平成3年11月13日、古河から名古屋というあり得ない運行の記録、しかも岡崎インター

証拠資料

業務日報

/Users/a66/mac-bin/kk2023jpg/074_業務日報/074_業務日報-075.jpg

高速道路・有料道路の領収書

/Users/a66/mac-bin/kk2023jpg/074_業務日報/074_業務日報-076.jpg

給油の領収書

/Users/a66/mac-bin/kk2023jpg/074_業務日報/074_業務日報-077.jpg

写真として撮影した業務日報、青色のボールペンであることがはっきり確認出来る

/Volumes/kk/kk2023part2/2023-05-28_Lensで作成した業務日報の写真/2023-05-28_Lensで作成した業務日報の写真_00084.jpg

 Macbookのファイルのパスに違いがありますが、外付けのSSDになります。この項目は家に戻ってからの作成になりますが、他は図書館や閉館後のコンセールのと内での作成、投稿になります。

 iphoneでlensというMicrosoftのアプリを使っています。先日、ずいぶん久しぶりに使ったのですが、前に思っていた以上の使いやすさと精度を感じました。

 なるべく単色の上に書面を置く必要があるのですが、背景になる部分で自動でカットしてくれるアプリです。前は古い写真の撮影に使ってきたように思いますが、書面でも精度の高さを感じました。


証拠説明

前後の運行状況

/Users/a66/photos/work/sc/スクリーンショット 2023-06-03 13.15.01.jpg

茨城県北相馬郡となっているのは国道6号線沿いの日清食品

日清食品㈱ 関東工場 - Google マップ https://www.google.com/maps/place/%E6%97%A5%E6%B8%85%E9%A3%9F%E5%93%81%E3%88%B1+%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%B7%A5%E5%A0%B4/@35.9099094,140.0772225,1694m/data=!3m1!1e3!4m15!1m8!3m7!1s0x60227b3875988859:0xded059d100f6b430!2z6Iyo5Z-O55yM5YyX55u46aas6YOh5Yip5qC555S6!3b1!8m2!3d35.8577836!4d140.1391657!16zL20vMDNrcDRn!3m5!1s0x60227730272db57b:0x346c13a8aa1f3fbd!8m2!3d35.9172739!4d140.0921186!16s%2Fg%2F1td7t94z?entry=ttu

 住所が、「〒300-1535 茨城県取手市清水667−1」となっています。国道6号線を福島県方面に向かい左手にあるのは記憶通りですが、千葉県の県境から茨城県に入ってすぐだったような記憶です。

 手前に川に架かる橋か陸橋があったような記憶もあり、左手の日清食品の工場のあたりは緩い右カーブになっていて、運転席からみると正面に建物が見えたような気がします。ライスセンターのような高さのある建物でした。

 ストリートビューに見える現在の工場とは建物が明らかに違っています。歩いて行ける距離にセブンイレブンのコンビニがあったはずですが、千葉県側の国道6号線沿いだったと思います。

12月に被告発人浜口卓也と一緒に行った日清食品


 2,3日前、平成5年11月28日付の手書きの書面の5に目を通したのですが、12月に被告発人浜口卓也と一緒に行ったのは2回目という記述がありました。

```
- (12/27/669647):ツイート (@kk_hirono) 2019-01-05 15:51:51
> カップ麺の工場で一番大きく思ったのは、国道6号線で東京都からだったと思いますが、茨城県に入ってすぐ左手にある日清食品の工場でした。工場ではなく倉庫だったのかもしれません。ちょうど県境ということもあり目立つ建物だったのですが、一度だけ仕事で行くことがありました。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1081443025409044480

- (13/27/669647):ツイート (@kk_hirono) 2019-01-05 15:56:56
> 平成3年の11月か、あるいは12月に入ってからだったと思います。被告訴人HTNと大型車2台での運行でした。卸先というか行き先が同じ日清食品だったのですが、私は富山県の八尾という辺りで荷物を積みました。八尾というのは道路標識などでよく見かける地名だったと思います。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1081444376331472902
```

