておいたほうが、あとあとの誤解や混乱を避けれるかもしれないです。

19時11分を過ぎたところです。しばらく中断していました。マイプレイスのコピーを試みたのですが、十分にはうまくいかず、そのあと母親の入院している病院に行く用事があったのでそれを済ませてきました。

マイプレイスというのはマイマップを新しくしたGoogleの地図サービスのようです。kmlファイルとして保存したり、それをインポートしたような経験はあったので簡単に出来ると思っていたのですが、マイプレイスではkmlの情報をそのまま読み込むことが出来ないようです。

マイプレイスの作り直しも考えたのですが、作成したマイプレイスのタイトル名とレイヤーの名前を変更することにしました。結果は次のスクリーンショットとWebページのURLのようになりましたので、今後はそちらの方を前提に説明を進めていきたいと思います。

2014-05-29-190840_告訴状の説明に伴う主に金沢市内の当時の場所.jpg pic.twitter.com/WrluPbwBWK

告訴状の説明に伴う主に金沢市内の当時の場所 https://mapsengine.google.com/map/edit?hl=ja&mid=zFhFi3M9JKtg.kl83clWFiHL4

少し話題を変えますが、直近のこととして少し書いておきたいと思います。母親のいる病院の帰りに私が住む宇出津に一件だけのコンビニに立ち寄ったのですが、週刊文春はありませんでした。しばらくは他の週刊誌を眺めていたのですが、斜め向かいにある書店に行くことにしました。

コンビニの道路を挟んで斜め向かいにある書店は、梶川の橋の工事に伴って更地として撤去され移転した千間書店なのですが、現在は「千間啓文社」というお店の看板になっていました。移転してから一年以上は経つと思いますが、店に入ったのは今日が初めてでした。

「週刊文春 5月29日号」ではなかったかと思いますが、あるいは5月30日号で、開いてみたのですが、佐藤博史弁護士をタイトルにした記事は見当たらず、グラビアの一部としてPC遠隔操作事件に関する記事がちょっとだけ載っていました。

ここで調べ直したところ、自分の勘違いに気が付きました。千間書店には置いていなかった最新号が、佐藤博史弁護士に関するタイトルの記事を掲載したものであったようです。次のWebページです。

週刊文春2014年6月5日号 | 最新号 - 週刊文春WEB http://shukan.bunshun.jp/articles/-/4006

私が注目し、普段支払い以外には滅多に行かないコンビニに立ち寄った目当ての記事のタイトルは「社会 片山被告PC遠隔・佐藤博史弁護士の拝金主義」です。いつ発売なのかわからないですが、ぜひこの記事には目を通しておきたいと考えています。

宇出津のコンビニでは、以前より沢山の種類の週刊誌が置いてあるように感じました。中には売り切れでたまたま見ていなかったというのもあるのかもしれません。

コンビニでは見かけなかったのですが、千間啓文社では週刊文春が2冊程度だったのに、週刊新潮は6冊か7冊ほど置いてあったので、これも少々意外に感じました。宇出津でもそれなりに社会の問題に関心を持っている人がいるからこそ、相応の数の雑誌の入荷があるものと想像されたことです。

週刊現代、週刊ポスト、アサヒ芸能、週刊朝日、他に名前は忘れましたが1冊か2冊の週刊誌にざっと目を通しましたが、PC遠隔操作事件の真犯人自供に関する記事の扱いは概ね小さく、そういうものだったのかという確認と納得が自分なりに出来たことを、書くておくというか報告しておきます。

宇出津の梶川の橋のたもとに千間書店があった頃、千間書店の真向かいには被告訴人大網健二と被告訴人大網周一兄弟の家がありました。中学生の頃までのことです。向かい合う道路に面した2階の部屋が被告訴人大網健二の部屋だった頃のことです。

夕方にその千間書店で漫画の立ち読みなどをしていると、被告訴人大網健二が顔を出し、話をしたり、そのまま彼の家に遊びに行ったような断片的な思い出も印象的です。昭和56年にも近い時期でした。

昭和55年ぐらいではなかったかとも思いますが、大網プロパンとしてガス器具の販売の店にもなっていた千間書店の真向かいの家の部分は、父親の借金のかたに売却されたらしく、スポーツ用品店になっていました。

裏の方にある大網自動車の整備工場を含めた家の敷地全体では3分の1か4分の1の部分だったと思います。数年後には自動車工場を含めた家の全体が売却され、整備工場のあった部分は解体のうえパチンコ店の駐車場になっていました。

そのパチンコ店は千間書店の隣でしたが、梶川の橋の工事に伴う移転の対象にはならなかったものの、2年ほど前に閉店し、そのあと解体され、現在はパチンコ店の経営者の住宅が新築されさほど日数が経過していないところです。

何年か前までは被告訴人である大網兄弟の家の建物の一部が現存していて、なにか選挙事務所のような看板が出ていたと思いますが、いつの間にか取り壊しになっていました。宇出津にはいたと思いますが、解体の工事の現場は見ていなかったようにも思います。

昭和59年の話に戻します。

新聞には一番大きな記事で、「シンナー吸って大騒ぎ」というような見出しになっていたと思います。昭和56年8月28日の早朝に金沢中警察署が踏み込んで補導された事件でした。

その数時間前だったと思いますが、たまたまという感じで、当時、金沢高校の学生だった被告訴人大網健二が寿司屋の出前持ちをしていた同級生と二人で、増泉の被告訴人大網周一のアパートに遊びに来て、被告訴人大網健二もシンナー遊びを始めたのです。

被告訴人大網健二にしてみても間が悪かったというか、それで人生の軌道が大きくずれたとも思えます。金沢中警察署が踏み込んだ時、その場にいたので被告訴人大網健二も補導されたのですが、私が鑑別所を出ておよそ一月ぶりに再開した時には、金沢高校を退学になったと聞いていました。

頻繁に被告訴人大網健二の家に遊びに行くようになったのもそれからのことです。金沢高校を退学になったことで被告訴人大網健二も宇出津に戻って家で生活するようになっていました。被告訴人大網周一も私が鑑別所を出た2,3日後には同じく試験観察という処分で自由の身となり宇出津に戻りました。

被告訴人大網健二は保護観察の処分になったと聞きましたが、その保護観察は被告訴人大網健二が二十歳に近くなる頃まで続いたようで、保護司のところに行ってくるという話は、昭和59年ころにも聞いていました。

被告訴人大網周一と同じ試験観察という処分でしたが、私の場合はその昭和56年の12月ころには再度審判があって、不処分という結果が出たので保護観察になることもありませんでした。

調査官の人の名前は忘れてしまいました。割と近年までは記憶にしていたようにも思いますが、今現在は少しも思い出せません。初めはずいぶんと厳しく熱のこもった対応を受けたのですが、終わりには優しい言葉も掛けられ、不処分ということにもなったのです。

その調査官とは試験観察後の審判が出る前、七尾市の家庭裁判所で面接したことも憶えています。より印象的だったのは被告訴人安田敏とその母親と、待合室で顔を合わせ話をしたことです。

その時、様子がおかしいとは感じたのですが、2ヶ月ほどあとかと思いますが、シンナー遊びで発狂して松原病院に入院したと聞きました。待合室であった時は、やせ細って青白い顔色で幽鬼のような様相を漂わし、言動にもおかしなものを感じていました。

七尾市の家庭裁判所の待合室での被告訴人安田敏の母親の姿も、友だち関係に敵意を向けるようなものが感じられ、母親に会ったのはそれが一回限りでしたが、複雑に印象に残っていました。本当はとても優しそうな母親というイメージもありました。

その被告訴人安田敏の母親のイメージというのは、活字以外にまったく情報が無いですが、私の中ではPC遠隔操作事件の片山祐輔被告の母親のイメージに重なるところがあり、佐藤博史弁護士に人生を翻弄、利用されたというイメージも強いです。

私の家裁の調査官はいろいろと情報を得た上で、私に面接していたのだと思いますが、厳しいだけではなく大仰とも思える態度でした。心底驚いているようにも見えましたが、それは当時の宇出津近辺の私を取り巻いた環境というのも大いに影響していたのではと思われます。

簡単に説明は出来ませんが、時代の変化という意味でも昭和56年当時の宇出津近辺と現在の宇出津近辺とは隔世の感があります。つくづくどうなのかと考えるぐらいの様変わりでもあります。

他にも、昭和56年に取り調べを受けた金沢中警察署の取調室は机や壁の一面が傷だらけで、物凄いものがあったと強い印象が残っています。鑑別所も似たようなところがあって、独房は主に彫刻刀で掘られたような落書きだらけでした。

「ドテチン、瀬戸少にいく」というようなものもあったと記憶に残っていますが、つまり愛知県の瀬戸少年院に行くということと思われます。他にも山口組系一会北友会というような所属と思われる暴力団名も多かったと記憶にあります。

初めは独房に入れられて涙も流した鑑別所での生活でしたが、10日ほどで雑居房に撮され、けっこう楽しく過ごしたという思い出のほうが、正直強くもあります。丸ごと骨付きのサバの唐揚げには驚きましたが、週に一回の白米のカレーライスがとても美味しかったという思い出もあります。

いきなりですが、先ほど次のようなことをやりました。

2014-05-29-211135_その人権ということで、私はモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)ことあなたを名誉毀損で石川県警に告訴する必要性を感じ、.jpg pic.twitter.com/lPUhFPuUmZ

現在の時刻は5月31日の14時05分を過ぎたところです。買い物のついでに立ち寄った新しく出来た宇出津の図書館でノートパソコンの持ち込みが許可された聞き、早速持ち込んでみたところです。インターネットにはスマホでWi-Fiデザリングというのをやってみました。

家のほうが午後になると西日が強くてかなり暑くなります。昨日も輪島で31度を超えたとか話が出ていました。

Aコープ能都店での買い物の前に立ち寄った時には北國新聞の縮小版で昭和56年当時の記事を見ました。一つは昭和56年8月28日の夕刊になっていました。記事の内容も自分が見たものとは少し違ったような気もしたのですが、左側の方に2番めに大きい扱いという感じになっていました。

いずれにせよ私がその記事を見たのは鑑別所を出た後のことで、誰かから見せてもらったのだと思います。あるいは北陸中日新聞の記事を見ていたのかもしれませんが、個人的には北國新聞しか読むことがなく、家で購読していたのもずっと北國新聞だったと思います。

ただ、夕刊というのは家で購読したことが一度もなく、他にも夕刊を目にする機会というのは少なかったと思います。

もう一つの記事というのは少女の暴走族の摘発のものでした。これは自分が見た記事とも一致する感じでしたが、やはり9月の終わり頃の記事になっていました。顔から下の少女の写真が七塚のMKだと説明されながら誰かに見せてもらった記事でした。

その記事の内容には河北郡出身で金沢市中村町に住む少女がリーダーで、同じアパートの住む同じ河北郡出身の少女がサブリーダーということになっていました。同じアパートに住んでいるような書き方になっていましたが、MKがサブリーダーという話は仲間内でも聴いてはいました。

MKも中村町のアパートには住んでいたようですが、姉のアパートに居候しているという話だったので、少し記事に間違いがあるような気もしましたが、リーダーと思われる少女は少女の中でただ一人、私達と一緒に鑑別所に連れて行かれた少女だと思いますが、河北郡という話は聞いていなかったかと。

鑑別所を出た後もそのリーダーという少女には一度も会うことがなかったと思います。うわさ話は少し耳にしていたようにも思いますが記憶にはありません。また、記事によると鑑別所を出てすぐに暴走行為で補導されたような書き方もされていて、これも記憶にはなかったことです。

本当は他にリーダーという少女がいるようにも聞いていたのですが、実際会ったことはなかったです。ただ、私が鑑別所にいる間のたまり場では、顔を出すことも会ったと聞いたように思います。

8月28日の夕刊には高校生が一人含まれていたと書いてありましたが、これは被告訴人大網健二のことだと思います。本人から金沢高校を退学になったとは聞いていましたが、かなり早い時期に学校に行かなくなり宇出津に戻ってからも、宇出津の友人を連れて、金沢のたまり場に遊びに行っていたようです。

告訴状の説明に伴う主に金沢市内の当時の場所 https://mapsengine.google.com/map/edit?hl=ja&mid=zFhFi3M9JKtg.kl83clWFiHL4

上記のマイプレイスに「鑑別所を出た後たまり場になっていた古いアパート」という印をつけましたが、これは私が鑑別所を出た後に何度か遊びに行ったアパートでした。

その古いアパートは金沢中警察署が踏み込んだ時に便所の窓から逃走した岐阜の19歳の少年の友達のアパートのようでしたが、近くの自動車修理工場か板金工事に通っているらしく真面目に仕事をしているような人でした。

たまり場がそこに移る前も、被告訴人大網健二らは頻繁に金沢に遊びにゆき、他に補導されたメンバーらと遊びまわっていたような話でした。細かい話を聞いたようにも思いますが、記憶にあることは少ないです。

その金沢のたまり場に被告訴人大網健二が連れて行ったというのは、HMや神野のKMです。神野のKMに関してはこれまでも何度か書いていると思いますが、山水運輸にも働いています。私は昭和60年の5月ころまで付き合いがあったのですが、ちょっとあって絶縁関係になりました。

神野のKMはUTという少女と付き合うようになり、そのうち金沢市大額のアパートで同棲するようになっていました。UTは宇出津の私の家の近所でもありますが、被告訴人大網健二の妹や妻となったOMとは同級生であり、仲の良いグループでした。

被告訴人大網健二の結婚式でUTの姿を見ましたが、姿を見たのもそれが最後だったと思いますし、神野のKMの話も聞かなくなっていきました。UTと結婚したとか、子供が生まれたような話も聞いてはいたように思います。

HMも私の同級生ですが小木分校に通っていた昭和55年当時もよく遊んでいました。ほとんどの場合一緒にいたのがHSでした。二人とも小木分校の受験に落ちて水産高校の本校の方に通っていたのですが、乗船実習に行くのが目的だから実習に行ったらすぐに学校をやめるとは話していました。

その言葉通りに実習から戻るとすぐに水産高校をやめたようですが、時期ははっきり思い出せません。水産高校の機関科と漁業科には加能丸での乗船実習があり、3ヶ月ほどハワイやシンガポールに行くことになっていました。成績の良い生徒がハワイと聞いたようなこともありました。

二人とも初めに小木分校の無線通信科を受験していたはずなのですが、無線通信科と本校の製造科には乗船実習はありませんでした。製造科は9割以上のほとんどが女子という特徴もありましたが、無線通信科は4分の1ぐらいの割合で女子がいました。

HMとHSはいつも一緒に行動していましたが、被告訴人大網健二が連れて行った金沢のたまり場に入り浸りになって、家出のような状態になったと聞きます。実際に、心配した父親と母親があちこち探しまわっていました。

HMもHSも水産高校をやめたのはほとんど同時期だと思うのですが、金沢で遊びまわるHMにHSはついていけなくなった感じで、愛想も尽きたようです。他にもなにかあったのかもしれませんが、その辺りを境にHMとHSが一緒にいる姿も見かけなくなりました。

両親がとても心配してあちこち探しまわったことで、周囲に迷惑を掛け、またそれに対する態度も悪かったのかと思いますが、HMの姿自体を見かけなくなり、話も聞かなくなっていきました。結果的にかえって真面目な生活をするようになったのかもしれないですが、情報もなかったのでわからないです。

今年の2月ころに、宇出津で仕事をしているという話を聞きましたが、海に近い仕事場と聞きました。前を通りかかることも多いですが、確認しようと考えてこともありません。ヤリイカ釣りの堤防で同じく昔の知人から聞いた話です。

HSとはその後も付き合いは続きました。免停の講習に観音堂の運転免許センターに行き、講習中の態度が悪いと注意を受け、乗ってきていた車に乗って帰ろうとしたところを、無免許運転として摘発され免許取り消しとなりました。

さらに金沢市馬替の従兄弟のHSさんのアパートで、HSさんの車ではなかったかと思いますが、その車の運転を始めて蛇行運転をしていたところ、民家の車庫に突っ込んでそれを突き破り、となりのブロック塀にぶつかって車を大破させたのです。その時私は助手席に乗っていたのですが怪我はなかったです。

そんな事故とかで車のローンなどの借金がかさみ、嫌々ながらやむなく小木港の遠洋漁船に乗ることになったのです。漁師になってから友だち関係も正確もだいぶん変わったとも思いますが、被告訴人浜口卓也との関係も親密になっていたのが、特に印象的でした。

その後、2,3年は漁師をしていたのだと思いますが、昭和61年のはじめぐらいを境に、会うこともなくなっていたと思います。それまではたまにアパートに訪ねても来ていたのですが、私の方の付き合いが悪かったので、そのうち来なくなったようにも思います。

久しぶりに会ったのが、本書において既に書いていると思いますが、従兄弟のHSさんの結婚式の会場の外でした。建物の2階で、私は長男だけを連れていた場面を記憶しているのですが、被告訴人大網周一の姿も記憶に残っています。

その時、従兄弟のHSさんと結婚したのが姫のDMで、被告訴人大網健二の妹や妻の同級生であり仲の良いグループのメンバーでした。

被告訴人大網健二がお盆休みに神戸から来た時も、夜に初めに会ったのは金沢市八日市のHSさんとDMが同棲しているアパートでした。そのアパートの建物には、他にも年の離れた宇出津の先輩が住んでいると聞いていたようにも思います。

あるいはMSさんがそうだったかもしれません。アウディが何とかという話も少し頭に残っています。MSさんは今でも宇出津で顔を合わすことがありますが、平成9年の2月ころか、被告訴人大網周一や被告訴人大網健二と家に遊びに行ったのが、印象に残っています。

平成9年になると同級生のHSは、金沢の被告訴人大網周一の鳶職の会社でナンバー2のような立場になっていました。被告訴人大網周一とはそのかなり前から親密な関係が続いていたようです。

金沢市内の上荒屋に家を立てて住んでいると聞きましたが、それも被告訴人大網健二がかなりの世話をしたような話でした。

それより前で、あるいは平成4年より前だったという気もするのですが、従兄弟のHSさんも被告訴人大網健二に不動産か住宅のことで世話になったような話を聞いたように思いますし、ほかにもそういうのがけっこうな数あるように聞いていました。

告訴事件と関連のある金沢市内の場所 https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zW8zvRyoSBg4.kcVzYakZOUcc&hl=ja

2014-05-31-155457_被告発人HTNの運送会社の駐車場.jpg pic.twitter.com/n7oNmP1Mk3

だいぶん前に作成したものですが、マイプレイスのURLと該当箇所のスクリーンショットです。被告訴人大網健二からその駐車場の話を聞いたのは平成9年7月に金沢に出てから、だいぶんあとのことでした。その前は一緒に何度も車で通っていたはずなのですが、教えられるまで全くしらなかったです。

被告訴人浜口卓也が市場急配センターで配車係をしているという話は被告訴人大網健二の口からも聞いていたと思いますが、トラックの駐車場があるということはすでに独立していたことにもなるはずです。

そのトラックの駐車場は周りのほとんどが空き地だったので、けっこう目立っていました。保冷車か冷凍機付きと思われるトラックが多い時で5台以上はいたような気がします。2トン車と4トン車がいたと思いますが、いずれも塗装をしていないのか白い色のトラックでした。

双葉湯のすぐ近くでもありましたが、その辺り一帯は昭和59年ころにくらべるとすっかり様変わりしていました。双葉湯自体は、一度、松浦さんと愛知県のK村さんの3人で風呂に入った思い出があるぐらいなのですが、すぐ近くには金沢市場輸送のつけもきく、飛鳥食堂がありました。

松浦さんというのは今までMなどと実名を書かずに来たと思いますが、事案解明の重要度の高い人物なので実名ということにしたいと思います。下の方の名前ははっきり思い出せないのですが、漢字2文字で上のほうが健だったようには思います。

初めに金沢市場輸送でイワシのダンプに乗るようになった人物です。平成9年の11月の20日ころの会見で、労務の担当者として話を聞く必要があると同席した堂野さんも松浦さんの紹介だと聞いていました。

その松浦さんの愛人という女性の息子で、金沢市場輸送に入社し市内配達の仕事をするようになったのが、重大なキーマンの一人である被告訴人安田繁克です。被害者AAさんの元彼氏という話にもなっていましたが、事実自体を捏造していた可能性がすこぶる濃厚です。

K村さんに関しては匿名にしておきます。私が金沢市場輸送に2度目に入社した昭和61年の8月の時点には既にいたように思いますが、長距離運転手として大型車に乗務していました。

イスズの7180号という10トン保冷者に新車で乗務したのもK村さんだったと思います。イワシのダンプよりはだいぶん前に入っていたように思いますが、同じくイスズの新型車でした。ただ、その前となるとK村さんがどのようなトラックに乗務していたのか思い出すことが出来ません。

松浦さんに負けないぐらい暴力団というかヤクザものらしい感じの人物でしたが、彼も被告訴人竹沢俊寿がヤクザをやっていた頃の組員だったとも聞きました。もっとも松浦さんは少年にも近いような若者で、すぐにいなくなったような話も聞いたことがありました。

K村さんは運転手の間でも評判が良くなかったですが、キレやすいタイプであるだけではなく、異常な行動もちらほら耳にしていました。福井県の敦賀市から京都府の舞鶴市にかけて国道27号線というほとんど対面通行の国道があるのですが、反対車線で追い越しを掛け続け対向車が反対側に出て避けるとも。

K村さんはイスズの新車に乗務していましたが、高速道路の走行ではクラッチを踏まないでギアチェンジをしているとも聞きました。この話は山田さんに聞いたと思いますが、万一ギアが壊れてエンジンにロックが掛かったらどれほどの惨事になるものかと、想像してみたこともありました。

金沢の市場の鮮魚の売り場で、上半身裸になって入れ墨を見せ暴れ、大勢に袋叩きにされた挙句、市場の人の仮設の小屋のような建物を、フォークリフトで持ち上げたというような話も聞きました。これで出入り禁止になったという話も聞いたかもしれません。

大きな犬を連れて事務所にいる姿も見かけていました。テレビ化何かで見たフランダースの犬のような大人しそうな救助犬のような犬でしたが、長距離のトラックにも同乗させ、本当かどうかわかりませんが、気分が悪くなってくると憂さ晴らしで殴りつけているというような話も聞きました。

そのうち会社で姿を見かけなくなって、なにやら会社や被告訴人竹沢俊寿らともめているような話は聞いていたのですが、そのうち事件を起こし新聞にも出たようです。

その事件というのは、金沢市場輸送の駐車場に停まっていた多数のトラックか乗用車のタイヤを千枚通しのようなものでパンクをさせたというものでした。トラックと乗用車どちらが多かったのかも思い出せないですが、私の車かトラックのその場に駐車されていたものの被害はなかったのです。

なにか逆恨みの犯行のような話にはなっていましたが、耳に入ってくる情報を吟味しても不可解さの残る腑に落ちない話でした。その頃にはずばりトラックを運転しながら覚せい剤をやっているという話も耳にしていましたが、覚せい剤に関しては不思議と大きな話にはなっていませんでした。

その金沢市場輸送の駐車場というのは、丸北青果の道を入った後に金沢市場輸送の事務所が出来た辺りにあった駐車場です。

告訴事件と関連のある金沢市内の場所 https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zW8zvRyoSBg4.kcVzYakZOUcc&hl=ja

2014-05-31-165519_金沢市場輸送の事務所があった場所.jpg pic.twitter.com/SFHaTaTlh3

ちょっとTwitterとの連携に齟齬が生じ、順序が入れ替わってしまいました。投稿したつもりがしていなかったのかもしれません。

上記のスクリーンショットを見ていただければわかると思いますが、丸北青果の間の道に入ると、現在は十字路の先が左斜めの鋭角になっていてその角が金沢市場輸送の新しい事務所になっていました。建物自体は現在もそのまま残っている可能性が高いと思います。

以前はその十字路がまっすぐに伸びていて、左右が田んぼか畑になっていて、畦道という感じもするぐらいでした。その十字路の先の左手に金沢市場輸送の駐車場があったのですが、舗装もされていないような駐車場でした。砂利がしいてあったような気もしますが、水たまりもあったような。

時刻は17時56分を過ぎたところです。図書館は17時まででした。またAコープ能都店で少し買い物をして帰ってきました。家にいるよりは集中できると思いましたし、暑さもましでした。まだ本格的に冷房の入る時期にはなっていないようですが、温度調整はされているのではと思います。

家の方も天気が良い割には、昨日、一昨日とくらべると暑さはだいぶんましなように感じます。さほど気温は上がらなかったのかもしれません。テレビでは大分県で35度以上の猛暑日になったとか、NHKで行っているところです。

熱中症の疑いで2人が死亡とも出ていました。5月としては記録的な暑さとのことですが、冷房のない生活なのでこの夏も体調に気をつけながらなんとか乗り越えないと思います。

さて、ぼちぼち続きを書きたいと思います。

K村さんに関しては姿を見なくなってだいぶん経ってから、また金沢市場輸送に復帰知るかもしれないという話を聞きましたが、それは実現せず、その後忘れられた存在になっていたと思います。

そんな頃になって初めて、愛知県の瀬戸市にいるということを聞きました。それまでは名古屋の人とか愛知の人という話は聞いていたと思いますし、普段からかなり訛りの強い名古屋弁のような話をしていました。私自身、昭和57年にしばらく名古屋で生活したことがあったので、馴染みもある方言でしたが。

そういう話は被告訴人池田宏美の口から聞いたような気もしています。池田といっても当時は違った名前だったと思います。初めは吉村と名乗っていたように思いますが、本人が4度目の結婚で池田という姓になったと話していたぐらいですから、あるいは私が知る間にも3回変わっているのかもしれないです。

K村さんが戻ってくるかもしれないという話を聞いたのも、まだ西念町の中央市場前に金沢市場輸送の事務所がある頃で、その2階の事務所の中で話を聞いたという記憶が残っています。二口町に事務所が移ってからは、話題にすら聞いていないような気がしますが、特異な存在感がありました。

金沢市場輸送の事務所が移転する前だったと思うのですが、一時期50メートル道路の一部を臨時の駐車場のように使っていた時期がありました。会社から指示が出てそうしていたのだと思いますが、なぜなのか深く考えることもなかったと思います。

告訴事件と関連のある金沢市内の場所 https://mapsengine.google.com/map/edit?mid=zW8zvRyoSBg4.kcVzYakZOUcc&hl=ja

2014-05-31-183354_臨時の駐車場だった場所.jpg pic.twitter.com/2E5UIm0cIe

上記のスクリーンショットは、久しぶりにログインして編集で追加した印のものです。重なっていてわかりづらいと思いますが、交差点の名前は「駅西本町一丁目」となっています。金沢駅の西口から国道8号線バイパスに伸びる一直線の広い道ですが、50メートル道路とも呼ばれていました。

「駅西本町一丁目」という名称は記憶にないですが、中央市場の方向から来ると十字路ではなくT字路の交差点になっていました。バイパスの方から来るとその交差点の手前で、道路が半分か3分の1ぐらいに分かれ、左側の部分が臨時の駐車場のようになっていたのです。

道路の車線との分岐点はガードレールで仕切られていたようにも思います。道路全体が拡張工事の途中だったようにも思うのですが、詳しい状況は記憶に残っていないです。

中央市場の方角から来たT字路の突き当りには6階建てか7階建てぐらいと思われるマンションがありました。けっこう古い建物に見えましたが、一階には喫茶店のような店があって、夜は飲み屋になっているような話も聞きましたが、竹林が常連にしているとも聞いていました。

私も一度、その喫茶店には入ったように思うのですが、竹林に連れて行かれたもののそれは昼間のことであったと思います。そこで酒を飲んだという記憶はないですし、夜にも入った記憶がありません。

その店では金沢市場輸送の社員同士のトラブルがあって竹林が殴られたような話も小耳にはさみましたが、詳しいことはわからず、誰かに尋ねるようなこともしませんでした。

あるいは竹林以外の、二人の間での諍いであったかもしれません。SSとYTが心当たりの人物ではあるのですが、ずいぶんと前のことで思い出すこともあまりなかったので、ちょっと思い出せなくなっています。やはり竹林が殴られたという話だったとは思うのですが、相手がはっきりしないです。

YTに関しては竹林のことを「ちくりん」と呼んでいましたが、特に折り合いが悪かったとも思えません。SSも同じイワシの運搬の仕事で金沢港で仕事をしていたので、そう折り合いが悪かったとは考えにくいのですが、この二人以外には該当者がなかったようにも思います。

時刻は6月2日10時54分を過ぎたところです。ここ2,3日長めの中断をしていたと思いますが、ようやく期待以上の収穫を得ることが出来ました。それはプレゼンテーションの活用です。URLの紹介とともに内容のテキストの部分は本書と連携させたいと思います。

告訴状の説明に伴うプレゼンテーション/市場急配センター編 - Google スライド

https://docs.google.com/presentation/d/1paR5XyQxpFQe3Gv_lLX5przUwzyo2bNwcdQOxqIhGJk/edit#slide=id.p

あと二文字の142字でエラーが出て告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)に投稿できなかったので2つに分割をしました。大事なところなので短縮URLと併せたタイトルも掲載しておきます。

告訴状の説明に伴うプレゼンテーション/市場急配センター編 - Google スライド http://bit.ly/1okxUdk

Google スライドというプレゼンテーションのサービスを使います。初めは同じGoogleの表計算のサービスでいろいろやっていて、行き詰まりもあり悪戦苦闘していたのですが、プレゼンテーションの方をやってみたところ、しばらく勉強すると予想以上に活用できそうだと思いました。

画像や写真、動画、それにURLリンクを交えた説明に特化したのがプレゼンテーションだと思います。裁判員制度でも活用されているという情報は見かけていました。

本書においてこれまで主にTwitterの写真投稿を活用してきましたが、画像の表示サイズとファイルとしての保存にも難があります。

それ故にPicasaウェブアルバムを併用してきたのですが、本格的なGoogleサービスの活用となればいっそのことGoogleドライブに含まれる他のサービスにも目を向けたのです。

初めにとりかかっていたの次の表計算です。同じGoogleドライブの表計算を使って公開をしています。ついでなので先にご紹介しておきたいと思います。

「2014-告訴事件に関する司法・社会・世相・時代の参考情報/金沢地方検察庁御中」の記事一覧リスト - Google スプレッドシート

https://docs.google.com/spreadsheets/d/1Eb0nNzmolB0WmPzK7ULhFSc1qMhWqu00npLwnF3Xlfk/edit#gid=32882546

「2014-告訴事件に関する司法・社会・世相・時代の参考情報/金沢地方検察庁御中」の記事一覧リスト - Google スプレッドシート http://bit.ly/1okALTE

現在985件の記事のリンクデータがあるようです。ブログの記事のリンクの一覧ですが、こういうのは情報として入手がしづらいものです。

Googleclのコマンドや何か他の方法でもタイトルとURLの組み合わせを取得できるのですが、どちらも最近の500件までという制限があるようです。

初めはLibreOfficeのcalcという表計算ソフトでGoogleclコマンドで得た情報を読み込んだのですが、URLの部分が自動でリンクにならなかったのです。マクロやlibreoffice basicというプログラム言語を使ってなんとかしようとしたのですが、自動処理はうまくいきませんでした。

プログラムの自動処理としてリンクを生成する関数のコードも生成したのですが、コードとしては実行評価されず、単なるテキストになっていました。

LibreOfficeでURLに自動でリンクをつけるのはオートコレクトという機能なのですが、マクロを含めた自動処理では適用されないようでした。ちょっとした編集を加えるとリンクがつくことを発見したのですが、調べたネットでの情報も少なく、たまたま幸運な発見のようなものでした。

1000件弱のデータに一つ1秒も掛からない処理でも、相当の手間と時間がかかるということも再認識しました。効率の悪いことは他にもやっているなと考えながら、プレゼンテーションの活用に本気で取り組んでみようという気持ちにもなったのです。

LibreOfficeのcalcのデータはGoogle スプレッドシートでインポートしました。本当は同じLibreOfficeのプレゼンテーションソフトのImpressのデータもインポートするかたちにしようとやってみたのですが、画像ファイルが読み込まれていませんでした。

パワーポイントという有名なプレゼンテーションソフトのpptxというファイル形式に保存したものをインポートとしたのですが、ローカルの画像ファイルだとリンクが切れるのかもしれません。プレゼンテーションのファイル本体に埋め込まれるのではないことが考えられます。

時刻は15時55分を過ぎたところです。天気は良いですが余り暑くはないので助かります。この時間、Google スライドでいくつかのスライドを作ってみたのですが、そのスライドのURLをスライドのタイトル名とともに取得する方法を作り出しました。次のような感じです。

※ マイ フォト>資料写真/市場急配センターと金沢市場輸送のGoogleマップ

https://docs.google.com/presentation/d/1paR5XyQxpFQe3Gv_lLX5przUwzyo2bNwcdQOxqIhGJk/edit#slide=id.g3489f7d54_4336

※ マイ フォト>資料写真/市場急配センターと金沢市場輸送のGoogleマップ http://bit.ly/1u7oWDQ

URLが長いので今回もTwitterの一つのツイートには文字数がおさまりませんでしたが、URLというのは意味のある情報なので、なるべく短縮URLは使いたくないのです。

一つのリンクの紹介に3行、3つのツイートを要してしまいましたが、これも無駄があるのでこれからは短縮URLを使った場合、補助的に次のツイートに本来のURLだけを掲載していきたいと思います。

Google スライドではGoogleアカウントにログインしていて編集可能な状態だと、スライド内の文字列を範囲選択していると、キーボードの操作で文字が置き換わってしまいます。これは困るのでいったんクリップボードにコピーした文字列をタイトルとして使うようにしました。

ブラウザでの処理を行うのはJavaScriptというプログラム言語です。これにキーボードのショートカットを割り当てています。具体的には<F12>cがクリップボードの内容を使ったものです。プログラム中には次のような部分があります。

var txt = "※ " + pasteText + " " + d.location.href;

変数に値を設定しているのですが「※ 」という二文字と取得したクリップボードのテキスト、それに半角スペースをはさんで、取得したURLを加えています。肝心なのは「※ 」の部分ですが、本来のWebページのタイトルとは区別するため、このような印を使うことにしたのです。

Google スライドを使っていて気がついたのですが、スライドというのはプレゼンテーションにおける一つのページになっていて、それが固定URLになっていて、スライドの順番を変更しても変わらないようなのです。本来は変更を加えるとURLも影響を受けることが多いかと思います。

これは実に好都合かと思いました。事実上独立した一つのWebページのような扱いができるからです。一枚のスライドには先にも説明したとおり、写真や図形、動画、リンクなどテキストはもちろん、さまざまな形式の情報を詰め込むことができるからです。

告訴状の説明に伴うプレゼンテーション/金沢弁護士会編 - Google スライド http://bit.ly/T6HaYY

https://docs.google.com/presentation/d/1BbD4rowIMfMugZGBRxRJmI7y_Wygl_9G9Xvxs8__fWY/edit#slide=id.g3894a05f1_2_18

