令和5年7月7日付 告発状 金沢地方検察庁御中

告発状

 

〒920-0912金沢市大手町6番15号 金沢地方検察庁御中

 

被告発人 金沢弁護士会所属 木梨松嗣弁護士

被告発人 金沢弁護士会所属 岡田進弁護士

被告発人 金沢弁護士会所属 長谷川紘之弁護士

被告発人 金沢弁護士会所属 若杉幸平弁護士

被告発人 元名古屋高裁金沢支部裁判長 小島裕史

被告発人 元金沢地方裁判所裁判官 古川龍一

被告発人 松平日出男

被告発人 池田宏美

被告発人 梅野博之

被告発人 安田繁克

被告発人 安田敏

被告発人 東渡好信

被告発人 多田敏明

被告発人 浜口卓也

被告発人 大網健二

被告発人

〒920-0931 石川県金沢市兼六元町3-14 野田政仁法律事務所

野田政仁弁護士

被告発人

〒924-0885白山市殿町48番地 弁護士法人兼六法律事務所白山事務所

小堀秀幸弁護士

被告発人

茨城県水戸市大町1-1-38

水戸地裁部総括判事・水戸家裁部総括判事・水戸簡裁判事

小川賢司裁判官

被告発人

金沢大学教授(当時)

山口成良金沢大学教授


 被告発人らの所為は、市場急配センター(所在地: 〒920-0025 石川県金沢市駅西本町5丁目10−20)における殺人未遂の共謀共同正犯として法的評価すべきもの,また,弁護士、裁判官らの立場と職権で犯罪事実を隠ぺいした事後共犯であると思料するので、犯情甚だ悪質につき、無期懲役刑を含む厳重な処罰を求め、ここに告発に及びます。




被害者

〒921-8035 石川県金沢市泉が丘二丁目一番三三号

安藤文

告発人

〒927-0431 石川県鳳珠郡能登町宇出津山分10-3

廣野秀樹


令和5年7月7日




第1.        告発の事実

1.         平成4年4月1日当時、被告発人松平日出男は市場急配センターの代表取締役社長、被告発人池田宏美は同社事務員、被告発人梅野博之は同社、事務員兼運転手、被告発人安田敏は同社社員運転手、被告発人東渡好信は同社配車係、被告発人多田敏明は同社社員運転手、被告発人浜口卓也は同社運転手、告発人廣野秀樹は同社社員運転手、被害者安藤文は同社事務員として稼働していたものです。

2.         告発人廣野秀樹は、平成3年5月か6月の22日頃から市場急配センターで仕事をするようになりましたが、平成元年の秋頃、市場急配センターが独立して別会社になるまで同じ会社であった金沢市場輸送で大型トラックの長距離トラックの運転手をしていました。市場急配センターが分離独立するまで、竹沢俊寿が金沢市場輸送の社長で、市内配達の部門が市場急配センター株式会社として独立し、その社長となったのが被告発人松平日出男、金沢市場輸送は配車係をしていた本恒夫が配車係を兼任したまま社長になり、竹沢俊寿は金沢市場輸送と市場急配センターの会長となりました。

3.         市場急配センターが別会社になったあとも事務所や運転手の休憩室は同じだったのですが、平成2年の春頃に新社屋が出来て、そちらに移っています。

4.         被害者安藤文の入社は新社屋ができたあとのことと記憶しますが、平成2年の4月頃と記憶します。当初、パソコンのデータ入力のため主に午前中、金沢市場輸送の事務所に出入りをしていました。

5.         告発人廣野秀樹が初めて市場急配センターの事務所に入ったのは平成3年の4月頃で、その時に初めて、金沢市場輸送にパソコンのデータ入力に来ていた被害者安藤文さんが、市場急配センターの事務員だと知ったように記憶します。金沢市場輸送の長距離トラックの運転手の間では、不思議なほど話題になることのなかった女性になります。

6.         告発人廣野秀樹が金沢市場輸送をやめて市場急配センターで仕事をするようになった経緯の詳細は省きますが、このきっかけとなったのが被告発人東渡好信が中心になって引き起こしたストライキと、そのストライキの最中に連絡を寄越してきた被告発人安田敏の入社になります。

7.         平成3年4月の終わり頃(以下、特に断りのない場合、4月から12月は平成3年を1月から3月は平成4年になります)、金沢市場輸送で被告発人安田敏の面接があり、被告発人安田敏は大徳自動車学校で大型免許の講習を受けながら市内配達の仕事をするようになりました。

8.         被告発人東渡好信の金沢市場輸送への入社は、平成2年の9月か10月です。大型トラックの長距離トラックの運転手をしていました。この被告発人東渡好信の入社で金沢市場輸送の会社内の雰囲気もずいぶん変わったのですが、かなり非常識な振る舞いをする人物で、金沢中央卸売市場の石川丸果の売り場で、荷受けの男性の首根っこをつかんで、キャベツの段ボール箱の中に顔を押し込むこともありました。

9.         私の記憶では5月なのですが、入手の経路が不明となっている金沢市場輸送の運行表では6月も金沢市場輸送で長距離トラックの仕事をしていたことになっています。

10.        市場急配センターは25日が閉めきりで翌月5日が給料日になっていました。被告発人安田敏が入社の条件として50万円の前借りを紙、私がその保証人になっていたため、金沢市場輸送を辞めた直後に話をするため市場急配センターに社長の被告発人松平日出男社長を訪ねたようです。

11.        被告発人松平日出男は告発人廣野秀樹に、1日1万5千円のアルバイトとして、しばらく市場急配センターで市内配達の仕事をすることを持ちかけました。翌日から仕事をした記憶ですが、すぐに被告発人松平日出男は、市場急配センターで大型車の長距離の仕事をするという計画を打ち明け、私に大型車に乗務することを誘ってきました。割と条件のよいアルバイトと思っていましたが、これが3日間だけで、すぐに市場急配センターの社員運転手になりました。

12.        受け持ちのコースなどは違っていましたが、被告発人安田敏と一緒に市内配達の仕事をしていて、計画通りの長距離トラックの仕事を始めたのは8月31日になります。土曜日に日通白菊倉庫で荷物を積みおき、9月1日の日曜日の出発で東京に行っています。被告発人安田敏を同乗させた長距離トラックの運行は、この1回だけの記憶となっています。

13.        そのときに乗務したのが金沢市場輸送の2313号という大型ウィング車で、平成3年の1月頃に金沢市場輸送で続けて3台納車された1台になります。

14.        改竄の痕跡が多数ある市場急配センターの業務日報になりますが、告発人廣野秀樹は10月12日土曜日に新車で納車された大型ウィング車の3068号に乗務するまで、ずっと2313号に乗務していたことになります。被告発人安田敏が乗務した大型車というのは思い当たるものがないのですが、9月から10月の初めに掛けて、被告発人安田敏が市場急配センターでやっていた仕事というのも現在思い出せなくなっています。

15.        告発人廣野秀樹の妻は7月18日頃に家出をして、8月の最初の頃にいったん戻るのですが、1日か2日ほどでいなくなり、8月の中頃には父親に離婚届を渡し、離婚しています。

16.        離婚をした直後から市場急配センターの会社内で被害者安藤文さんを意識するようになったのですが、9月の10日過ぎには、車のフィルム貼りを手伝ってくれるなど、恋愛のアプローチとしか思えない積極的な行動を示すようになりました。

17.        10月5日の土曜日に、自宅アパートに電話を掛けてもらい、交際を申し込んだのですが、明るい感じの声で「ごめんなさい」と言われ、断られたことになります。

18.        そんなことがありながら会社内で積極的な行動を続け、10月12日の土曜日の夜には、このとき初めて彼女の自宅に電話をしています。このときも交際を断られましたが、明るくうれしそうな声で、好きな人がいると言われました。この言葉を初めて聞いたのは、たぶんこの10月12日の電話です。

19.        その10月12日ですが、夕方の暗くなった時間に、会社前に横付けに止めていた当日納車された新車を被告発人安田敏と二人で見ながら話をしていたところ、2階から被害者安藤文さんが降りてきて、告発人廣野秀樹に「今日どっか走るん?」と声を掛けたのです。はにかんだ様子でした。

20.        走る、というのは当日、長距離トラックの運行に出ることを意味します。事務所の方で当日の運行は確認ができるはずですが、走らないと答えると、はにかんだ笑顔を見せながら、2階に戻っていきました。

21.         夜の遅い時間に無言電話がありました。被害者安藤文さんに掛けられた言葉で、会社に電話があった可能性を考えました。迷っているうちにさらに時間が遅くなったのですが、彼女の名前と聞いていた住所で電話番号を問い合わせ該当は1件だけだったことからその電話番号の家に電話をしました。23時頃になっていたと思います。

22.        0時近い時間まで被害者安藤文さんと話をしていたような記憶ですが、電話を終えるとすぐに電話が掛かり、前妻からの電話でした。これなども偶然とは思えない成り行きになります。前妻からの電話もその後、11月の中頃までの間に2,3回あり、最後の電話で、もう電話を掛けてこないように伝えると、次の1月20日の夜まで電話はありませんでした。

23.        10月12日の電話のあと、11月25日の電話までの間に、2,3回ほど被害者安藤文さんの自宅に電話を掛けることがありました。考え直してほしい、というような言い方で再度、交際の申し込みをしましたが、いずれも明るく優しい声で「ごめんなさい」などと言われ、断られていました。

24.        11月25日という日付は、自分の誕生日の前日だったことと誕生日の26日に強く印象に残る出来事があったことからよく憶えています。午後に長い時間、浜上さん、被告発人多田敏明と一緒に1階の休憩室にいたことで、途中で市場急配センターの社員でも運転手でもない西口君が加わっていました。他にもいたような気がしますが、記録がはっきりしなくなっています。

25.        事務員である被害者安藤文さんの退社時間は17時でしたが、その11月26日は19時頃まで2階事務所にいました。19時半頃になっていたとも思いますが、会社前の駐車場に車が入ってきて、被害者安藤文さんがその車に同乗して立ち去っていきました。

26.         1階の休憩室で、その場にいた西口君の説明で被害者安藤文さんの女友達であることと外泊することがわかりました。この西口君には3月の中頃にも、北安江の焼き肉店で被害者安藤文さんに関する説明を受けていて、どちらのときか記憶がはっきりしませんが、被害者安藤文さんが市場急配センターの面接のときに同行させていた女友達とも聞きました。焼き肉店は被告発人多田敏明と3人でした。

27.        前に市場急配センターで市内配達の運転手をしていた峰田君の紹介で、面接を受け市場急配センターの事務員なったとも西口君に聴いた記憶です。告発人廣野秀樹が5月か6月に市場急配センターで市内配達の仕事を始めた時点ではいなくなっていましたが、金沢市場輸送の運転手の休憩室に市場急配センターの市内配達の運転手が一緒にいた頃は、よく姿を見かけていて、多少話もしていました。

28.         その峰田君といつも一緒にいたのが笹田君で、どちらも金沢市内の金石の方に家があると聞いていました。この笹田君は被告発人大網健二と中古車の売買でトラブルになり、告発人廣野秀樹に苦情を申し入れてきました。同じ頃に、被告発人安田繁克との間に破談となったBMWの中古車の売買の話があったとも聞いています。

29.        被告発人大網健二と市場急配センターとの接点ですが、兄と同級生で付き合いのあった被告発人浜口卓也の他に、姫の中町さんと宇出津の川村(河村かも)さんと親しい付き合いがあり、この二人の話も被告発人大網健二から聞いていました。

30.         この姫の中町さんと宇出津の川村さんの2人は、被告発人松平日出男とほぼ同時期に金沢市場輸送に入社しています。昭和63年の8月の終わりか9月の初めのことです。この昭和63年の7月の初めに、金沢市場輸送の事務所は金沢中央卸売市場の前のテナントビルから新築の新社屋に移転しています。

31.        告発人廣野秀樹は、昭和59年1月に長距離の4トン保冷車の運転手として金沢市場輸送に入社し、10月には退社をしていますが、昭和61年の8月の20日過ぎに再入社し、市内配達の運転手をしながら大型免許の一発試験に通い、誕生日の翌日の11月27日に試験に合格し、当日に大型免許の交付を受けたという記憶です。

32.         その昭和61年の12月頃に、相次いで金沢市場輸送に入社したのが、事務員として入社した被告発人池田宏美と、市内配達の運転手として入社したと思われる被告発人梅野博之になります。被告発人池田宏美は当時違った名前で、吉村だったような記憶ですが、3,4回離婚をしていて名前が変わっているような話もありました。

33.       

