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令和5年6月の告発状:被告発人若杉幸平弁護士と被告発人大網健二の共犯関係と、再審請求を困難にならしめた影響力


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被告発人若杉幸平弁護士と被告発人大網健二の共犯関係と、再審請求を困難にならしめた影響力

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2016年5月 3日 (火)
平成6年の人権救済申立と平成11年に被告訴人OKNに紹介され同行で法律相談に行った若杉幸平弁護士の本件告訴事件への関与の事実
平成6年の人権救済申立と平成11年に被告訴人OKNに紹介され同行で法律相談に行った若杉幸平弁護士の本件告訴事件への関与の事実

2016-04-30 土曜日 14:05 >> [[ ←これからの記述範囲の開始時刻]]>>

 正直なところ、ずいぶんと前のことなので記憶はかなり薄れ、断片的であったり曖昧模糊とした部分があるのですが、平成11年の1月の20日ころから同年2月の20日頃の間のことだと思います。

 その1月の20日頃というのは被告訴人OKNの罠とも思える誘いにのっかり、「Nテック」という架空会社の仕事をするようになった時期です。架空会社というよりは幽霊会社かも。幽霊会社というのは被告訴人OSNの口から出た言葉でもあります。

 ここでは全体的な流れを書くのに極力とどめたいと思いますが、思い当たる転換点というのが前年つまり平成10年の11月20日ころに、市場急配センターの事務所で被告訴人松平日出男と労務の担当者という堂野さんの三人で会見の場を持ったことです。

 11月の20日頃というのは大体の時期ですが、休日の日曜日であったことは間違いないと思います。市場急配センターの事務所での二人以外の姿を見かけることはほとんどありませんでした。駐車場の離れた場所であれば、どうかとは思いますが。

 会見の後、外の市場急配センターの事務所の建物の前で、被告訴人松平日出男が私の手を握りしめ、「頼むぞ、頼むぞ」とすがりつき、念仏を唱えるような姿を見せていたことが特に印象的でした。

 そういえば、当時の状況を克明に記録した文書のファイルが、どこかにあったかと思います。多分同じ場所(フォルダ)に「証拠番号」というファイルが存在するはずなので、そのあたりから調べ出すことが期待できます。

 残念ながらはっきりそれと思われるファイルは見つかりませんでしたが、たぶん御庁(金沢地方検察庁)には提出済みのものと思います。それ以外の忘れていたファイルの発見がいくつかありましたが、改行が少なく、空行もほとんどないので、読みづらい文書になっていました。

 昔のファイルに軽く目を通していたところ、思わぬ発見もありました。初めて西金沢の小料理屋「一水」に被告訴人OKNと被告訴人KYNの3人でいったとき、強い雨が降っていたことは今でも記憶にあるのですが、普段、被告訴人OKNが乗る車とは違っていたようです。

 マーク2のような車だと書いてありました。2の部分はツーと読んで、ローマ数字のような記号になるはずですが、機種依存文字になる可能性が考えられるので、2にしておきました。今ではトヨタの車として全く聞かなくなった車種名です。

 そのマーク2のような車というのは、私がまだ宇出津の家にいた平成9年の春頃に、被告訴人OKNが宇出津に来るときに決まって乗っていた車とほぼ同じだったと思われます。私の記憶にあるのは白色ではなく、ベージュに近い色だったと思います。

 普段被告訴人OKNが乗っていた車というのは黒色のボルボでした。スエーデンのヨーロッパ車で、世界で最も頑丈な車と言われていたこともあり、被告訴人OSNが同じボルボに乗っていた時期もあったかと思いますが、遥かに数年前の昭和の頃だったと思います。

 私が被告訴人OKNの世話で北安江に借家を借り、金沢で生活をするようになったのは平成9年の7月の2日頃で、被告訴人OKNと被告訴人KYNが宇出津までトラックで迎えに来てくれて、引っ越しの作業をしたのです。そのまま金沢での生活が始まりました。

 平成9年7月から金沢での生活が始まり、早いうちにマーク2は見なくなり、黒いボルボを見るようになったと思っています。その平成9年の11月頃から、被告訴人OKNの口利きで、被告訴人KYNの配管設備の仕事をするようになりました。

 11月のいつ頃から被告訴人KYNのところで仕事を始めたのか思い出せなくなりましたが、最初の2,3日の現場が、当時の能美郡辰口町の旅館の庭のようなところでの仕事で、その後は同じ辰口町の北陸先端大学の地下ピットでの配管の仕事になりました。K設備の応援でした。

 被告訴人KYNの配管設備の会社で仕事をするようになると、被告訴人OKNと会う機会がめっきりと減りました。平成10年の11月頃かに再会した時は、半年ぶりぐらいに会ったような気がしたことも記憶にあるのですが、実際の細かいところは正確に憶えていません。

 同じ頃のことだと思いますが、被告訴人OKNが被告訴人KYNの事務所を借りて、被告訴人OSNの会社の社員教育としての講習をやると言い出したことがあり、講師として大学の先生を招くという具体的な話もしていました。

