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証拠番号5(手書きの書面の文字起こし)


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テキスト全文

証拠番号5

平成三年五月下旬
主要事項
① 一日一万五千円の日当の話がきっかけで、急配に入社。

②この頃いつの間にか池田も転社。

③市内配送の仕事をする。

平成三年六月中
特になし

平成三年七月中
主要事項
①東度の包丁事件と安田某スイカ積み替え

②七月十八日、妻家出する。

③一度二階事務所に、私と、池田と、彼女と、松平といたところ、松平の提案で、彼女が松平のおごりでアイスクリームを、希望を私に訊いて買いに行った。彼女は、私の頼んだレモンのアイスを買って来てくれた。

平成三年八月中
主要事項
①妻子、一度神戸より戻ったが、すぐに戻った。

②中頃に、私が妻の実家にいって離婚届を渡した。

③東力町内の焼き肉屋で、松平主催の飲み会があった。(25日頃)

言葉
「大丈夫」(彼女)

福井刑務所における再審請求時の追加記載
二階事務所で、池田が文さんに、彼氏のことを話しかけ、彼女は、高校のとき以来いないと答えたことを、八月中のこととして付け加えておきます。11/9

平成三年九月中
主要事項
①8/31)日通白菊倉庫にて、神奈川県厚木市行きの荷物を安田と一緒に積んだ。(積み置き)

②(9/1)安田と一緒に2313号で出発(大糸線経由)

③(9/2)厚木で降ろし、東京晴海でバナナを積んだ。

④(9/6か7)事務所前で、彼女の乗用車6601号、大倉さんの4トン車に後部をぶっけられた。あるいは、13日か14日かもしれない。

⑤(9/11か18)前日に晴海から積んできた(2313号で)バナナを早朝6時より石川丸果バナナセンターで降ろす。A.M9時頃出社松平に、午後4時から館山農協に梨を積みに行くように指示を受けた。そして、会社面前で、自分の乗用車アルトワークスにフィルムを貼り始めた。
初めに4トン車で大阪に向かう山下つよしと多田が集まり、それにマルモ整備のパンチパーマの男が加わっていたところ、突如、彼女が加わって、手伝ってくれた。
午後になって、一時半だったかに、私が一人で作業をしていたところ、彼女が来て、手伝いをはじめてくれた。                              途中、松平、竹沢、松平の友人のカベヤがそれを見て驚いていた。
カベヤは、「お前ら、夫婦やったんか?、と驚きの声をあげた。」
彼女は、「そんなん、見えるけ」と答えた。

⑥館山に行くちょっと前、浜上さんに福島の白河市の日本工機の地図を渡してくれるよう、彼女に頼んだ。

⑦(9/14か、あるいは21)私は、午後四時頃、石川経済連に、山下つよしが持ってゆく馬鈴薯を2313号に積んだ。その時、トラックの中に赤い小物入れ袋を忘れた。
その日は、大網周一さんの結婚祝いに出席するため、早めに退社して、午後五時頃自宅に戻った。そしてすぐに、忘れ物を思い出し、会社に電話を掛けた。
加田君の自宅に寄って、一緒に私の軽四に乗って、午後七時頃、大場町東213の4の、大網健二君宅に到着した。すでに、浜口さん、中町さん、麻田さんなど集まっていた。
夜中に、加田君の運転で自宅に帰った。
翌日の朝か昼、会社に行って、トラック2313号の中より忘れ物を持ってきた。その時会社は無人であった。
言葉
彼女は、「私、取ってきてあげるか」と言ったくれた。

⑧(9/14か21)私は午後から片山青果か柿良青果の仕事で、中央市場の地野菜売場より青果物を積んで、マルエー松任店、小松市の若宮店(マルエー)、マルエー根上店に行った。
そして、五時頃、会社に戻ったところで、山梨の桃の回収容器を4トンウイング車に積む作業と私の乗用車が障害となって、立ち往生しているような見えた6601号に乗る彼女に、私はかけつけて、自分の軽四を移動してあげた。
でも、近くに行って見ると、私の軽四はそれほど障害になっていなかった。
これは初めて記述するが、午前中に松平に頼まれて、松任に誤配の荷物を取り替えに行ったのも、この当日であったかもしれない。また、その時、私が、松任のなんとかママと言うサラダなどを作る食品工場から会社に電話を掛けたとき、彼女は黙ってあまり返事をせず、なにかを訴えかけるように感じられたことがあった。
言葉
彼女は初め、私の顔を見て満面の笑みを見せたが、移動後は、私の会釈を無視して走り去っていった。

⑨(下旬の某日)二階事務所にて、私が池田に金沢信用金庫中央市場支店にて作成したキャッシュカードの郵送において不在であったため、泉野郵便局に取りにくるよう通知があったことを話しかけたところ、彼女がうれしそうな声をあげ、池田が「印鑑とかいるし、本人じゃないといけんよ」などと冷静にやさしそうに彼女をなだめた。
言葉
「それ私の家の近く、私行って来てあげる」と彼女
また、この数日前であったと思います。昼頃二階で、彼女と二人切りになり、彼女は私に、「今度、後ろの方にもフィルム貼りたくないけ?......なんか後ろの車(人)から丸見えって、嫌やぞいね」などと話しかけてくれたことがあった。
そのあと彼女は、電話を取っていずこかに電話を掛け、「山下さんいますか?、アンョウです」などと言ってすぐにそれを切った。
また、この頃、二度ほどこの当日もそうであったのですが、私と二階で二人切りになると彼女は席を立って台所にゆき、そこで化粧を直しておりました。
また、フィルム貼りを実際に手伝ってくれた日の数日後(二、三日後)、彼女は台所付近で話しかけてくれ、私が自分の車に貼ったフィルムの色が薄かったことより、濃い方が良かったと言ったところ、彼女は明るい声で、「私、薄い方がいい」と言ってくれたのです。ちなみに彼女の車のフィルムは濃い色であります。

⑩九月下旬の某日
私は、安田の自宅に掛けた電話で、彼女が好きで交際を求めようか迷っていると告白した。すると安田は、明るくなだめるように、「やめとけや、ダメやったら大変なことになるぞ、同じ会社でこれからどうやって顔合わせてゆくんや」などと説諭するようなことを言った。これは20日頃ではなかったかと思います。

⑪九月下旬の某日
私が午前十一時頃、事務所階段の出入り口にとめてあった、動かなくなった朝野のソフトバイク(たしか、ホンダロードバル)にまたがってエンジンをかけようとやっていたところ、その前に停めてあった6601号に乗り込もうとした彼女から突如声がかかった。と思ったら、二階の窓から叫ぶような池田の声がとどろいた。
言葉
「どっか行くが、送っていってあげるか?」=彼女
「ダメよ広野さん、乗ったらダメよ、どっか行きたいんやったら私の車使いなさい。」=池田

⑫九月下旬の某日
これは二十日頃だったように、あるいは月末だったように思います。初めて記述することであります。
その日私は午前九地頃に出社して、それから一階控え室で、一人で日報を書いておりました。そこに彼女が二階から降りてきて、なにか仕事のことを尋ねたのです。少しはにかんだような明るい感じですごく好感を覚えました。
この当日であったか、それともかなり後日であったか、午前十時頃に、私が二階に上がろうとしたとき、上から降りてきた彼女は、私の顔を見て、泣きそう顔をして走り去っていったのです。これは彼女の話しかけに私がひどく遠慮してあまり応じなかったためと思われ、それと、今思うと、池田がよからぬことを彼女に吹聴していたためであったのかもしれません。
そしてこのことが、10月5日の私の交際申し込みのときに、彼女がそれを断って見せた直接の原因としてつながっていたように思われるのです。とにかく彼女はかなり傷付いていた様子でした。私に直接の身に覚えがないことから考えても、池田がよからぬことを言ったことはまず間違いないように思います。そしてこの事が、私に、彼女に自分から交際を申し出ることを決意させたのです。誤解とは言え、傷つけてしまったから、その償いのような気持ちもあって、私は自分から直接彼女に告白をしたのです。また、絶対の気持ちがあったからこそ、駆け引きなどせず、ズバリ申し奉ったものであります。
また、なぜ、私がこれまでこの事を記述しなかったのか、それは余りにも時期がはっきりしないからであります。
また、その階段で彼女とすれ違った時、そこに偶然朝野がいたように思うのです。これは後述する10月12日の夕方の時と同じような状況でした。

⑬九月下旬から十月上旬にかけての某日
その日正午頃、多田の友人であり、市内配達の運転手である中村りょう太が、堂野さんの愛人の息子である大野君を同乗させて、西金沢方面に向けて配達中、金沢市玉鉾五丁目と米丸町の境あたりで、一時停止を無視して信号機のない優先道路に進入し、乗っていた二トン車を横転させ、優先道路を通行していた乗用車を民家の玄関先に突入させるという事故を起こしたのであります。
私は安田と一緒に、散乱させた青果物を収拾するなどの事後処理に向かいました。その時、偶然近くに仕事に来ていた大網健二君と現場で出会ったことを覚えております。
また、その後私は、松任の石川製作所に荷物を積みに行きました。
事故現場に駆けつけたときも、同じ2313号だったと思います。また、石川製作所で、安田と一緒に荷物を積んで午後四時頃会社に戻ったところ、ちょうど一階の控え室の前で、池田と彼女と、他二人ほどの市内配達の社員が、回収してきた青果物を整理していた光景を私はよく覚えているのですが、その時私は、彼女との関係は錯覚であったとほとんどあきらめたような気持ちになっていたと思います。なぜだがよく覚えていないのですが、その場面における私の心境だったように思います。しかし、絶望や落胆と言ったものではなく、ただ、思い違いであったと思ったようであります。
それと、なにか満足そうであった安田の顔を覚えております。自分の反対意見が私に絶妙の効果を与えていることに内心ほくそ笑んでいたのかもしれません。もしくは、本当に彼女が私など相手にするわけがないと思っていたのかもしれません。

⑭九月の終わり頃か十月の初め頃の某日
これも、午後四時頃であったとは思います。先の 中村りょう太の事故の当日と似たようなうららかな天気の日でした。
私が一階控え室にいたところ、山下つよしだったか、誰かが、発泡スチロールの魚箱を、二階の階段の出入り口の所において、数人の人がそこに集まってきたのです。なにかと思い私も見にゆきました。すると松平が、誰かに、二階に行って池田さんらを呼んでくるように言ったのです。この件で、私は初めて彼女の名前が「安藤」であることを知ったのでありますが、これは今考えてみると、どうも松平が意図して私に名前を教えたように思えてなりません。なぜなら、それまで松平は、ずっと、池田と同じように「文ちゃん」と呼んでいたのです。
言葉
「上に行って、池田さんと安藤さんにサンマ欲しかったらナイロン袋持って取りにくるように呼んでくれ」=松平

平成三年十月

1 十月の初め頃(あるいは、9/28土曜日の夜かも)
主要事項
その日、私は初めて(急配に入社して)岐阜の市場に馬鈴薯を持って行ったのです。そして、夜十時頃だったかに(あるいは八時頃だったかも)、私は岐阜の市場で荷卸しをして、すぐに、そのまま金沢に戻る途中、岐阜羽島インターの近くの一般国道より安田敏の自宅に電話を掛け、彼女に交際を申し込む相談をしたのです。その時私は、自販機でおみくじソーダなる缶ジュースを購入したところ、それに恋愛運絶好調などと記してあったことから、私は気を良くしてさらに決意を固めたことを覚えております。そしてこの時の安田は、かなり親身で友好的であったと印象に残っております。
あるいは、10月5日の前日だったのかもしれません。

2 10月5日土曜日
主要事項
その日私は、正午頃、出社と同時に、安田、東度、浜上、竹沢、松平、朝野、池田(河野さんはもしかするといなかったかも)などと、そのまま会社内に入らないままレストラン十字に行ったのです。
そして、そこでミーティングが行われ、ステーキセットを食べました。食事が終わると、私はすぐに、その会議の途中より考えていた、留守番中である彼女に電話を掛けようと思いついたことを実行しようと思ったのですが、すぐに慌てて出てきたため自分の軽四の中に財布を忘れ一円も持っていないことに気づいたのです。10円さえあれば0120で通話できると思い、安田に少しでも金を貸してくれ、と頼んだのですが、安田は私の考えを察したのか、全く持っていないとはねつけました。そこで私は頭をひねり回し、乗用車だったかのスペアーキーをジャスコの中の以前利用したことのある鍵屋に行って作ることを口実に思いつき、そして池田に言って、初め千円だったかを貸してくれるように頼んだのですが、一万円しかないと言われ、それを借りて私は会議の途中に出てジャスコの鍵屋に鍵を渡し頼んでから、その近くのエスカレータの横の公衆電話に行って、そこから会社に電話を掛けたのです。
すぐに思ったとおり彼女が出ました。私は、思いあまって声が出ず、それを切ってしまいました。そして暫くして勇気をふるってもう一度掛けたのです。
言葉
「もし、もし、広野やけど」(私)
「はい」(彼女)
「あの、頼みあるんやけど」(私)
「..........」(彼女)
「今晩、おれの自宅、電話掛けてきてもらえんけ?」(私)
「はい」(彼女)
「あの、電話番号.......書くものあるけ?、92の1563」
「はい」
「はい」

それで、夜八時頃に彼女に電話を掛けてくれるように頼んだのです。彼女は、事務的にたんたんと「はい」と答え、私の自宅の電話番号さえ訊こうとはしませんでした。あらかじめ予想していた当然の成り行きと言ったような感じさえありました。全く動揺がなかったのも、今思えば、彼女の配慮だったと思います。そしてそのことごとくの足を引っ張ったのが地獄の安です。
それから十字に戻ると、ちょうどみんなは店から出てきたところでした。私は来たときと同じように、誰かの車に同乗して会社に戻りました。
それから、私は、裏駐車場で朝野さんに一万円を渡し、池田に返してくれるように頼んだのです。その日私は、一度も二階事務所には顔を出さず、よって、彼女の姿も見ることはありませんでした。
《補足》
会社を出るときだったと思うが、二階の窓から顔を出している彼女の姿を見たように思う。誰かに用事があって探しているような感じだった、と印象にある。

それからすぐに、私は安田と東度のトラックに同乗して、羽咋あたりの海に近い所にある肥料工場のような所に行って、東度の積んできた一つ60㎏のズタ袋を汗にまみれて卸したのです。そして、その途中に東度の目を盗んで、私は安田に、彼女に電話を掛けたことなど、それまでのいきさつを話したのです。安田は、明るく「まあ、半々やなぁ」とか、言ってくれました。そして、冗談ぽく励ますような、まあ、がんばってやってくれ、と言った感じでありました。
それから、私たちは会社に戻り、私と安田は、そのまま石川丸果の倉庫に行って、2313号に名北行きの馬鈴薯を積み込んだのです。
なぜこの時松平は、私を休ませ安田に一人で名北に行くように指示をしたのか、あるいは、これも、計算ずくしだったのかもしれません。本来ならば、安田に運転指導として私を一緒に行かせるのが妥当ではないかと疑問を感じたことを覚えております。あるいは、すでに、当夜彼女に私から申し込みがあったなら断るように、池田を通じて手を回したあったのかもしれません。
それが終わってから、私は、安田を誘って諸江町のオートバックスに行って、それから、軽油グループのガソリンスタンドで給油をして会社に戻ったのです。安田は結果を教えに電話を掛けてくれと言い、ダメやったら明日一緒に名北に付き合ってくれと冗談ぽく言っておりました。それと、電話が掛かってこないような脅かしのような、不安を煽り立てるようなことも言っていたと覚えております。

3  10月5日夜の電話
主要事項
8時を7,8分ほどまわって電話が掛かりました。「もしもし安藤です」、彼女の声はすこぶる明るいものでした。それがかえって、安田の言う、彼女の余裕のあしらいと同僚としての気遣いとして感じられたのです。私は本当に金がなかったので、冗談にも一緒に連れていってくれとはいえませんでした。飲みにはあまり行かない、好きではないようなことをはっきりと言ったように思います。私は、ゆっくり話したかったのに、なぜ彼女は時間を短く限定して宣告したのか、配慮に乏しいのではないかと正直言って不快に思いました。それでなおさら腹をくくってズバリ言ったのです。「友達って、女の人け?」、「文ちゃん、彼氏おるが?」。
私は安田が言うように、やはり彼女は彼氏がおりながら会社での対面を考えてごまかしてきたのか、やはり、それが今時の女の子の常識なのか、残念、無念に思ったのです。その諦めがかえって大胆となり、私は思い切っていったのです。「あの、もし良かったら、できたらおれと付き合ってもらえんけ?」。彼女はすかさず、「ごめんなさい」と言いました。そしてまるで追い打ちを掛けるように「私、好きな人おるし」と言ったのです。
言葉
「もしもし安藤です」
「今日どこも走らんかったん」
「給料もらった?月曜日になったやろ、私一万円頼んで前借りしてん。それで今から友達と片町飲みに行くげん。広野さん飲みに行ったりせんが.......八時半に友達迎えにくるげん」
「う....ん(もったいぶって)残念ながら女の子なんです」
「う....ん」(もっと時間をかけて、いかにも答えにくそうに)
「いないんです。ハハ.」(軽い笑い声)
「ごめんなさい」
「私、好きな人おるし」

私は、ただただ打ちひしがれ、もう立ってもおられないようにへたり込むように「あきらめる」と言って、「気にせんといてくれ」などと言って電話を一方的に近い状態で切ったのです。
それから、私は安田の自宅に電話を掛け、ダメだったと伝え、酒をあおって眠りました。夜中に目が覚めました。テレビがついたままになって、恋愛物の洋画をやっておりました。それを見ると私はますます落ち、落ち、落ち込んでしまう内容だったのです。今思えば、この夜が本当に悪夢の始まりでした。

4  10月6日日曜日
主要事項
それから私は眠れない夜を過ごし、朝になって安田の自宅に電話を掛け、一緒に名北に行くことにしたのです。AM10時30分頃に金沢(会社を)出発して戻ったのはPM8:00時頃だったと思います。

5  10月7日月曜日
主要事項
その日、私が朝会社に出社すると、昨夜裏駐車場に停めてあった2313号の前の方が若干ではありますがぶつけられておりました。松平は完全に安田を疑ってかかったのでありますが、それを私が証人として無実を説得したのです。今思えばこれも松平か東度の工作だったのかもしれません。彼女はすまなそうに反省しているような様子でした。なるべく顔を合わせないようにしたことを覚えております。
また、その日、裏駐車場に本が来て、私にトラックを移動せよと命令したことを覚えております。私は断りそれを一蹴しました。