34.         被告発人梅野博之は早い段階から市内配達の現場指揮者のようなことをやっていた様子で、当時は他社のトラック、運転手も参加していた市内配達の仕事で、現場監督のような立場だった人物が竹沢俊寿社長に不義理をして遁走し、けっこう長い間、被告発人梅野博之が代役のようなことをやっている様子でした。ブランクがあって、運転手としての経験がまったくなさそうなのに、最初から正式な市内配達の現場責任者のようなかたちで就任したのが被告発人松平日出男になります。

35.         金沢市場輸送と市場急配センターは別会社でしたが、イワシの運搬の仕事では市場急配センターの仕事を金沢市場輸送が請け負うというかたちで、税金対策をしていると聞いていました。Googleマップで確認したところ、直線距離で220メートルほど事務所が離れています。

36.         9月中か10月に入ってからか記憶がはっきりしませんが、被告発人東渡好信、浜上さん、河野さんの3人が、それまで金沢市場輸送で乗務をしていた大型ウィング車で、市場急配センターに移ってきました。河野さんの場合は、金沢市場輸送で保冷車に乗務していた記憶しかなく、移動したあとに乗務をしていたトラックのことも現在記憶にありません。

37.         被告発人東渡好信は、自分が乗務していた金沢市場輸送の大型ウィング車だけが市場急配センターに引き渡されるという話を聞き、竹沢俊寿会長を罵倒するともに、被告発人松平日出男に対する不満で、市場急配センターの2階事務所で被告発人松平日出男を待ち構えながら机に包丁を突き立てるようなことをやり、そのあとに被告発人池田宏美から聞いた話では、外で包丁を手にしたまま被告発人松平日出男を追いかけ回したという話でした。

38.         包丁を手にした被告発人東渡好信が物騒なことを口走っているタイミングで、電話があり、徳島行きのスイカを積み替えるため、その場にいた被告発人安田敏と二人で北陸自動車道の尼御前サービスエリアに向かったのですが、電話を掛けてきてスイカの積み替えをしたのは被告発人安田繁克になります。

39.         被告発人安田繁克の入社も平成元年の9月頃だったような記憶で、同時に話題になったのが西口君になります。金沢市場輸送の大型保冷車の運転手、山田さんの娘婿か婚約者と聞いていましたが、いきなり新車の4トン保冷車で持ち込みの傭車になるという話でした。

40.         西口君も話題になっていましたが、被告発人安田繁克も運転手の愛人の息子ということで話題になっていました。遅くとも平成3年に市内配達の仕事を始めると、被告発人安田敏の説明から大きな勘違いをしていたことに気がつくのですが、告発人廣野秀樹は長い間、被告発人安田繁克の母親で愛人というのが、堂野さんと思い込んでいた記憶です。これは記憶違いではなく、実際に吹聴されていた可能性もあると考えています。

41.         どのぐらい間があったのか正確に思い出せないですが、被告発人安田敏が先に市内配達の仕事を始めていて、いろいろと告発人廣野秀樹に話を聞かせていました。堂野さんの愛人の息子だと被告発人安田敏に聞かされたのが、金沢市涌波に家があるとも聞いたO君になります。母親が、確か大同生命の保険外交員で、堂野さんの口利きで、保険に加入したということもありました。妻が家出をする前のことで、東力の自宅の前で、堂野さんが車に乗ったまま待っていた場面も記憶にあります。

42.         まだ金沢市場輸送にいた時期かもしれず、記憶がはっきりしないのですが、その堂野さんが金沢市場輸送でイワシの運搬の仕事をするようになったのは、告発人廣野秀樹がイワシの運搬の仕事をした2回目のシーズンの終わり近くのことで、平成2年の2月から3月頃になると思います。小型に見える大型ダンプの持ち込みでした。

43.         いつ頃になって間違いに気がついたのか、これも記憶が不鮮明ですが、被告発人安田繁克の母親が愛人と知ったのは、同じイワシの運搬の仕事の松浦さんでした。社員としての入社だったのかわからないですが、昭和62年の4月頃には、2台納車されたイワシの運搬専用の金沢市場輸送の大型ダンプに乗務していました。

44.         告発人廣野秀樹は、その昭和62年の1月から3月の終わり頃まで2ヶ月ほどの間、中西運輸商で大型車に乗務していました。後に金沢市場輸送で配車係をすることになるYTの誘いで、中西運輸商に再入社したのですが、金沢市場輸送の大型保冷車に空きがなく、乗務できなかったことが大きく、金沢市場輸送に戻ることになったのは、本恒夫が東力のアパートに訪ねてきて、前に駐車した本恒夫の車の中で話をした記憶ですが、大型保冷車を入れるので乗務してほしいという強い誘いでした。

45.         4月に入ってからという記憶ですが、金沢市場輸送で大型保冷車の新車7599号に乗務しました。4月に入ってすぐに金沢市場輸送に再入社した記憶ですが、最初の運行が筍を積んで愛媛県松山市の缶詰工場までの運行という記憶なので、4月の下旬になっていたとも考えられます。それが筍のシーズンの始まりだったような記憶です。缶詰工場というのはシーズンの終わり近くだったとも思われます。その間は筍の仕事が集中していたのですが、シーズンは2,3週間程度と短かったような記憶ともなっています。

46.         筍は裏年と表年で豊作とそうでない年があるとも聞きますが、現在でもスーパーの店頭に石川県産の筍が並ぶ時期と重なると思います。

47.         金沢市場輸送で大型保冷車の7599号には、その昭和62年4月から昭和63年の12月の20日過ぎまで乗務しました。そのあとが基本的に長距離ではない金沢港のイワシの運搬の仕事になります。長くても平成元年の3月一杯ですが、大型平ボディ車で地場のローカルの仕事をしたあと、北都運輸でマヨネーズやドレッシング、ジャムの市内配達の仕事を4トン保冷車でするようになりました。

48.         そして、同じ平成元年の12月の中頃から20日頃になって、2回目のイワシの運搬の仕事を始めました。これも長くて平成2年の3月一杯で、2月一杯だったような記憶ですが、そのあと冷凍機付きの大型保冷車に乗務しました。冷凍機付きの場合はナンバーが88でしたが、108号とう車番だったという記憶です。

49.         そして、平成3年の1月17日に新車の大型ウィング車に乗務しました。2315号になります。前年の12月の10日頃から始まったと記憶にあるのが、茨城県古河市の山三青果の仕事です。これはその後、金沢市場輸送から市場急配センターに引き継がれ、メインの運行となります。

50.         平成3年のことは思い出せなくなっていることが多いのですが、11月中として記憶にあるのが、被告発人東渡好信の山三青果でのベルトコンベアの指詰めで、その場で狂言としか思えなかったのですが、被告発人東渡好信はそれで一週間か10日ほど仕事を休んだあと配車係をするようになります。復帰後のときは、被告発人多田敏明を同乗させて古河の青果市場に来ていて、被告発人多田敏明と個人的に親しくなり、一緒に食事に行くようになったのもこれがきっかけでした。

51.         市場急配センターの業務日報では10月28日が最初となっていますが、七尾の丸一運輸で能登木材と林ベニアの仕事をするようになりました。これはすべて関東行きでした。11月の半ば過ぎには、同じ丸一運輸の仕事で、和歌山県のかつらぎ農協からミカンを運ぶ仕事をするようになりました。同じ七尾市に自宅がある被告発人東渡好信の紹介で丸一運輸の仕事が始まったと聞きました。

52.         現在の記憶のままに記述をしていますが、あれもこれもではきりがないことになります。告発の事実の要となるのは被告発人安田繁克で、被害者安藤文さんと男女交際があり、金沢西警察署の供述調書ではセックスをしたとも記録があります。

53.         この被告発人安田繁克も告発人廣野秀樹が市場急配センターで市内を始めた直後から接触がありました。6月頃ですが、市場急配センターの裏駐車場は、金沢市場輸送の使わない大型トラックの駐車場にもなっていて、これは10月6日にも続いていました。

54.         この日付をよく憶えているのは、前出の最初に被害者安藤文さんに交際の申し込みをした翌日に、被告発人安田敏の大型ウィング車に同乗して名古屋北部市場まで行っていることです。当日の午前中の出発でしたが、夕方の早い時間には金沢に戻っていて、細かいことは思い出せないですが、金沢市場輸送の本恒夫社長にトラックを移動させるように命令され、断ったことをよく憶えています。

55.         calコマンドで確認したところ10月6日は日曜日ですが、市場急配センターの裏駐車場に本恒夫の姿があったことが、すこぶる不自然です。全体的な記憶が薄れているので、過去の記述から探し出して確認する必要はありますが、被告発人安田敏の大型ウィング車に同乗して名古屋北部市場に行ったあとという記憶です。なお、市場急配センターは全ての大型車がウィング車だったと思います。平ボディ車もウィング車ではない保冷車もいませんでした。

56.         10月6日の時点で被告発人安田敏が大型ウィング車に乗務して長距離の運行に出ていたことは明らかですが、告発人廣野秀樹が乗務していたことになっている2013号以外では、思い当たる大型ウィング車がありません。記憶が新しい時期には正確な事実の記述をしていたはずですが、書面が手元にあるのか未確認です。

57.         10月5日の午後は、被告発人東渡好信の大型ウィング車に被告発人安田敏と二人で同乗して、当時の河北郡高松町まで荷物の積み込みに行っています。その時点で、被告発人安田敏には、今夜、被害者安藤文さんに交際の申し込みをすることを話していました。その時は上機嫌で、「半々ぐらいの可能性かな」と言っていた記憶にある被告発人安田敏になります。

58.         細かいことは思い出せなくなっていることが多いですが、その後、被告発人安田敏は、告発人廣野秀樹と被害者安藤文さんの恋愛関係を否定し、「諦めや」「しつこいやつやな」という言葉を連発するようになりました。挑発的な態度でしたが、これは他にも連動がありました。

59.         悪役として非常識さをアピールすることで、被害者安藤文さんに告発人廣野秀樹に対する好意、好感を大きくさせる目的があったとも考えられますが、まず、入社と同時に告発人廣野秀樹が保証人になった50万円の借金のことがあります。12月時点でも月々の返済を渋り、理由を付けていたという記憶ですが、この12月には他にも市場急配センターの給料の支払いのことで、とても不可解に思えることがあったという記憶です。

60.         2月14日に、被告発人安田敏の借金の残りを全額肩代わりで返済したという記憶ですが、これが30万円となっています。それより大きいことはなかったと思いますが、間にあるのが1月5日と2月5日と思われる給料日で、給料からの天引きは5万円と聞いていたような記憶もあるので、12月としてはつじつまが合わないようなところもあります。

61.         2月14日に北國銀行中央市場支店のATMで30万円を降ろして、被告発人安田敏の借金は一括返済をした記憶ですが、被告発人安田敏から返済を受けた記憶はなく、3月に入ると、150万円という新車の車を購入していました。計算され尽くした挑発としか思えないところです。

62.         記憶にあるのは、市場急配センターの業務日報では2月23日となっている新潟県に向けた運行です。今、Excelのファイルで確認したところ2月23日は日曜日となっていました。証拠資料を直接確認したところ新潟県の関越道、六日町インターの領収書は2月22日になっていました。入力ミスの可能性が高いと思いExcelのファイルの方を訂正しましたが、それでも2月23日の日曜日に荷下ろしとなります。

63.         市場の仕事は翌日の競りが多く、その日付が変わる前の前日のうちに荷下ろしを終えることも多いのですが、運行上は競りのある翌日が荷下ろしをした日になります。六日町の青果市場は初めて行きましたが、珍しい賑わいで人が沢山いたという記憶です。肝要なのは、新潟に出発する前のことで、金沢中央卸売市場の高瀬商店の前に、多くの市場急配センターの運転手が集まり何か作業をしていた場面です。そこから会社に戻った頃に、被告発人安田敏を同乗させて新潟に行くよう指示を受けました。それを断り被告発人多田敏明を同乗させて新潟に出発したのですが、それだけ告発人廣野秀樹と被告発人安田敏の関係が悪化していました。新車を見たのもこの2月中だったのかもしれません。

64.         被告発人安田敏がベルトを強引に渡そうとした場面も印象的に記憶にあります。2階にのぼる階段の前の出入り口でした。3月の10日頃の記憶となっています。その頃より被告発人安田敏は、告発人廣野秀樹に対して反省しているような態度を見せることになります。

65.         本件の刑事告発事件の要であり、鍵となるのが被告発人安田繁克になります。金沢市場輸送の退社が決まった時点で、告発人廣野秀樹は被告発人安田敏に連絡をとるため、市場急配センターに電話を掛けます。被害者安藤文さんと電話で話したのもその時が初めてになるかと思いますが、被害者安藤文さんは「どちらの安田ですか?」と尋ねました。他に安田という名前の市場急配センターの運転手は確認していないので、他に人物がいなかったと確実な断定まではできないですが、その時点で被告発人安田繁克が市場急配センターで仕事をしていた可能性は高いと思います。

66.         被告発人池田宏美も、告発人廣野秀樹が金沢市場輸送を退社した直後に、市場急配センターの2階事務所で姿を毎日見かけるようになったのですが、ほんの数日前までは毎日のように金沢市場輸送の事務所で姿を見かけていました。

67.         市場急配センターで市内配達の仕事を始めてすぐの頃、姿を見せた被告発人安田繁克は、ずいぶん前に市場急配センターの仕事を辞めたような口ぶりで、市場急配センターの裏駐車場に駐車してあった日通カラーの大型ダンプを中古で購入した話や、そのダンプでのイワシの運搬の仕事がない今は、都商事で大型保冷車に乗務することもあるという話で、先日も岩手県宮古市に行ってきたような話をしていました。

68.         被害者安藤文さんと被告発人安田繁克に交際関係があったという話は、1月21日の夜、被告発人浜口卓也の自宅アパートで、被告発人浜口卓也に初めて聞かされました。告発人廣野秀樹が被害者安藤文さんとの関係のあらましを説明した直後、被告発人浜口卓也は「鬼のような女やな、お前、あの女の顔見て普通じゃないってわからんか、きっかん顔しとるやろがい」などともう仕向け、続けて、「でも、いいとこあるって思ったことある。ヤスとつきあっとるとき、毎日ヤスに弁当を作ってきておった」などと言いました。