 10人足らずの鳶職の有限会社に大学の講師を招くという話も私は半信半疑で聞いていたのですが、その講習会のようなものは実際に行われたような話で、私が現場の作業から戻った頃は、講師が帰った後ということで、被告訴人OSNの会社の社員らが集まっていました。

 それまでほとんど使ったことのなかった事務所の奥の畳の部屋に集まっていた場面を憶えています。被告訴人KYNが自宅の横の奥にあった民家を買った家で、フローリングのダイニングキッチンのような部屋を事務所ということにしていました。

 夏から秋の初め頃のことだったと思います。その事務所とする家を買うために被告訴人KYNは一億円以上の借金をした、銀行の融資がうまくいったなどと話していました。

 その前、その隣の奥の家というのは若い夫婦連れが住んでいて、鳶職のような仕事をしているという話で、朝に作業員のような若者数人と一緒にいるような姿を何度か見かけていました。

 その物件というのも当時は本陣不動産株式会社の営業課長だった被告訴人OKNが世話をしたらしく、被告訴人OKNに連れられてその大家という人の工場にも行ったことがありました。場所は金沢市内高畠か玉鉾の境辺りの、古い工場でした。

 その工場に行った時に、被告訴人OKNが被告訴人KYNの事務所の大家だと話を始めたようにも思います。なにかちょっとした手伝いに大家の工場に行ったようにも思うのですが、当時は重要ではない話として聞き流していたように思います。

 気になったといえば、そういう不動産の大きな買い物の話を進めながら、被告訴人OKNの姿を被告訴人KYNの家で見ることがまったくなかったことです。事務所として民家を使うようになり、すっかり落ち着いた頃に、被告訴人KYNはひょこり姿を見せるようになりました。

 被告訴人KYNの家というのは中古物件の普通の民家で、金沢市内の民家としては大きい方だったと思います。家の横に人のすれ違いも難しいような細い道があって、その奥に道具などを置く小屋があり、家の中も事務所らしさはほとんど感じられませんでした。

 たいていは玄関先で集まり解散する職場で、たまに家に上がって玄関横の小さな部屋で話をすることはありました。それまではなかったと思いますが、隣の民家の事務所が出来てからはタイムカードが置かれるようになったことも記憶に残っています。

 机があるだけのような事務所で、事務的な作業は被告訴人KYNが一人で自宅のほうでそれまで通りにやっているような感じでした。

 それまではほとんど姿を見せなかった被告訴人OKNが、平成10年の11月の終わりか12月の初めの頃に姿を見せるようになると、それからは頻繁にちょくちょくと顔を出すようになり、大きなコピー機を2台か3台持ってきたこともありました。

 当時既にかなり古くなったコピー機でしたが、一つは本格的に大きなもので高さも1メートルぐらいあったように思います。もう一台はその3分の1ぐらいの大きさでしたが、私がもらって自宅で使うようになりました。

 被告訴人KYNの自宅兼会社は金沢市内でも閑静な住宅地でしたが、歩いて50メートルぐらいの場所に赤ちょうちんを沢山ぶら下げたような居酒屋がありました。そこに店があることは毎日のように車で通って知っていたのですが、店に入ったのは被告訴人OKNと一緒が最初かと思います。

 初めはけっこうまとまった人数でその居酒屋のような店に入ったような気がするのですが、西金沢の小料理屋「一水」に初めに行った時も、その居酒屋で3人でいて、そのあとに向かったような記憶が残っています。

 被告訴人OKNと被告訴人KYNの二人の話で、状況が飲み込めないまま連れて行かれたのが、まだ開店前で誰も人のいなかった「一水」でした。水回りかクーラーの話だったように思いますが、二階の部屋にも入り、ロフトを見たのも印象に残っています。

 話がNテックに戻りますが、Nテックの仕事が決まった直後に行ったのも、すでに営業を開始していた「一水」でした。夕方の明るい時間に、被告訴人OKNと二人で金沢市内の松村町の辺りにいたことも一つの場面として記憶に残っています。

 すっかりと水商売が身にしみたような年配の女性が店の女主人という感じで、被告訴人OKNの話でも長い間、片町で水商売をやってきた人で、独立して小料理屋を始めたというような話でした。

 本陣不動産の顧客とも出入りにしていた片町の店にいたとも話していたように思います。名前も耳にしたように思いますが、記憶にはありません。

 「% cal 11 1998」というコマンドで確認すると平成10年の11月22日が日曜日のようです。この日が、市場急配センターの事務所で被告訴人松平日出男と堂野さんと三人で会った日になりますが、そこからが急ピッチの急展開になりました。

 あまり細かいことは思い出せなくなっていますが、まもなく被告訴人KYNから再審請求など個人的な問題は諦めて協調して配管の仕事に専念するか、それとも会社を辞めるかという二者択一の選択をつきつけられたのです。

 さきほど昔のファイルを目にしていると、その頃は日曜日の休日出勤も珍しくなくなり、被告訴人松平日出男との会見の当日も、仕事だと言われていたのを断った、といったことが書いてありました。