6  10月9日か11日頃
主要事項
これは初めて記述することです。その朝、午後一時過ぎ頃、私は一人で二階事務所で池田が来るのを社長の机に座って待っておりました。この事は外に出ていた池田も彼女も知っていたはずなのです(詳しい事情は覚えていない)。まもなく池田と一緒に外に出ていた彼女が一人で二階事務所に入ってきました。つまり、私と彼女は二人切りになったのです。彼女は私の顔を見ると、自分の机の方には向かわず台所の方に行きました。そこで暫く沈黙が続き、私は本当になにか池田に用事があったので座ったまま台所には行って姿の見えない彼女に「池田さんは?」と声をかけたところ彼女は「下におる」と答えたのです。そのあと私は下に降りて池田の所に行ったのですが、今思えば、これも池田と彼女が相談して決めて実行した機会であったに違いありません。その時の彼女は冷たい感じでした。私に対し、いらだちのようなものを含んでいたように感じられました。
言葉
「池田さんは?」
「下におる」

7  10月11日(?)
主要事項
その日正午前頃、私は出社と同時にか、出社後暫くして、一階控え室において佐藤と安田某と会い会話したように思います。その時が安田某が片町で暴行を受け怪我をしていたときであったかもしれません。その時私は、二階で給料をもらってきたところでした。そこで私は銀行に行くのに佐藤を付き合わせ、それから、市場輸送の旧事務所(西念町リの1)の建物の中のうどん屋の隣の小さな食堂で、食事をおごって一緒に食べたことを覚えております。
その時佐藤は、会社の裏駐車場に、60万円だったかで最近購入したという、かなり旧型(57,58年型)のトヨタマークⅡを停めておりました。そして、津幡町あたりで前から付き合っていた女子大生と同棲し、近くのとび職の会社に勤めているようなことも言っておりました。
私は以前上申書の中でもこの事柄を、十一月の中頃か12月の中頃ではなかったか、と記述したように思うのですが、それは私の勘違いでこちらの方が確かだと思います。また、上申書の中でもそのように訂正したように思います。
なぜなら、十一月の給料はすべて文さんが北国銀行に持っていってくれたからで、12月の給料は、12月20日をかなりすぎてから年末近くになってもらったからです。なのになぜ私が勘違いをしたのか、と言いますと、それは佐藤と一緒に銀行に行ったとき、私は北国銀行の面前に軽四を停めたからであったと思います。つまり十月のその時点では、私が入ったのは金沢信用金庫だったはずなのです。しかし、その記憶は今も私にはありません。

8 10月12日土曜日
主要事項
その私は、朝から松平の指示で、入江と玉鉾あたりに(多分ウェルマート)配達に行ったことを覚えております。そして、会社に戻る途中に、私は大豆田大橋の近くの入江の交差点を玉鉾方面から来て信号待ち中に、右交差点を西金沢方向から金沢駅西口方面に走行する天皇陛下のパレードを目撃したのです。
それから私は、会社に戻って二階に上がったところ、彼女と二人いつものように机に座っていた池田が、私に「広野さんお払い行くの、私たち二人一緒に連れていって....私大きいトラックって、まだ乗ったことないげん。一回乗ってみたいと思とってん。ねえ、文ちゃん」、のように声をかけたのです。私は、彼女の「ほんなん、池田さん乗ったことないが、私運転してみたいぞいね」、のような明るい社交的な言葉に、彼女は誰か他の運転手にトラックに乗せてもらったり、親しくしていたことがあるとばかり思い、そして、彼女はそのような水商売の女のような軽い性格があると思って、これもかなりの失望を受けたのです。そして、私は、返事もせずに仕事のことだったかに話題を変えたように思います。
それから午後四時頃になって、予定よりかなり遅れて日野自動車が新車である3068号を持ってきました。そして、平成三年三月中頃の浜上さんの三菱の新車の仮見試乗の時と同じように、会社面前に真横に駐車させられたのです。その時、私たちは皆二階事務所におり、松平も池田も、そしてカベヤも居りました。カベヤは彼女に声をかけ、冗談ぽくワシが運転して乗せてやろうか、などと言いましたが白けたようでした。
それから私はすぐに新車に乗って、石川護国神社にお払いに行ったのです。時間が早ければ池田の勧めた、以前7559号の新車乗務時にも行った鶴来の白山神社に行こうかとも思っていたのですが、午後四時頃にもなっていたので、又、あらかじめ遅くなることが予想されたので、私は近くの護国神社に電話で確認を前もってしており、それですぐに向かったのです。
福井刑務所における再審請求時の追加記載
☆ この納車が遅れた件(本当は昼過ぎに来る話だった)について羽、松平の根回しだったかもしれず、日野自動車に確認できればよいと思います。11/9
☆ トラックが来るちょうど10から20分ぐらい前に、松平はカベヤと他二人くらいと会社に戻ってきたのです。
お払いをしてもらい会社に戻ったのは、夕方五時二十分頃だったと思います。本来ならば、すでに彼女は退社している時間だったのです。しかしなぜか、その日彼女は、六時近くまで会社におりました。これは全く初めてのことであったと思います。そこで、その退社に直前に次のようなことがあったのです。私と安田が会社前で、新車を見ていたところ、彼女が二階から駆け降りてきて、私に「広野さん、今日どっか走るが?」、のように言ったのです。
 その直後に、私は池田に用を思い出して、彼女の後を追うようにして二階に向かったのです。そのところ、階段の途中で、二階から来た朝野が、二階に戻る彼女を呼び止めて、彼女に、自宅に帰るついでに市川タイヤまで乗せていって欲しいと頼んでいたのです。彼女は本当に嫌そうな顔をして、返事をためらっておりました。このように朝野は、入社当時ちょくちょく彼女にちょっかいのようなことを仕掛けていたようですが、それも彼女の態度を悟り、まもなくすっかりやめたようです。
《補足》
訂正浜上の新車のことを平成三年の三月と書いてありますが、これは明らかな間違いで平成四年の三月のことです。

9 10月12日土曜日夜
主要事項
その日の夜の様子を要点だけを取り上げ次に記します。
★午後七時から八時半頃に、私の自宅に二、三回無言電話が掛かった。
★午後十時四十分頃、私は104番号案内にて、初めて彼女の電話番号を知り、自宅から彼女の自宅に電話を掛けた。彼女の母が出て彼女にかわってくれた。私は無言電話の件で、今日会社に自分に宛てそれらしい所在を尋ねる電話はなかったか、訊ねた。彼女は、私は受けていないと答えてくれた。私は礼を述べて電話を切った。
言葉
「ちょっと待って.....(階段をかけのぼる音が聞こえた)....はい」
★私は、10分ほど迷いに迷ってもう一度彼女に電話を掛けた。彼女はすぐに出てくれた。私はすぐに「この前の話やけど、もう一度考えてみてもらえんけ?」、のように申し向けた。彼女は「.....(暫く考えて)..ごめんなさい」、のように答えたが、そのあとやさしく話しかけてきてくれた。それで会話は十二時に十分ほど前まで続いた。途中私は遅いから切ろうかと言うと、彼女は「大丈夫や」、のように言ってくれた。
 その電話を切った直後、離婚後初めて、八月の初め頃以来、前妻より電話が掛かった。前妻は、それ以前の私の長電話をいぶかしむ様子は全くなく、無言電話のことも全く知らないといっていた。(それまでの時間帯、前妻は仕事中であった可能性が強い。)
話の内容は覚えておりませんが、あたりさわりなく三十分ほどで終えたように思います。

10 10月中頃
主要事項
10月の中頃の様子は、次のようなものであったと思います。
★神戸L4より高崎に向けて走行中、北陸道徳光PAより午後五時頃会社に電話を入れたところ、彼女が対応に出た。
★大阪府堺市、通称泉北より石川丸果 に向け、青果物(キウィなど)を積むにつけ会社に午前九時頃より十一時半頃まで電話を掛けたのであるが、いずれも彼女が出て、社長は不在だと言い、三十分づつあとにかけ直すように私に言った。
★水曜日の休市日すなわち17日か24日あるいは30日のことであるが、当日私は、前日に石川丸果 倉庫で積んだ大阪府高槻市全農に向けの馬鈴薯を出発するところ、早めに午前中に出社してトラック(3068号)にフイルムを貼ろうとしたところ、途中二階に上がって誰にともなくマジックを貸してくれるよう申し向けたところ、彼女は真っ先に「はい」と言って、マジックを差し出したが、それは水性のようであったので私は受け付けなかった。その時彼女は、泣きそうな顔をしていた。ちなみにそのマジックとは、十月の初め頃(これは初記述)、私が彼女にマジックを借りたところ色が出なくなってしまったため、私が新品を購入して彼女に渡した。十色入り700円ぐらいのものであった。また、二階で私がそれを彼女に渡そうとしたとき、彼女は、私が壊したマジックは会社の物でであって私物ではないと言って受け取りをためらっていたのであるが、それを見た池田が、明るく諭すように、「広野さんの文ちゃんにあげるプレゼントや、もらっておきなさい文ちゃん」と、助言したもので、彼女が受け取ってくれたマジックである。また、私は、それが水性であるか否かは知らなかった。ただ、彼女の交際を断りながら気を引く姿に反感を覚えたからそれに応じなかったものである。
 そして、午後二時頃になって彼女は退社していきました。そのあと私が大阪に向け出発するところ、東度が池田の乗用車に同乗していずこかに走り去るのを私は目撃したものであります。その翌日、私は神戸L4より高崎行きを積んだように思います。(高槻から神戸に向かったことははっきりしている。)

11 10月下旬頃
主要事項
右当時の主な事柄は次のとおりです。
①19日か26日の土曜日
その日、私は会社にて、安田と一緒に午後より暇を持て余しておりました。まず安田が二階に上がって、彼女にコーヒーの作り方を教えてもらい。それから安田は、片町のことなど話題にして話しかけておりました。
 そして、夕方五時をまわって私が退社して東力に丁目の自宅に向かって軽四を走行していたところ、長田地内あたりより追跡するような彼女の車(6601号)に気づき、新神田あたりで、それをはっきり確認したのです。
その夜、私は自宅より、二度目の彼女の自宅への電話をしました。午後七時半から八時頃だったと思います。それから二時間ほど会話をしたように思います。会話の内容は現在覚えておりません。
福井刑務所における再審請求時の追加記載
☆私が今日は飲みにいかんかったんと切り出したところ、彼女は、友達みんな用あるって.....だやいしやめてん、と話したことは実によく印象に残っております。また、すこぶる穏やかでありました。11/9

②26日か11月2日の土曜日
その日、私は、神戸市の中央市場の近くのバナナセンターより高岡・富山行きのバナナを積み、当日の夜に高岡の市場に着き、夜中に富山の市場に移動し、朝より富山で卸し、高岡で卸し、昼頃には金沢に戻ってトラックステーションにトラックを駐車させて、迎えに来てもらった大網君の自宅に遊びに行きました。
また、その神戸にゆく前日か前々日に、前妻より自宅に電話があり、その時私は、文さんとの事はダメになったとばかり思いこんでいたこともあり、暫く前妻と会話を交わしたもので、その時前妻は、神戸の湊川公園の近くに住んで、その近くの市場で働いているようなことを話しておりました。
 また、私が神戸のバナナセンターから戻った二日後か三、四日後にも前妻から電話がありました。私はその時前妻に、数日前に神戸に仕事で行った旨を話したのです。

十一月上旬
右当時の様相と主要事項は次のようなものです。

①十一月の初め頃の休日(3日、4日、10日のいずれか)、私は安田の自宅に行って、彼を誘って、片町にキャッシュカードで金をおろして洋服を買うつもりで出かけました。しかしカードはどこも使用できず、私と安田は結局近江町まで歩いて行き、そこでくるくる寿司を食べて、車を停めた竪町の有料駐車場まで戻って帰って来たのです。

②その日夜の八時頃、突如前妻より電話が掛かりました。当日その時点で、私は文さんに電話を掛けるか、かかってくるのを待っていたこともあり、前妻の態度が復縁を求めるようになってきていたこともあり、私は前妻に対し冷たく対応したのです、そしてそのあとの文さんの電話でも、私は彼女に、交際はあきらめているから気にしないで、構わないで欲しい旨を伝えたように思います。
 また、この電話(文さん)の前の、数日前の電話では、二時間以上に及び私は彼女と会話していたような覚えがあり、一方、前妻からの電話も、最終的には十一月十日頃にかかってきた時、私が腹を立てて(先方が喧嘩腰であったので)それを一方的に切ってしまったのですが、それが年内最後の前妻からの電話だったように思い、また、その当日にも私は文さんと電話で話をし、この時は短い話で、ほとんど一方的にあきらめるからもうこれで電話は掛けないと申し向けて、彼女の返事を得ないまま切っているのです。そしてこの次に、私が彼女に電話を掛けたのが、およそ半月後の十一月二十五日なのです。
 だいぶ右の通り話がややこしくなってしまったのですが、それは今の私の記憶の通り実に混然としているのです。事件直後の記述ほど正確だと思います。今では、会話の内容も当時の状況も断片的にしか覚えておりません。
《補足》
最後に前妻から電話があった時、彼女はうれしそうな感じだった。久しぶりにみた態度だったが以前にはちょくちょくあった機嫌のいいときの話しぶりだった。私はすぐそれを一蹴して二度と電話を掛けないように宣告したのである。以前の彼女の性格からしてすぐにまた掛けてくると思っていたが意外にもそれっきりだった。したがって、これ以降に前妻から電話が掛かったことも、それ以前に電話で口論のようになったことも考えにくいかもしれない。しかし、それが絶対だとは言い切れない。記憶が鮮明に近かったことを考えると一度私が不愛想な対応をした数日後に電話があったこともあり得るかもしれない。
 また、前妻に絶縁を宣告した直後の電話で文さんにもはっきり断りを告げたがこの時だけは真剣な気持ちでその旨を話した。それ以前の電話でもほとんどの場合最後の方であきらめると告げていた。

十一月中頃の状況

①私は給料をもらってその運行前に池田に給料を渡し、北国銀行中央市場支店で通帳を作ってくれるように頼みました。

②東度は古河の青果市場で夕方荷積み作業中、山三青果のベルトコンベヤーに指を挟んだと騒いでおりました。山三青果の人達はいずれも東度のことを最も良く知るものでありますが、完全に白けきっておりました。

③東度の代わりに山下つよしがベニヤを積んで東京都東大和市に行き、翌日私と古河の市場で一緒になりました。

④安田は、会社より東度のトラックに乗って七尾のパチンコ屋にいた東度にそれを届けたそうです。

⑤東度は多田を連れて古河の市場に来ておりました。その時、私は初めて個人的に親しく多田と話したのです。また、この時点でも私は彼女との関係はすっかりダメになったものと思い込んでおりました。

⑥その日昼頃、私は昼前に池田に通帳のことを聞かされ「彼女に行ってもらった」、「30万円と3万円を別々にしてしまった」、「彼女は、今、出かけている」それから私は、多田を誘って昼食に行ったのです(これは、古河で親しくなった直後のように思われます)。 そして私は昼食を多田におごってからジャスコ若宮店に行き、そこで2000円のチーズケーキと250円ぐらいのショートケーキを4個買って会社に戻ったのです。
 そして車から降りるときに多田にそのケーキを二階に持っていって池田さんに渡してくれるよう、お前も一個もらって食べろと言って頼み、そして一階控え室に入ったのです。 そのところ間もなく私に、山下つよしが子供のことで話しかけ、私が返答をごまかして話題を変えようとしていると、そこに東度が、まるで斬り込むようにここぞとばかり「もうそんな必要ないもんな、ひでき」のように申し向けたのです。つまり私は離婚したので子供におもちゃを買ってやる必要もなくなったなどと勝手に山下に説明を始めたのです。 私はいたたまれなくなって控え室より出ました。その出たところで、二階から私の新しい通帳を持って降りてきた彼女にばったり会ったのです。彼女は控え室に入る直前だったのです。私はそれを受け取ったのですが、東度の言葉に憤慨していたためまともに彼女にお礼すら言えなかったのです。
言葉
「ありがとう(彼女)」

⑦11月16日だと思います。私は一人松平に誘われて、中央市場前の食堂に連れて行かれたのです。その時、松平は初めて私の離婚のことに触れました。そして会社に戻る途中の中央市場内高瀬商店の横の公衆トイレの前あたりで、松平はベンツを運転しながら二度目の悪魔の嗤いを見せたのです。ちなみに一度目は、九月の中頃私と彼女が会社の前でフィルム貼りをしていたのを見た二、三日後二階事務所においてです。
言葉
「時々子供に会っとるんか」(松平)

十一月下旬当時の状況は次の通り

①その日、午後二時半か三時頃、私は会社前でトラック(3068号)を洗車していたところ、市内配達の55歳くらいの名前の知らない時々市場輸送に麻雀に来ていたおじさんに声を掛けられ、二階に来るよう伝言を受けたのです。
 そして二階に上がったところで松平と誰か二三人、私と入れ違いのように外出して行きました。そこで私は二階内で池田と二人切りになり、池田に勧められるままにケーキと缶コーヒー(ジョージァ)をいただいたのです。そして暫く雑談をしていたところに、いつもその時間帯市場輸送に行っていていないはずの彼女が戻ってきて、それを見るや池田は「このケーキ、広野さんが文ちゃんのために買ってきてくれてんよ」(池田)、のように彼女に申し向けたのです。
言葉
「おれ、買ってきたんじゃないよ」(私)

②社内で、松平主催のジャスコ若宮店内芝寿司から買ってきた「鳥弁当」と「シャケ弁当」支給の上のミーティングがあったのも、この頃だったと思います。その時安田が来なかったため、私は東度と浜上さんから冷たい非難を受けたのです。そして当日の夕方に、安田のトラック(2313号)に同乗して市場輸送に給油に行ったことを覚えております。なぜなら、その時、車内に昼支給された鳥弁当が置いてあったことを私ははっきりと覚えているのです。
 また、この日は土曜日だったように思え、そうすると9日かもしれません。また、この頃より安田の「線抜き」が始まり、松平や浜上さんから安田はスピードを出しすぎるそうであるから注意するよう真剣な面持ちで言われるようになったのです。(三度くらい暴走だとか言われ、大丈夫なのか、と自分のことのように言われ真綿で責められた)

③安田の工事現場突入ですが、これは十一月の上旬だったかもしれません。そのポイントとなるのは、ただ一つ、東度の娘を当日の事件直前に見たことです。それは東度が、多田を連れて古河に来たちょうど一週間ほど前に、私はその娘を見たように思うのです。ゆえに、多田が東度の自宅で食事に呼ばれたと聞いたとき、私はすぐに娘のことを頭に浮かべることができたように思うのです。(私はその食事の翌日に、古河で多田に聞かされた)

