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日本弁護士連合会提出書面:3. 被告発人安田繁克の関与と役割/(1). 供述調書とは事実が異なり、自ら接近してきた2月1日夜の行動

(1).   供述調書とは事実が異なり、自ら接近してきた2月1日夜の行動


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- 102_甲第六七号証 平成04年04月20日付 供述調書 被告発人安田繁克 金沢西警察署 司法警察員巡査 川原照夫 18頁_1-18|再審請求と刑事告発の証拠方法公開サイト\金沢地方検察庁御中 https://note.com/hirono2020kk/n/nc1b0f6d6aa37


 23時20分から読み始めたように思うのですが、読み終えて時間をみると23時38分になっていました。手書きの供述調書の中でもとくに読みづらさを感じて、文字の判別も難しく何度か読み返した箇所がいくつかありました。


「一」に、平成元年頃から市場急配センターで働き始めたとあります。確かにその年の9月頃だったような記憶で、西口君とほぼ同時でした。ただ、西口君の場合は最初から社員ではなかった可能性があり、日野の新車の4トン保冷車で持ち込みを始めていました。


 次に、この会社は去年、金沢市場輸送と市場急配センターに分かれたとあります。平成4年4月20日の供述調書で去年というのは平成3年ですが、実際は平成元年の秋頃だったと思います。


 会社が2つに分かれた後も半年近くは、同じ金沢市場輸送の事務所でした。市場急配センターの事務所が出来て移転したのが翌平成2年の4月頃になります。被害者安藤文さんの姿を金沢市場輸送で見かけるようになったのも同じ頃でしたが、午前中の決まった時間がほとんどで、一日中、金沢市場輸送の事務所にいることはありませんでした。市場急配センターの事務員だと知ったのは2ヶ月ほど後だったように思いますが、それを知ったきっかけは憶えていません。


 市場急配センターと金沢市場輸送が分かれた後、自分は金沢市場輸送の社員になったとありますが、市場急配センターで市内配達の仕事をしているらしいと聞いていた頃も滅多に姿をみることはなく、市場急配センターの市内配達の場合はトラックを通勤車として使えるので、それで姿を見かけないものと思っていました。


 供述調書の年月の記載というのは供述者の記憶違いや取調官の勘違いというのもありそうに思えるのですが、平成3年10月に自分で購入した四トントラックを持ち込みというのは、まずあり得ないと思います。


 フリーの契約運転手として金沢市場輸送で仕事をさせてもらっていた、とありますが、これは正に西口君のことかと思います。


 平成3年6月頃に、この被告発人安田繁克と話をしたとき、中古のダンプを購入してイワシの運搬の仕事をしていたような話をしていました。イワシの運搬の仕事は早くて11月、遅くて4月までの期間と聞いていましたが、11月と4月はどちらもイワシの水揚げが極端に少ないと聞いていました。


 そのダンプはよく憶えていますが、オレンジ色の日通カラーで、ダンプの荷台は土砂積みの通常のダンプよりいくらか長さがあるように見えましたが、ダンプにしては見たことのない荷台の低さで、これは見たことのない不思議なダンプだと思いました。


 土砂積み禁止とステッカーの貼ってあるダンプは、時々見かけていましたが、多くは木材のチップを運ぶダンプで、これだと異様なほど荷台が高く、上に網を掛けてチップを運んでいました。これをよく見かけたのは石巻港で、魚市場の近くの日和大橋の手前側でした。


 魚運搬と説明がありますが、これはまさにイワシの運搬の仕事内容になります。仕事の時期があるのも全く同じでした。ダンプをトラックとしているのもおかしいのですが、イワシの運搬で4トン車というのはあり得ないと思います。


 松浦さんが乗務していたダンプは同じ荷台のダンプが2台ありましたが、かなり荷台が高く長さもあるダンプでした。水槽のようなものを取り付けた大型平ボディ車の場合は総重量がイワシを盛り上げ、多くて43トンぐらいでしたが、ダンプは普通に45トン以上でした。荷下ろしの前に決まって台貫の測量をしていたので、これはよく見ていました。デジタルの表示があったからです。


 船から大きな網で荷台に入れていたので、4トン車だとそのまま荷台がパンクしていた可能性があると思います。


 市場急配センターの事務所が出来る前の裏駐車場ですが、その被告発人安田繁克が中古で購入したというダンプを見かけるようになったのは、たぶんしばらく前のことで、イワシの運搬の時期が終わった後に思えました。


 一部が11月と4月にもやっていたようですが、基本的なイワシの運搬の時期は12月から3月でした。シーズンが終わった後に、他に使い道がなさそうなダンプを購入するというのも維持費も必要なことからおかしな話だと思ったのですが、そのダンプの姿を見たのも被告発人安田繁克本人と話をした6月頃が最後か、その前に姿はなくなっていたとも考えられるぐらいです。


 確認したという記憶はないですが、まず土砂積み禁止のダンプに見えました。大型車にしては車体自体が小さく見えたのですが、これは堂野さんのワインレッドのような色のダンプも同じでした。荷台の高さが特に低いとは感じなかったのですが、荷台の高さがある通常の土砂積みのダンプと同じぐらい、あるいはそれより荷台の長さが短く感じていました。


 平成3年の1月から平成4年の2月は、金沢市場輸送の松浦さんのダンプも見かけた記憶がないのですが、ミール移動でよく行った北陸ハイミールでは、ミールを積み込む倉庫の横に台貫場がありました。


 気にすることがなかったので記憶に残っていないという可能性はあるのですが、印象的に憶えているのは金沢市場輸送で平成3年6月一杯ぐらいまで配車係の仕事をしていたYTの父親という人物です。イワシの運搬の仕事をしているとは聞いていたのですが、離れた場所から姿を見ていたので顔などはわかりませんでした


 平成3年の初め頃だった可能性もあり、時期ははっきり思い出せなくなっています。倉庫移動もそうですがミールの仕事に最適な大型ウィング車に乗務したのは平成3年1月17日です。日野のトラックで車番は石川2315号でした。


 ただ、この2315号でミールの仕事をしたという記憶はほとんどありません。山三青果の仕事自体は平成2年12月10日頃から始まったという記憶で、なにかきっかけがあってこの時期をよく憶えていました。


 初めのうちの2,3ヶ月、山三青果の仕事は少なかったとも記憶にあるのですが、2315号に乗務するまでは冷凍機付き大型保冷車の108号に乗務していました。


 山三青果の仕事が本格化したのは、行き荷の定期便として、トナミ運輸金沢支店から栃木県の定期便、それとほぼ同時期に始まった日本通運高柳支店から埼玉県岩槻市と千葉県千葉市の2カ所おろしの定期便が始まってからになります。これがなかなかきつい内容の仕事で、忙しくしていた記憶があり、ミールどころではなかったように思います。