※ マイ フォト>告訴に至る経緯と資料及び社会の反応/金沢地方検察庁御中/金沢弁護士会 http://bit.ly/1kAkGVR

https://docs.google.com/presentation/d/1BbD4rowIMfMugZGBRxRJmI7y_Wygl_9G9Xvxs8__fWY/edit#slide=id.p

時刻は6月3日10時45分を過ぎたところです。いろいろと起訴を固めた上で取り掛かりたいと調べたり考えたりしてきたのですが、その一つとしてPicasaウェブアルバムの活用の一部を次のように変更をすることとしました。

告訴状の内容に関連したスクリーンショット - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/DgRfAJ

これまで上記のアルバムに非常上告-最高検察庁御中_ツイッター(@s_hirono)の写真付きツイートと同時に対象ファイルのアップロードをしてきました。このやり方自体は変えないのですが、なるべく早い時点でアルバムの移動をすることで固定的な整理することにしました。

そっそくですが、次の2つのアルバムを作成し、そちらにデータの移動を行いました。各ファイル名には頭の部分に年月があるので、それに他意をした形で振り分けを行います。これはPicasaウェブアルバム上での手動の作業になります。

告訴状の内容に関連したスクリーンショット 2014年5月分 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/20145

告訴状の内容に関連したスクリーンショット 2014年6月分 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/20146

何年何月分というアルバムに移動させた時点でウェブ上でのデータの位置を固定された扱いにすることにし、URLを参照したいと思います。それに伴い、次のような形式でデータを参照したいと思います。これもURLの取得際にプログラムの処理を施したものです。

Picasaウェブアルバム) ファイル名: 2014-06-03-102225_無料でやってる事件で、被害者から「弁護士に払う金があるんならこっちに払え」とか言われることがありますが.jpg https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/20146#6020507137007680082

これにともない、これまでとは違う告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)への投稿法を採用することにしました。上記のタイトルとURLは172文字あって、編集中のEmacsから呼び出している自作のプログラムでは文字数オーバーのエラーが出て投稿できません。

本来Twitterは140文字という制限があってそれ以上の文字数の投稿を受け付けないのですが、URLに関してはここ一年ほどの間かとも思いますが、大きな仕様の変更があったらしく、ツイート上の文字数とは別の扱いとして、処理することになったようです。

以前はTwitter独自の短縮URLのようなものもありましたが、詳しいことはわからないものの内部で紐付けのような処理が行われているのか、実質的に短縮URLの文字数のような扱いで投稿が出来るようになったのです。

2014-06-03-110943_実質的に短縮URLの文字数のような扱いで投稿が出来るようになったのです.jpg pic.twitter.com/nJYdNfWtAi

言葉では説明しにくい部分もあるので、上記にスクリーンショットをご紹介しました。マウスオーバーをすることで、本来のURLが確認できるという仕様にもなっているようです。

次にPicasaウェブアルバムでの説明をします。先ほどの例で「Picasaウェブアルバム) 」という冒頭の部分が私がプログラム的に自動で付加したものです。Emacsでは「行頭接頭辞」という言葉も見かけた経験がありますが、そんな辺りも参考にしています。

次に「ファイル名: 2014-06-03-102225_無料でやってる事件で、被害者から「弁護士に払う金があるんならこっちに払え」とか言われることがありますが.jpg」という部分ですが、Picasaウェブアルバムで範囲選択した文字列の内容をプログラム的に使っています。

2014-06-03-111721_ファイル名: 2014-06-03-102225_無料でやってる事件で、被害者から「弁護士に払う金があるんならこっちに払え.jpg pic.twitter.com/hHErG48mEl

これも説明のため上記にスクリーンショットを用意しました。右上の方に文字列が反転している部分が、範囲選択の状態です。スクリーンショットのスクリプトも範囲選択中の文字列を利用しているので、そのまま使われています。

ちなみに利用者が圧倒的に多いWindowsパソコンではコピーした文字列はクリップボードとして管理されますが、Linuxではクリップボードとは別に、範囲選択した文字列をセレクションとして、扱うことが出来ます。中ボタンクリックで貼り付けとかですが、プログラム的にも利用できます。

時刻は6月11日11時31分を過ぎたところです。またしても長い中断になりましたが、作業環境としては大きな進歩改善がありました。

改めて確認したのですが、この項目は5月1日からの記述になっているようです。このあたりも改める必要があるかと思いますが、今後はブログとの連携も強化し、全体的な見通しを良くしたいと考えています。

項目をブログの一つの記事に対応させるわけですが、その項目の数も一日に2,3以上を目標にしたいと考えています。項目の数が増えるということは自ずと、内容の細分化にもなるかと思います。方針の転換ですが、他にも色々と考えており、すでに実行していることもあります。

連携している告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)で確認したところ、6月3日以来の再開のようでした。どうもアカウントの切り替えを忘れたままリツイートしていたものもあったようです。

突然ですが、「ガラス張りの庁舎に感動 地裁を小学生が写生」をいうのをテレビでやっています。石川県内ニュースのようです。新庁舎を正面から見たのはテレビでの映像でも今回が初めてでした。

6月6日の午後に光通信の工事がありました。住んでいる能登町で開設、工事費等が無料ということで申し込んでいたものです。

それまでのADSL回線と比較してさほど大きな違いは感じてはいないのですが、アップロードは劇的に早くなりました。特にYouTubeでの動画のアップロードでは大幅に速くなりました。アップロードよりその後の動画の処理に時間がかかるので、閲覧できる状態になるまではそこそこ掛かりますが。

偶然ですがさらなる特典のような感じで、パソコンの画面を録画するソフトで、すごく使い勝手のよいものをたまたま見つけることが出来ました。以前はかなり時間をかけて調べても見つけることができなかったものです。

それまではずっとrecordmydesktopというソフトを使っていたのですが、ogvとかいうファイル形式でしか保存できず、それも処理にずいぶんと長い時間が掛かり、ファイルサイズも大きなものでした。ごく短いものでも60MB以上はありました。

さらにogvだとYouTubeでは扱えないので、ffmpegというコマンドを使ってflvのファイルを別に作って、それをYouTubeにアップロードしていました。ファイルサイズはogvの半分程度で、処理の時間も割と早くはありましたが、手間とパソコンへの負担も気になる作業だったのです。

新しく見つけた動画キャプチャのソフトではほとんど時間も掛からずmp4のファイル形式として保存でき、mp4だとそのままYouTubeにアップロードすることも出来ます。ただ、アップロードしたあとの処理に時間がかかるので、flvにしてからアップロードした方がいいのかとも考えています。

以前のものを含めると次の動画を3つめのGoogleアカウントにアップロードしています。URLと文字数の関係で、直接、Twitterに投稿します。

2013-10-13_PythonスクリプトでPicasaウェブアルバムにアップロード,http://www.youtube.com/watch?v=hmXEm-Nkor8&feature=youtube_gdata

スクリーンショットを作成して写真付きツイートするスクリプトの実行の動画,http://www.youtube.com/watch?v=YPjMi9evglg&feature=youtube_gdata

金沢弁護士会_Google検索\2014年6月3日,http://www.youtube.com/watch?v=RNIIawJ7DJ0&feature=youtube_gdata

刑事司法の基本を少し勉強された方がいいでせう/ジャーナリスト江川紹子,http://www.youtube.com/watch?v=eFJy50TnNJA&feature=youtube_gdata

今朝の朝日が佐藤博史弁護士のロングインタビューをやっているが、このインタビュアーが酷い/ジャーナリスト江川紹子,http://www.youtube.com/watch?v=2YDSMb_tA3M&feature=youtube_gdata

取材(初めての場合)、各種相談申込専用電話(基本的に留守番電話対応)/落合洋司弁護士(東京弁護士会),http://www.youtube.com/watch?v=iy4ggg3VC4w&feature=youtube_gdata

自作スクリプトを使ったツイッターの埋め込みコードを含む内容ののBloggerのブログへの投稿状況 2014年6月8日,http://www.youtube.com/watch?v=5ROMFyXtEZ4&feature=youtube_gdata

落合洋司 (yjochi)さんはTwitterを使っています、 で「アッコにおまかせ」をキーワード検索_2014年6月8日,http://www.youtube.com/watch?v=5nN_1dB722U&feature=youtube_gdata

落合洋司 (yjochi)さんはTwitterを使っています、 で自分の3つのTwitterアカウントのブロック状態を確認,http://www.youtube.com/watch?v=qLbjJ5OmUGI&feature=youtube_gdata

弁護士による法律サービスに市場原理が導入されると需要者の側も淘汰されることは、当初から指摘してきたことです。、という小倉秀夫弁護士の一連のツイート,http://www.youtube.com/watch?v=xJeSjIdkasY&feature=youtube_gdata

Emacsでキーバインドした自作のコマンドを使って、googleclコマンドで取得したブログの記事リストを個別にツイートする一連の作業_2014年6月9日,http://www.youtube.com/watch?v=3pEL5PI4hB8&feature=youtube_gdata

木梨松嗣弁護士   Google 検索   2014年6月9日,http://www.youtube.com/watch?v=t-bF6NM_tQw&feature=youtube_gdata

PC遠隔操作事件の真犯人全面自供に関連した刑事弁護、刑事裁判に関する小倉秀夫弁護士のツイートのまとめ 2014 06 09 14:30:09,http://www.youtube.com/watch?v=pKD-tpLl41I&feature=youtube_gdata

廣野秀樹(@hirono hideki)/「週刊文春」の検索結果 2014 06 09 22:23:16,http://www.youtube.com/watch?v=wapWSOUueQQ&feature=youtube_gdata

岡田進弁護士  Google 検索 2014 06 09 23:01:33,http://www.youtube.com/watch?v=9PfFIJSeNQE&feature=youtube_gdata

Shoko Egawa(@amneris84)/2014年05月22日   Twilog 2014年5月19日から22日のツイートの記録/ジャーナリスト江川紹子_2014年06月10日15時54分50,http://www.youtube.com/watch?v=iXoc2CzXoSE&feature=youtube_gdata

名誉毀損での告訴の検討対象であるモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)とのやりとりをTwilogから探し出し調べた作業の記録_2014年06月11日10時24分06秒,http://www.youtube.com/watch?v=Hd5a0H7zoh0&feature=youtube_gdata

最後の2件以外は文字数制限に掛からず、APIから投稿できました。その2件だけタイトルの書式が異なっていると思いますが、スクリプトを使った処理で作成したファイル名から拡張子が除かれたものです。

ソフトで保存するときデフォルトで「Screencast 2014-06-11 10:24:06.mp4」という書式になっているものを、スプリクトで変換処理しています。初めのファイルへの保存時間が記録されているのだと思います。

最近のLinuxではスクリーンショットの画像保存でも使われている書式なのですが、プログラム的に処理するとエラーが出る半角スペースとコロンの文字が含まれています。

実際に端末で自作のスクリプトで処理をする際にも、引数と指定する際、次のようにエスケープをしています。→ h-filename-date-format.sh Screencast\ 2014-06-11\ 10:24:06.mp4

あとあと面倒も起こりうるので、日本語の日付を使ってファイル名に含めるようにしました。なお、この動画ファイルに関しては、パソコンのディスク領域や処理に伴う負担もあるので、保存はしない方向で考え、すでに削除したものもあるかと思います。

ひとつので動画ファイルでも再生時間が11分14秒で665.7 MB となっているので、添付資料のDVDへの収録は見送るつもりです。必要があれば提出しますし、YouTubeからダウンロードする方法もあるかと思います。

試しに58Mのmp4のファイルをflvに変換したところサイズが82Mになって、それをYouTubeにアップロードしてみたのですが、やはりアップロード後の処理に結構な時間がかかっていました。

時刻は6月12日10時26分を過ぎたところです。記述の方針を大幅に変更することにしました。

「拘置所の接見室のアクリル板に張り付けて見せた平成4年4月2日付北國新聞夕刊の事件報道」という項目名だったのも「拘置所の接見室のアクリル板に張り付けて見せた平成4年4月2日付北國新聞夕刊の事件報道、という内容を書く予定だった項目」に変更しました。

<2014-06-12 木 10:33> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

** 事件の背景と経緯、事件の関与者及び関係者との関係について
*** 事件の主要な役割を演じ真相を握る一人被告訴人YSNについて
**** 平成3年春、被告訴人YSNの再会と妻となる彼女の不可解な行動について 2013年11月7日
ずいぶん間をおいた書面作成の再開になります。他にも早めに書いておきたいことがあるので、今回はおおまかな流れを説明することで、問題点を指摘しておきたいと思います。ざっとみたところ9月5日以来の記述ということになるのかもしれません。

被告訴人YSNから電話で連絡があったのは平成3年4月の下旬だったと思います。4月末からのゴールデンウィークに入る少し前でした。彼から連絡があったのも半年以上間があいていたと思います。その前回は、連絡だけではく金沢市の繁華街片町で直接会っていました。

片町で被告訴人YSNと会ったのは数年ぶりのことでした。彼とはほとんど連絡のない状態が長く続いていました。すぐに思い出せるのは昭和62年の春先頃のことで、確か片町の金劇の中にあるスナックで、私より二つ年上のAKという人と3人で飲んだことを憶えています。

その席は被告訴人YSNの送別会のようなものでした。支払いは被告訴人YSNが持っていたはずです。暫く当分の間会えなくなるような感じで、被告訴人YSNの一大決心のような話も聞かされたような気がするのですが、細かいことは思い出せません。

その場にいた二つ年上のAKさんは、被告訴人OSNと被告訴人OKNの家でプロパン配達の仕事をしていたこともあり、また、その後は長くOSNの鳶職の会社で働いていたとも聞いています。作業中に一緒に作業をしていた仲間が落とした鉄パイプが太ももに突き刺さる怪我をしたとも聞きました。

その鳶職の仕事中の怪我については、平成10年頃、配管の仕事で世話になっていた被告訴人KYNから聞いていたと思います。すでにその時は被告訴人OSNの会社を辞めたと聞いていたと思いますが、直接会う機会もなかったと思います。

彼は姫のNとも親しくしていたはずですが、その後の友達づきあいなども私にはわかりません。被告訴人YSNとの関係も同じです。このような公開の場では書くのをためらうようなつながりや接点もあるのですが、被告訴人YSNとのつきあいが続いていたという可能性もあるかとは思います。

二つ年上のAKさんは、私と同じ宇出津で被告訴人OSNと同じく一つ年上の女の人と結婚していました。彼女も被告訴人OSNとは特に親しい間柄でしたが、平成3年12月21日の夜、被告訴人HTNに連れて行かれた片町の飲み屋で働いていた二人の女性の一人もこの女の人でした。

被告訴人YSNが珠洲市飯田のシーサイドの近くでブルーバード510を横転させ、ギンギラギンにさりげなく、と歌をうたい始めたという話も既に書いているかと思いますが、その車に同乗していたのも、その飲み屋の二人の女性だと聞いています。

二つ年上のAK夫妻は、昭和62年頃、金沢市保古のアパートに住んでいました。私の東力2丁目のアパートとは歩いても行けるぐらいの距離だったので、何度か遊びに行ったこともおぼえています。当時彼は、川元急送というような会社で2トン車に乗務して市内配達の仕事をしていました。

昭和61年の夏から秋、私が金沢市場輸送で市内配達の仕事をしていた頃、配達先でちょこちょこ顔を合わすこともありました。ニュー三久(さんきゅう)というスーパーで会うことが多かったと思います。

今、こうやって書きながら当時のことを思い出していると、自分の仲間内で金沢市で市内配達の仕事を始めたのは二つ年上のAKさんがさきがけだったとも思えますが、運送会社の性質や仕事の内容は違っていたとも思えます。

川元急送というのはけっこう大きな会社でトラックの数も比較的多かったと思いますが、私個人としてはどういう会社なのか話を聞くこともなく、余り知らないという事情はありました。メインの仕事もわからなかったですが、スーパーの配達が多いという感じでした。

ニュー三久の専属の運送会社という感じでした。最近のことは知りませんが、金沢市近郊では店舗数の多いスーパーでした。金沢市場輸送の配達でも荷物は多い方でした。本多町、城南店、三ツ口店、淺の川店などが自分の配達先でした。

金沢市場輸送が市内配達の仕事を始めたのは昭和60年頃のことですが、もとはといえば、石川日通、鷺富、小林運送などの運送会社も2トン車一台ずつぐらいの割合で参加していました。自分が市内配達をしていた昭和61年のことです。

はじめは共同事業のような感じでやっていたそうですが、トラックの数が多く、配車係のような責任者を置くのが金沢市場輸送でした。もとはといえば寄せ集めから始まり、もめ事もあったと聞いたように思いますが、金沢市場輸送に一本化した上で、独立したのが市場急配センターでした。

金沢市場輸送というのはもともと長距離一本の運送会社でしたが、昭和60年頃から金沢中央市場の市内配達を手がけるようになり、市場内の仲買など中央市場の関係者から出資や援助を受けているような話も聞いていました。自分が知らない経緯もあるかと思うのですが、意外に感じることもありました。

昭和63年頃、金沢市場輸送の10トン車で鮮魚の長距離輸送をしていた頃、夜中に荷下ろしが終わって、市場の中にトラックを止めたまま食事に行っていると、フロントガラスに大きな張り紙で駐車禁止の注意書きを受けることがありました。

聞いた話によると、金沢市場輸送だけがちょっとした会費の支払いを拒んでいるため、中央市場に出入りする業者では金沢市場輸送だけがそういう扱いを受けているというとのことでした。当時のT社長の一存で拒んでいるという話でした。

金沢市場輸送には昭和59年当時、ちょこちょこ会社に顔を出す、上出という年配の人物がいて、周囲からは株主だと聞いていました。彼はその後、加賀能登の物産展の仕事を手がけるようになったようです。この物産展の仕事は金沢市場輸送がよくやる仕事の一つで、トナミ航空の請負になっていました。

全国各地のデパートでやる物産展の道具や商品を運ぶ仕事でした。私自身、平成4年の1月13日頃には東京の池袋のデパート。三越ではなかったかと思いますが、金沢から荷物を運び。同じく1月の終わり頃には、同じ池袋のデパートから荷物を引き上げる仕事をしました。

いつ頃かははっきり思い出せないですが、岩手県の盛岡のデパートから荷物を引き上げる仕事の時、上出がいたことを憶えています。その頃になると会社で上出の姿を見ることはなく、金沢市場輸送や市場急配センターとの関係も不明でしたが、癖のある人物でもあり、あえて関係性を目立たせなくしている

のか、と考えることもありました。宮崎県のデパートでも顔を合わせたかもしれません。都城だったような気もします。青森市内のデパートでも顔を合わせたような気がするのですが、だとすれば青森が最後に見た姿だったような気がします。平成3年の頃かとも思います。

上出のことは昭和59年当時、ちょくちょく事務所に来ていたのでよく知っていたのですが、その後は不思議に思うぐらい、話を聞くこともなくなっていました。金沢市場輸送とは縁を切っていたことも考えられますが、市場急配センターの被告訴人MHK社長の関係など気になる人物です。

金沢市場輸送の事務所が中央市場前の西念町にある頃は、午後、事務所の入っている建物の前の大通りにトラックを駐車させ、そこでワゴン車などに運ばれてきた物産展の荷物を積むことがほとんどだったと思います。

だいぶん説明が逸れてしまったので、被告訴人YSNの話に戻しますが、被告訴人YSNは昭和60年の夏頃、金沢市場輸送が市内配達の仕事を始めた頃に、市内配達の仕事をしていたと聞きます。人伝の話だったので、細かいことも憶えていないですが、長くて3ヶ月程度ではと思われます。

氷の運搬の仕事が多かったような話も聞いたように思います。この氷の仕事は私も昭和59年の夏頃、長距離の仕事の合間にちょこちょこやらされていました。白菊町の冷蔵庫や金沢港の漁連に氷の固まりを運ぶ仕事でした。一つ100キロ以上ある氷の固まりをポンコツのトラックで運んでいました。

どういう経緯で、被告訴人YSNがその時、金沢市場輸送で仕事をするようになったのか、要領を得るような話は聞かなかったと思います。本人に直接尋ねたはずですが、それでも誰それの紹介とか、はっきりした説明はなく、あるいは職安に求人が出ていたので、応募したという話だったかもしれないです。

被告訴人YSNとの間には、珠洲市三崎出身のHMという男がいました。年は私の一つ上でした。昔は被告訴人OSNと兄弟のように仲が良くいつも一緒に行動をしていた時期があると、聞いたこともあり、名前だけは昭和56年の頃から聞いていたと思います。京都に行ったとも聞いていたと思います。

私が珠洲のHMと初めて会ったのは昭和58年の9月か10月頃でした。場所は被告訴人YSNの金沢市観音堂のアパートでした。そのアパートに彼がちょくちょく顔を出していたのです。彼は観音堂に近い金沢市寺中町に事務所のある中西水産輸送で4トン車で長距離に乗務していました。

一度、誘われて長距離の運行に同行し、山口県の宇部市まで行ったことがありました。帰りは大阪まで国道2号線を走り、広島から積んだ荷物を静岡県内でおろし、山梨県から長野県、新潟県の糸魚川に出て、富山県から金沢に戻ってきました。

彼はその後、金沢市黒田にワンルームのアパートを借りて住むようになり、そのアパートにも何度か遊びに行っていました。彼は私が金沢市場輸送を昭和59年の10月中頃にやめる、半月か一月ほど前に入社し、同じく4トン車の長距離に乗務していました。一応、私の紹介というかたちの入社だったと。

彼はその後、守田水産輸送にいましたが、輪島屋鮮冷との間を、行き来していたはずです。金沢市場輸送と守田水産輸送は1年半ぐらいの間、仕事のやりとりが多く、私も青森の鮮魚の定期便をやっていました。

金沢市場輸送の事務所が西念町から二口町に移転してからも、およそ半年ぐらいの間は、仕事のやりとりが続き、守田水産輸送のトラックは金沢市場輸送の事務所で給油までやっていました。その後仲違いしたのか、仕事のやりとりもなくなりましたが、詳しいことは忘れました。

珠洲のHMは、短かったですが、私の紹介で中西運輸商に戻り、しばらく4トン車に乗務した時期もありました。短かったですが、当時住んでいた黒田のアパートと、YTの妻が働く店が近かったこともあり、短期間に親しくなったような様子でした。喫茶店のような店でしたが夜はスナックのような話でした。

このYTについては、本書においても既に触れているかと思います。元々は佐川急便のホームで、作業のアルバイトに来ていたのを誘って、運転手になり、免停か取り消しがきっかけで配車係になって、その後は金沢市場輸送の配車係にもしていた人物です。年はたぶん、私の一つ年下ではなかったかと思います。

そういえば免停中であったのか、警察の検問を突破しようとして警官に軽い怪我を負わせ、10日ほど留置場に入っていたということもありました。金沢市場輸送にいた頃だったと思いますが、はっきりした時期は憶えていません。

それから暫くした頃かと、思いますが、請負で市内配達の仕事をしていた被告訴人HTNが、片町で酒を飲んでいるときに喧嘩をして、相手に頭蓋骨骨折の怪我を負わせ、同じく10日ほど留置場に入っていたという話を聞いていました。詳細不明ですが、罰金で済んだような話だったかと思います。

YTは平成3年頃になると、守田水産輸送に手形の裏書きをしてもらったような話で、3台ぐらいの10トントラックを保有し、子会社のようなかたちで、守田水産輸送の仕事をしていたような話でした。都商事という名前だったと思いますが、同じ名前で守田水産輸送は、鮮魚の中継の仕事もしていたはず。

中継というのは九州や四国など遠方からの荷物を、富山、高岡、福井のような別の行き先の荷物を小口として運ぶ仕事でした。最低でも一箱50円の運賃という相場だと聞いていたように思います。

金沢の中央市場では、山水運輸、ウロコ運送、守田水産輸送が鮮魚の中継をやっていました。金沢市場輸送でも石巻・塩釜の定期便で高岡行きの荷物は、守田水産輸送に中継を出していました。福井は自社便が出ていて、そのうち市場急配センターの仕事になりました。

はじめに市場急配センターの事務所が更地の状態として利用が決まった頃は、YTとFHの二人は、ここで中継を始めると断定的に話していました。FHは中西運輸商でトレーラーの運転手をしていた人物ですが、確か免許取り消しになり、YTと同じ頃、同じように配車係をするようになり、

YTが金沢市場輸送に来ると、すぐに後を追うような感じで金沢市場輸送に来て、同じく配車係をするようになっていました。当時の運送会社の社員としては年配で、50代になっていたような気もします。

更地で中継の仕事をすると聞いたのは平成2年の3月ぐらいではと思います、金沢港のイワシの運搬の仕事もダンプを除きなくなりかけた頃であったかと思います。

金沢港でイワシの運搬の現場監督のようなことをやっていた市場急配センターの社員、小林健一が暇を持てあますようになったのも同じ頃からでした。金石街道から中央市場方面に入ってすぐのところに、掘っ立て小屋のようなラーメン屋があり、そこでよく一緒に食事をしたのですが、

昼間から焼酎を煽っていたような気もするのですが、市場急配センターの社長であった被告訴人MHKに対する不満や愚痴を口にすることが多くなっていました。当時はかなり珍しかったパソコンにデータ入力する仕事もやらされ、他にできるものもいないと話していました。

これは私の事件の被害者となったAAさんが、受け持ちとする仕事であったので、彼女が入社する前であったことはほぼ間違いないと思います。小林健一はまもなく会社から姿を消したのですが、ちょうど入れ替わりのようなかたちで、彼女の姿を金沢市場輸送の事務所で見かけるようになりました。

YTとFHが事務所から姿を消したのも、それに近い時期であったと思いますが、小林健一より一月ぐらい後だったように思います。なんとなく6月頃だったという記憶が残っています。AAさんの姿とはしばらくの間、同じ金沢市場輸送の事務所内でみることがあったような気がします。

YTが金沢市場輸送に来たのは昭和63年の12月頃だと思います。その12月の20日頃に、10トン車に同乗させて一緒に宮城県の石巻に行ったことがありました。ハローなんとかいうチェーンのおもちゃ屋に、新規開店の商品を運ぶ仕事でした。同じ店の仕事で、四国の高知市に行ったこともあったので、

ほぼ全国にチェーン展開している店で、あったと思います。金沢市内でも八日市のあたりに、同じ系列の店があったように思います。当時は珍しい感じのチェーン展開のおもちゃ屋でした。

YTは金沢市場輸送に来る前、私に連絡を寄越し、金沢市場輸送で配車係をしたいので紹介してほしいと、かなり強い希望という感じで話を持ちかけてきました。国道八号線沿いで松任市(現在の白山市)の寺井町より最果てにあるような団地にも、妻子と一緒に行ったことを断片的に記憶しています。

YTの目的は、中西運輸商の仕事の中心として請け負っていた佐川急便の広島九州便を、中西運輸商に取って代わって請け負うことでした。だいぶん前から中西運輸商は事故も多くて佐川から切られるのは時間の問題という話は聞いていました。

私は昭和59年12月から昭和61年3月、昭和62年1月から同年4月頃まで、中西運輸商にいました。先に入ったときは年齢の制限にも掛かっていたので、普通免許で4トン車に乗務。二度目の入社では大型免許で10トン車に乗務していました。この時は、YKもFHも運転手をやっていました。

仕事の中心が佐川急便の広島九州便であったことは同じですが、広島県東広島市にある西日本運輸興業という会社の請負だと聞いていました。その後、この親会社が倒産したとも聞いたのですが、細かいことは憶えていません。

そのうち中西運輸商がついに佐川から切られたという話は聞きましたが、広島九州便は九州運送がやるようになったと聞いていました。

YTは金沢市場輸送に来てまもなく、九州から運転手を7人か8人ぐらい連れてきました。結局、慣れない雪道の東北便が多いと言うこともあって、ほとんどはすぐにいなくなってしまったと思います。一人だけ残った運転手がいて平成3年の春頃も、金沢市場輸送で姿を見かけていた覚えがあります。

だいたいの名前も憶えていますが伏せておきましょう。確か北九州市でちょっとした事故を起こし、相手が悪くてずいぶんともめているという話を耳にすることがありました。この時も、事故のトラブルは市場急配センターの社長であった被告訴人MHKが担当しているような話だったと思います。

被告訴人MHKは中古車販売の店を経営していたこともあり、事故の保険に関してはずいぶんと慣れているような話で、金沢市場輸送の事故の処理も任されていたようです。私が初めて市場急配センターの事務所に入ったのも、金沢市場輸送の同僚運転手のつきあいでしたが、事故処理の話でした。

私はさいわい保険を使うような事故は昭和61年の入社以来は起こさなかったので、直接、被告訴人MHKと保険の話をするような機会はなかったです。相当に顔が広く、口が利き、やり手だという印象は持っていました。

金沢市場輸送で佐川の仕事をすることについて、配車係から金沢市場輸送の社長になった被告訴人MTKは当初から乗り気ではないという感じでした。それでも私自身、一度は金沢支店から九州便の仕事を金沢市場輸送のトラックでやったことはありました。中西運輸商の仕事としてやったような気もします。

被告訴人MTKが金沢市場輸送で配車係をするようになったのは、昭和61年の12月頃からだったと思います。それまでは運転手でしたが、配車係の藤村さんが手術のため数ヶ月入院することになり、さんざん頼まれて仕方なく引き受けたと言っていました。私がちょうど大型免許を取った頃のことです。

ついでに書いておくと、女性事務員として被告訴人IHKの姿を見るようになったのも同じ頃で、被告訴人UHKの姿を市内配達の運転手として見るようになったのもだいたい同じ頃かと思います。

被告訴人MTKが配車係として仕事をするようになったのは、ちょうどバブル景気の景気上昇とも重なっていたはずです。当時社長であった被告訴人TSKに拝み倒されて配車係をするようになったが、給料の面でも満足な待遇は受けておらず、運転手の時より悪くなったと、繰り返し話していました。

当時の金沢市場輸送の給料システムでは基本給が10万円で、年間1万円のベースアップがあり、8年目の彼は他の運転手と比較してずいぶん恵まれていたような話をしていました。歩合というのも他とは変わっていて、荷物を積んで走った距離に大型車だと20円を掛けるような計算でした。

その後、事務所が二口町に移転してから給料の計算方法が変わり、距離ではなく運賃の売り上げを計算するものに変わりましたが、基本給の部分が大きくなり、歩合の幅は逆に少なくなったような気もします。

給料というのは理解のできないような計算結果になっていましたが、総額で50万円を超えていることはなかったように思うのですが、手取りは最高で43万円を超えることもありました。給料計算上の休みというのはほとんどなしでした。

予定している運行を行かないと言われるのが一番困るので、会社としてはそういう曖昧な基準で休日の計算をしていたのだと思います。丸一日の休みとなると少なかったとは思います。

市場急配センターにおいては基本給が50万円ということになっていましたが、手取りで40万円を超えることは一度もなかったと思います。離婚したので税金の引かれる額は増えたのだとは思いますが。どうかと思う明細ではありました。

金沢市場輸送においては4トン車や大型車に乗りたての頃の方が、仕事もきつく、給料も安かったと思います。高速道路の利用もずいぶんと制限されていました。一般道だと2,3倍の時間が掛かることもあります。道路事情も大幅によくなり整備されていきました。

YTとFHの二人は、事務所で暇を持てあますような姿を見ることが多く、荷物の積み替え作業を手伝ったり、雑用に近いような感じに見えていました。被告訴人MTKが配車係としての仕事を手柄を独占していい気になっているような話は、比較的若い女性事務員の口から話を聞くこともあり呆れた風でした。

銭湯に行って中断していましたが、銭湯の中で考え事をしながら思い出したことがいくつかあります。一つは、YTの姉の旦那という義理の兄が、金沢市場輸送で10トン平ボディ車に乗務していました。結構長かったと思います。あるいはやめる前に自分の方が市場急配センターに移動したかもしれないです。

もう一つはYTの父親のことです。父親の話というのはYT本人から余り聞いてはいなかったように思いますが、他の運転手からYTの父親がイワシの運搬をするようになったと聞き、それらしい人の姿を北陸ハイミールの台貫場で何度か見かけていました。遠目にしか見たことがなく顔の認識もないです。
YTの父親のことをしったのは、平成3年の12月からのイワシのシーズンだったと思います。比較的小型のダンプに乗務していたように思います。小型と言ってもダンプはすべて10トン車でした。ダンプもトラックも大型化するほど総重量が増え、法定の積載量は少なくなっていました。
**** 平成3年春、被告訴人YSNの再会と妻となる彼女の不可解な行動について 2013年11月8日
昨日に書いたとおり、金劇の飲み屋で3人で酒を飲んで以来、被告訴人YSNから連絡というのはほとんどなく、数年の間一度も会っていなかったと記憶しています。なお、そのスナックのような飲み屋は金劇のビルの地下の方にあったように思います。

そのスナックには二人の女性が働いていました。店を任されているという感じではなかったかと思います。その頃には親しい付き合いはなくなっていたのですが、昭和56年の11月頃に知り合った女友達で、宇出津に住んでいた期間も長かったです。

二人とも年は私より一つ年下ではなかったかと思います。あるいは同級生で誕生日が早かったのか知り合った頃は16才だと聞いていました。金沢市内で一人は末町、もう一人は瓢箪町に実家があるという話でした。

昭和58年の初め頃だったかと思いますが、ある日の朝、二人の少女が住んでいた片町の近くのアパートに遊びに行ったことがありました。するとその時、昨夜ここで遊んでいた友達がアパートを出た後、南町あたりで大事故を起こしたと驚いた様子で話をしていました。

タクシーと衝突したとかで、死人こそ出なかったものの3人だかが意識不明の植物人間状態だと聞いたのは、その事故を起こしたというUH本人からであったかと思われます。昭和58年の秋から冬頃、彼女と二人でよく観音堂のアパートに遊びに来ていたUHでした。

UHの姿を被告訴人YSNの部屋で見たという記憶も余りないのですが、気さくに話をする間柄ではありました。UHが顔を出していたのは珠洲市鵜飼あたりが出身と聞くYHでした。YHはその後、中央市場の鮮魚関係の山水運輸で働くようになりました。

先に山水運輸でトラックに乗るようになったのは同じ珠洲市のSKという男で私とは同級生だったと思います。当時は金沢市神田のアパートに、小松市の女と同棲していました。同じアパートにもう一組の男女の友達がいて、それが被告訴人YSNが昭和61年の12月頃、ヤクザになって人が変わったと話していたKという男。

神田のアパートに遊びに行った頃、昭和58年の秋だったと思いますが、Kは遠洋漁船に乗って一儲けしてくると抱負を語り、彼女は涼んだ様子で部屋にうずくまっているように見えたのが印象的で、被告訴人YSNからそんな話を聞かされてもいました。