- 奉納\危険生物・弁護士脳汚染除去装置\金沢地方検察庁御中_2020: H3DB_search_”日清食品”_(該当件数:27/データベース登録数:669,647) _2023-06-03_133738の記録 https://kk2020-09.blogspot.com/2023/06/h3dbsearch27669647-2023-06-03133738.html

 2019年1月5日のツイートにも1回とありますが、私は長い間、日清食品に荷物を運んだのは1回だけと思っていました。この運行は日清食品が卸先だったことも印象的で記憶に焼き付いているのですが、行き荷の積み込み場所もけっこう強く印象に残る場所でした。

 過去のツイートに婦負郡八尾町とありましたが、「ねいぐん」とは読めませんでした。

 調べて確認をしましたが、この風の盆で八尾町という地名は前から知っていたように思います。山間で他とは違った印象に残る風景があったのですが、被告発人浜口卓也と別れて荷物を積みに行ったときの印象だけが強く残っていて、それでその時初めに1回だけ行ったように思っていました。

 平成5年11月28日付の手書きの書面の5では、被告発人浜口卓也と関越自動車道の越後川口サービスエリアで待ち合わせたという記述がありました。別れたのが富山インターだったので、ずいぶん先のサービスエリアを待ち合わせ場所にしていたことになります。

国道50号線沿いの足利給油所

 別の項目として作成しておきたいと思いますが、理由があって、前橋方面から水戸方面に向かい、足利市の給油所で給油をすることは稀でした。

 給油の領収書は11月12日で22時28分となっています。

 行きに足利市で給油をしているということは、古河市内で国道4号線を横切っていることになるかと思います。

 平成3年12月当時とは、国道のルートが異なっている可能性もあり、場所の指摘もしづらいのですが、被告発人浜口卓也と一緒に行ったときは、行きも帰りも常磐自動車道の谷和原インターの前を通った記憶があります。

 この谷和原インターは、金沢市場輸送の東京ストアの定期便の行き荷のアルミサッシの卸先が、埼玉県桶川市から茨城県水海道市にの配送センターに移って、帰り荷の東京の神田の市場に向かうとき、決まって使っていたインターで、ある程度の土地勘もあったかと思います。

 なお、この神田の青果市場は、平成2年頃には新しく開設した大田市場に移転しました。移転してからもしばらくは大田市場に東京ストアの青果の荷物を積みに行っていたのですが、その後、積込み先が板橋市場と長野県上田市の辺りの高原野菜の出荷場にかわり、東京ストアの荷下ろし先も金沢中央卸売市場と金石街道の近くの小屋のような倉庫から松任市の旭工場団地の新しい冷蔵庫のような建物に変わりました。

 この11月12日に富山から茨城県北相馬郡に行ったという運行も実際あり得ないと思っていたのですが、先述の通り、平成5年11月28日付の手書きの書面の5に2回目という記述があり、記憶違いではなさそうでした。

 一緒に金沢を出発した被告発人浜口卓也と富山インターで別れたのも印象的な状況で、それがなければさほど記憶に残ることはなかったかもしれません。

 前掲の「日清食品」がキーワードのまとめ記事にはありましたが、東京から石巻に向かったときに、とても印象的だった国道6号線沿いの日清食品で、そこに荷物を運ぶというのは不思議な巡り合わせのようにも思えていました。