 被告発人安田繁克の供述調書は手書きの文字が非常に読みづらい上、内容がずいぶんと乏しく感じます。時期の勘違いというのは自分自身、経験していることなのでとっさに記憶違いの説明をしてしまうことは、基本的にあり得ることだと考えています。


 被害者安藤文さんとの交際が平成3年の春頃から始まり、半年ほど続いた夏頃にわかれたあります。自分の家で被害者安藤文さんと、前に交際していた彼女が鉢合わせになり、分かれる原因になったと具体的な話があります。


 供述調書の初めには、住居地に妻、美鈴と二人住まいとあります。その住居地が金沢市東力四丁目とあり、この番地で該当する家を見たことがありました。Googleのストリートビューだったと思いますが、10年以上経っている気がします。


 町営住宅にありそうな家でかなり古く見えました。同じ東力の二丁目に住んでいたので近くは通っていましたが、その家の前はほとんど通ることがなかったと思います。東力に家があることは被告発人安田繁克本人から話を聞いていましたが、どこに家があるのか関心はなく、場所を聞くこともありませんでした。


 少し気になったのは、松浦さんの愛人と聞いていた母親の仕事で、近くの飲み屋に勤めているか、あるいは飲み屋を経営しているという話で、彼の説明を聞いていると場所が、入江派出所の辺りのようでした。


 その辺は車で通ることがあり、その辺りに飲み屋があったのかという疑問は少しだけありました。一本違った小路にある可能性というのも考えたからです。


 入江派出所から野田専光寺線を挟んで向かい側になりますが、その辺りは間明にかけて、小路によく飲み屋を見かけたという記憶がありました。


 次に、供述調書の「八」の項目になりますが、今年1から2月としながら2月1日の夜のことが記載してあります。無線仲間を尋ねて、とありますが、これは被告発人多田敏明のことかと思います。被告発人多田敏明の名前は多田君として別の場所に出ていたと思います。


 確認すると項目「二」の終わり近くに「入院中で意識不明の重体であることは、市場急配に勤めている友達の多田君という人から聞いて知っております。」とありました。


 被告発人多田敏明に無線仲間がいることは3月の中頃に本人から聞いたことがあり、無線仲間と一緒に金沢港辺りにいると電話で話していたのですが、そのあとに市場急配センターの1階の運転手の部屋で一緒になり、タイミングは忘れていますが、西口君も一緒になって3人で北安江の焼き肉店に行っています。


 被告発人多田敏明は祖父から買ってもらったという当時は比較的まだ珍しかった軽四の新車に乗っていました。駐車場にとめてあるのを見た程度で、同乗することはなかったですが、パーソナル無線の象徴でもあるアンテナはついていなかったと思います。


 被告発人多田敏明は、仕事で日野の新車に近い4トンウィング車に乗務していて、そのトラックには同乗することもあったような記憶ですが、無線機もアンテナもなかったと思います。


 パーソナル無線が流行りだしたのは昭和58年になるかと思います。あるいは昭和57年ですが、車だけではなく家に固定の無線機を設置する友人は2人ほどいました。ブームは一年ほども続いたのか、その後、車に無線機をつける友人というのはいなくなっていたような気がします。


 自分としてパーソナル無線にはまったく興味がなく、煩わしさだけを感じていたのですが、平成2年には長距離の運転手仲間のすすめもあり、トラックに取り付けていました。2315号にも載せ替えたような記憶ですが、市場急配センターで3068号に取り付けていたという記憶はありません。


 パーソナル無線は道路情報を知るのに聞き手として便利に思うこともあったのですが、市場急配センターで他の運転手と無線をしたという記憶はなく、金沢市場輸送とは違い一緒に連れ立って長距離を走ることが、かなり少なかったと思います。


 憶えているのは津幡のYTと志賀町の方にいたこと、たぶん七尾市に向かっていたはずですが、上棚矢駄インターか西山インターの出入り口付近にいたことをよく憶えています。滅多に行く場所ではなく、初めてだったようにも思います。


 今、Googleマップで確認してもどちらのインターかはっきりしないのですが、国道249号線になるのか右手にロッキーというホームセンターがあって、その先の交差点を右折して、田鶴浜町のヤマキシというホームセンターに向かう途中、そのインターの前を通っていました。


 羽咋市に住んでいた頃のことですが、宇出津に帰る道中で、ヤマキシで買い物をしたいときにその道を使っていました。


 それと12月の10日頃に被告発人浜口卓也と茨城県の日清食品の工場に行ったときです。


 もう一つは3月中になると思いますが、金沢から高岡の中越パルプ工業に巻き取りの荷物を積みに行き、そのあと少なくとも北陸自動車道の有磯海サービスエリアで一緒に食事をした浜上さんです。たぶん会社を出発したときから一緒で、二台で連なりながら富山県に入ったところにある台貫場の検問所の前を通ったときの場面がよく記憶に残っています。


 山三青果の夕市では他にも二台の大型車で出発をして、国道50号線に出る前の国道は一緒に連なって走っていた記憶はあるのですが、関越自動車道を連なって走ったり、一緒にパーキングエリアに入ったという記憶もありません。


 徹底しているようにも思えたのは被告発人安田敏と一緒にならなかったことです。最初の運行では神奈川県厚木市まで荷物を運び、東京の晴海埠頭からバナナを積んで金沢に戻っています。


 あとは10月6日ですが、名古屋に馬鈴薯を運ぶ被告発人安田敏の大型ウィング車に同乗しました。最初に被害者安藤文さんに交際を申し込んだ夜の翌日のことです。


 行きも帰りも全線高速で、夕方の4時頃には市場急配センターの裏駐車場に戻っていた記憶です。馬鈴薯の仕事で名古屋はとんぼ返りがほとんどでしたが、土曜日でも普通は夜中のうちに仕事を済ませていたと思います。


 日曜日の午前中に名古屋に出発することを前日に被告発人安田敏が話をしていたので、朝に被告発人安田敏に電話をして同行することにしたのです。


 10月5日の土曜日は被告発人東渡好信のトラックに被告発人安田敏と二人で同乗し、河北郡高松町に60キロの米俵を積みに行ったことも憶えています。いくらか夕方に近いような時間に戻ってきたので、被告発人安田敏の馬鈴薯の積み込みはその前に終えていたのではと思います。この日は、レストラン十字でミーティングもありました。割と広い個室の貸し切りでした。