69.         この弁当の話は、現時点で未確認ですが、金沢西警察署の被告発人梅野博之の供述調書にも記載があったと思います。告発人廣野秀樹が被告発人多田敏明に被害者安藤文さんとの関係を最初に話したのは12月の中頃という記憶ですが、「広野さん、事務員食ってしもたん」が第一声だったという記憶です。当時も戸籍上は廣野だったと思いますが、平成4年4月1日の事件で署名などする前は、ずっと広野と書いていたので、戸籍上の廣野という漢字を知る人はほとんどいなかったと思われます。食う、というのは、被告発人多田敏明が好んで使うような表現で、セックスになります。

70.         1月21日の夜に被告発人浜口卓也から話を聞いて、そのあと被告発人多田敏明と話をする機会があったのか思い出せないですが、2月1日の夜には、被告発人多田敏明を探しているという口実で、告発人廣野秀樹に接触を図ったのが被告発人安田繁克本人になります。

71.         金沢西警察署の被告発人安田繁克の供述調書では、告発人廣野秀樹に声を掛けられ、被害者安藤文さんとの過去の関係を問いただされたことになっていました。

72.         記憶が薄れたままの状態で、細かく書くのも無理があり、十分な説明とはおぼつかないと思いますが、結論からいって、この被害者安藤文さんと被告発人安田繁克の交際関係というのは作り上げられた話で、事実ではない可能性が極めて高いと思います。

73.         8月と9月と11月にも接触があったと記憶にある被告発人安田繁克ですが、わざとらしさが感じられました。8月というのは金沢中央卸売市場の高瀬商店の前で、被告発人安田繁克は金沢市場輸送の大型保冷車7180号に乗務していました。これと前後して都商事の日産ディーゼル工業の大型車に乗務して金沢中央卸売市場の石川丸果の売り場にいたこともありました。

74.         9月としてはっきり記憶にあるのは、市場急配センターの一階休憩室が出来た直後で、2人で来ていました。

75.         最近になって9月11日の水曜日と確認した被害者安藤文さんのフィルム貼りの手伝いは、1階の休憩室の建築工事中でしたが、工事が始まって10日ほどで完成したという記憶になるので、9月の20日頃になるかと思います。

76.        11月中として記憶にあるのは、午前中の正午に近い時間で、市場急配センターの一階休憩室に被告発人安田繁克と告発人廣野秀樹の二人だけでいるとき、二階から被害者安藤文さんが降りてきて、少しはにかんだような様子で、今から弁当を買いに行くけどいらないかと尋ねたことがありました。すぐ横に被告発人安田繁克がいましたが、全く意識している様子はありませんでした。

77.        これは、さきほどの岩手県宮古市の話が会話に出てきたときも同じで、被害者安藤文さんが事務の仕事をする机の、すぐ後ろに応接セットがあり、告発人廣野秀樹と被告発人安田繁克は、そこに座って差し向かいで話をしていました。古い言葉を使えばルンルン気分になるのか、妙にうれしそうに仕事をしている様子が被害者安藤文さんにあったので、特に強く印象に残っているのですが、セックスをしてこじれた別れ方の男女がすぐ近くにいるとはとても思えない雰囲気でした。

78.        その被告発人安田繁克と被害者安藤文さんの恋愛関係で、被害者安藤文さんにとって非常に深刻な別れ方をしたと告発人廣野秀樹に吹き込んだのが被告発人多田敏明になります。場所は現在の新潟県胎内市にある青果市場ですが、当時その近くで見ていた地名として中条町と書くことが多かったかもしれません。被害者安藤文さんが被告発人安田繁克に対してすごく恨みを持っているという被告発人多田敏明の話でしたが、被害者安藤文さんにいい服を着てきてくれと言われ、父親と会って酒を飲んだが、とても不味い酒だったと被告発人安田繁克が話していたという説明でした。

79.        11月25日の夜の電話で、告発人廣野秀樹は被害者安藤文さんに、好きな人との関係を尋ねたところ、彼女は「ダメになったかもしれん。わたし冷たかったかもしれん。冷たい感じするってよくいわれるぞいね」と言いました。その前に「広野さん、いくつのとき結婚したん? わたし早く結婚したいぞいね。今まだいいけど2,3年したら焦るぞいね」と言いました。その前の電話でも同じでしたが、会話が続くような取っかかりを最初に作ってくれたのも被害者安藤文さんになります。

80.        よく憶えているのは、最初に被害者安藤文さんの自宅に掛けた10月12日の電話で、午後11時に近いような電話を掛けるのが非常識な時間でした。会社に自分のことで電話があったのか確認したいという思いが強くあり、そちらを優先したことになります。被害者安藤文さんの母親が出て被害者安藤文さんに取り次いでくれたのですが、年頃の娘に男性から電話があったことを喜ぶような安心するような対応に感じられました。これも過去に被告発人安田繁克との間で男女関係のトラブルがあったとは考えられなかった理由の1つになります。

81.        この10月12日、突然の告発人廣野秀樹からの電話で被害者安藤文さんはずいぶんと驚いたような反応を最初に見せましたが、何か一声掛けたあと、すごい勢いで階段を駆け上るような物音が電話口に聞こえました。平成3年なので当時はまだ余り普及しておらず、使っている家も少なかったと思われますが、コードレスの親子電話のようでした。親子電話という言葉が記憶にありますが、市場急配センターでも2階事務所と1階の休憩室の電話は、内線でそのような会話が出てていて、少しですが被害者安藤文さんと話をすることもありました。

82.        11月25日の数日前、午後4時頃に近い時間と記憶にありますが、珍しく午後に被害者安藤文さんが外から2階事務所に戻ったところ、被告発人池田宏美が「これ広野さんが文ちゃんのために買ってきてくれてんよ。食べなさい文ちゃん」と声を掛ける場面がありました。被害者安藤文さんはうれしそうに優しい顔で笑っていました。

83.        ジャスコ若宮店で買ってきたショートケーキですが、銀行通帳を造りに行ってもらったお礼のつもりでした。これも記憶が薄れて細かいことは現在思い出せなくなっていますが、被告発人池田宏美の指示や協力で被害者安藤文さんが告発人廣野秀樹の銀行通帳を銀行に作りに行くことになったのです。

84.        長距離トラックの仕事ですぐに銀行に行くことが出来なかったということもありますが、被告発人池田宏美にいわれるままに任せたところ、被告発人池田宏美から「30万円と3万円別々に入れたみたい。なに考えとるんやろあのこ」と言われました。

85.        他にもこまかいことがいろいろあったのですが、被害者安藤文さんは毎日のように積極的に、好意の意思表示のような言動を示していました。その確認が目的で、被害者安藤文さんの自宅に電話を繰り返しかけたことになります。

86.        11月25日時点では、被害者安藤文さんのいう好きな人が自分のことではないかという思いが確信に近づき、それまでとは違い、迷うことなく自信を持って、電話を掛けたことをよく憶えています。

87.        11月25日の夜の電話は、自分の思惑や期待以上に被害者安藤文さんが受け答えをしてくれ、「本当は文ちゃんのことすごく好きなんやけど、おれに想われて、気が重かったり、迷惑じゃないけ?」と尋ねたところ、被害者安藤文さんは「ぜんぜんだいじょぶや」と答え、告発人廣野秀樹が続けて、「また電話掛けていいけ?」というと、「いいよぉ」とやさしい声で明確に承諾をしました。

88.        業務日報には11月29日付で「テンリ」と「クワナヒガシ」という日本道路公団の領収書があります。1回だけという記憶ですが、和歌山県のかつらぎ農協でミカンを積んで出発したあと、西名阪道を使ったことがありました。関ヶ原インターから名神高速に乗ったはずですが、北陸自動車道に分岐する米原ジャンクションとの間に伊吹パーキングエリアがあります。

89.        午後7時頃だったような記憶ですが、その伊吹パーキングエリアの電話ボックスから被害者安藤文さんの自宅に電話をしました。このときは直接、被害者安藤文さんが電話口に出たかもしれません。しかし、それまでとは一変した距離をおくような態度でした。

90.        翌日の11月30日が土曜日ということを確認しましたが、この日の午後から被害者安藤文さんの裏駐車場の行動が始まりました。このときだけは裏駐車場の一番奥の金沢中央卸売市場とは反対側の並びで、被告発人池田宏美の車と並んで駐車されていました。他にも普段駐車されていない運転手の車が多く駐車されていて、金沢中央卸売市場の裏門の前の道路の工事で、移動させられたような話を聞きました。

91.        この11月30日の土曜日の時点では、工事のためとしか考えていなかったのですが、その後も被害者安藤文さんの裏駐車場への自分の車の駐車は続き、それに合わせるかのように自宅の電話に出なくなりました。これは1月12日の夕方遅くに、北陸自動車道で富山県の朝日インターの近くのパーキングエリアから掛ける電話まで続きます。

92.        金沢西警察署で谷内孝志警部補が作成した乙号の供述調書は、金沢地方検察庁から金沢地方裁判所に提出されなかったものが多いという状況ですが、供述調書では50回ほど電話をしたと記載されていた記憶です。取調中に、通話記録のような紙を目の前に置かれたような記憶も残っています。

93.        12月の中頃という記憶ですが、被害者安藤文さんの不可解な言動について、被告発人安田敏と被告発人大網健二に別々に相談しました。二人から全く同じような提案があり、被害者安藤文さんにクリスマスプレゼントを贈ることを決めたのですが、出来たばかりとも聞いたような記憶の金沢駅前のティファニーでプレゼントを買うということまで提案がありました。

94.        12月19日頃に、クリスマスイブの12月24日当日は、長距離の運行に出るという指示が被告発人東渡好信の口から出され、その時、被告発人東渡好信は被害者安藤文さんの横の机に座っていたのですが、被害者安藤文さんが首を大きくうなだれる反応が印象的でした。

95.        運行が終わる前に次の運行の指示が出ることもなかったという記憶です。12月21日の土曜日は七尾市に行って積んできた荷物の積みおきになっていました。月曜日おろしの荷物で日曜日の出発になります。

96.        市場急配センターの業務日報を確認したところ、12月24日に福井北インターで14150円、金沢西インターで2450円という日本道路公団の領収書があります。関越道の前橋インター辺りからの料金になりますが、このような福井一発という運行は山三青果の仕事でやった覚えがありません。12月24日という日付ですが、23日に荷物を積んで出発し、日付が変わった未明の時間帯にインターを降りたという形跡になります。

97.        これまで気がつかずにいたようですが、12月25日付で能登有料道路の210円と260円の2枚の領収書があり、同じ12月25日付で前橋インターの11000円という日本道路公団の領収書があります。これは12月25日に七尾市に関東行きの荷物を積みに行き、そのまま七尾市から関東に向けて出発し、日付が変わる前の時間に関越道の前橋インターを降りたという形跡になります。

98.        クリスマスイブの12月24日は運行に出なかったという形跡になりますが、ただちに細かい分析はできないものの強く違和感があります。

99.        1つ大きな食い違いに気がついたのですが、告発人廣野秀樹の記憶にある12月24日のクリスマスイブの夜は、日付が変わる前に福井中継を被告発人多田敏明の4トンウィング車に積み替え、自宅アパートに帰っています。21日の土曜日に七尾市で荷物を積み会社に戻ったのは確かな記憶です。関東での月曜日おろしになりますが、12月23日の月曜日で当日に山三青果で荷物を積んで出発したとなると、日付が変わる前に福井中継で仕事を終えたのも23日になります。

100.       12月24日の午後11時頃に被告発人多田敏明の乗務する4トンウィング車に福井中継を積み替えたのは、勘違いの謝った記憶が定着していた可能性が出てきました。関東での荷下ろしの当日に山三青果で荷物を積んで出発しなかった運行は、1月の山梨で荷下ろしをして向かった運行の1回しか記憶にありません。荷下ろしをした翌日に帰り荷の荷物を積むことを「泊まり」と呼んでいましたが、市場急配センターでは、他に2月の福岡と同じく2月の四国の運行しか記憶にありません。

101.       市場の仕事では荷下ろしの前日の日付が変わる前の時間に仕事を終えることも多いのですが、山三青果で夕市がない運行の場合は、特に日付が変わる前に仕事が終わっていたと思います。12月23日に山三青果を出発した運行で当日の夜に仕事が終わっていても、運行上は24日の荷下ろしになります。

102.       荷下ろしをした当日に次の運行に出ないことを「あがり」と呼んでいました。折り返しで運行に出る場合は「着発」と呼んでいました。「あがり」の場合、午後5時まで会社にいる決まりになっていました。あるいは5時半だったかもしれないですが、夕方の交通渋滞の時間帯を避けるため午後6時から7時頃まで会社にいることが多かったとも記憶にあります。同様の運転手も多くで、長い時間、雑談をするようなこともありました。

103.       市場急配センターの業務日報では、12月24日のクリスマスイブの当日、運行にでることがなく「あがり」になっていて、夕方まで会社にいたような形跡となっていますが、12月21日の土曜日にクリスマスプレゼントを被害者安藤文さんに渡すことに失敗し、そのあと12月26日ぐらいまでは、会社で被害者安藤文さんと顔をあわす機会がなかったはずです。

104.       12月21日の土曜日に被害者安藤文さんを大型トラック3068号から降ろしたあと、七尾市に積みおきの荷物を積みに行き、夕方の薄暗くなったような時間に会社に戻り、2階事務所にいた場面は記憶にあります。河野さんが意味ありげな笑いを浮かべていたような記憶です。

105.       土曜日に積みおきをした運行は日曜日の夕方に出発するのが当然になっていました。12月22日の日曜日ですが、この日は夜の23時頃に被告発人安田敏の花里のアパートにいたので、運行に出発することはまずなかったはずです。