Kの彼女にはいつも一緒にいる女友達がいて、二人とも下の呼び名は憶えていますが書かないです。先の金劇のスナックの二人の元少女とも関係が似ていたので、よく憶えています。金劇の方は二人ともフルネームを記憶しています。

Kの彼女の相方は、珠洲市蛸島のSMという男と付き合っていました。被告訴人YSNとは同級生でもあり、ちょくちょく被告訴人YSNのところに遊びに来ていました。読売新聞の勧誘をやっているという話だったと思います。金沢で「暴狂悪女」とかいう暴走族に入っていたような話も聞きました。

昭和58年の春頃、被告訴人OSNが宇出津で一時期乗り回していたハコスカという改造車も、そのKが所有し改造した車だと聞いていましたし、顔見知りでもあったとは思います。珠洲方面の同世代との付き合いは以前は多かったとも聞いていましたし、珠洲市三崎のHMもその一人でした。

細かく書けば他にもいろいろつながりはあるのですが、他の人間の付き合いの程度や関係の有無というのは、ほとんど把握できないものです。親兄弟以上に密接な関係だったのが疎遠になったり、その逆も十分ありうるとは思います。

能登の宇出津というのは一つの中心で、当時は石川県立水産高校があったのも人間関係の上で影響があったと思います。珠洲市大谷出身のYSさんも水産高校でしたが、私は相撲部にいた関係で中学校1年生のころから知っていました。大谷というのは珠洲市でも輪島市に近いところです。

思えば昭和59年の春か夏頃も、YSさんを金沢市場輸送に紹介したことがあったような気がします。入社してもすぐにやめたと思いますが、短期間東力のアパートに滞在していたこともあったかと思います。

彼はその後、佐川急便関係の長距離トラックの仕事をしていた時期もありました。一度、野々市のマンションのような自宅に遊びに行ったこともあったのですが、当時金沢市保古町のアパートに住んでいた前出のAKさんが一緒だったような気もします。昭和60年か61年頃のことかと思います。

能登の人間関係には当時もう一つ大きなつながりがありました。それは小木港の遠洋漁船でした。小木は現在は宇出津と同じ能登町ですが、確か平成17年に、市町村合併する前は珠洲郡内浦町小木でした。小木は現在でも中型イカ釣り漁船がいますが規模は遙かに縮小しています。当時は鮭鱒漁もありました。

内浦町小木には宇出津同じく能都町の姫という地区が隣接していますが、こちらも小木港と同じような遠洋漁業をやっておりました。姫というのは半島のような地形になっているのですが、主要道路沿いだと小木の隣は真脇という感じかもしれません。

姫も真脇も高倉地区と呼ばれていました。小学校は真脇小学校でしたが、中学校は宇出津にある能都中学校でした。小木には小木中学校があるので、親戚でもない限り交流や付き合いが始まるのも、中学校卒業以降のことでした。当時は中学を出てすぐ遠洋漁船にのる少年も何人かいました。

どちらかといえば、高校を中退して遠洋漁船にのる少年の方が多かったと思います。当時は稼げる仕事でもあったのですが、昭和59年あたりに二百海里問題が起こると、状況は一転して悪化し、小木や姫の船がソ連や北朝鮮に拿捕されたとか、操業停止になったというニュースが多くなりました。

姫は住宅の新築率が石川県内一と聞いたこともありましたが、姫や真脇の同級生の家に遊びに行くと、宇出津の友達の家とはまるで違うぐらい裕福そうでした。漁業がふるわなくなると、家も建たなくなり大工が廃業、地域の経済そのものが著しく悪化して、宇出津でも自殺や夜逃げが増えていると聞きました。

福井刑務所で同じ班だったTKとYKは、確か口をそろえるような感じだったと思うのですが、金沢市場輸送の社長だった被告訴人TSKが能登など田舎の方で金貸しをして儲けている、あるいは儲けていたという話をしたこともありました。どこまで本当の話かわかりませんが、

TKは被告訴人YSNのことを知らないと、はっきり言いました。あらかじめ用意したように返事が早かったので、この時は逆にどうかとは思っていました。あいまいな感じの受け答えで探りを入れているように感じられることもあったからです。

私が被告訴人YSNと一緒に市場急配センターの市内配達の仕事をするようになったのは、平成3年の6月か5月の下旬のことです。私自身の記憶では5月なのですが、拘置所で入手した金沢市場輸送の運行表によると5月中から6月前半は金沢市場輸送の長距離運行があったので、6月になりそうです。

朝一番の仕事は、夜中に山水運輸が中継をやっているあたりの売り場で積み込みをやっていました。市場の敷地内には高瀬商店というパンやおにぎりを売っている小さな売店のような店があって、毎日のようにその店に行っていたのですが、その店から積み込み場所に歩いて戻る途中、

被告訴人YSNが突然、自分がバーテンで働いていた片町の店が、薬物売買の事件で警察の摘発を受けたとか言う話を始めたのです。唐突に切り出したという感じもありましたが、話の内容が要領を得ない感じで余り理解できなかったと記憶しています。聞き流した程度で、尋ねることもなかったと思います。

あるいは店の客が摘発を受けたとか、店が警察の捜査を受けたような話であったかもしれませんが、探りを入れて反応をうかがう気配も感じられなくはなかったです。ただ漠然と彼自身が薬物に手を出すことはないだろうと判断したようには思います。また、売人ということまでも考えなかったはずです。

被告訴人YSNがシンナーで発狂し精神病院に入ったいたことは前にも書いていると思います。本人の話によると一週間ほど昏睡状態で生死の境をさまよったということでした。これは昭和56年の12月か昭和57年の1月頃のことだと思います。

彼はその後にも、シンナーに手を出し、すぐにおかしくなったそうですが、自覚があって自分から病院に行ったような話でした。それにその2回目の時は、入院の期間も短かったようです。あれこれ事実を当てはめていくと、彼は二度目に精神病院に入ってから金沢市場輸送で市内配達の仕事をしていたことが考えられます。

消火器の仕事で出張中にシンナーに手を出したような話で場所は新潟市と聞いたような気もします。新潟の精神病院にいたという話は聞いていないので、だとすると自分で金沢に戻ってから病院に行ったことになりそうです。それとは別に、消火器販売で警察に連れて行かれたという話も聞き、

それも場所が新潟市だったような気がするので、私の方で記憶を混同している部分もあるのかもしれません。彼が消火器の仕事を始めたのは昭和58年の10月頃だったと思います。その年一杯ぐらいはちょこちょこ会ったりしていたのですが、そのうち連絡もなくなり付き合いもなくなっていました。

私が被告訴人YSNの観音堂のアパートを出たのは昭和58年の11月の10日頃だったと思います。彼は消火器の仕事に専念するようになり、出張と称して県外に出ることが多くなっていました。詐欺に近いような訪問販売でした。

先輩に消防署の方から来ましたというのは、消防署の方角から来ましたという意味なので、いざというときはそう言い張れば通用すると言われ、まったく受け入れている様子でした。理解に苦しむところがあり、感覚的にもついて行けないと思うようになり、疎遠になっていきました。

本人は違法という自覚も全くない様子で、むしろ防災のための社会貢献をしているという自負心さえ持っている様子で、充実した仕事としていきいきとやっていたようです。消火器は一本1万5千円で売りつけていたのではと思います。くわしいことは忘れましたが、一本売ると、

7千円以上の現金収入にはなるという話であったと思います。いいときは一日で10万円ほど儲けたという話もあったように思いますが、被告訴人YSNが始めた頃は、社会問題として認識されつつあり販売がやりにくくなって、余り売れなくなっているという話でした。

全国各地で消火器を売り、その場所のホテルに宿泊し、トルコ風呂に行って遊ぶというのがお決まりのパターンだったようです。ソープランドという名前になったのはもう少しあとだったように思います。会うたびに、そういう話をしていました。

彼はそのうち、金沢市増泉の通称「いっさか」というあたりに新しいワンルームのアパートを借りて住むようになっていました。増泉の一部と野町の一部にまたがるそのあたりは、昔、遊郭があったという伝統もあるらしいのですが、売春街のような界隈でした。

そのあたりはもう何年も行ったことがないので、現在はどうなっているのか知らないですが、当時は古くて小さな飲み屋が多く建ち並んでいる小路で、夕方明るい時間から店の前に、ど派手な女の人が立っているのが当たり前の光景でした。

詳しくはしりませんが、その「いっさか(たぶん石坂)」でも野町の方は、西の茶屋街とかで現在は観光地でテレビで紹介されたりもしているようです。金沢市場輸送の社長であった被告訴人TSKの家も野町のその辺りにあると聞いていました。謎の多い人物でしたが、ヤクザの組長をしていたという

話もあります。運転手の間で野町の家に行ったとか見たという話は一度も聞いたことがなかったですが、どのような暮らしぶりをしていたものか、今となれば気になるものです。

被告訴人TSKの夫人は、昭和59年頃は片町で飲み屋をしていると聞いていました。夜に飲み屋の仕事をして、昼は事務所で経理の仕事をしているという感じでした。かなりぎすぎすした感じで無愛想、机に座って机の上だけを見てもくもくとソロバンをはじいているという印象でした。

** 平成4年の傷害・準強姦被告事件についての事実と被告訴人らの関与について
*** 被害者AAさんの言動と関わり、事件へと至る経緯
**** DONE 市場急配センターの会社裏駐車場に彼女が自分の軽自動車を駐車するようになった行動_2014年6月13日
CLOSED: [2014-06-23 月 08:59]
<2014-06-13 金 09:33> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

基本的な事実は、前に記述した伊吹パーキングエリアからの電話の続きになります。きりがないのですでに書いてあることは概ね説明を省略します。全体に目を通さなければ正しい理解も把握も出来ないと思いますが、そういう問題とも考えています。

本当はプレゼンテーションソフトでPDFファイルを作って、説明をしたいとも考えていたのですが、時間的にも余裕があれば、また検討してみたいと思います。実況見分調書的なものをつくろうと考え、それはそれで必要性は感じておりますので、できればと思います。

資料写真/市場急配センターと金沢市場輸送のGoogleマップ - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/Google

とりあえずは上記のPicasaウェブアルバムを使ってご説明したいと思います。ただ、思っていた資料がアップロードされていない可能性に気がついたので、それをちょっと調べてみます。

時刻は10時54分を過ぎたところです。過去のファイルを探していたのですが、パソコンから見つけ出すことは出来ず、Microsoft社のOneDriveとかいうストレージサービスからダウンロードしました。前はSkyDriveというサービス名だったとも思いますがLinuxから使えます。

ダウンロードしたファイルのファイル名をスプリクトで一括変更し、それをPicasaウェブアルバムにアップロードしたのですが、アップロードが始まるところまでの作業を録画しましたので、これは別の項目で説明をしておきたいと思います。

なお、これまでと方針を変えて、同時進行でも記述の開始時間と終了時間を使っていきます。一つ一つの項目はできるだけシンプルに独立性を保ち見出しの趣旨に対応したものにしたいと思います。プログラムにおけるモジュールの独立性という感じです。

時刻は6月14日9時13分になっています。昨日は書き始めてすぐに使いたいと思った写真ファイルが見当たらないことに気が付き、探しだすのも時間がかかりましたが、その後にPicasaウェブアルバムに関する説明を書いたりしていました。前からやっておきたいとは考えていたことです。

[[*スクリプトでファイル名を一括変更し、Picasaウェブアルバムにスクリプトでアップロードする資料作成の手順の紹介と記録_2014年6月13日 ]]

[[*Google+とPicasa ウェブ アルバムの利用方法と違い、及び本文中で使用するURLについての説明_2014年6月13日 ]]

昨日はこの項目の下準備として上記2つの項目を書いておきました。org-modeの見出しへのリンクを入れたのですが、Emacs23だとHTMLのエクスポートでもページ内リンクが作成されていました。

末尾に「」という部分のある見出しはBloggerのブログに記事として投稿済みという印です。org-modeではタグという扱いになるようです。タグの部分はEmacs23でのHTMLには反映されていませんでした。org-modeのバージョン自体もことなるかと思います。

ひとつは昨日の再掲になりますが、主に次の2つのPicasaウェブアルバムの写真を使って、実況見分調書的な説明をやったみたいと思います。

資料写真/市場急配センターと金沢市場輸送のGoogleマップ - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/Google

資料写真/2007年7月21日撮影:金沢港・金沢西警察署・金沢中央市場 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/2007721

まず前提としての説明をしていきたいと思いますが、金沢西警察署の捜査でも金沢地方裁判所、名古屋高裁金沢支部、最高裁を含め、さらには再審請求を含めて、事実上ほとんど皆無に、問題にされなかった問題です。

そもそも問題にされなかったことが不思議でしょうがないような問題なので、その辺りから説明をしたほうがいいかと思いました。あるいは刑事司法、刑事弁護の構造的に重大な欠陥が、ごく当たり前のように現れただけの問題であったのかもしれません。

解釈、ご理解は各自におかませするしかないと思いますが、私は実際に経験した裁判というものを、具体的に説明する必要性を感じています。

時刻は6月15日10時55分になっています。ほぼまる一日、記述を中断したかと思いますが、改めていろいろと考えさせられる機会もありました。関連もあるのでこの項目でそのまま書くことも考えたのですが、別に項目を作って書きたいと思います。戻ったら見出しをリンクにする予定です。

<2014-06-15 日 10:59> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

<2014-06-17 火 08:37> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

テレビのとくダネ!で、「小保方氏パートナーが会見 「STAP細胞の証拠ない」」というのをやっているのですが、それに関連していると思われる弁護士のツイートを一つ紹介しておきたいと思います。刑事弁護とはなにかと改めて考えさせられる問題でもあるからです。

2014-06-17-074612_0.0001%でもあるとしたら、ないというのはウソをつくことになるから。.jpg pic.twitter.com/1587I38j8X

2014-告訴事件に関する司法・社会・世相・時代の参考情報/金沢地方検察庁御中: ないことが証明できないのは当然で、誠実な科学者であればそれを断言はしな い。 0.0001%でもあるとしたら、ないというのはウソをつくことになる か/坂本正幸弁護士 http://hirono2014sk.blogspot.jp/2014/06/blog-post_1572.html

上記リンクはブラウザからの投稿でも−6文字になったので、「2014-告訴事件に関する司法・社会・世相・時代の参考情報/金沢地方検察庁御中:」というブログ名の部分を削りました。

誠実な弁護士、なにに対して誠実なのか、ということについても色々と考えさせられるところがあります。翻って木梨松嗣弁護士は何に対して、何に向かって弁護活動を行ったのかという視点を、常に持ってこれからかく私の説明を考えてもらえたたらと思います。

まずは、被害者AAさんが自分の軽四自動車を会社の裏にあるトラックや運転手の乗用車をとめる駐車場にとめるようになった始まりから説明をしたいと思います。それは平成3年11月30日の土曜日の可能性が高いです。

Picasaウェブアルバム) ファイル名: 撮影:金沢港・金沢西警察署・金沢中央市場_2007年07月21日18時00分17秒.jpg https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/2007721#6024223173987773522

同じような写真が3枚ほどありましたが、説明に使いたい肝心の部分が写っていませんでした。自分で撮影したものですが、そこまで利用方法を具体的には考えていなかったようです。日付はExif情報に記録されたものかと思います。

資料写真/市場急配センターと金沢市場輸送のGoogleマップ - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/Google#5942953012467659602

こちらのアルバムで説明に丁度よいものを一つ見つけました。個別の写真のURLにはGoogle+のURLを使うと書いて来たかと思いますが、古く登録されたものだとPicasaウェブアルバムの方が探しやすいので、個別の写真でもPicasaウェブアルバムのURLを使いたいと思います。

Picasaウェブアルバム) ファイル名: 市場急配センター:Googleマップ_2013年09月05日01時28分09秒.jpg https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/Google#5942953012467659602

同じ写真をAPIを使った自作のコマンドでアップロードしたのですが、相対パスがファイル名に含まれたようです。ファイル名が長すぎるとエラーが出る可能性もあるかと思いますが、これはこれでわかりやすかと思われます。

./資料写真/市場急配センターと金沢市場輸送のGoogleマップ/市場急配センター:Googleマップ_2013年09月05日01時28分09秒.jpg pic.twitter.com/jAEmvuIeSg

Twitterに投稿した写真を遣って説明をしていこうかと考えたのですが、Emacsでは画像ファイルの表示も出来るので、ウィンドウを分割して、それを見ながら説明を書きたいと思います。スクリーンショットをとりました。次のような感じです。

2014-06-17-095510_Emacsでは画像ファイルの表示も出来るので、ウィンドウを分割して、それを見ながら説明を書きたいと思います。.jpg pic.twitter.com/y7jdMjNexT

実際にこの角度から眺めたことはほとんどなかったかもしれません。Googleマップの写真自体にも屈折が感じらるので、遠近感を含め実際とはやや違いがあるようにも感じられます。左手に微かに建物の一部が見えますが、平成4年当時に建物はなかったはずです。

この写真は裏駐車場の裏側の出入口という言い方も出来るかと思いますが、私自身この裏側からトラックを出入りさせることは余りなかったと思いますし、他の運転手でも見た記憶というのは少ないかと思います。

この写真を見るとトラックの姿というのは一台もありませんが、この写真を見て向こう側の駐車スペースがトラックで、手前側が運転手の車の駐車スペースになっていました。特に指示があったわけでもないですが、ごく普通にそういう使い方がされていました。

手前の乗用車の駐車スペースには2トン車のトラックも駐車されていましたが、車の大きさ自体もさほど変わらないものでした。

トラックの駐車スペースには10トン車と4トン車が主に駐車されていましたが、スペースを有効活用するため斜体を斜めにして駐車をしていました、これだとたとえ軽四一台であっても大型車一台分のスペースを奪うほど邪魔になることもありました。

この写真の手前の端に銀色の乗用車が一台止まっているかと思います。会社正面の出入口から見れば、一番奥の右手、右手は事実上乗用車用の駐車スペースです。

平成3年11月30日と思われる日の午後だったと思いますが、この角に被害者AAさんの軽四と被告訴人池田宏美の車が並んで駐車されていました。池田の車は1000ccか1300cc程度の小型の普通車であったと記憶しています。

工事か何かで一時的に車を移動したのだろうとその時は思っていました。わざわざ一番端っこにとめてあるのはどうかとも思いましたが、たまたまその場所が空いていたということで、疑問は解消したと記憶しています。

時刻は6月21日9時9分です。2,3日中断していたかと思います。どうしようか迷いますが、いったん区切りをつけて項目を別にしたいと思います。

<2014-06-21 土 09:12> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

**** DONE 市場急配センターの会社裏駐車場に彼女が自分の軽自動車を駐車するようになった行動_2014年6月21日
CLOSED: [2014-06-24 火 10:09]
<2014-06-21 土 09:14> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

被害者AAさんが会社裏駐車場の駐車を始めるようになったのは繰り返しますが平成3年11月30日土曜日の午後が始まりでした。記憶が薄れていますが、それが彼女の意思表示であり何かを訴えかける行動であることに、気がつくまで3日から長くて一週間ほど掛かったのではと思います。

車の駐車場所を変えたのと同時に、彼女は自宅の電話にまったく出なくなりました。平成3年11月25日の夜の電話では、初めて正式に自宅に電話をかけてくることを、「いいよう。ぜんぜんだいじょうぶや」と了承した上での行動です。

Picasaウェブアルバム) ファイル名: 市場急配センター:Googleマップ_2013年09月05日00時55分54秒.jpg https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/Google#5942952371719892898

上記写真が市場急配センターの事務所建物と、その前の駐車場です。決まりとして告知があったわけでもないですが、常識的に事務員は会社前に乗用車を駐車していました。これは仕事中の用事で車を出入りすることも多かったからです。

特にAAさんの場合、パソコンのデータ入力で毎日、金沢市場輸送の事務所に行っていました。市場急配センターの事務所にはパソコンはなかったのです。

こまかく言えば平成4年の3月ころに、市場急配センターの事務所にパソコンが入り、業者のような人がAAさんに説明をしていたことがあったのですが、導入には至らなかったのか、そのあと会社でパソコンを見ることはなかったと記憶しています。

平成3,4年当時のパソコンですから現在のものとはずいぶんと違っていますし、一般には馴染みのないもので、どれぐらいの値段がするものかも聞いたことがなかったですが、相当高額であったとは思います。

金沢市場輸送の事務所には平成元年ころからパソコンはあったと思います。あるいは平成2年に入ってからですが、いつの間にかあったという記憶です。

誰がそのパソコンの操作をしていたのかも私の記憶には残っていないのですが、とても印象的なことがひとつありました。その事実は時期を確認する上でも、とても参考になるものです。

元石川県警察の機動隊員でもあり、最高裁判事の息子という小林健一が、金沢港でイワシの運搬の仕事の現場監督のようなことをやったいたことについては、本書で繰り返し書いてきたことかと思います。

私自身イワシの運搬の仕事をやったのは2シーズンだけでしたが、小林健一は1シーズンだけでした。金沢港周辺でまとまった量のイワシが採れる時期に合わせた仕事でした。

12月の初めから4月の初めころまでと聞いていましたが、初めと終わりの方の時期はイワシの漁獲量も少なく、金沢市場輸送ではダンプだけの仕事になっていました。フル稼働は12月の下旬から2月いっぱいではなかったかと思います。

3月中もまだダンプ以外のイワシの仕事はあったような気もしますが、余り記憶もはっきりしません。まだそれなりに忙しい時期ではあったと思いますが、私はイワシの仕事から離れていたようにも思います。

4月になるとダンプでもイワシの仕事が入るのは稀で、仕事自体がとても暇になって残っているのはごく一部だったと思います。ちょうどそんな頃だったと思いますが、会社で暇を持て余す小林健一の姿をよく見るようになりました。

平成2年の4月と思われる時期のことです。私は石川88の108号という冷凍機付きの保冷車に乗務していました。冷凍機付きのナンバーは88になります。長距離乗務です。

当時の行き荷は、トナミ運輸や日通の雑貨が多くなっていたと思います。夕方6時とか7時からのホーム作業で積み荷を始めるという仕事でした。

午後は会社で時間を潰していることも多かったと思いますが、そんな時、何度か小林健一と近くのラーメン屋に行くことがありました。パチンコオークラの近くにあるまるで屋台のような小さい建物のラーメン屋でした。店内はカウンターのみで8席ぐらいあったのかなと記憶しています。

今思えば30代ぐらいだったのかと思いますが、割と若い感じの女の人がやっている店でした。私もちょくちょく利用していましたが、他の運転手も行っていたと思いますし、昼から酒を飲んでいるような人もいたかと思います。

2014-06-21-110823_パチンコオークラの近く小さなラーメン屋があった辺り.jpg pic.twitter.com/JEaviVZiV6

Googleストリートビューでスクリーンショットを撮ったのが上記の画像です。屈折というか歪みを感じますが、現実に近い撮影かと思います。

ここは金石街道から中央市場の方に入ってすぐのあたりです。左手にパチンコ屋の駐車場とその出入口が見えますが、平成4年当時は道路と駐車場のつながりがなく、何か別の建物がたっていたように思います。

この画像の道路の左手に2階建てのアパートのようなものが見えますが、小さいラーメン屋があったのは、だいたいその辺だったと思います。この中央市場に向かう道路に面していました。

もう少し先に行くと左手に「市川タイヤ」があって、そこを左折すると30メートルぐらいでパチンコオークラの駐車場と、右折してすぐに金沢市場輸送の会社がありました。

「市川タイヤ」に関しては書いておきたいことが2つあります。ひとつは被害者AAさんが自分の軽四で私を迎えに来てくれたこと、もう一つはミールの清水倉庫での被告訴人安田敏のタイヤの爆発問題です。そういえば工事現場突入の件もまだ中途でした。

私は今まで「清水倉庫」と書いてきたように思いますが、Googleマップで調べてみたところ、「水島倉庫」が正しいのではと思います。8号線バイパスで手取川よりは手前の辺り松任市の外れと記憶していましたが、水島という地名を見つけました。そういえばという気もしました。

小林健一とパソコンの話からずれてしまいましたが、小さなラーメン屋で何度か一緒に食事をする頃になると、彼はしきりに会社に対する不平不満を口にして語るようになりました。それは被告訴人松平日出男個人に向けた不満や批判とも言える内容だったと思います。

被告訴人松平日出男は市場急配センターの社長でしたが、小林健一も金沢市場輸送ではなく市場急配センターの社員として、金沢港のイワシの運搬の仕事に来ていると聞いていました。

そもそもイワシの運搬は市場急配センターの仕事で、ダンプやトラックでの運搬は金沢市場輸送にやらせているという契約になっているとか聞きました。茨城県古河市の山三青果の仕事も初めは同じように聞いていたと思います。

やたらと被告訴人松平日出男や会社の不満や悪口のようなことも口にしていたと思いますが、なにか話に具体性は感じられず、真剣さも伝わらなかったことが印象に残っています。

そんな不満の一つに、小林健一は、他に誰も出来る人がいないので頼まれて事務所のパソコンのデータ入力をやらされている、というものがありました。

なお、小さなラーメン屋でも小林健一は昼間から、焼酎を注文して飲んでいたような気がします。当時はまだ焼酎というのは一般的ではなかたっと思いますが、すでに酎ハイというのは若者の間にも広まっていたと思います。

むしろ焼酎というのはといえばレモンジュースのような炭酸飲料で割ったイメージが強かったので、そうでないスタイルで焼酎を飲む、小林健一の姿というのも私には珍しく映っていたのです。

その小さなラーメン屋では、銅かアルミの取っ手がついた割と細長いカップで焼酎を出していた記憶もあるのですが、それも私の目には他に見たことのない珍しいものだったと記憶しています。

同行者を含め、その小さなラーメン屋で焼酎を注文していたのは小林健一以外には考えられないのですが、確実な場面の記憶というのは残っていません。

より鮮明に記憶しているのは、ウサギの絵を描いたポンコツのワゴン車に、大きなペットボトルの焼酎がおいてあり、小林健一がそれを飲んでいたことです。コップや水のようなものを見た記憶はないので、ストレートでラッパ飲みをしていたのだと思いますし、そんな場面も微かに記憶にあります。

時刻は6月22日10時12分になっています。昨日は被害者AAさんの事務員としての所用の外出について書いていたところ、小林健一に関する説明にポイントが移動したかと思います。

小林健一は気になるというか不思議な存在感がありましたが、男女の違い、容姿容貌の違いがあるものの、どこかに共通点のようなものもあって、私はそれを長く引きずってきたと思います。うまく説明ができずもどかしくもありますが、不信感と言い換えてもいいかもしれません。

ほかに共通点といえば、性格的に真面目で仕事もそつなくこなしていた、ということが挙げられるでしょうか。育ちの良さや品の良さのようなものも共通しており、身だしなみもしっかりしていたという印象があります。

会社の雰囲気自体がベースにあったので、異分子のような違和感もあったのかと思いますが、どこか新鮮でもあり、不思議さも感じられるような存在でした。

被害者AAさんに関しては、ラフな服装も多かったと記憶しています。ジーパンを履いていることも多く、スカートを履いている場合でも、上には市場急配センターの作業服のジャンバーを羽織っている姿をよく見かけたと印象に残っています。

プライベートでは未知の部分が多かったのは被害者AAさんでした。余り話題にされにくいようなタイプであったとも考えられますが、基本的に無口で近寄りがたいようなところもあったかと思います。

彼女は平成2年の春頃から金沢市場輸送に出入りしていました。パソコンのデータ入力に来ていたのだと思いますが、市場急配センターの事務員であるということに気がついたのは、初めに姿を見かけるようになってからずいぶんと後のことであったと思います。

誰かの口から市場急配センターの事務員だと聞いたという記憶も私にはありません。金沢市場輸送の運転手の間で、話題になることもまったくなかったと思います。割とシャイな人が多かったということもあるかと思いますが、彼女の性格、存在感というのもあったのだろうと思います。

金沢市場輸送の運転手をしていた当時、市場急配センターの事務所に入ったのは一回だけだったと記憶しています。その時に机に向かって仕事をする被害者AAさんの姿を見たような記憶が微かに残っていますが、全く縁のない遠い存在なのだとぼんやりと考えていたような気もします。

被告訴人本恒夫との衝突で金沢市場輸送をやめることになり、被告訴人安田繁克の50万円の借金の保証人になっていたことで、被告訴人松平日出男に 話をしに行ったのが、2度めの市場急配センターの事務所に入った時だったと思います。

平成4年、拘置所に入った頃の私の記憶では、5月下旬のことだったのですが、その後入手した金沢市場輸送の運行表で6月下旬であったとわかりました。6月の20日ころまでは金沢市場輸送で長距離の運行をしていたという記録があったからです。

月の下旬であったということははっきりしています。市場急配センターの給料は月末25日締めの翌月5日払いでした。私は初め被告訴人松平日出男に一日1万5千円のアルバイトとして誘われ、その条件で仕事をすることになったのです。

アルバイト言うことでしたが、2,3日もしないぐらいで市場急配センターの社員になることが決まったと記憶しています。アルバイトとして仕事をしたのは3日分だけでした。

今、Linuxのcalコマンドで調べたところ平成3年の6月23日が日曜日となっているようです。給料計算の始まりが26日だとすると、3日分の別枠というのは休みを一日挟むと6月22日の土曜日からの仕事であった可能性が高そうです。アルバイトの話が決まったのも前日の午後だったと思います。

時刻は6月23日9時7分です。

できるだけ項目の見出しと内容を一致させたいのですが、周辺の事柄の説明をしているとそれだけでもけっこうな分量になり、主題がわかりづらくなるとも気にかけています。

見出しに沿った内容に心がけ、周辺の事実や問題もなるべく独立した項目として配置をしていきたいと思います。裏駐車場のことが項目では見出しの主題なので、そちらに軸を移したいと思います。

Picasaウェブアルバム) ファイル名: 撮影:金沢港・金沢西警察署・金沢中央市場_2007年07月21日18時09分05秒.jpg https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/2007721#6024223878791236930

上記は、中央市場の立体駐車場から撮影したものです。裏側ですが市場急配センターの事務所建物との位置関係もわかりやすく、距離感も目の視界に近いものかと思います。残念ながらトラックは2トン車と4トン車ばかりで、10トン車というか大型車の姿はないようです。

Picasaウェブアルバム) ファイル名: 撮影:金沢港・金沢西警察署・金沢中央市場_2007年07月21日17時59分24秒.jpg https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/2007721#6024223118950956146

次は斜め前方から市場急配センターと中央市場が写った写真です。と、ここで気がついたのですが、Picasaウェブアルバムのリンクだといちいちリンクを開く必要もあって、わかりにくいと思います。

以前もやっていた方法と思いますが、非常上告-最高検察庁御中_ツイッター(@s_hirono)に写真付きツイートしたものを使いたいと思います。

撮影:金沢港・金沢西警察署・金沢中央市場_2007年07月21日17時59分24秒.jpg pic.twitter.com/D0T7GEWBRk

上記が写真付きツイートです。わかりづらい部分もあるかと思うので、一覧の作業をキャプチャー動画にしました。YouTubeにアップロードしているところですが、処理が完了次第、説明をしたいと思いますが、独立の項目として書いておきたいと思います。

[[*非常上告 最高検察庁御中 ツイッター(@s hirono)に写真付きツイートする作業の紹介と記録_2014年06月23日]]

上記項目に写真付きツイートに関する説明を書きました。HTMLエクスポートだとページ内リンクになっていると思います。Emacs24のバージョンでエクスポートすると、項目のリンクに見出し名はなく、階層の連番になっていました。

資料写真/市場急配センターと金沢市場輸送のGoogleマップ - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/105782624485753679454/Google

上記も再掲になるかと思いますが、参考にしていただければと思います。トラックの姿が一台も見当たらないのも気になりますが、会社の所在地自体が移っているようです。

私は今年に入ってからそのことに気がついたように思いますが、事務所の建物自体は前のところにあって、そこで事務員が仕事をしているのかも不明です。

2014-06-23-113304_市場急配センター(株)石川県金沢市駅西本町5丁目10−20.jpg pic.twitter.com/qv3jqT76V6

上記はGoogleマップのスクリーンショットですが、市場急配センターの新しい住所地であるものの、会社の住所地にリンクした写真が古いものになっているようです。

2014-06-23-114455_市場急配センターの新しい配送センターと思われる場所.jpg pic.twitter.com/ma3H9V0R5N

一つ前の写真の真裏にあたると思われる場所のストリートビューが上記の写真です。今初めて気がついたのですが、青色の大型トラックには前方上部に大きく市場急配センターのロゴマークが描かれているようです。ボディのカラーが異なるのが気になるところです。

上記の写真だけ見てもどこなのか全くわかりません。次に角度を変えたものを撮影してアップします。中央市場の裏側、山水運輸の奥で隣り合っていることがわかります。

2014-06-23-120338_市場急配センターの配送センターと思われる場所から中央市場方面.jpg pic.twitter.com/ELwU8GXSdS

上記写真でもわかりづらいかもしれませんが、一番奥というか向こう側に中央市場の立体駐車場が見えます。

2014-06-23-121438_市場急配センターの配送センターと思われる場所から中央市場裏側.jpg pic.twitter.com/bHckl0Y1fP

これだと山水運輸の建物もわかりやすいと思いますが、山水運輸は中央市場の裏側の道路に面しています。私が金沢市で生活をしていた平成11年ころには既に新しい建物があったと思いますが、いつ頃に出来たのかはわかりません。

平成4年当時にもあったような気がしないではないのですが、建設中の建物を見たという記憶もないです。

以前は中央市場の敷地内で裏側の道路に面した端に大型車を横付けにして、山水運輸はは鮮魚の中継の仕事をしていました。そこで珠洲のYHと話をしていたことも記憶にあるのですが、時期がはっきりしません。最後は平成3年の秋であったような気もするのですが、はっきりとは思い出せません。

時間もそう遅くない時間で夜の23時ころだったような気もします。その時間帯にゆっくりと話をしていたというのも珍しいのですが、なんにしても記憶が曖昧模糊になっています。YHと会って話をしたのもそれが最後だったとは思います。

平成3年の秋から平成4年の3月の間だったとすれば、被告訴人安田敏のことも話題になったとは思うのですが、それも含めて残念ながら思い出すことが出来ないです。その場所は本来、青果物の売り場の方だったと思います。

私の記憶では裏門と同じ位置に、売り場の建物の通路があって、それが鮮魚と青果の売り場の境にもなっていました。ちなみに金沢の市場の鮮魚は競りが3時半からと早く、それだけ早い時間の競りは日本で2つだけと聞いたこともありました。

現在のことは知りませんが、鮮魚は石川中央魚市とウロコ水産にわかれ、青果は石川丸果だけになっていました。全国的にそうだったと思いますが、鮮魚というのは荷受の時間も22時以降とか決まっていることが多かったと思います。