 2月1日の夜ですが、被告発人安田繁克と二人で1階の運転手の部屋に入った後、しばらくして被告発人多田敏明が姿を見せました。10分ぐらいだったかもしれません。そのあと長くて30分ほどになるのかその場に被告発人多田敏明がいたのですが、珍しいほど無口で被告発人安田繁克ともほとんど会話のないまま帰って行きました。


 茨城県古河市の山三青果から戻ったという話で、慣れない初めての長距離の運行になるので、疲れて話をする気力がないようにも見えたので、それほど不自然には思わなかったのですが、用事があるとか言って夜の遅い時間に被告発人多田敏明を探していた被告発人安田繁克が、被告発人多田敏明に用件を伝えるようなそぶりもなく、そちらの方が不自然でしたが、上機嫌で被害者安藤文さんの話を始めていました。


 項目「八」で、「私が、無線仲間を尋ねて市場急配の事務所へ行った事があるのです。その時は事務所には誰もおらずしばらくし待った後、家に帰ろうと思い自分のトラックに乗り、走り出したのですが、途中の信号待ちの時に、私のトラックの前に割り込む様にして危険な運転で軽自動車が止まったのです。私はびっくりしてしまい相手を見ると廣野君である事が判り、その時廣野君からちょっと話があるから事務所まで来いと言われたのです。」と被告発人安田繁克は供述しています。


 トラックという言い方は不可能ではないかもしれない。タイヤが大きく荷台の高い乗用車に被告発人安田繁克は乗っていました。昔のダットサンに似た車です。


 告発人廣野秀樹が市場急配センターを出て自宅アパートに向かう直前まで、1階の運転手の部屋には数人の運転手が集まり、珍しく遅い時間まで雑談をしていました。22時は過ぎていたと思いますが、22時半から23時に近い時間だったかもしれません。


 解散をする少し前に、1階の運転手の部屋の裏の勝手口から裏駐車場に出て、駐車場の奥の方まで連れ立って歩いたのですが、事務所前の入り口の方から見たことのない車が駐車場の中を通り過ぎて行きました。


 その場で驚いた反応を見せたのは普段から無口な水口さんだけでした。他にその場にいたと記憶にあるのは被告発人東渡好信と浜上さんです。もう一人か二人いたような気もするのですが、記憶がぼやけています。


 この水口さんは1月22日の午前2時頃にも一人で1階の運転手の部屋にいて、布団に入っていたと思うのですが、私が被害者安藤文さんの自宅に電話をして、彼女を怒鳴りつけたときにその場にいた人で、少し笑ったような表情を浮かべながらずいぶんと驚いていました。


 水口さんと会話をする機会はほとんどなかったと思うのですが、小柄な人でにこにこと人の良さそうな人でした。12月中に姿を見た記憶はなく1月に入ってからの入社だったような気がするのですが、前に七尾の共栄運輸にいて被告発人東渡好信に誘われて入社したような話でした。これまで共栄運送と記述してきたように思いますが、共栄運輸だったように思えてきました。


- 一般社団法人 石川県トラック協会 https://www.ishitokyo.or.jp/index.php


 先に共栄運輸の検索で、能登地区として七尾市、羽咋市、羽咋郡、鹿島郡の会員名簿がPDFで出てきて、会社名と代表者名の一覧があって、それで金沢市のものを探したのですが、石川県トラック協会のホームページにそれらしいリンクは見つかりませんでした。


 共栄運送ではなく共栄運輸が正しいことは確認しています。能登地区となっていますが、鳳珠郡、珠洲市、輪島市の情報は見当たらず、平成26年4月1日現在とあるのでけっこう古めの情報となっています。


- 令和5年6月30日付告発状:市場急配センターにおける、被害者安藤文さんに対する殺人未遂の事実(01)(作成中)|再審請求と刑事告発の証拠方法公開サイト\金沢地方検察庁御中 https://note.com/hirono2020kk/n/ncdd314738ded


 ページ内検索をすると1件だけ「12月1日」での該当でした。


他では経験がなかったと思うのですが、実際、山三青果の仕事では土曜日の夜に金沢中央卸売市場で荷下ろしをしたことがありました。2回ほどあったように思うのですが、それと全く同じような仕事を被告発人多田敏明が2月1日の土曜日の夜にやっています。


他に土曜日の夜に古河の山三青果の荷物をおろした運行がないのか8月31日から確認しましたが見当たりませんでした。少なくとも1回はあったはずで、2月1日に被告発人多田敏明が古河から一人で荷物を積んでくると言う話を聞いたときは、似たような運行だとすぐに思いました。

- 2月29日土曜日から3月1日日曜日の未明に掛け、高岡、金沢、福井の市場で荷下ろしをしたことになっている運行(問題点)|再審請求と刑事告発の証拠方法公開サイト\金沢地方検察庁御中 https://note.com/hirono2020kk/n/n1d746255e177


どうもこの項目では2月1日の夜の休憩室での被告訴人安田繁克との会話の内容を重点に書くつもりでいたようですが、どちらかといえば被告訴人東渡好信と輪島の浜上さんなどとの関係を中心に書いてきたように思います。


 「出会いから」ということであれば、それらしいことも書いたかと思いますが、書いたとおりに記憶は曖昧な部分があります。そもそも自分の人生に大きな意味を持つ人間という認識はなかったし、仕事の内容も違っていました。接点も限られています。


 にわかに被告訴人安田繁克の存在を強く意識するようになったのは、平成4年1月21日の夜、被告訴人HTNのアパートで、彼から被告訴人安田繁克と被害者AAさんが付き合っていた、と聞かされたことが始まりでした。


輪島のMYの方が被告訴人HTNのことはよく知っている感じでもありましたが、それでも具体的な昔話をするようなことはなかったと思います。Y村Tなのかと考えてみましたが、輪島の連中と市場急配センターの衝突のことは、後日を含め輪島サイド以外から話を聞くことはありませんでした。


 一番考えられそうなのは内浦町新保のKOかもしれません。当日の夜限りに聞いた話だったので、それも片山津温泉から戻ってきた直後に、金沢市場輸送の給油機の前で聞いた可能性が高そうです。


 被告訴人安田繁克の名前は全くしらなかったので、背が高いとかそういう表現を含めて特定をしていたことが考えられます。KOならば日頃の態度を見ていても、被告訴人安田繁克と言葉をかわしていた可能性はありそうです。


 もしかするとそれ以上の関係もあったかもしれません。私自身忘れていることもあるかと思いますが、KOは無線クラブに入っていて無線のマニアという感じでした。


 一時期、中央市場の近くですが、ウロコ運送の会社の近くに無線の店があって、その店にKOと何度か行ったことがありました。私がやったのは輪島の連中から譲り受けたパーソナル無線でしたが、KOは本格的な無線をやっていたようです。