 もともと休みは日曜日だけでしたが、仕事が暇な時期は早仕舞をすることもちょくちょくあり、その時に私はアーク溶接の練習や、ビニール溶接の練習などをしていたのです。その辺りも、当時は詳細、克明に書き綴ったものが、御庁(金沢地方検察庁)にも提出済みと思います。

 なんといっても、被告訴人KYNの会社で多かったのは飲み会の多さでした。会社が危機的状況で一致団結が必要と言いながら私に辞職を迫ったのであれば、まずは飲み代や事務所での缶ビール代を減らすのが常識だろうとは考えていました。

 先ほど見た古いファイルでは平成10年12月25日が被告訴人KYNの会社で最後の仕事をし辞めた日ということになるようです。択一の選択を迫られたのはその一週間から10日前とも書いてありましたが、それを見るまで半月以上の間はあったように思っていました。

 夕方のすっかり暗くなった時間に給料袋を受け取って、事務所の民家を後にした場面も記憶にしていますが、外に出てから「その金でソープランドに行くな。」と言われたことと、失業保険も何もないと土壇場で言われたことも印象的でした。

 そこまで突き放しておきながら、忘年会か新年会の出席はするように言われました。S設備との合同の新年会で、溶接の練習などでお前は世話になっているのだから顔出しをしろと言われたように思います。

 テルメ金沢、という大型入浴施設での新年会でした。一泊でしたが布団の部屋で寝た記憶はなく、サウナの客として仮眠室で雑魚寝をしたような記憶が残っています。朝食がバイキング形式のもので、テルメを出てから一度は、被告訴人KYNの家に顔を出し、すぐに帰ったように思います。

 それからしばらくの間は、被告訴人KYNの家にも事務所にも行くことはありませんでした。連絡もなかったと思います。

 時刻は20時45分になりました。これまで通りEmacsからF9キーで告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(@kk_hirono)にツイートとして投稿していたつもりだったのですが、実際には投稿されていなかったことに気が付きました。

 調べたところ今月に入って新しくしたパソコン環境で、pythonのライブラリーを一つインストールし忘れていたことに気が付き、ライブラリーをインストールしたことでこれまで通り、TwitterAPIでの投稿が出来るようになりました。

 投稿したつもりだったデータをまとめて、ファイルから一括して投稿するスクリプトを使ってまとめて投稿しました。これを使ったのは久しぶりです。

 夕方には銭湯に行き、Aコープ能都店で少し買い物をして戻りました。夕食はまだですが、少しでも書いて先に進めたいと考えています。中断前の続きになりますが、被告訴人KYNとはその後、1月の終わりか2月の初め頃(平成11年)に一度会いました。

 細かいことはまた別の機会に書きたいと思いますが、被告訴人KYNからの呼び出しで民家の事務所に行きました。何かの用事で呼びだされたように思いますが、それも現在の記憶では思い出せなくなっています。

 事務所がリフォームされていたことと、そのリフォームをやったらしい宇出津の同級生のYYがその場にいました。YYと会ったのもずいぶんと久しぶりで被告訴人OKNの世話による中古物件としての金沢市内黒田の被告訴人KYNの家で姿を見たのはその時が初めてだったように思います。

 厳密に言えば自宅ではなく、隣の民家の事務所です。YYは被告訴人KYNの結婚式にも顔を合わせていましたが、YYの紹介で妻と知り合ったという話を聞いていました。その頃はYYは金沢市内入江のアパートに住んでいて、被告訴人KYNと一緒に遊びに行ったこともありました。

 その頃からYYが内装工事の仕事をしているとは聞いていたのですが、単純なボード貼りのような仕事をしているものと考えていました。リフォームされた事務所で再会した時、内装をコーディネートするような仕事もやっているらしいと気が付きました。

 今日の昼か、昨日の昼には久しぶりに同じ同級生のTTのことも思い出したのですが、考えてみると黒田の被告訴人KYNの自宅では彼とも顔を合わすことがなかったように思います。

 平成10年の宇出津のあばれ祭りでは、被告訴人KYNの実家にTTが顔を出しに来ていたと憶えています。平成16年か17年あたりから7月の第一金土となっているあばれ祭りですが、その頃はまだ7月の7,8日と決まっていました。

 平成4年当時、被告訴人KYNは同じ金沢市内黒田でも丁目の違う古い集合住宅のようなマンションに住んでいました。その頃は、TTの姿を何度か見かけることがあり、割と頻繁に遊びに来ている感じでした。

 TTとも平成10年のあばれ祭り以来、一度も会っていないように思います。TTのことを久しぶりに思い出したのは、一つ年下の弟TSのことを考えたからです。TSとは昭和56年から56年ころに被告訴人OKNと一緒に頻繁な付き合いがありました。

 その後、余り合わなくなったのですが、そのうち大阪の方で親方のような仕事をしていると聞き、地元の友人数名と大阪で仕事をしていると聞いていました。仕事の方は鳶職と聞いたように思うのですが、今では記憶もはっきりしなくなっています。