④入江派出所にて駐車違反に問われた当日です。私はその日を11月23日の祝日ではなかったかと最近になって記述したのですが、その可能性は高いのですが、ただし、当日に水戸に向けて走った(運行に出発した意)というのは間違いのようです。それはまず、よく当時の日付を見ると、24日が日曜日であって23日とは連休になっているからです。私は25日にあがっているのでありますから、当初私は、23日に出発して25日に帰着したものと考えたのでありますが、24日が休日になると行き荷は卸せず、さらに23日の祝日に日本たばこ産業が営業していたとはまず考えられないことであります。しかしながら、この入江派出所の当日がもっとも25日に近い出来事であり、そしてこの時の彼女の態度がより一層私に再度彼女に電話を掛けさせることを決意とさせたことは確実であります。

⑤十一月二十五日
 私はこの日、初めてある種の自信を持って気後れなく彼女の自宅に電話を掛けました。午後七時四十五分頃だったように思います。この時も彼女は、それまでと全く同じように「今日どこも走らんかったん?」と始めに声を掛けてくれました。会話は午後十時二十分か三十分頃まで続きました。彼女の家族の方が電話を使いたいという申し出により会話を終えたのです。
 私が「好きな人どうなったん」と訊ねると、彼女は、「ダメになったぁ...みたい...私、悪いげん。冷たかったかもしれん..よお言われるぞいね。冷たい感じするって....これからは直そうって思っとるげん」などと言っておりました。
この時の会話は初めて終始穏やかでありました。福井刑務所における再審請求時の追加記載(聞く私の心境として11/9)
 私が「このまま明日の朝まで話しておりたいな」と冗談ぽく言うと彼女は笑っておりました。
 そして私は意を決して、彼女に「本当はすごく好きで諦め切れんげんけど、迷惑じゃないけ?」と訊くと、彼女は「大丈夫やぁ」と明るく答えてくれ、そして私が初めて「また電話してもいいけ」と訊くと、彼女は「いいよ」と答えてくれたのです。

⑥十一月二六日
その日私は、午後から大阪行きの馬鈴薯を石川丸果 倉庫にて積み込みました。会社に戻ってから、私と多田は浜上さんのおごりで使いを兼ねて高瀬商店(中央市場内、通称ババァの店)に行き、そこでカップラーメンなどを買ってきたのです。そして私は二階に上がって台所にてお湯を沸かそうとしました。ところが使い方がよく分からなかったので、私は誰にともなく声を掛けたのです。すると、すぐに彼女が駆けつけてくれたのですが、ちょうどガスが付いたのですぐにそれを断ってしまったのです。
 そのあと、夕方になって私たちは、浜上さん、多田、西口などと出発の待ち合わせを一階控え室においてしておりました。そのところ、彼女はなぜか退社時間が過ぎても二階で一人電話を掛けたりしておりました。
そして六時半頃になって、白いファミリァかパルサーまたはミラージュのような車が会社の面前に来て、彼女は自分の軽四を会社前に停めたままその迎えに来た白い車に乗ってどこかに行ってしまったのです。私は、それが彼女の以前からの親しい女友達であると西口の言葉から知ることができたのです。
 そのあと私たちは、南条SAで集まって食事をして、私は大阪で馬鈴薯を卸して、二度目にかつらぎ農協に入ったのです。

⑦十一月二十九日
 その日私は、かつらぎ農協よりミカンを積んで小松に向かう途中、名神高速道伊吹SAより午後七時四十分頃か半頃、彼女の自宅に電話を掛けました。五分間ほどの短い会話でした。
言葉
「私、今から出掛けんなんし」(彼女)

①十一月三十日
 この日、私が出社すると、なぜか彼女と池田の車が裏駐車場の一番奥の方に駐車してあり、それに中村りょう太(ベージュ色のソアラ旧型)、長山(赤色のRX-7)、田川(赤色の新型シルビア)の車も、それまで中央市場裏側の側道に駐車していたものが一緒に裏駐車場に停められておりました。

②彼女の市川タイヤお迎え(十一月中頃)

12月中における主な事柄は次の通り

①一階控え室において早朝より、東度、浜上さんなどと雑談をしていたところ、午前九時頃浜上さんより現金を預かって頼まれてコーヒーパンなどを買いに出掛けようとしたところ、会社前の洗車機のあたりで、出社してきた彼女とばったり顔を合わせた(たしか二千円ほど預かった)。その時、彼女はうつむいて沈んだ面持ちで、まるで逃げるように会社内に入っていった。そのあと一時間ほど経った頃、二階から呼び出しコールがかかり、私が出たところ、彼女はまるで泣いたような声でなにか訴えかけるように「梅野さんか、朝野さんいらっしゃいますか」と言ったのです。
そしてその当日の午後だったと思います。午後三時半か四時頃、私は、他の運転手の馬鈴薯の積み込み作業を手伝って石川丸果 倉庫より会社に戻り、日野自動車に修理に出した3068号のことで先方より連絡があったはずなのでその伝言を聞こうと二階に上がったところ、池田がまずその伝言を私に申し向けたのでありますが、その時、彼女がそれを遮るようにしてその伝言を声を大にして、これも泣きそうな顔で訴えるように私に申し向けたのです。
福井刑務所における再審請求時の追加記載
☆竹沢会長と夫人が応接席に座っておりました。また、彼女は松平の伝言も伝えたように思います。11/8

②これは初めての記述です。その日午後四時頃、私が二階に入ったところで次のような会話が聞かれました。「あの焼きそば、あの子(文さんのこと)お湯入れて作っておいてくれたよ.....やさしいやろ。こんな子お嫁さんにもらわんなん....」。察するところこれは、二階どころにおいて、市内配達の社員であった阪本(または坂本、当時二十一歳で、額あたりに家があるらしい。8月頃「北食」より移転(成瀬と一緒)してきた者)が、カップ焼きそばを食べようとお湯を沸かしていたところ、彼女(文さん)が、それをお湯を入れてソースなどを入れ食べられる状態にしたようでした。そしてそのことを池田が明るい調子で、私がケーキを彼女のために買ってきたと言ったときと同じような感じで阪本に申し向けたのです。その時私は、彼女の彼氏とは阪本ではないかと、いささかの疑いを持ったのです。それと池田の言葉は、社交辞令のようなものでそれは私においても同質のものであったと思ったのです。そしてそれは、安田敏の意見を肯定するものでもありました。いずれにせよ、今思うに、池田が彼女に私の真意を見せてやるとか称して、私に揺さぶりを掛けたものと思われます(時期ははっきりしない)。

③これも初めての記述です。ほとんど本件とかかわりはないのですが、一応記しておきます。その日午前中、松平を訪ねて、毛皮売りが二階にて、狼やミンクなどの毛皮を並べて松平に見せておりました。その時松平が冗談で、彼女にミンクの襟巻きをつけさせたところ、それはすごく似合っておりました。私はそれを見てすっかり自信をなくし、彼女のような美人が自分のことを真剣に思っているわけがない、やはり安田の言うように、互いの立場を考慮の上憐憫の情を掛けているのにすぎないと改めて認識を覚えたことを、私は印象にしております。これは十一月の中頃だったかも(その可能性はかなり低い)しれません。またあるいは、この日、同時頃(毛皮売りの帰ったあと)、日暮一家とかとび職のような変な名称の無線クラブの大きなステッカーを後部ガラスに貼ったソアラのようなかなり高級な乗用車にかなりの改造を加えた乗用車に乗って、その車を会社よこ洗車機の前あたりに停めて、そして松平に、持ち込み運転手として面接に来ていた。若いかなりつっぱったやくざっぽい男の姿を、多田と二人で私は見たように思います。かなり寒い日で、あるいは雪がちらつくような灰色の天候の日であったと覚えております。これも第二点と同様、時期ははっきりせず漠然とした記憶であります。はっきりしていることは、その当時すでに、私はすっかり多田と仲良くなっていたと言うことと、12月二十日頃以前だったと言うことであります。(また、その男は入社しませんでした。)

④その日私は、午前十一時頃(もしくは十時頃)出社して初め一階控え室にて、前日かつらぎ農協にてもらったミカンを数人の運転手にあげ、それから残りを段ボール箱ごと二階に行って彼女に渡しました。その時、彼女は明るい笑顔で対応してくれたことを印象にしております。これは12月十日頃だったと思います。

⑤十二月十三日
その日、私は彼女が裏駐車場に車(6601号)を停めるようになったのは直接私と話がしたいからだと考え、それに応えるつもりで意を決して、タイヤ置き場となっている四トン保冷箱の前あたりに停めて会った彼女の車の横に自分の車を停め、その中で彼女が仕事を終わってくるのを待ったのです。通常彼女は午後五時頃に退社し、遅くても五時半には必ず退社するのです。ところが、六時十分ほど前になっても彼女は退社のため自分の車の所には来ませんでした。そこで私は、あまり度が過ぎるとかえって嫌がらせになると思って帰ったのです。
 また、この当時もしくは当日、すっかり私が彼女に好意を抱き接触を求めていることは社内に知られた様子で、特に朝野が、私の顔を見てニタニタとなにか言いたそうにしておりました。
すなわち、私がすっかり社内に彼女との関係を悟られたと感じたのは(完全の意味でもある)十二月の十日頃だったと思います。
 また、この時梅野が私の車の横を歩いて会社の方に入っていきました。私の車は、エンジンを掛けっぱなしにしていたこともあり、多分絶対に梅野は私が彼女を待っていることに気づき、そしてそのことを池田や彼女に報告したものと思われます。 また、梅野が、私に、二階で、彼女が二階で仕事をしているときに、「あの元気のいいが、最近連れてこんな、どうしとる。今度また連れてこいや..」などと言ったのは、これも時期がはっきりしないのですが、十月の終わり頃か十一月の初め頃でなかったかと思います。当時私は、梅野が私と彼女の仲を知り、それに関与しているとは全く夢想にしておりませんでした。
 また、梅野が、二階にて彼女に家族のことなどを訊ね、それに彼女が私は嫁に出るつもりだとか、兄貴も家を継ぐつもりはないとか、爺さん婆さんが家にいてキンさんギンさんみたいだとか、明るく応えていたのはこの頃だったように思います。(初記述)
ちなみに私は当時、金山ギンさんが何者とは全く知らず、鶴は千年亀は万年のようなことわざに似た言葉であるとばかり解釈していたことを覚えております。
また、これは、九月の終わり頃だったかに梅野が彼女に、「アズさん、今晩片町に待ち合わせいいやろ」などと冗談ぽく声を掛けたところ、彼女もそれに合わせて承知した旨返答していたことがあったのです。(初記述かも)
右の事柄はいずれも似たような感じでした。今思うに、これらはすべて前もって彼女との間に打ち合わせがあったもので、私の耳に入れ、又、反応を見ることをあらかじめ意図していたものと思われ、それは当時においても、私の薄々感じるところであったのですが、私はそれを梅野の善意と、彼女のことを心配する気持ちとばかり解釈することにより、よけいに認識の錯誤を重ねたものであります。また、その梅野の真意は、いまだにもって私には了解不能であります。すなわち、この梅野の心理及び人間性にも、本件にかかわる謎を解く、真実を解明する鍵の一つであります。また、梅野と東度のかかわりと密通も重要なる課題であります。

⑥この日も天候はかなりどんよりとしておりました。私は午後から石川丸果 倉庫において馬鈴薯を積み込み、いったん会社に戻ってから和田のプレリュードを借りて、送り状を取りに行きました。その時、彼女があてもなくさまようように駐車場を歩いていたことを覚えおります。また、この時安田敏の同乗しておりました。また、この時の馬鈴薯の行き先は、東京太田市場ではなかったかと思います。時期ははっきりしないのでありますが、12月5日から15日までの間のように思います。

⑦その日私は出社後間もなく正午前に、七尾に荷積みに向かうのに二階から降りたところもしくは二階にて声を掛けられて、一階控え室にて会長夫妻にジヤンバーとズボン(茶色)をもらったのです。そして間もなく、洗車機横に停めてあった3068号に乗り込むところで、この時もあてもなくさまようような彼女の姿を裏駐車場タイヤおき保冷箱前あたりにて見たものであります。

⑧その日午前二時か三時頃、私は裏駐車場の多田四トンウィング車の中で初めて彼女との関係を多田に告白し、彼女のことについて訊ねました。多田は初め「事務員喰ってしもたん」などと訊き、そして彼女については、見ての通りや、あんまりしゃべらん子やなどと言って多くを語りませんでしたが、これはその時、彼がひどく眠そうであったことも大いに関係していたように思われます。その当日の朝多田はマルエーの青果物の配達で小松方面に行くともうしており、私は、付き合うから出発するときはトラックの中(3068号)に寝ているから起こしてくれるように言ったのですが、多田は起こさず一人で配達に行ったようでした。これは12月10日頃かもしくは17日未明のことと思われます。
 また、もしかすると福井に行ったあと仕事を終えてしげちゃんに行き、そこで浜上さんと河野さんと偶然に合った直後だったかもしれません。(古河便を終えて)

⑨これは初めての記述です。その日私はあがりであったところ、夕方六時頃になって浜口さんと浜上さんが、浜口さんのトラック(いすゞの1414か1413のどちらか)でかつらぎの近く(かつらぎ農協ではなくその近くの農協で、私は行ったことはない。他の人達は時々行っていたようである。)よりミカンを18トンほど積んで、七尾に卸しに行く途中に会社に立ち寄り、私は浜口さんに誘われて七尾に同行したのです。金沢に戻ってから、たしか松村町のエバラの近くの北海ラーメンで、ラーメンをおごってもらったことを覚えております。七尾には浜口さんと浜上さんと三人で行ったのですが、その時彼は、私と文さんとの関係を話題にすることも触れることも一切全くなかったと覚えております。時期ははっきり覚えていないのですが、これも十二月の中頃だったように思います。もしかすると多田に未明に告白した当日だったかもしれません。(この当時は忙しく、あがりの日は他の月よりも少なかったように思います。)

⑩その日は12月19日です。
 その日私は未明に前日山三青果から積んできた荷物を降ろし、あがりのつもりで午前十一時頃に出社して二階に上がったのです。そのところ私の予期に反して彼女の隣の隣の席に座った東度は私に七尾から関東に走るように指示を出しました。その東度の言葉を聞いた瞬間文さんが、がつくりと首をうなだれるのがはっきりと見て取れました。それは12月21日の私が24日東京に行くことに決まっていると言った時、そしてそのあと藤江陸橋下にて私がプレゼントを車外に投げた時と全く同じような反応であり、それは裏駐車場を彷徨彼女の姿とともに当時の彼女の苦悩をあらわす特徴であります。
 また、この時東度は私の反応をあらかじめ計算に入れていたらしく、なにやらもっともらしい説得のようなことを私に申し向けており、かつ、なにやら憐憫の情を私に言外に込めて印象づけておりました。それがより顕著となって私の心に訴えかけ悪いように印象づけたのが12月24日の、私の高崎インターの近くの関越道のPAからの午後二時半頃の電話の時です。今思うに、この時点で私と彼女はともに、東度の暗示に強く支配されていたのであります。
 また、その直後に彼女はしたに降りて行き、5~6分ほどで元の自分の席に戻り、そのあと、私は下に降りたところで彼女が5~6分外に出た間に裏駐車場に停めてあった自分の車(6601号)を以前停めていた会社面前に戻してきたことに気付いたのです。これで私は大きく心を救われたのでありますが、今思うに、私と彼女の心のダメージを与えることこそが東度の狙いであったように思います。しかし、当時の私は、彼女と同じ年頃の娘を持つ東度がそのような企てをしているなど、全く想像さえしたことはありませんでした。またそれは、彼女においてはより以上、東度をやさしいおもしろいおじさんだと信じ込んでいたものと思われます。

⑪十二月二十一日
 当日私は未明から朝方に前日古河青果市場で積んだ青果物を卸し、朝方自宅に戻り、仮眠を取り、午前九時半か十時頃に起きてそのまま金沢駅前の三越デパートに行き、「ティファニー」という宝石貴金属店で消費税込みで六万四千円ほどのネックレスを彼女に対するプレゼントとして購入しました。
それからそのまま会社に向かい、会社に着いたのは午前十一時一五分か二十分頃だったと思います。ちょうど裏駐車場に安田がいたので、私はプレゼントを買ってきた事情を話し、安田に彼女を呼んできてくれるように頼み、そして会社内には全く入らずに裏駐車場の真ん中の奥の方に駐車したトラックの中で(3068号)、安田の呼びかけにより彼女が来るのを待ったのです。間もなく彼女はうれしそうな笑顔で恥ずかしそうに「なんやぁ」と、私の運転席の下より声を掛けてくれました。私が助手席に乗るように頼むと、彼女は「これどうやって乗るがぁ」と恥ずかしそうに言いながら素直に応じてくれました。
〈このあとの会話については上申書などで何度も記述しているので省略しますが、ポイントとなる言葉を一応記しておきます。〉
★「もうじきクリスマスやね。オレ、クリスマスの日」東京行くの決まっとるやけど、これ先にもらって欲しいもんあるんや。一応クリスマスプレゼントと言うことで」=(私)★「なんやぁ」「私、こんな高価なもんもらえん......だって私広野さんになんもしてあげれんもん」「それに、私、好きな人おるし....」=(彼女)
★「なんで家電話掛けても出てくれんが?」=(私)
「寝とったんじゃないか、私最近早く寝るし」=(彼女)
「おまえの家の人、出掛けとるって言いとったぞ」=(私)
「ほんならその時出とったんじゃないか」=(彼女)
★「好きな人ってどうなったんや。その男と付き合っとるんか?」=(私)
「わからん」=(彼女)
「わからんってどうや。これだけ言っておくけどオレ付き合っとる男おりながら他の男と付き合うような女なら初めからいらんぞいね」=(私)  「....(無言)」=(彼女)★「私の気持ち変らんし」=(彼女)
「ほんなはっきりもの言えるんやったらもっと早よ言えや」=(私)
★「そんなんやったらこんなもん(プレゼント)もろても迷惑なだけやろな」=(私)車外に投げた
「初めに言ってきたん、あんたの方やしね」=(彼女)
 そのあと私は、七尾に行って能登木材よりたしか東京都練馬区行きの製材を積んで夕方五時十分ほど前に会社に戻りました。そして二階に上がったところ、浜口さん、浜上さん、河野さんなどがいて(東度はいなかったかもしれない)、彼女は私の姿を見ると(目は合っていない)、先ほどトラックで別れたときと同じように張りつめた緊迫した沈痛な面持ちで無言のまま足早に帰って行きました。その時二階にいた人々は知らぬ風をしておりましたが内心ニタニタしているのが特に河野さんにおいて感じられました。
 これは一月二十二日の夕方七時頃私と彼女が東インターから西インターをまわって戻ってきたあと一階控え室に入った時、と実に似た雰囲気でした。
 また、その七尾に向かう直前、彼女がトラックを降りてから3~5分ほど遅れて私が二階に入ったところ、彼女の姿は見えず(台所にいたように思われるがはっきりしない)、池田と松平が満面の笑顔で私になにか優しく声を掛けそして松平はその時緑色の帽子を私にくれました。この時の松平と池田の態度は一月二十二日の午前十時半頃私がハサミを借りたあと二階の出入り口のドアを蹴って穴を開けたとき及びその直後の態度と実によく似ていたと印象にあります。当時私は、それを松平らが私と彼女に会社を辞められたくない一心によるなだめであるとばかり思っていたのです。それは彼女においても同様であり、その影響力はより大きなものであったと思います。
 そのあと私は自宅に戻り、まもなく投棄現場に行きそこでプレゼントを拾ってそのまま南新保の浜口さん宅アパートを訪ね、そして浜口さんが入浴中に財布を取りに(忘れてきた)自宅に戻り、午後八時半頃浜口宅を浜口夫人の運転によるダイハツシャレードに乗せてもらって出発。会社に浜口さんと寄ったところその時一階に梅野と中山さんなど数人がめずらしく残っておりました。私と浜口さんは中央通りと片町の境あたりに降ろしてもらい。夫人はそのまま自宅に戻られたようです。
 そのあと私と浜口さんは、四軒ほど飲み屋をまわりました。途中浜口さんが前もって連絡していた大網周一さんと合流したり、麻田正美(旧姓佐田、通称チャーミ)と小島ひろ美さんの働く店などに入り、最後に入った店でその閉店とともに二人の二十代の女性と店を出たのですが、私が男女二組に分かれ別行動することを拒んだため二人の女は腹を立てていなくなり、それで浜口さんも腹を立てて、私は午前三時頃一人でタクシーに乗って片町スクランブルあたりより会社に戻り、トラックの中で一時間ほど経ってから(会社に着いて)眠りました。