古河から名古屋への運行

 記憶にあるのは3月30日だけです。これが市場急配センターでの最後の運行になりましたが、当日、現地でいきなり名古屋行きを頼まれた記憶です。正確には浜松と名古屋の2カ所おろしでした。

```
- (6/12/669647):ツイート (@kk_hirono) 2016-11-30 19:04:04
> 古河市の山三青果の仕事で北陸便以外を頼まれたのは、その時が初めてだったと思います。現地でいきなり名古屋に走ってくれと頼まれたのですが、会社に電話をして了解をとると、この運行から金沢に戻ったら「あがり」にしてくれるよう頼みました。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/803902444748931072

- (7/12/669647):ツイート (@kk_hirono) 2018-08-08 19:35:35
> これと似たコースは、平成4年の3月の終わりにもありました。市場急配センターでの最後の運行となった仕事で、茨城県古河市の青果市場から青果を積んで、浜松、名古屋という市場の2か所降ろしでした。名古屋からはアサヒビールを積んで翌日小松市で降ろしました。事件当日4月1日のことです。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1027141159582228481

- (8/12/669647):ツイート (@kk_hirono) 2018-08-29 21:35:35
> 東北方面から東京都内を通過して鮮魚を運んだのは、その時だけだったと思います。石巻か塩釜の東北陸運からは臨時で一度、築地に鮮魚の定期便を運んだことがことがありました。鮮魚ではなく青果物でしたが、茨城県古河市から青果を積んで、浜松、名古屋と向かったのが平成4年の最後の運行です。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1034781585630003200

- (9/12/669647):ツイート (@kk_hirono) 2019-09-28 11:12:12
> 愛知県にいたのは平成4年3月31日になりますが、その前日の3月30日、私は当時市場急配センターの仕事のメインだった茨城県古河市の山三青果から青果物を積み込んで、静岡県浜松市と名古屋市内の市場に向かいました。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1177768120196272128

- (10/12/669647):ツイート (@kk_hirono) 2020-06-03 16:09:09
> 3月29日の日曜日は,完全に休みだったと思われるのですが,午後から夜の行動が思い出せません。30日の月曜日に関東行きの荷物を積んで出発しているはずです。31日は昼に古河市の山三青果にいて,急遽その場で,北陸便ではなく,浜松と名古屋に行くよう頼まれたのです。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1268077349389524993

- (11/12/669647):ツイート (@kk_hirono) 2020-06-03 16:11:11
> ちょっと間違ったことを書いたようです。逆算すると30日に古河市の山三青果にいたことになります。翌日の31日の未明に名古屋の市場で荷物を降ろし終わり,それからレンガを積むと指示を受けていた碧南市に向かいました。
ツイートのURL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1268077936097103872

- (12/12/669647):ツイート (@hirono_hideki) 2021-08-29 08:32:41
> 業務日報_平成03年11月12日〜14日 富山〜茨城県北相馬郡(名鉄、カップ)・古河〜名古屋(山三青果、青果) 謎の運行.pdf - Google ドライブ https://t.co/s6CnrFsgih
ツイートのURL: https://twitter.com/hirono_hideki/status/1431761686625587201
```

- 奉納\危険生物・弁護士脳汚染除去装置\金沢地方検察庁御中_2020: H3DB_search_”古河.*名古屋”_(該当件数:12/データベース登録数:669,647) _2023-06-03_153816の記録 https://kk2020-09.blogspot.com/2023/06/h3dbsearch12669647-2023-06-03153816.html

  2021年8月29日のツイートにも「謎の運行」としていたのは意外な発見になります。当時何に集中していたのか記憶にはないですが、掘り下げて調べることはなかったようです。

東北道から首都高速で東名高速出た、記憶にある運行

 平成3年の秋によくあった運行が東京の大田市場で馬鈴薯をおろし、古河に向かうという運行で首都高速のどのインターから乗ったのか記憶にないですが、降りたのは東北自動車道の加須インターでした。

 そのわずか数年前には首都高速を降りた後、赤羽という大きな交差点を左折して、埼玉県川口市から東北自動車道に乗ったという記憶ですが、首都高速から東北自動車道は繋がっていたはずです。

 金沢市場輸送では福岡の長浜の魚市場から鮮魚で東京に行く運行が多く、他にも九州から東京方面というのは割とよくある運行でした。一方でその逆というのは少なく、関越トンネルが開通する前は東京から東名高速で金沢に戻ることはありましたが、首都高速で都内を通過するのは極めて稀でした。

 印象的によく憶えているのは、昭和62年か63年のたぶんお盆休みの前の運行で、茨城県北茨城市の大津港から当時珍しかった冷凍のサンマを名古屋、金沢に運んだことがありました。