荷物というか市場での品物の扱いにも大きく二通りがあって、売り場への直降ろしと、パレット降ろしがありました。直降ろしの方が少なかったと思いますが、金沢の中央市場ではほとんどが直降ろしになっていたと思います。

直降ろしだと荷受の指示に従い荷降ろしをすることになります。パレット降ろしだと運転手がフォークリフトを運転手て自分で荷物を降ろし、最後に検品だけをうけて受領書のサインをもらうというパターンが多かったと記憶しています。

直降ろしだと順番で長い時間待たされることもありました。石川丸果では直降ろし場合とパレット降ろしの場合があったと思いますが、青果の場合は、ほとんどの市場で荷受の時間に制限というのは余りなかったと思います。

市場急配センターでの山三青果の仕事では、土曜日の夜に荷受けをしてもらうこともありました。日曜日は市場が休みなので、ほかでは余り経験のないパターンでした。出荷する側も土曜日ではなく、日曜日に出していたと思われます。

当時は外食も多かったので野菜の鮮度なども気にすることがなかったと思いますが、直降ろしの青果物というのは野ざらしのような状態になっていました。風通しもよくひんやりとはしていたと思いますが、出荷する側もなるべく鮮度を保ちたいと思うのが、常識かとも思いました。

レタスなどの高原野菜は昭和62年ぐらいから冷凍機付きの保冷車で温度を5度に設定するというのが一般化されていたと記憶していますが、冬場だと特に問題はなかったのかもしれません。

土曜日の夜の荷降ろしということで平成4年2月1日のことを思い出しましたが、重要な事実関係の一つでありながら、本書ではまだ書いていなかったと思います。これも項目を別に立てますが、本筋から離れてしまったついでに、そちらを先に書いておこうかと思います。

時刻は6月24日8時1分になっています。

やはり、裏駐車場のことよりさきに書いておきたいというか、より集中できそうなことがあるのでそれを先に書いておきたいと思います。とりあえず2月1日のことを中心に書くので、裏駐車場の行動の終わりという事実もあります。

本人から話が聞けない以上、想像というか推測になりますが、事実に則して事実を根拠に書いていくので、合理性は十分あると考えています。結論から言えば裏駐車場の駐車の始まりも終わりも、被告訴人池田宏美らの指示を受けた行動だったということです。

裏駐車場に関してはまだまだ書いておくことがあります。自宅の電話に出なくなったのと同時に始まった行動ですが、それは退社のタイミングで直接声を書けてほしいという意思表示であり、その機会を作ってくれているものと考えることが出来ました。

すぐにそう思ったわけではなく、慎重に彼女の行動を見ていましたが、いよいよそれ以外にないと考え、実際に声を書けたのは年が明けた平成4年1月になってからでした。1月中には3回、声を掛け、話をしました。

正確に言うと、いきなり声を書けたのは初めの一回だけだったかもしれません。駐車してある私の担当の大型トラック3068号の助手席に乗ってもらい話をしましたが、「今日は美容院にいかんといけん、また今度」と言われたこともありました。

初めに裏駐車場で声を掛けたのは平成4年1月の10日ころではなかったかと思います。外はすっかり暗くなっていたことも他の時に共通していました。

事務員である被害者AAさんの退社時間というのは17時から17時半の間でした。18時以降に会社にいたころもありますが、それはかなりの例外で、残業という感じではなかったと思います。

その17時から17時半という時間帯は、会社にいる人も少ない時間帯でした。市内配達の運転手のほとんどは16時から16時半ころの間には帰っていなくなっていたと思います。朝の仕事の始まりは5時半か6時ぐらいだったと思います。

日照時間というのは地域的な違いもあるかと思いますが、冬至が確か12月の下旬で、一番日が短い、ということになっていると思います。17時ちょうどだとまだ薄暗さが残っているかと思いますが、17時半となると夜と同じ暗さではなかったかと思います。

17時が退社時間だったと思いますが、17時を過ぎてすぐに退社するということも彼女の場合は少なかったと思います。17時半までいるというのも少なかったと思いますが、その30分の間がほとんどだったとは思います。

例外だったのは平成3年10月12日と思われる土曜日。calコマンドで確認したところやはり土曜日でした。この日のことも独立した項目にしたほうがいいかと思いますが、迷うところです。書き出すと長くなるとは思います。

そして平成3年11月26日、その日は自分の27歳の誕生日だったので、日付ははっきり記憶していますが、前の夜の電話で彼女に自宅に電話をかけることの許可をもらったのです。初めに電話をしたのは同年10月5日の土曜日の夜でした。

その11月26日のことに関しては、被告訴人多田敏明のことも絡んでくるので、独立の項目として書きたいと思います。

裏駐車場に関する項目はこれが2つ目だと思いますが、しばらくの間中断をして、他のことを書き、また独立の項目として記述を再開したいと思います。

<2014-06-24 火 10:09> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

*** 被告訴人多田敏明と被告訴人安田繁克の事件への関与、果たした役割について
**** 裁判資料​/平成4年​/平成4年4月11日付被告発人・被告訴人TTKの供述調書(テキスト)について_2014年6月24日
<2014-06-24 火 10:36> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

自分のパソコンのファイルを探したのですが、ちょっと見つからなかったので、個人サーバで公開状態にあるものをコピーすることで、新たな記事を作成しました。次のブログ記事のタイトルとURLです。

裁判資料​/平成4年​/平成4年4月11日付被告発人・被告訴人TTKの供述調書(テキスト) | 非常上告-最高検察庁御中_Blogger http://hirono2013s.blogspot.jp/2014/06/44411ttk.html

普通に取得したブログのページタイトルですが、どうも|の縦棒で区切られて左側が記事のタイトル名、右側がブログのタイトル名となるようです。今までは余り気が付かなかったような気もするのですが、同じBloggerのブログでも書式が別になっていたような気がします。

2014-告訴事件に関する司法・社会・世相・時代の参考情報/金沢地方検察庁御中: 報告したから何かがどうなるものでもないのだが、これは要するに、脅しのつも りなんだろうな。/矢部善朗弁護士 http://bit.ly/1mgrmxR

試しに一つ別のブログでページタイトルを取得してみましたが、やはりブログ名が左側になっていて区切りの記号も:になっています。 非常上告-最高検察庁御中_Bloggerのブログの方が前から使っていると思いますが、自分でカスタマイズをしていたのかもしれません。

普通、ページタイトルにブログ名が含まれることは多くないような気もしますが、そういうのもブログサービス毎の仕様になっているはずです。ブログサービスには編集の自由度の違いも大きいですが、Bloggerはカスタマイズ性も高いです。

Bloggerに関して難を言えば、APIでの投稿ができるものの、30件ぐらい記事を連続して投稿するとAPIでの処理を受け付けなくなることです。それを含め、総合的に判断した結果、私は数ある中からBloggerのブログをメインで使うようになりました。

「裁判資料​/平成4年​/平成4年4月11日付被告発人・被告訴人TTKの供述調書(テキスト)」というタイトル名にしてありますが、被告訴人多田敏明の供述調書を文字起こししたものです。

元は警察官の手書きによる供述調書です。パソコンのテキスト文字だといたずらに改行が多いように見えるかもしれませんが、縦書の供述調書の内容に応じて改行を入れました。思い出せないぐらい相当前に作成したものだと思いますが、平成21年の9月以降かとは思います。

現物の供述調書をみながら、パソコンで文字を打ち込んでいったものですが、十分な確認はしていないかもしれません。誤記の可能性もあるということです。なので本来的には現物の写真を使いたいところなのですが、なぜか見当たらなくなっています。

平成21年9月より前は、インターネット上でも供述調書の写真を公開していたように思うのですが、当時はマスキングもしておらず、そのままの状態で公開していたように思います。だとすればあるはずの写真ファイルなのですが、私の手持ちのパソコンでは見つからなくなっています。

家の中を探せば供述調書の現物は見つかると思うので、デジカメで写真を撮り直すことも可能ですが、内容重視ということで当面は予定をしておりません。

2014-06-24-111405_WebページをみながらのEmacsでの書面の作成状況.jpg pic.twitter.com/LWJnlXu4ju

上記にスクリーンショットを用意しましたが、EmacsでさきほどのWebページを閲覧しながら、これから説明を書いていきたいと思います。

金沢西警察署において供述した、となっていますが、確か被告訴人安田敏から聞いた話によると、被告訴人池田宏美以外は皆、金沢西警察署に出向いてそこで供述調書の作成をしたということになっていました。

被害者AAさんがいなくなったので、パソコンの操作が出来ず伝票を手書きで書かなければならず、ものすごく忙しく大変な目にあっている、というような話でした。

供述調書の「一」によると「一昨年の八月」から市場急配センターに働いている、という話になっています。つまり平成2年の8月ということになるかと思いますが、市内配達が金沢市場輸送と同じ建物にあった頃には、確かに姿を見た記憶がありません。

平成3年の7月16日までは18歳だったということになりそうですが、高校を中退したとも聞いておらず、勉強は嫌いでまんじゅうつまり0点ばかりだったと自慢していたぐらいなので、高校には行っておらず中卒であると考えられます。

一度だけ、市場急配センターに来る前の仕事の話を聞いたことがありましたが、内装屋のような仕事をしていたと話していました。ちょっと具体性のある内容も含まれていたように思いますが、親方との関係について何か語っていたような気もします。

あえてそういう口ぶりをしたのかもしれませんが、その親方のような人物が、市場急配センターとも関係があって、その縁で市場急配センターに来たような話しぶりだったかもしれません。私から市場急配センターへの入社のきっかっけを聞くことはなかったと思います。

供述調書の「三」では、私の入社時期について昨年の4月頃と供述していますが、実際は6月の下旬だったはずで、けっこうな開きがあります。また、私が入ってきた当時、被告訴人多田敏明は免許停止中で、被告訴人安田敏のトラックに同乗して仕事をしていました。

私が市場急配センターに来る前から、被告訴人多田敏明のことは被告訴人安田敏からちらほらとは話を聞いていたとも思います。もともと被告訴人多田敏明が受け持ちだった内灘・高松コースを被告訴人安田敏がするようになり、それに同乗していました。

免停の原因らしい話としては、彼女と小松市の小松インターの近くのラブホテルに行き、その帰りに高速道路である北陸自動車道で事故を起こしたという話をしていました。ラブホテルを強調していたのも彼らしいと思いましたが、土砂降り雨の中で事故になったとも言っていたように思います。

車はフェアレディZで、それも新型だったような口ぶりでしたが、事故で廃車になったとのこと。単独の事故で免停というのもどうかとは思いますが、そういう関連付けで話をしていたと記憶には残っています。

同じく供述調書の「三」で、よく一緒に食事をしたとありますが、これは事実であるものの、缶ジュースやタバコ代を含め全て私のおごりでした。こだわるつもりはないですが、そういう事実です。

同じく「三」のなかに、「Aちゃん」とありますが、たしかに運転手というか社員の多くは、彼女のことを指したり呼ぶときに「Aちゃん」と言うことが多かったですが、被告訴人多田敏明に限っては「事務員」などと呼ぶことが多かったように思います。

供述調書「四」においては「同僚等」という言い方をしていますが、その同僚として考えられるのは被告訴人安田繁克ぐらいです。たぶん後の方でもそういう言い回しで被告訴人安田繁克のことを語っていたと思います。

私は一番早い方の段階で彼女とのことを被告訴人多田敏明に相談しましたが、そういえば一番最初だったのは被告訴人安田敏に話をしたことでした。9月の終わりか10月のはじめになると思います。ここでいう同僚は被告訴人安田敏を指していることは一応考えられます。

私から相談を受けるようになったのは「今年に入ってから」と述べているようですが、12月の中頃ではなかったかと思います。どの仕事から戻った時であったか思い出せませんが、市場急配センターの会社の前の方にトラックを停めていた時、その車の中で話をしたように記憶しています。

それは割と早い時間帯でもありました。22時とか23時という時間帯ではなかったかと思います。トラックは会社の正面に向けて縦に駐車していました。自分の大型車ではなく、被告訴人多田敏明がよく乗務していた4トン車であったような気もします。ウィング車です。

彼女に対する情報がほとんど入らなかったこともありますが、2つ違いの年下と年代も近いので、彼には相談をしていました。仕事で一緒に行動することも多かったのですが、それも被告訴人らの計画的な采配であり、偶然ではなかったと思います。

そもそも私が被告訴人多田敏明と個人的に話をするようになったのは11月のことで、被告訴人東渡好信が茨城県古河市の青果市場に連れてきたことがきっかけでした。その時に初めてじっくりと話をするようになり、割と親しい間柄になったのです。

その時、被告訴人多田敏明は前の日の夕方、七尾市で荷物を積んでから同じ七尾市内の被告訴人東渡好信の自宅に行き、そこで食事をごちそうになったと話していました。娘の話をしていましたが、姉妹が二人か三人いるという話で、揃って美人だと話していました。

被告訴人東渡好信の娘の話が出た時、私はすぐにぴんと来たので、実際にそれらしい娘の姿を見た一週間後ぐらいではなかったかと思います。被告訴人東渡好信の娘だとすぐに話を聞きましたが、短大生とも聞いたかもしれません。

市場急配センターの一階にいたように記憶していますが、正面からは背を向けた方向で椅子に座っていたように思います。それでも一瞥で顔は見たように記憶しています。どんな顔だったかはすぐに忘れましたが、見たこともない女性の姿でした。

記憶が曖昧になっていますが、ちょうど用事があって二階に上がるところで、二階に上がってすぐに誰かから被告訴人東渡好信の娘だと聞いたような気がします。被告訴人池田宏美の口から聞いたようにも思いますが、娘が来ているという程度の内容だったと思います。

そのあと一階に降りてもう一度、娘らしい女性の姿を見たという記憶はないのですが、この間に起きたのが被告訴人安田敏の工事現場突入でした。わざと突っ込んだ可能性が高いとうことで、突入ということにしています。

これは本来、被告訴人安田敏の関与として記録したほうがよいと思いますので、そのようにしたいと思います。

この項目の記述はいったん閉じておきます。

<2014-06-24 火 15:03> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

***被告訴人安田敏の事件への関与、果たした役割について
**** DONE 平成3年11月、被告訴人安田敏が自ら乗務している大型ウィング車で、わざと工事現場に突入したと思われる件について_2014年6月24日
<2014-06-24 火 15:15> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

内容としては[[*裁判資料​/平成4年​/平成4年4月11日付被告発人・被告訴人TTKの供述調書(テキスト)について_2014年6月24日]]の続きにもなります。

たまたま被告訴人東渡好信の娘らしい女性の姿を見かけてすぐに 2階の事務所に上がり、たぶんそれからすぐのことであったと思いますが、被告訴人安田敏がその2階の事務所に入ってきました。トラックが動かなくなったというような話を始めたと思います。

なにか要領を得ない説明でしたが、会社の近くということですぐにその場に向かいました。その時点で外はすっかり暗くなっていたと思います。たぶん11月の中頃か、あるいは上旬のことなので割と遅い時間だったと思います。

外から戻ってきて被告訴人東渡好信の娘らしい姿を見かけた時点で、外は暗くなりかけていたような気もします。二階に上がると被害者AAさんの姿もあったように記憶しておりますが、はっきりした時間帯というのは記憶にありません。

説明がややこしくなるので、Googleマップを利用して見取り図のようなものを作成したいと思います。

平成3年11月、被告訴人安田敏が計画の一環の行動として大型トラックを突入させた場所 https://mapsengine.google.com/map/edit?authuser=0&hl=ja&mid=zWXtOqvyZ-Jo.kUMv6UzSOEuU

上記のようにGoogleマップでマイプレイスを作りました。リンクを始めに開くと小さく広く表示され、ポイントが掴みづらいかとも思いますので、私が伝えたい状態でのスクリーンショットを作成しました。次の写真付きツイートです。

2014-06-24-154435_平成3年11月、被告訴人安田敏が計画の一環の行動として大型トラックを突入させた場所.jpg pic.twitter.com/u0LbdDWxHq

普段通勤でも通っていた道路だとは思いますが、なにか側道の工事をやっていたような感じでした。交通の規制とかもやっていなかったと思うので、普通に車で通っていると工事をしていることも気が付かなかったと思います。

現場についた時にはすっかり夜という状態で月明かりもなかったと思います。周りには街灯のようなものもなかったと思うので、なにがどうなってトラックが動かなくなったのかさっぱりわからない状態でした。

被告訴人安田敏本人は、たしかトラックをUターンさせようとバックをしていたらタイヤがはまって動けなくなってしまったと言っていたと思いますが、そもそもそんな場所でUターンをする必要性も理解できるものではありませんでした。

かすかな記憶ですが、初めは被告訴人安田敏を含め3人ぐらいで歩いて現場に向かったように思います。どのような状態でトラックが動かなくなっていたのかも思い出せないのですが、かなり手こずる状態ではあったと思います。

しばらくすると割と大勢が集まってきました。多かったのは金沢市場輸送の事務所で麻雀をやっていたと思われるメンバーでした。細かいことは記憶が薄れているので思い出せませんが、10人以上は集まったと思います。

はまったトラックを引き出すのに活躍したのは金沢市場輸送の配車係兼社長だった被告訴人本恒夫でした。昔、暴走族がよく着ていた特攻服のような作業服姿であったことも印象に残っていますが、引き上げが成功する前後には、一時的な土砂降り雨が降ってきたのも印象的でした。

あの土砂降り雨だけは人為のなせることではないと思いますが、相当に激しい雨でした。ワイヤーをかけて別の大型トラックで引っ張ったように思います。雨は偶然と思いましたが、余りに手際が良かったので、その時点でも予定していた行動を実演したのかという考えも 浮かびました。

強い雨が降りだしたこともあり、引き上げが成功するとすぐにその場で人が帰って行きましたが、被告訴人安田敏は誰一人に対しても、お礼やねぎらいの言葉をかけることはありませんでした。

神妙にも見える態度で黙り、深く何かを考えている様子には見えていました。一般的な理解だと運転でミスをしたことを悔いているのかと思えるところですが、そうでもなさそうな気はしていました。

会社に戻ってから2階に上がり、流しやトイレがある間仕切りの前の辺りにいたのですが、長い時間考え事をしていた様子だった被告訴人安田敏が、口を開きぽつりと、「あの女、東渡の娘やってんなぁ」としみじみ感慨深そうつにつぶやいたのです。

そのあとだったと思うのですが、私が「手伝ってもらったらありがとうぐらいいえや」というと、被告訴人安田敏は「そんな言葉、長い間つこうとらんし、忘れてしもうたな」などと言っていました。

挑発混じりの非常識な言動ですが、このあたりが本格的な始まりだったように思います。徐々に感覚が狂わされたようなところもあったかと思いますが、被害者AAさんのことでも否定的に挑発したり、人の心をかき乱すような発言、言動がありました。

「あきらめや」というのも呪文のような口癖として繰り返していましたが、つねに否定の一辺倒だったわけでもなかったです。具体性のある重要な発言なので、これも独立した見出しの項目にしておきたいと思いますが、手編みのセーターの話です。

被告訴人東渡好信や輪島の浜上さんから、被告訴人安田敏がスピードを出して危険な運転をしているので、注意をしたほうが良いと言われるようになったのも、工事現場突入の前後だったと思います。あるいはもう少しあとのことであったかもしれません。

被告訴人松平日出男からも同じようなことを言われましたが、三人とも被告訴人安田敏には気を使った様子で、直接注意をすることはなく、私から注意をするようにやんわりと言ってきたのです。

12月になって普通に雪が降る時期になってからだったと思いますが、その時も被告訴人安田敏がスピードを出して危ない運転をしていると被告訴人東渡好信から言われた時だったと思いますが、被告訴人安田敏は吹雪の中、関越道をゆっくりと走っていると当然のことのように話していました。

どれぐらいのスピードを出しているのかと聞くと、80キロというのですが、彼はそれをものすごくゆっくりしたスピードのように話していました。市場の仕事をしていると吹雪でも80キロ以上で走行することはありますが、とてもゆっくりという感覚では通常ないはずです。

これも同じく平成3年の秋頃だったと思いますが、被告訴人安田敏の出勤の時間が遅いとか連絡が取れないと、苦情のようにこの時も、被告訴人松平日出男や被告訴人東渡好信が私に言ってきたことがありました。

電話を掛けても確かにつながらなかったのですが、後で聞くと電話機のコードを差込口から抜いているという話でした。

ちなみに被告訴人安田敏の家というかアパートの電話機ですが、当時でもほどんど見かけることのない、手回しのダイヤル式の黒電話でした。妻となった彼女のアパートだったので、そちらの持ち物だったのかもしれませんが、変わっているとは思っていました。

腫れ物に触るという感じではなかったですが、被告訴人安田敏が非常識なふるまいをしても、直接注意するものはおらず、紹介者である私の方にどうにかしろとか、どうにかしたほうが良いという、話を持ってきていたのです。

工事現場の話でもうひとつ書いておきたいことがあるのですが、被告訴人安田敏ではなくその場にいた人物の話です。独立した項目にするほど強い関連性があるという判断材料もないのですが、気になる存在の人物であり、多少なりとも事件との関連もあるかと思われる人物の一人です。

やはり独立した項目として配置しておこうと思います。被告訴人安田敏に関しては、平成4年2月14日の白菜散乱の件として項目を立て、工事現場突入以降の言動とつながりについても併せて記述をしたいと思います。

<2014-06-24 火 17:15> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

*** 事件の舞台となった市場急配センター株式会社と金沢市場輸送株式会社について
**** DONE 新しい事務員を紹介予定だったという運転手について_平成26年6月24日
CLOSED: [2014-07-06 日 11:44]
<2014-06-24 火 17:29> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

内容的に一部[[*平成3年11月、被告訴人安田敏が自ら乗務している大型ウィング車で、わざと工事現場に突入したと思われる件について_2014年6月24日]]の続きになります。

被告訴人安田敏が身動きできなくした大型トラックを引き上げた時には、夕立のような強い雨が降っていました。夕立と言ってもすっかり暗くなった時間帯です。雨は引き上げる前から降っていたと思いますが、引き上げに成功すると皆すぐにその場を立ち去りました。

私はその時、誰かと一緒に側にいたワゴン車に乗り込み、それですぐ近くではなりますが、市場急配センターまで送ってもらいました。誰の車かもわからなかったのですが、運転をしていたのは顔をよく知る人物だったので、ワゴン車はその人の車だったのだと思います。

その人は木村という名前で呼ばれていたと思います。今思えば名前をちょくちょく耳にする機会はありました。金沢市場輸送にいる時から姿は見かけていて、顔も知っていたと思いますが、その頃には名前も知らなかったと思います。

かなり前から顔は見ていたと思いますが、いつ頃からとなると記憶ははっきりしません。まだ市場急配センターの建物がなく金沢市場輸送に同居していた頃から、見かけていたような気もしますし、そうでもない気もしますので、その辺りの記憶はかなり曖昧です。

市場急配センターの事務所が出来てそちらに移転してからも、市場急配センターの運転手の姿は、金沢市場輸送の給油機のところで見かけることがありました。

そういえばその木村さん本人が、石川県加賀市の片山津温泉「ながやま」での慰安会の世話をしたものの、被告訴人竹沢俊寿に代払いしたお金を踏み倒されたような話をしていたことがありました。信じられないとんでもない人間だという話しぶりでした。

その話は市場急配センターの一階休憩室で聴いたようにも思いますが、差し向かいで直接話をしていたわけではなかったように思います。直接言葉を交わしたことは一度もなかったような気もしますが、その時は会話の輪の中で聴いたような気もします。

あるいは平成4年1月11日の夜のことで、場所は片山津温泉「せきや」の客室のなかでした。出入口に近い方に小さい部屋があって、そこで数人が集まって麻雀をやっており、木村さんもメンバーとしてその場の麻雀に参加していました。

強面という風貌の人でもありましたが、普段はあえてそれを隠しているのかと思えるほど、地味な格好の作業服姿でまるで農家のおじさんという出で立ちでしたが、客室で麻雀をしているその時だけは、黒い革のチョッキを羽織り、ギャングかマフィアの要人にもみえるぐらいでした。

酒も入っていたのかもしれませんが、普段は無口なのに、割と陽気な感じでもあったと記憶しています。その時は近くで言葉を交わす会話に私が加わるようなことはなかったと思います。

年齢は60代にも50代にも見えたので、はっきりしたことはわからず、年齢の話を聞くこともなかったと思います。

割と早い段階で、コンパニオンの仕事をしていると聞きました。増泉とも聴いたと記憶しています。加賀温泉のホテルに派遣するようなコンパニオンの仕事だったと思います。

どちらかといえば金貸しにも見えるようなタイプで、お金に困っているようにはとても見えませんでしたが、運動でも兼ねていたのか運転手をしていました。それも社員ではなく、ポンコツの2トン車を持ち込みにして仕事をしているような話でした。

そのトラックは何度か見かけていましたが、相当かなりのポンコツにみえました。宇出津のK村さんや姫のNKさんが、同じく持ち込みで乗っていた2トン車もポンコツには見えていましたが、それと比較しても状態が悪いようにみえるトラックでした。

さきほど片山津温泉「ながやま」の慰安会について書きましたが、時期は平成2年の6月の後半ではなかったかと思います。これも一つの目安になっていますが、被告訴人浜口卓也が来る前だったと思います。いればいたはずの姿がなかったからです。それにいたらどうなっていたのかと思うこともありました。

配車係の一人だったYTの姿もその慰安会の時点ではあったように思います。あとになってラウンジのような場所で飲んでいて、イワシのダンプにも乗務していたSSと、ケンカになったとかケンカになりかけたという話を誰かに聞いた覚えがあります。

なんとなく7月にはYTはやめていなくなっていたという感覚があるのですが、同じく配車係の仕事をしていたFHも一緒にやめたはずです。そういえばFNの方は、多少なり被告訴人松平日出男と仕事上の付き合いもあったようで、年も近く気が合う関係だったことも考えられなくはないです。

2月の初めに福岡に行った時も、帰り荷はそのFNの関係でした。中西運輸商で一緒だった二人の人物とも、電話で話をする機会がありましたが、一人は九州の人でした。九州に駐在員かちょっとした支店をおいているような話だったと思います。

河北郡津幡町に会社がある運送会社だと聞いていましたが、今Googleで調べたところ、それらしい情報は見つかりませんでした。運送会社の名前も一部記憶がはっきりしなくなっています。

あれも平成4年の1月か2月頃だったと思いますが、北陸ハイミールでその会社の大型トラックを見ることがありました。その時の運転手ですが昭和59年に私が初めて金沢市場輸送に入社した時にいた運転手だったと思います。

言葉を交わすことはありませんでしたが、その人に間違いはないと思いました。彼は免許取り消し中で、私のトラックに同乗して指導などしていたことがありましたが、まもなくやめていなくなりました。

ながやま 大江戸温泉物語ながやま【公式サイト】 石川県 http://bit.ly/V8y4fz

片山津温泉のながやまはホームページも見つかりました。数年前はテレビのCMでも見かけていたような気がしますが、そういえば最近は温泉旅館のCMというのもほとんど見かけなくなっています。

私が子供の頃は、一番良く見かけるようなCMが石川県内の温泉旅館のCMでした。バブル景気の崩壊で大打撃を受けた業界とも聞いていますが、数年前の一時期はちらほらとCMを見かける時期もあったかと思います。今はネット社会なのでテレビCMの必要性も低くはなっているのかもしれません。

金沢市場輸送での温泉での慰安会というのは、私が経験したので2回だけでしたが、いずれも全員参加型になっていました。それまでも希望者だけを募ってやってはいたようですが、ほとんどが麻雀好きのメンバーの参加だと聞いたこともありました。

ながやま、での慰安会の時点で、私は被害者AAの存在を意識していたように思います。彼女の姿はありませんでしたが、不参加なのかと考えたようにも思います。

金沢市場輸送の事務所で彼女の姿を見かけるようになって一月あるいはそれに近いぐらいの経過があったようにも思います。市場急配センターの事務員という意識はなかったようにも思うのですが、部分的にそのことは自分の意識の状態として記憶に残っています。

次も同じような時期ではなかったかと思いますが、翌年つまり平成3年のことです。その時の慰安会は同じ加賀温泉でも山代温泉であったと聞いたように思います。運転手以外の事務員や社長だけでの慰安会があり、それには被害者AAさんも参加したように聞きました。

被告訴人竹沢俊寿がその慰安会の時に、被害者AAさんに自分の車である2枚ドアのジャガーをやるとか言っていたという話も聞いたように思いますが、これは別の機会にも聞いた覚えがあり、彼女本人から聞いたようにも思います。温泉の時とは聞かなかったとは思います。

その話を誰から聞いたとなると、被告訴人安田敏から聞いた可能性が高いと思いますが、そういう情報の多くは、被告訴人多田敏明から聞いた話らしく、被告訴人安田敏もそのように話すことが何度かあったと記憶しています。

被告訴人安田敏がいつ頃から市場急配センターで仕事をするようになったのかはっきり思い出せないところもありますが、初めに接触をして来たのは4月の終わり頃だったとは記憶しています。

その後、まだ務めていた輪島屋鮮冷の運転手として4トン車に乗って金沢市場輸送に来て、荷物の積み替えをしたことも記憶しています。冷凍物だったと思いますが、パチンコオークラの駐車場の敷地での積み替えでした。給油機のブロック塀の裏側です。

遅くても5月の10日頃には金沢市場輸送の入社が決まって、市場急配センターで市内配達の仕事をするようになっていました。50万円の前借りの保証人であり紹介者である私にも説明がないまま、当然の事のようにすぐに市場急配センターでの仕事が決まっていました。

金沢市場輸送の社員として金沢市場輸送での仕事というのは一日もなかったように思います。金沢市場輸送は長距離が主体の運送会社ではありましたが、前にいたYTとFHの二人の配車係も、配車係の仕事というのは被告訴人本恒夫にほとんんど与えられなかった様子でありながら時々の仕事はしていました。

私の知らないところで打ち合わせができていたとしか思えないような事の運びでしたが、私が市場急配センターに移った直後、たぶんその初日から毎日、市場急配センターで被告訴人池田宏美の姿を見るようになったのも、偶然とは思えませんでした。

それまでは毎日、金沢市場輸送の事務所で姿を見ていて、運転手なのでいつも事務所の中を見ていたわけではなかったですが、席を外している姿を見たことがなかったような被告訴人池田宏美だったのです。市場急配センターの仕事をしていたというのは説明はなくても納得出来ましたが。

その後も市場急配センターでは被告訴人池田宏美が席を外す姿というのは、滅多に見かけることがなかったと思います。被害者AAさんとは違い、いつも割と遅い時間まで事務所で仕事をしていました。18時ころは普通に事務所にいたとも思います。

19時ともなれば二階の事務所に電気が付いている事自体、かなり稀だったとは思いますが、被告訴人池田宏美が帰っていく姿というのも余り見かけなかったような気もします。

被告訴人池田宏美はいつも会社事務所の正面前に車を駐車していました。一階の休憩室から外を見ていれば、姿は見えていたと思いますが、帰っていく姿というのは余り見かけることがなかったように思います。

長距離の運転手は当日の運行がない場合、一応は17時が定時の退社時間ということになっていたかと思いますが、タイムカードというのもなかったと思いますし、そのあたりはかなりいい加減だったと思います。

早く帰ってもすることがないし、17時から18時というのは道路が渋滞で混み合う時間帯でもあったので、時間を潰すことも多かったと思います。アパートに戻ってテレビを見ようとは考えたこともなかったと思います。

一階の休憩室にも、半分近くが畳の座敷になっていて小さなテレビが置いてありましたが、そのテレビをつけてみること言うことはほとんどなかったと思います。

それだけに平成4年4月1日の事件当日、そのテレビで全国的に話題の注目選手になっていた松井秀喜選手の金沢の星稜高校と昔、芸能人が多いと聞いていた東京の堀越学園の高校野球の試合を見ていたことは、そのテレビが点いているもの余り見た覚えがないということで、強く印象に残っています。

そのテレビは赤い色の小さいテレビだったと思います。平成3年の9月、被告訴人安田敏と二人で8号線バイパスの電化のコジマに行ったのですが、店に入って少しすると被告訴人池田宏美とAAさんが来ました。テレビはその時に被告訴人池田宏美らが買ったものだと思います。

休憩室の内装が完成した直後だったと思いますが、その建築工事中に、被害者AAさんのフイルム貼りの手伝いがありました。テレビと電化のコジマのことは9月の20日頃かと思います。

自由テーマのような感じになってきて、何を目的に書いているのか自分でも把握しづらくなってきました。この項目では木村さんのことがメインテーマだったと思いますが、関連した雑多な事実関係も盛り込んでおこうかと思います。

当時は、ホテルながやま、という名称であったようにあったように思い、ながやま、だけではわかりにくいと思うので、ホテルながやま、ということで書いていこうと思います。

木村さんが世話をしたというホテルながやま、の仮払代金を被告訴人竹沢俊寿が踏み倒したという木村さんの話は後日談でありますが、私自身、ホテルながやま、の慰安会で木村さんの姿を見たという記憶は残っていません。

そもそも私にとってそのホテルながやま、での慰安会は記憶の少ないものでした。旅館に入ってから大浴場に入ったような記憶も微かには残っているのですが、夕方に宴会がありました。これもなんとなくは記憶していますし、市内配達の社員との合同であったことも覚えています。

ただ、その宴会の途中に私はものすごく眠くなりました。直前の仕事や運行のことも記憶にはないのですが、たぶん酒を飲んだので急激に眠くなったのだと思います。

私は誰にも告げず、宴会場を抜け出し、部屋に戻って布団に入って眠りました。熟睡していたと思いますが、何時間か寝ているうちに起こされ、急かされて車に乗り込み、そのままホテルながやま、を出て金沢に帰ってきました。

状況がのみこめないまま、一緒に車に乗って金沢に帰ってきたのですが、それから金沢市場輸送の給油機の前辺りで、けっこう長い時間話をしていました。だいたいの推定ですが、ホテルながやま、を出たのは22時から23時の間ではないかと思います。

長い時間、金沢市場輸送の前の給油機の辺りで話をしたあと、その場にいたたぶん全員で、8号線バイパスの住所は諸江になるのではと思いますが、そこの「くるまやラーメン」に行って夜中にラーメンを食べたことを印象的に記憶しています。

給油機の前辺りの会話では、なぜホテルながやま、を抜けだして帰ってくることになったのか事情を理解することが出来ました。

宴会場ではなかったと思いますが、その後に行った酒を飲むような場所というか店でのことであったと思います。どこまで具体的な話を聞いたのか細かくは思い出せませんが、話を聞いた私としてはそのような理解でしたし、宴会場というのは止める人も多いので考えにくいと思います。

なにが原因だったのか話を聞いていてもはっきりとはわからない部分がありましたが、金沢市場輸送の運転手と市場急配センターの運転手の間で、衝突というかケンカがあったという話でした。社員ではなく運転手と書いたのは、双方に運転手ではない持ち込みの運転手が含まれていたからです。