⑫12月22日の私の行動
 未明に片町で浜口さんと別れ会社に戻ってトラックの中で寝た私は当日の朝九時半頃に目を覚まし、それから一階控え室で電話を掛けてから十時半頃に大場町913の4の大網健二君宅に訪れました。そして暫くしてから、無理を言って一緒に花を彼女に贈るため花屋さんを探しに武蔵が辻の名鉄丸越に行きましたが、目的の店は見つからず、それから市場輸送の近くのパチンコオークラの横の花屋に行き、そこで赤いバラの花一本800円を10本、24日の夜七時に彼女の泉ヶ丘の自宅に届けてくれるよう手続きして代金を支払いお願いして、それから、中央病院の近くの8号線バイパス沿いの「アンデルセン」というレストランで大網君と二人食事をして、それから、大網君の申し出によりゴルフの練習場に行くことになり、初め宇ノ気の山間部のゴルフ場に行ったのですが都合が悪く、それから、津幡町と森本町の境あたりの8号線に近いゴルフ練習場に入って打ちっぱなしを二時間ぐらいして、それから、大網君の自宅に戻ってその近くに停めてあった自分の車に乗って私は午後五時近くに自宅(東力二丁目28の2)に戻って、それから自宅の斜め前前方50メートルほど先にある中森という床屋に行ってそこで、久しぶりに短く散髪してもらったのです。(髪を短く切ってもらった)
自宅に床屋から戻ったのは午後七時頃だったと思います。私は食欲もなく、それからすぐに安田敏の自宅に電話を掛け今から訪ねる旨申し向け、彼の承諾を受けすぐに花里町の彼の自宅に向かい訪れたのであります。
 「やっぱりダメやったか。ダメやと思っとったわい。お前が呼んどるってあの子に言った時、すごい嫌な顔しとったわい。あの子前縫い物してくれって頼んだ時、ちょうどあの子忙しかったらしくって顔曲げて(のような意味の方言)嫌な顔で合図しておったわい。その時と同じような感じやったし、あぁ、こりゃダメやなってすぐ思ったわい。そしてあの子なかなかお前や呼んどるってゆうたら返事せんかったわい。まあせっかくやし、行くだけ入ってやればってゆうてやってんけどな」などと感情たっぷりにうれしそうに安田は申しておりました。私は安田に前日の夕方に拾ってきたプレゼントを差し出し、24日に出社したときに彼女に渡してくれるように頼みました。最初、安田は渋ると思ったので私はもはや他には方法がないと諦め、「事務所で誰がおってもかまわんし池田さんに渡して彼女に渡してくれるよう頼んでくれ」などと私は池田の顔を立て且つもっとも簡単な手段を安田に頼んだのですが、あとになるとそれはやはり軽率であってまたしても彼女を傷つけることになりかねないと思い直し、安田のご機嫌をとってそのあとで前言撤回の上、彼女を人目の付かぬように呼んだ上で、「文ちゃんのこといい加減な女やと思っとらんし、頼むしもらうだけもらってくれ」と頼み、それでもダメなら無理強いしないでくれと安田に頼んだのですが、安田はあまり真剣には聞かず、それでも返事だけはしっかりと何回もしていたので私は承知してくれたものとばかり思い、肩の荷がようやく下りた気持ちになっていたのです。
 また、その会話の途中突如安田に松平から電話が掛かり、山下つよしが喧嘩をして怪我をしたので代わりに豊橋に行ってくれと頼まれたらしく、安田は仮眠をして夜中二時頃に出発すると云ったので私はそれからすぐにおいとまして自宅に帰ったのです。
 また、私が初めて安田の妻の顔を見たのもこの時でした。出産直前でもありました。
福井刑務所における再審請求時の追加記載
☆私が安田に前言を撤回し頼んだのは、たしか松平から電話があった後で辞去する直前です。H6年11/10
現在の意見
私は安田から 誰からの電話であったか尋ねていないはずです。その電話の時は松平か東度のどらかかで半々くらいに考えていましたが、初めのうちは会社からの電話とは考えにくかったのです。結構長い会話で通常ならば要件を先に話すはずなのに具体性が感じられなかったのです。安田の態度も会社での態度とは違っていて親しい者と話しているような雰囲気だったのです。終始淡々としていて突然の電話のはずなのにそのようなそぶりは全くありませんでした。私は何となく不可解な気がして深く会話の内容に立ち入る気がしませんでした。それで安田に誰からなのか聞かなかったように思うのですが、あるいは安田の口から松平という言葉を聞いていたのかもしれません。しかし、私の印象は東度という方が可能性として強かったのです。ここでなぜ私が松平とはっきり記述しているのか分かりませんがこれを書いたときは深く考えずにいたのかもしれません。

⑬十二月二十四日
 当日私は池袋インターから首都高速に乗り東北道を通って午前九時か九時半頃に古河青果市場に入り、青果物を積み正午頃に出発しました。
 そして二時半頃、渋川インターの手前のPAより、彼女が市場輸送に行っていないことを計算の上会社に電話を掛けました。(駒寄PA、関越道渋川伊香保~前橋間)
 初めに彼女が出て次に東度にかわったのです。この時私は風邪をこじらせて特にのどの調子が悪く不機嫌な声になっていたのは致し方ないのですが、この事も池田や東度に存分に利用されたように思います。
 この時の東度は妙にやさしく、同情に堪えないと云った深刻ぶった感じでした。これは当時何度も見られた東度の態度の特徴の一つであります。とにかく深刻ぶることにより相手方に不安を与えるのが東度の常套手段で、松平はよりソフトにその傾向を有するものであります。この時の彼女は私の言葉を待つようにして、そして本当にすまなそうでした。
 そのあと私、関越トンネルの手前にある谷川岳PAより電話を掛けました。その時は池田が出て、それとなく私の声のことを訊ねたので私は風邪のためだとはっきりと答えたのです。
 そのあと私は、午後七時頃、富山県の北陸道有磯海SAにて食事にレストランに入った事を覚えております。
 そのあと私、中央市場内高瀬商店の隣の公衆トイレの前あたりで、福井分を多田の四トンウィング車に中継しました。その時の多田はすこぶる友好的且つ上機嫌でした。
 そのあと私は、午後11時30分頃か12時30分頃仕事を終えて自宅に向かう途中、長田本町と大豆田本町の境あたりの路上で、なにか白い塊のようなものを走行中にてまたいだのです。(自分の軽四アルトワークス)

⑭12月25日の行動
その日私は、午前十一時頃に出社しました。そして事務所横の洗車機の横で軽四を停めて、自宅を出発したときから気になっていたオイルの油圧メーターの変調により、車外に出てオイルパンのオイル漏れがないかどうか車の下を覗いていたのです。右の状況と前後して私が進入してきた会社正面とは逆に裏駐車場の奥の方から彼女が自分の軽四に乗って進入してきたのですが、ちょうど駐車場が一杯だったこともあり彼女はUターンして中央市場横の道路に出て会社正面の方に走っていきました。 
 そのあと5~10分ほどして私が二階に上がって事務所内に入ったところ、彼女は何事もなかったように机に向かって仕事をしておりました。
 私は池田の顔を立てる意味(安田に頼んだことも含まれる)と、高価な贈り物に対する彼女の心の負担を減殺することを目的として、池田に給料を預かってもらっていたことなどを名目に現金を二千円ほど池田に手渡し、彼女と一緒にケーキでも買って食べてくれ旨申し向けたのであります。その時彼女は、下から見上げるように私の顔をにらんでおりました。(私は目を合わせなかった)(しばらくの短い間のこと)その時池田はかなり遠慮して困ったような態度でありました。
 そして私は、その時来客か電話があって話し中であった松平に、オイルパンが割れたことを話し、修理を頼んで(スサキ自動車にしてもらったらしい)、それから七尾に荷積みに向かったのです。
 また、福井分を中継する時、ただに当日の彼女の様子を訊ねたように思います。多田は見ていないようなことを申しておりました。
福井刑務所における再審請求時の追加記載
☆これは十二月二十四日の夜に間違いありません。H6.11.10

⑮十二月二十五日夜、足利給油所からの電話
当日の夜十一時半頃、私は七尾から積んだ荷物を関東地方の某所に運ぶ走行中、栃木県足利市の国道50号線沿いの太陽鉱油の給油所に給油に立ち寄ったところ、その機会を利用して給油所内の公衆電話より金沢の安田の自宅に電話を掛けたのです。夜中にならないと帰らないと思っていたのですが、予期に反してまもなく安田本人が出ました。そこで私は初めて彼女がプレゼントを受け取ってくれたことを知ったのです。
 安田の話によると、「お前のいいた通り、二階に上がって池田さんに、これ秀樹がどうしても文ちゃんにもらってくれと」などと、彼女の面前において池田にプレゼントを渡したところ、池田は「はい、文ちゃん、広野さんから」と言って彼女に渡したそうです。
そして、私が彼女の反応を安田に訊ねると「どうしたん、文ちゃん、真っ赤っかの顔して」などと池田にからかわれていたとだけ言い。そのあと安田は、自分が当日の昼に土浦市内でトラックを接触させたことなど余裕たっぷりに機嫌よく話題を変えて話し始めたのです。
また、私はその前日である24日の夜にも何度も安田の自宅に電話を掛けたのですが、ちょうど夫人が入院したところだったようでだれも出ませんでした。(私は安田本人が不在であることは承知していたけれど、安田はよく夫人に電話を入れるので伝言による結果を知っていないかと、夫人の存在を期待して電話を掛けたのです。)

⑯12月26日の夜
 当日私は、古河より夜中に金沢の中央市場に入り、そしてこの時は、福井分を中継せずに多田を同乗させて福井に卸しに行きました。その時福井の市場でウィングの荷台を開けたところ、中に小鳩が一羽いたのです。また、当日私は自宅に帰らずトラックの中で寝たように思います。
福井刑務所における再審請求時の追加記載
☆(間違いありません。)H6.11.10

⑰その日の夕方彼女の退社の際、それを一階控え室にて、山下つよしと安田敏がなにか期待を秘めて私の様子を窺っていたのです。その当日の昼頃、私は安田に、今日の夕方に彼女に声を掛けると話していたのですが、その時安田は、聞こえなかったようにして返事をしませんでした。
 そして、彼女はいつもより三十分ほど遅く五時半を過ぎて下に降りてきたのですが、私はそれまで彼女に声を掛けることを決意にしていたけれど、山下と安田の好奇の目にさらされることが気になってならず結局彼女に声を掛けなかったのです。その時彼女は、一度二階に戻りそれでも私の反応がないと見ると外で自分の軽四(6601号)のドアを音を立てて開け閉めしたりして、私が来ることを意思表示により要請していたのですが、それでも私は行動に出なかったので、彼女は車のエンジンを吹かしつけて乱暴な運転で帰って行きました。するとそれと同時に、安田と山下はおもしろい映画でも見物し終わったように無言のままやんわりと立ち上がって外に出て帰っていったのです。これは12月27日のことと思います。
そして多分この数日後、年明け数日後だと思うのですが、この時と全く同じような状況があり、その時は山下が一人、この時ほど露骨ではなく、彼女の方も控えめで、それでいて控え室の出入り口の前まできて、かがんでなにかを置いたのか拾ったような素振りを見せたことがありました。あるいはこの数日前で十二月の中頃だったのかもしれません。いずれにせよ両者とも、彼女は退社時に軽四(6601号)を会社面前に停め、そこに私が直接声を掛けることを望み求めていたものであります。この時点で安田が、彼女が私に強く働き掛けていることをはっきり認識していることを私は見て取り、以来安田の意見はまともにしないよう心掛けるようになったのです。
また、今思うに、この当時の安田と山下の私と彼女に対する見解は、他の社員同様東度の解説が強く影響されていたのかもしれません。すなわち安田の妄執は東度の言葉を媒介して発展していったものかもしれず、なにぶんにも安田の知能の程度と固執性でありますから、それらが相俟って安田は通常の人が考えられないような認識を有し、思い込んでいたことも考えられます。すなわち客観的な常識で判断するより安田の異常心理による主観によって判断した方が真実に近づけるのではあるまいかと、私は思うのです。また、この判断を誤ったことこそがそもそも事件の原因の一つであったように思うのです。(これは27日ではなく、両者とも一月上旬のことであったかもしれません。)

⑱12月27日と思われる事柄
当日、私は午後四時過ぎ二回のミール移動を終えて会社に戻ったのです。それから暫くして山下つよしと和田が、ミール移動を山下が三回私はトラックの修理のため二回を終えて戻って来たのです。
一階控え室にて雑談をしながら、もう退社しようかと話していたところ午後五時をまわって二階から呼び出しコールが掛かり、私が出たところ彼女が、「山下さんか和田君いますか」と言ったので、私は山下に電話を替わったのです。そこで彼女は、山下に、和田君とどちらかもう一度ミール積みにハイミールに来るよう、東度さんから連絡があったと言ったようです。山下は、自分は三回運んでいるので問題外と言った風に話しました。そこで私は、和田と一緒に和田のトラックに同乗して行くことに決めたのです。そしてすぐに、二階に上がってその旨を彼女に申し向けたところ、彼女はひどく疲れ果てたような顔で、 恨みを込めたような表情で私を見ておりました。
それから私は和田と一緒にハイミールに行ったのですが、その走行中、金沢港に出たあたりで和田は私に「再婚する気ないが、不便やろ嫁さんおらんと。うちの事務員のあやちゃんなんてどうや」などとさりげなく軽い冗談ぽく言ったことを覚えております。
それから私と和田はハイミールに行ってミールを積み、それから六時半頃に会社に戻り、そして北安江と諸江町の境あたりにあるクルクル寿司に行ったのです。それから一度会社に戻って(だったと思います)、私はこの時も和田の乗用車に同乗して、初めて和田の自宅アパートに遊びに行ったのです。そして夜十一時か十一時半頃に東力の自分のアパートに帰ったように(着いた)思います。

⑲12月28日土曜日の夜

また、この時多田は、私が文さんとうまくいったら彼女を紹介してくれるように頼んでやると言うとすごく喜んでおりました。(28日午後)

その日私は、午後から多田と一緒に(手伝ってもらって)石川丸果 倉庫で、新年四日卸しの岐阜卸しの馬鈴薯を積んだように思います。
そして夕方になって、一階控え室で、多田、西口、そして元急配の社員(一人は峰田だったかも)二人と一緒に雑談の末、浜口さん宅に行くことになり、一度市場輸送に行ってから、浜口さん宅に訪れ、そして諸江町内の焼き肉屋六歌苑に行き、それから浜口さんと別れ残りのメンバー5人で急配に戻り、そのまま連中と控え室で雑魚寝をしたのです。
 また、夜中に多田と西口が申し合わせてサウナに行って来たようでした。この夜になると多田は不機嫌になってあまりしゃべらなかったことを覚えております。おそらく私のおごりで片町に行き女をナンパすることを相当期待していたと思われそれが逆恨みのようになっていたものと考えられます。そして次第にそれが彼女に投与されるようになっていったものと思われます。

⑳12月29日日曜日

当日、私と和田と多田は、多田の四トンウィングに乗って昼頃増泉の日本通運に行き、高知からトラックを待ちながら近くのレストランココスで食事をし、それから日通で青果物を積んで会社に戻り、午後二時頃に会社を出発して右の三人で長野の市場に行きました。帰って来たのはその夜の夜中の三時頃だったと思います。それから三人で、和田の乗用車で、中央市場内のゴミ置き場の横にある食堂に入って食事をしました。

1)12月30日の私の行動
 
第1項 当日午前十時頃、私が一階控え室にいたところ、彼女は何度もずっと玄関のガラスドアを拭いておりました。沈痛な面持ちで.....。

第2項 それから暫くして私は二階に松平に呼ばれていったところ、松平は私に頼みがあると言って、ベンツに乗って藤江陸橋の側にあるガソリンスタンドに行って、給油をして洗車をしてもらってきてくれと言いました。私は下に降りて、和田を誘って一緒にベンツに乗って出発したのですが、その時も彼女はまだ一人で玄関の掃除をしておりました。

第3項 午後三時頃、私は二階で松平から給料の一部と20万円の入ったボーナスをもらったのです。そして、28日の土曜日だったと思うのですが安田と一緒に行き服を買いズボンの寸法合わせを頼んだ紳士服モリワンにそのズボンを取りに行ったように思います(安田と一緒に行った時、強風で車のドアが曲がってしまった。また、その何時間か前には裏駐車場でトラック(3068号)より降りた瞬間に21日松平にもらった帽子を強風で飛ばしなくしてしまった。)

第4項 それから私は一度会社に戻り、それから安田に出産祝いの祝儀袋を渡すことを思い出し、それから安田を捜しまわったのです。そしてちょうど日が暮れかかった頃になってパチンコオークラで安田を見つけ、外に呼んで祝儀袋を渡し、それから私も暫くそこでパチンコをして午後七時頃に東力の自宅に戻ったのです。そしてまもなく私はかねて思いを決めていた通り彼女の自宅に電話を掛けたのです。しかしこの時も彼女のお母さんが出て彼女は不在であると言われたのです。
訂正 私が自宅に戻ったのは八時十分ぐらい前だった。それまで安田と二人で近くの焼き肉屋に行っていたのであるがこの記述をした時点ではまだ思い出せていなかったようである。