106.       12月21日は、夕方外が暗くなってから国道8号線バイパスの藤江陸橋の側道に投げ捨てたティファニーのネックレスのプレゼントを拾い、そのまま金沢市南新保の被告発人浜口卓也のアパートに行く、誘われて片町に飲みに行き、夜中に片町から戻って、3068号の大型トラックの車内で寝たという記憶です。

107.       12月22日の日曜日は、午前中に被告発人大網健二と会ったという記憶ですが、夕方に近い時間まで一緒にいました。被告発人大網健二と会う前だったかもしれないですが、金石街道沿いパチンコオークラの横にある花屋から12月24日の配達で、赤いバラの花を10本、被害者安藤文さんの自宅に届けてくれるように頼んでおり、3月5日の夜の電話では、被害者安藤文さん本人に配達があったことを確認しています。

108.       石川県立中央病院の近くで国道8号線沿いのレストランのような大きな喫茶店に入って食事をしたこと、河北潟の河川敷のような場所に行き、そこで被告発人大網健二がゴルフの練習を始めたこと、別れる前には河北郡津幡町に近い森本の辺りにあるゴルフの打ちっぱなしの練習場に入ったことをよく憶えています。

109.       そのあといったん東力の自宅アパートに戻ってから花里の被告発人安田敏のアパートに向かいました。前日の夜に、被告発人浜口卓也に頼むつもりだったのですが言い出せず、被告発人安田敏に頼むことに決めたのは、クリスマスプレゼントを被害者安藤文さんに会社で渡してもらうことです。

110.       近年になって12月24日のクリスマスと12月25日のクリスマスの違いを意識するようになりましたが、12月24日のクリスマスイブ日だけが特別という風潮が平成3年当時は強くありました。このクリスマスプレゼントのことは被告発人安田敏の供述調書にもあったと思います。被告発人池田宏美の供述調書にもあったかもしれません。

111.       被告発人安田敏から聞いた話では、被告発人池田宏美が被害者安藤文さんに、「どうしたん文ちゃん、顔真っ赤っかやじぃ」と声を掛けたということですが、供述調書ではだいぶん状況が違っている話になっていたかと思います。

112.       こまかい経緯はぼんやりとした記憶の風景となっていますが、1月に入ってから被害者安藤文さんとの関係で変化があり、3,4回、裏駐車場で被害者安藤文さんに声を掛けるなどして話をしています。駐車した大型トラック3068号の助手席に乗ってもらっての話でした。

113.       12月21日も被告発人安田敏に仕事中呼び出してもらった被害者安藤文さんを大型トラック3068号の助手席に乗せて、30分から小一時間ほど金沢市内を走らせながら話をしています。市場の仕事の事務で、年末は特に忙しい時期でした。

114.       間を大きく飛ばして、3月23日の月曜日の電話になります。相思相愛の恋愛関係があったとしても、最終的に破綻し傷害・準強姦被告事件になったという思いが、金沢西警察署の捜査官や裁判官にあったことが想定されます。弁護士はまったく1つも事実確認をしないので、完全無欠な問題外になります。

115.       3月23日辺りのカレンダーを見ると、3月21日が土曜日でどうかと思ったのですが、ネットで1992年の祝祭日を調べたところ3月20日の金曜日が春分の日になっていました。この3月20日になると思いますが、前日の19日に静岡県清水市行きのミールを五高倉庫で積み込んでいました。

116.       20日に出発して21日の土曜日に清水市で荷下ろしをしたことになるかと思います。そのまま茨城県古河市に向かったことが記憶にありますが、これが古河市での泊まりになりそうです。さきほど山梨からと記述したかと思いますが、あれは古河市ではなく、翌日に池袋の三越デパートから展示会の引き上げの荷物を積むため、東京都内に向かった運行でした。

117.       市場急配センターの長距離トラックの仕事のメインともなっていた山三青果の仕事ですが、夕市のあるなしで出発の時間が大きく違ったほか、荷物の量もその時々で大きな違いがありました。金沢市場輸送では平成2年の12月からやっていた山三青果の仕事です。

118.       鮮魚ならばサンマのように季節がわかりやすい荷物もあったのですが、山三青果の青果物の場合は、荷物の多き時期と少ない記事の見当もつかず、事前にわかることはなかったと思います。会社の方はわかっていたのかもしれないですが、伝えられることはなかったと思います。荷物が多い場合は、大型車が2台で、それに4トン車が加わることがあり、4トンの場合は被告発人梅野博之が来ていたことを憶えています。

119.       春頃だったのか金沢市場輸送でやっていた頃の方が荷物が多かったような記憶となっています。荷物の卸先は、富山、高岡、金沢、福井と決まっていました。2台以上の場合は卸先の荷物を積み分けていましたが、これは金沢市場輸送の鮮魚の東北便も同じでした。

120.       荷物が多くなく1台だけだと4箇所おろしになります。福井分は中継になっていましたが、中継の運転手を大型車に同乗させ直接福井の市場に行くことも運転手の判断に任されていました。1,2回、福井分の荷物が多すぎて、中継の4トン車には載りきらないようなこともありました。

121.       金沢市場輸送の頃は被告発人梅野博之がよく中継に来ていた記憶ですが、大型車に同乗させて福井に行くことはなかったと思います。市場急配センターでは被告発人多田敏明以外に中継に来ていた運転手の顔を思い出せないですが、被告発人浜口卓也というのも1回ありました。持ち込みの2トン車でしたが、その2トン車に同乗して福井の市場まで行ったと記憶にあります。福井の市場の記憶はないですが、金沢西インターから北陸自動車道に乗って、高速道路を走行していた場面が記憶にあります。

122.       市場急配センターの業務日報は8月31日から3月1日迄となっているので、3月の運行というのは告発人廣野秀樹の記憶しかありません。過去の書面が手がかりにはなりますが、一月ほど前、津幡町の能瀬から会社に電話を掛けた運行が、山梨行きの運行だったと確認しました。国道20号線沿いで仮眠をした場所まで記載がありました。

123.       3月21日で清水市から古河市に向かうときになりますが、東名高速の神奈川県内のパーキングエリアから会社に電話をしています。被告発人岡田進弁護士の被告人尋問でも、被告発人松平日出男が被害者安藤文さんのことで告発人廣野秀樹に注意をしたことになっている事実になるかと思います。

124.       3月19日の木曜日も電話で被害者安藤文さんと話をしていたことを思い出したのですが、夜の電話ではなかったかもしれません。他に記憶がないのですが午後5時の退社時間の前に東力の自宅アパートに戻って、固定電話から会社に電話をした記憶があります。被害者安藤文さんが電話に出て話をしたのか、それは思い出せないですが、その時の強い不満が、神奈川県内のパーキングエリアから会社の電話で爆発しました。

125.       この不満のきっかけは3月5日に始まっています。被害者安藤文さんが手に指輪をつけて会社に来ていたことですが、3月19日にも同じ頃があり、指輪の形状とはめた指にも違いがありました。中指と薬指ですが、どれがどちらの日だったのか思い出せなくなっています。

126.       3月5日は、10月5日の最初の電話と同じように、被害者安藤文さんの方から東力の自宅アパートに電話を掛けてもらいました。この3月5日の電話と3月23日の電話に記憶の混同がありそうなことは、2なんほど前に気がつくようなことがありましたが、特に調べて確認することはなかったと思います。

127.       3月23日は午後に、被告発人松平日出男を交えて3人で金石街道沿いの喫茶店に入って話をしています。喫茶店のその場で言ったのか、喫茶店を出たあと会社に掛けた電話で被害者安藤文さんに話したのか記憶がはっきりしませんが、このときも今夜、東力の自宅アパートに電話を掛けてくれるように頼んでいます。

128.       3週間ほど前になるのか、平成5年11月28日付の手書きの書面にざっと目を通しているとき、1月25日のあとにも、被害者安藤文さんに今夜自宅に電話をください、といわれながら被害者安藤文さんが出なかったような記載がありました。

129.       十分な確認はしていないのですが、1月25日の夜に被害者安藤文さんの自宅に掛けた電話で、母親の厳しく警戒したような対応があり、それ以来、自宅に電話は掛けなかったような記憶で、2月の半ば頃には一度、自宅に電話をしているのですが、父親の安藤健次郎さんが電話に出ていました。これは2回目のことで、最初が1月21日の夜に、被告発人浜口卓也のアパートから掛けた電話になります。

130.       この1月21日は、被害者安藤文さんの退社後に、彼女を大型トラック3068号の助手席に同乗させ、金沢東インターから金沢西インターに1区間高速道路を走らせ、少し遠回りをして会社に戻っています。けっこう遅くなった時間で、夕方の渋滞もすっかり緩和されたいたような記憶です。どれぐらいの時間だったのか計測ができないですが、深夜と同じぐらい道が空いていたことは憶えています。

131.        1時間まではなかったような気がしますが、被害者安藤文さんは退社の時間を遅らせていました。この1月21日当日に話をすることは、1月18日より前に決めていたはずです。カレンダーで確認すると1月18日は土曜日ですが、夕方の暗くなった時間に、被告発人多田敏明と二人で市川タイヤの向かいの焼き肉店にいた記憶があります。

132.       焼き肉店を出たあとのことは記憶にないですが、翌日の19日日曜日の午後4時に、被告発人多田敏明と会社で待ち合わせをして、名古屋方面の運行に出ることを決めていました。名古屋方面の運行は午後6時から7時頃に出発することが多かったはずですが、なぜ午後4時という早い時間に決めたのか不思議に思えています。

133.       しばらく前にざっと目を通した平成5年11月28日付の手書きの書面には、被告発人多田敏明が大阪府高槻市行きの馬鈴薯を積んでいたような話がありました。全線高速で告発人廣野秀樹は名古屋に向かったことになりそうですが、積みおきで日曜日に出発の運行です。

134.       市場急配センターで福井県内の国道8号線を走った記憶はほぼないことになります。特に武生・敦賀間の海岸線ですが、金沢市場輸送では高速代が出ずよく通った道になります。

135.       高速道路を使うと、飛ばさなくても金沢西インターから米原バリアは2時間、荷物が軽ければ飛ばして1時間20分という計測をやったことがありました。不思議と思い出せないのが、ミールを積んで名古屋方面に行ったときに、降りたインターチェンジです。

136.       長浜インターで降りた領収書が市場急配センターの業務日報には多いのですが、Googleマップで場所を確認すると、国道365号線からけっこう離れていて、これなら手前の木之本インターに降りているのではと考えました。

137.       市場急配センターでミールを積んで名古屋方面の運行は、1月22日から25日の間に集中し3回続けた記憶となっています。最初の2回、あるいは1回は三重県津市に行った記憶ですが、朝に荷下ろしをして金沢に戻り、夕方前には金沢に戻ってミールを積み込むという繰り返しでした。暗くなった時間に名古屋方面のミールを積み込んだ記憶はないのですが、ミール移動では一度ありました。

138.       断片的な記憶で、夕方の暗くなった時間に会社を出て北陸ハイミールに向かい、当時の金沢西高校の前の裏道のような道路を通って、金沢港の前の道路の交差点を右折した場面で記憶は途切れていますが、助手席に和田君を同乗させていました。

139.       12月の終わり頃だったような記憶ですが、被害者安藤文さんとの間で、ちょっと衝突のようなことがあったので1月の上旬かもしれません。ミール移動が終わって会社に戻り、1階の休憩室にいるときに、2階の被害者安藤文さんから内線の電話があったのです。伝言のようでしたが、もう一度、一台だけ北陸ハイミールにミール移動に来るという指示で、被害者安藤文さんが指名したのが山下君でした。

140.       そのときは被害者安藤文さんが山下君を勝手に指名したように受け取ったのですが、当日のミール移動の階数が自分だけ多いような不服を山下君が言い出し、告発人廣野秀樹が2階にあがって被害者安藤文さんに自分が行くと伝えたのですが、咎め立てをするような口調になっていたかと思います。被害者安藤文さんも嘘がばれてしまったような顔で、少し笑っているように見えました。

141.       「広野さん、嫁さんおらんと不便やろ、会社の文ちゃんなってどうや」と和田君が言ったのも、印象的な場面として記憶にありますが、ちょうど金沢港の前の道路の交差点を右折するのに、ハンドルを回していたときのような記憶となっています。

142.       最初にミールの電話があった頃に、外はすっかり暗くなっていた記憶ですが、被害者安藤文さんの退社時間が過ぎていたかも気になるところで、あとミールを北陸ハイミールで積んだあと、倉庫に降ろしに行った記憶がなく、水島倉庫の可能性が高いですが、当時の松任市の一番外れのような場所で、到着は午後7時を過ぎていたような計算になりそうです。

143.       そもそもがかなりおかしな仕事の指示でしたが、被害者安藤文さんのことに集中する余り、指示のおかしさに気がつかずに過ぎていたことがありそうです。

144.       市場急配センターの業務日報では、1月17日に山梨行きの運行が始まり、1月19日の日曜日に、池袋の三越デパートからの展示会の引き上げの荷物を積み込み、翌日の20日の月曜日に金沢で荷下ろししたことになっています。

145.       その20日は名古屋行きのミールを金沢で積み込んだことになっていて、翌日の21日に名古屋で荷下ろしして、岐阜県可児市からパレットを積んだことになっています。運行上は翌日の22日の荷下ろしというかたちになるかと思いますが、21日の夕方遅くに、浜田漁業金沢工場で荷下ろしを終えているはずです。