 その前になるかと思いますが、小木の1つ年上のYMさんが金沢で鳶職の親方のようなことをやっていて、地元の友人数名と一緒に仕事をしていると聞いていました。TTの弟TSも一緒にやっていると聞いていたようにも思うのですが、これも記憶が曖昧になっています。

 小木のYMさんとは、昭和63年の8月のお盆休みの時に会い、崎山にとめた車の中で話をしました。被告訴人OKNも一緒だったように思いますが、それは夜だけかもしれません。

 当時は宇出津小学校の運動場にまだ盆踊りをやっていて、そこで被告訴人OKNや小木のYMさんと一緒に撮した写真もあります。被告訴人OKNは当時まだ神戸に住んでいました。

 崎山の車の中で小木のYMさんと話をしていた時、「俺も大型トラックに乗りたかった」と語っていたのが印象的でした。私が昭和59年の10月に金沢市場輸送をやめたあと、YMさんもしばらく金沢市場輸送で4トン車の長距離の仕事をしていたと聞いていたような記憶もあります。

 被告訴人OSN本人の口から聞いた話でもありますが、鳶職の親方のような仕事をしていた小木のYMさんの立場をそのまま引き継ぐようなかたちで、被告訴人OSNは現在の鳶職の仕事を始めたと言っていました。

 昭和60年になるかと思いますが、被告訴人KYNが立ち向かったダンプにはねられて入江の病院に入院していた頃は、被告訴人OSNはまだ鳶職の仕事をしておらず、東京の生活をしていて岡山で交通事故を起こし、入江の同じ病院に入院していたことも憶えています。

 被告訴人KYNと被告訴人OSNの入院の時期が重なるかどうかはっきりとは思い出せないですが、知り合った同世代の数人の入院患者とも仲良くなったと聞いていました。保険金のごまかしがやりやすい評判の病院だとも聞いていました。

 今も同じ場所に病院があるのか確認はしていませんが、八幡のすしべん入江店の裏のあたりにある病院で、住所は東力かと思います。被告訴人安田繁克の自宅の近所であり、被告訴人安田繁克の母親は自宅の近くで飲み屋をやっているとも本人から聞いたように憶えています。

 東力も入江も被告訴人多田敏明の自宅がある間明も黒田もそれぞれが隣接しあっていて地理的にも近い範囲です。こじつけるつもりはないですが、友人関係の接点もあるので、そのあたりはしっかり捜査の一環として把握しておいていただきたいと思います。

 被告訴人KYNのところで一緒に仕事をするようになったMT君のいくつか年上の妻も間明のスナックで働き、被告訴人KYNらも飲みに行っていたような話も聞いていました。話を聞いていると年も被告訴人多田敏明と近いように思い同級生の可能性もあるかと思いました。

 黒田はわかりませんが、間明や東力は新神田の高岡中学校の校下にありました。MT君は被告訴人HTNが少年時代の昭和50年代後半に所属していた松元組というヤクザに入っていたことがあるとも話していました。刺青を入れたヤクザ関係の友人が多いとか、多田敏明と同じような話もしていました。

 TTの弟TSのことを思い出したのは、被告訴人OSNの鳶職としてのいわばルーツを遡ったためであり、知る範囲での説明を書きました。それらしい話は平成4年より前にも耳にしていたように思うのですが、清水建設の下請けをしているような話です。

 平成9年以降になると被告訴人OKNの口から清水建設と豊藏組の仕事をしていると聞きました。清水建設が全国的な大手の建設会社であることは、宇出津小学校の新築工事に看板があった頃から知っていました。

 豊藏組については、聞いたことのあるような名前でありながらよく知らなかったのですが、3,4年ぐらい前にネットに調べたところ、全国的な建設会社ではなく、金沢市の地元の建設会社のようでした。これは一つ押さえておきたいところもあるので、今から検索します。

会社案内 会社概要 - 株式会社豊蔵組 http://www.toyokura.co.jp/company2.php

 どうも3,4年前に調べた時の情報とほとんど変わりはないようです。今回、調べて新たに気がついたことは代表者の名前が豊藏だということです。太閤秀吉や忠臣蔵をほうふつとさせる名前なので、なんとなく関西地方か名古屋にでも拠点を置く大手建設会社をイメージしていました。

 今回あらたに確認したのは営業所が「七尾・能登・野々市・白山」という記載ですべて石川県内ということです。富山にも福井にも営業所がないことは意外でした。本社が金沢市の長土塀ということも確認しました。

 昼に確認しておきたいと考えていたことですが、東京都内に主張所があるとはおよそ考えられない業務形態かと思います。被告訴人OKNが平成11年の4月か5月ころに、西金沢の展示住宅で私にそのような話を持ちかけていたからで、それがでまかせの公算が高いと確認しました。

 これも細かいことは別の機会に書いておきたいと思います。豊藏組の東京出張所の話は、さほど疑いも感じずに聞き流したのですが、この項目の本題である若杉幸平弁護士が、清水建設の顧問弁護士で、その関係でお前の事件の話をすることになったという話は、余りに不自然に思いました。