2)十二月三十一日

当日、私は能登の実家に帰省するのに先立って夕方に彼女の自宅に電話を掛けたのですが、この時もお母さんが出られて「先ほど友達が迎えに来て一緒に出掛けたんです...。」と言われました。この時も夜七時半頃だったように思います。

3)12月中頃の安田の話

 それは12月の上旬だったかもしれません。ある日安田は私に自慢気に「この前、事務所であの子セーターの編み物しとったわい。好きな人にあげるやと。市場輸送の若い女の事務員来て教えてもらうとか言いとったな...。」およそ右のようなことを、さも彼女にはちゃんとした彼氏おるんや。すっかりあきらめやなどといわんばんりのうれしそうな口振りで言っておりました。
訂正 私の記憶では彼女の方が出向くように聞いている。ここでなぜ相手の方が来るように書いているのか釈然としない。
平成四年一月中
平成四年一月中において有ったと思われる主な事柄は次の通り、なお順序はなく疑問点と確かな事実を中心に記載したいと思います。

第1章(第一点)

第1節
新年顔合わせがあったのは一月四日と思われる。当日私は正午過ぎ皆より遅れて二階事務所に入った。安田敏、浜口さんなどがいたのでその近くに座った。そこは換気扇の下であった。彼女は黒い皮のコートを着ていた。よく私の方を振り返って気にしていた。それもあってか松平が私に換気扇を作動するように申し向けた。
 会社の面前で、彼女が帰りがけに、私は偶然に横に停めてあった自分の車に煙草を取りに行った。その時彼女は私が声を掛けることを期待しているように見えた。
①そのあと私は浜口さんに誘われて河野さんの自宅に行った。あとでカベヤと松平がベンツに乗って来た。そして夕方六時頃、私は松平とともにカベヤと三人で河野さん宅をおいとまして松平に会社まで送ってもらった。そのあと、私はトラックの中で暫く仮眠しようと思ったが眠れず、まもなく岐阜に向け出発した。岐阜からは夜中か、途中に仮眠して朝方に金沢に戻った。訂正 私が岐阜から金沢に戻ったのは夜中である。朝明るい時間であったとは考えられない。
そしてその次の日の午前、私は安田のアパートに遊びに行った。その時初めて安田の生まれたばかりの赤ちゃんを見た。それから加湿器を返すという安田に付き合って安田の車で泉野のリース屋に行った。その帰り道電柱に彼女の住所である泉ヶ丘二丁目の標示を見た。そのあと赤坂プラザに行って地下の遊技場で安田と卓球などした。        ②そのあとで私はその赤坂プラザの地下にある貸しレコード店でCDを借り(この時私はカードを作ってもらったかもしれない)、それから安田の自宅で夜にかけてそれを録音してもらったかもしれません。
私は先の上申書の中で、東力ストアーの前で追突事故にあったのは安田に付き合って安田がその前日に古河から積んできた荷物を降ろしに行き会社に安田のトラックを停めて安田の自宅に戻る途中小立野のギョーザの王将で食事をおごってもらったあと安田の自宅の前に停めてあった自分の軽四に乗って午後十一時前頃東力の自宅に戻り煙草を切らしたことに気付きすぐに東力ストアーに買いに出たところで事故にあったものと記述してきたように思うのですが、これは次のような疑問点があるようです。
③まず、休市日の前日に安田が古河で青果物を積んだとすると、5日日曜日の前日は4日であって当日安田は新年顔合わせに出席しており古河にいることは考えられない。
④12日の月曜日、私は池袋に向かって出発しているのであり得ない。
⑤15日の祝日に私が安田の自宅に遊びに行ったことはまず間違いないと思われる。しかし、それを(私が安田の古河便に付き合い帰りにギョーザの王将に行った)15日とした上で東力ストアーの事故も当日だとすると次のような問題が出来るのです。
⑥出所後H9.3/6の追加記載
☆まず6日と思われる。
私は事故の翌日に出社したところ、二階にて梅野、大倉などと一緒になり、大雨の中彼女が裏駐車場にわざわざ車(6601号)を停めて来たことがはっきりしており、そのあと彼女にコーヒーを入れてもらうのに梅野がかなり気を遣って見せた。
⑦そしてその日の午後、二階事務所で浜口さんと河野さんと竹沢が日産ディゼールのセールスマンと新車の発注のことで談合していたところ、私が「コーヒー飲んでもいいが?」と誰にともなく申し向けたのに対し、彼女が大きな声で「うん」と答え、その直後に私のいた台所に駆けつけ食器を洗い始めたところ、私がそこを出ると、ちょうど談合が自分の希望するように終えた浜口さんが私の体を押して彼女のいる台所の中に連れて行き、彼女に「お嬢...」何かを申し向けたのです。そこで私は緊張のあまりとっさに話題をあげようと「昨日追突された」旨を浜口さんに申し向けたのです。また、その日、そのあと浜口さんは関東方面に出発することを話しており、私は関西に向かうところであったように思うのであります。訂正 談合という言葉は不適切であると思われる。ここでの表現叙述は私自身が読んでも分かりずらく、内容がはっきりしない感がある。私が二階に入ったのは仕事先かどうかは分からないが外から戻ってすぐだったと思う。この日以来三月の上旬まで台所のコーヒーメーカーは姿を消したのであるが、それ以前にコーヒーを飲んだ記憶がはっきりしない。これが分かれば時期の特定に役立つのであるが少なくとも一番近接しているのは梅野と大倉がいた朝のことである。なお、現物の記載にしたがって番号を振るようにしているが内容自体とはあまり関係がない振り方である。一応ここでも番号を打っているがパソコンの機械自体⑳までしか丸数字がないのでそれを超える部分は違ったものを使っている。また、ここで私は浜口さんが関東、自分が関西に向かうところであったと思うのです、などといささか曖昧な表現をしているが、これはまず確実なことです。私は今気付いたのですが、この時浜口さんに昨夜の事故のことを話したのは確実なことで、これは他の書面でも再三記述していることですがその時彼は金になるとか金を取るべきであるようなことを言ったのです。刑務所にいた頃の記述ではこの日の特定が出来なかつたので重視していなかったのですが、先の趣意書にも記載したように事故の資料によってもその日が15日の夜と特定されているので、やはりこのコーヒーの件があったのは16日ということになります。そこで問題の日報を見たところ、16日の木曜日に私は水島倉庫に二回ミール移動をしたことになっているのです。さらにその翌日はこれも問題の大きい七尾から山梨に行き池袋から展示会の引き上げの仕事をした運行に出発したことになっているのです。私がなぜこの16日をコーヒーの件のあった日だと考えなかったかといいますと、その一番の原因はこの時期に文さんとの連続会見があったからです。会見の時の彼女はすごく恥ずかしそうにしていました。言い換えれば私と彼女の関係がもっとも穏やかだったのです。その穏やかさと、私が台所で彼女から逃げるような行動をとってしまったことはとても同時期の状況とは考えられなかつたのです。まだまだ検討の必要がありますが、その会見の時期自体にも特定が困難な問題が伏在しているのは趣意書に指摘してあるとおりです。特に初めて彼女に会社の横で声を掛けたときはいい感じの雰囲気だったのです。しかしながらあまりにそのことがうれしく印象的だったため私はその前後のことをほとんど覚えていないのです。その場のことだけ、彼女に声を掛けた瞬間の情景だけ鮮明に残っているのです。外はすっかり暗くなっていましたが遅い時間であったとか待ち時間が長かったという印象はないので遅くても五時半頃だったと考えられます。また、コーヒーの件の埋め合わせに彼女に声を掛けたという覚えもなく、唐突に声を掛ける気になってのでもなく、その場の状況で邪魔者がいなかった事などで偶然の機会を捉えたにすぎないのですが、私と彼女の関係自体は概ね良好で熟した感があったと思います。あるいはその時の彼女恥ずかしそうでありながらうれしそうな態度がそれまでの暗雲を一気に吹き消したのかもしれません。その彼女の反応は私の予想外の事でした。私の観念ではこの印象が前妻が訊ねてきた翌日に事務所で見た彼女の悲しそうな姿まで続いていたのです。それゆえ、この間に彼女本人が夕方の電話で今晩自宅に電話を掛けてくださいといいながら自宅に電話を掛けたところ出なかったことなど入り込む余地はないのです。また、その16日に関西に行ったこともまず間違いないと思うのですが、ここでも翌日の夕方に刀根PAからの電話で彼女に最高の女やと思うなどと言ったこともこの時期のこととしてはやはり考えられないのです。その前日の夕方には梅野のシャブ中発言がありこれが電話の内容の一番の動機になっていたことも再三述べているとおりなのです。数多くの問題がありますが考えれば考えるほど頭が痛くなる現状です。ここで一番の解決になりうるのは、会見が三度であったというのは私の思い違いで実際は二度しかなかったということかもしれません。先の一度の時は、彼女が美容院に行くと言って帰ったことでこの時は私が二本の缶コーヒーを彼女に手渡しています。特にコーヒーメーカーの件のことを意識していた訳ではなくその可能性もないと思います。そして最後の時が、前妻から連絡があった翌日の夕方でこの時はほとんど喧嘩のような状態になっているのであり、この事実は水口なども目撃しており客観的にも裏打ちされたことなのです。最初に声を掛けたとき、缶コーヒーを用意していた覚えは全くなく、その缶コーヒーはその少し前に中央市場の中で買った物なのです。その中央市場に行ったのも会社に電話を掛け彼女に話すのが目的だったような気もするぐらいなのです。しかし実際に電話で彼女と話してから声を掛けたという覚えもないので断定することは出来ません。今や私の望みのようにさえなりますがこれが二度であればその他の事実も整合性をもって論証できるのです。最後の時以外は彼女の申し出により実に短い時間で、具体的話などほとんどなかったのです。はっきりしていることはいずれの時も駐車中の私のトラックに乗ってもらいその中で話したと言うことです。なお、これは初めての記述になるかもしれませんが、缶コーヒーをあげたとき、私はトラックの助手席の方からドアを開け、そこから車の中に入って帰りがけの彼女に外で渡したのです。さて、裏駐車場での会見は二度であったのかそれとも三度であったのかこれは謎を解く大きな鍵となる問題です。しかし安易には断定できないのでさらに検討してゆきたいと思います。
ところで、16日に関西に運行に出たとすると会社に戻ったのは18日の土曜日ということになる。三度目の会見があったのは私の記憶によると21日の火曜日、松平提出の日報によると22日の水曜日ということになる。私のはっきりした記憶では18日の土曜日に積み込んだミールを日曜日の夕方に出発して翌日名古屋大橋の近くの倉庫で卸しそこから岐阜県の可児市に行きパレットを積んでその日の夕方遅くに金沢の浜田漁業の工場で卸している。この運行自体は松平の日報においても同様の内容であるが、積み込んだのが20日の月曜日で翌日に名古屋で卸して戻ったことになっているのであり、その運行の前には17日の金曜日に七尾をミールを積み込み土曜日に山梨で卸し、東京で一泊して日曜日に池袋のデパートで展示会の荷物を積んで月曜日にそれを金沢で卸したことになっているのである。いずれを見ても長距離の運行に出ている日にちが多いので夕方に会社で彼女に声を掛けた可能性は限られている。私は記憶の場合では、18日の土曜日以外に可能性は考えられず、日報では、16日の当日と20日の月曜日の夕方名古屋に出発する前がかろうじて考えられるのみである。名古屋行きの運行では夜遅くに出発するのが通常で感覚的にも長距離というよりローカルに近い負担の仕事である。あまり早く出発するとかえって重量オーバーで捕まる可能性が高くなるということもあり、だいたい早くても7時以前に出発することは経験上ほとんどなかったはずである。これが大阪となるとかなり事情が違って積み荷の内容にもよるが、遅くても6時半頃には出発する。勢い時間的な意味の精神的余裕は少ない。可能性とすれば16日の木曜日にコーヒーメーカーの件があり、その数時間後に会社の横で初めて彼女に声を掛けたことも考えられるのである。これが名古屋行きの仕事であったなら私は迷わずその可能性を肯定できる。なぜなら名古屋行きの仕事前であれば精神的時間的余裕が充分だからであり、たとえ彼女との会話が深夜にまで及んだとしても何等気にはならなかったはずである。つまり仕事のことを気にせずに彼女に声を掛けることが出来たことになる。一方、これが大阪だとすると時間的な問題は抜きにしても、大阪に行った荷物は市場卸しの馬鈴薯以外にはあり得ないので大阪で荷物を降ろし終えた時間が必然的に遅くなるのであるが、深夜に馬鈴薯を卸したというのも休市日の夜中を除いて記憶にはない。只、大阪でも北部市場であれば時間はあまり気にせず余裕を持っていたはずである。本場のように市内の中心部にはいることはなく、市場の中でも込み合うことはほとんどないのでまるで事情が違うのである。どちらかといえば本場の方が多かったと思うが、着くのは8時頃がほとんどで9時以降に入ったという記憶はない。これは私の経験上本場の混雑や荷卸しに伴う問題性を十二分に認識していたためである。とりわけ鮮魚においては日本最悪の卸し先であり、青果においては勝手を知らないだけに不安が大きく過去にもひどい思いをした経験があったので最初から最後まで緊張が解けることはなかった。付随する事柄で一例を挙げても、荷卸し中に財布を取られたとか泥棒を多いと聞いていた。それ以上に気に掛かるのは山口組の菱形のマークを入れたトラックがよくいることで、普通の運送会社でも組関係の者が多いと聞いており、実際に同業者である金沢のウロコ運送の運転手がわずかにぶつけただけで何百万円の請求を受け金沢の会社まで押し掛けてきたという話を聞いていた。混み合った市場の中でそのようなトラックにぶつけてしまうことは避けることの出来ない多少の蓋然性が伴うのである。どうしても普段の倍以上に神経を使わなければならなかったのである。遅い時間になればなるほど九州や四国からのトラックが集まってきて作業に手間取ることを痛く承知していたのである。少なくとも私の認識はこうであり、そんな私が特別の事情もないのに夕方遅くまで会社にぶらぶら時間をつぶしその上で彼女に声を掛けたとは考えられないのである。加えて、これは北部も本場も共通であるが、馬鈴薯の卸しが遅くなれば当然その次の仕事先である和歌山県のかつらぎ農協の到着も遅い時間になっていたはずである。全般的に私がかつらぎに到着したのは夜中の2時頃がほとんどだった。これより早いことも遅いこともあまり記憶にない。大阪からかつらぎ農協までの所要時間は大体二時間ぐらいだった。逆算すると市場で馬鈴薯を卸し終えたのは0時前後ということになる。荷卸し自体にどれぐらいの時間が掛かったか性格には思い出せないが大体2時間ぐらいでスムーズにゆけば一時間半ぐらいだったかもしれない。これは市場に入って出るまでの時間の概算ではない。卸し始めるまでにも結構時間の掛かることがあり、受領書をもらうのにも多少の時間が掛かったはずである。一応九時に市場に着いたとすると、金沢を出たのはそれから五時間ぐらい前と見ておけばそう違いはない。すると四時に金沢を出たことになる。スムーズにゆけば四時間ぐらいであるから八時から八時半というのがやはり一番妥当な線である。これを六時に出たと考えると二時間づつのずれが出て、最終のかつらぎ農協では深夜の四時頃ということになる。こんな事も一度はあったような気もするが、滅多になかったことは確かである。そもそも六時の出発というのが中途半端なので、遅くなるときはもう少し遅く六時半か七時頃だったと思われる。当時の私の生活ぶりから考えて特に用事があったとは考えにくいので遅くなる原因は、会社で話し相手がいてついつい遅くなったということだろう。しかし、先にも述べたように大阪でも北部行きであればかなり気楽に考えていたので会社で時間をつぶしていたことも十分考えられるのである。
しかしどのように考えてみても、16日の木曜日から21日の火曜日までの間に三度の会見があったということはあり得そうにないのである。16日の木曜日以前に初めての会見があったということもこれまで再三の指摘の通り存在を認めることは困難な現状に変わりはない。先に三度ではなく二度しかなかったと仮定を立ててみたが、中央市場で缶コーヒーを買ってから会見に臨んだ時は、あらかじめ予定の行動をとったと考えられるのに対し、鮮明に覚えている初めての時は、意外な感じで偶発的な状況を捉えているのである。もう一つ気になるのは、日野自動車の前からの電話で彼女にラーメンでも食べにゆこうと誘った日の夕方に、会社に電話を掛け彼女から今晩自宅に電話してくださいと返事をもらいながらお母さんが出ていないと言っていた事実である。これとは別にある日の午後七尾から関東に向かう途中に県境付近の漁協の間かから掛けた電話で彼女に「文ちゃんのお母さんといい人やね。もう当分電話せんし、今度直接声掛ける」などと言ったことである。論理的に考えると、彼女が自分から電話を掛けてといいながら出なかった直後のことと考えられるのであるが、日野から電話を掛けたのは14日の火曜日である可能性が抜群に高いのである。日野に行った用事は12日の池袋のデパートでのシートの破れ以外には考えにくいのである。しかし、これは一月の初め頃のことであったのかもしれないと私は現在考えている。しかし、ここでもネックとなるのは、池袋に向かった12日の日曜日の夜に彼女の自宅に電話を掛けている事実である。この時は直接彼女が出たはずである。彼女が電話に出たこと自体、十一月の終わりの伊吹SAからの電話以来だったので特に印象が強いのであるが、お母さんから彼女に電話をつないでもらったこと自体も初めて掛けた十月の新車が来た日だけで他はすべて彼女が出るか、お母さんか兄貴か父さんが出ていずれもいないと言っていたのである。
私はこれまで、彼女に「文ちゃんのお母さんといい人やね。もう当分電話せんし、今度直接声掛ける」などと言った事があったのは、日野からの電話の日の件を内容にしたものとばかり考えてきたようであるが、現在思うに、それは大晦日の電話のことを指していたのかもしれないとも思えるのである。七尾から高岡にトラックで向かっていたことはそれ自体関東への運行の他はないのである。しかしながらどの運行の時であったか、これも特定できていないのである。私の記憶の感覚では新年はじめの時期に行った関東便といえば埼玉県の東松山に行った運行なのであるが、この時は東度の嘘による仕事のことで彼女と色々話しているのであって、同日のこととは考えられない。日報によればその一月の上旬に関東に運行に出たこと自体形跡がないのである。どんよりした曇り空の中で海の側の漁協の横のバスの停留所の横でもある電話ボックスから掛けた電話でこの時初めてお母さんのことを話したことは鮮明に記憶しており、それと同じぐらいに他の事柄も脳裏に刻まれているのである。
⑧いずれにせよ第一点の⑥及び⑦の事柄は、休日開けの気分だったのです。すなわちそれは11,12の慰安会 (新年会)のようでもあり正月休み明けの6日のようにも思われるのです。
⑨また、この当時のポイントとなるのは、一月中においては、正月休みの市場側の都合による代休があったということです。
《補足》
出所後、中央市場に直接電話を掛けて尋ねたところによると、代休というのはないように言われた。以前運転手の間でそのように聞いていたのであるが、話した者の想像により決めつけだったのかもしれない。しかし一方で私自身もそのような経験があったような気もするのではっきりしたことは言えない。なお、この時の紹介の目的は、水曜日の臨時休市のことであった。あまりはっきりとは覚えていないが、たしか月二回で第二と第四の水曜日だが必ずそうと決まっているわけではないような話だった。
⑩ そして、安田の古河便の付き合いと、その後にあったと思われる東力ストアーの追突事故が必ずしも一致せず全く違った日であった可能性が半々くらいあるという事であります。 H.9,3/6