146.       告発人廣野秀樹の記憶では、月曜日の1月20日に名古屋でミールの荷下ろしをして、その日の夕方遅くに浜田漁業金沢工場で荷下ろしをしていることになります。その夜はかなり寒かったのですが、会社に戻ってから1階の休憩室に一人でいて、けっこう長い時間、ファンヒーターのようなストーブの前で暖をとっていた記憶です。

147.       そのあと東力の自宅アパートに戻ってから電話があり、金沢にいるという前妻からの電話でした。前妻はアパートにも来ていますが、子供はタクシーに乗せたままという話だったと思います。そのあと夜中にも一人で来ているはずです。

148.       翌日の1月21日は、前述の通り、退社後に被害者安藤文さんと会って話す約束になっていましたが、夕方には被害者安藤文さんの態度がおかしくなって、約束自体を否定するようなことを言い出したと思います。これは4月1日の傷害・準強姦被告事件の当日の退社時とも実によく似ていた被害者安藤文さんの態度の変化ですが、被告発人池田宏美や被告発人梅野博之が被害者安藤文さんを戸惑わせ、不安を煽る言動をした可能性が高く、4月1日の場合は、被告発人池田宏美、被告発人梅野博之の供述調書に具体的な事実の記載がありました。

149.       記憶が薄れ現時点の手がかりが少ないのですが、被害者安藤文さんが大型トラック3068号から降りて自宅に帰ったのは19時から20時になるのではと推定します。1階の休憩室でその遅い時間に珍しく、かなりの数の運転手が集まっていて、そのあとすぐに解散となったような気がしますが、被告発人浜口卓也に誘われて彼の自宅アパートに行くことになりました。

150.       それまでの被害者安藤文さんとの関係を被告発人浜口卓也に話しましたが、一通り話を聞き終えると、今から被害者安藤文さんの自宅に電話を掛けて、被害者安藤文さんに直接話を聞くと言い出しました。夜の10時を過ぎていたような気がするのですが、電話をするのが非常識と思われるような遅い時間になっていたことは確かだと思います。

151.       たぶん告発人廣野秀樹が電話をしたのだと思いますが、電話に出たのは父親と思われる人でした。ほとんど経験がなかったような丁寧な電話口の対応で、家に帰ったばかりなので、よくわからないというようなことも言われた記憶です。2月の中頃、2回目に電話に出たときは、すぐ横にいる被害者安藤文さんになぜ出ないのかと軽く咎め立てをするような対応で、怪訝さが伝わりました。

152.       何時まで被告発人浜口卓也のアパートにいたのか思い出せないですが、日付は変わっていたと思います。市場急配センターの会社に戻って長距離の運行と同じように大型トラック3068号の社内で寝ようとしたのですが、考え事で寝付けず、1階の休憩室にある電話から被害者安藤文さんの自宅に電話をしました。当然に母親か父親が出るつもりで電話をしたのですが、出たのは被害者安藤文さんでした。時間がはっきりと記憶に残っていますが、午前2時頃です。

153.       3月23日の電話も似たことがありました。約束通り電話を掛けてきた被害者安藤文さんは、初めからずいぶん怒った様子で攻撃的でした。家ではなく外にいるとも話していましたが、場所を訪ねると「久安」と答えた記憶です。彼女の自宅からそう遠くはないですが、車でも5分以上は掛かりそうな場所です。

154.       電話を切ったあと被害者安藤文さんの自宅に電話をしましたが、被害者安藤文さんが外出中という前提で、母親か父親と話をするつもりでした。しかし、電話に出たのは被害者安藤文さんでした。詳細は省略しますが、この3月23日の夜の電話が4月1日の傷害・準強姦被告事件の原因にもなっています。

155.       被害者安藤文さんとの関係で強く印象にあるのは、3月10日頃のことで、2階事務所の間仕切りがある台所の前で、「もう話すことないちゅうことやな」と申し向けたところ、大きく背中がのけぞるような反応を起こしたことです。精神的にずいぶんと追い込まれ、神経が過敏になっているように見えました。

156.       告発人廣野秀樹の方も被害者安藤文さんの関係で思い悩み寝付けないことがありました。長距離トラックの仕事では、昼の決まった時間にしか睡眠をとることが出来ず、市場の仕事では夜通し朝方まで仕事することがありました。

157.       金沢市場輸送にいた平成3年の春頃になると思いますが、山三青果で古河の青果市場を出発する時間が21時を過ぎることがあり、富山、高岡、金沢、福井の4箇所おろしでした。なぜ福井の市場がなかったのか記憶にないですが、福井で荷下ろしを終えて金沢に戻ると、朝の7時に近い時間になっていたことがありました。

158.       21時の出発だと6時間で午前3時になりますが、高岡の市場は高速道路のインターから離れていて、富山や金沢の市場もインターの乗り降りには時間が掛かります。荷物は満載だったような記憶ですが、荷下ろしにも時間が掛かる上、特に金沢の市場の石川丸果の売り場では、先に荷下ろしをしているトラックが終わるまで待たされることもありました。

159.       今回の刑事告発で被告発人として追加したのが野田政仁弁護士と小堀秀幸弁護士になります。2023年6月30日の午後、金沢地方検察庁を出た頃には、心の中で決めていたかもしれません。当日中に決めたことは確かです。翌日の7月1日には平成4年という時の江村正之検察官と平成12年当時の山口治夫弁護士も被告発人に加えることが頭に浮かびましたが、十分に検討して理由付けをする時間がないため、今回は保留で見送りとしますが、重要な関係者で被害者安藤文さんやその家族の法益侵害の維持持続に強く関わりを持っていることは確かな事実です。

160.       午前中に忘れていた小川賢司裁判官を被告発人に追加しました。現職の水戸地方裁判所総括判事になります。被告発人野田政仁弁護士や被告発人小堀秀幸弁護士とどちらが先だったかよく憶えていませんが、こちらも6月30日に決めています。

161.       事後共犯の成否について改めて検討したところ平成11年の安藤健次郎さんに対する告発人廣野秀樹の傷害事件に、一審の国選弁護人として関与した被告発人野田政仁弁護士、控訴審の国選弁護人として関与した被告発人小堀秀幸弁護士、一審の裁判官として懲役1年8月の実刑判決を出した小川賢司裁判官の刑事責任は全体的な評価をする上で欠かすべきではないと判断しました。

162.       事後共犯について、ネット上の情報は乏しかったですが、ChatGPTでは犯罪の隠蔽も含まれるようにありました。法律は国ごとに異なるという但し書きもありましたが、参考にはなりました。

163.       「事後行為に関与する共犯者に対しては、先行する可罰行為との関係が存在せず、事後行為は独立に評価し得る事象となる。」という文献の記載を見つけました。Googleの検索結果には「共犯における正犯行為の構造的地位-3-_とあり、高橋則夫著ともあります。

164.       被害者安藤文さんに対する殺人未遂ですが、これを極めて単純な傷害・準強姦被告事件として有罪判決を確定させたのが、弁護士や当時の裁判官である被告発人です。「片面的共犯」をGoogleで検索すると、トップの「共犯2 – ウィキバーシティー」というページの要約に「片面的共犯 片面的共犯とは、共犯者・共同正犯者が、正犯または他の共同正犯者に対して、意思の連絡無く一方的に加功・関与するという関与形態を言います。 このように物理的因果性は肯定し得るものの心理的因果性に欠ける場合について、共同正犯や共犯として認め得るかが問題となります。」とあります。

165.       告発人廣野秀樹は、平成16年の8月か9月頃からインターネットで被害者安藤文さんを被害者とする刑事告訴、刑事告発、再審請求の情報公開をやってきました。2010年4月2日はTwitterを始めて、そこでも活発な情報公開や情報発信をやってきました。被告発人は全員がまったくの無反応で、御庁(金沢地方検察庁)には、返戻や不起訴処分を何度も受けてきました。検察が相手にしない以上、放置しておけばよという意思共同体が被告発人らに形成されているものと評価するほかはありません。

166.       被告発人木梨松嗣弁護士と被告発人長谷川紘之弁護士においては、有罪判決を確定させた上での再審請求で、検察や石川県警察の責任を問い、賠償金をせしめる共同意思がうかがえます。平成6年の11月の10日前後という同時期に、福井刑務所に服役中であった告発人廣野秀樹に、被告発人長谷川紘之弁護士は金沢地方裁判所民事部A係の担当裁判官であった被告発人古川龍一裁判官を介して、被告発人木梨松嗣弁護士は告発人廣野秀樹の母親・廣野己代子を介して、事件の記録を送付しています。

167.       - 【過労死】部活動は「教員の自主的活動」と反論も自治体に約8300万円賠償命令 遺族「二度と同じ思いを…」(TBS NEWS DIG Powered by JNN) - Yahoo!ニュース https://news.yahoo.co.jp/articles/993681a0d90e2725a97541d1231fe744f347cd3f?source=sns&dv=sp&mid=art07t2&date=20230705&ctg=dom&bt=tw_up

168.       図書館に来ていますが、新聞で上記のニュース記事をしりました。6紙のうち読売新聞だけ記事の掲載が見当たらなかったですが、他は大きめの記事で北陸中日新聞は社会1面のトップ記事になっていましいた。朝日新聞と毎日新聞で代理人の松丸正弁護士の名前を確認しています。記事の小見出しに県と市の賠償責任を認めるなどとありましたが、滑川市は司法判断を真摯に受け止め控訴はしないとコメントしたとあります。朝日新聞は「部活動も学校の責任」という大きな活字の見出しになっています。

169.       労働災害の損害賠償ではよく名前を見かけてきた松丸正弁護士になります。暑さで図書館に避難したというのが大きいのですが、出掛ける前、深澤諭史弁護士のTwitterタイムラインでもタイミングが不思議に思えるような発見があり、スクリーンショットで記録をしています。弁護士が無過失責任の主体のような内容でした。通常、無過失咳菌は過失がなくても責任があるという意味だったような記憶ですが、弁護士には事実上の責任がないというまさに弁護士宣言と思えるもので、前にも似たような内容のツイートは見かけてきましたが、一段とパワーアップしたように感じられました。

170.       図書館前は傘を持ち歩いてきましたが、途中、本書で取り上げておくべき事柄を考えていました。まず重要なのが、被告発人大網健二と被告発人木梨松嗣の関係です。被告発人長谷川紘之弁護士と連動した将来的な国や県の賠償責任追及という側面もありますが、被告発人大網健二を間に挟むと、市場急配センターの責任を回避させるための活動であったという風景も見えてきます。

171.       2012年の8月になると思いますが、京都の次女のおばさんに、控訴審の私選弁護人として被告発人木梨松嗣を紹介したのは被告発人大網健二だと言われました。思い出したことの確認のつもりでしたが、被告発人木梨松嗣弁護士が私選弁護人に決まった頃、平成4年の8月になるかと思いますが、次女のおばさんの夫の紹介と面会に来た母親に聞かされたのです。母親が長女なので次女のおばさんは妹になりますが、小学生で辺田の浜の家に住んでいた頃、夏になると毎年、車で遊びに来ていて、お盆の頃に決まって、珠洲の三崎町の浜辺の側の家に車で連れて行ってもらっていました。その次女のおばさんの夫の親しい友人であるかのような話を聞いていたことになります。被告発人木梨松嗣弁護士が珠洲市三崎町の出身である可能性を考えていたことになります。なお、珠洲市三崎町という正式な町名は近年知ったもので、地元では誰もが「珠洲の三崎」と呼んでいました。

172.       被告発人大網健二は、いちおう事後共犯のようなかたちになりますが、傷害・準強姦被告事件の前の平成3年12月の時点で、事情を知っていた可能性があり、前妻からの電話連絡なども情報提供しながら偶然ではない筋書きを描き、告発人廣野秀樹と被害者安藤文さんの関係に意図的な影響を与えていた可能性がうかがえます。その一番の理由は、12月に被害者安藤文さんの不可解な言動について相談したところ、意外に感じる素振りがなかったことにあります。

173.       被告発人大網健二が被害者安藤文さんに対して、「なんやその女」などと言いながら、被害者安藤文さんの自宅に電話を掛けたことがあります。裏駐車場の行動と電話にだない対応が始まったあとのことになります。よく憶えているのは、被告発人大網健二が被害者安藤文さんの家を相当大きな家かもしれないと、驚いたような様子で話し、その理由として電話口に出るのに時間が掛かったような話をしていました。コールを始めて受話器をとるまでに時間が掛かったような話ではなかったように思います。

174.       告発人廣野秀樹の平成9年1月18日の福井刑務所からの満期出所後、父親の残した土地の売却に協力し、金沢での住宅探しも手伝い、事前の相談もなく借家の保証人にもなっていた(あとで書面だけ見せられた)被告発人大網健二ですが、他にも引越の手伝いなどなにかと世話を焼きながら、告発人廣野秀樹が再審請求をしていることについては、時折、あからさまな不快感を示すだけではなく、かなり強い調子で辞めることを要求することもありました。その理由としたのが告発人廣野秀樹が福井刑務所に発生した被告発人大網健二の父親による美川2少年殺害事件になります。死刑の求刑で無期懲役が確定しましたが、告発人廣野秀樹が刑事裁判を続けることで、周りから変な目で見られたことなどを思いだして不快になるようなことを理由にしていました。