そのケンカの構図は市場急配センター対金沢市場輸送ではなく、むしろ能登の内浦対能登の輪島という構図にも見えました。

輪島というのは輪島市ということでわかりやすいと思いますが、内浦というのは、能登半島の外浦との区別で使われる言葉です。要するに富山湾に面した宇出津や小木、松波辺りを指す言葉ですが、その意味では珠洲市の飯田や蛸島も含まれるはずではあります。

その珠洲市は狼煙に近い禄剛崎灯台の辺りを境に、外浦と区別されているかと思います。珠洲市でも折戸、高屋、木ノ浦海岸、馬緤海岸、大谷という辺りは外浦になります。

大谷は小さなスーパーもあるその辺りでは町らしい町で、その先の真裏海岸が輪島市との境です。輪島市に入るとそこは割と知名度も高い景勝地、曽々木海岸です。それから輪島市全体を外浦というと思いますし、富山湾とは反対側の富来町など羽咋郡の海も外浦に含まれていると思います。

富来町には能登の景勝地として有名な巌門などもありますが、能登金剛とも呼ばれているかと思います。外浦に共通していることは、風が強く波が荒いことでもあります。その点、富山湾に面した内浦は海も遥かに穏やかです。

平成17年辺りに市町村合併があって、それまで珠洲郡内浦町であった松波や小木は、私が生まれ住む宇出津の鳳至郡能都町、それと柳田村と合併して、鳳珠郡能登町となりました。

ちなみに同じ頃だったと思いますが、富山湾とは反対側でもあった同じく鳳至郡の門前町は、輪島市に吸収されました。宇出津から輪島市の曽々木海岸までも距離的には22キロ程度なのですが、小さい頃の感覚が未だに残っていて、ずいぶん遠いところという感覚が私には残っています。

宇出津より珠洲市の飯田の方が町としては大きいですが、宇出津には、あばれ祭り、という割と有名な祭りがあり、それと石川県立水産高校という寮もある高校もかってはありました。小木港は北洋の遠洋業業の中心地で、それらが人のつながりにもなっていたと思います。

金沢市場輸送には輪島の運転手が、M、O、Y、H、S、Kと5人いました。いずれも大型車の運転手ですが、Yは初め4トン車に乗務していました。都合よくダブりがなかったので苗字のイニシャルで列挙することが出来ました。

Oが輪島崎という他は、海士町の者だとだと聞いていました。最近では余り聞かないことですが、輪島市でも海士町というのは特別な存在でした。輪島崎も海士町と同じく輪島市内の漁師町ですが、海士町とは仲が悪く、Oはかなりの例外とも聞いていました。

おまけではないですが、もう一人海士町でYという運転手がいましたが、彼だけはなぜか例外的に鮮魚を運ぶ保冷車には乗務せず、大型車でも平ボディ車に乗務していました。仕事の内容も異なるので、仕事で一緒になることも比較的少なかったと思います。

事件とも関連が薄いのので説明から除外してもいいぐらいなのですが、ひとつだけ気になることがあったので、そのことを先に書いておきたいと思います。

それは平成3年の9月、市場急配センターの一階休憩室が完成した直後のことであったと思います。その輪島のYがその休憩室に来ていたのですが、その場には被告訴人安田敏もいました。Yが一緒に来たのは被告訴人安田繁克ではなかったかと思うのですが、このところ思い出すこともなかったので。

このところ思い出すこともなかったので、はっきりとは思い出せないのですが、同行者がもう一人いて、私にはかなり意外な組み合わせにも思えました。

彼女か結婚の話題になった時、被告訴人安田敏が彼女がいることについて、「好きな人がいても言えないので不自由」という趣旨の発言をしました。その口ぶりを聞いた時、被害者AAさんのことを指しているようにも思いましたが、同時にかなり演技臭い台詞にも思えました。

微かではあったと思いますが、被告訴人安田敏が何かを企んでいるのではないかと、ふと感じた最初の機会であったようにも思います。横恋慕をしているのかと考えたこともありましたが、そうとは考えにくい言動も感じられていましたし、同棲している彼女がいるのにという思いもありました。

その横恋慕に関しては同じく、被告訴人東渡好信により強く感じることもありましたが、あるいは本気の部分もあったのかもしれません。その被告訴人東渡好信も彼女がいると話していましたし、平成4年の正月明けの深夜には入江の八幡のすしべん、でその彼女と一緒にいる姿も目撃していました。

やはり輪島のYと被告訴人安田繁克は一緒に来ていたと思うのですが、同行者として一緒にいたのは、私の過去に作成した正面の内容が正確だと自信を持って言えます。現在の私の記憶では、このことに自信を持って断定することは出来ません。

あるいは電化のコジマのテレビと同じ日であったようにも思います。どちらも午後の比較的夕方に近い時間であったと思います。あれも偶然ではなかった企ての一つだった可能性があるとは思いますが、冬至の私にはそういう警戒的な意識もなかったので、見落としもあったものと思われます。

輪島のMは、その後に続く輪島の若者の入社のきっかけとなった人物ですが、本書ではMYと表記してきたかと思います。そのMと竹林は、慰安会のようなものは大嫌いなので絶対参加しないと言っていたので、たぶん参加もしていなかったと思います。

竹林に関しては、ホテルながやま、の慰安会の時点で金沢市場輸送に在籍していたのかも微妙な時期かと思います。たぶんやめていなくなっていたと思います。

ただ、竹林本人が慰安会のような温泉の一泊旅行に対する否定的な意見を強い訴えとして聞かされていた記憶があるので、どうなのかなとは思った次第です。一言で言えば変わり者という一面でしたが、ふとしたことに強いこだわりを持ち、理屈で説明をするような人物でした。

時刻は6月25日10時29分になっています。ほぼ昨夜の状態を維持して、続きを書いていこうと思います。書いているうちに思い出すこともあるかもしれませんが、20年以上前のことなのでしんどいところもあります。

夜にホテルながやま、から一緒に戻ってきたメンバーとして、はっきり記憶に残っているのは輪島のO、同じくH、同じくSでしょうか。加えてたぶんいたと思うのが輪島のY。はっきりしないのが輪島のKで、Kは金沢市場輸送に入るのも一番後であったと思いますし、いたのかも時期的に微妙。

いたような気もするしいなかったような気もするのが平ボディ車に乗務していた輪島のYでした。彼は輪島のyや同じくh,同じくk、同じくhらより、学年で一つ年上と聞いていたと思います。前者の4人は確か私より学年で2つ年下と聞いていたように思います。

もう一人いたと思う人物でその場にいたのが意外に思っていたのが、珠洲郡内浦町新保出身と聞く、KOでした。KOに関しては本書において、これまでに何度か書いていることがあると思いますが、私が大きく重視するのが、関越道での勘違い飛び降り自殺のことです。

仮にその話が作り話であるとすれば、KOは金沢市場輸送と仕事以外の特別な関係があり、組織的な工作活動員であった可能性も出てくるのではと考えています。重要なことだけに割とぼかした表現で中途半端に書いていたところもあるかと思います。警察や検察なら簡単に確認できるはずですが。

新潟運輸の長距離運転手で、石川県珠洲郡松波の松波中学校出身。昭和53年頃には松波中学校の相撲部で個人戦の優勝候補とも目されて活躍、という具体的な事実をKOは私に話していました。

私は昭和52年の4月に能都中学校に入学し1年生になったようです。昭和55年の4月に水産高校小木分校に入学したことは記憶がはっきりしているので、そこから逆算してみました。35年以上前のことになるので、思い出すのも容易ではありません。

能都中学校に入学してすぐに相撲部に入部しましたが、時期としてはっきりと覚えているのは9月の10日頃にあったと思う羽咋郡富来町の富来中学校での新人戦でした。この時は民宿に一泊しましたが、民宿に泊まったというのはその時生まれて初めての経験だったと思います。

他にも相撲の大会はいくつもあったのですが、何月頃だったかとなると記憶にありません。相撲では外でほとんど裸に近い状態ですが、特に寒い思いをしたという記憶もないので、10月以降3月などには大会はなかったのではと考えられます。4月でもまだけっこう寒そうです。

他に強く印象に残っている大会が松波大会でした。松波中学校の場所ですが、私は2009年ぐらいになって初めてその場所を知りました。バスで珠洲市に行くようになり、松波中学校の前のバス停にも停るようになったからです。

その場所は割と町外れで、松波から新保の海岸線経由で小木港の方に行く道路の初めの方にありました。もう少し行って左に入って行くと、松波の自動車学校があって、そこには若い頃よく行くことがあったのですが、松波中学校の場所というのは気が付かなかったです。

松波には他にも説明の箇所があるので、Googleマップのマイプレイスを作っておこうかと思います。

告訴状の説明に伴う旧珠洲郡内浦町松波付近の場所 https://mapsengine.google.com/map/u/0/edit?mid=zWXtOqvyZ-Jo.kmNqnYbHRmoQ

上記がリンクです。地図を作成しました。作成の過程で私はこれまで長い間、大きな勘違いをしていたことに気が付きました。

それは新保の場所です。ざっと地図を見回していても発見できなかったので、検索機能の「現在のビューの場所の近くを検索する」というのを使いました。これは今日初めて知った選択肢です。

すると一発で新保の場所にマークがついたのですが、自分がそれまで新保だと思っていた場所とは異なり、その辺りの海岸線では全く反対方向の位置でした。

私は小木から向かって行くと、白丸の先に新保があって、その辺りが道沿いの海岸線の終端だと思っていました。ところが実際は小木から越坂の少し山間の道を抜けて海岸線に出た初めの辺りが新保で、五色ヶ浜海水浴場より手前側にあるのに驚きました。

どうも越坂の隣がすぐに新保になるようです。同じ能登町でも細かい地名があって、どこなのか知らないものもありますが、やはり隣接している可能性が高そうです。

小木から一ノ瀬、越坂の辺りは九十九湾周辺ということもありますが、小木と同じという意識が強いです。中学校に通うのも小木中学校と決まっていると聞いていました。

KOから以前、新保では小木中学校、松波中学校とどちらでも選べると聞いていました。私は新保が白丸の先で松波の町に近いと考えていたので、KOはあえてより離れているとも考えられる小木中学校を選んだのかと考えていたのです。

前にも書いていることと思いますが、KOは私が当然に関越道から飛び降り自殺した松波の昭和53年当時相撲部の有力選手のことを知っているような前提で、話を始めたという印象があり、これがずいぶんと長い間気になってきました。

小木港から海岸線で松波に向かうと、白丸を過ぎた辺りから海岸線を離れ、田んぼや山間の道に入っていきます。その辺りには立壁や川尻という地名もありますが、松波中学校への通学範囲と考えられます。

個人的な感覚ですが、その立壁や川尻から小木中学校への通学を希望するというのはよほどの事情がない限り無理があると思いますし普通にないことだと思います。

繰り返しますが、私はなぜか勘違いをして新保を白丸より少しだけ松波の町に近い在所だと思い込んでいました。仮に白丸だとしても私はどこの小学校の通学範囲なのかわかりません。白丸小学校というのは聞いたことがあったかもしれませんが、あったような気はします。

その相撲部の有力選手は白丸の周辺に家があって、KOとは幼なじみか小学校が同じ関係で、有力選手は松波中学校を選択し、KOは小木中学校を選んだんとかと考えることもありました。二人が学年で同級生であることは間違いないと思います。

松波での相撲大会ですが、これはやはり昭和53年で私が中学校2年生の時と考えられます。先ほどから説明している松波中学校の有力選手は学年で私の一つ上でしたが、優勝候補の一人だと聞いていました。私が1年生の時の3年生のメンバーの姿というのも思い浮かんでは来ません。

他に珠洲市の緑ヶ丘中学校にも優勝候補と目される選手がいましたが、かなりの巨漢でした。松波中学校の有力選手の場合は体格はいいものの、オリンピックの水泳競技の水泳の選手によく見かけるような体型であったと記憶に残っています。

私としてはKOに中学校の時相撲部にいたという話はしていないと思うのですが、あるいは珠洲市大谷のYSさんのことで話すことはあったかもしれません。KO自身が相撲部に関係していたという話は全く聞いた覚えが無いですし、それはまずなかったと思います。

KOは珠洲市大谷のYSさんのことをよく知っている口ぶりで話をしていたような記憶があります。その時はさほど気にも留めなかったので詳しい話は聞かなかったように思いますが、小木の遠洋漁船で知り合ったような関係だと、私は捉えていたように思います。

KOは自分で、小木中学校を出てすぐに遠洋漁船の漁師になったと話していたと思いますし、漁師をやめて初めての丘の仕事が金沢市場輸送だと話していたように思います。丘というのは出漁したあとの海の上での生活に対応にした陸上での生活のことです。

昭和59年の10月の時点ではKOの姿はありませんでしたが、ほぼその直後に入社したとも聞いたように思います。小木港の船に乗っていたと言う割には、付き合いのある親しい共通の友人、知人という話は聞かなかったようにも思います。仕事以外でもKOの名前はほどんど聞くことがなかったと。

高校に行っていれば、昭和57年の春に卒業して社会に出ていると思いますので、4年ぐらい小木の船に乗っていたことが推定されます。誰かの紹介で金沢市場輸送に入社したという話は聞かなかったですが、職安を通して入社した可能性が高そうだとは思っていました。本人に確認はしていませんが。

姫のNKさんが金沢市場輸送に入社して4トン車に乗っていると話を聞いた頃にも、そのKOの入社時期は重なっていると思います。KOは割と親しげな感じでNKさんの通称を呼んでいたような気もするのですが、そうだとすれば漁師をしていた時に付き合いがあったことも考えられるかと思います。

初めは4トン車に乗務していたともKO本人から聞いた覚えがありますが、私が二度目に入社して初めて知り合った頃には、冷凍機付きの三菱ふそうの大型車に乗務していました。その頃は三菱ふそうのトラックというのはそれ一台だったと思います。

KOが小木中学校で学年が私の一つ上でしたが、その当時の小木中学校の相撲部の人とは面識もありました。KOがいることはなかったと思いますし、いたというような話も聞くことはありませんでした。

私は能都中学校でしたが、その辺りでは大きい中学校でした。一学年200人前後の生徒がいました。小木中学校の規模というのははっきりわかりませんが、生徒数も3分の1ぐらいかとも考えられます。直接小木中学校に行ったことはなかったと思いますし、現在の校舎とは場所も違うのかもしれません。

いろいろと育っていた環境も異なるので一概には言えないことですが、能都中学校でも他の部活の大会のことが話題になったり、他校の有力選手について話題になることは、まずなかったと思います。

KOがなぜ松波中学校の有力選手の名前を知っていたのか、たまたま親戚関係があったとか、親戚の近所に住んでいる子供で一緒に遊んだことがあったという事情でもあったのなら別ですが、宇出津でも普通には考えにくく、聞いたこともない話です。

その松波中学校の有力選手の名前ですが、1年ほど前までははっきり憶えていたものの、数カ月前からやや記憶に自信が持てなくなっています。前に松波の町中をバイクで走っていて、同じ名前の店を見たのですが、久しく松波には行っていません。

今は松波にバイパスの道路があるので、珠洲市に行く時も町中を通らずに行くことがほとんどです。松波に用事があることもないですし、買い物に行くような店もありません。

宇出津から松波に行くのは十八速(じゅうはっそく)と呼ばれる山間の道路が国道249号線でもあり最短です。小木経由の海岸線だと倍ほど時間もかかるかと思いますが、バスは2つの路線があって、本数も少ないので時間のかかる小木経由でも乗ることが多かったです。

十八速から珠洲市に向かうと松波の町の手前からバイパスに入って海岸線から離れた道を走って飯田の町中まで入るのが普通です。以前は必ず松波の町中を通って恋路海岸を通り、ほとんど海岸線に近いところを走って飯田まで行くのが普通でした。

松波の周辺は小さい山のような地形が多かったり起伏があってて、割と複雑かと思います。Googleマップでも航空写真にしないとわかりにくいところがあるかと思います。

昭和53年と思われる松波の相撲大会の記憶ですが、松波駅に近い場所で小高い山のなかに相撲大会の場所があったと記憶しています。その辺りは金沢の兼六園にも似た自然の風景で、宇出津の遠島山公園にも似ていました。

割と最近になって、松波駅があったバス停の正面の小高い山の上に「松波城址」というような看板があって寺院のような建物も見えていました。相撲場があったのはあの辺りかと考えていたのですが、今日Googleマップの航空写真を見たところ、違うように思いました。

寺院と隣接して職業訓練校の建物があるのも意外でしたが、思いの外海にも近く、相撲場があるようなスペースもあるとは思えなかったからです。その大会の時に、松波中学校の有力選手の話も誰から聞いていたという記憶があります。

今日改めてKOのことを考えてみると、同じ鮮魚の運転手をしていた当時でも、出先ではあまり一緒になることがなかったような気がしました。出先で運転手が一緒になることが多いのは、定期便のある塩釜港、石巻港、それと九州の福岡、長浜の魚市場です。

それでも金沢の中央市場での荷降ろしでは割と一緒になることがあったように思いますし、そういう場合、荷物の積み下ろしを手伝い合って、終わってから一緒に食事をするのが多かったのですが、彼にも何度かおごってもらっていたような気もします。

彼は妻帯者で、輪島の運転手は全員が独身だったという違いもありますが。他の運転手とは生活のスタイルも違ったり、一緒になるようなことも割と少なかったと思います。会社にいてぶらぶらしていることも少なく、アパートも近かったので必要以外は会社にいないようにしていたのかもです。

思い出しましたが、彼は無線が趣味というか熱心で何か大きなグループに所属していたと思います。トラックにその無線のグループのステッカーを貼っていたかもしれません。

ちょっと思い出したので次のように検索をしてみました。インターネットも携帯電話も普及していない時代のことだったと思いますが、情報は散見されるようです。

石芽クラブ - Google 検索 https://www.google.co.jp/?gws_rd=ssl#q=石芽クラブ

「石芽会」というスッテカーを運転席のガラスの前においているトラックを見ていたようなことも思い出したのですが、やはり記憶は曖昧で、KOが所属していた無線のクラブとは違うかもしれません。

割とはっきり覚えていることはKOが、自分の使っているハンドル名について「不動の番人」とか言っていたようなことです。全国的にも名の通った大きなクラブだったようには覚えているのですが、記憶は断片的で薄くなっています。

KOがやっていたのはパーソナル無線ではなく、本格的なCB無線だったと思います。ただ、金沢市場輸送でKOと同じ無線仲間というのは私の知る限りいなかったと思いますし、話を聞くこともなかったと思います。

KOの無線仲間については余り話を聞いた覚えがありません。どこの運送会社に多いとも聞かず、それらしい仲間と一緒にいるような姿も見たことがなかったです。

中央市場の近く、もう少し絞って言えばウロコ運送の近くだったと思いますが、無線のショップがありました。子供の頃に行っていた水産高校の文化祭での実習室のことを思い起こすような店内だったと記憶にありますが、倉庫に手を入れたような店内でもありました。

その店には何度か行くことがあったのですが、KOとも一緒に行ったようなことを憶えています。関越道からの飛び降り自殺の話を聞いたのもその頃だったと思うのですが、今考えると無線仲間から得た情報であったのかもしれません。

平成2年の春から夏の時期であったかもしれません。輪島の運転手もほとんど無線をやっていたと思いますが、彼らだけの仲間内でやっていたと思う反面、本格的なCB無線をやっているような話もあるいはきいたかもしれません。

私は輪島のSにパーソナル無線を安く譲ってもらい、それをトラックにつけるようになったのですが、余り使うことはなかったです。

無線といえば、被告訴人多田敏明も無線のクラブに入っているようなことを話していましたが、自分から具体的な話をすることはなかったように思いますし、乗務しているトラックに無線機を付けたいたという記憶もはっきりしません。無線をやる場合は、トラックにアンテナもつけていました。

ある日、夕方の遅い時間に市場急配センターの一階休憩室で、西口がいたのですが、被告訴人多田敏明に連絡をとったところ、無声のクラブの集まりで金沢港の近くにいるような話をしていました。その時、被告訴人多田敏明は無線をやっているのかと、かなり意外に思ったような記憶があります。

断片的な記憶なのでつながりも思い出せないのですが、その後に被告訴人多田敏明が来て、3人で北安江に焼肉屋に行ったのだと思います。平成4年3月の中頃のことでした。この時の西口の登場も、偶然ではないと思います。

西口の登場というのは主なものだけで、その時が3回めでした。初めが平成3年11月26日のことです。次が平成3年12月の28日と思われる日のことです。その時は西口と被告訴人多田敏明の二人に誘われる形で、被告訴人浜口卓也のアパートに行き、そのあと諸江の焼肉店に行きました。

被告訴人多田敏明が平成3年の秋頃から主に乗務していたのは日野の新型のモデルで、4トンのウィング車でした。初めは被告訴人梅野博之と交代で乗務していることが多かったようにも思いますが、平成4年ころになるとほぼ専属のような常務になっているような様子でした。

免停が明けてからの被告訴人多田敏明は、受け持ちの仕事を持たず、いわばフリーの運転手として、その時々の荷物を運んでいたようです。大型車に同乗して荷物の積み下ろしを手伝うこともありましたが、話し相手以外の必要性などほとんどないものと思われます。

事実上、被告訴人多田敏明は私の動静を監視し、情報を収集するための工作活動に従事していたものと思われます。

事件を起こしたあとに思い出したことかと思いますが、当日の平成4年4月1日、私は翌日の運行の指示として東京行きの引っ越しの荷物を積み込むことと、被告訴人多田敏明を同乗、同行させることを受けていました。

あるいは私の早とちりだったのかもしれないですが、東京への運行に同乗させていくものと考えていました。「トッチを連れて行け」というような言葉での指示であったと思います。

被告訴人多田敏明に関しては、被害者AAさんの父親の仕事について弁護士だと私に吹き込んでいたことも、徹底的に検討するべき問題の一つですが、いずれも別の項目にて言及したいと思います。

ホテルながやま、での説明に戻ります。片山津温泉でもホテルながやま、片山津温泉の外れの方では北陸道の片山津インターからもそれだけ離れていましたが、国道8号線にはより近い位置でもありました。高速道路を使ったのか国道8号線を走ってきたのかも思い出せないですが、誰かの車に乗って金沢へ。

誰の車に乗って帰ったのかも記憶にないのですが、車の中での会話というのはほとんどなかったようにも記憶にはあります。前にも書いたように、金沢に戻り金沢市場輸送の事務所の前の給油機の前辺りから道路の辺りで、しゃがんだりした状態で話をした場面が記憶に残っています。

すべては私が一人客室の布団で寝ている間に起こったことのようでした。市場急配センターの運転手と金沢市場輸送の運転手の間で、ケンカになったという話でしたが、どこか要領を得ないところがありました。まず、誰一人多少なりとも怪我をした様子はなかったです。

双方ともに小木港の遠洋漁船の漁師をしていた者が多かったので、かなり腕力のありそうな者が多かったです。殴り合いがあったとはとても思えなかったのですが、彼らの話を聞いていても、その辺りがわからず掴みどころないものを感じていました。

市場急配センターの側でそのケンカに参加したと聞く人物は、姫のNKさん、珠洲市大谷のYSさん。さらに誰かの口から被告訴人安田繁克らしい男も加わって、その威勢がよく、あるいは暴れていたような話であったと思います。

姫のNKさん、珠洲市大谷のYSさんの二人に関しては、輪島対内浦という因縁の対立という構図として、十分に理解できるものがありました。普段抑えに抑えていたものが、酒が入ったこともあり爆発したものと考えられたのです。

まず姫のNKさんのことですが、曽々木海岸あたりをドライブしていたところ、輪島の暴走族とトラブルとなり、ずいぶんと屈辱的な思いをしたと伝聞ですが聞いたことがありました。神野のKMから聞いた話の可能性が高いと思います。

現在の私はかなり以前に比べると人との付き合いもめっきり減っているので情報量も少ないですが、輪島市の海士町について話を聞くこともほとんどなくなりました。海士町は海女の町でもあり、全国的にも規模が大きいということでテレビでも見かけることはありましたが、別のイメージが強いです。

聞いた話ですが、本来の海士町は舳倉島で海女漁などをして暮らし、海が荒くなる冬場は漁も出来ないので本土の輪島市内で生活していると聞きました。以前は海女漁の話より、暴力団もものともしないような攻撃的、暴力的な集団として名を馳せていました。

歴史的にも近新婚を繰り返し、集団としての結束がとても強く、年配者を敬い厳しい環境で育っているとも聞いたことがあります。泣く子も黙るとは大げさかもしれませんが、能登半島でも特別な地区だと知られていました。

歴史的には九州の福岡県から流れてきた男女が輪島の海に住み着き、そのうち加賀藩の前田家からもお墨付きをもらって、海女漁をするようになったと聞きます。いずれにせよ、輪島市と言っても海士町はとりわけて特別な地区でした。

海士町は漁師町でもありましたが、どういうわけかほとんどの若者は、北洋の遠洋業がある小木港の遠洋漁船に乗り組むとも聞いていましたが、金沢市場輸送で運転手をしていた輪島の若者も、輪島崎のOと平ボディ車に乗務していたYを除いて、小木港の遠洋漁船に乗り組んでいたと聞きました。

地元小木港の話では、海士町の若者は気が荒く手に負えないので、一つの船に二人かあるいは一人以上は乗せないことになっていると聞いたこともあります。二人か一人かの違いは、私自信の記憶の状態によるものです。20年以上前に聞いていた話なので、記憶もはっきりしません。

海士町の話は地元の宇出津や、小木港の遠洋漁船に乗っている漁師の間でも聞いていましたが、より物凄いと感じたのは、被告訴人安田敏と金沢の観音堂のアパートで遊んでいた頃のことでした。既に本書で書いてある部分もあると思うのでなるべく省略したいですが、藤江の陸橋の付近の溜まり場のことなど。

金沢で暴走族のリーダーをやっていたKTは、どちらかといえば貧弱そうな体型で腕力があるとはとても思えないタイプでしたが、事実上統率力はあって、暴走族のリーダーにもなっているという感じでした。

時刻は6月26日13時05分です。あらためてこの項目の見出しを見てみたのですが、新しい事務員を紹介する運転手、のことになっていました。これはもちろん木村さんのことですが、ずいぶんと外れた内容を書いていたようです。

どうしたものかと思いますが、木村さんのこともKOらのことも、事件そのものと関係があるとは断定できない点で、その他というような共通項はあるとおもいます。また、個別には無関係に見えても、全体としては看過できないつながりや事実が含まれています。

木村さんに関しては中野さんのことも併せて書くつもりでいました。二人とも実名にしましたが、それも私の考えぬいた上での判断です。事件の音の深いところで関わりのある人物という可能性もある一方、全くの無関係でありながら、しがらみからも影響を受ける可能性も考えられるからです。

実名にするのは必要最低限という配慮は常にやっております。実名にしたからと共犯者としての嫌疑が濃厚というわけではなく、また、匿名にしたからと言ってそれが薄いわけでもありません。ありのままの事実を書いておりますが、理解を超えている部分や断片的な認識しかない部分があります。

そういう中で誤解を生じ、混乱を招かないためにも特定すべきところは特定しておくというのが私の方針であり、ツイッター等での反論意見の場も事実上用意されています。警察、検察に相談するのもよいことでしょう。タイトルにも金沢地方検察庁御中と看板を掲げています。

とりあえず、見出しに対応した内容のことを書き上げ、次のことに移りたいと思います。新しい事務員の話です。

平成4年の2月の中旬から3月の中旬の間ではなかったと思うものの、割と最近になってこの部分の記憶があいまいになってきました。その時期としては、かなり天気の良いさわやかな天候でした。

これもWとかを改めて実名にしますが、和田くんと二人、それぞれの乗務する大型ウィング車で、北陸道を福井県鯖江市に向かってきました。たぶん積み荷はミールだったと思います。浜田漁業金沢工場よりは北陸ハイミールの可能性も高いという気もします。

ミールは倉庫移動という地場というかローカルの仕事も多かったのですが、福井に行ったのはその時、一回だけだったと思います。

片山津インターと加賀インターの間だったと思いますが、尼御前サービスエリアがあって、そこに入りちょっとした休憩をしました。福井に向かっている時のことです。

その尼御前サービスエリアのなかで和田君が話しかけてきたことですが、新しく事務員が入るらしい、Aちゃんは話しかけても余り喋ってくれんし、返事だけ、というようなことを言っていました。

和田君の口から被害者AAさんのことが出たのはそれが2回めだったように思います。現時点での私の記憶なので、忘れていることもあるかもしれません。

余り日にちの近接はなかったと思いますが、同じ頃に、和田君と被告訴人多田敏明の3人で、確か長野市の市場まで行ったことがありました。何を持って行ったか思い出せないのですが、果物だったようには思います。それと日通の増泉支店で荷物を積んだような記憶も場面として残っています。

日通の増泉支店に行ったこともずいぶんと久しぶりだったような気もしますが、昭和59年ころは割と行く機会があったと思います。前にも書いていると思いますが、展示会の荷物を積んで福島県いわき市の大黒屋というデパートに行ったことがありました。

そしてこれも既に書いているのではと思いますが、被告訴人竹沢俊寿が以前、日通と関係があって社員であったような話も聞いたことがありました。土建屋の社長とかヤクザの組長だったという話とは、普通に合わないとは思いますが、どちらも被告訴人竹沢俊寿の過去として聞いていた話です。

いくらかはっきりしていることは小島という事務員が昭和59年当時にいたことです。日通から来たと聞いていました。保険の係をしていると聞いていましたが、小さい会社で度々保険の仕事があるとは考えにくく、電話番以外に何をやっているのかよくわからない存在でした。

顔の方もいまでもなんとなく記憶に残っていますが、真面目でおとなしいいかにも事務職と行った感じの人だったと思います。年齢は40代にも見えましたが、若いのか年配なのか、どちらにも見えるようなタイプでした。体型はがっしりして見えました。肩幅も広く。

これも前に書いていると思いますが、昭和59年の時点で日通カラーの大型平ボディ車が2台いました。1月に私が入社した時点であったようにも思いますが、どちらも最近に納車された真っさらの新車という感じでした。

乗務していたのは棟方さんと原田さんでした。変わった名前だとお守ったこともあり棟方さんの名前は憶えていますが、無口でおとなしい感じの人でした。北海道から来た人と聞いたような気もします。庄和61年の8月には既に姿が見えなくなっていたと思います。

原田さんは前にも書いていると思いますが、そのあと中西水産輸送の運転手となり、中西運輸商で配車係もしていたYTから聞いた話では、国道18号線の群馬県高崎市付近で、追突事故だったかで死亡したと聞きました。

被告訴人安田敏から聞いた話で、大倉さんが事故を起こして死んだと聞いたのも、同じ高崎市付近という話であったと思います。大倉さんは以前、割と大きな会社を経営していた社長とも聞いていました。どんな仕事をしていたのかは、よくわからない説明を受けました。

大倉さんは金沢市場輸送での麻雀の常連メンバーにもなっていたと思います。被告訴人安田敏の工事現場突入の時、ワゴン車で現場に来ていた木村さんも、たぶん金沢市場輸送で麻雀をしていたのではと思われます。

ただ、私自信の記憶では金沢市場輸送で木村さんが麻雀に参加している姿というのは見かけていなかった気もするのです。それもあって片山津温泉せきや、の客室で麻雀をやっている姿を見た時は、その普段とは違う服装とも相まって、かなり意外に映ったのだと思います。

会社で木村さんの姿を見かけていたのも、金沢市場輸送の給油機でトラックに給油している姿や、市場急配センターの裏駐車場で仕事を終えて帰っていくような姿を、たまたま見ていたもので、いずれも割と早い時間で16時前だったとも考えられます。

和田君のことですが、これも前に書いているところがあるかと思います。平成3年の11月の20日頃だったかに、市場急配センターに入って大型ウィング車に乗務していました。確かそれまで被告訴人東渡好信が乗務していたトラックに乗務しましたが、いきなりだったかはわかりません。

今まで結びつけて考えたことがなかったのですが、思えば、被告訴人東渡好信が古河の市場でベルトコンベアーに指を詰めたとか言い出し、トラックの仕事をやらなくなってから、配車係になったのも同じくその頃だったと思います。

ベルトコンベアーの件に関しては、私はその場にいました。いきなり大きな声をあげて怪我をしたと騒ぎ出したのですが、傍で見ていて呆れるほどわざとらしい演技のようなものでした。怪我をすれば血が出なくても内出血なりするはずと思いますが、怪我をしていない手で抑え続けるだけで見せなかったです。

東渡が乗務していた大型ウィング車というのは、金沢市場輸送でその平成3年の4月ぐらいに入った日野の新車でした。それまでの金沢市場輸送のトラックのデザインやカラーとは一新して、ベースが白で赤と青のラインがデザインされていました。

これは2台同時に入った新車で、どちらも日野のトラックだったと思いますが、もう一台に乗務したのが輪島の浜上さんでした。浜上さんも海士町の出身だと聞いていました。被告訴人東渡好信とは長い付き合いという感じで、共にトレーラーで木材を運ぶ仕事を多くやっていたような話でした。

どこに書いたのか記憶にはないですが、本書では既に書いていると思いますが、被告訴人東渡好信が市場急配センターの事務所やその周辺の路上で、包丁を手に握り、被告訴人松平日出男を追いかけまわしたという原因になったのも、その日野の新車のことだと聞いています。

同じく書いていると思いますが、石川丸果の売り場で、荷受けのじいさんの首根っこをつかまえて、キャベツの箱のなかに押し込んだということもありました。まるで海面に沈めて溺れさせるような行為です。無言でいきなりやったので、じいさんもさぞや驚いたことだと思います。

じいさんの姿は、今でもなんとなく記憶に残っているのですが、市場では珍しいぐらいの高齢の人でした。荷受けをやっていたところを考えると石川丸果の社員であった可能性が考えられます。平成3年の春のことなので、他の雇用形態というのも考えにくそうに私は思います。

被告訴人東渡好信と浜上さんと河野秀美さんの3人が、市場急配センターに来たのは9月に入ってからだったと思います。いずれも金沢市場輸送で乗務していたトラックともに移ってきたと思います。

河野秀美さんに関してはもともと金沢市場輸送で鮮魚を運ぶ保冷車に乗務していました。少なくとも私が金沢市場輸送にいた6月20日ころまではそうだったと思います。

今、市場急配センターで河野秀美さんがどんなトラックに乗務していたのか、思い出すのに集中しているのですが、残念ながら思い出すことが出来ません。新しいトラックでなかったことは間違いないと思いますが、平成4年になってから被告訴人浜口卓也と同じく日産の新車に乗務したかもです。

この3人は金沢市場輸送を退社したのではない扱いで市場急配センターに移動したとも聞きました。私の場合は、金沢市場輸送をやめてから新たに市場急配センターに入社したことになっていると、聞かされたのですが、誰に聞いたのかはっきりしませんし、真偽もどうなのかと思っていました。