第2章(第二点)

①その日の夕方二階事務所にて、梅野が、心労のためやつれ、そして私が思うに、ふらふらした女ではないと表示するために化粧していなかった彼女に対し、「...そんな顔しとったんか。シャブ中みたいやな」などと申し向け、「そんなん見えるけ。よく言われるぞいね」などと答えたことがありました。
 今思うに、これも事前に両者の間で打ち合わせか、意思の疎通があった上で、明らかに私の存在を意識してなされた会話であったように思うのですが、私が思うに、その日、その時、私は翌日にかつらぎ農協にてミカンを積むため大阪に向け走るようになっていたように思うのです。
②そして私は、その翌日に、めずらしく午前中か昼過ぎにかつらぎ農協を出発して、そして夕方後時頃北陸道の木之本インターと弦がインターの間にある刀根PAより会社に電話を掛け、一度要件を申して切ったのですが、その時彼女が何か話したそうであったので私は戸惑いながらすぐにもう一度かけ直し、彼女に、「やっぱり文ちゃんいい女やと思うなぁ....」などと言ったところ、彼女はすごくうれしそうに、「そんなことないよ。全然や」などと言ってくれたのですが、それで私は彼女がますます分からなくなり、「それだけ言っておくわ」などと言ってすぐに電話をほとんど一方的に切ってしまったのです。
③私の思うところによりますと、前記②の翌日に私は七尾から関東方面に向かう途中、国道160号線沿いの県境と氷見市のほぼ中間あたりにある小さな漁協魚市場の前のバス停のところにある電話ボックスから掛けた電話で、私は彼女に「文ちゃんのお母さんっていい人やね。なんか悪いし、暫く電話せんし、そのかわり今度直接声掛けるし」などと彼女の気持ちを分かったつもりで私は申し向けたのです。しかし、その時の彼女の反応は硬いものですこぶる事務的でありました。(でも返事はしてくれていた)また、私に対し不信を抱き警戒しているようでありました。
④また、私の記憶によると、この関東便から戻った日に私はあがりで日野自動車の前の食堂の前の電話ボックスなどから数度会社の彼女に電話を掛け、「今日仕事終わったら一緒にラーメンでも食べに行かんけ」などと誘い。そのあと夕方に掛けた電話で、彼女に、「今晩自宅のほうに電話を掛けてください」といわれた事実。(時間は何時でもよいと彼女は言った。)
⑤そして私は、その日は彼女をが出るものと思い込んで、承諾は得ている思いから負い目もなく午後八時半、そして九時と三回ほど電話を掛けたのですが、いずれもお母さんが出られ、明るく優しい声で、ちょっと申し訳なさそうに彼女の不在を伝えたのです。この事柄は極めて時期がはっきりしないのですが、でも確かに思うことは、一月二十二日の未明(夜中の二時頃)に私が掛け彼女を怒鳴りつけた以前のことであります。一月二十五日に彼女のネックレスを見た私が、夜にかけた電話では、それまでとお母さんの態度が一変して悪くなってしまったのです。さらに、以来事件まで彼女のお母さんが対応に出たことは一度もなかったのです。(例外として三月二十三日の「いつまで話しとるが」)
⑥さて、右の①~⑤の事実を他の事実に当てはめてみたいと思います。
まず①を1月6日に定めてみます。

1月6日〈月〉 金沢 シャブ中みたいやな①

1月7日〈火〉 大阪 和歌山
刀根PAの電話②

1月8日〈水〉 七尾 七尾
国道160号線からの電話③

1月9日〈木〉 関東 関東

1月10日〈金〉 北陸 あがり 「本庄」ってどう読むが?
北野さんからの退社時の電話

1月11日〈土〉片山津温泉せきやにて新年会

1月12日〈日〉 金沢
は確定事実

1月13日〈月〉池袋 古河

1月14日〈火〉北陸 金沢から宇出津・七尾=河野さんと一緒に行った。

1月15日〈水〉安田と一緒に古河便を卸しに付き合った。(王将)

1月16日〈木〉

⑦それでは次に⑥の表に対する(仮定)問題点をあげてみます。
(ア)まず問題は一月十日です。この日私が日野自動車から電話を掛けたことはまず考えられないのです。それは1月10日に彼女が運行運賃表を作成しながら浜上さんに「本庄」ってどう読むが?と尋ねたこと、そのあと私が午後五時頃 、彼女の退社を待って直接声を掛ける決意をしていたところ、電話が掛かり、初め池田がそれを取って気まずそうに心配そうに彼女に電話を替わったところ、彼女は先方に対し、後で自分の方から掛け直すとか、今夜の予定はわからんとか、これも気まずそうに対応していたこと、そして私がショックを受け下に降りて控え室で横になっていたところ、彼女が降りてきて浜上さんに「本庄」ってどう読むが?と再び訊いたことなどすべてこの当日なのは確定的事実なのであります。
(イ)さらに⑥の仮説を事実と考えてみると、本書(二百三十五、第十七点のAと二百三十六のB)の事実は、当日あがりであったことから考えると(これも確実)どこにも入り込む余地はなくなってしまうのです。
《補足》
二百三十五、第十七点のA
その日の夕方彼女の退社の際、それを一階控え室にて、山下つよしと安田敏がなにか期待を秘めて私の様子を窺っていたのです。その当日の昼頃、私は安田に、今日の夕方に彼女に声を掛けると話していたのですが、その時安田は、聞こえなかったようにして返事をしませんでした。
 そして、彼女はいつもより三十分ほど遅く五時半を過ぎて下に降りてきたのですが、私はそれまで彼女に声を掛けることを決意にしていたけれど、山下と安田の好奇の目にさらされることが気になってならず結局彼女に声を掛けなかったのです。その時彼女は、一度二階に戻りそれでも私の反応がないと見ると外で自分の軽四(6601号)のドアを音を立てて開け閉めしたりして、私が来ることを意思表示により要請していたのですが、それでも私は行動に出なかったので、彼女は車のエンジンを吹かしつけて乱暴な運転で帰って行きました。するとそれと同時に、安田と山下はおもしろい映画でも見物し終わったように無言のままやんわりと立ち上がって外に出て帰っていったのです。これは12月27日のことと思います。
二百三十六のB
そして多分この数日後、年明け数日後だと思うのですが、この時と全く同じような状況があり、その時は山下が一人、この時ほど露骨ではなく、彼女の方も控えめで、それでいて控え室の出入り口の前まできて、かがんでなにかを置いたのか拾ったような素振りを見せたことがありました。あるいはこの数日前で十二月の中頃だったのかもしれません。いずれにせよ両者とも、彼女は退社時に軽四(6601号)を会社面前に停め、そこに私が直接声を掛けることを望み求めていたものであります。この時点で安田が、彼女が私に強く働き掛けていることをはっきり認識していることを私は見て取り、以来安田の意見はまともにしないよう心掛けるようになったのです。
また、今思うに、この当時の安田と山下の私と彼女に対する見解は、他の社員同様東度の解説が強く影響されていたのかもしれません。すなわち安田の妄執は東度の言葉を媒介して発展していったものかもしれず、なにぶんにも安田の知能の程度と固執性でありますから、それらが相俟って安田は通常の人が考えられないような認識を有し、思い込んでいたことも考えられます。すなわち客観的な常識で判断するより安田の異常心理による主観によって判断した方が真実に近づけるのではあるまいかと、私は思うのです。また、この判断を誤ったことこそがそもそも事件の原因の一つであったように思うのです。(これは27日ではなく、両者とも一月上旬のことであったかもしれません。)
(ウ)さらにこの当時に当てはまる事柄として考えられるのは、私が東度の市原行きに欺かれた結果、東松山と寄居の二カ所卸しの製材を能登木材で積み、そのあと国道160号線のちょうど県境あたりの喫茶店から掛けた電話であります。その時東度は、温情を呈して彼女に私の言う住所を控え記すように申し向け彼女に電話を替わったのですが、その時も彼女は12月24日の駒寄PAからの電話と似てすまなそうになにかを分かって欲しいような哀訴を託したような様子でありました。つまり本書二百四十九の③の時とはまるで様子が違っていたのであります。また、私はこの運行も休日開けで久しぶりの関東便であったように東松山到着時の私の心の状態より印象に残っているのであります。
《補足》
二百四十九の③
私の思うところによりますと、前記②の翌日に私は七尾から関東方面に向かう途中、国道160号線沿いの県境と氷見市のほぼ中間あたりにある小さな漁協魚市場の前のバス停のところにある電話ボックスから掛けた電話で、私は彼女に「文ちゃんのお母さんっていい人やね。なんか悪いし、暫く電話せんし、そのかわり今度直接声掛けるし」などと彼女の気持ちを分かったつもりで私は申し向けたのです。しかし、その時の彼女の反応は硬いものですこぶる事務的でありました。(でも返事はしてくれていた)また、私に対し不信を抱き警戒しているようでありました。
(エ)また、私は二度目に富山県婦負郡八尾町より名鉄運輸の請負でカップヌードルのプラスチック容器を積み、茨城県取手市の日清食品の大工場(国道4号線竜ヶ崎市との境近く、来たに向かって左側沿いに所在する。)に行った時のことです。
その時、私は浜口さんと一緒に会社を出発して、関越道の越後川口SAで待ち合わせ、そこで食事をしてから一緒に現地(取手の日清工場)まで行き、歩いて500メートルほど向かいの所のコンビニエンスストアーでビールなど買って、トラックの中で会話をしながら飲んだのです。そして翌朝、一緒に荷卸しをしてから、私は古河に向かい途中谷和原(ヤワラ)インターの近くの「山田うどん」で食事をしたこと、浜口さんは国道6号線をそのまま東京方面に向かったことを、私ははっきりと覚えているのです。そしてこの時、私は浜口さんが、私と文さんとの関係を知っているとは全く考えておりませんでした。そして東度のことが話題になり、浜口さんが東度を弁護して、いいところもあるんやし大目に見てやらんか、などと言っていたのであります。このように考えると、この運行は十二月の中頃だったのかもしれません。しかし、私の全体的な感覚からすると、一月の中頃であったような気もするのです。
福井刑務所における再審請求時の追加記載
☆これは間違いなく十二月の中頃だと思います。そして、河野と宇出津-七尾に行ったのも十二月の中頃です。H.6.11.10

第3章(第三点)

一月十日あがった翌日、すなわち一月十一日土曜日、昼過ぎ、私は、出社してから和田と一緒に片山津温泉の「せきや」に向かったのです。
そして宴会の後の方の途中に私は一人部屋に戻り、一時間からに時間ぐらい眠って、それから起きて中村りょう太や長山、田川のいる部屋に行ったのです。そこで雑談をしていたところ、多田が戻ってきて、大倉さんのおごりでソープランドに行って来たとか申しておりました。そして、暫く経って和田と河野さんと彼女などがその部屋に入ってきたところ、多田は自分が先ほど行ったソープランド で相手の女性より「病気じゃないのか。遊びすぎ....」とか、言われたとうれしそうに申しておりました。そして彼女が明るく冗談ぽく、自分ら(池田と二人と思われる。)の部屋に遊びに来てもよい、のようなことを申したところ、多田は狂喜して、「本当にいいが?」などと申し向けたところ、彼女は明るく「おいで」と言って、一緒に来た4,5人の連中(彼女も含めて)と部屋を出たところ、多田が一人でそのあとを追って出ていったのです。そのあと10分弱ほどして、私は一番人の集まっている大部屋に行ったのです。すると多田は面白くなさそうな顔で他の人達がしているゲームに(花札ではなかったかと思います)参加しておりました。
《補足》
この記載では彼女が多田を誘ったようになっているが、私の記憶では多田の方からそれらしい申し出のような言葉があり、それに多田が便乗したような感じだったのかもしれない。しかし、これも今となってははっきりしたことは思い出せない。ただ私がこの記載を見て意外に思ったことはたしかである。少なくとも彼女の方から積極的に誘うようなことだけはなかったはずである。また、その時大部屋では、手前の方にある座敷で麻雀をしている連中がいた。コンパニオンの仕事を経営している男もいた。今名前を思い出すことが出来ないが、松平の友人のような初老の男である。竹沢にホテル長山を紹介して代金を一部だと思うが踏み倒されたと、大倉から聞いたことのある男。安田の工事現場突入事件の時もいた。銀色のワゴン車に乗っていた。事件当日に文さんから、新しい事務員を紹介することになったなどと聞いたのもこの男のことである。
それから私は、夜中に中村と田川を誘って、一緒に外に出てラーメンを食べて来ました。 翌朝宴会場に朝食に行くと、まもなく彼女と池田が来て、彼女は私の向かいに座り池田はそれからかなり離れた中ほどの席に座って食事につきました。
《補足》
ここでは池田の座ったのは中ほどの席という事になっているが、私の現在の記憶では彼女の対極に位置する一番離れた席だったように思う。これ以降の記述でもそのように記載しているように思われるが、これもたしかなことは言えない。
また、ここまでの記載を見ると、肝心のことがいくつか抜けている。まず、大倉が初め大勝ちしていたバクチで、大負けしてから多田にソープをおごっていること、宴会の途中に私がこの時初めて彼女を睨んだこと、宴会の途中に彼女が私の方に歩いてきて思い直したように振り返って戻っていったことなどである。
それから暫くして一階のロビーのような喫茶のところで私たちは待ち合わせをして、それから午前十時頃にみんなで外に出たのです。私は、他の人達より早く和田の乗用車の助手席に来た時と同じように乗って会社に帰ったのです。
会社に着くと(高速道を利用したので30分ほどで着いた)、まもなくすぐに和田は用事があると言って帰って行きました。私は、一度、トラックに乗って中央市場に行き煙草や缶コーヒーを買って戻り、一人で一階控え室にてストーブに暖っていたのです。するとまもなく、なぜか、一部だけ開けたシャッター出入り口に彼女の姿が見えました。そして彼女はいったん中に入って来ようとしたのですが、すぐにきびすを返して外に出て行きました。そして二分ほど時間をおいて(あるいは一分)、梅野と中山さんとたしか大倉さんが入ってきたのです。そして先ほどと同じくらい時間をおいて彼女が入ってきて、すぐに電話を利用したのです。そして北野さんの名前を口にして、よく内容の理解できないことを言ってすぐに切りそして帰っていったのです。
訂正
ここでは梅野らと一緒に大倉が来たことになっているがこれは大間違いだと思います。そのほかにも不正確な表現がかなり見られます。和田の車で30分とありますが、事実は15分から20分ぐらいでした。和田は高速に乗ると常時180キロのメーターを振り切るスピードで走ってきました。市内もガラガラですぐに着いたのです。これは大きな違いではありませんが、私たちが会社に着いてから文さんらが来たのは一時間からそれ以上遅れた時間でした。その間に大倉が来たように思うのですが、とにかく一緒ではなかったはずです。大倉は普段でも中山さんなどと行動を共にすることはありませんでした。どちらかと言えば避けていたのかもしれないぐらいです。現在ではあまりはっきりしたことは言えないのですが、文さんが来た時、大倉はおらず、文さんが帰った後も梅野らがいたのは一時間ぐらいだったかもしれません。あまり長い時間ではなかったと思います。大倉が会社の前で自分の四トン車を洗車していたことは確かなのですが、それも一度姿を見せて、戻ってから始めたように思います。その間に文さんらが来たと思うのです。和田も彼女らが来る前に一度妻を連れて会社に顔を出して行きました。ちょうどこの前後に大倉がいたような覚えがあるのです。それと重要なことは梅野と中山と一緒にいた人物ですが、三人いたことはまず間違いないはずで、その一人というのが、私のほぼ正確な記憶によると、その一二ヶ月前に入社した中年の男でした。よく高そうな黒色の皮のジヤンバーを着ていた人ですが、一番の特定になるのは、前夜の宴会の時、文ちゃんに贈る歌のような前置きを述べてから「娘よ」とかいう歌を唄っていた人です。その人は会社でもちょくちょく文さんに話しかけたりしていたようでありました。名前は聞いたこともなかったのかどうかも分かりませんが、全く覚えておりません。一月の下旬の能瀬からの電話で、池田が私に「会社で眺めるだけにしときなさい。他の人らもそう言って満足しとるんやし」などと言ったとき、私が真っ先に思い浮かべたのもこの人物です。
また、一部だけ開けたシャッター出入り口に彼女の姿が見えました。そして彼女はいったん中に入って来ようとしたのですが、すぐにきびすを返して外に出て行きました。そして二分ほど時間をおいて(あるいは一分)、梅野と中山さんとたしか大倉さんが入ってきたのです。そして先ほどと同じくらい時間をおいて彼女が入ってきて、すぐに電話を利用したのです、とありますが、一分や二分という短い時間ではなかったと思います。それに梅野らが来てから彼女が戻るまでの時間はもう少し長かったように思います。その時の梅野はかなり上機嫌で私の姿を見るなりすぐに話しかけ、帰るまでずっと話していたのです。他の二人も愉快そうにしておりました。彼女と一緒に車に乗ってきたことがよほどうれしかったのかもしれません。しかし、私は直接一緒に来たとは聞いていないのです。彼女の車が会社になかったこと、ふいに出ていったまま戻らなかったことなどここでは記述されていませんが、度々述べてきているはずです。彼女がどうやって帰ったのか私は不思議でなりませんでした。彼女が来るまで私はてっきり池田について松平らと一緒に三国ボートレースに行ったものとばかり考えていたのです。これは温泉を出てから後で聞いた話ですが、ほとんどの者が皆で三国ボートレースに行った、と聞いていたからです。温泉を出る前にそのような予定は耳にしていなかったので、やはりこれは大倉から直接聞いたことです。大倉からその話を聞いたこと自体ははっきり覚えているので、やはりこれは彼女らが来る前に大倉が戻ってきていたことの証左となりそうです。私は午前中一杯か正午過ぎくらいまで会社にいたはずです。これは先に指示を受けていたトナミ航空での荷積みの開始時間に合わせて時間をつぶしていたものです。ずっと会社にいたことはなかったかもしれませんが、自宅に戻るようなことはなかったと思います。予定の時間より早く出て食事をしてから向かったように思います。
それから私は問屋町のトナミ航空に行って、前から指示を受けていた池袋行きの展示会の荷物を積み込み、午後四時半か五時頃に会社に戻ったのです。するとそれに前後して松平やカベヤなど4,5人が帰ってきました。これは確か片山津でチェックアウト後かなりの社員が一緒に三国ボートレース場に行くと言っていたのでその帰りではなかったかと思います。初め私は彼女も池田と一緒に行ったものと思っていたのです。なぜならまず彼女の乗用車が会社に停めてなかったからであります。
《補足》
ここでも片山津で三国ボートレスに行く話を聞いたことになっている。あるいは実際にそうであったのかもしれないが、具体的に話を聞いたのはやはり大倉からである。いずれにせよそれほど重要な問題ではない。彼女が大倉と一緒であったか否かは彼女本人が覚えているはずであるから。
それから私は午後六時近くになって池袋に向け会社を出発しました。そして七時過ぎ頃、私は、北陸道朝日インターの手前にある入善PAに入ってそこから彼女の自宅に電話を、新年になって初めて掛けたのです。彼女が直接出ました。これは前年の十一月二十八日の夜の伊吹PAからの電話以来のことでした。この時も彼女の態度は硬いもので、まもなくちょっと待ってと言った後、友達来たし、などと言って会話を拒み、私は今度会ってくれるように頼んだのですが、彼女は返事をせず、さらに、会っても無駄のようなことを言い、前みたいに会社で会ってちょこちょこっと話す、そんなんでいいんじゃないがぁ、などと言ったので、私は、そんでいいんならいいし、話する気持ちないちゅうんやったらそれでおれも納得いくし、ほんでいいんやね、などと申し向けると、彼女は困ったように悲しそうに黙ってしまったので、私は「おれ文ちゃんのこと好きやし、なんでもあんたのいいようにしてあげるし、とにかく会うだけ会ってもらえんけ」と言ったところ、彼女の態度は一変に柔らかくなったのですが、私は彼女の気持ちと立場が理解できず、あまりしっこくするのはかえってよくないと思い。彼女に考えておいてと言うことで話を終えたのです。 それから私が目的地である池袋駅前に着いたのは夜中の十二時頃だったと思います。
そして翌日の昼の12時頃、私は荷物を降ろし終わって古河に向かうところ、池袋の駅前の通りにトラックを停め会社に電話を掛け、その時対応に出た彼女に「あの、おれやっぱりあきらめんし」などと申し向けたのです。彼女は無言のままでしたが、満足そうな感じで、暫く間をおいて誰から替わるかと尋ね、私は確か松平に替わってもらったように思います。