 被告訴人OSNの鳶職の会社と清水建設の関係性は確かめようもなかったし、清水建設の支店なり営業所が金沢市内のどこにあるのかもしりませんでした。ただ、清水建設との下請け関係は平成4年より前に耳にしたような記憶があったので、唐突で信じがたい話ではありませんでした。

 私の記録にあるのは平成3年の4月頃のことです、被告訴人OKNが金沢港に近い無量寺のアパートから大場町東の中古物件の一軒家に引っ越しする手伝いの時だったように思うのですが、アパートの前に被告訴人OSNのライトバンがあって、後部のガラスに「〇〇組」とありました。

 〇〇の部分は被告訴人OKN、被告訴人OKN兄弟の苗字です。平成9年になるとそれが〇〇商事になっていて、有限会社になっていたと思います。繰り返しになるかと思いますが、事務関係をやっているらしい被告訴人OSNの妻を含めて10人弱という規模の会社と聞いていました。

 事務所があるという話も聞かなかったですが、被告訴人OKNがマンションの一室を借りてなんとかと話していたような気はします。被告訴人OSNの自宅には平成9年の3月か4月の初めの頃に一度だけ行ったことがありましたが、割と大きな家と思ったものの普通の住宅でした。

国内/企業情報-清水建設 http://www.shimz.co.jp/about/network/index.html

 清水建設について今回初めて調べてみました。以前は大手ゼネコンとも言われていたように思います。最近はテレビでも社名を目にすることがなかったのですが、北海道から九州まで支社があり、現在も全国規模の建設会社であることに変わりはないようです。

 北陸支社の住所は金沢市玉川町となっていました。金沢市立玉川図書館の近くのようですが、建設会社のイメージとはなじまない地域かと思います。観光地である長町の武家屋敷とも近く、駐車や交通の便もよくない感じです。

 10人弱の社員で大きな現場の仕事をまかなえるとも考えにくいですし、その清水建設の顧問弁護士が、被告訴人OSNと個人的な話をするようになったとも想像しにくかと思います。

 ただ、被告訴人OKNに若杉幸平弁護士の法律事務所に連れて行かれたのと同じ頃になるかと思いますが、金沢市内長土塀の豊藏組の会社に車に同乗したまま連れて行かれ、車の前でしばらく待たされたということがありました。

 犀川沿いの御影大橋とも大豆田大橋ともほど近い広い通り沿いの会社で、住所が長土塀というのもなるほどと思いました。疑いもせず同行していましたが、今考えると豊藏組の本社に用事があったというのも架空の芝居であった可能性がありそうです。

 時刻は5月1日8時33分になっています。パソコンの時計を確認して5月に入ったことに気が付きました。昨日は、明日は31日だと思っていたのですが、時計を確認する直前にそういえば4月は30日までと気が付きました。

 昨夜遅く、深澤諭史弁護士の気になるツイートがあって、朝、小倉秀夫弁護士がそのツイートに対していつもの非公式RTで返信をつけているのをみました。司法制度改革に関する内容ですが、あらためて全く変わりのない考え方と態度がぶれない人々だと思いました。

 テレビと電気をつけたまま寝ていて7時過ぎに目が覚めたのですが、昨夜眠った時間も憶えていません。寝る前に、そろそろ若杉幸平弁護士での事務所に行った状況を書こうと思っていたところでした。

 若杉幸平弁護士の事務所に行った当時の状況や背景を出来るだけ明らかにし、異常な状況を浮き彫りにしておきたいと考えていたのですが、当時の私自身は生活や仕事のことなど心配事が大きくて、出来事を関連付けて考え巡らす、ゆとりがありませんでした。

 北安江の借家に被告訴人OKNの送り迎えがあって、若杉幸平弁護士の事務所に行ったことと、それが午前中だったことは記録映像のようによく憶えているのですが、その前後の状況となるとつながりをもって思い出せることがありません。

 はっきりしていることは、私の北安江の借家の前に車をとめて私をおろした被告訴人OKNは、そのまますぐに走り去っていったこと、若杉幸平弁護士の事務所からの帰りの車内では、言葉は少なかったものの、時折ほくそ笑むような満足そうな顔をしていたことです。

 その後も、被告訴人OKNとは若杉幸平弁護士の事務所に行ったことを会話にすることはなかったと思います。別れ際に被告訴人OKNはこれから仕事の予定があると言っていたようにも思います。

 若杉幸平弁護士の事務所に行った時期を少しでも特定したいのですが、残念ながら思い出すことがありません。当時は重要性を考えるゆとりもなかったのですが、もう少しでも分析をしておけば、被告訴人OKNの意図もよりはっきりと見えてきたような気がします。

 ここで重要となるのが、やはり当時の状況と背景です。Nテックの仕事ですが、本来、仕事と呼べるようなものではなかったし、私は1円の収入も得ていませんでした。細かいことはこれも別のところで書きたいと思っていますが、大きなポイントなので大雑把に書いておきます。