3人は9月に入ってすぐに来たようにも思うのですが、9月中というのは長距離の仕事も本格的にはなっていなかったようにも思います。古河の市場の山三青果の仕事も、ローテーションでまわるような状況にはなっていなかったように思います。

9月中は東京の晴海埠頭や有明から外果の果物を運ぶ仕事が多かったとも記憶していますが、9月、10月、11月というのは、中央市場の裏の倉庫から馬鈴薯を運ぶ仕事が多かったと思います。利益が出るとは考えにくい仕事で、間に合わせという感じでもありました。

改めて考えてみると、古河の市場で河野秀美さんと一緒になったという場面を思い出すことが出来ず、あるいは一度もなかったのかもしれません。浜上さんも余りなかったような気がします。この二人は特に仕事の選り好みも強かったようです。

馬鈴薯でも河野秀美さんの場合は、大勢の人を動員して、市場周辺から壊れて捨ててあるパレットを拾い集めでそのパレットの上に荷物を積み込んでいました。荷降ろしさの市場に着いてからは、フォークリフトで降ろして指定された場所に並べるだけで済むそうです。

私はかえって面倒そうにも思っていたので、全くではなかったかもしれませんが、やることはなかったと思います。そこまでやるというこだわりには感心し理解も超えていましたが、それぞれにこだわりを持つというのは運転手の考えと経験にもよるもので、強くありがちな傾向です。

河野秀美さんは金沢市場輸送でも権利意識の強い運転手だったようで、それで配車係の被告訴人本恒夫とも衝突することがあるとか聞いていました。仕事ぶりはともかく、会社の側では扱いづらい運転手でもあったようです。

人それぞれの考え方もあることで、労使関係というのは本来そういうものなのかもしれませんが、どうもそういう権利主張の傾向がある人で、独自のこだわりももっていたようです。余り評判の良い話としては耳に入ってこなかったような気もしますが、曲者的なところもあったかと思います。

多かれ少なかれ他の運転手もクセのようなあったと思いますが、基本的に個人プレーのような仕事内容なので、見えない部分も沢山あったと思います。同じ会社の運転手でも半年に一度も顔を合さないことがあると聞くこともあったぐらいです。エサをやっていた時代の話だとは思いますが。

もともとそういう自己主張の傾向が強かった河野秀美さんなので、被告訴人東渡好信や浜上さんとは方向性も同じく気があったようです。平成3年春の金沢市場輸送のストライキにもまっさきに参加していたように思います。

ストライキに関してもまだまとまった説明は書いていないかな、と思いました。どさくさのような状況でもありましたが、その時に連絡を寄越してきたのが被告訴人安田敏でした。計画された行動であった可能性があるので、徹底解明が必要と思います。

時刻は6月27日22時14分となっています。本日は人様との関わりにおいて、私の人生のおいても特別な経験をする日となり、思いを致すところがありました。プライバシーを尊重するうえでも具体的な内容については触れませんが、関わりの中で今後を含め社会に向けた影響もあると思います。

昨日になりますか、河野秀美さんについて書いていたと思います。私自身、真意を疑う衝撃的な発言ではありましたが、ありのままの客観的事実として、記録に記しておきたいと思います。被害者AAさん及びその家族の人生に対しても影響を与えた可能性があるとりわけ重要な事実であることを申し添え。

平成3年で、11月のことかと思います。不思議と前後の事実とのつながりが記憶として喚起できないのですが九州産と思われるミカンが市場に出始めた時期だったと記憶にあります。たまたまだったのは天候も良くなく、寒い日だったという記憶も残っていて、12月ではなかったかと感覚的に思えることも。

その日は珍しい仕事として会社から指示を受け、たぶん金沢の中央市場からであったと思いますが、ミカンを大型ウィング車に積んで、私の地元である宇出津のAコープ能都店に運びました。かなりの確率で私が乗務していた3068号であったとも思います。

宇出津のAコープ能都店には夕方遅くすっかり暗くなった時間に着いた場面も割と鮮明が聴くとしてありますが、Aコープ能都店は改装工事中だったのか、向かい側に仮店舗として営業していたことを印象的に記憶しています。

私はその飛び込みのような臨時の仕事に、河野秀美さんさんと一緒に、二人で同じ一台のトラックに乗務して出かけていました。

その仕事の帰路で七尾市付近を走行中のことであったと思います、まず近所のレンタルビデオ店で、たまたま被害者AAさんと出会ったことを話していました。女友達と一緒だったとも言っていましたが、これはまず11月26日と同じKNさんのことであったと思います。

11月26日のことについては特別枠として項目を立てて、詳しい記述を予定しています。浜上さん、被告訴人東渡好信、西口が絡んでくる事実です。

諸江と思われるレンタルビデオ店で被害者AAさんと出会ったという話の後であったと思います。耳を疑うと言いますが、衝撃な気な話を耳にしたので、前後の記憶が飛んでいるようなところもあるかと思うので、想像で適当に補うわけにもいかず、それはそれとして明確にしておきたいと思います。

ということで、会話の前後の脈絡が正確に思い出せないのですが、河野秀美さんの口から、笑いながら娘が強姦されたら嬉しい、という発言があり、その後同じく笑ったような感じで、「とてもよい人生経験になるから」というような、とってつけたのではないかと思われる理由付けがなされていました。

私も河野秀美さんも独立した大型車の長距離運転手でした。少しでも楽をさせたいとか協調性を育む場として、会社の方針、配慮があったということも理屈上100%の否定は出来ないと思いますが、同時に計画された工作活動の一つであったという可能性もあるのではと思います。

家族としても深く考えさせられるところがあるのではと思います。これはこれまでの記録においても何度か記述してきた事実のはずです。一見すると都合次第で他者の尊厳をも冒涜した言い分に映るかもしれないですが、紛れもない事実です。反論を受ける用意を含め、大々的に公言をしておきます。

ミカンに関しては九州から何度も運んできたという経験があります。近年スーパーの売り場を見ていると品種改良のためか、温室栽培以外のミカンでも、出始め、終わりともに店頭に並ぶ期間が長くなっているように思われます。

市場急配センターにおいては、九州からミカンを運ぶことはなかったですが、和歌山県のかつらぎ農協へは何度もミカンを積みに行きました。ただ、意外に早い時期1月の中頃にはほとんどミカンの出荷がなくなって、イヨカンか何か類似の別の果物に切り替わっていたように記憶しています。

時刻は6月28日7時59分になっています。改めて見出しの内容に沿って書いていきたいと思います。

和田君のことに関して書いていたと思いますが、彼の場合、独立した項目を立てて書くような必要性は感じていないので、なるべく関連の有りそうなことを早めに書いて片付けておこうと思います。事件と関わりを持ったということは事実ですが、本人の自覚の程度というのも不明かと思います。

現在日付まで正確に思い出すことは出来ませんが、以前は特定できていた事実の一つだと思います。平成3年の年末の一番最後の方の仕事の時であったと思います。夕方でしが、17時20分か30分ころになっていたように思います。年末の忙しさで被害者AAさんは残業をしていたのかもしれません。

その頃になると似たようなことは何度かあったと思いますが、現在はそれも思い出せなくなっています。事務所一階の休憩室にいたところ、二階から呼び出しの電話が掛かりました。二階の電話とは親子電話のようになっていましたが、当時は珍しく珍しくおもえるものでもありました。

乗り降りした東名高速のインターは豊川インターだったと思います。どちらが先立ったかも記憶がはっきりしなくなっていますが、初めて行った時、指定された場所にトラックを停めて寝ていると、真夜中に小林運送のYさんに起こされて、手短に説明を受けたと記憶しています。

これは全く予想外のことで、しかも熟睡中にいきなり起こされたので、夢か現かという感じでした。Yさんは実際の年齢より気も若く、見た感じも若く見える人でした。はっきりした年齢は忘れましたが、私が助手をやっていた頃、既に大型車に乗務していたので、少なくともその時点で21歳以上のはず。

やんちゃでケンカ好き、小林運送の社長となった息子とは年も近く、二人で中央市場の近くの百万石うどん、の板前に営業中に殴りこみを掛けたというような話も聞いたことがありました。Yさんの方が小柄でしたが、俊敏そうな腕力もありそうな感じでした。社長は体じたいが大きかったと記憶しています。

私が助手になった時点で、社長となったばかりの息子はヤクザをやめて家に戻り家業の運送会社を引き継ぐことになったと聞いていました。

昭和61年の8月、2度めに金沢市場輸送に入社して市内配達の仕事を始めた頃、市内配達が数社の運送会社の集まりでありながら束ねていたのが高田という当時50代ぐらいに見えた人物で、トラックの数が圧倒的に多いのも金沢市場輸送でした。

はっきり思い出せないものもありますが、小林運送、石川日通、など5つぐらいの運送会社が2トン車を運転手とともに出していましたが、いずれも一台ずつだったと思います。小林運送も一台だけでしたが、その運転手がYさんでした。

小林運送に関しては社長となった息子の母親が気の強い人で、青果の仕事の奪い合いのことで金沢市場輸送に怒鳴りこんできたという話も聞いたことがありました。既に金沢市場輸送の事務所が二口町に移転した頃であったと記憶に残っています。

私自身、YTと一緒に小林運送の事務所に連れ込まれることがありました。一番の近くで道路の譲り合いでトラブルになった相手が小林運送の息子で、そのまま事務所に連れて行かれ、いろいろと言われたのですが、直接的な内容でもなく意味のわからないところがありました。

たぶん前に助手をしていてその後、金沢市場輸送で運転手をしたいることも知っていたはずなのですが、知らない相手を前提にしたような対応で、それに直接相手にしているような感じでもなかったと記憶にありますが、理解のできないところがあったとその場の記憶として残っています。

もともと中央市場の青果物の仕事は小林運送が仕切っていたという感じでした。トラックにも宝船のような野菜の絵や、「金沢中央卸売市場」と割と大きな文字でどのトラックも書いてあったと記憶しています。平ボディ車が多かったとも思いますが、そちらは絵を描くスペースはなかったかも。

高田という人物もとても真面目そうに見える反面、訳ありの人物にも思えていました。特に悪い話というのも耳にはしていなかったと思いますが、忽然といなくなり、会社の金を持ち逃げしたような話を耳にしたこともありました。

富山の右翼団体の青年が高田を探しに来たことも、本書では既に書いているように思います。呉服屋とかのいかにも番頭という感じの人物で、今でも顔は不思議とはっきり記憶に残っていますが、その後噂を聴くこともなく、今考えるとちょっと不思議なぐらいの自然消滅という感じでした。

会社の金の持ち逃げに関しても曖昧な話しか耳にしませんでしたが、被告訴人竹沢俊寿が実害を受けたらしく怒っているという話は耳にすることがありました。被告訴人竹沢俊寿としては割と珍しいことです。

被告訴人竹沢俊寿が運転手のことを悪く言ったり、批判することは余りなかったと記憶しています。

例外として過去にはまず、能都中学校の2つ年下のOTがいました。宇出津の近くですが住所は宇出津ではないところに家がありました。今もあるとは思いますが。昭和56年から58年ころまでは個人的な付き合いも多い間柄でした。

久しぶりに会ったのは昭和60年の夏頃だったように思いますが、金沢市高畠の被告訴人大網周一のアパートでした。岐阜の帰りに山道を通り、4トン車を崖下に転落させて、そのまま逃げてきたというような話をその場で聞いたように記憶しています。

金沢市場輸送の4トン車のことですが、その後私は被告訴人竹沢俊寿が、そのOTの名前を出して、許さない懸賞金を出して探しだすなどと息巻いている姿を、金沢市場輸送の事務所で見た記憶があります。

思えばOTの姿を見たのもそれが最後だったような気もします。その後ほかの友人とともに大阪の方に行き、共同生活で仕事をしていたという話も聞きましたが、そのあと友人との付き合いもなくなったらしく、さっぱり話を聞かなくなりました。

その時に大阪の方に行ったグループというのは小木港で遠洋漁船に乗っていた連中なのですが、地元には全く帰ってこなくなったのか、さっぱり噂話も耳にしなくなりました。

伝聞の上、断片的で要領を得ない話ではありますが、遡ると被告訴人大網周一が金沢で鳶の仕事を始めたきっかけにもつながるようです。大阪に行って以来、交流があったという話も聞いたことはないのですが、私からすれば忽然といなくなったようなグループです。事情もあったことかとは思いますが。

OTの件に関しては、崖に転落させたトラックを放置して逃亡したのですから、被告訴人竹沢俊寿の怒りももっともかと思いましたが、それでも本気で怒っているような感じにも思えないことはない、という感じでした。

高畠のアパートにHMと同棲していた頃の被告訴人大網周一ですが、直市商店という金沢港の仲買人の魚屋の運転手をしていました。4トンの保冷車です。運送会社ではないので白ナンバーのトラックです。

雪が降る時期で昭和61年の1月か2月だったと思いますが、ある日の夜中、私は九州方面から来て金沢に向かっていました。福井県の敦賀インターから先が大雪の影響か何かで通行止めになっていたので、国道8号線を走りました。

途中までは海岸線の多い国道で、その海岸線のカーブだったと思いますが、道路に魚を満載にした4トンの保冷車が横倒しになっていました。箱の後ろの上部が壊れて発泡スチロールのケースが見えていたので、満載であることはすぐにわかりました。

その事故を起こしていたのは直市商店の4トン車で運転していたのは被告訴人大網周一でした。その場で話をしたのですが、誰にも言うなと言われたので黙っていたところ、数日すると自分から人に話していました。

さらにしばらくすると直市商店をやめたとかやめさせられたと聞きましたが、積み荷の弁償のことなどは責任を問われなかったようです。直市商店をやめたあとの被告訴人大網周一の仕事となると、すぐには思い出せなくなっています。

まもなく高畠のアパートにもいなくなったように思いますし、同棲していたHMとも別れたと風のうわさを聞いたような気がします。その後もしばらくは金沢で仕事をしていたのかもしれませんが、そのうちに東京に行ったと聞くようになりました。

東京での仕事で岡山県に出張中に交通事故を起こし、けっこうな大怪我をしたと聞きましたが、金沢市入江の八幡のすしべん、の裏の病院に入院するようになっていました、このあとのことも既に本書で書いているところがあるかと思います。

他に被告訴人竹沢俊寿ににらまれた運転手として記憶に残るのは昨夜も書いたところの河野秀美さんでした。

河野秀美さんの場合は、中西運輸商からトラブルを引きずったままのいわくつきの入社であったとも聞いていましたが、これも話を聞いても要領を得ないものであったと記憶に残っています。別の言い方をすると、合点がいかないというか腑に落ちない話でもありました。

私はその話のほとんどを金沢市場輸送のなかではなく、当時中西運輸商で配車係をしていたYTに聞いていたと思います。自宅に固定電話はありましたが、携帯電話など全く存在しない時代でした。自宅の電話で会話をしたという記憶もあまりないのですが、YTから何らかの連絡があったのだと思います。

YTに関してはこれまでも書いている内容量が多いと思います。平成3年の夏から秋頃には、被告訴人安田繁克を臨時の運転手として仕事をさせていたようです。アルバイトに近い感じという話にも被告訴人安田繁克の説明からは聞こえましたが、実際のところはわからないです。

YTと最後に会ったのは平成3年12月の初めころだったと思います。私が山形県の寒河江市からリンゴを積んできたところで、石川丸果の売り場で出会い、話をしましたが、そのあと一緒に食事に行ったことがあったようななかったような感じで、記憶ははっきりしません。

石川丸果の売り場にいたのは22時とか23時とか比較的早い時間で、そういう時間に石川丸果の売り場にいることは珍しくもあり、割と混み合って忙しそうだったという記憶も残っています。

古河の山三青果の仕事でも、昼過ぎに出発するときは、似たような時間には石川丸果の売り場に入ることはありました。夕方に競りがあると出発は20時から21時の間になって、石川丸果に入るのは朝方に近い時間になることもありました。

山形に行った運行ですが、行きの荷物は城西運輸の仕事であったと思います。羽咋市の平鍛造とかいう会社からなにか鉄鋼製品か部品のようなものを積みました。

平鍛造ですが、調べたところ現在は他の会社と合併をして社名も変わっているようです。次のホームページに書いてありました。

羽咋丸善株式会社 鍛造部 http://tairatanzo.co.jp/

城西運輸ですが、金沢では町中でもよく見かける大きな運送会社でした。重機関係のトラックが多かったと思いますが、建設、建築現場でクレーン車を見ることも多くありました。

こちらも調べてみました。能登の宇出津に住んでいるとトラックや重機を見かけることもないですが、次のホームページをみたところ、以前よりさらに大きな会社へと成長しているという感じです。

JOUSAI│クレーン、トレーラー、高所作業車のレンタル・リース http://www.jousai.co.jp/

ホームページのタイトル名をみるとレンタル・リースも手がけているようです。一時は噂話を耳にすることもあったように思いますが、内容も忘れてしまいました。

山形行きの荷物は羽咋市の平鍛造の工場で積み込んだと記憶していますが、その前に安全靴が必要だと言われ、被告訴人松平日出男の指示でどこかの城西運輸の小さい営業所のようなところに行き、靴紐のない半長の安全靴を借りたことを憶えています。

その時の被告訴人松平日出男の話しぶりでは城西運輸の担当者とは気心もしているという感じで、被告訴人松平日出男から安全靴は返さなくても良いと言われたので、そのまま返さずに使っていました。事務所のドアに穴を開けたのもその安全靴です。鉛が入っているので軽く蹴っただけで開きました。

行き先は山形と言っても、山形市の少し先で天童市ではなかったかと思います。住所は自衛隊の基地の近くだったので、自衛隊の門番のようなところで道を尋ねました。外に出てもさほど寒いとも思わなかったのですが、道の濡れたところががちんがちんに凍っていたのも印象的に憶えています。

思えば、市場急配センターのトラックで東北に行ったのもそれが最初で最後だったと思います。金沢市場輸送では宮城県の塩釜港、石巻港の定期便が多かったので、山形市内は通過する場所としてしょっちゅう行っていました。

被告訴人松平日出男の前身としては、石川トヨタで営業の仕事をしていたというのと、そのあと自分で中古車店をやっていたというのを聞いていましたが、城西運輸に知り合いがいるというのも、意外と言えば意外でした。

城西運輸の仕事というのは、後にも先にもその時一度だけだったような気もするのですが、それとは別に、以前羽咋市の平鍛造から大掛かりな何かの移動のような仕事がありました。

羽咋市には平鍛造の工場がいくつかありました。見た感じどれも似たような建物だったような気もします。そのどこかから何かの荷物を積んで、同じ石川県内ですが小松市の方まで運びました。

まだイワシの運搬の時期だったとも思いますが、イワシの運搬の運転手が総出で取り掛かるような仕事でした。松浦さんや堂野さんの姿もあったと思います。日報に記載する必要もあるので、荷主の名前は聞いていたはずですが、城西運輸であったかどうかを含め、記憶には残っていません。

小松空港より加賀市に近い工業団地のような場所で、コマニーだったかもしれません。コマニーには他にもトラックの仕事で荷物を積みに行くことがあったので、記憶がはっきりしない部分がありますが、品物ではなく設備の部品のようなものを運んだ気もします。

ぼんやりとした記憶ですが、やはり山形から積んできたリンゴの荷物を降ろし終えたあと、どこかでYTと食事をしたような気がします。YTは被告訴人浜口卓也とも一緒に食事というか飲みに行くことがあると聞いたこともありました。

すでに書いたあることかと思いますが、YTは被告訴人安田敏とも顔見知りだったはずです。私がまだ中西運輸商で4トン車に乗務していた昭和60年の12月から昭和61年の2月ころの間になるかと思います。何度か私のアパートで顔を合わせることがありました。

同様に被告訴人KYNもYTとは顔を合わせることがあって、被告訴人KYNの方ではYTの名前も憶えていたと思います。

私が見た範囲では被告訴人安田敏とYTは余り言葉を交わすこともなく、意気投合するような感じではなかったのですが、YTというのは一時一緒に中西運輸商で仕事をしたこともあり、珠洲の三崎のHMとは親しい関係でした。

知り合った頃のYTは彼女と同棲して、どこか米泉あたりの古い民家の一室のようなところで生活をしていました。久安にも近い辺だったと記憶にあります。栃折組というちょっと派手なダンプの会社で仕事をしていて、夜のアルバイトとして中西運輸商で佐川急便金沢支店のホーム作業に来ていました。

栃折組のダンプは目立つということもあったと思いますが、ダンプの会社としては珍しく4トン車のようなダンプも所有していてYTはそれに乗務していると話していました。まもなく私の誘いもあって中西運輸商で長距離トラックに乗務するようになったのですが、それも初めのうちは4トン車でした。

年も私の1つ下年下だったと思うので、まだ大型免許は取得できない若さであったとも思います。私の場合、自動二輪での免許取り消しを受けていたので、普通免許を取得するのも半年ほど遅れていました。

普通免許を取得したのが昭和58年の7月の20日ころだったと思いますが、大型免許を取得したのは昭和61年の11月27日になっていたかと思います。

私が中西運輸商をやめたのは昭和61年の2月いっぱいではなかったかと思います。差し向かいで中西運輸商の社長と話をしてやめることにしました。給料のことは事務の方で決めるので自分は知らないというようなことを言っていましたが、あれこれ差し引かれてごく僅かな額になっていました。

具体的なことは現在忘れてしまいましたが、結婚式をあげたのが3月の10日ころでした。その結婚式の時には失業中になっていたと思いますし、120日と90日あるいは60日ぐらいの免停がダブルで来ていました。

その免停が明けた頃に、被告訴人安田敏の誘いに乗って、岐阜県海津町に出稼ぎに行ったことも、だいぶん前にもなりそうですが、本書で既に記述しているのではと思います。

被告訴人安田敏は色々と珠洲方面にも付き合いのある男でした。岐阜での出稼ぎの仕事も珠洲の人間との付き合いの中で出てきたと聞いていました。珠洲からは宇出津の石川県立水産高校に通っていた生徒もけっこうな数はいたと思います。

観音堂のアパートには、ちょくちょく蛸島のSMが遊びに来ていました。被告訴人安田敏はミッチョと呼んでいましたが、男です。年は被告訴人安田敏と同じではなかったかと思います。

ぼんやりとした記憶ですが、その頃は母親が蛸島で飲み屋をやっていて、彼女と一緒にそれを手伝っていて、たまに金沢に遊びに来ているという話であったと思います。その彼女の一人がHとRのどちらかであったようにも思います。

はっきりしていることはいつも一緒にいる仲良し女友達のHとRの一方は、金沢市内神田のアパートで珠洲のKと同棲していました。Kが遠洋漁船に乗るという決心をしたことで、彼女はずいぶんとショックを受けている様子でした。私はそのアパートで実際にその姿も見たのですが、深刻に悩んで見えました。

30年近くも前の記憶になっているのではっきりしない部分もありますが、そのHとRは野々市のアパートに住んでいて、UHと二人で金沢市場輸送の4トン車に乗ってぶらぶらしている時に、そのアパートに行き、中には入らなかったように思いますが、二人の女をトラックに乗せて、ゲームセンターに行きました。

マルモ設備のすぐ近くのゲームセンターだったので、マルモ設備の待ち時間などのそのゲームセンターに行くと、HとRのことを思い出すことがありました。酒やシンナーの匂いというのはなかったと思いますが、ちょっと錯乱にも近い状態で陽気でもありましたが、以前見た時とのギャップも大きかった。

UHに関しては金沢市場輸送の4トン車に同乗させて、岐阜の中心部に行ったことも夕方に近い街の景色として記憶に残っています。新潟か関西方面にも連れて行ったことがあったかもしれませんが、細かくは思い出せません。

そのUHにしても三崎のHMのことはよく知っていたように思います。そういえばUHも初めにHMが中西運輸商の4トン車に乗務していた頃、トラックに同乗してどこかに行ってきたと話していたかもしれません。同じ三崎出身のSKに関しても、同乗してどこかに行ってきたという話は聞いたと思います。

既に書いているかと思いますが、私もHMの中西運輸商の4トン車に同乗して、山口県の宇部市から静岡県の清水市まで行ったことがありました。静岡からは山梨を通って長野、新潟県の糸魚川市に出て、富山の方から金沢に戻ってきました。

昭和59年の10月に私が金沢市場輸送をやめるときも、その少し前に私の紹介というかたちで、三崎のHMは金沢市場輸送に入社していました。これも既に書いているかと思います。

そして昭和61年の2月いっぱいで中西運輸商をやめるときも、その1,2ヶ月ぐらい前でしょうか、その時も私の紹介というか口利きという感じで、再び中西運輸商に入社をしていました。この間にYTとは仲良くなったのだと思いますが、住まいが近かったのも大きいと思います。

中西運輸商で仕事をするようになるとYTは金沢市黒田のアパートに住んでいたと思います。そのうち長女も生まれていたので、結婚もしていたと思いますが、よくわからないところもありました。

YTの彼女というか妻とは、私の前妻が仲良くしていて、初めの家での時も少なからず影響を受けたような話であったと思います。その辺りは被告訴人KYNの妻との関係にも似ているところがあると思うのですが、東力2丁目と黒田ということで、歩いても遠くない距離だったと思います。

三崎のHMはその前から黒田の広い道路沿いのアパートの2階に住んでいました。あれは昭和58年の秋になるかと思います、珠洲市の三崎の彼の実家まで一緒に行って、引っ越しの手伝いなどしたので、よく憶えています。

YTは私が金沢市場輸送をやめたあとも、しばらくは金沢市場輸送にいたように聞いていますが、ちょうど景気もよくなり始めた時代でもあったのか、4トン車で100万円あるいは120万円ぐらいの売上をあげて、歩合給ももらっているという話を聞きました。

昭和59年、私がまだいたころの金沢市場輸送は売上が80万円を超えると歩合がつくような話でしたが、運賃も安くて不可能に近いというような話を聞いていたと思います。不可能ではないにせよ、かなり難しいような話でした。

私は昭和60年には中西運輸商で4トン車で178万円の売上をあげたと褒められたような記憶がありますが、荷物が普通の大型車より沢山積み込めるような4トン車だったので、それもあったかと思います。それでも給料は大したことはなかったと思います。

当時は大型車の運転手で給料が30万円と聞くだけでも大きな額だと思っていましたが、まだ景気のよくない時代であったと思います。そのうちバブル景気にも入って、いろいろと相場も様変わりしていきました。

市場急配センターの場合、仕事内容は以前と比べると比較にならないぐらい楽でした。あちこちに高速道路が開通したり、バイパスが出てきて交通事情が良くなったのもありますが、高速道路の利用が大幅に認められるようになっていました。

昭和59年当時は鮮魚を積んでいても富山県内はずっと国道を走っていました。夕方の混みあう時間にも重なっていたので、金沢東インターから朝日インターまでの高速道路の利用とは、2倍から3倍近くの時間もかかっていたと思います。その先の親不知は国道8号線だけの一本道でした。

積み荷の条件も大幅に悪かったと思います。ただ、そういう経験があとあと役になったというか、何をしても大した仕事に思えないことも多かったです。その辺りも後から運転手を始めた人や他分野の運送をしていた人とは感覚の違いにもなっていたのかと思います。

東北便にしろ、笹谷トンネルが開通して山形市内まで有料道路か高速道路が伸びて、どれだけ楽に思えたか大きかったと思います。冬場など何もなければ新潟市内に近づく時間にも、まだ山形県にも入れないこともあったかと記憶にあります。鮮魚なので緊張感も高いです。夕方になると路面も凍結したり。

HMですが、その後、守田水産輸送と輪島屋鮮冷を行ったり来たりしていました。守田水産輸送とは1年間ほど青森の定期便を交代でやったこともありましたが、そのうち顔を合わせても、以前のように話はしなくなったと思いますし、顔を合わせることも少なくなりました。

ずっと4トン車に乗務していたと思いますが、姿を見かける終わりの方は守田水産輸送で大型車に乗務している姿を見たかもしれません。金沢市場輸送の事務所が二口町に移ってからは、出会うことも滅多になくなっていたように思います。

二口町に移転した当初は、守田水産輸送のトラックが金沢市場輸送で給油をしていたこともありました。何があったのかはっきりした話を聞くことはなかったと思いますが、ある辺りを境に仕事の関係はほとんどなくなったように思います。

どういうわけかこれもはっきりした話を聞くことはなかったと思いますが、平成3年に入ったあたりでしょうか、輪島屋鮮冷とは多くはなかったと思いますが、仕事上の関係が出てきました。

輪島屋鮮冷の大型車の運転手と一緒に自衛隊の基地で爆弾の荷降ろしをしたような記憶も残っています。宮城県の岩沼市だったか、あるいはそれより福島県寄りの自衛隊の基地であったと思います。

輪島屋鮮冷の大型車が北陸ハイミールにミールを積みに来ていることもありましたが、それは平成4年の1月ころだったかもしれません。たしか福岡県行きのミールを積んでいると聞いたように思います。

平成3年の春頃には、なんどか冷凍物の小口の積み替えのようなことを、輪島屋鮮冷のトラックとの間でやることがありました。私がたまたまその場に見ただけで何度かあったので、けっこうな回数ではやっている感じでしたが、なにかよくわからないような仕事内容でもありました。

前にも書いたと思いますが、そんな中で被告訴人安田敏も輪島屋鮮冷の4トン車に乗って、金沢市場輸送に積み替えか何かの仕事に来たことがありました。

気がつくとまたしても見出しとはかけ離れた内容に突き進んでいたようです、どの辺りから外れていったのかも、ちょっと思い出せないぐらいです。

和田くんのことと山下強のことではあったと思います。いったんそちらの方に戻して説明をしたいところですが、どこからYTや三崎のHMの話になっていったのか、書いている自分でもすぐには思いさせない状態です。

まあ、山下強がもう一度、北陸ハイミールに倉庫移動の仕事に戻るような話になりかけたのですが、その日の倉庫移動の回数は彼が一番多くなっていたようで、そういうことをポツリと言いました。

明るく仕方がなさそうな感じでもありましたが、私の目にも被害者AAさんが独断で強引に、私以外の運転手に北陸ハイミールに行かせようとしているように見えました。それが裏駐車場の行動とも重なりましたが、少なからず他の運転手にも迷惑を掛けているだろうという自覚はありました。

その頃になると被害者AAさんは、自分の軽四を裏駐車場でも乗用車や2トン車を並べる側ではなく、大型車は4トン車を並べる側に多く駐車するようになっていたと思います。それは間違いないことですが、時期的なこととなると、今はっきりと思い出せない部分もあります。

Googleマップというかストリートビューや私が以前撮影した写真でも、大型車の姿というのは見当たらなかったので、わかりにくいと思いますが、長さの長い大型車は車体を斜めにして駐車する必要がありました。

これだとたとえ小型の軽四自動車の一台でも、かなりのスペースの無駄として邪魔になっていたのです。それは被告訴人松平日出男や被告訴人池田宏美の協力と同時に、被害者AAさんのわがままや身勝手な振る舞いとして映ることもありました。

ちなみに車検証を見ると大型車の長さというのは通常12メートルぐらいになっていました。4トン車でも私が中西運輸商で乗務していたものは荷台の箱の長さで9メートル20センチ。全体としても12メートルに10センチほど短いだけという感じでした。

市場急配センターの4トン車というのは4トン車としては標準的な長さだったと思いますが、正確に何メートルぐらいであったかとなると、記憶にはありません。平成4年当時は4トン車の数も少なかったです。新しいウィング車は2台だけだったような気もします。

砂利道の駐車場でもあり、大型車の駐車場としてはもともと狭かったようにも思います。長距離なので入れ替わりの駐車が多かったとは思いますが、他のトラックの駐車スペースにも気を使う必要があったと思います。

私は彼女の身勝手な行動で他の運転手に迷惑をかけるわけにもいかないと思い。二階に上がって、彼女に北陸ハイミールには自分が行くと伝えました。彼女は見たことのないような顔と目で、私の顔を下の方から見上げていました。精神的に参って神経が張り詰めているようにも見ました。

実際、彼女との関係では私自身そういうことが多かったです。精神的な負担が強く、神経が張り詰めているような感覚になりました。

怒っているようには見えなかったのですが、訴えかける目線というのか、そんなのを感じていました。この年末の彼女は特に、そういう不安定な状態が多かったと思いますが、泣き出しそうな顔を見せることもあったり、外をさまよい歩くような姿もあったと思います。

年末最後の大掃除の時であったと思いますが、いつまでも玄関のガラスの拭いているようなこともありました。私はそのすべてを彼女自身の内心の問題だととらえていたように思いますが、被告訴人池田宏美らの影響も大きなものがあったとも考えられます。

そのあたりのことは、また別の項目で書きたいと思います。裏駐車場と連動した自宅の電話に出ない対応にも関係していますが、彼女は19時ころを含め、電話に出ないことを「寝てたんじゃないか」ととぼけていました。常識でとぼけていたとしか考えられないことです。

結局、私は和田君と二人で北陸ハイミールに行くことになったのですが、私の大型ウィング車の助手席に彼が同乗しての付き合いだったと思います。

他に市場急配センターでの仕事では余り記憶にないことですが、私は日栄運送の前の道路を通って、突き当りの金沢港の道路を右折しました。

日栄運送の前を通ったであろうことはそれ以外の道がないということで間違いないと思うのですが、昭和59年当時を含めその道は、藤江の陸橋の辺りから側道に入り、金沢西高校だかの正面辺りを左折して田んぼ道を走るという裏道でした。金沢港に行くのによく使っていた裏道です。

金沢西高校というのもその前か後で学校の名前が変わっていたような気もします。あの辺りは近くに県庁が出来て移転したこともあり、原型をとどめないぐらいに様変わりしているのではと思いますし、いつ頃にどう変わったのかも、思い出せないところがあります。

金沢港の広い道にぶつかると通常は左折して県漁連の市場などに行くことが多かったのですが、その時は右折をして北陸ハイミールに向かいました。

後の方でも会社から北陸ハイミールに向かうときは、東インターの方に8号線バイパスを走って田中の交差点から内灘に向かい、内灘の陸橋の手前の広い道を右折して行くことが多かったように思います。その陸橋の手前の広い道が、金沢港からつながっている広い道です。

通った道のことなどどうでもいいのですが、ちょうど金沢港に出た道を右折するのに大きく大型車のハンドルを切り返していたところだったと記憶にあります。

不意にチューこと和田君が、「広野さん。嫁さんおらんかったら不便やろ。会社のAちゃんなんてどうや」と言い出したのです。私自身どのように受け答えしたのか、今はすぐに思い出せなくなっていますが、適当にごまかしたような返事で、会話の続きを打ち切るようにしたように思います。

彼とはその後も何度か付き合いがあって、彼の自宅というアパートに遊びに行ったこともありました。諸江と聞いたように思いますが、浅野川の土手の道路にも近い場所で、内灘駅に向かう電車の浅野川線の側ににあるアパートだったと記憶しています。