 「石芽会」のステッカーがKOの乗務する大型トラックに貼ってあったと思います。全国的にも有名は大きなクラブのようでした。そういうクラブは私的制裁的なトラブルが起こることもあると聞いていて、中西水産輸送の時には、それで逃げたという運転手の話も聞きました。


 中西運輸商も無線の愛好家が多かったですが、「有明巌流会」というクラブの人が多いと聞いていました。彼らはCB無線というのをやっていたようです。そういえばY村Kも無線をやっていました。


 平成4年3月14日の土曜日、夕方の19時ぐらいに私と西口君がいた市場急配センターの休憩室に、被告訴人多田敏明が戻ってきました。その前、西口くんの方から被告訴人多田敏明に電話で連絡をしていたのですが、その時、被告訴人多田敏明は無線のクラブの集まりにいるという話でした。


 被告訴人多田敏明が無線をやっているという話はその前から少しは知っていたような気もしますが、彼が実際に無線をやっている姿というのははっきりと見たことがないようにも思います。ただ、後になって4トンウィング車に無線のアンテナをつけていたような気はします。


 被告訴人多田敏明が専属で乗務するようになった日野の4トンウィング車ですが、平成3年の12月中はその4トン車に同乗することがあったような記憶があるのですが、平成4年に入ると同乗することはなかったような気がするし、その頃になってアンテナを見かけたような気はします。


 被告訴人多田敏明の金沢西警察署の供述調書の記載だったと思いますが、彼はもっとわかりやすいことを言っていたようです。2月1日の夜のことですが、被告訴人安田繁克のことを「無線仲間」と表現していたかと思います。


 あるいは被告訴人多田敏明ではなく被告訴人安田繁克が金沢西警察署の供述調書で、2月1日の夜のことで本来は被告訴人多田敏明のことを「無線仲間」としていました。被告訴人安田繁克が無線をやっていたというのも知らなかったのですが、仲間というぐらいだからやっていたのでしょう。


 被告訴人安田繁克は平成1年の9月頃から金沢市場輸送で市内配達の仕事をやっていたようですが、仕事をしているような姿を見かけることもありませんでした。トラックを洗車しているような姿を見たこともないので、どんなトラックに乗務していたのかもわからないのですが彼に限った話でもありません。


 既に書いたと思いますが、私は長い間、被告訴人安田繁克を堂野さんの愛人の息子として認識していたようです。この間違いに気がついたと考えられるのは、市場急配センターで市内配達の仕事をするようになってからだと思います。


 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」では説明を書いたと思いますが、私が市場急配センターで市内配達の仕事を始めたのは平成3年6月22日からだと考えられます。


 平成4年の事件で拘置所にいた頃の私の記憶では5月の22日だったのですが、その後、金沢市場輸送をやめる前の運行表が差し入れられ、そこで5月一杯は金沢市場輸送で長距離の仕事をしていたことになっていたので、6月だと考えるようになったのです。


 22日というのは25日が給料の締切日で、その3日前、3日間だけ1日1万5千円のアルバイトをしたという計算になるからです。当初、被告訴人松平日出男は私にそのアルバイトを条件として市内配達の仕事をしてくれないかと、持ちかけてきたのです。


 「2013年6月から2014年12月に作成した告訴状の下書き」には書いたような気がしますが、私はそのだいぶん前から守田水産輸送の○西さんに、中継の仕事をしたいと頼んでいました。


 空きが出来たので中継の仕事をやらないか、というような電話を○西さんからもらったのは、市場急配センターでの仕事が決まった直後のことであったと思います。偶然だったのだと思いますが、妙なタイミングだとは思いました。


- 被告訴人安田繁克の組織的犯罪計画への関与を伺わせる事実/平成4年2月1日の夜のこと/出会いから市場急配センター休憩室での会話まで : 金沢地方検察庁御中 http://hirono-hideki.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/421-a6b2.html


 長めの引用をしましたが、2015年8月2日の記事となっています。このココログフリーのブログは別のブログと同じ内容の投稿を同じくAPIを使って投稿していたと思います。たまに検索に出てくるのですが、ページの読み込みにずいぶん時間が掛かっていました。今回は長文の記事の割に読み込みの時間も短く感じたのですが、午前2時を過ぎているというのも関係があるのかもしれません。今は2時50分になったところです。


- 平成4年2月1日 市場急配センター - Google 検索 https://www.google.co.jp/search?q=%E5%B9%B3%E6%88%904%E5%B9%B42%E6%9C%881%E6%97%A5%E3%80%80%E5%B8%82%E5%A0%B4%E6%80%A5%E9%85%8D%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC&sca_esv=581736080&sxsrf=AM9HkKmfIJJjLfVKiGG4llaDuKsbp1sBcg%3A1699810450376&ei=kgxRZYe0Fr2V2roPmcWtuAY&ved=0ahUKEwiHxdGw_76CAxW9ilYBHZliC2cQ4dUDCBA&uact=5&oq=%E5%B9%B3%E6%88%904%E5%B9%B42%E6%9C%881%E6%97%A5%E3%80%80%E5%B8%82%E5%A0%B4%E6%80%A5%E9%85%8D%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC&gs_lp=Egxnd3Mtd2l6LXNlcnAiLeW5s-aIkDTlubQy5pyIMeaXpeOAgOW4guWgtOaApemFjeOCu-ODs-OCv-ODvDIFEAAYogQyBRAAGKIEMgUQABiiBDIFEAAYogRIqSxQkAhYwCVwAXgBkAEAmAGBAaABnwSqAQMxLjS4AQPIAQD4AQHCAgoQABhHGNYEGLADwgIEECMYJ-IDBBgAIEGIBgGQBgo&sclient=gws-wiz-serp#cobssid=s&ip=1


 上記のGoogle検索で見つけました。2015年の方が現在より記憶が新しいということはあるのですが、ここ2年ほどの間に新たに読み込んだ過去の資料もあり、そこでの発見も多々あり、全体的な記憶も個々の情報の突き合わせで整理された一面もあるかもしれません。