 平成11年の1月の20日頃にNテックの仕事をすることが決まり、既に書いたように夜には西金沢の小料理屋「一水」に行き、被告訴人OSNと会いました。

 「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」には何度か書いていると思いますが、その場で被告訴人OSNが私に再審請求を断念することを執拗に迫り、奥の座敷へと移った時には「ゆうことをきかんやつは殺してしまえばいい」ということまで口に出していました。

 この言葉だけだとありふれているかと思いますが、被告訴人OSN、被告訴人OKN兄弟の父親が、19歳の二人の少年を絞殺したという殺人事件があり、裁判では単独犯ということになりましたが、当初から複数犯の犯行が疑われる事件でした。

 「美川2少年殺人事件」などと呼ばれていた事件ですが、被害者というのは二人とも、被告訴人OSNの会社の社員でした。50万円の借金の返済を執拗に迫られ追い詰められた上での犯行ということになりました。求刑は死刑で判決は無期懲役。

 事件自体は私が福井刑務所に服役中に起った事件です。私は平成9年1月18日に福井刑務所を満期出所して、その半月から一月ほどの間に、テレビで事件のことを知りました。控訴審初公判のニュースだったと思います。

 被告訴人OSNの社員教育というのはかなり厳しい面がありました。一言でいえばヤクザの世界に近いものです。社員が社長の父親を追い掛け回して借金の取り立てをしたとか、挙句に絞め殺したとか、父親がカタギの人ではないことを知るだけに、私は納得出来るはずもない事件でした。

 一つ上げれば、O兄弟の父親には東京でヤクザをする兄弟分という人物がいて、被告訴人OKNの結婚式にも出席していました。私は初対面だと思ったのですが、あとで被告訴人OKNから昭和57年の春先に東京に遊びに行った時、お世話になった人だと聞かされました。

 その「美川2少年殺人事件」のことは図書館の北國新聞縮小版で事件や裁判の記事に目を通しましたが、急いでいたり、他に優先したいことがあったので、ざっと目を通した程度で、よく理解の出来ていない部分もありました。

 その中でも特に目を引いたのが、殺人事件の後、逮捕されるまでの間に、父親が被害者の自宅の縁の下に入って火をつけたという放火事件まで起こしていたことです。放火は未遂だったのかもしれません。火がついたとしてもぼや程度ではなかったかと思います。

 そう言えば、今年(2016年)の1月の中頃になりますか、宇出津の図書館に行ったところ、北國新聞の縮小版の置き場所が変わっていて、手の届かない一番上の棚に移動され、さらに平成十何年以降のものだけになっていました。

 以前はすぐ手に届く他の本と同じ場所に置かれ、昭和50年代や昭和40年代のものまでありました。そこでは何度か、蛸島のTYさんの自殺の記事を探しまわったのですが、それはついに見つけることが出来ませんでした。

 蛸島のTYさんの自殺があったのは平成元年の1月だったと思います。自宅アパートで朝の朝刊で知って、出社した金沢市場輸送の事務所では、数人が集まって話題になっていました。

 その場には、あとに守田水産輸送の都商事の中継の仕事をするようになった○西さん、のちに蛸島のTYさんと同じ新田商店で働くようにもなったT林、白ナンバーのトレーラーで庸車をしていた小木の近くの出身で小木運送にもいたというKさんがいたことをはっきり憶えています。

 午前中の早い時間に、運転手が集まるというのも金沢市場輸送では比較的珍しいことでした。市場の仕事は深夜が中心でもあるからです。ただ、当時の○西さんとT林は、市場の仕事ではなく私と一緒に金沢港でのイワシの運搬の仕事をしていました。

 珠洲市蛸島の浜田漁業金沢工場の仕事です。イワシのシーズンはだいたい12月から3月でしたが、この時は浜田漁業金沢工場だけの仕事で、次のシーズンから北陸ハイミールの工場が出来て、全体的な仕事の規模も3倍ぐらいになりました。

 ここでちょっと勘違いを書いてしまったことに気が付きました。○西さんがいたイワシのシーズンに、T林はイワシの運搬の仕事をしていなかったはずです。次の北陸ハイミールが出来たシーズンにT林はイワシの運搬の仕事をやり、シーズンが終わるとまもなく会社を辞めていきました。

 蛸島のTYさんとT林は昭和61年12月頃の金沢市場輸送への入社の時期も近く、私と3人で浜田漁業金沢工場でのミールの倉庫移動を一緒にやった時期もありました。蛸島のTYさんは取り消しになった運転免許の再取得中で、フォークリフトの運転をしていたようにも思います。

 蛸島のTYさんの金沢市場輸送への入社はそれが二度目でした。初めは宇出津の水産高校を卒業した直後で、小木運送にもいたというKさんとも一緒だったと聞いています。Kさんはそのあと中西水産輸送にも働いていて、私は昭和59年の頃から知っていました。

 T林は昭和61年の12月頃に入社してから1年ぐらいかかなり長い間、4トン車で長距離の仕事をしていましたが、その後、大型車に乗務するようになって、新車の冷凍機付き保冷車に乗務しました。