第4章(第四点)「河野さんと宇出津・七尾に行った日」

その日、私は昼過ぎに、中央市場にて、仲買よりミカンなどを積んで宇出津のAコープ能都店と七尾の公設市場に河野さんと一緒に私のトラックで行って来ました。
私はこの日を一月中だと思い。そうすると14日の火曜日が考えられるのですが、あるいは全然違って、これは平成三年の十二月中だったのかもしれません。
私は上申書の中でも一月中として記述し、感覚的には今も一月中頃で、その翌日に安田のアパートに遊びに行ったことはまず間違いなかったと思っているのです。
問題点 H9.3/6
1/5 ここで一つポイントとなるのは、私は十二月中か一月中に一度昼頃(午前中か午後か分からない)、文さんの件につき安田の教示を賜りたいと藁にすがる思いで安田の機嫌をとるため、寺町と平和町の境あたり野田専光寺線野田に向かって右側にある洋菓子屋で三千円分ほどケーキを買っていったのです。 また私はその数日前(半月くらい)の休日の時にもケーキを買って大網君の家に持って行ったことがあります。(これは12月22日かもしれない)間違いなし
そして、私の思いによると、安田宅にケーキを持参したのと古河便に付き合ったのとは一致しないのであります。
また、河野さんと宇出津七尾に行ったのは一月二十二日以前であることは確実です。なぜなら、その一月二十二日をもって私と彼女の関係は只事ならぬものとして会社全体に認識されたのに対し、当日七尾から帰るとき河野さんが、この前問屋町の近くのレンタルビデオで彼女に会ったところ、彼女はその時、近くの問屋町内の友人宅に遊びに来ていると、言っていたと、河野さんが何気なく話し、私の何気なく聞いていたからであります。
また、私が一月中でなかったかもしれないと思うのは、まず、その問屋町の話と前後して河野さんは、自分の一人娘のことをよく話していたのですが、その時点で私の娘さんに対する印象は薄かったのです。よって、一月四日の日に私は初めて河野さんの自宅に行きそこで初めて河野さんの娘さんを実際に見たのですが、かなりそれ以前に感じていたイメージとは違っておとなしそうな娘で中学生ぐらいに見えたほどだったのです。河野さんの話によると、十九歳か十八歳とのことで、性格のきついところがあることを実例を挙げて話しておられたのです。つまり、私が河野さんと一緒に七尾に行ったのは一月四日以前であったように考えられるのであります。

第5章(第五点)「三度の会見」

池袋から戻った一月十四日から一月二十一日の間に、私は三回裏駐車場で彼女をトラックに乗せているのです。(三回目は21日で、これははっきりしている。)
一回目は、私がいきなり退社するところの彼女に現場にて声を掛けたもので、その時の約束により、二度目に声を掛け、その二回目の時には彼女は美容院に行きたいと言ったので、私は直前に中央市場にて買ってきたジョージァのティスティ(缶コーヒー)を彼女にあげて次の約束をもらってすぐに別れたのです。
そして、三度目に声を掛けるつもりか、声を掛け合うことを決めていたのが一月二十一日だったのです。
ところで、それを表にして一回目と二回目の当日を考えてみたいと思います。
┌──────┬──────────────────────────────┐
│ 一月12日日│金沢(トナミ航空) │
├──────┼──────────────────────────────┤
│ 13日月│池袋(三越デパート) │
│ │古河(山三青果) │
├──────┼──────────────────────────────┤
│ 14日火│北陸(卸売市場) │
│ │ (河野さんと宇出津・七尾に行った可能性あり) │
├──────┼──────────────────────────────┤
│ 15日水│ (安田に付き合って古河便を卸しに行った可能性あり。│
│ │ギョーザの王将に行った。) │
├──────┼──────────────────────────────┤
│ 16日木│出社 │
├──────┼──────────────────────────────┤
│ 17日金│ │
├──────┼──────────────────────────────┤
│ 18日土│名古屋(名港大橋)行きミールを積み置き、あがり。午後八時頃、多│
│ │田食事をおごった。 │
├──────┼──────────────────────────────┤
│ 19日日│多田の東尋坊鉄パイプ事件により安田、高槻全農に代走。 │
│ │名古屋に向け出発 │
├──────┼──────────────────────────────┤
│ 20日月│名古屋でミール卸し、岐阜県可児市よりパレットを積み、当夜浜田工│
│ │場にて卸す。 │
│ │前妻の電話と訪問があった。 │
├──────┼──────────────────────────────┤
│  21日火│遅刻による10時半頃の出社とハイミールにおけるミール移動 │
│ │彼女との三回目の会見。 │
│ │東インターから西インターの走行のあと浜口宅に行き彼女の自宅に電│
│ │話を掛けた。 │
└──────┴──────────────────────────────┘

右の表によると、一回目と二回目の会見があったのは16日、17日、18日の三日間をおいて他には考えられないのです。
そして一回目を16日とすると、私は当日運行に出発しなかった、すなわちあがりであったと言うことになり、そうすると、17日に運行に出たと考えると次のようなことになるのであります。(これは仮説です。)
┌─────┬───────────────────────────────┐
│16日木 │あがり 一回目の会見 │
│ │ ㊤ ㊥ ㊦ │
├─────┼───────────┬──────────┬────────┤
│17日金 │出発 │出発 │出発 │
├─────┼───────────┼──────────┼────────┤
│18日土 │関東 │関西 │名古屋(空車回送)│
├─────┼───────────┼──────────┼────────┤
│19日日 │北陸 │北陸 │ │
└─────┴───────────┴──────────┴────────┘
右によると㊤、㊥の場合他の事実と全く一致がなくなります。
よって私の現在の見解によると、もっとも可能性が高く合理的なのは㊦でありまして、私は16日に一回目に彼女に会見してから翌17日にミール移動の後名古屋に出発。翌18日の朝に名古屋でミールを卸し、それからすぐに金沢に戻り名古屋(名港大橋付近)行きのミールを積み置いたのではないでしようか。それ以外に考えられるのは、16日~18日まで私はずっとミール移動をしていてどこにも運行に出発しなかったということになります。いずれにせよ、この期間に関東便に行ったとは考えられないのですから本書二百四十九の③と二百五十の④の事柄はこの期間内にあったとはまず考えられないのですが、そうすると問題となるのは、二百四十九の④における事柄の日野自動車に行ってその前の食堂から会社に電話を掛けたことですが、この時私は、シートの破れを見てもらうために日野に行ったものと思うのです。そうするとそのシートの破れは一月十三日の池袋の三越の立体駐車場のガードにこすったものと思われ、私はその運行から戻った(14日)あとのミール移動中においてその破れに初めて気が付いたのです。
《補足》
二百四十九の③
私の思うところによりますと、前記②の翌日に私は七尾から関東方面に向かう途中、国道160号線沿いの県境と氷見市のほぼ中間あたりにある小さな漁協魚市場の前のバス停のところにある電話ボックスから掛けた電話で、私は彼女に「文ちゃんのお母さんっていい人やね。なんか悪いし、暫く電話せんし、そのかわり今度直接声掛けるし」などと彼女の気持ちを分かったつもりで私は申し向けたのです。しかし、その時の彼女の反応は硬いものですこぶる事務的でありました。(でも返事はしてくれていた)また、私に対し不信を抱き警戒しているようでありました。
二百五十の④
また、私の記憶によると、この関東便から戻った日に私はあがりで日野自動車の前の食堂の前の電話ボックスなどから数度会社の彼女に電話を掛け、「今日仕事終わったら一緒にラーメンでも食べに行かんけ」などと誘い。そのあと夕方に掛けた電話で、彼女に、「今晩自宅のほうに電話を掛けてください」といわれた事実。(時間は何時でもよいと彼女は言った。)
その件において考えますと、私は14日か16日に日野に行ったことになります。そうすると当日に私は承諾を受けた上で彼女の自宅による電話を掛けたことになるのです。(二百五十の④、⑤の事柄)
二百五十の⑤
そして私は、その日は彼女をが出るものと思い込んで、承諾は得ている思いから負い目もなく午後八時半、そして九時と三回ほど電話を掛けたのですが、いずれもお母さんが出られ、明るく優しい声で、ちょっと申し訳なさそうに彼女の不在を伝えたのです。この事柄は極めて時期がはっきりしないのですが、でも確かに思うことは、一月二十二日の未明(夜中の二時頃)に私が掛け彼女を怒鳴りつけた以前のことであります。一月二十五日に彼女のネックレスを見た私が、夜にかけた電話では、それまでとお母さんの態度が一変して悪くなってしまったのです。さらに、以来事件まで彼女のお母さんが対応に出たことは一度もなかったのです。(例外として三月二十三日の「いつまで話しとるが」)
⑧さて、右の①~⑤の事実を他の事実に当てはめてみたいと思います。
まず①を1月6日に定めてみます。
このうち前者である14日とすると、私は休日の前の夜に彼女の自宅に電話を掛けたことになるのですが、私としてはそのような感覚はないのですが、今思うに、これはもっとも可能性の高い事実かもしれません。そうすると、当日に河野さんと宇出津・七尾に行ったことは言うまでもなく間違いで、上申書に記載したものも誤りということになります。 一方で、後者である16日として考えてみると、まず、一回目の会見が当日でなかったことになり、そうすると、17日一回目の会見18日二回目の会見(美容院)となり、二日続けてあがりであったことになり、そうすると16日もあがりとして私は三日間運行に出発しなかったことになるのですが、やはりこれは不自然であります。
そうすると、私が日野に行った(二百五十の④、⑤)事柄をシート破れ以外の用で行ったものでない限りは、本件はやはり1月14日以外にはまず考えられないのであります。 そして、その年開けより私が一月十二日まで一度も彼女の自宅に電話を掛けていなかった事と、彼女のお母さんの対応を(二百五十の⑤の1)考えますと、ますます確実なのであります。
一方で、15日の夜に、私が安田の古河便の付き合いより王将で食事をおごってもらったと考え、そのあとで東力ストアーの事故にあったと考えますと、その翌日であることがはっきりしている二百四十六の事柄は16日の木曜日ということになるのでありますが、それと一回目の呼びかけによる会見が同じ日であるとはまず考えられないのです。その論拠は、まず、彼女は当日腹を立て、以来三月六日まで二度と私の前にコーヒー機を見せなかったのです。それに対し、一回目の会見の時の彼女は、かなりはにかんでいたものの満足そうに上機嫌だったのであります。それは私も同様で、コーヒー機の直後は、私も後悔の混じった複雑な気持ちだったのであります。それに対し、一回目の会見の時も、二回目の会見の時も私は当時としては最も安心且つ充足した気持ちだったのであります。