175.       平成4年4月1日の傷害・準強姦被告事件ですが、事前に事件を起こす考えは少しもありませんでした。被害者安藤文さんを殴ってしまう可能性はありうると考えていたので、被害者安藤文さんとは直接会うことをせず、電話で話を終わらせるつもりでいたのです。これが3月5日、3月23日の電話の目的でした。3月19日の電話や当日の被害者安藤文さんの言動は現在思い出せなくなっていますが、被害者安藤文さんに対してかなり強い不満を募らせていて、それが次に被害者安藤文さんが電話口に出た東名高速の神奈川県内のパーキングエリアからの電話で爆発し、被害者安藤文さんを罵倒するようなことを口走ったのです。

176.        ネットで調べたところ、東名高速の神奈川県のパーキングエリアは、中井PAの可能性が高そうです。余り聞き覚えがないと思ったのですが、静岡県寄りの山間部にあるパーキングエリアでした。山の山頂付近にパーキングエリアだけがあるような場所で、全国的にも珍しいという印象が残っています。初めて入ったのか記憶になりですが、東名高速のパーキングエリアやサービスエリアは、なるべく利用しないようにしていました。交通量が多く事故で通行止めの可能性が比較的高いという考えがありました。

177.       ENEOS 東名高速足柄サービスエリア(下り)SS 東京ガレーヂ から 中井PA (下り) - Google マップ https://www.google.co.jp/maps/dir/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%BE%A1%E6%AE%BF%E5%A0%B4%E5%B8%82%E6%B7%B1%E6%B2%A2%EF%BC%91%EF%BC%98%EF%BC%90%EF%BC%92%E2%88%92%EF%BC%99+ENEOS+%E8%B6%B3%E6%9F%84SA%E4%B8%8B%E3%82%8A%E7%B7%9ASS/%E3%80%92259-0155+%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E8%B6%B3%E6%9F%84%E4%B8%8A%E9%83%A1%E4%B8%AD%E4%BA%95%E7%94%BA+%E4%B8%AD%E4%BA%95PA+(%E4%B8%8B%E3%82%8A)/@35.3327756,138.7640965,76116m/data=!3m2!1e3!4b1!4m14!4m13!1m5!1m1!1s0x601975d96e9eb72b:0x2b504d7a74e5a776!2m2!1d138.9647473!2d35.3119889!1m5!1m1!1s0x6019a88212cf14f3:0xbfb86ddd5791d581!2m2!1d139.203566!2d35.3430493!3e0?entry=ttu

178.       御殿場サービスエリアだと思っていたのですが、よく考えてみると御殿場はインターチェンジの名前かもしれず、そのインターの側にあったのが足柄サービスエリアと思えてきました。中井PAまでは40.7キロとあります。

179.        3月21日には同じ東名高速で静岡県の清水インターから茨城県古河市の山三青果に行っていますが、山三青果で最後の運行になった3月30日は同じ茨城県古河市の山三青果から東名高速で浜松市と名古屋市の青果市場に行っています。途中に休憩などした記憶はないのですが、瓦の帰り荷を積むと前日に指示を受けたいた愛知県碧南市の入り口に着いたのは、外が明るくなった時間でした。古河を出発した時間は記憶にないですが、けっこうハードな運行だったようです。

180.       とても強く印象に残っているのは、駅のような大きなビルと広い駐車場がある足柄サービスエリアで、居眠り運転はしなかったと思いますが、その可能性を強く感じて危機感を感じました。

181.       ちょうど碧南市の看板がみえたところで、右手に手前に土を固めたような広いスペースのあるコンビニを発見し、そこで仮眠をとり、会社に電話をしました。瓦の仕事はなくなったと言われました。この瓦を積んでくる仕事はほかの運転手に何度か話を聞いていたのですが、一度もすることがありませんでした。

182.       今考えると最初から当日に碧南市から瓦を積むような仕事などなく、疲弊させることが目的で碧南市まで行かせていた可能性があるように思えてきました。前日に決まっていて、当日に取消しになる帰り荷は、他にも経験がありません。

183.       名古屋市から碧南市のルートをGoogleマップで調べて見ましたが、約45キロということで思ったほどの距離はありませんでした。金沢市場輸送では名古屋市の周辺から帰り荷を積むことが珍しく、星崎運輸の会社に行き、帰り荷が出なかった以外に、何かを積んできたと思い出せる運行はありません。

184.       その名古屋市の周辺で当日になって帰り荷が決まったというのも珍しく感じますが、愛知県小牧市から石川県小松市までのアサヒビールの缶ビールを積みました。小松市から金沢市は約30キロで、Googleマップのルート検索でもそのぐらいと確認しました。いったん金沢に戻って早朝に小松市に向かうことも考えたのですが、小松市で荷物をおろしてから金沢に戻ることを決めました。これが悪かったような気もするのですが、なかなか寝ることができず、うたた寝をするような時間はあったかもしれないですが、とても長い夜で朝を迎えたという記憶です。

185.       平成11年8月8日の安藤健次郎さんに対する傷害事件に移ります。安藤健次郎さんの告発人廣野秀樹に対する態度に変化があったのは、平成11年2月25日付となっていることを確認した石山容示裁判長による再審請求の棄却決定があってからのことになります。その年の4月には集中的に金沢市山科の現場に通っていました。二ヶ月まではなかったと思いますが、その現場に行かなくなったあと、2,3週間ほど毎日のように行ったのが、山科の現場と同じ松任市の堀田建設の仕事で山中温泉の現場した。6月に入っていたような記憶ですが、その山中温泉の現場に通っている頃に、安藤健次郎さんからPHSの携帯電話の番号を教えられました。

186.       平成9年1月18日に福井刑務所を満期出所した後、同年7月の1日か2日には金沢の北安江の借家に引っ越し、金沢で生活をするようになりますが、5月か6月中に被害者安藤文さんの自宅に電話を掛け、電話に出た母親と思われる女性に泣きながら電話番号を教えられ、そちらに掛けるように言われました。

187.       その電話番号というのが、当時の松任市の旭工業団地にある西鐵工所でした。その最初の電話で決めたのか記憶にないですが、9月に金沢で会うことに決まったように思います。最初に掛けた電話の内容も記憶にないですが、9月20日頃に金沢の香林坊大和前で待ち合わせをして、すぐ近くの中央公園で話をするまでの間、電話をすることがあったのかどうかも記憶にありません。

188.       一度、中央公園で会って、直接話をした後だったようにも思えるのですが、安藤健次郎さんの方から西鐵工所の方に18時以降、月に1回は電話を掛けてよいと言われました。自宅には絶対に電話をするなとも言われていたように思います。月に1,2回で電話をしていましたが、平成9年10月から平成11年8月と数えてもけっこう長い期間と階数になります。その割に記憶していることは少ないのですが、安藤健次郎さんが余り話をしてくれなかったからと思います。

189.       「そのうちわしらの気持ちが変わるようなこともあるかもしれんな」と言われたことがありましたが、10年か20年先を指しているような話しぶりとして記憶にあります。「再審になったらそのときは話を聞く」と力強い声で言われたこともありましたが、前後の会話の流れは記憶になく、この二つは平成9年の秋だったような気がします。

190.       平成11年の11月の20日頃になるのか、市場急配センターの事務所で被告発人松平日出男と会って話をすることが決まりました。1998年のカレンダーを確認すると11月22日の日曜日の可能性が高そうです。

191.       前日になるのか、このときだけは18時より早い時間だったように思えるのですが、金沢市間明のマルエーというスーパーの前にある電話ボックスから西鐵工所の安藤健次郎さんに電話を掛けた記憶があります。午後1時半だったように思いますが、その時間に被告発人松平日出男と会って話をすることが決まったので、よければその時間に市場急配センターに来てほしいと伝えました。

192.       安藤健次郎さんはすぐに行かないようなことを穏やかな話し方で言ったような記憶ですが、それに続けて、穏やかな口調のまま声の大きさを変えることもなく、「あんな会社つぶれてもかまわん」と言ったのが印象的でした。この前にも何か一言があったような気もするのですが、思い出せなくなっています。

193.       7月6日17時08分になっています。明日7月7日の午後には、この告発状を書き上げ、印刷をして能都郵便局から郵送する予定です。この告発状の作成を始めたのは昨日7月5日の16時を過ぎた頃だったように思います。

194.       平成11ね8月8日の安藤健次郎さんに対する傷害事件ですが、一審の国選弁護人となった被告発人野田政仁弁護士、控訴審の国選弁護人となった被告発人小堀秀幸弁護士の両名は、安藤健次郎さんと告発人廣野秀樹の関係について一切話を聞くことをせず、再犯になるので実刑で刑務所に行くことは確実とだけ法律の説明をしていました。

195.       懲役4年の有罪判決が確定した平成4年の傷害・準強姦被告事件を法律上の絶対的根拠として、その余を一切の事情や事実を切り捨て除外したのは、一審で懲役1年8月の実刑判決を出した被告発人小川賢司裁判官も同じです。

196.       /Users/a66/Dropbox/Mac/Documents/kk2023part2/kk2023jpg/077_平成11年12月21日宣告 判決 検察官下平豪出席の上審理 弁護人(国選)野田政仁 求刑懲役2年 金沢地方裁判所裁判官 小川賢司 7頁/077_平成11年12月21日宣告 判決 検察官下平豪出席の上審理 弁護人(国選)野田政仁 求刑懲役2年 金沢地方裁判所裁判官 小川賢司 7頁-1.jpg

197.       平成11年12月21日付となっている被告発人小川賢司裁判官の判決書を確認しました。未決勾留の算入が60日になっていることが真っ先に目に飛び込みましたが、これまで気にすることがなかったように思います。金沢刑務所の拘置所に移送されたのが9月の20日頃という記憶ですから極端に短いことはないような気もしますが、単純に2ヶ月前田と10月21日になります。金沢中警察署に逮捕されたのが8月12日なので、警察署にいるあいだの勾留は一切算入の対象にならないのかもしれません。

198.       判決書で確認したかったのは、安藤健次郎さんの怪我の程度ですが、通院加療約10日間を要する、などの記載となっていました。下平豪検察官による求刑が懲役2年となっているので、それに影響された可能性はありそうですが、10日間の怪我となっている傷害事件で、懲役1年8月というのは、相当に重い量刑になると思います。

199.       下平豪検察官の真意ははかりかねますが、弁護士の対応にこそ戦慄し、社会的な危機感を感じ、驚愕していたのかもしれません。

200.        Wordのページ内検索でわかりづらさがあるのですが、「人生」をキーワードにした検索結果は今のところなさそうです。ここで勘違いに気がつきました、検索すべきキーワードは「一生」でした。

201.       「一生」でも該当する検索結果の該当はなさそうです。まだ記載をしていないらしいことを確認出来ました。

202.       「刑事は終わった。お前が刑務所行って。今度は民事や。いくら金使こうてもかまわん。お前を一生苦しめてやる。」「犯罪者から連絡してくること自体がまちがっとるんや」、正確にそのままの言葉を記憶している自信はないですが、平成11年8月8日の夜、ニュー三久富樫店の駐車場で安藤健次郎さんに言われた言葉です。この直後に、告発人廣野秀樹は懲役1年8月となった安藤健次郎さんに対する傷害を起こすことになりました。

203.       安藤健次郎さんとは傷害事件を起こす前に、直接会って話をすることになっていましたが、告発人廣野秀樹に同伴者を付けることを条件にしていました。暗に求めたと思える人物は、被告発人大網健二か関係者KYNのいずれかです。逮捕後に聞いた話かもしれませんが、安藤健次郎さんは、その話し合いの場に、金沢中警察署の捜査官を同席させるように考えていたようです。

204.       告発人廣野秀樹は、被告発人大網健二を刺激することに強い危機感を感じ、ストレートに安藤健次郎さんの自宅が放火される可能性を考えました。実際に、被告発人大網健二兄弟の父親の美川2少年殺害事件では、父親が被害者の自宅の縁の下にもぐって放火未遂をしたような新聞報道がありました。

205.       この美川2少年殺害事件と近い時期には、すでに被害者安藤文さんの訴訟代人になっていたと思われる被告発人長谷川紘之弁護士の仮住まいのマンションで、妻が白昼に強盗の被害に遭ったという新聞報道がありましたが、逮捕されて福井刑務所に服役した被疑者が、新入教育の第一工場で、被告発人長谷川紘之弁護士の妻を強姦したと話しているということを他の受刑者に聞きました。

206.       平成13年になるかと思いますが、安藤健次郎さんに対する傷害事件で金沢刑務所に服役中には、被告発人古川龍一裁判官の妻がストーカー事件を起こし、被告発人古川龍一裁判官がパソコンのハードディスクを破壊するなどして隠蔽を行ったというニュースがあり、金沢刑務所で閲覧していた読売新聞では、司法史上最大の不祥事などという見出しも踊っていたと記憶にあります。

207.       告発人廣野秀樹に、再審請求をやめることを強く求め、西金沢駅近くの「一水」という被告発人大網健二の馴染みの小料理屋で、カウンターから座敷席に戻るとき、「いうこときかんやつは殺してしまえ、殺してしまえばいい」と不気味な呪文のような言葉を唱えたのも被告発人大網健二の兄である関係者OSNであり、被告発人浜口卓也とは能都中学校の同級生で、義兄弟ともいわれていた親しい関係性があります。

208.       今考えると金沢中警察署の警察官を話し合いの場に同席させるのであれば、被告発人大網健二や関係者KYNを交えて話をするのも大きな危険性はなく、その反応をみることが被告発人大網健二兄弟の父親の美川2少年殺害事件の真相を探るという石川県警察の合理的な目的があったとも考えられますが、やはり安藤健次郎さんが警察官を同席させるという話は、傷害事件を起こす前の告発人廣野秀樹には考えの及ばなかったことになるのではと、あくまで現在の記憶の範囲でありますが、そのように思われます。