 私が昭和62年の4月にいすゞの大型保冷車の新車に乗務して、それが「石」ナンバーだったのですが、その一年後ぐらいに同じいすゞの新車に乗務したT林のトラックは「石川」ナンバーになっていたという記憶が残っています。なお、冷凍機付きは88ナンバーだったと思います。

 金沢市場輸送では朝早い時間の出社というのはほとんどなかったと思います。荷物の積み込みは午後がほとんどでしたし、夜通し走るのも長距離運転手の常だったので、朝っぱらから事務所でくつろぐなど、普通はなかったように思います。

 その場でT林の口から聞いたような気もするのですが、昔のことなので記憶も曖昧になっています。それは海の岸壁でくるくると3回ほどまわってから海に飛び込んだという話です。赤い色の軽四で買ったばかりの新車だったとも聞きました。

 私はその蛸島のTYさんの自殺の状況をT林以外の口から聞いた憶えがないのです。被告訴人OKNとは彼が蛸島のTYさんとの間に付き合いや接点を持っていないはずなので、そういう会話が成立したとも考えいくいところで、被告訴人KYNもTYさんの名前をしっている態度かと思います。

 蛸島のTYさんが自殺したという場所は能登の松波でした。現在は宇出津と同じ能登町になっていますが、当時は小木と同じ珠洲郡内浦町でした。松波は内浦町で一番大きな町で役場もありました。現在も能登町庁舎の一つになっているはずです。

 金沢で生まれ育ったはずのT林が能登に土地勘のあるような話をしているので、少し変には思ったのですが、T林が結婚を前提に珠洲の女性と交際していると聞いていたので、珠洲方面の土地勘もあるのかと深くは考えませんでした。

 その珠洲の女性との交際の話はだいぶん前から聞いていたように思います。結婚資金を貯めるために長距離の仕事をしていると聞いていて、極端な節約をしながら長距離の仕事をしているとも聞いていました。

 「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」にはこれも何度か書いていると思いますが、結婚が破談となって珠洲の女性と別れ、長距離をやめイワシの運搬の仕事をすることにしたと言い、それからは散財で飲みまわるような生活になり、私はいつもおごってもらっていました。

 T林は金沢といっても国道8号線だと河北郡津幡町のさらに奥で富山県都の県境の倶利伽羅峠にも近い場所に家がありました。北陸自動車に不動寺というパーキングエリアがあるのですが、その近くだとも行っていました。私は一度だけ彼の家に遊びに行ったこともありました。

 なお、イワシの運搬の仕事というのは時間が不規則で昼夜関係なしでした。イワシは金沢港から30分ほどのところで採れることもあれば、京都の舞鶴沖や新潟の佐渡ヶ島の近くまで行くこともあると聞いていました。佐渡の方面だと金沢港ではなく珠洲市の飯田港での水揚げになりました。

 ミールというのはイワシを主な原料とした肥料に使われることが多い魚粉ですが、北陸ハイミールの処理能力は一日1600トンで日本海側では最大と聞いていました。浜田漁業金沢工場の方は600トンぐらいと聞いていたように思います。

 火力を使ってミールにするらしいのですが工場でその機械を一度稼働させるだけで80万円の費用がかかると聞いていました。なのでイワシが採れ続ける間は機械を停止させず、運搬と処理を継続させるというのが基本方針でした。

 蛸島丸や輪島丸の船団が遠いところまでイワシを追っているときは空き時間も大きく、次の仕事まで時間の見通しも出来ましたが、忙しい時はひたすらぶっ続けの何時終わるのかもわからない仕事になりましたが、長距離で長く家をあけることに比べれば、不自由も感じない仕事でした。

 例えば朝の10時頃に金沢港に船が入ると聞けば、朝の8時頃に会社に集まっていたこともありがちなパターンの一つかと思います。現場での仕事が中心で会社の用事というのもほとんどなかったのですが、苛性ソーダを使ったトラックの洗車と給油は金沢市場輸送の会社でやっていました。

 昨年の夏、バイクで松波の人形キリコ祭りを見に行きました。海での花火大会を見物するのも目的だったのですが、普通21時ころと思っていた花火の時間が一時間以上違っていて、ほとんど人のいない松波の港に長い時間いました。

 お祭りの当日で、真夏の夕涼みの時期でしたが、皆無ではなかったですが、港の周辺に人がほとんどいなかったので、不思議にさえ思っていました。街灯のようなものも少なくほとんど真っ暗でした。

 宇出津や小木は入江の湾になった港ですが、松波の港は河口に人工的に作られたような港です。国道や町の中心部からも外れています。夕涼みの時期だったので長い時間、外にいることも出来ましたが、周囲の民家らしい数も思ったより少なく、さらに離れていました。

 真冬の1月の夜に、この松波の港の岸壁で自殺する車の目撃者がいたとは、いよいよ考えられなくなりました。可能性があるとすれば、漁協の建物に宿泊の守衛がいて、車が敷地に入ってきたので見ていたというぐらいでしょうか。宇出津の漁協でも守衛というのはいないようには思います。