 港から積んだのではなく町中の広い空き地のような場所で冷凍のサンマを積み込んだのですが、同じ頃に2,3回やった仕事で、他は金沢でしたが、その時も現地でいきなり名古屋経由になったという記憶です。

 妻子を同乗させていて、昭和63年1月に生まれた次男も乗せていたような記憶なのですが、この昭和63年のお盆休みの前の運行は、よりはっきりした記憶で、当日に福岡の長浜の魚市場から積み込んだ定期便の鮮魚の荷物を、日付が変わる前に荷下ろしをして神戸から帰省した被告発人大網健二と落ち合って、一緒に八日市のアパートに行っています。

 北茨城市を出発するとき、金沢の競りは間に合わなくてかまわないと言われたことが印象的で、お盆休みが始まった頃で高速道路も通行量が多かったですが、金沢も競りに間に合いました。午前3時とも午前3時半とも聞いて、はっきりしたことがわからなかったですが、全国で金沢と他の一カ所の市場だけが一番早い競りの開始時刻だと聞いていました。もう一カ所の市場がどこなのかは聞くことがなかったと思います。

 北茨城市からは東北自動車道ではく、常磐自動車道だったと思います。さきほどの谷和原インターも通過していたはずですが、谷和原インターから神田の青果市場に向かうときは、国道4号線沿いになる上野駅の手前で、高速道路からは降りていました。首都高速の降り口だったのかは憶えていないですが、首都高速の入谷インターだったような気はします。

石巻か塩釜から東京の築地市場に鮮魚を運んだことは一度ありました。東北陸運の仕事で、いずれも現地でいきなり頼まれたという記憶ですが、他に石巻から福島県郡山市、石巻から新潟市という運行がありました。

 郡山市の仕事は東北陸運ではなく、松川運輸だったかもしれません。昭和59年には始まっていた福岡の定期便で金沢市場輸送と一日交代だったのが同じ金沢のウロコ運送で、そのウロコ運送は松川運輸で東北からの定期便をやっていました。

 石巻から新潟に行かされたのは、とても不本意な仕事でしたが、本当は河野さんがやることになって仕事で、行方をくらまし連絡を絶ったような話でした。先日、横転していた金沢市場輸送の4トン保冷車の運転手を小野さんとしていたかと思いますが、平成5年11月28日付の手書きの書面では尾野さんとなっていました。

 金沢市場輸送と市場急配センターの大きな違いになりますが、金沢市場輸送では黒板に全部の長距離運転手の運行状況がチョークで書かれていました。別の黒板には、荷物と荷主の名前が書かれていたような記憶もあります。

 このように名古屋方面から来て東北方面に首都高速を通過することは割合多かったのですが(中西運輸商でもありました)、東北方面から来て名古屋方面に首都高速を通過することは極めて稀で、11月13日にもやっていれば記憶に残っているはずと思います。

岡崎インターに降りて名古屋の市場に行ったという大きな謎

 11月14日付になっていますが、岡崎インターの領収書があります。9200円という料金は東京からと全日本道路で確認しました。

 東名高速の岡崎インターというのは乗り降りした記憶がなく、国道1号線でも通過した記憶がはっきりとは残っていないぐらいです。昭和58年の春に小林運送の長距離助手の仕事をしていた頃は、名古屋市方面から豊橋方面に向かうのに通行することはあったと思います。

 豊川インターで東名高速を降りて豊橋に向かった記憶もありますが、国道1号線が多かったように思えます。

 別に名古屋北部市場がありましたが、名古屋市内ではなく小牧市になっていた記憶です。名古屋の市場は1つしか知らず、昭和57年の秋頃には場所を知っていました。

 3日ほど前にGoogleマップで岡崎インターの場所を確認したのですが、国道1号線から近かったような記憶で、国道1号線が名古屋インターの前の広い道路とは違っていることを確認したのですが、なんとなく名古屋インターの前の道路を国道1号線でその先に岡崎市があるようなイメージでいました。