 過去の記事を探し出してコピーで転載した方が、手間も掛からず、記憶の確認と喚起に繋がり一面もあるかと思います。


- 平成4年2月1日 裏駐車場 - Google 検索 https://www.google.co.jp/search?q=%E5%B9%B3%E6%88%904%E5%B9%B42%E6%9C%881%E6%97%A5%E3%80%80%E8%A3%8F%E9%A7%90%E8%BB%8A%E5%A0%B4&sca_esv=581736080&sxsrf=AM9HkKmjLOgvWZdaVigzCyfKu1kluxZm1w%3A1699810476932&ei=rAxRZey3OO3g2roPiMa7yA4&ved=0ahUKEwjsvaa9_76CAxVtsFYBHQjjDukQ4dUDCBA&uact=5&oq=%E5%B9%B3%E6%88%904%E5%B9%B42%E6%9C%881%E6%97%A5%E3%80%80%E8%A3%8F%E9%A7%90%E8%BB%8A%E5%A0%B4&gs_lp=Egxnd3Mtd2l6LXNlcnAiIeW5s-aIkDTlubQy5pyIMeaXpeOAgOijj-mnkOi7iuWgtDIFEAAYogQyCBAAGIkFGKIEMgUQABiiBDIFEAAYogQyBRAAGKIESM8tUMEJWJAmcAF4AZABAJgBggGgAakJqgEEMS4xMLgBA8gBAPgBAcICChAAGEcY1gQYsAPCAgQQIxgnwgIFECEYoAHiAwQYACBBiAYBkAYC&sclient=gws-wiz-serp#ip=1


 上記の検索では関連した記事が見つかりませんでした。「裏駐車場」というのは余り使われていないと思ったのですが、どうも「駐車場」でそのまま該当しているらしく、「平成4年3月31日」や「平成4年7月1日」も該当につながっているようです。


客観的にみれば、一審の国選弁護人であった岡田進弁護士と控訴審の私選弁護人であった木梨松嗣弁護士は、同じ金沢弁護士会所属の弁護士であるという以上の、つながりを見つけることはできませんでした。おそらく探偵にでも頼まないと知ることのできない事実かもしれないという諦念もありました。


探偵に頼んだとしても地元であれば、弁護士の利益になるように動く可能性が高いとも考えました。


そういう雰囲気は、被告訴人大網健二に紹介された若杉幸平弁護士にも見て取れました。あの初対面の時の居合の気合をも漂わすただならぬ雰囲気は、岡田進弁護士のそれとも似ていると感じました。


岡田進弁護士の場合も、初対面なのにどうしてあそこまで攻撃的だったのかと、あとあと考えましたが、金沢西警察署の谷内孝志警部補が作成した供述調書の人物像によれば、そうなのかという諦めもありました。


その表現はおかしいと言っても、薄ら笑いを浮かべ同じ意味や、と言ってまともに取り合わなかったのも谷内孝志警部補ですが、当時は取り調べにおける問題が社会問題として表面化するようなこともなかったと思うので、戸惑いと諦めしかなかったです。


そろそろ昨夜、小木港からバイクで帰る道すがらひらめいたことを書きますが、木梨松嗣弁護士が一審での私選弁護人を断った真の理由のことです。


京都の母親の兄弟の親戚がお金を工面してくれるので弁護士をつけろということは、わりと早い段階から説得を受けていたと思います。当時は起訴という言葉も知らなかったので、その意味することの大きさの認識もなかったのですが、刑事裁判となれば弁護士ということは世間並みに理解していました。


やったことに間違いはないので言い訳など必要ないとも考えていましたが、そもそも私は理由を被害者に求めて事件を起こし、それでも満足な答えをもらえないまま、被害者は話のできない意識不明の状態となって、自分は留置場に囚われの身となったのです。


同時になにより事実を知るのは被害者の家族であって、その理解を得ることが最善の方向性だと考えていました。


伊吹パーキングからの電話以来、彼女つまり被害者AAさんが、まったく自宅の電話にでなくなったことは2,3日前にも書いていると思います。平成3年11月30日の土曜日が事実上の始まりだったと思います。


伊吹パーキングからの電話はその前日のことであったと思いますが、会社において不思議な光景を目にしました。午後であったとも思いますが、その場面だけは印象的に記憶に残っています。初めはまた何かの工事が始まったのかと思っていました。


自宅の電話に出なくなったことと同時に始まった会社で彼女が車を会社の裏にあるトラックと運転手の車を停める駐車場(以降、単に裏駐車場とも)での駐車のことです。


彼女が裏駐車場での駐車をやめたのは平成4年2月3日のことでした。ちょうど私が24トンのミールを積んで九州の福岡市に向けて出発した日のことです。


その日は月曜日でしたが、ミールの荷物は土曜日の2月1日に積み込んでいました。休日前に荷物を積むことは「積み置き」と呼んでいましたが、よくあることです。ただ普通、この場合、荷降ろしまでの時間的な余裕が大きいので、経費削減のため一般道を多く利用するのが普通でした。


九州への運行は金沢市場輸送の時に多く経験していましたが、積み置きではなくても翌日降ろしではない中一日の余裕があると、一般道を走り、福井県の敦賀から国道27号線、京都府の福知山で国道9号線、鳥取、島根と一般道を走って、山口県の山口インターから高速道路に乗るのが普通でした。


金沢市場輸送では山口インターか小郡インターから九州の高速道路の利用が認められていました。他の運送会社だと関門トンネルを走って全線下道の会社もあると聞いていたので、その点はまだ恵まれていたとも言えそうです。


下関で重量オーバーの冷凍物を積むと、台貫に引っ張られて捕まる可能性を避けるため、島根県の益田市まで海沿いの国道を走ることがありましたが、一部でも高速道路を使うのとでは倍ぐらいの時間が掛かったような感覚があります。時間帯にもよると思いますが。


市場急配センターでは金沢市場輸送より高層道路の利用も緩やかに認められてはいましたが、全く長距離の経験のない松平日出男社長が指示を出すこともあったので、そのあたりもかなり緩やかだったと思います。本恒夫とはしばしば衝突することもありましたが、自腹で高速を使うことはほぼなかったです。


その時も会社の指示に従ったのですが、土曜日に積んだ荷物を月曜日の朝に会社に出社してから出発しました。大阪か神戸の夕方のフェリーに乗船することが決まっていました。


その時は考え事が多かったので気が付かなかったのですが、敦賀から高速を降りて一般道を走るつもりでいました。それが時間的にかなりキツイかもしれないということに気がついたのです。会社を出たのは10時ころになっていたようにも思います。


大阪のフェリー乗り場といえば南港だと思いますが、たぶんその時は神戸の魚崎からフェリーに乗ったのだと思います。敦賀から一般道を走るのは、米原バリアでの検問を避けるためでした。


フェリーの時間に遅れて国道2号線で一般道を走ることになれば、重量違反で捕まるリスクも高まるし負担も大きいので、そのまま北陸道で米原バリアを通過したのですが、ちょうど検問をやっていて重量違反で反則切符を切られました。