 蛸島のTYさんが松波の港で自殺をした時刻が気になって図書館で記事を探したのですが、見つけることは出来ませんでした。夜だと聞いたし新聞でもそう読んだという記憶はあるのですが、正確な時間を知りたいと思いました。1月だと17時をすぎれば夜に近い暗さのはずです。

 蛸島のTYさんの自殺では1億数千万円の保険金が出たとも聞きました。被告訴人の一人と関わりのある人物で、能登とは関係のない人かと思います。平成13年頃に聞いた話で、数千万円の数字は忘れてしまったのですが、1億円以上で2億円ではなかったと思います。

 平成15,16年ころ、羽咋市の図書館では同じ北國新聞の縮小版でしたが、蛸島のTYさんの自殺の記事を見たような記憶が残っています。平成9年の春ころは、宇出津の図書館でも見ている記憶がありますが、当時は宇出津小学校の近くの公民館に図書館があり、縮小版は2階の倉庫に置いてありました。

 コンセールのとに移転した新しい図書館でいくら探しても蛸島のTYさんの自殺の記事が見つからなかったので、自分の記憶にも少し不安が出てきたのですが、昨年の10月、石川県内のある場所に魚釣りに行った時、蛸島でTYさんと同級生だったという人と話すことがあり、自殺のことは確認しました。

 蛸島でTYさんと被告訴人OKNの間にはいろいろと接点があるのですが、ここで踏み込んだことを書くことは躊躇をおぼえます。

 ただ、今日、蛸島のTYさんの自殺のことを久しぶりに思い返して気がついたことは、平成1年の1月の時点で被告訴人OKNは金沢で生活していたということです。

 誰から聞いたのかはっきりと思い出せないのがもどかしくもあるのですが、蛸島のTYさんの自殺のあと、被告訴人OKNは嘆き悲しみ怒り、とても自殺のことを話題に出来る雰囲気ではなく、なぜ自殺したのかまったく知ることも出来なかったという話でした。地元では保険の話も聞いたことがないです。

 生命保険のことも私には全く不確実な情報ですが、警察や検察では調べている可能性があります。少なくとも加藤検事は蛸島のTYさんの自殺の話を出した時、興奮した異様とも言える反応を私に見せていました。平成6年の1月頃のことかと思います。

 加藤検事のフルネームは加藤俊治だったように思います。上告審の斐川雅之弁護士から差し入れのあった被告訴人松平日出男、被告訴人池田宏美、被告訴人梅野博之、被告訴人安田繁克、被告訴人多田敏明らの供述調書を読んで、殺人未遂で、確か告発したときの庁舎での取り調べの時のことです。

 そのあたりも記憶がまだ新しかった「参考資料扱いにした過去の告訴状の下書き」で、繰り返し書いていることかと思いますし、関連やつながりをなぞる以外は、重複したことを書かないように心がけたいとも一応は考えているのです。ただ、現在の認識を示すことも意味があると思います。

 時刻は5月3日11時33分になっています。感覚的な記憶ですが、一昨日の昼過ぎから中断をしていて、だいたい丸2日ぶりの再開になるかと思います。

 中断した日の昼過ぎには、Aコープ能都店への買い物のついでに宇出津の図書館に立ち寄り、4月28日の新聞記事の撮影と、数日前に言及した北國新聞縮小版の館内の状況を撮影してきました。

 昨日の5月2日は午後に、能登町小木の「とも旗祭り」の見物とそのついでに小木港でワームでのアジングの魚釣りをしてきました。家に戻ったのは20時15分ぐらいだったように思います。

 この間も、深澤諭史弁護士と小倉秀夫弁護士のTwitterには、人間性や社会に対する挑戦的と感じるツイートが繰り返されています。思えばこれまでも彼らにはずいぶんと振り回されて、時間を無駄にしてきたと噛みしめるような気持ちになりました。

 おまけに、とりわけ深澤諭史弁護士に対しては、彼が想定、期待する少数者への宣伝効果に、一役かわされているだけなのか、という暗澹たる思いになり、それらしい物語が夢の中にまで出てきました。

 記録は続けてきたものの、後回しにして、どこにどうなったのかも把握できなくなったツイートも山積されます。もとよりあれもこれもと取り沙汰すわけにもいかないのですが、強烈な問題性をこれでもかと感じさせてくれる深澤諭史弁護士@fukazawasです。

 深澤諭史弁護士や小倉秀夫弁護士、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)、刑裁サイ太、うの字らのツイートを見ていると、能登警察署の大家警部補に言われた「神様の目線でふざけたやつ」という言葉を重く重く受け止めて、考えています。

 これからはその場その場での対応を心がけたいとも思いました。この項目は、若杉幸平弁護士がメインですが、本文が長くなりすぎているので、切り分けた記述をしたいと思います。

2016-05-03 火曜日 11:55 << [[ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]<<

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 内容の方を確認している時間はないですが、まとまった記載となっています。

 金沢弁護士会への人権救済の申立ては、平成6年の6月頃になりますが、被告発人若杉幸平弁護士が被告発人岡田進弁護士や被告発人木梨松嗣弁護士に聞き取りをした事実も不明で確認は難しいと思います。

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