 小林運送の仕事は大半が愛知県で、それも豊橋が多かったと記憶にあります。豊橋ではなかったように思いますが、愛知県内から花を野菜の箱の上に並べて運んでいた記憶があります。

 昭和58年なので当時はまだウィング車はなかったと思います。一台、新車の箱車があったことは、はっきり記憶にありますが、シートをかぶせる平ボディ車が多かったように思います。青果の箱の上に花を並べるのは平ボディ車でした。

 その後、割と金沢中央卸売市場に近い場所に移転した花木市場ですが、当時は金沢中央卸売市場から離れた金沢東警察署のすぐ近くにありました。

 青果の仕事では他にほとんど経験していないのですが、小林運送は青果で出荷場の積込み先が多い仕事でした。名古屋市に近い津島市や稲沢市にもよく行った記憶があります。

数が少ない東名高速の名古屋インターを利用した記憶

 はっきり記憶にあるのは前出の茨城県北茨城市から冷凍のサンマを名古屋の市場に運んだとき、それと3月30日の深夜、たぶん日付が変わっていて3月31日の未明になると思いますが、これも前出の古河から浜松と名古屋の市場の2カ所おろしになります。

 他に、余りはっきりしない記憶としては、名古屋インターの近くの三越デパートに展示館の荷物を運んだことがありました。金沢市場輸送で7559号に乗務していたときと思います。

 名古屋インターから名古屋市内に向かうと、すぐ左手に東山動物園があり、その少し先に大きな三越デパートが同じ左手にあったという記憶です。とても目立つデパートの建物でしたが、そこに展示会の荷物を運んだのもいくらか運命的な巡り合わせを感じていました。

 展示会の引き上げではなく金沢から持って行った仕事のように思うのですが、午前か午後かは記憶にないものの明るい時間だったことは確かです。名古屋インターに降りて向かったように思うのですが、金沢市場輸送では高速道路の使用がなかなか認められない時期だったと思います。

昭和57年の9月から12月、名古屋市港区に住んでいたとき、仕事でよく行った名古屋インター付近

 名古屋市港区のバイク店でしたが、1つだけ東名高速の名古屋インターの近くに店舗がありました。その店舗も出来たばかりと聞き、引越の手伝いをして「悪魔の飽食」という本をもらったことも印象的によく憶えています。

 片側何車線だったのか記憶にはないですが、全国的にもかなり広い道路でした。名古屋インターの手前から上り坂になっていましたが、インターを越えたあたりが頂上になったような感じで、ちょうどその左手に小高い丘のような場所があって、一階に店舗が3つか4つ並ぶテナントで、2階はアパートの部屋のようになっていました。新しい建物でしたが、鉄骨や鉄筋のビルにはなっていなかったという記憶です。

 大きな橋を渡り、すぐに右手に熱田神宮の長い塀がある道路を通って、名古屋インターの先の名東店に向かったという記憶ですが、かなり複雑でややこしい道を通っていました。途中には大学が近くにあり、学生が多くいそうな場所もありました。

愛知県名古屋市名東区 から 愛知県名古屋市港区 - Google マップ https://www.google.com/maps/dir/%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%B8%82%E5%90%8D%E6%9D%B1%E5%8C%BA/%E7%86%B1%E7%94%B0%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E3%80%81%E3%80%92456-8585+%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%B8%82%E7%86%B1%E7%94%B0%E5%8C%BA%E7%A5%9E%E5%AE%AE%EF%BC%91%E4%B8%81%E7%9B%AE%EF%BC%91%E2%88%92%EF%BC%91/%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%B8%82%E6%B8%AF%E5%8C%BA/@35.1397132,136.8570857,12.69z/data=!4m20!4m19!1m5!1m1!1s0x600365697db0a3df:0xd9e35ad7cb4c059f!2m2!1d137.0096682!2d35.1741947!1m5!1m1!1s0x60037a1b9ee1a6dd:0xaa951631c838e6bb!2m2!1d136.9086948!2d35.1273579!1m5!1m1!1s0x60037859a82fda89:0x60dfe6d3244d2d4!2m2!1d136.8543525!2d35.0878966!3e0?entry=ttu