一度捕まると、社名やトラックのカラーを記憶されて狙い撃ちにされる可能性もあるので、なおさらへこみました。反則切符を切られたのも数年ぶりだったと思います。


冷静に普段通りに考えていれば、昼間に敦賀から国道161号線や京都市内を通って、フェリーの時間に間に合うことがきついことは計算できていたのですが、その時は仕事にも集中できず、現実的に物事を考えるのが難しくなっていました。


そういう経験というのはそれまでにも多少はありましたが、自分一人で運転するしかないので、判断ミスの負担も大きく自分に跳ね返ってきます。


取り乱すほどではなかったですが、集中できない状態になっていたのは、出掛けの彼女の駐車のこともありますが、2月1日の夜に被告訴人安田繁克に会ったことが大きかったです。彼女に対する不信感というより得体の知れない恐怖心のようなものを感じる状態になりつつありました。


どれだけ手紙で頼んでも話にすら応じなかったのが控訴審での木梨松嗣弁護士の態度でしたが、上告審になるとあっさりと東京で国選弁護人になった斐川雅文弁護士から郵送で差し入れられてきたのが、被告訴人らの甲号供述調書でした。


縮小版でした。とにかく選任されてすぐに送ってきたと思うので、木梨松嗣弁護士から申し送りがあったのかとも考えました。木梨松嗣弁護士の場合は控訴審の判決が出る前も出てからも、さっぱり連絡がなくなって事実上の音信不通になっていたので、理由を考える取っ掛かりも見出だせない状況でした。


出たのは公訴棄却という判決だけでしたが、拘置所に戻ってすぐに問題を起こしたので、そのまま保護房に入れられ革手錠を付けられました。49時間ぐらい革手錠を付けられ、外されたあともまる一日ぐらい保護房に入られていました。物凄い判決に対する不服がありましたが、挑発的な母の言葉が原因でした。


「人権擁護委員を呼んで来い」と言って、アクリル板を拳で殴りつけたことは憶えています。母の言動は前々から誰かに指示を受けているようなところがあり、頭が混乱するので本当にやめて欲しかったのですが、それは事件の時の被害者に対する行動にも共通する苦痛の余りの反応でした。


その後も母親とはまともな話をすることもなく、母親は正気を失っていきました。認知症とも聞きましたが、体も付随になって寝たきりの状態が続いています。


本当は聞きたいこともありましたが、どこまで本当のことを話してくれるかもわからず、事実を聞き出すには相応の説明も必要かと思いましたが、そうすれば取り乱して危機を煽り、不則の事態を招くことも考えました。世話にもなっていた被告訴人大網健二や被告訴人KYNの関与が大きいからです。


プライバシーの強い問題なので書こうか迷いもあったのですが、私が福井刑務所にいる間に、頭がおかしくなった父方の親戚の人がいました。宇出津で被告訴人大網健二、被告訴人大網周一の大網兄弟とは同じ大橋組という町内でもあったので、小さい頃からよく知る間柄でもあったはずです。


大橋組は中町という町内と並んで宇出津の中心部の商店街のある場所で、今は昔のような賑もなくなってはいますが、以前は商売をやっている家の多い町並みでもなりました。地図には書いてない町内なので地元以外の人には極めてわかりにくいとは思います。


町内が一番の意味を持つのは宇出津のあばれ祭りの時かもしれません。小学校の頃までは父方の親戚とも多少の付き合いはありました。宇出津の祭りも大橋組のその親戚の家に行っていました。親戚であることは被告訴人大網健二もよく知っていたはずです。


平成9年の1月18日に私が福井刑務所にを満期出所したことはこれまでにも何度か書いたと思います。そしてその年の7月の1日か2日の夜に、宇出津まで出向いてくれた被告訴人大網健二と被告訴人KYNの二人に手伝ってもらって、金沢の北安江の借家に引っ越しをしました。


引っ越しをするまでの間、何度か金沢に行ったこともありましたが、ほとんどは宇出津の家にいましたし、車もバイクも自転車もなかったので、家から出るということも少なかったと思います。

- 告訴状2013(作成途中)_14 - 告発・金沢地方検察庁御中 Wiki* https://wikiwiki.jp/hirono2021/%E5%91%8A%E8%A8%B4%E7%8A%B62013%EF%BC%88%E4%BD%9C%E6%88%90%E9%80%94%E4%B8%AD%EF%BC%89_14


 長めの引用掲載をしましたが、かなり長文の記事です。最終更新日時が2021年4月11日となっていますが、割と最近に思える2021年4月にwikiを使っていたのは意外でした。告訴状2013とタイトル名にあるので、内容は2013年に作成していたものの転載になりそうです。


 パソコン内にもそれらしい古いファイルはいくつかあったのですが、ほとんど開いていません。


 市場急配センターで輪島市に家のある浜上さんは、金沢でアパートを借りるような話をしていて、自分が新しいアパートを探している時期とも重なっていました。被告発人松平日出男にアパートを探してくれるように頼んでいてのですが、余り積極的ではなく、たまたま飛び込みで入ったような不動産屋で物件を決めました。傷害・準強姦被告事件の事件当日4月1日からの入居が決まっていたワンルームマンションです。


 被告発人東渡好信と水口さんは、七尾市で輪島市よりはだいぶん近いですが、トラックや1階の運転手の部屋で寝泊まりをして休みに家に帰っていたようです。


 2月1日は土曜日で、その休みの前日になりますが、特に用もなさそうなのに23時に近いような時間まで1階の運転手の部屋にいました。それも不自然に思えるのですが、遅い時間になって一斉解散したのも不自然です。


 これまでのところワンルームマンションの入居が決まった頃を特定する過去の記述というのも見かけていないのですが、2月中だと一月以上前になります。


a66@MacBook-Air ~ 7s

❯ h3-mysql-regexp-html.py -s '果物.*池田'

Darwin

/Users/a66/mac-bin/h3-mysql-regexp-html.py -s "果物.*池田"


SELECT * FROM tw_hirono WHERE tweet REGEXP '果物.*池田' ORDER BY date ASC;


2023-11-13_033204の実行記録



- (1/3/669647:検索:果物.*池田)ツイート:@kk_hirono()2014-01-11 00:25:25

> ようやく思い出した気がするのですが九州で日榮運送に変わり青果物の仕事を請け負うことになった富山市内の運送会社は池田運輸だったと思いま す。日榮運送の配車係の紳士的な人物は以前金沢市場輸送の事務所にもちょくちょく姿を見せていたのですが、深刻な仲違いがあったようです。

ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/421664171487272961


- (2/3/669647:検索:果物.*池田)ツイート:@kk_hirono()2014-01-11 00:33:33

> 日榮運送は個人の運送会社としてはずいぶん待遇がよいとも聞いていました。全体にしっかりした経営で信用もある運送会社だったようです。日榮 運送の仕事をしなくなってから九州の青果物の帰りには池田運輸がほとんどではなかったかと思います。高田農協に駐在の担当者がいました。

ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/421666019132706816


- (3/3/669647:検索:果物.*池田)ツイート:@kk_hirono(刑事告発・非常上告_金沢地方検察庁御中)2023-01-03 15:35:24

> 金沢市場輸送では、行き荷が富山県内からが多く、アルミサッシでは高岡市の明穂運輸、九州の帰り荷の青果物として池田運輸の仕事をよくやって いました。会社間の付き合いの話は聞くことがなかったですが、なぜ仕事をするようになったかも聞くことはありませんでした。

ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1610162897388441600



a66@MacBook-Air ~ 6s

❯ h3-mysql-regexp-html.py -s '池田.*果物'

Darwin

/Users/a66/mac-bin/h3-mysql-regexp-html.py -s "池田.*果物"


SELECT * FROM tw_hirono WHERE tweet REGEXP '池田.*果物' ORDER BY date ASC;


2023-11-13_033251の実行記録



- (1/1/669647:検索:池田.*果物)ツイート:@kk_hirono()2017-10-08 15:50:50

> 池田運輸では、福岡県の高田町の農協を拠点にしていたようです。郡部だったと思いますが、熊本県に近いところでした。その高田町でも、青果物 を積みましたが、ミカンは、佐賀県の唐津市からが多かったと思います。他にも、白木町とか、ミカンの箱に書いてある地名のところに行っていまし た。

ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/916918824489730049



a66@MacBook-Air ~ 6s


 まとめ記事にするほどではないと思ったのですが、探した情報は見つかりませんでした。被告発人池田宏美が果物でもむいて出してあげなさい、などと2階事務所で言ったことがあるのですが、被害者安藤文さんを新しいアパートに招いて果物でも出してあげなさい、と暗に示しているように聞こえました。その場にいた被告発人梅野博之と同年代の市内配達の運転手に語りかけ、その人がずいぶんと驚いた表情をしたのですが、名前が思い出せなくなっていまっす。


 1月12日の日曜日に、被告発人梅野博之らの車で被害者安藤文さんを乗せてきたという市内配達の運転手の一人です。確か3人で、被害者安藤文さんを乗せて4人で片山津温泉から戻ってきた様子でした。


 それらしい名前はずいぶん久しぶりに思い出したのですが、h3-mysql-regexp-html.py -sのキーワードの組み合わせでは見つからず、プライバシーに配慮して名前が出していなかったのかもしれません。


 さきほどの引用掲載に福岡行きのミールは2月1日の土曜日に積み置きをしたという記載がありましたが、積み置きではなく出発当日の午前中に水島倉庫にミールを積みに行っていたことは、割と最近になって過去の資料から発見し、けっこう驚きがありました。


 長距離運転手の習慣として事前に運行のスケジュールを時間計算するのですが、夜のそう遅くない時間に神戸から九州行きのフェリーの出港があるのに、全線高速を使わないで午前11時頃に金沢を出発するのは冷静に考えれば、かなり無理がありそうです。


 神戸まで距離は長くないので、さらに冷静に計算をすれば十分間に合った時間なのかもしれないですが、これが二つとも裏目に出て、全線高速で神戸に向かったところ、米原バリアで警察官に呼び止められ、台貫にのせられて重量違反の反則切符をきられました。積み荷のミールは24トンでした。


 敦賀インターで高速道路(北陸自動車道)を降りて、国道161号線で京都市内から神戸に向かうことを予定していたのですが、ずいぶん久しぶりに走る道で、それも昼間だったので時間の計算が面倒になり、大事をとって全線高速を選んだのです。


 実際に金沢の会社を出発したのは午前11時を過ぎていたような記憶ですが、市場急配センターから水島倉庫までの往復の時間と積み込み作業に掛かる時間を考えると、午前11時は過ぎそうに思えます。


 また、その過去の記録のような資料では、水島倉庫に新入社員の運転手を同乗させて行ったことになっていましたが、それもすっかり忘れていました。同乗させて行ったということは午前9時の始業時間を過ぎて、会社を出発したことになります。11時までは2時間です。


 その新入社員の運転手の名前は現在思い出せずにいるのですが、背格好や雰囲気などなんとなく思い出すことはあるもののどんな顔をしていたのか思い出せないもどかしさがあります。大型車の運転手ではなく4トン車の運転手だったとは思います。


 名前の二文字に前という漢字があったようなことは思い出したのですが、それからすぐにそれらしい名前を思い出すことが出来ました。


 被告発人安田繁克が金沢市場輸送で4トン保冷車に乗務していた可能性が全くない理由の補足ですが、昭和62年4月以降、金沢市場輸送で4トン保冷車に乗務した運転手はごくわずかで、そのうちいなくなっていたように思います。


 古くなった金沢市場輸送の4トン保冷車は市場急配センターで市内配達に使うようになっていました。4トン保冷車は新車も入らず、仕事自体がなかったと思います。


 その例外が西口君でした。東北便で宮城県塩釜市の東北陸運では2度ほど姿を見た記憶があるのですが、その場で話をするようなことはなかったように思います。被告発人安田繁克とかなり似た共通点があり、会社では滅多に姿を見かけず、金沢市場輸送の運転手の休憩室で姿を見かけたような記憶はどちらもありません。


 9月の中頃に1階の運転手の部屋が出来た直後、11月25日、12月の仕事納めの前日か前々日、3月中頃にいずれも市場急配センターの1階の運転手の部屋で西口君の姿を見かけています。


 11月25日は北陸自動車道の南条サービスエリアでも一緒になったような記憶があるのですが、トラックを見たという記憶はなく、平成3年の春以降に、西口君の4トン保冷車を見かけたことはなかったような気もするのです。


 また、西口君の乗用車というのも見た記憶はなく、どんな車に乗っていたのかわかりません。


 その場に被告発人多田敏明はいなかったような気もするのですが、夕方の遅めの時間に1階の運転手の部屋で、山口県下関市で札付きの当たり屋グループの被害にあったような話をしていたと思います。似たような話はだいたい同じ頃、金沢市場輸送で一人だけ残っていた九州の運転手にもあり、被告発人松平日出男が事故の保険処理をやっているような話も聞いていました。その運転手は被告発人東渡好信と長崎県松浦市の魚市場に行き、そこでひと悶着の問題を起こしてきたとも聞きました。平成2年の11月辺りの話だったと思います。