209.       11月中を最後に、告発人廣野秀樹は被害者安藤文さんに交際を求める話はしていなかったと思います。たぶんですが、11月25日の電話の前の電話か、その前の電話が被害者安藤文さんに交際を求めた最後の電話になると思います。

210.       11月25日の電話でも、実際に被害者安藤文さんに好きな人や交際している男性がいるのかは二の次の問題で、被害者安藤文さんは、告発人廣野秀樹に対して十分すぎる交際に向けた意思表示を体当たりのような言動で示してくれていると考えていました。自分にそれほどの魅力があるのか疑問でした、十分すぎる自信を与えてくれたという感謝の気持ちもありました。

211.       一方で、極端な真逆と思いますが、その気にさせて交際を断る被害者安藤文さんに不信感を抱き、人として相当深刻な問題性があるのかと真剣に考えることもあり、被告発人池田宏美や被告発人梅野博之、被告発人松平日出男という親身な上司が、被害者安藤文さんの気まぐれに翻弄された被害者のように映ることもありました。被告発人松平日出男らが被害者的な振る舞いを印象づけていたというのも事実になります。

212.       - 山口成良|プロフィール|HMV&BOOKS online https://www.hmv.co.jp/artist_%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E6%88%90%E8%89%AF_200000000349496/biography/

213.       時刻は7月7日8時23分です。7時前に目が覚めていましたが、目が覚めてから山口成良金沢大学教授を被告発人に追加していなかったことに気がつきました。被告発人に加えるべきと決めたのは7月1日、香林坊のホテルから小立野の石川県立図書館まで歩いているとき、立ち止まって金沢大学病院の建物を見たときです。金沢大学名誉教授となっていたような記憶で、それを確認するつもりでGoogleで検索したところ、すぐに上記のページが見つかりました。これまでに見たことのない情報が含まれています。

214.       上記URLのページには「1929年1月七尾市にて出生。1941年3月七尾市立袖ヶ江尋常高等小学校尋常課程卒業。1945年3月石川県立七尾中学校4年課程卒業。8月海軍経理学校予科修了。1948年3月第四高等学校理科乙類卒業。」とあります。昭和4年七尾市の出生というのは、数年前に見かけた情報で知っていました。1月というのは初めて見ましたが、告発人廣野秀樹の母親、廣野己代子と同じで昭和4年1月19日生まれになります。

215.       「1961年8月より2年間アメリカ合衆国へ出張。」とありますが、他は金沢大学関係で、昭和43年に助教授、昭和50年5月に教授、平成2年4月より2年間金沢大学医学部附属病院長併任とあり、平成6年4月になって金沢大学とは違う松原病院院長とあります。2010年4月に松原病院名誉院長とありますが、これを金沢大学の名誉教授と勘違いしていた可能性が高そうです。

216.       被告発人小島裕史裁判長もネット情報のプロフィールで金沢大学卒業とみていますが、被告発人木梨松嗣弁護士も金沢大学の卒業で、被告発人のなかではこれで3人目になりそうです。実際はまだいる可能性がありますが確認は、公開された情報に頼るしかありません。この被告発人山口成良金沢大学教授は、登山愛好家で特に白山とゆかりがあるという情報も見ています。

217.       Googleの検索結果に、山口成良金沢大学教授も叙勲していたことが出てきましたが、被告発人若杉幸平弁護士も叙勲をしていて、他にも1,2人被告発人の中で叙勲を確認しています。

218.       - 郷原信郎【長いものには巻かれない・権力と戦う弁護士】さんはTwitterを使っています: 「謝罪する気もなく、自分は正しかったと堂々と言い張っているのだから、その検事の名前を報じてやるのが当然ではないのか、こういうマスコミの「気遣い」が検察の独善をますます助長する。」 / Twitter https://twitter.com/nobuogohara/status/1677085578075189248

219.       上記の郷原信郎弁護士のツイートは、本日2023年7月7日の午前7時42分です。7398件の表示で、リツイートが90,引用2,いいねが167、ブックマークが2となっています。

220.       - 郷原信郎【長いものには巻かれない・権力と戦う弁護士】さんはTwitterを使っています: 「なぜ、「謝罪しない検察官」の実名を報道しないのか。この検察官、デイリー新潮https://t.co/yioSfJnEyfによると、大阪地検特捜部の証拠改ざん事件をめぐって、特捜部長に「改ざんを公表すべき」と迫ったが、上司への報告後は公判立会で有罪立証していた塚部貴子検事とのこと https://t.co/vQqERpu3cj」 / Twitter https://twitter.com/nobuogohara/status/1677080413809049600

221.       上記の郷原信郎弁護士のツイートは、これも本日で午前7時21分。表示が1.3万、リツイートが103,引用が8,いいねが156,ブックマークが5となっています。

222.       郷原信郎弁護士のツイートに実名がある塚部貴子検事ですが、昨日に名前を見かけています。未確認ですが趙誠峰弁護士のツイートが始まりだったように思います。塚部貴子検事の名前を知る人は少ないと思われますが、検察の歴史に大きな影響を与えた人物という告発人廣野秀樹の認識で、7月1日に金沢で見た歴史博物館と重なる貴重な資料性を感じています。

223.       不思議なことに現地では気がつかなかったように思うのですが、宇出津に戻ってからネットで調べると、正式名称のようなものが歴史博物館となっていました。「赤レンガミュージアム」という名称がイメージの相違で博物館とは結びつかなかったように思います。

224.       - #弁護士大ピンチずかん - Twitter検索 / Twitter https://twitter.com/search?q=%23%E5%BC%81%E8%AD%B7%E5%A3%AB%E5%A4%A7%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%81%E3%81%9A%E3%81%8B%E3%82%93&src=typeahead_click&f=live

225.       - 刑事告発・非常上告\金沢地方検察庁御中(@hirono_hideki)/「#弁護士大ピンチずかん」の検索結果 - Twilog https://twilog.togetter.com/hirono_hideki/search?word=%23%E5%BC%81%E8%AD%B7%E5%A3%AB%E5%A4%A7%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%81%E3%81%9A%E3%81%8B%E3%82%93&ao=a&order=allasc

226.       7月4日の午前8時41分18秒が最初のリツイートになっています。午後から夕方という時間帯に最初に見かけたように思っていました。それも一昨日になる5日です。Twitterのトレンドでみかけ、割と珍しいことですが、翌日もトレンドで見かけていました。

227.       - 刑事告発・非常上告\金沢地方検察庁御中さんはTwitterを使っています: 「RT @9L1ZTxR8630irXW: 弁護士大ピンチずかん 2 手帳に 7月6日14時から というメモがあるが、何の予定かは書いていない 大ピンチレベル 70 #弁護士大ピンチずかん 」 / Twitter https://twitter.com/hirono_hideki/status/1676013278106091521

228.       - 刑事告発・非常上告\金沢地方検察庁御中さんはTwitterを使っています: 「RT @9L1ZTxR8630irXW: 弁護士大ピンチずかん 2 手帳に 7月6日14時から というメモがあるが、何の予定かは書いていない 大ピンチレベル 70 #弁護士大ピンチずかん 」 / Twitter https://twitter.com/hirono_hideki/status/1676013278106091521

229.       上記が最初のリツイートのツイートです。時刻が3日で午後1時12分となっています。なるほどと思える発見のツイートでした。これから過去の資料を読み込んでいく上で、また経験しそうな問題で、すでに高崎に向かった徳光パーキングエリアで経験しています。予定がまったく書いていないのとは違っていますが、似た点はあります。

230.       - 法テラ弁さんはTwitterを使っています: 「弁護士大ピンチずかん 18 起案の神が降りてきて一気呵成に書面完成させ、明日見直して修正するつもりが、保存できてないか同名で上書きしたらしくデータ消失。 大ピンチレベル70 #弁護士大ピンチずかん 」 / Twitter https://twitter.com/9L1ZTxR8630irXW/status/1676958981653405698

231.       Wordでクリップボードの画像を貼り付けてみたのですが、画像の一部しか表示されませんでした。やはり本書とは別に、noteの記事などで資料とします。

232.       トレンドがハッシュタグにもなっていますが、Twilogを開く前、最新のタイムラインの2つ目に表示されたのが、同じ法テラ弁というアカウントの次のツイートになります。

233.       - 法テラ弁さんはTwitterを使っています: 「弁護士大ピンチずかん 18 起案の神が降りてきて一気呵成に書面完成させ、明日見直して修正するつもりが、保存できてないか同名で上書きしたらしくデータ消失。 大ピンチレベル70 #弁護士大ピンチずかん 」 / Twitter https://twitter.com/9L1ZTxR8630irXW/status/1676958981653405698

234.       この起案の神という言葉は、これまでも弁護士のツイートにちょくちょくと見かけてきました。すでにスクリーンショットは作成しているのですが、そのスクリーンショットを作成しようとしたときにTwitterのトレンドで見かけたのが、また新しい発見で「泥棒教授」になります。

235.       - 泥棒教授 - Twitter検索 / Twitter https://twitter.com/search?q=%E6%B3%A5%E6%A3%92%E6%95%99%E6%8E%88&src=trend_click&vertical=trends

236.       - 泥棒風 - Google 検索 https://www.google.com/search?q=%E6%B3%A5%E6%A3%92%E9%A2%A8&rlz=1C5CHFA_enJP993JP993&sxsrf=AB5stBjduN8SVyWFE3z7OeHe4kQh03eotQ%3A1688689872657&ei=0FynZJDqJ4isoAS3joe4BA&ved=0ahUKEwiQkvv_q_v_AhUIFogKHTfHAUcQ4dUDCBA&uact=5&oq=%E6%B3%A5%E6%A3%92%E9%A2%A8&gs_lcp=Cgxnd3Mtd2l6LXNlcnAQAzoHCCMQigUQJzoECCMQJzoNCAAQBBCABBCxAxCDAToICAAQgAQQsQM6CggAEAQQgAQQsQM6BwgAEIoFEEM6BwgAEAQQgAQ6BQgAEIAEOgUIABCiBEoECEEYAFAAWM0mYIUuaABwAXgAgAGGA4gBgg6SAQc1LjUuMC4ymAEAoAEBwAEB&sclient=gws-wiz-serp

237.       - 泥棒風 宇出津 - Google 検索 https://www.google.com/search?q=%E6%B3%A5%E6%A3%92%E9%A2%A8%E3%80%80%E5%AE%87%E5%87%BA%E6%B4%A5&rlz=1C5CHFA_enJP993JP993&sxsrf=AB5stBjUTOvfFX3wXcWURozopfJQlCRF1w%3A1688690598530&ei=pl-nZM_-H9LP2roPqbq4oAc&ved=0ahUKEwjP6Yrarvv_AhXSp1YBHSkdDnQQ4dUDCBA&uact=5&oq=%E6%B3%A5%E6%A3%92%E9%A2%A8%E3%80%80%E5%AE%87%E5%87%BA%E6%B4%A5&gs_lcp=Cgxnd3Mtd2l6LXNlcnAQAzoKCAAQRxDWBBCwA0oECEEYAFCBGli_JGCwKmgEcAF4AIABjwGIAYUGkgEDMi41mAEAoAEBwAEByAEB&sclient=gws-wiz-serp

238.       - あばれ祭り|NPO 日本の祭りネットワーク https://www.nippon-matsuri.net/report/abare/

239.       初めて見るページですが、掛け替え前の梶川の橋がでてきました。ずいぶん前のことのようですが、今年は2013年なのでちょうど10年ほどなのかと思います。調べれば、前の梶川橋を撮影した写真があります。

240.       数日前に、宇出津のあばれ祭が現在の7月の第一金土になったのが平成14年と知ったのですが、平成17年まで毎年7月7日、8日と決まっていたように思っていました。平成17年は能登鉄道が廃線となり、宇出津の鳳至郡能都町が、鳳至郡柳田村、珠洲郡内浦町と合併し現在の能登町になった年です。

241.       宇出津のあばれ祭の由来で青蜂は昔から知っていたように思いますが、「泥棒風」を知ったのは、平成14年11月25日頃から住み始めた羽咋市のアパートで、インターネットで見たという記憶です。

242.       今になって気がついたのですが、平成14年のあばれ祭は、当日の夕方に電話があり、2日続けて酒垂という町内のキリコをかつぎ祭に参加をしていました。それ以来、参加したことはなく、羽咋市に住んでいる間は、祭に帰って見物することもありませんでした。

243.       この泥棒風ですが、疫病で人の生活や人生そのものを奪うというイメージがあります。病気に限らないですが、病気の中でも精神病で考えると、石川県で歴史的権威のあるのが被告発人山口成良金沢大学教授になります。告発人廣野秀樹の母親、廣野己代子は、告発人廣野秀樹が羽咋市に住んでいた終わり頃に統合失調症を発症したと聞いています。2009年(平成21年)8月31日の朝には、脳出血を起こし、珠洲市立総合病院に救急搬送され、それからずっと寝たきりの状態です。日付をよく憶えているのは、日曜日に大きな国政選挙があった翌日だったからです。

244.       被告発人山口成良金沢大学教授の作成した告発人廣野秀樹の精神鑑定書も検証し直し歴史的な資料の作成をしておく必要を考えています。精神的に追い詰められて傷害・準強姦被告事件を起こしたのは確かですが、その事実は極めて外形的なものだけが弁護士らによって利用されました。