 熱田神宮の周辺では見当たらなかった白鳥橋を上記の経路検索で見つけました。堀川という川の名前は知らなかった気がしますが、大きな橋で、3月31日の早朝に近い時間帯に、この白鳥橋を数年ぶりに渡って、知多半島の碧南市に向かった記憶があります。名古屋の市場からです。

昭和57年に始まる名古屋市内の市場の思い出

 住所が、〒456-0072 愛知県名古屋市熱田区川並町2−22となっていて、熱田区というのは意外に感じましたが、Googleマップの「名古屋 市場」ではそれらしい候補が見当たらず、「名古屋市 六番町」の検索から見つけました。

 名古屋市内には六番町という大きな交差点があって、その辺りまでは歩いて行く行動範囲でしたが、たぶん一度だけ、その六番町の交差点の先、右手にある名古屋の市場まで行ったことがあり、そこに大きな市場があると知ったことになります。

 金沢中央卸売市場の場所を知ったのは、昭和58年の春に小林運送の長距離助手の仕事を始めてからになるかもしれないので、地元宇出津の魚市場以外に、初めて場所を知った市場になるのかもしれません。

 名古屋では一度も会話をしたことがなかったですが、隣の部屋に住んでいる年配の男性が、名古屋の市場で働いていると聞いたこともありました。

 自分の運転で名古屋の市場に行ったのは、昭和59年の金沢港のスルメイカのシーズンになると思います。小林運送でも行ったことがあるかもしれないですが、はっきりした記憶はありません。

 ただ、平成3年の9月から市場急配センターで多かった馬鈴薯の積込みは、昭和59年当時、バナナセンターと呼ばれていた金沢中央卸売市場の裏門の道路を挟んだほぼ向かい側で、その奥に倉庫のようなものがあって、その前でやっていたのですが、小林運送にいるときも2,3回ぐらいは同じように馬鈴薯を積み込んだ記憶のある懐かしい場所でした。

 馬鈴薯としていますが、メークインや玉ねぎも一緒に積み込んでいました。北海道から船で金沢港に運ばれたものを倉庫に保存していると聞いたことがあります。

 ほとんどの市場は青果と鮮魚の売り場が同じ敷地内にありました。例外として記憶にあるのは、福岡市と新潟市になります。定期便やフリーと呼ばれた大阪、東京方面への運行とは別に、富山県の氷見市の魚市場から運んだシイラ、それと珠洲市の蛸島漁港からイワシを運んだことがあった長浜の魚市場ですが、青果の市場は別にあると聞きながら一度も行くことのなかった福岡市の青果市場になります。

 新潟市の場合は、金沢から筍を青果市場に運んだのですが、昭和59年に丸中水産の定期便のあった魚市場とは別の場所でした。

 名古屋の市場は、鮮魚で金沢港からのスルメイカが多かったですが、日本で一番、スルメイカの消費量が多いとも聞いたことがありました。人口で言えば東京が多そうですが、疑問に思いながら聞いた話は、それだけに印象に残っています。

 東京の築地市場と同じく金沢からスイカを運んだような記憶もある名古屋の市場です。九州方面からの青果物は今のところ記憶にないのですが、自分の運転で馬鈴薯を運ぶようになったのは平成3年の9月以降と思われます。

 同じ馬鈴薯の仕事でも名古屋北部市場よりは行くことが少なかったような気がする名古屋市内の市場になります。いずれも馬鈴薯を荷下ろししてすぐに金沢に戻る運行でしたが、例外は北部市場で被告発人多田敏明を同行させ、岐阜県大垣市から石灰を積んできた運行でした。

 10月6日の6日の日曜日の朝の出発で、被告発人安田敏の運行に同乗したときも名古屋北部市場だったように思います。高速道路の領収書が小牧インターとなっているのは、ほとんどが名古屋北部市場に馬鈴薯を運んだ運行になると思います。