第6章(第六点)
一月十九日の日曜日、私は前日前夜に一緒に出発することを約束していた多田を会社で待っていたのです。たしか午後四時頃に約束していたところ、30分ほど遅れて、多田がもう一人の年格好の似た、私の初めて見る友人を連れて、一緒に体全体を引きずって痛そうに控え室に入ってきたのです。
事情を訊くと、多田は前夜にその友人と女の子二人と四人で東尋坊にドライブに行ったところ、言いがかりをつけられケンカとなり、いったんは相手を叩きのめしたのであるが、それで自分たちの車に戻ろうと歩いていたところを背後より相手の二人組により鉄パイプで殴られたという話で、多田らと一緒にいた女の子の話によると相手は関西系の暴力団員のやくざであると申しておりました。
余りからだがひどそうで、私も以前怪我をして運行に出たことがあり、その強いて仕事をするという多田の言葉を信じて、安田に電話を掛け、代わりに走ってくれるように頼んだのです.....。が、そうすると、ここで新たな疑問が出ました。私はその前日である18日の土曜日、その時多田が出発するはずであった大阪府高槻市の全農行きの馬鈴薯を一緒に手伝って石川丸果 の倉庫で積んだように思うのです。そうすると先に述べた18日の朝に名古屋でミールを卸し、戻って当日にミールを積んだことはまず不可能事のように思われます。
また、多田にその前日の夜に食事をおごったのは、電気屋(金沢デンソー)の前の新しい焼き肉屋であったと思うのです。その時多田は家に帰って寝るようなこと、ひどく疲れているようなことを申しておりながら、一体どうしてそれから東尋坊など行くことになったのか不思議に感じたことを覚えております。
また、私は一度パチンコオークラで安田と一緒になり、なぜか安田のおごりでその焼き肉屋に行ったこともあるのです。多田と行ったのと安田と行ったのとどちらが先であったか覚えていないのですが、同じ頃で半月から一ヶ月近く間を開けていたように思うのです。あるいは安田と行ったのは12月30日の夕方であったかもしれません。
また、私はその当時、その焼き肉屋の近くの紳士服モリワンの隣の中華食堂「翔」にも退社後何度か多田を誘って食事を一緒にしたのであります。
はっきり覚えているのは、一月二十二日の夜か、二十三日の夜、あるいは二十四日の夜に市場輸送で浜口さんたちが麻雀をしているのを待っていたときに、和田と多田と三人で「翔」に食事に行ったことであります。(これは二十四日が一番有力)また、一月二十二日の夜か二十三日の夜には、午後十一時頃市場輸送よりたしか東度の乗用車を借りて、靴流通センターとバス停の前の山崎ディリーストアー(コンビニ)の間にあるうどん屋源助に一人で食事に行った覚えがはっきりしております。
また、話は飛ぶのですが、三月二十日の祝日の日、私は、前日に五高倉庫で積み置いた清水行きのミールを出発するのに昼過ぎに出社してから、食事をしてから出発しようと思ってその源助に行ったのですが、すると先に浜口さんと浜上さんとそしてもう一人誰か(咲川さんかも)が三人いて、私が食事を始めた頃に彼らはおあいそをして出ていったのですが、その時浜口さんは、私の注文した分も支払ってくれたのです。そして彼らはその時パチンコオークラで遊んでいる途中であるといっていたように思います。このように源助は東度などもよく利用していた、ほとんどカウンター形式の店なのであり、店の主人は頑固そうな感じの、少し、ある寡黙な人物で、割と愛想の良い感じの夫人と二人だけで商売をしていて、わりとよく、いや、かなりはやっている店であります。
《補足》
東度がその店で食事をしている姿も、話も聞いた覚えはないが、これはあくまで推定であります。
それから私は、一人で名古屋に向かったのであります。出発したのは午後六時半頃だったように思うのですが、なぜか名古屋の現地(目的地、名港大橋付近の卸し先)に到着したのはかなりおそく夜中の二時か三時頃だったのであります。
《補足》
ここまで見て肝心なことが抜けております。それは安田に代走を頼むのに前後して控え室から松平に電話を掛け事情を説明し理解を求めてやったことです。つまり私が多田に代わって松平に代走の許可をもらってやったような感じだったのです。松平は不機嫌そうですぐにいいとは言いませんでした。そんなこともあり結構長い電話になったのです。なにか指示のようなものも出てかけ直しをしたような覚えもあります。多分安田の返事を得てから報告するように言っていたのだと思います。一方の安田ですが、彼もすぐはうんと言わず、私が説得して渋々承知したのですが、私が一緒に行こうというと妙に力を込めて拒んでおりました。恐らくこれも連中の共謀で、実際に安田は走らなかったのかもしれません。
それから私は朝になって荷物(ミール)を卸したのですが、その時丸一運送と丸和運送の二台のウィング車が同じミールを積んでおりました。そして手伝い合って荷卸し作業をしたのです。
《補足》
これも軽視できない問題であります。なぜならこの荷物を降ろした日は、私の記憶と松平の日報の間で矛盾し対立する関係にあるからです。丸一のトラックが私とおなじ荷物を積んでいたのでそこから調べれば確認することができるかもしれません。ここでウィング車とありますが、これが事実であれば、丸一には平ボディのトラックが多かったはずなのでさらに特定を絞ることができるかもしれません。しかし、この時、一緒になったこと自体が東度の画策であったことも考えられるので仕掛けた罠にはまりこむことも予想されます。なぜなら私の経験上七尾のトラックが二台も一度にミールを運んできていたことは見たことがなかったからです。ウイング車であったか否かも現在でははっきり思い出せません。もう一台が丸和であったことも同様です。しかし、ここでこのように記述していることはその他の状況を勘案して考えても確実性を疑う余地は少ないと思います。そもそも丸一のトラックがミールの仕事をする姿など見たのはこの時が初めてであったかもしれません。ただ同じ頃には他の機会にも見掛けたような気はしないでもありません。何となくでありますが、二人の運転手とも三十代ぐらいの若い運転手であったような覚えがあります。三十代の運転手というのは案外少ないもので特に丸一などの仕事内容の運送会社ではその傾向が強かったのです。建設系とでも言いましようか、そんな感じで、四十代から小十代の運転手が多いのです。いくつか理由があると思いますが、格好が悪いというのも理由になるかもしれません。そもそも長距離の運転手は大会社を別にすれば、二十代の若者と事業に失敗したりした中年が多いのです。特に根拠はないのですが、これは市場輸送にも急配にもぴたり当てはまる法則です。他の同じような規模の運送会社でも似たような感じでした。
それから私は、蟹江インターから清洲東インターまで東名阪自動車道に乗り、国道22号線を岐阜市方向に向かい一宮インターより名神高速道に乗って中央自動車道多治見インターに降りて、国道155号線より可児市内に至ったように思い、そのように上申書に記述したように思うのですが、あるいは、小牧インターから降りて国道41号線を通って可児市に至ったのかもしれません。いや、その可能性の方が高いように思います。たしか、犬山市と可児市のちょうど境あたりの弁当とうどんの店(金沢で言えば八幡のすし弁のような店)で、昼食をして、そこに電話機がなぜかなかったので、そこから一キロほど走ったところでトラックを停め、左側にある飲食街のようなところから、会社と可児市のパレットの積み込み先に電話を掛けたのです。
この時の電話も、池田との会話でポイントとなる要素があったと思うのですが残念ながら全く覚えておりません。
それから私は午後一時過ぎか半頃に、その電話を掛けたところから(そこはちょうど小さな山の頂上になっていた)山を下りて可児市内に入ってまもなくすぐに右折して二、三キロほど直進した右側にある結構大きな製作所のような所に入って、暫く待ってパレットを積み、午後三時頃に(二時半との間ぐらい)出発したのであります。積み荷は木製のパレットで、納入先(卸し先)は、浜田漁業金沢工場でありました。
可児市の積み込み先を出発してから私は、国道21号線を岐阜方向に向かったのです。そして30分ほど走った各務原市内の手前からバイパスに(左に)入ってすぐの道幅の広くなったスーパーの前のような所にトラックを停めて、会社に電話を掛けたのです。
そうしたところ、松平が出て、今から高速道路を利用して今晩浜田漁業金沢工場に着き次第荷卸しするよう指示を受けたのです。
そこで私は、岐阜羽島インターから金沢東インターまで高速道を利用して午後七時頃には目的地である右工場に到着したのです。
そこで市場輸送の4トン車の運転手で、その当時免停中であったと思われる尾野さんに手伝ってもらって(リフトの運転)午後八時四十五分頃には作業を終えて会社に向かって出発したのです。
会社に戻ってから私は暫く一階控え室にて一人でストーブをつけてボーっとしていたように思います。これは自宅に戻っても小さなストーブしかなかった(炬燵はあったけれど一度も使用しなかった。)私にとってよくあったことでもあります。でもなぜかテレビはそこにあったけれどつけて見ることはしませんでした。
それから自宅に帰った(着いた)のが、午後十時過ぎでした。戻ってすぐに風呂を沸かそうとガスをひねってお湯を浴槽に溜めようと出したところで電話が鳴ったのです。
出るとそれは前妻でした。
十一月の上旬以来の連絡でありました。前妻がどうしても一目会いたいというので、私も写真とか子供の服とか渡したいものがあったので、たしか0時半に来ることを決めて十一時四十五分頃に電話を切ったのです。それから風呂を沸かし直し、入浴中にもうあがろうとしていた頃に、前妻が来たので私はすぐにあがって、そして渡すものを渡し、必要なものを持って行くように言ったのです。その時前妻は表に子供たちを乗せたままタクシーを待たせていたようです。それからすぐに前妻は帰って行きました。
そして、帰ってから二十分ほどすると、また電話が掛かり、出ると前妻でした。それから、最後の電話だからと言って会話は長引き、午前五時頃まで途中二度ほど切ってまた向こうから掛け直しがあって続き、そして前妻はどうしても、私の寝顔でもいいから逢いたいと言ってゆずらず。それを承諾してから電話を切り、私は疲れており翌朝より仕事もあったので布団に入っていたのです。午後五時半頃だったと思います。約束通り前妻が来たのは、十五分ぐらいいたように思います。(あるいは10分か20分ぐらいだったかもしれません。)
当日私は、ミール移動のため午前七時半頃には出社しなければならないことになっていたのです。(ハイミールに八時頃入るため)
しかし、私は精神的にも身体的にも疲れがたまっていたため寝過ごしてしまったのです。会社に出社したのは午前十時半頃だったと思います。
この時も、池田が私に声を掛けると、すぐに彼女がそれを遮るようにして「東度さんが、すぐにハイミールに来てって」などと哀しそうに訴えかけるように言ったのです。それは十二月の初め頃の日野自動車からの伝言の時と同じような感じであり、私は、その彼女の心痛の原因が、前日(当日でもある)に連絡があった前妻によるものと確信を強めたのであります。
当日(一月二十一日)、私は、午後四時過ぎにミール移動より、翌朝卸しの積み置き分を積んで会社に戻りました。私は当日の夕方に彼女と逢うことをほとんど約束していたのです。(三回目の会見)なのにかかわらず、その当日は退社時間に近づいても彼女は乗用車(6601号)を裏駐車場には停めず、会社前に停めたままであったのです。これは会話を拒否するに転じた意思表示であるに違いないと思った私は、焦ってしまい。何とかしようと思って(そのあと二階で見た彼女の姿は重苦しいものがあり、池田にもそれが強く感じられた。事件当日の退社時ともよく似た社内の雰囲気であった。それで私は一層不安に駆られたのである)
私はすぐに乗用車に乗って中央市場に行き、仲買(青果物)の横にある唯一の電話ボックスから会社に電話を、彼女が出ることを期待して掛けたのです。
ところが、出たのは梅野でした。梅野はかなり威圧的な強硬な態度で、渋ってから彼女に替わりました。これは私が初めて彼女に対する取り次ぎを会社の人に頼んだことです。つまり彼女との関係を公認した初めての表明だったのです。
彼女は困ったように逃げるようにそして開き直るような感じで、今日は用があるから早く家に帰らんといかん、とか言って、会見を一方的に断ってきたのです。そこで私の不安はより大きくたしかなものとなったのです。私はとにかく焦りました。彼女が用があると言ったことは嘘であると端から信用しなかったのです。このままではますます事態は悪化する。その不安に駆られ、その回避のためにのみ私は極度の疲労を強いて彼女に会見を求めたのです。これは事件当日と全く共通してる情況であります。
私は今まで、それに偶然の要素が重なり含まれていたように思っていたのですが、今思うに、それは全く違います。すべて連中の意図により作られた情況だったのです。
この時、私は初めて彼女に強く要件を要求しました。それで彼女も渋々ながら会うことを承知してくれたのです。
それから、私は、会社に戻ってすぐに二階に上がりました。顔を見せておいた方が彼女も安心してくれると思ったのです。そのところ、二階には、十二月二十一日と同じようなメンバー(浜口、浜上、河野など)がいて、いきなり浜口さんが、「どこに車とめとるがい。自分だけの駐車場と思っとるんか」などと、私を怒鳴りつけたのです。
その時私は、会社に戻ったときに彼女の乗用車が裏になかったことにより、慌ててトラックを駐車場のほとんどど真ん中に放置したままでいたのです。私はすぐに下に降りてトラックを停め直しに行きました。そして、会社に戻って一階控え室に入ると浜口さんなどもそこにいて何事もなかったようにしておりました。そこで少し雑談をしてから、私は先の電話で彼女に伝えたとおり、裏駐車場のトラックに行き、その車内で彼女が来るのを待ったのです。トラックからは二階の台所付近の人影が見えるのですが、まもなくその台所の冷蔵庫の横で髪をとく彼女の姿が暫く見られました。
その姿がなくなってまもなく、彼女の車が中央市場の横の道路を走って裏側から裏駐車場の一番奥の方(彼女の入ってきた方からすると手前になる)に彼女が車を停めたので、私はトラックから降りて迎えに行ったように思います。そこで彼女に車のエンジンを切るように言ったことより、まず、応酬が始まったのです。それでもその場はすぐに彼女にトラックに乗ってもらったのです。
話が前後しますが、私はその前に、会社前に彼女の車が停めてあったときに、すっかり暗くなった状況で、彼女の車の後部席あたりに紙袋に入れられたセーターのようなものを見たのです。しかし私は他のことにすっかり気を取られていたので、そのセーターのことは深く考えず、その場はすぐに忘れてしまったのです。
トラックに乗って助手席に座った彼女は、すぐに5分だけとか10分だけとか言ったのです。私は一方的に一人言(独り言)のように前夜に前妻と逢ったことなどを話しました。それによって彼女の反応を見出そうと思ったのですが、彼女はまるっきり感情を殺してそれでも真剣に私の話を聞き入ってくれました。そして、一息ついたところで、直接、彼女に今からのことを申し向けると、彼女はすぐにこれ以上会話は出来ないようなことを言ったので、私は全く感触がつかめず、かえって誤解を大きくしてしまったような不安に駆られ、強く彼女にエンジンを切ってゆっくり話したい旨を申し向けたのです。
そして、彼女が応じなかったことより、私は、ここは大事な場面だから彼女にも心を開いてもらわなければならないと必要に駆られ。それを決意として、トラックを出て、彼女の車の所に行き、彼女の車の運転席のドアを開け、エンジンを切って鍵を抜き取ろうとしたのですが、そのホンダトゥディ覇、私にとって初めて扱う仕組みになっていたので、私は要領を得ずまごついていたのです。(その時彼女の車の中は音楽が流れていた)すると後ろから彼女の声が掛かり、その時は明るい声でやさしい感じだったように思うのですが、「私の車で話そう」と言ったのです。その時私は自分の行為にひどく気後れがあって焦っていたのでその恥じ入ることを打ち消すようにあえて強く「そんなん、トラックでいいわい」などと断じたのであります。
とにかく、相当私は取り乱していたように思います。そこで彼女は一変して不機嫌となり、攻撃的な言動になったのです。私が自分の正当性を主張するため弁明のように「この前、今日逢うって約束したやろ」と言うと、彼女はますます感情的になって、「いつそんなこと言うた。そんな約束今言った。」などとくってかかってきたのです。それはまさに、それまでの周囲の彼女は気の強い女だと言うことを十分に私に印象づけ、認識させるものでありました。
「いったい、私のどこがいいがぁ?」、それはまさに彼女が私の気持ちを十分に認識しながらその上でそのような言動に出ていると思わせるもので、この時も私はより一層納得のゆく話し合いの必要性を強く感じて、逆に彼女に「とにかくトラックに乗れや」などと一喝をして(と言っても、大声で怒鳴ったわけではなく、強く意志を込めて断言したような感じ)、そのまま振り返ってトラックに向かって歩いて行き、そして運転席に戻ったのです。すると少し遅れて彼女が無言のまま助手席に乗ってきてくれたのです。私はそれを確認してからすぐにトラックを発車させたのです。
私も無言のままであったのですが、すぐに彼女は「タバコもらえるけ」と言って、私が返事をすると、彼女は助手席の窓を向きながらタバコを勢いよく吸い始めたのです。彼女の顔は反対側を向いているためと髪の毛によりほとんど見えませんでしたが、それは只ならぬ殺気だった形相であり、対する私もそれと似たような状態でありました。途中、八号線バイパスの交差点と、それを右に向かった次の交差点を、私は乱暴な運転で信号無視をしたのですが、彼女はまるで動じませんでした。
私はトラックステーションの所より反対側の斜線に出るため、八号線の真下をくぐったあたりで、ようやく彼女に声を掛けたのです。それまでは彼女からどこに行くのかなどと声を掛けられることもなかったのです。私は「おまえ、好きな男おるって、あれ嘘やろ」と訊ねたのです。彼女は「嘘じゃない」と言いながらも、その言葉は弱く、返答に窮したように感じられました。
それから私は反対側車線に出て、今度は福井方面に向かうようになり、そしてすぐに東インターより北陸道に乗ったのです。すぐに私は、本線との合流する側道のスペースにトラックを停め、降りて小便をしてきたのです。
車に戻ってから私は、車を発車させながら先ほどの彼女の質問に対し、「どこがいいって、全部や、初め性格悪いかなって思ったけど、今は全部好きや」などと申し向けたのです。彼女は感情を殺したまま返事は控えたように思います。そしてそれにかわってか「一体、どこ行くがぁ」と怒ったようにあきれたように私に申し向けたので、私は彼女に「九州や」などと少しふざけたように申し向けたのです。すると彼女は真剣な声で、「この前、友達来たってゆうたが嘘や、あれ嘘やけど。今日、早く家帰らんなんって本当ねんて、親出掛けるし、私代わりにご飯作らんなんげんて」と訴えるように強く申し向けたのです。 「この前、友達来た....。」というのは、一月十二日夜私が入善PAより掛けた電話の時を指す言葉だと思います。
私は、ここでも自分の過ちを正当するために(事実彼女の方にかなり責任があると思っていた。)、また、単なる言い逃れによる対面を取り除こうと思って(つまり、彼女は、引っ込みがつかなくなったため、攻撃に転じたのではないかと思ったのです。これは前妻によく見られる性格でもあったのです。)、あえて「そんなん出前でも取ればいいがい」と言ったのです。すると彼女は、「うち、年寄りおるし、出前じゃダメねんて、私帰って作らんと」などと本当に困ったように言ったので、私は、すぐに会社に戻ることを彼女に言ったのです。
そして、西インターで高速を降りて反対側の富山方向車線の八号線バイパスに出たあたりで、私は彼女に、思い切って「あの、前から訊きたいと思いながら怖くて訊けんかったことあるんやけど」と、私は自分に向かってつぶやくように言ったのです。すると彼女は、それまでの沈んだ表情を一変させ、急に明るくなり「なんや、なんや」と子供がねだるように、はしゃぐようにして訊ねてきたので、私はその勢いで「文ちゃんの好きな人って、もしかしてオレのことか」と言ったのです。
これは、彼女にとって、相当衝撃的だったらしく、彼女は、明らかに取り乱したようになって、うめくように、吐き出すように、「違う、広野さんじゃない、私....私.....。」と、しゃくり上げるようにして顔を上げ、唇をかみしめ、じっと天を仰ぐように空間に視線を据えながら言ったのです。私はその彼女の反応に、その言葉とともに大きなショックを受け、それ以上聞く事が恐ろしくなり、彼女にとっても酷なことに思えたので、追求をやめ、それと同時に蓄積されていた彼女に対する不信感がこみ上げ、その心中をありのままに言葉にして、「おまえ、気、狂っとるんじゃないか!」と真剣に申し向けたのです。すると彼女は一変して急に笑い出しました。それは極度の精神的緊張感からなされたような、ひきつったような異様な表情で、私は少なからず戦慄のようなものを覚え、彼女はかなり重度の神経質的傾向を持つ女性だと改めて認識したのです。この会話は、ちょうど示野の交差点にさしかかるところであったと記憶しております。そして「おまえ、気、狂っとるんじゃないか」と申し向けたときにはちょうど金石街道に入る測道には行ったあたりであったと思います。そして私は、藤江陸橋の下の金石街道との交差点のあたりで、彼女に「そんなん聞いてどうするが、広野さんのぜんぜん知らん人や」と、彼女の好きな人の名前の一部を訊ねたことより言われ、「上か下か、どっちでも聞けたら、そんで納得できるんや」と言い。さらに、彼女の態度がかたくなであったので、私は「殺してやるわい。殺せばいいんやろ」とやけくそに言ったところ、彼女は急に真剣になって「そこがあんたの悪いとこやろ」とはっきり私に言ったのです。私は「冗談やろ、そんな簡単に人なんか殺せるかい」と言い放ったのですが、その時彼女は、つくづく真に受ける性格だなと感じたのですが、後になると、彼女は私と安田某との関係を心配していたものと思ったのですが、今思うに、これは、池田や東度が作り上げた私の人間像に直接かかわることであったように思います。だからこそ彼女は、あれほど過敏な反応を呈したのでありましよう。
そして、その一方で事件当日必要以上に某の名を出して私に刺激を与えたことから考えると、彼女が某との間柄をごまかしたりしようと考えたり、またその必要があったとは到底考えられないので、やはり直接私に対する誤らされた認識がものを言っていたに違いありません。しかし当時の私は、その時の彼女の予期せぬ過敏な反応と、そして当夜初めて浜口さんより知らされた彼女と某との間柄に私は重ねてダブルパンチを受け、それは並々ならぬ彼女に対する人間不信となって形成されたもので、虚像に魂が入ったような状態になったのであります。いわゆる被害妄想の本格的始まりとなったのであります。
ちょうど藤江交差点を右折しながら私は、「とにかくオレの気持ちはかわらんし(のようなこと)、どうしても嫌なら会社やめてゆけや」と言い向けたのであります。そこで彼女はすかさず、「生活かかっとるんや、なんで会社やめないかんげんて」などと強く反論を申し向けたので、私は、交差点をもう一度右に折れバイパスを戻るような格好で次は福井方向に出たのです。そして私はハンドルを右に切りながら、「だれも会社やめてっていいとらんやろ、どうしても気が引けて嫌やちゅうがやったらやめてゆくしか仕方ないやろ」などと、私は、彼女に自業自得であることを示唆するように申し向けたのであります。すると彼女は、すぐに、「一体どこ行くげんて、私本当に帰らんなんげんて」と言い。私は、「わかっとるわい」と言いながら、「文ちゃん、いったいどんな男好きなんや」と言うと、彼女は答えず、「ほんなら、どんな男嫌いなんや」と言うと、彼女は、気持ちを込めて「いじっくらしい男」と言ったので、私は、「なんやそれオレのこといいとるんか」と言うと、「そうなりつつある」とだけ彼女は答え、それからはほとんどなにもしゃべらなくなったのです。そのあとも、私は、手探りのように彼女の心をつかもうと弁明じみたことを独り言のように話しながら会社に向かったのです。そして会社に戻ったところで、彼女は厳しい面持ちで、トラックから降りる直前に、一言「私の気持ちかわらんし」とだけ言って帰った行きました。
 それから、彼女が帰って私は一階控え室に行ったのです。時計は午後七時頃だったように思います。そこには安田敏を除くと思われるほとんど全員の大型運転手がたむろをしておりました。つまり東度、浜上、河野、浜上(浜口の間違いだと思われる。H9.5.20)、そして水口、山下つよしもめずらしく遅くまで残っておりました。ほかに朝野などもいたように思います。そして、皆私の姿を認めると、ニタニタと意味ありげに笑っておりました。

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