 西口君は4トン保冷車で鮮魚の長距離運転手をしていましたが、4トン保冷車の方が数の多い大型保冷車より重量違反で捕まる可能性が高く、免許の点数がなくなりやすいと聞いていて、それは実感をしていました。


 大型車の場合は容量がかさばって重量の少なめの荷物というのも多いのですが、4トン保冷車で鮮魚や冷凍物を積むとすぐに重量オーバーになっていました。4トン車となっていますが、保冷車の場合、車重が重くなるので、総重量だと最大積載量が3トン以下の2トン台というトラックもありました。2500kgぐらいというのも後部に貼り付けたステッカーで見たような記憶があります。


4t・10tトラックで過積載を行った場合、ドライバーへ罰則が適用されます。過積載の割合によって、罰則・罰金が変わってきます。


過積載の割合は


10割以上

5割以上

5割未満

に分かれています。


10割以上の過積載で「罰点6点+懲役6か月以下または罰金10万円以下」、5割以上で「罰点3点+反則金4万円」、5割未満で「罰点2点」が課せられます。また2015年からは過積載に対する罰則が強化されており、最大積載量の2倍以上の過積載があった場合、即時告発で100万円の罰金が課せられることもあります。


- 【4t・10tトラック最大積載量まとめ】何キロまでOK? – ドラEVER https://doraever.jp/column/%E3%80%904t%E3%83%BB10t%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E6%9C%80%E5%A4%A7%E7%A9%8D%E8%BC%89%E9%87%8F%E3%81%BE%E3%81%A8%E3%82%81%E3%80%91%E4%BD%95%E3%82%AD%E3%83%AD%E3%81%BE%E3%81%A7ok%EF%BC%9F


 長年の間、ネットで過積載の情報は見かけたことがなかったので、今回検索で調べて見ました。10トントラックの総重量が25トン未満まで、というのは10年以上前に規制の緩和として情報を見かけていた記憶があるのですが、過積載で罰金や懲役刑まであるというのは驚きました。


 10割以上とあります。蕎麦の配合以外で見かけることのないような表現で、理解がしづらいですが、10トン車に30トンの積載をすれば超えそうな基準です。


 ここまで基準や罰則が厳しいと運転手の手厚い保護になりそうに思えるのですが、平成4年当時はどれほどの重量違反でも2点の反則切符で済んでいたと思います。当たり前のように重量オーバーをさせられることもありました。スピード違反や飲酒運転も大幅に罰則が強化されているかと思います。


 長距離トラックの場合はよくわからないですが、高速バスの運転手の場合は、運転時間の規制などずいぶんと厳しくなっているとはニュースなどで見聞きしています。


この事故の裁判では必要な訓練などを行わないまま運転手に運行にあたらせたとしてバスを運行していた東京の会社「イーエスピー」の高橋美作社長(61)と運行管理担当の荒井強元社員(54)が業務上過失致死傷の罪に問われ、長野地方裁判所は今月8日、社長に禁錮3年、元社員に禁錮4年の実刑判決を言い渡しました。

長野地方裁判所によりますと、社長は16日控訴したということです。

元社員は、判決があった今月8日にすでに控訴しています。

- 長野 軽井沢バス事故 1審で実刑判決のバス会社社長が控訴|NHK 長野県のニュース https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagano/20230616/1010027079.html


 思い出して検索をしましたが、控訴審のニュースは見当たりませんでした。今年2023年6月16日の記事ですが、6月8日の判決で、禁固3年の実刑判決を受けた社長が16日の控訴で、禁固4年の実刑判決を受けた元社員が判決があったという日と同じ8日の控訴となっています。


 この軽井沢スキーバス事故の刑事裁判の判決も郷原信郎弁護士がYouTubeの動画で、何度もあきれたような笑い顔を見せながら、実に厳しく断罪をしていました。事故の状況を噴石しながらの解説もありました。


- 東京高等裁判所の紹介 | 裁判所 https://www.courts.go.jp/tokyo-h/about/syokai/index.html


 長野県は東京高裁の管轄と確認しました。禁固3年と4年の実刑判決を受けた社長と元社員が保釈されていたのか不明ですが、バスを運行していた東京の会社の社長と元社員とあるので、東京高裁の審理となった方が、被告人やその家族の負担は少なくなりそうです。


 通常は真逆のパターンになりそうな控訴審で、福井刑務所や富山刑務所にある拘置所から名古屋高裁金沢支部の管轄になる金沢刑務所の拘置所に移送されたという話は福井刑務所で受刑者の実体験として聞いたりしています。


- 大相撲 平成4年 春場所 - Google 検索 https://www.google.co.jp/search?q=%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2%E3%80%80%E5%B9%B3%E6%88%904%E5%B9%B4%E3%80%80%E6%98%A5%E5%A0%B4%E6%89%80&sca_esv=581760118&sxsrf=AM9HkKnmRFonzMKaNm7Z4e3fYg-IAQU59w%3A1699820392287&ei=aDNRZdKYEZbh2roP0cuK2Ao&ved=0ahUKEwjS7Ke1pL-CAxWWsFYBHdGlAqsQ4dUDCBA&uact=5&oq=%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2%E3%80%80%E5%B9%B3%E6%88%904%E5%B9%B4%E3%80%80%E6%98%A5%E5%A0%B4%E6%89%80&gs_lp=Egxnd3Mtd2l6LXNlcnAiIuWkp-ebuOaSsuOAgOW5s-aIkDTlubTjgIDmmKXloLTmiYAyBRAAGKIESMVtUI8oWJFmcAF4AZABAJgBfaABjA6qAQQ0LjEzuAEDyAEA-AEBwgIEEAAYR8ICChAAGEcY1gQYsAPCAgYQABgIGB7CAgUQIRigAcICBBAhGBXCAgYQIRgKGCriAwQYACBBiAYBkAYK&sclient=gws-wiz-serp#ip=1


 思い出して調べたのですが、優勝力士や番付表の情報は出てきたもの肝心の日程の情報が見つかりませんでした。気になったのは平成4年3月6日のことで、大相撲春場所が始まっていたのか確認したかったのです。


- 1992年の相撲 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/1992%E5%B9%B4%E3%81%AE%E7%9B%B8%E6%92%B2


 平成4年の春場所は3月8日から始まっていたようです。3月8日は日曜日と確認しましたが、6日の金曜日はまだ大相撲春場所が始まっていなかったことになります。


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