 3日ほど前に6割ほどざっと目を通した平成5年11月28日付の手書きの書面の5ですが、数日前に取り上げていた中央自動車道の多治見インターではなく、小牧インターに降りて岐阜県可児市に向かったようなことが具体的な状況説明の記述となっていました。

 2回目の茨城県北相馬郡への運行と同じように、違和感は感じたのですが、平成5年秋という比較的早い段階の記述になるので、信憑性は高いと、客観的に判断せざるをえません。

 名古屋港に近いと思っていた白鳥橋ですが、堀川に橋が見当たらず、さきほど白鳥橋の近くで見かけたいた白鳥公園で検索しました。意外に堀川の上流ですが、国道1号線で、この国道1号線が六番町の交差点に繋がっているのはかなり意外です。

 私の記憶では港区の東海通から熱田神宮に向かったところに白鳥橋がありました。新しい道路が出来たのかもしれませんが、記憶の位置関係とはかなり相違があります。3月31日に碧南市に向かったときも六番町の交差点の先で、東海通の交差点を左折しています。現在では六番町交差点から東海通の交差点の間は、都市高速が通っているようです。

 六番町の交差点の近くにはミスタードーナツと吉野家の牛丼の店舗があって、夜、そこによく歩いて行っていました。

 東海通の交差点からは逆方向の名古屋港の方にも歩いて行くことがありましたが、たぶん国道23号線の高架の下辺りに、左手になりますがコンビニのような酒店があり、24時間営業のようでしたが、名古屋市内でも他に見たことのない珍しい店舗でした。

 昭和59年には東京周辺や福島県内の国道4号線沿いにセブンイレブンの店舗があり、コンビニという言葉も知られるようになったいたような記憶ですが、昭和57年に名古屋市でコンビニと呼ばれる店舗を見た記憶はありません。

 その場の気まぐれで岡崎インターに降りて名古屋市内の市場に向かったという可能性も完全には否定できませんが、それ以前に、山三青果の仕事で古河から名古屋に向かう運行を、平成4年3月30日以前にやっていたというのが考えられない運行になります。

平成9年当時からあった業務日報の筆跡の疑問の1つ

 今回余り気になっていないのが、業務日報の筆跡ですが、裁判での筆跡鑑定というのも30年近く目にしていない気がします。平成の初め頃までは新聞やテレビでも筆跡鑑定がよく取り上げられ、裁判の帰趨を決める重要な証拠となっていたという印象が今でも強く残っています。

 赤色ほどではないですが青色に近い紺色のようなボールペンを使っているのも気になるところです。前にも書きましたが、市場急配センターで業務日報を書いていた場面の記憶はなく、1階だったのか2階だったのかも判然としませんが、後の方になると1階の一つだけある机の上に、業務日報を入れる箱があったような気はします。

 2階にいる事務員の被告発人池田宏美や被害者安藤文さんに直接、業務日報を渡していたという記憶もないですが、業務日報で重要だったのは受け取り伝票になります。

 金沢市場輸送では、その受取伝票の内容に従い、積み荷の内容を具体的に記載していたような記憶もかすかにあるのですが、それが市場急配センターでも習慣づいていたと思われるところ、いずれも簡素な記載となっているのも気になりました。

 業務日報に茨城県北相馬郡となっているのも送り状の住所の引き写しとも考えられますが、日清食品は、茨城県取手市という印象が絶対的に強かったとも思えるところで、その辺りも気になっています。

 業務日報の広野という名前の部分が特に、誰かが自分の筆跡に似せて作り直しをしたような印象があるのですが、似せたにしては似ていない印象があって、それもなぜなのかと気になっています。古河の「古」という感じも、当時の自分としてはあり得ないと思えるような筆跡と書き順になっています。平成4年に金沢刑務所の拘置所での生活が始まって以降、ペン習字の勉強をすることもあったのですが、それで初めて知ったような書き順となっている気がします。


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