あと、1月12日の午前中、片山津温泉せきや、から戻るときも彼の乗用車に乗って帰ったことを憶えています。二人で帰ったと思いますが、なぜ二人になったのかとなるとおもい出せないところがあります。

何人かはそのまま福井県の三国ボートレース場に競艇をやりに行くという話も出ていたかと思いますが、誰が行ったのかもよくわかりませんでした。

和田くんは自分の乗用車で高速道路を180キロのメーターを振り切るようなスピードで走っていたので、会社に着くのも早かったと思います。それでもチェックアウトまでもたもたしていたところもあったので、10時頃にはなっていたかもしれません。

ほどなくだったように思いますが、3,4人の年配の市内配達の運転手に混じって被害者AAさんも帰ってきました。彼らの車に同乗して帰ってきたという様子でした。少しして休憩室の電話から諸江の女友達のところに電話を掛けているような様子もありましたが、細かい事実は思い出せなくなっています。

3月の14日ではなかったかと思われる土曜日には、和田君が苦しそうに裏駐車場でゲロを履いているような様子を見かけたこともありました。ピンポイントでその部分だけ現在の記憶に残っていますが、他にも何かあったような気はします。

夕方に西口が来て、そのあと被告訴人多田敏明の3人で北安江の焼肉店に行ったのも、その土曜日のことであったように思います。当日かどうか、被告訴人安田繁克のものらしい車を会社の前で見かけましたが、その姿はみかけませんでした。

被告訴人安田繁克のものと思われる車のことに関してはできるだけ詳しい状況を書いておきたいのですが、以前からインターネットで車種について調べておきたいと思っていたものの、まだ実行はしておらず、車種の名前もわかりません。

被告訴人安田敏が150万円とかで新車で買ったという車についても同様のところがありますが、被告訴人安田繁克の車はなんとなくトヨタの車だったという気がして絞り込みが出来そうですが、被告訴人安田敏の車に関してはより難しいかもしれません。

当時かなり珍しい感じのデザインの車で、第一次世界大戦当時のドイツ軍の軍用車にも見えるような車だったという印象は残っていますが、普段生活をしていても長年、それらしい車を見かけることはなく、すぐに絶版になったのかもしれないです。

Googleで画像検索をしていたところ、被告訴人安田敏が150万円で買ったという車は日産のパオという車ではないかと思えてきました。しかし、平成2年に生産を終了したという情報もあって、被告訴人安田敏は新車で買ったと話していたようにも思います。

日産・パオ - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/日産・パオ

後ろの方の見た感じが私の記憶とは違っているようにも思うのですが、水色の絵の具のような色の車というのは、当時珍しかったと思いますし、まさにこんな感じの色の車ではあったと思います。

日産・フィガロ - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/日産・フィガロ

上記の車だと「フィガロ (Figaro) は、日産自動車が1991年と1992年に販売していた乗用車である。」ということで時期的にも一致しそうですし、後ろの部分がそんな感じだったような気もするのですが、被告訴人安田敏の車は2枚ドアではなく4枚ドアだったような気もします。

被告訴人安田敏の買った車などどうでもいいといえばどうでもいいことなのですが、タイミングとして私が2月14日の白菜散乱のことで25万円だったかを被告訴人安田敏の50万円の前借りの保証人として会社に一括払いしてしばらくした2月の終わりか3月の初めの行動でもありました。

現在の私の記憶では北國銀行中央市場支店のATMで私が引き落としたのは多くて25万円、少なくて20万円なのですが、それは2月14日の午後のことで、12月の時点では被告訴人安田敏が理由をつけてまだ会社に一円も前借りを返していないような話を被告訴人松平日出男から受けたように思います。

私は20万円か25万円の現金を被告訴人松平日出男に渡し、被告訴人安田敏に関してはもう一切責任も負えないし、本人に自覚も反省もないので大きなことにならないうちにヤメさせたほうがいいと思う、などという話をしたと思います。

思ったよりずいぶんと手間取り、これだと思うものも見つけることが出来なかったのですが、被告訴人安田繁克の乗っていた車は、次の車の可能性が高いのではと思います。

【カーセンサーnet】「ハイラックス シングルキャブ」に関する中古車情報|中古車ならカーセンサーnet http://bit.ly/1rJr8jl

どうもダットサンというのは日産の車種で、それに近いモデルがトヨタではハイラックスということになるようですが、車種も年代ごとに細かい違いがあったり、輸入車なども混在しているようです。

歴代のダットサンの写真もGoogleの画像検索でかなりの数見たのですが、それらしい型式はなかったので、やはりハイラックスの可能性が高いかと思います。荷台の方の側面のボディにも丸みがあったような記憶がありますし、他にもデザインとして丸みを強調する部分はあったような気がします。

こうやって考えてみると、事件を起こしたのに近い3月の後半には和田君と会う機会も少なかったような気もします。事件当日に少しだけ姿を会社で見たような気もするのですが、いろいろと記憶の減退も改めて感じます。

前に書いたように福井県の鯖江市だかに向かう北陸道の尼御前サービスエリアで、和田君が事務員の探しているらしい話をしていたということは書いたと思いますが、よく考えてみると木村さんの紹介という話は出たのか出なかったのか、現在の私の記憶では判然としないところがあります。

それは私がミールを積んで徳島県小松島市に行ったのと近い時期であったとも思えてきました。その日のことは確か前後の運行の状況から日付も特定できていたように思います。

なぜだか日付が近いような気もしましたが、そうではなかったような気もしてきました。徳島に向けて出発した日は、なんとなく天候も悪かったような気がするのですが、そういう天気と同じようにめくるめく、彼女に対する見たかも変化の激しい時期で、一喜一憂でもあったと思います。

これも大事なところなのでまた別の項目でも記述をしておきたいと思いますが、被告訴人松平日出男は17時なるとすぐに帰宅しようとした被害者AAさんに、声を掛け次のように言いました。

「Aさん、今からKNさんのところか、それとも例の彼氏と今からどっか行くんか?」。

被害者AAさん本人の耳にはどこまで聞こえていたのかも不明ですが、出入口のドアから出ようとした時に声を掛け、彼女は足も止めず、振り返りもしないでドアの先の階段を降りて帰っていったように思います。

すぐに被告訴人池田宏美が困ったような声で、「あの子、彼氏なんかおらんよぉ」などと言ったところ、被告訴人松平日出男は自信ありげな意味有りげな口ぶりで、「わっしゃあ、いい彼氏紹介したんや。かたい。」などと言いました。

その時には被害者AAさんの姿は完全になくなり話が聞こえることもなかったと思います。あるいは階段を駆け下りる彼女の足音から、階段を降りて外に出て行ったことがわかるような状況であったのかもしれません。工事現場にも似たものがあるような鉄板の簡素な階段だったと記憶しています。

彼女は勢い良く飛び出すように帰ってきました。17時になるのをずっと待っていたような感じにも見えましたが、前後のことは余り記憶に残っていませんし、私はちょっと前に外から戻り、二階に上がったところだったようにも思います。今考えても何かあったという感じではあったと思います。

18時か18時半頃には徳島に向けて出発をしたように記憶しています。雨が降っていたような状況も一つの場面として記憶には残っています。たぶん重量オーバーでの検問を避けるため、遠回りですが金沢東インターから北陸道に乗ったのだと思います。

徳島県の小松島市のことはなんとなく記憶に残っています。荷物のミールを降ろしたと思われる場所の記憶というのはあまりないのですが、自衛隊の基地の前のようなところを通ったような記憶が残っています。天気も良かったと思います。

徳島というか小松島市で荷物を降ろすと、すぐに松山市に向かったように思います。あるいは金沢を出る前に松山に行くことは決まっていたのかもしれません。

午後の4時ぐらいには愛媛県の新居浜市のあたりにいたと思います。名前は記憶にないですが高速道路で、どこかのパーキングに入って、そこから会社に電話を掛けました。

今、ふと思い出したのですが、私は被害者AAさんが電話に出る時間帯を狙って16時以降に会社に電話をすることが多かったように思います。14時から16時前の時間帯は、金沢市場輸送に行っていていないことがあったとも記憶にありますが、これにも何か変化が出たことを印象的に憶えてはいます。

それは私が出先のことではなく、会社にいる時だったと思いますが、彼女は私のいない時間に合わせて、金沢市場輸送に仕事に行くようになったと記憶していますが、それも2月の初めに裏駐車場での駐車をやめたあとに、始めたことであったと思います。

これも細かいことは思い出せないですが、愛媛県内のパーキングからの電話でも、2月の初めの福岡県内からの電話の時と同様に、やたらと被告訴人梅野博之が電話に出て、面白がったようなわざとらしい対応をやっていました。

被告訴人梅野博之ほどではなかったとも思いますが、河野秀美さんも薄ら笑いを浮かべて面白そうに見物していることがありました。初めにそれをはっきりと感じたのは12月21日の夕方のことであったと思います。二階事務所の正面道路に向かって左側の隅の方に何人かでいましたが、彼の顔だけ特に。

事件後、金沢西警察署に面会に来た時の被告訴人安田敏の話であったと思いますが、その被告訴人梅野博之と河野秀美さんの二人が、私に対して厳しい意見を述べ、会社への復帰を反対したと聞きました。被告訴人梅野博之に至っては殺してやるようなことも口走っていたと聞こえました。

平成16年ころだったような気もしますが、被告訴人梅野博之との会話は録音したものを御庁に提出したと思います。被告訴人安田敏も被告訴人KYNも同様ですが、被告訴人安田敏とのやりとりが特に時間も長く、録音の回数もあったように思います。

ファイルは探せば今でもあると思いますが、私は少なくとも5年以上一度も聴いたことはないように思います。羽咋市から宇出津に戻ってからは一度も耳にしていないようにも思います。少なくともここ2,3年は全くないはずです。

平成4年4月1日の傷害・準強姦被告事件の事件当日のことですが、レストラン十字に入って席につき、早い段階で出た話だったと思いますが、被害者AAさんが、木村さんの紹介で事務員を入れるらしい、というような話をしていました。

それは彼女の後釜を意味するようにも受け取られたからです。そもそもこの当日も彼女の態度はめくるめく急変をしていました。そもそも被告訴人梅野博之や被告訴人池田宏美が不安を煽る発言と注意喚起をしていたからですが、それは彼らが供述調書において述べている事実でもあります。

4月1日に会うことになったのは、3月30日の午後に古河の青果市場から掛けた電話がきっかけでした。古河の市場には敷地の外の人がほとんど通らないような場所に、なぜか公衆電話の電話ボックスがありました。雨にも濡れないような完全な電話ボックスではなかったかもしれません。正面入口付近。

ようやくこの項目の主題を書いたと思いますが、同時に中野さんについても書くつもりでいました。木村さんと中野さんに面識があると聴いた話はなかったですが、その可能性は十分にありそうだと思っていました。

その中野さんですが、私が金沢市場輸送で東北便の仕事をするようになった早い段階で、その東北便の福井中継をやるようになった人でした。私の知る限り、ずっとその福井中継を続けていたし、事件の5日ほど前にはずいぶん久しぶりに姿を見かけたので、なおさら印象に強くも残っています。

私は昭和61年の秋にも頼まれて何度か、東北便に行くことがありました。当時は4トン車が主体の仕事であったようにも思います。時期的なこともあったかと思いますが、荷物も4トン車に十分に積載できるものであったと思います。

昭和59年に金沢市場輸送の4トン保冷者に乗務していた頃にも石巻港や塩釜港に行くことはありましたが、その定期便とは無縁だったと思います。

よく憶えていない部分もあるのですが、初めのうちは石巻の東北陸運の荷物と、塩釜港の宮城陸上の荷物の一部を積んでいたようにも思います。その頃には宮城陸上の自社便も大型車が運行していて、帰り荷に七尾市のスギヨからカマボコかその原料を運んでいるようでした。

宮城陸上の金沢便を全面的に請け負うようになったのは、私が大型の保冷車に乗務した後のことであったとも思えます。つまり昭和62年の4月よりあとのことです。そのうち東北陸運の荷物も増えていきました。

世の中にグルメという言葉も出てきて、食への感心が高まったという時代背景もあったのかもしれませんが、海産物の荷物の量もだんだんと増えていったような気がします。そのあたりのことは本書で前にも書いているかと思います。

そういえば数日前から思い出している人物ですが、河北郡内灘町付近にある地名と同じ二文字を書く人物がいました。何か読み方が違うような話も耳にしたように記憶にはあるのですが、誰かの冗談かと思って真に受けなかったような気もします。

基本的に無口で大人しい人でした。年もそれほどは離れていなかった気がするのですが、20代の後半かあるいは30代の前半と聞いていたようにも思います。顔は現在でも割とはっきり記憶しています。それだけ特徴もある顔立ちだったとは思いますが、能登ではわりといるようなタイプでした。

能登の出身とは聞かなかったように思いますし、金沢の人らしい話し言葉を使っていたような記憶も微かに残っています。一時は4トン車で長距離の仕事をしていたこともあるいはあったかもしれません。

市内配達の仕事をするようになって、そのうち何か責任のあるような立場で仕事を任されるようにもなったと耳にしたような気もします。そのうち鋼材を運ぶ大きな運送会社の社長の娘と結婚しているような話も耳にしましたが、そのうちに辞めたのか、全く姿を見かけなくなった気がします。

特になんということもないのですが、当時のことをいろいろと考えているうちに、その人のことも頭に浮かんできたのですが、はっきり思い出せない部分もあります。大人しく無口であった割に、色々と話が耳に入ってきたような記憶もあり、ちょっと不思議な存在感もあったかと思う人です。

そういえば最初のうちはその無口な人が、福井の中継もしていたように思います。ただ、その頃の福井中継は、受け持ちになっていた人の責任かどうかも忘れましたが、出てくるか出てこないか当てにならないようなところもあったような気もします。

そうこうするうちに中野という人が福井の中継をするようになったのですが、中野さんは休んだという話を聞くこともなく、毎日決まった時間に必ず、中継の場所にいました。トラックの中で寝て待っていることもあったかもしれませんが、必ずいるという感心感も当たり前のことになっていったと思います。

いるはずの福井中継の運転手がいなかったとか、来なかったという話は、現在の記憶では鮮明になりませんが、まあ、何かあったようなことだけは微かに記憶に残っているような気がします。

いつ頃からというのは思い出せないですが、だいたい昭和62年頃には中野さんはいたように思います。それからずっと福井の中継をやっていました。ポンコツの4トン保冷車で中継をやっていましたが、忙しい時期でもそんなに荷物の量が多くて積みこむのに困るようなことはなかったと思います。

わずかな荷物ということも多かったと記憶にはありますが、それで会社として採算がとれるものなのかと考えることもありました。中継の荷物というのは距離は余り関係なく1個50円というのが相場だと聞いていました。

そういう計算も得意ではなかったですが、真夜中に運転手を雇い。トラックの油代と高速代を払うのに見合うだけの、中継の荷物の量があるとはとても思えないことがあったからです。

今計算すると100個の荷物でも5千円にはなるので、どうかとは思いますが、他の運送会社の中継のトラックは、満載にも近いようなかなりの量の荷物を積み込んでいるのも見ていたからです。

金沢市場輸送の福井中継ではひざ下でも空きのスペースが多いような状態が多かったとも思います。なお、富山県の第二の都市、高岡行きの中継は、守田水産輸送に出していたと記憶にあります。

私の個人的な感想ですが、福井中継のその荷物の少なさも、中野さんの存在を不思議に思われるところがあったかと思います。会社としては他の利益もあってやっていたことかもしれず、いまさら詮索しても始まらないことですが。

中野さんは普通に見れば怖い人にも見えていたと思います。後から仕事に入ってきたということもあり、気を使った態度で接していたとも思いますが、それでも時折、怖い人に見えることもありました。話し方や態度はむしろ安心感を与えるものでもありましたが、それもかえって裏がありそうに思えたり。

中野さんは包み隠さずに、昼は喫茶店の仕事をしていて、夜にこの仕事に来ていると話していましたが、その喫茶店の場所を聞いただけで、普通の人ではなさそうだと思いました。

私の聞き違えという可能性も完全には否定出来ませんが、増泉の一丁目か二丁目で喫茶店をやっていると話、だいたいの場所を教えてくれましたが、だいたいそれらしい喫茶店を見たことがあるような場所でした。

私は昭和56年の夏、短い間でしたが被告訴人大網周一とその増泉一丁目の辺りで生活をしたことがあり、ヤクザ者のような人間がどれほど多い割合で住んでいるかもしっていました。その当時ともなると事情もある程度は違っていたのかもしれませんが、その付近の喫茶店というのは独自の雰囲気の店でした。

増泉の一丁目といっても少し離れると畑や田んぼもあったように思いますし、普通の人も多くは生活していたと思いますが、想定される客層とともに、喫茶店の店が持つ雰囲気が、特別だったからです。

木村さんも増泉でコンパニオンの派遣の仕事をしていると聞きましたが、それは市場急配センターに移ってからであったとも思います。誰から聞いた話なのか改めて考えてみたのですが、被告訴人安田敏から聞いたという可能性が、一番かもしれません。

木村さんの紹介で事務員が入るという話は、他にも耳にしていたと思います。はっきり思い出せるのは尼御前サービスエリアでの和田君の話でしたが、4月1日よりは一月以上前のことで、木村さんの紹介という話が出たことも、現在の私の記憶でははっきりとは思い出せません。

それにしても紹介で新しい事務員が入るような話は耳にしていたかと思うので、それが被害者AAさん本人の口から出たことは、それなりの効果もあったと思います。

レストラン十字で席に座ってからの彼女は、不思議に思えるほど、ちょっと前とは一変して安心した様子で、笑顔も見せて話をしていました。

直接会って話をするということは3月30日の古河からの電話より前に彼女との間で決まっていたようにも思います。

その古河から掛けた電話の少し前に、私は当日、古河から名古屋行きの荷物を積んで走り、夜のうちに名古屋の市場で荷降ろしを完了し、翌日の午前中か午後には、知多半島の碧南市からレンガか瓦のような荷物を積んで金沢に戻ることになっていました。

つまりは31日に碧南市から荷物を積んで4月1日に金沢かその付近で荷物を降ろし、運行が終わるということになったのです。そこですかさず私は金沢に戻ったら、あがりにしてくれと頼んだのです。

あがり、というのは帰り荷の荷降ろしを終えた当日、運行には出ないことを意味します。一応定時は17時になっていたかと思いますが、その時間まで会社にいて指示通りの動きをしていれば、翌日の朝まで自由時間ということでした。

普通の会社の仕事では17時に仕事が終わって家に帰ることはごく普通のことですが、長距離の仕事では、あがり、ということになっていました。当日の午後や夕方に荷物を積んで次の長距離運行にでることを「着発」とも呼んでいました。

たまには会社の指示で、前にも書いた馬鈴薯の積み込みの手伝いに出ることもありましたが、通常はトラックの修理、点検に出かけたり、洗車をやっていましたが、ほとんどは自由時間のようなものだったと思います。

金沢市場輸送にいた頃は、夕方遅くにホーム作業で積み込む雑貨の仕事も多かったので、夕方近くまで会社に出てこないこともありました。決まりでは昼過ぎに出てくることになっていたとも思いますが、次の運行がはっきり決まっていれば、さほどやかましく言われることもなかったと思います。

夕方からホーム作業で荷物の積み込みを始めても出発するのは22時ころとかで、夜通し走って荷降ろしをして、作業が終わるのは翌日の早朝ということも普通だったので、夕方の出勤というのも当たり前といえば当たり前のことかと考えてはいました。大手の運送会社でもそんな話でした。

古河の市場から北陸以外の運行というのはその時が初めてだったと思います。静岡県内でも浜松市の市場だったかに荷物を降ろし、名古屋の市場で荷降ろしを完了しました。

それから知多半島に走って、道路標識が碧南市に入ったあたりにコンビニがあってそのあたりは広い駐車場にもなっていたので、そこで仮眠をとりましたが、寝る頃には夜も明けて明るくなっていたと記憶しています。

午前中に起きて会社に電話を入れたところ、予定されていた碧南市での瓦だったかの仕事はなく、小牧市の方からアサヒの缶ビールを積むことになりました。小牧市までは名古屋市内を横断することにもなるので、それなりに時間も掛かったと思いますが、16時か17時前の明るい時間には滋賀県にいました。

小牧市から積んだアサヒの缶ビールの荷物は石川県の小松市降ろしでした。なんとか酒類とか言う会社であったと思います。金沢にも似たような名前の会社はありましたが、小松降ろしになっていました。

金沢市と小松市の距離は30キロ程度だったと思いますが、時間帯やその位置にもよりますが、早くて30分、余裕を見て一時間という感じかと自分は考えていました。一度、金沢の自宅アパートまで帰るのもいいのですが、翌日はあがり、ということもあり、疲れもあったので直接小松に行くことにしました。

金沢に帰ることを考えると往復で2時間ほどの時間が必要になるのですが、直に小松で荷降ろしをするとなると、時間もかなりの余裕が出来ました。その余裕が出すぎたことも悪かったのかもしれません。考え事をする時間も長くなってしまいました。

初め関ヶ原から国道365号線に入って福井方面に向かい、伊吹山を越えて滋賀県に入った辺りで、右手に食堂を見つけ、そこで食事をしました。初めて入った店だったとも思いますが、まだ16時台だったとも思われる早い時間でした。

その後、国道8号線で小松の市内を抜けたあたりにくるまやラーメンがあって、普通は大型トラックが入るような駐車場とも思えなかったのですが、荷降ろしの会社に近いこともあって、その店に入り、たぶん生ビールでも飲んで一気に眠るつもりでいたと思います。

ところが思いとは裏腹にだんだんと目が冴えてきて全然眠れなくなってしまいました。前の晩は、東名高速の御殿場インターチェンジ付近のサービスエリアでも数年ぶりの睡魔に襲われて、運転中久しぶりに危ない思いをしたところでもありました。

休もうと意識するうちに眠れなくなってしまい、そのうち疲れもたまっている状態なので、朝に寝過ごしてしまうことが心配になってきました。それで何時ごろかは記憶にないですが、夜中に荷降ろしの会社の場所まで移動し、そこで休んだのですが、余り睡眠は取れないまま朝になったように思います。

それでも予定通り朝一番に荷降ろしをすることは出来たと思います。それから金沢に戻ってまずは会社に顔を出しましたが、その時点で被害者AAさんの状態が普通ではなくなっているのに驚きました。何か攻撃的な態勢をも感じさせるものでした。

前の古河の市場からの電話で4月1日の夕方仕事が終わってから会って話をする、という返事をもらった時は、彼女は感情を表に出さず、なんでも受け入れるという態度で、何を言っても「はい、はい」と答えていたのです、それはやけくそでふざけている態度にも思えなくはなかったですが、穏やかでした。

それと時間帯的にも似たようなことが数日前にありました。現在の私の記憶だけでは分析も難しくなっていますが、古河から名古屋に行った運行の前の運行か、そのまた前の運行のことでした。3月24日より後のことでもあります。

現在の私の記憶では多分ということになりますが、加賀市の大同工業に栃木県宇都宮市行きの荷物を積み込みに行く直前だったと思います。午前中に行きの荷物を積み込みに行くという事自体、かなり珍しいことだったとも記憶していますが。加賀市の大聖寺まではそれなりの時間も掛かりました。

その大同工業に荷物を積みに行くことに関した用事であったかは現在思い出せないのですが、なにか用事があって被害者AAさんの机に近づいた時のことです。ちょうど彼女は中野さんからなにか報告を受けているような状況でした。

時刻は6月29日11時02分です。少し前まで強い雨が長い時間降り続けていましたが、ようやくあがったような感じです。少しですが、日差しも明るくなってきたような気がします。

さて、昨夜の続きです。平成3年3月の10日ころに市場急配センターの二階事務所で大幅な室内の模様替えがありました。模様替えというのが正しい言葉かどうかわかりませんが、机の位置などを変更しています。

とりあえず模様替えでいきますが、その模様替えで被害者AAさんの席というか机は、それ以前被告訴人松平日出男社長の机がほぼあった場所になりました。事務所の奥、正面道路側の窓際の位置です。事務所全体を見渡しやすい位置だったとも言えるかと思います。

昨夜の繰り返しになるかと思いますが、彼女の机の脇には中野さんが立って、何か報告のような説明をやっていました。そして、私が机に近づいていった時のことです。真剣な面持ちで仕事の話に看看を傾けながら彼女は下の方からおもむろにメガネを取り出し、そのメガネを自分の顔に掛けたのです。

私も驚きましたがよくある彼女の行動パターンなので、また新しいことを考えたのか、という感じでした。被害者AAさんが会社でメガネを掛けた姿というのは、それまで一度も見かけることがなかったからです。

事件後の彼女の両親のどちらかの供述調書のなかであったと思いますが、彼女は少し視力が弱くメガネをかけることがある、というような記載はあったように思いますが、なにか取り調べの警察官の誘導で出てきたような話に見えました。

それまで全く見たことのなかったメガネ姿の彼女だったので、メガネは演出のための小道具以外に考えられなかったです。さらにそのメガネを取り出して掛けたタイミングです。細かいことは思い出せないですが、似たようなことは他にも色々あり、これは特にわかりやすい例ではないかとも思います。

予想外の行動だったので私もそれなりには驚きましたが、むしろ側にいた中野さんの驚き様のほうがすごいと私の目には映りました。漫画に出てくるようなリアクションでした。

その時間帯ですが午前中の11時前かもしれません。長距離運転手である私が、二階事務所にいることは余りない時間帯ではなかったかと思います。

中央市場が休みではない限りは毎日同じことを繰り返しいるはずの中野さんの仕事内容なので、たぶん毎日同じ時間帯に同じように二階事務所に来ているものと考えられました。しかし、そういう場面を見たのは初めてに近いことで、中野さんの姿を見たのもずいぶんと久しぶりだったと印象に残っています。

なお、私は中野さんが以前の福井中継を続けていたという前提で考えていますが、福井中継をやめて他の仕事をしていたという可能性も十分にあると思います。

中野さんは市場急配センターという会社が独立する前から金沢市場輸送にいた運転手です。夜の数時間だけのアルバイトという印象もあったのですが、社員なのかどうか本人にも他の運転手に聞いたこともなかったので、わかりません。

東北便は早い時で夜の23時ころに金沢の中央市場に着いていたと思います。遅い時でも2時ぐらいでしょうか。年の瀬で荷物の量が多かったり、大雪で交通事情が悪くなれば、当然に到着時間も遅れがちになります。

前にも書いていると思いますが、東北便は年の瀬の一番荷物の多い時で大型車4台、4トン車1台ぐらいの荷物がありました。主な荷物はサンマ、タラ、銀鮭、マグロなどですが、貝類やウニ、カマボコなどの練り製品も多かったです。塩釜では北海道の苫小牧からフェリーで来た荷物も中継で積んでいました。

荷物の行き先は、新潟県の糸魚川市の市場、富山市の市場、高岡市の市場、金沢の市場、福井の市場でした。糸魚川市の市場と富山の市場は荷物を積んでいれば、直接立ち寄って卸していました。前に書いたと思いますが、高岡分は守田水産輸送に中継を出していました。

練り製品などは市場以外に、市場の近くの食品会社への荷降ろしが多かったです。石川中央食品、カナカン、イケウチなどがありました。色々と混載で降ろし場所の違いもあったので、慣れないと大変だったと思いますが、やっているうちいつの間にか慣れていたのでなってことはなかったです。

マグロはほとんどが木箱に入った一本物のマグロで大きい物は300キロありました。木箱は大量の氷も入っています。練り製品は濡れないようにする必要がありました。降ろしやすい順番を考えて積んでおく必要もありました。

荷扱には注意しなければならず、ウニの箱などは横倒しにするだけで50万円の弁償になると聞いていました。練り製品もびしょ濡れにすれば売り物にならなくなります。破損等も基本的に運転手本人が負うということになっていたので、自然に最大限の注意を払うという習慣も身についたと思います。

鮮魚に比べると青果というのは、余り気を使う必要もなく荷物の種類も多くはなかったです。トマトやスイカはそれなりに気をつけましたが、荷受けのほうが心得ているのでその指示に従って降ろすというのも多かったと思います。

大型車は積める荷物の量も多く扱う量も多いですが、気分転換の運動という感覚もあって私の場合、さほど苦になるものではなくなっていました。むしろ昭和59年に4トン車に乗務していた頃の方が、慣れていなかったためもあったのか、しんどく辛い思いをしたという記憶が残っています。

経験の積み重ねもあったのだろうと思いますが、普通に仕事をやっているつもりでも、高い評価を受けるようになっていきました。慣れない人や経験の少ない人だとやはり大変なのだと思いますが、楽をしていても経験は積めないというのが私の持論でした。

そういう意味でも仕事の選り好みというのはしないようにしていて、まあ、会社に言われるままの指示で仕事をしていました。

長距離運転手として鍛えられたのは中西運輸商にいた時でした。何度も危ない思いをしたり、劣悪な条件下であったり、限界に挑むようなことをやっていたので、飛躍的に経験値を高めることも出来たと思います。

中西運輸商ではほとんどが佐川急便の広島・九州便でした。当時の佐川急便の社風も軍隊的な特別なものがあったので、厳しいところもありましたが、積み荷に対する責任や時間の緊迫性は一番の仕事が厳しく、特に鮮魚は生物なので何かあったときの影響も大きいと聞いていました。

鮮魚では石巻・塩釜からの東北便が多かったですが、九州の福岡からもウロコ運送と交代で定期便をやっていましたし、青森便もやりました。九州からは大阪や東京の市場に行くことも多かったです。築地の市場は特別な厳しさもあって、色々と得難い経験も出来たと思います。

同時に私の場合、身体的なことで長距離の仕事には限界も感じていました。もともと視力が弱いのですが、目の負担も大きく感じるようになっていたからです。

時刻は7月3日5時59分です。数日ぶりの記述の再開になると思いますが、今日は用事があって朝5時に起きました。昨日はとてもよい天気だったのですが、今日は朝からどんよりとして梅雨らしいすっきりしない天気です。

この項目で書き上げておきたいと思いながら、思い出せなくなったことがあるようで、そのあたりもすっきりしないのですが、書いているうちに思い出すこともあるかと思います。関連した事実や問題の説明に移ると、元の対象の場所にもどるのが難しくなることがあります。

町内のキリコの組み立ての手伝いに行っていました。たぶん初めてのことかと思います。

明日4日と5日は、地元宇出津のあばれ祭りなのです。被告訴人らとも顔を合わせる可能性が一年で一番高くなる日かと思います。身体、生命に関する危険というのも高まる日かと思いますし、それも含めて今日に至っています。

この項目ですが、主に木村さん、中野さん、河野秀美さん、和田君、山下強について説明を交え事実関係を書いてきたかと思います。河野秀美さんと山下強に関しては、まだ書くことを予定しています。

河野秀美さんに関して重要なことは平成4年2月1日の夜、市場急配センターの休憩室にいたかいなかったかということもあるのですが、現在の私の記憶でははっきり思い出すことが出来ません。仮にいたとすれば、それ自体、かなり珍しいことかと思います。

2月1日の夜のことに関しては、被告訴人多田敏明と被告訴人安田繁克がメインになるので、そちらの項目で書こうと思います。二人が供述調書において決定的に事実とはことなる内容を具体的に述べているところであり、彼らの計画性と共謀共同正犯の関係を強く推認させる問題点でもあります。

そういえば山下強がトラックに乗務中のケンカで路上に頭を打ち、被告訴人安田敏が代わりに愛知県の豊橋に走ったという話を書きましたが、説明に不十分なところがあったかと思います。

まあ、何を書いたところで20年以上も前、岡田進弁護士が完全形式的に無視し、木梨松嗣弁護士が実質握りつぶしたような事実なので、検察、警察が動かない限り、陽の目を見ることはないかとも思っていますが、その必要性を社会に訴える告発という意義も大きいです。

どうも山下強は空車で豊橋に向かおうとしていたものと考えられます。彼の自宅が河北郡津幡町にあるということはその前から聞いて知っていました。津幡町は河北郡のなかで金沢市内にも近く一番大きな町かもしれません。富山県の県境にも近く国道8号線沿いという地理的な特徴もあります。

内灘町も河北郡で割と大きくて地元では誰もが知っている場所ですが、海水浴場もあって海に近いです。現在は無料化に伴い名称も「のと里山海道」とかに変更になりましたが、能登有料道路の内灘料金所もありました。

私は2009年の1月以来、一度も金沢市近郊には行っていないので、道路事情も変わっているかと思いますが、金沢市では北陸道という高速道路で金沢西インターと金沢東インターがあって、ちょうどその2つのインターの間は、北陸道の下に国道8号線バイパスが通っていました。

金沢から国道8号線で富山方面に向かうと、金沢東インターを過ぎてすぐ、バイパスは左方向へ、北陸道はそのまま直進して山間部の方向へと枝分かれしていました。さすがにこれは現在も同じかと思いますが、山側環状という新しい動労もできているので、以前ほど主要な道路ではないかもしれないです。

正確なことは地図を見て確認する必要があるのですが、枝分かれして8号線を少し走ったあたりは、金沢市福久という地名だという意識が強いです。他にも町内や地名はあるのだと思いますが、その辺りの大体の場所を指す会話でも、福久ということが多いかと思います。

富山方面というか津幡の方向から国道8号線を走ってくると、福久をこえてすぐ北陸道と交わるあたりで右にカーブしているかと思います。被告訴人安田敏の簡単な説明でしたが、山下強が頭に怪我をしたというのは、その辺だと聞きました。

また一つ思い出したことがありました、説明が途切れた部分の一つです。それは被害者AAさんの両親の供述調書のことです。現在、私が手元にある情報として確認しているのは父親の告訴調書ぐらいでしょうか。添付資料として写真も用意されているかと思います。

家のどこかにはあるだろうと思いながら見つかっていないのは、母親の供述調書です。少し特別な場所に保管しようと思って動いたことを微かに記憶しているのですが、それが仇となったのか、どこに保管したのか忘れてわからなくなってしまいました。2009年の秋頃かとも思います。

被害者AAさんの視力が少し弱くメガネをかけることがあることは、その母親の供述調書に記載があったように思うのですが、それも現物がどこにあるかわからないので、確認することができなくなっています。

なぜ、供述調書のなかに視力のことが記載されたのか、それも少しは気になりますが、身体的特徴というのはなるべく記載しておくというマニュアルがあるのかもしれません。

中野さんと被害者AAさんがメガネの件ですが、事件の5日ほど前のことであったと思います。他にもっと気になることや、重要と考えていたことがあったので、中野さんとメガネことはさほど意識しておらず重要な事実とも考えていなかったと思うのですが、それでも直近に近いので取り調べでも話したかと。