245.       そういえば昨日、図書館で気になる新聞記事を見ていました。「滑川市」のページ内検索で確認したところ、「168」と「169」に記載がありました。これほど因果性が薄く感じられた損害賠償請求の認容判決というのも初めてですが、認容額も8300万円と高額で、「損害の公平妥当な分配」と平成7年か8年に読んだ専門書の不法行為法の理念に照らし、どうなのかと考えています。弁護士と裁判官が一体化すれば、なんでもありになりそうとも思いました。

246.       この不法行為の専門書もそうですが、拘置所や服役中は、告発人廣野秀樹の母親、廣野己代子から現金を何度も現金封筒で差し入れてもらい、本を郵送で差し入れてもらったことも度々でした。福井刑務所では「法律時報」という月刊の情報誌も毎月差し入れてもらっていました。

247.       時刻は10時25分です。今回はWordで文書ファイルを作成しているので、印刷でトラブルを起こす可能性は少ないと考えています。資料に変更した令和5年6月の告発状は、テキストファイルからのPDFファイルの作成でしたが、目次の作成に失敗していました。印刷も失敗しているのですが、実際より1つ多い総ページ数で印刷され、後で印刷した方は正しくなっていました。

248.       市場急配センター関係者の被告発人ですが、告発人廣野秀樹を精神的に追い詰め、その原因を被害者安藤文さんに作らせ循環させながら増幅させる装置のようなシステムを構築したといえます。交際を申し込んで断られるというのは精神的なダメージも大きかったですが、それが何度も繰り返されました。被害者安藤文さん自身も相当思い悩み苦しんでいるように見えたので、救済と現状打開のためには、暴力という非常手段もやむを得ないという段階に達したことになります。

249.       - 座間9人殺害事件 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%A7%E9%96%939%E4%BA%BA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

250.       地名になっている事件名を思い出すのに30秒ほど時間が掛かりました。この事件が特に代表的だと思ってご紹介するのですが、若い女性の自殺願望という問題です。平成4年4月1日に告発人廣野秀樹が傷害・準強姦被告事件を起こしていなければ、その後どうなっていたのかと考えることがあります。

251.       決まっていたことは、翌日の4月2日に東京行きの引越の荷物の運行で、それに被告発人多田敏明を同乗させて連れて行くという指示が出ていたことです。珍しく思える仕事で、被告発人多田敏明を同乗させるというのも長距離運転手育成のための新たな教育プログラムなのかなどと漠然と考えていましたが、夕方の被害者安藤文さんの態度の急変で頭から消し飛んでいました。

252.       東京だけではなく関東に引越の荷物を運ぶ仕事をしたことはなかったと思います。金沢市場輸送では鮮魚を運ぶ保冷車なので客が嫌がり、苦情を入れることもあると聞いていましたが、それでも忙しい時期には引越の仕事がありました。特に印象に残っているのは佐賀県の嬉野温泉と長崎県島原市です。島原市の運行は、ちょうどその1年後あたりに雲仙普賢岳の大災害が発生しました。岩手県釜石市のたぶん日本通運ですが、そこも歴史を感じさせる建物で、引越の荷物をそこでおろしたか別のトラックに積み替えました。

253.       4月1日の夕方、レストラン十字で被害者安藤文さんと二人でいるとき、明日の運行のことはすっかり忘れていたのだと気がつきました。

254.       検証や分析がまだまだ必要ですが、市場急配センターの業務日報には改竄の痕跡が多数あります。書き換えるという意味での改竄というより、事前に用意したものですり替えた可能性が高いとみています。例えば、11月26日に富山県高岡市からアルミサッシを積み翌日の27日に群馬県高崎市で荷下ろししたことになっています。

255.       すでに本書で書いてある部分もあるかと思いますが、11月26日は浜上さんや被告発人多田敏明と中京・関西方面に向けて走り、北陸自動車道の福井県内、南条サービスエリアで集まっています。

256.       群馬県高崎市での荷下ろしで記憶があるのは、市場で青果物の荷下ろしをしたことです。高崎市は関越自動車道の高崎インターの周辺の他、国道17号線と国道18号線を通過した記憶しかありません。

257.       富山県のアルミサッシの仕事は多く経験していますが、ほとんどは大きな配送センターでの荷下ろしでした。個人名だったような気がしますが、2,3回、金沢市場輸送で行った記憶の鹿児島県加治木町の卸先も、ホームセンターの大きな倉庫のような場所でした。他に印象に残るのは、島根県出雲市で国道9号線沿いにある工務店のような会社でした。前から通るたびに気になっていた会社でアルミサッシの看板がありましたが、緩いカーブ沿いにあって、国道が広く単調なので、居眠り運転のトラックが飛び込む可能性を考えていました。

258.       アルミサッシの荷主が名鉄となっているのも気になっているのですが、富山で名鉄の仕事をしたことはなかったような気がします。

259.       - 北陸名鉄運輸 金沢支店 - Google マップ https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%8C%97%E9%99%B8%E5%90%8D%E9%89%84%E9%81%8B%E8%BC%B8+%E9%87%91%E6%B2%A2%E6%94%AF%E5%BA%97/@36.5625919,136.6140864,16.76z/data=!4m15!1m8!3m7!1s0x5ff834be5fa5dbb3:0xd4a4bbd574391ed7!2z44CSOTIxLTgwMDUg55-z5bed55yM6YeR5rKi5biC6ZaT5piO55S6!3b1!8m2!3d36.5655335!4d136.6166638!16s%2Fg%2F1pxyyb883!3m5!1s0x5ff834be4f9dd1d1:0x6bc03ff940485f25!8m2!3d36.5648268!4d136.615519!16s%2Fg%2F1tf81g10?entry=ttu

260.       住所は金沢市間明2丁目となっています。ここは金沢市場輸送で何度か仕事に行ったことがあります。昭和59年には、大型保冷車が定期便をやっていて、その荷物の積み込みの手伝いをしたことがありました。九州で数カ所の荷下ろしをして最後が鹿児島とも大型車の運転手に話を聞いていました。

261.       何を目的に事実とは異なる業務日報をこしらえたのか、現時点で真相に迫れる確実なものはないですが、最初に目を通したときに、完全におかしいと思ったのは、24トンのミールの倉庫移動が1つのもなかったことになると思います。

262.       業務日報の内容をExcelでデータ化してあるのですが、市場急配センターでミール移動は12月27日が最初で、平成3年の年内はその一日だけとなっています。ミール移動が始まった時期としては記憶にあっているのですが、年内に一日だけということはなかったような気がしています。

263.       今考えてみると、平成3年の初め頃で金沢市場輸送の大型ウィング車でのミール移動というのが記憶にありません。昭和61年の12月から翌年の1月は、金沢市場輸送のポンコツの大型平ボディ車でミール移動をやっていました。浜田漁業金沢工場のミール移動です。北陸ハイミールは平成元年12月からの始まりでした。北海道の釧路市に本社があると聞いていました。日本海側最大のミール工場と聞き、1日に処理できるのが1600トンとも聞いた記憶です。

264.       浜田漁業金沢工場と北陸ハイミールのミールには違いがありました。どちらも紙袋に入れてパレット積みするのは同じですが、大型車にパレットを1段で積むと、浜田漁業金沢工場の場合は12パレット、北陸ハイミールは10パレットでした。12パレットの方が高さがあり二段積みは出来ないと聞いていました。

265.       市場急配センターでミールの倉庫移動が始まり、すぐではなかったような記憶ですが、しばらくして2段積みを始めたのです。一段が12トンなので2段積みは24トンになります。

266.       1段で12トンというのは、パレットの大きさが違う浜田漁業金沢工場も同じという記憶です。平成3年になると違っていたと思いますが、名古屋方面が多いミールの輸送では、一段のパレット積みで、3枚のパレットのミールを手積みで上に乗せるというのが基本でした。これで15トンになります。

267.       ミールの倉庫移動で手積みで上にのせたという記憶はないのですが、一段のパレット積みだけで倉庫移動をしていたという記憶もなく、思い出せなくなっています。

268.       たぶん被告発人東渡好信の発案で2段積みを始めたのだと思います。それらしい話を聞いたような記憶もかすかにはあります。2段積みは北陸ハイミールだけですが、フォークリフトでミールの積み込みをしていたのも被告発人東渡好信がほとんどだと思われ、他に記憶がありません。フォークリフトでのミールのパレットの2段積みは、相当の技倆を要すると、実際にその作業を見ながら考えていました。

269.       2月3日、福岡行きのミール24トンを水島倉庫で積んでいます。記憶の変遷で2月1日に積みおきしたものと2,3ヶ月前の最近まで取り違えていたように思います。2月3日の出発当日にミールを積み込んでいたと見たときは驚きました。2月3日に出発したことはよく憶えていましたが、それだけでも無理な運行をやったものだと、当時の自分の精神的な余裕のなさに思いを馳せていました。

270.       2月3日、午前中には出発していたと思いますが、最初から福井県の敦賀インターで降りて、国道161号線、京都市内を過ぎた辺りの国道171号線に出てフェリー乗り場の神戸というルートを想定していました。台貫場のある金沢西インターは避けたはずなので、金沢東インターから北陸自動車道に乗ったと思うのですが、金沢西インターを過ぎた辺りで、道路の混み具合でフェリーの時間に遅れる可能性があると判断し、米原バリアから名神高速で神戸に向かうことに決めました。心配していた悪い予感が的中して、米原バリアで検問の警察官に台貫場にのせられ、反則切符をきられました。

271.       平成2年の3月頃に乗務した金沢市場輸送の冷凍機付き保冷車108号も同じでしたが、大型ウィング車3068号もエンジンが同じ直6のターボ車でした。ターボでそれなりに馬力はあったのですが、V型8気筒や10気筒の大型車のエンジンとは違い、エンジンブレーキの弱さを感じ、排気ブレーキも弱かったと思います。18トンぐらいの荷物だと余り問題を感じなかったのですが、23トンぐらいになると違いを感じました。

272.       金沢市場輸送の保冷車で20トン以上の荷物を積むことは少なかったですが、3回ほど山口県下関市からはっきりとは憶えていないですが23トンと聞いていたような記憶の荷物を運ぶことがありました。金沢にある北陸珍味という会社の商品で、酒のつまみとしてよく見かけていたのですが、カワハギの商品がありました。その原料と聞いた冷凍のカワハギの荷物です。韓国からの輸入らしく日本では見ることのないような油紙のような段ボール箱でした。これを満載にしていた記憶です。

273.       Googleマップで確認すると国道191号線です。島根県益田市でいつのも国道9号線と交わるのですが、けっこうな遠回りでした。金沢市場輸送の場合、九州方面は山口県の小郡インターから先の高速道路の利用が認められていました。重量超過でなければ下関インターから中国自動車道に乗り、山口インターで降りていたと思います。会社の指示は小郡インターですが、酔客と脇見で事故の可能性が高まる湯田温泉の通過を避けるため、山口インターを使うようになりました。国道191号線は全線広い道で、急なカーブもなかったという記憶ですが、単調な長い下り坂があって、そこでスピードが出すぎて、危ない思いをしたことがありました。重量超過で怖いのは、この下り坂での加速になります。加速する前に運転で制御をする必要があり、神経を使いました。これは被害者安藤文さんとの関係にも似ています。

274.       市場急配センターの被告発人、被告発人松平日出男らが告発人廣野秀樹に掛けた生命保険を狙い、運行での事故死や、他の死亡を装う計画をたてていたと現時点で断定することは出来ないですが、その可能性はある上、業務日報の手の込んだ改竄の形跡を見ると、相当緻密に練り上げ、実効支配をしていたと見るのが相当かと思います。

275.       2月になるのかよく憶えていないですが、図書館でMacbookからニュース動画の音声をきくのが目的で、Amazonからワイヤレスのイヤホンを購入しました。しばらく使っていたのですが、伊藤塾塾長の伊藤真弁護士の講義や、他に調べて見つけた刑法か刑事訴訟法の講義も聴いていました。刑法や刑事訴訟法の勉強は長い間、少ししかしていなかったのですが、新たな学説として「因果支配説」というようなものを見かけたように思います。

276.       - 因果支配説 - Google 検索 https://www.google.co.jp/search?q=%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E6%94%AF%E9%85%8D%E8%AA%AC&sxsrf=AB5stBhkTn0rvXFAVK3JwtQw9IfYcsoMGg%3A1688700726207&source=hp&ei=NoenZMTxCsGG-AbIj5joBg&iflsig=AD69kcEAAAAAZKeVRtniU96eaTyhQcp-8ElSTIdpK0TT&ved=0ahUKEwjE5Km31Pv_AhVBA94KHcgHBm0Q4dUDCAw&uact=5&oq=%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E6%94%AF%E9%85%8D%E8%AA%AC&gs_lcp=Cgdnd3Mtd2l6EAMyBQgAEKIEMgUIABCiBDIFCAAQogQyBQgAEKIEOgcIIxDqAhAnOgcIIxCKBRAnOgcIABAEEIAEOg0IABAEEIAEELEDEIMBOgoIABAEEIAEELEDOgsIABCABBCxAxCDAToGCAAQAxAEOgUIABCABDoJCAAQBBAlEIAEUNIYWNE0YOM9aAFwAHgAgAFtiAGsBZIBAzQuM5gBAKABAbABCg&sclient=gws-wiz

277.       検索結果の1ページ目だけ目を通しましたが、そのまま「因果支配説」というのは見当たりませんでした。少し違っているのかもしれません。

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