なお、被害者AAさんの母親の供述調書というのは、金沢西警察署ではなく金沢地方検察庁が作成したものであったようにも思います。

私の知る範囲、被害者AAさんの両親と被疑者である私自身の供述調書以外に金沢地方検察庁が作成した供述調書というのは存在しなかったと記憶にあります。社長であった被告訴人松平日出男ですらなかったと思いますが、その松平日出男だけが例外で期日を別にして2通の供述調書が作成されていました。

私自身、割と最近になって気がついたことですが、金沢地方検察庁というか江村正之検察官が裁判所に証拠として提出したと考えられる供述調書というのは、日付にむらというか偏りがあって、金沢地方裁判所に提出されなかった供述調書の存在がうかがえます。

これは本書において、前にも指摘した箇所があるかもしれません。その記憶にも自身が持てないので確実なものにしておくため、改めて指摘と掲載をしておきたいと思います。

Linuxの端末で対象ディレクトリに移動し「% ls -d -1 乙号供述調書」というコマンドを実行しました。次がそのスクリーンショットの画像のファイル名とツイッターの写真付きツイートのURLです。

2014-07-03-093430_% ls -d -1 *乙号供述調書*.jpg pic.twitter.com/RevlBzmxuU

端末というのはターミナルとも言いますが、文字ベースのコマンドを使ってパソコンに処理をさせたり、操作するものです。普通にWindowsパソコンを使っていると見ることもないと思いますが、Windowsにもコマンドプロンプトという似たようなものはあります。

パソコンといえばビジュアルな画面で主にマウスを使って操作するものという認識が主流かと思いますが、Linuxでは文字ベースの捜査が多いですし、慣れるととても便利なので手放せなくもなっています。

lsというのはファイルやディレクトリを表示させるコマンドですが、-dというオプションでディレクトリのみに絞りをかけています。見やすく縦一列に表示させるため-1というオプションもつけています。

実際は半角ですが*の記号は、全ての文字に当てはまるものです。正規表現だと直前の文字の0回または1回以上の繰り返しというパターンになるかと思いますが、これは正規表現ではなくワイルドカードなので、Windowsパソコンの検索に使う記号と同じ意味かと思います。

正規表現というのはより高度なパターンマッチですが、grepコマンドでさらなる絞り込みに使うことが多いです。ファイルの数も少ないので、肝順なワイルドカードを使いました。

lsコマンドを-dオプションのみで実行するとちょうど2行になったので、次にそのまま紹介します。

H04-04-02_乙号供述調書_金沢西警察署 H04-04-10_乙号供述調書_金沢西警察署 H04-04-14_乙号供述調書_金沢西警察署 H04-04-16_乙号供述調書_金沢西警察署 H04-04-29_乙号供述調書_金沢西警察署

H04-04-09_乙号供述調書_金沢西警察署 H04-04-13_乙号供述調書_金沢西警察署 H04-04-15_乙号供述調書_金沢西警察署 H04-04-18_乙号供述調書_金沢西警察署

これとは別にH04-04-01_自首調書_金沢西警察署がありますが、それ以外の乙号供述調書は全て谷内孝志警部補が単独で取り調べを行い、供述調書を作成したものです。他の警察官が取調室に入ってきた場面すら、記憶にないほどですが、お茶のようなものは持ってきたことがあった気もします。

現在の警察ではそういう対応はなされていないのではと思いますが、もともと随所にずさんさが見受けられる金沢西警察署の捜査と取り調べでした。ごくごく単純な事件として処理したようですが、最終的な判断は江村正之検察官がするという、おまかせ意識もあったのかもしれません。

4月3日から4月9日までの日付の供述調書というものが全く存在しません。個別に供述調書を何度見ていても、まったく気が付かなかったことですが、ディレクトリごとにファイルをまとめると、否応にも目に飛び込んできた現実でした。

ファイル名の先頭にH04-04-02というような日付を入れているのは、順番通りに並んで表示させるためでもあります。厳密に言えばパソコンの文字コードの順番になるのですが、英数字に関しては普通に規則通りに並ぶはずかと思います。漢字になるとほとんど意味のない並び順になるはずかと思います。

気をつけているのは、ここでは使っていないですが、連番をつけるときのことです。01などと桁を合わせて0で埋めておかないと、1の次が2ではなく11になったりして、意図したように並んでくれません。ディレクトリの中のファイルはそのように連番を使っているはずです。

金沢西警察署での取り調べが始まって少なくとも半月、だいたい20日の間は連日取り調べがありました。そして私の記憶では毎日午後から夕方、供述調書の作成が行われていたはずなのです。

当時は取り調べの意味もわからず、刑事裁判の仕組みも知りようがなかったですが、江村正之検察官が証拠調べを請求した供述調書のみが金沢地方裁判所に提出され、その全ての内容を私が認めたこととされていたようです。

金沢地方裁判所に提出されなかったということは弁護士人の目にも触れなかったものと考えられますが、私の手元にある、あるいはあった供述調書は全て、弁護人の閲覧しうる状況にはなっていたものと考えられます。

当時の私を含めた世間の常識では、弁護人が当然に閲覧つまり目を通していたものと考えていたと思いますが、まともな閲覧を弁護士に期待することがそもそも大間違いであった可能性もありそうです。儲けにならないことは目を背け、見向きもしないという習性も強そうな職種かと思います。。

本書でずいぶん前には書いているとは思うのですが、なくなるはずのない供述調書が相当の数、消失している可能性が高いです。大方は羽咋市のアパートに住んでいる間のことでしたが、処分するはずもないのに、なくなっているものが相当数ありました。

基本的には3部の供述調書がありました。最初は平成5年12月ころの時点で東京の国選弁護人斐川雅文弁護士から郵送で差し入れられたものでしたが、供述調書は全て縮小版になっていました。この縮小版に関しては、明らかに消失したというものを私は確認していません。

どこかにしまい忘れてしまったという被害者AAさんの母親の供述調書というのも、その縮小版であったと記憶しています。

これはとても重要な資料なので確認も兼ねて再度書いておきますが、斐川雅文弁護士から郵送されたものは、上告趣意書の下書きや法規に関する書籍のコピーを別にすれば、もっとも数が少なく最低限の供述調書のみであったと思います。

次に差し入れを受けたのは平成6年の11月頃のことでした。ちょっとややこしかったのですが、金沢地方裁判所の民事部から原告代理人の長谷川紘之弁護士の書証の控えとして送られてきたものと思われました。

民事での損害賠償請求裁判の提起に伴うものでしたが、当時も理解に苦しむところが大きかったです。自分自身で理解の出来ない問題だったので、適切な説明も対応も出来なかったと思いますが、真相解明の手段としてその役割を果たさなければならないのかと、考えるのが精一杯でした。

長谷川紘之弁護士に関しては、今でも理解の出来ない存在ですが、ずいぶんと侮辱的な対応にも思え、好意的に理解するという努力が自分の納得になることは決してなかったです。

拘置所も同じでしたが、舎房の室内に何かを持ち込むのは、物品の受領や保管とは別の手続きが必要でした。郵送での差し入れもそうだったと思いますが、領置という手続きがあって、これは刑務所側での保管にもなっていたはずです。

領地の時点では物の差し入れがあったという告知だけで、現物を見せられることもなかったと思いますので、手にすることが出来ません。

舎房内に持ち込むには別に「仮下げ」という手続きが必要でした。これは房内所持の許可を伴うものでした。扱いとしては郵送や面会で差し入れられた本や雑誌、また所内で購入した本や雑誌も扱いとしては同じだったと思います。

金沢地方裁判所の民事部から郵送されたのではないかと思われる書類は仮下げでの房内所持の条件として、独居房への転房が必要だと言われました。初めに差し入れがあったという告知から2,3日後のようになんとなく憶えていますが、それまでいた南寮306号の雑居房から北寮の独居房に転房しました。

独居房に移ると同時に、仮下げを願い出ていた裁判資料のようなものが与えられたのですが、量が多かったためか、どこの家庭でもあって洗濯物を入れることが多いと思われるプラスチック製の網カゴに入れられていました。サイズもよくあるサイズという感じでした。

2段に分けてその網カゴにちょうど収まるという分量であったと記憶しています。高さは少しはみ出す程度だったとも記憶にはありますが、高くて25センチぐらいかと思います。サイズとしてはほとんどがB4用紙の袋とじだったので、B5の用紙と同じサイズのはずです。

言い方を変えると2つの綴りになっていたと思います。用紙のサイズは当時の裁判所の定型であったB4用紙の袋とじです。はっきりとした時期は忘れましたが現在も同じと思われるA4用紙の横書きになったのは、平成11年より後であったと思います。

その民事で金沢地方裁判所から送られてきたと思われる書類に関しては書証とか書いて番号も振ってあったように思いますが、表紙の部分がどこにいったのかも現在わからないので、確認は難しいかもしれないです。

またその内容物ですが、ひと通りの供述調書は揃っていたように思いますが、多かったのは医学的なデータや病院の領収書などでした。医学的に専門的なことがいろいろと沢山書いてありましたが、あれもどこに行ったものか、長い間見かけていないです。

北寮の独居房に移ってからは、出所までずっと独居房の生活になりました。2階と3階のいずれにも展望になったと思います。そういえば被告訴人安田敏の知人と後になって聞いた二人目の班長も隣かその隣の独居房になったこともありました。

福井刑務所の北寮と南寮については、本書において以前詳しい説明を書いていると思いますので、詳しくはそちらでご覧頂きたいと思います。

独居房に転房になったのは平成6年の11月の10日ころとも記憶にはありますが、11月の初め頃であったというのは間違いないと思います。それから一週間も経たない頃であったと思いますが、示し合わせたように今度は母親を介して木梨松嗣弁護士から記録が届きました。

厚い紙の表紙のようなものに挟まれた一綴りの書面でした。表紙の部分には「一件記録」とかいう記載もあったように記憶しています。これは以前、デジカメで撮影し、インターネットでも公開していたようにも思うのですが、現在のところ私自身確認を出来ていません。

その編綴された書面はそれもほとんどがB4用紙の袋とじになっていたと思いますが、厚みというか高さが30センチに近いだけあったと思います。数時間前になりますがいつも釣ってきた魚の大きさを測るのに使ってる巻き尺で、だいたいの長さを確認しました。

金沢東インター付近で山下強が怪我をしたという話から、別の説明に外れていってしまったかと思います。しっかりと脈絡のある説明や事実ばかりではないので、思い出したことをを思い出した時に書くというのも一つの方針です。

はっきりいって私としては断片的にしかわからないことも多いです。弁護士による説明や話など、かき集めてもごくごく短い時間であり、簡素な内容でした。事実上の幽閉状態だったとも言えますし、人質司法を検察批判として攻撃する弁護士サイドから、その警察検察の落ち度も含め最大限の利用といえます。

木梨松嗣弁護士の刑事弁護にかこつけた権利侵害の攻撃性は、人の生命身体に向けた重大な法益侵害として、殺人未遂の法的評価に十分値するものだと考えておりますし、求める処罰は仮釈放もない無期懲役の一点のみ、娑婆終いの娑婆捨て峠が目標です。

必要な事柄に関しては漏れなく記載するというのが大前提なので、項目の振り分けにかかわらず書くことがありますが、なるべくなら見出しに対応した項目の内容で、おさらいのような触れ方は、少なくともするように心がけたいと思います。

やはり思い返してみたのですが、金沢市花里の被告訴人安田敏のアパートに行き、ネックレスのプレゼントを被害者AAさんに渡してくれるように頼みに行った時と、山下強の代走の電話があったのは同じ夜だったと思います。

ネックレスのプレゼントの事自体、まだほとんど説明をしていないと思いますが、私は直接ではなく、被告訴人池田宏美を通じて頼んでくれと、言ったように思います。実際、被告訴人安田敏からは後日それらしい説明も受けたのですが、被告訴人池田宏美の供述調書とは隔たりというか違いもあります。

平成3年12月21日が土曜日だったので、夜になって被告訴人安田敏のアパートに行って頼み事をしたのは22日の日曜日の夜だったと思います。思いますというか、カレンダーを見ればすぐに確認できることです。

Linuxにはcalという便利なコマンドがあって「% cal 12 1991」と端末でやると、すぐに曜日を確認することが出来ます。やはり土曜日になっていましたが、初めのコマンドの実行では勘違いして1992とやってしまいました。

他にはっきりと覚えていることは、12月24日のクリスマスイブの朝、私は東京都練馬区で荷降ろしをして、池袋あたりから首都高速に乗り、そのまま茨城県古河市の山三青果に向かったということです。

練馬区で降ろした荷物は、石川県七尾市の林ベニアから積んだベニアの荷物だったと思います。同じく七尾市の能登木材からは製材のような荷物を積むことが多く、どちらもほとんごが関東での荷降ろしというか、行き先が関東だったと思います。関東以外というのはちょっと思い出せないです。

これは七尾市に住む被告訴人東渡好信が紹介した仕事で、丸一運輸からの下請けのようでした。丸一運輸の会社事務所には何度か行きましたが、わかりづらい目立たない場所にある会社でしたが、ずいぶんと大きいのに驚きました。割合よく見かけるトラックではありましたが、目立たない感じでもありました。

一見すると、その丸一運輸の仕事を手土産に市場急配センターの配車係におさまって楽をするというのが被告訴人東渡好信の当初の目的と思われました。

ところが、平成4年になると被告訴人東渡好信は無断欠勤を繰り返したり、理解に苦しむ言動や、さらには精神病者を装う演技とも見える、態度振る舞いを見せることもありました。被告訴人東渡好信に関する多くの開設は輪島の浜上さんから聞いていた話でもありました。

そのような被告訴人東渡好信の言動や振る舞いは、被告訴人安田敏の非常識な言動振る舞いとも、似たような時期に足並みを揃えるところがあったかと思います。被告訴人安田敏のそれは憐憫を誘うような要素もあり、同情に持っていくような方向性がありました。

言い方を変えると、正論だけと私(広野)が厳しすぎて、被告訴人安田敏がいじけて悪い方向に進んでいるという印象操作がうかがえました。それは私と被害者AAさんの関係にも通じるもので、その場の状況に即し、効果的なものであったと考えられます。

平成3年12月21日は、七尾市でベニヤか製材の積み込みに行ったことも微かに記憶に残っています。積み置きの関東行きの荷物で、月曜日降ろしだったと考えられます。ベニヤや製材の荷物で、日曜日に荷降ろしをしたという記憶はありません。建設現場でも荷おろしというのもなかったと思います。

ベニヤは倉庫降ろしもあったと思いますが、製材はほとんどが木材店のような敷地での荷おろしでした。事務所の建物自体は小さいのに、敷地がかなり広いという共通した特徴もあったと記憶しています。

ベニヤに関しては東京都の東大和市に行ったこともありましたが、時期の記憶がはっきりしないものの、被告訴人東渡好信の紹介というかあるいは周旋で七尾からの仕事を始めた最初の頃であったようにも思います。

神奈川県に大和市がありますが、東大和という地名を知ったのはその時が初めてで、どこがどう違うのかと考えたことも頭の片隅に残っています。大和市の近くには綾瀬市というのもありますが、柳瀬というのは似ていると考えてこともありました。

ヤナセといえばドイツ車の関係で当時既に知られた会社だったと思いますが、被告訴人安田敏の説明で柳に瀬と書いて「ヤナセ」と読むのは、なるほどと思ったのも印象的でした。妻になった彼女の名前だと被告訴人安田敏は言っていました。

結婚するというより12月の25日ころが予定日で子供が生まれるという話を被告訴人安田敏はしていましたが、それも12月に入ってからであったかもしれません。あるいは11月中ですが、話を聞いてから出産までの間というのも、余りなかったという印象が残っています。

被告訴人安田敏のアパートにちょくちょく行っていたのは、まだ市内配達の仕事をやっていた頃で、9月より前が多かったと思います。12月22日の夜まで、その妻となった彼女が私に対して、頑なに顔を見せないようにしていたことは、本書でも既に書いている部分があるかと思います。

父親の遺影のことや、金沢市諸江の辺りに住んでいたということはまだ書いていないように思います。いちおうアパートということにしていますが、民家の二階をまるごと間借りしているような住居でした。内装はアパートにしか見えなかったですが、外から見るとアパートには見えなかったと思います。

金沢市花里のどのあたりか、前にGoogleマップで調べたこともあったのですが、車で通っていた道はだいたい記憶にあるものの、住宅地図ではどのあたりか、はっきりわからないところがありました。

前には割と広い道路があって、その斜め前のあたりに、団地のような建物があって、被告訴人安田敏はそれを警察官の家族が住む団地と話していたように思います。あるいは別の公務員ですが、後日新聞で見た情報も私の記憶に混じっているのか、検察官か裁判官の官舎という話もあったかもしれないです。

花里というのは地図上の範囲も狭かったと思いますが、町名としても聞くことがなかったので、石川県民でも知らない人が多いかもしれません。涌波の近くと言ったほうが、通りが良いかもしれません。

時刻は23時42分になっています。朝起きるのが早かったためか久しぶりに長い一日だと感じています。夕方には姫の高倉漁港にアジ釣りに行ってきました。夕方の遅い時間から雨が本降りになり、ずぶ濡れになりました。

さきほど思い出したことですが、平成4年3月30日と思われる午後、古河の市場の電話ボックスから電話を掛けた時、被害者AAさんは、なかばやけを起こしたような、抗議の気持ちを全面に打ち出すような態度で、私の問いかけに対して、すべて「はい、はい」と答えていました。

時刻は7月4日6時55分になっています。たまたま早く目が覚めたのですが、天気もすっきりしません。インターネットの天気予報を見ると今日の15時ころに強い雨が降りそうです。

涌波が出たということで書いておきたいこともあるのですが、実名で書くかどうか迷っていました。関係者の関係者ということにもなるのですが、仮名にしておこうと思います。

事件との直接のつながりは見えないものの、今後の対応を含め地域社会的にも影響の想定される人物の関係者なので、正確な情報データとして、実名にしておくことも検討したのですが、仮名にしておこうと思いました。

その人物とは堂野さんのことです。現在市場急配センター株式会社の社長になっている可能性のある人物ですが、同一人という確認はしておりません。軽く9割以上の確率で、普通に考えて同一人の可能性は高いと考えますし、そういう前提でも取り組んでいきたいと思います。

まず堂野さん自身ですが、平成10年11月20頃の時点で、自ら市場急配センターの労務の担当者として、私の事件や裁判について話を聞く必要があると言っていました。被告訴人松平日出男を交えて3人で会見をした時のことです。

次のようにcalコマンドで確認したところ、22日が日曜日なのでその日だった可能性が高いと思います。→ % cal 11 1998

堂野さんは平成15年以降においても、被告訴人安田敏との接触がうかがえました。それは被告訴人安田敏との会話から出てきた話でしたが、私がインターネットで市場急配センターを舞台にした事件について情報を公開していることについて、名誉毀損で訴えることもできる、と言っていたそうです。

当時の被告訴人安田敏との会話の全部ではないですが、主要な部分はICレコーダーに録音し、それを御庁にも提出したと記憶しています。音声ファイルとして当時はCDを使って記録媒体として提出したかと思います。

そのどれぐらいか前の時の被告訴人安田敏との会話ではなかったかと思いますが、堂野さんが運転手として市内配達をしているとも被告訴人安田敏は語っていたと記憶しています。

被告訴人松平日出男は一回だけ金沢刑務所の拘置所に面会に来ましたが、パンツなどの雑貨を数点差し入れてくれました。それも領置ということで告知があり、帳簿のようなものに指印を押すひつようがあるのですが、そこには職業として「会社従業員」と書いてあったのがとても印象的でした。

平成4年8月18日の面会ではなかったかとも思うのですが、木梨松嗣弁護士が初めて接見に来た日と近接していて、同じ日であった可能性もあるかと思います。その辺りは京都の親戚の面会ともかぶって刑務官に注意を受けたことなど、前に本書で説明を書いた部分もあると思います。

私は平成4年と平成11年の2回、金沢刑務所の拘置所に入りましたが、平成12年の11月頃から平成13年12月31日の満期出所までは、金沢刑務所で受刑もしています。思えば金沢刑務所での受刑中は、母親の面会も一度もなかったと思います。足が悪くなったとは聞いていました。

北九州市など大きな規模の都市になると刑務所と拘置所は別の施設になるらしいのですが、金沢のような地方都市では刑務所の中に拘置所がありました。刑務官というか職員もほぼ同じだったと思います。たぶん面会室も同じだと思います。

平成4年6月30日の金沢地方裁判所での公判の時だったと思いますが、絶望視していた被害者AAさんの意識が戻ったと、公判の初めに江村正之検察官から説明がありました。それで一転して気を取り直し、事件に至った経過について深く考えるようになりました。

それまでは拘置所の独房にいても、こぼれ落ちる砂のように思考の像がまとまらない状態でした。

それは予想を超えた形勢の逆転にもなっていたようです。

金沢西警察署から金沢刑務所の拘置所に移送されたのは平成4年5月28日でした。本来は初公判の期日指定になっていた日付なので、これはよく憶えています。

独居房に入る時、あるいは入れられた直後、連行された若い刑務官に、「突然、大声を出したくなるかもしれないが、決して大きな声を出さないように。」と言われました。それだけ不安的な精神状態に見えたのかとも思います。

当然ですが拘置所というのは人の出入りがあります。土日祭日の免業日の決まった時間帯にはラジオ放送も流れますが、平日の日中というのは昼食後の短い時間のラジオ放送だけだったと思います。

たまに草刈機の音がうるさく聞こえますが、ほとんどは静かな状況なので、新規に独房に入る人に刑務官が説明をする声も聞こえることが何度かありましたが、私のように大声を出すなとか言われているのは、聞くこともなかったと思います。

被告訴人松平日出男の面会ですが、金沢西警察署では4,5回あったと記憶しています。少なくとも4月中に2回、5月中に2回はあったと思います。

同じ金沢西警察署の留置場での生活でしたが、4月と5月ではかなり違いもありました。当時は理解していなかったことですが、起訴後には取り調べがほとんどなくなっていました。ある日を境にぴたりと取り調べの呼び出しがなくなったので、変だとは思っていました。

5月の前半だったと思っているのですが、被告訴人松平日出男が被告訴人浜口卓也を連れて二人で面会に来たことがありました。被告訴人松平日出男は私からの問い掛けの機会を減らすために、被告訴人浜口卓也を連れてきたという感じに見え、安堵の表情がうかがえました。

被告訴人浜口卓也がしみじみと「ヤマにあがるんやな」と口にしたのが印象的でしたが、どうも金沢の暴力団の世界では、金沢刑務所や拘置所のことを、ヤマというようです。地理的には富山県との県境の山間部にも近いとは思いますが、山という意識はなかったです。

金沢刑務所といえば、田上として知られていました。だいたい場所は人から聞いていて、近くまでは市内配達の仕事でも行くこともあったのですが、実際にその前まで行ったのは、中に入る時が初めてでした。

今思い出しましたが、たぶんまだ書いていないことです。山下強がケンカで路面に頭を打ったという話を聞いた時も、すぐに思い出したのは被告訴人浜口卓也の傷害事件でした。

市場急配センターで仕事をするようになって半年も経っていない頃だったという記憶もあるのですが、前後に被告訴人浜口卓也と会わない期間が割と長かったという気もします。誰から聞いたのかも不思議と思い出せないのですが、金沢市場輸送にいるときに聞いた話であったことは間違いないです。

片町の飲み屋とも聞いたように思いますが、見知らぬ相手とケンカになり、頭蓋骨骨折の怪我を負わせたという話でした。それで警察の留置場に入ったとも聞きましたが、10日間入っていたとも聞いたので、当時は知らないことでしたが勾留延長はなかったものと考えられます。

罰金刑になったともその後で聞いたように思いますが、その後もしばらくの間、被告訴人浜口卓也本人に会う機会はなかったので、直接その話を聴くことはなかったと思います。

金沢市場輸送の運転手でも、輪島のMYやYAは、被告訴人浜口卓也のことをよく知っているという感じでしたが、小木港の遠洋漁業で知り合ったという感じでした。新保のKOも同じく知っているようでしたが、嫌いというだけではなく何か個人的に恨みつらみがあるようにも感じる話しぶりでした。

基本的に金沢市場輸送と市場急配センターの運転手の接点というのはほとんどなかったと思います。強いて考えると、橋渡しのような話題を持ってきた人物として当てはまりそうなのは、被告訴人松平日出男ぐらいかと思います。

そういえば輪島のMYも金沢市場輸送で麻雀をやっていたことがありました。ここで書いておく必要を感じながら、機会を逸したうえ忘れていたことを思い出すことが出来ました。形式にこだわり後回しにしていると忘れたまま終わっていたかもしれません。思い出すこともなく。

一時期で半月から長くて一月ぐらいの間であったと思いますが、MTの紹介で輪島のAという人物が大型の平ボディ車に乗務していたことがありました。MTと一緒に麻雀のメンバーとして参加している姿を、2,3回見たと記憶しています。

無口なタイプで会話をしている姿も見かけなかったので、それだけ目立たない存在でもあったのですが、確か大型の平ボディ車に乗務しているような姿は、別に見ることもあったように記憶に残っています。

見かけない顔でしたがMTと並んで麻雀をし、年格好も似ていたので、友達を連れてきているような雰囲気は感じていました。たぶんになりますが、輪島のYAから聞いたのだと思いますが、その名前を聞いた時は驚きました。

昭和58年の秋に聞いていた名前でした。◯田という名前で◯の中の感じは、たぶん小学校の低学年で習う誰でも知っている馴染みのある漢字ですが、その一文字の漢字自体、名前に使われることは少ないと思いますし、◯田という名前は後にも先にも他に聞いたことのない名前なので、印象的でした。

すでに何度か説明を書いているはずですが、場所は藤江の陸橋近くの輪島の暴走族の溜まり場でした。そこには被告訴人安田敏と一緒に何度か行きましたが、常に10人以上の若者は集まっているような溜まり場でした。

何人かに分かれて思い思いの会話をするような助右喬でもあったのですが、半分はたまたま耳に入ってきた話でした。その場にいた一人が輪島の○田という男に何か詐欺の被害にあったような話をして不満と焦りをぶちまけていたのです。本人にすれば相当深刻な被害という漢字でした。

その場には神野のKMがいたと思います。その溜まり場には被告訴人安田敏と3回ぐらいは行っていたと思いますが、KMが一緒だったのはたぶん一回だけだったと思います。その場にKMがいなければ、聞き流し、なんの話か知ることもなかったと思います。

神野のKMについてもこれまでに説明を何度かやっていると思います。山水運輸にいたことなども書いていると思います。姫のNKさんとも、彼を間にいれた付き合いが多かったとも思います。

彼は中学校の同級生でしたが、中学生の頃の彼はテニス部の部活にも熱心な様子で、クラスも一緒になった憶えもないので、中学校の頃の付き合いというのはほとんどなかったと思います。なお、当時の能都中学校のテニス部というのは全国大会で優勝することもあるような実力でした。

KMとの付き合いが多くなったのも高校に入ってからだと思います。35年近くも前の話になるので、細かいことは思い出せないですが、宇出津の城野町のHSのところで会うことが多かったと記憶しています。

当時私は石川県立水産高校小木分校に通っていましたが、神野のKMは柳田農業高校に行っていました。能登では他に聞いたこともなかったのですが、全寮制の高校だと聞いていました。休日以外には会う機会もなかったと考えられますが、その割には一緒に遊ぶ機会も多かったように記憶にあります。

彼も学校の勉強より、遊ぶことを優先する遊び仲間でしたが、彼も私が被告訴人大網周一とともに小立野の金沢少年鑑別所に入っている間かその前後に、高校を退学したはずです。城野町のHSも前に書いたHMも同じ頃に水産高校の本校を自主退学しています。

被告訴人大網健二も同じ頃でしたが、彼の場合は8月28日のシンナーの事件で、金沢高校を一発退学になったと聞いたように記憶しています。金沢高校をやめたことで被告訴人大網健二は宇出津に戻り、宇出津を中心に生活するようになりました。

神野のKMと被告訴人大網健二の付き合いが始まったのも、私が鑑別所に入っている間であったと思います。KM自身がHMらと金沢に遊びに行っていたことを話していました。七塚のMKや東金沢のMSらがいたらしい溜まり場です。

神野のKMと被告訴人大網健二の付き合いというのは、城野町のHSや私を介したものが多かったと思います。もともと気が合わない関係というか、根本には被告訴人大網健二の差別意識があったものと考えられます。

それは被告訴人大網健二や被告訴人大網周一に限った話ではなく、私が子供の頃にはまだ割と強く残っていた風習にも近いものなのですが、宇出津には近隣の農村部の地域や農家を「ザイゴ」と呼んで蔑視する傾向がありました。

具体的な対象としてわかりやすかったのは柳田村や神野です。神野と言ってもこれは地区と思われ、地名ではないとも考えられるので地図を見てもわからないかもしれません。姫や真脇を高蔵地区と呼ぶのに似ているとも考えられます。

具体的には宇加塚、藤ノ瀬、鶴町、曽又等の集落の総称として神野と呼ばれていたかと思いますが、神野小学校というのもありました。同級生でもほとんど例外がないぐらい家が農家だと聞いていました。現在でもほとんどが田んぼのような風景です。

神野公民館 - Google マップ http://bit.ly/1mYnguD

神野公民館というのをGoogleマップでみつけましたが、鶴町が神野の中心部だとも聞いていました。神野小学校があったのも鶴町でしたが、ずいぶん前に廃校になっているものと考えられます。

地図をみると宇出津のすぐ近くに見えるかと思います。宇出津と輪島市内も地図を見ると近くに見えますし、距離的にもさほど離れていないはずですが、子供の頃の感覚が抜けないのか、全国を走った長距離運転手の経験もあるものの、未だに輪島というのは遠いところという感覚があります。

神野は地理的に柳田村にも近いですが、買い物などはほとんど宇出津に来ているものと考えられます。柳田村となると地理的に輪島市により近いということもありますが、それだけに輪島の方との交流も多いとは聞いたことがあります。

輪島市でも町野という辺りは、風景も町並みも柳田村に似ていたので、生活スタイルを含め、湊町の宇出津よりは共通する部分も多いのかと考えられます。その辺りは個々人の性格や習慣などにも現れている部分はあるかと思います。

その一つの括り方が「ザイゴ」という差別意識にもつながっていたのかもしれません。私自身、母方が京都の親戚なのと、宇出津の父方の親戚との付き合いも中学生になった頃にはほとんどなくなっていたので、同じ宇出津でも感覚が根本で異なっているのかもしれません。

被告訴人大網健二や被告訴人大網周一の場合は、宇出津の中心部に住んでいたので、なおさらその傾向や意識が強かったのかと考えられますが、そういう傾向は同じ世代では珍しいぐらい、残っていたと思います。

そんな感覚も成人してからはなくなっていたと考えられますし、やはり性格的に合わなかったことも考えられますが、神野のKMと被告訴人大網健二の付き合いというのは聞いたことがなかったです。

二人だけの関係で考えれば何でもない話なのですが、結婚した妻同士がとても仲の良い関係だったので、その辺りはどうなのかなと考えるところがあります。前に書いていると思いますが、被告訴人大網健二の結婚式にもKMの妻は出席していました。

学年としては私の2つ年下になるのですが、上の世代や下の世代のことを考えても、とりわけて仲が良いというか、結びつきの強さを感じさせる関係がありました。

神野のKMは柳田農業高校に行っている当時にも、多少輪島の方と付き合いがあったようです。輪島の方から来ている同級生がいるような話もしていたかと思います。地理的に近い分だけ、輪島に対する関心や親近感も強かったのかもしれません。

現在は廃校になっているのかと思いますが、輪島には町野高校がありました。町野の町は柳田村との境にも近いですが、町野高校はその町野の町からは離れていて、海に近く、観光地でもある曽々木海岸の側にありました。建物は現在でもそのまま残っていると思います。

町野自体が輪島市でしたが、それよりはいくぶん近い輪島高校の辺りも、輪島の中心部からはけっこう離れていました。宇出津から柳田村を通って輪島市に向かうのに、海岸線の国道にぶつかったところが曽々木で、左に行くと輪島市内、右に行くと珠洲市です。

私自身最近になって改めて気がついたことですが、曽々木の交差点から宇出津に向かうとすぐに看板があって、宇出津まで22キロと書いてありました。柳田村までは13キロになっています。距離をみるとずいぶん近く感じるのですが、やはり遠く感じるところです。

私の同級生でも町野高校に行ったのは一人だけだと聞いていました。極端に大人しく無口な生徒だったのでなぜ町野高校を選んだのか話を聞くこともありませんでした。

私の一つ上の学年でも男子が一人、町野高校に行ったのですが、その話を聞いた時は、なぜ誰もいかないような遠い高校を選んだのかと不思議に思いました。TUという名前でしたが、割とよく一緒に遊んだ時期もありました。

私が能都中学校の相撲部に入部するきっかけにもなったHMを介した付き合いがあったのです。二人は同級生にもなります。TUもその頃は近所に住んでいましたが、まもなく宇出津の錦町の方に引っ越して行きました。

HMとは私がちょうど辺田の浜から宇出津の小棚木という町内に引っ越してきた頃に、たまたま赤灯台の海岸で知り合い、仲良くなりました。引っ越してきたのが小学校5年の春で、出会ったのが夏であったと思います。

彼もわりと最近に金沢市から転校してきたと話していたように記憶しています。他の宇出津の子どもとは異なる雰囲気もありましたが、なぜか気もあってよく遊ぶ関係になりました。同じ町内でもありましたが、家はそれほど近くはなかったです。

当時は宇出津の町内で大棚木が一番大きく、小棚木が二番めに大きいと聞くこともありましたが、その後、大棚木でも遠島山公園に近い部分は、城山という町内として独立したという話を聞いたこともあるので、現在は小棚木が一番大きく広いのかもしれません。小さい町内は家が20件とも聞きますので。

HMとの付き合いがなくなってからは被告訴人大網周一らの不良グループで目立つ存在にもなっていました。再び付き合いをするようになったのも、昭和56年の秋以降だったと思いますが、HMだけでなくその同級生も以前とは違い被告訴人大網周一とは距離を置くようになっているという感じでした。

昭和58年の春頃でしょうか。その頃になるとHMと私の個人的な付き合いというのもはとんどなくなっていたように思いますが、金沢市藤江の外れにあったHMの借家にもちょくちょく遊びに行く機会は昭和57年の頃からあったと思います。それも神野のKMと一緒が多かったとも思います。

それには別にはっきりした理由もあって私は昭和57年の6月に1年間の免許取り消しになっていました。たまたまHMを後部席に乗せていた時に78キロのスピードオーバーで捕まり、当時は12点の減点だったと思いますが、他に点数も引かれていたので一発取り消しになりました。

金沢西インターに近い2つ年下のMKのアパートにいるときに、HMに出会い、一緒に松任方面に行った帰りに捕まったことも記憶に残っています。天気の良い日で、捕まる前にたまたま松任警察署の前を通ったことも記憶に残っています。

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