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被告訴人KYNに頼まれて、バイクで彼を金沢に連れてきた時のことでもあったと記憶しており、彼の頼みがなければ取り消しになることもなかったとは思いますが、ずいぶんと無謀な運転もやっていたので、命を落としていた可能性もあるかとは後々考えていました。

自動二輪の免許を失ったのも痛かったですが、普通免許の取得も半年以上遅れてしましました。ほとんどの同級生は昭和58年の春前には普通免許を取得していたと思います。昭和58年の1月頃の時点で、被告訴人大網健二は家の自動車工場にあるポンコツのコロナを乗り回し、私もそれに同乗していました。

バイクも車もなかったので、特に金沢市での行動は他の友人より大幅に制限されていました。同乗で行動することが多かったのもそのためかと思います。

同じ昭和58年の春とは言っても、小林運送の長距離助手の仕事もやめたあとで、初夏に近い6月頃の時期だったとも思いますが、畝田のTUのアパートにいることが多かったと記憶しています。

金沢市での藤江は北や南があって広かったですが、畝田も西などがあってけっこう範囲が広かったと思います。TUのアパートは畝田でも外れのほうで桂町にも近かったと思います。周りにほとんど店がないのも不便でした。店があってもお金がなかったのか、周囲で買い物をした記憶もほとんどありません。

TUのアパートと聞いていましたが、TU本人の姿を見ることは本当に少なかったと記憶にあります。神野のKMが自分のアパートのように使っているという感じでした。TU本人はなにか出張の多い仕事をしていると聞いていました。

石川県金沢市畝田中2丁目2 - Google マップ http://bit.ly/1otgNHL

Googleマップで調べたところTUのアパートがあったのは上記の辺になるのかと思います。アパートの裏には空き地のようなトラックの駐車場があり、その前の道路の向こう側は広い田んぼが広がっていたかと思います。

トラックの駐車場というのは中西水産輸送のものでしたが、宇出津でよく見る保冷車であったのも、印象に残っていました。中西運輸商に入社した最初のころもちょっとだけその駐車場を使うことがありました。

出張が多かったというTUの仕事ですが、一時期、さきほどのHMや真脇のSも同じ会社で同じ仕事をしていると聞いたことがあったかもしれません。4トン車というトラックの話も聞いたように思いますが、運送会社とは聞かなかったです。

なお、これまで昭和58年の秋頃の被告訴人安田敏のアパートのことを観音堂のアパートと書いてきましたが、性格な住所は畝田であった可能性もあるかと思います。金石街道にまたがって畝田は広い町名でした。

畝田から金石に近いところに寺中町がありましたが、これは範囲も狭いという感じでした。中西運輸商の事務所の住所はその金沢市寺中町になっていましたが、堂野さんが住んでいると聞いたのも寺中町だったと思います。一度その辺りまで頼まれて車で送り届けたこともありました。

言われた場所に車を止めると車から降りていったので、アパートなのか家なのかもわからなかったですが、その辺りに住んでいるという話は他にもしていたように思います。

TUは真面目に仕事をしているという感じでしたが、町野高校時代の友だち関係で、輪島の暴走族の集団暴走にも参加することがあるとか、他の同級生も参加したとか神野のKMに話を聞くことがありました。そこには私より一つ年上のHSさんの名前も具体的に出ていたと記憶にあります。

その輪島の暴走族のリーダー格がKTであることは、これまでに何度か書いてきたと思います。彼も私よりは1つ年上と聞いていましたが、高校を出たのか出ていないのか、細かいことは知らないか、聞いていても忘れてしまいました。

輪島の暴走族と言っても、海士町とは別で、KT自身も海士町のことをひどく恐れている様子でしたが、金沢で活動する輪島の暴走族も輪島に帰ると海士町の連中には頭があがらないだけではなく、てひどい扱いを受けているとも聞きました。

ずっとあとになって輪島のMYから聞いた話ではなかったかと思いますが、海士町の男が、輪島の暴走族らを集めて、その場に全裸にさせ、着ていた下着で車の洗車をさせることもあったと聞きました。

輪島の暴走族のリーダー格であったKTですが、戦国武将のような変わった名前だったので未だに名前は憶えています。

これもまだ私が内心で予定しながら書いていないと思いますが、鶴来のHとも付き合いというか交流があったと聞きました。何かの話題でKTのことが出てきた時、最近一緒に飲みに行ったという話もしていました。

鶴来のHに関しては輪島のMYとも以前からの知り合いで付き合いもあったような感じでした。もう一人鶴来の男を加えた4人で、内灘に海水浴に行ったこともありました。

もう一人の鶴来の男はいくつか年下だったと思います。あるいは19歳という少年であったかもしれないです。本書で既に書いていると思いますが、高田が金沢市場輸送の事務所で父親が死んだといきなり伝えた相手です。

何の前置きもなく、いきなり父親が死んだと告げたので、まったく心の準備もなく聞いた方もさぞや驚いたのではと思ったのが印象的でした。

鶴来のHの方は、全国的にもありふれた名前なので未だに名前は憶えていますが、仮名にしておきます。覚えているのは上の名前だけですが、下の方もあるいはですが、勝であったかもしれません。年は私と一緒かあるいは1つ年下だったと思います。

金沢市場輸送で市内配達をしていましたが、入社してきたのは輪島のMYとほとんど同じ頃で、昭和61年の9月ころだったと思います。MYはサンテラスで恥をかいたということで、すぐに長距離に移りましたが、わりと長い間、4トン車に乗務していたとも思います。

ずいぶん前のことなので正確に思い出すことは出来ませんが、MYが4トン車に乗務していたのも半年ぐらいであったかもしれません。あるいは1年ぐらいだったかもしれませんが、鶴来のHが会社にいたのも同じぐらいの期間で、いつの間にかいなくなっていたという感じです。

山中温泉のキャッスルバーデンホテルでの慰安会にも鶴来のHの姿はあったような気もします。ややこしい名前の温泉ホテルですが、当時のテレビCMでは、山乃湯ともなっていたという記憶もあります。

その慰安会には七尾のなんとかの姿もありました。名前を覚えているつもりでしたが、思い出せなくなっているので仮名のイニシャルもつかえません。佐川急便で市内配達をしていたという男で、年は私の1つ年上でした。

普段から威勢のよい大きいことも言うような男でしたが、他の宿泊客とケンカになった時、涙を流しながら縮こまっていた姿が印象に残っています。逆に肝が座って堂々とみえたのが、◯西さんの息子と、仲裁のような行動に出た寺川さんでした。

既に書いてある部分もあると思っていますが、平成3年春のストライキの時、被告訴人東渡好信らが集まっていたのは、その時仮名にした寺川さんのアパートでした。はっきりした場所はわからなかったですが、同じ頃に被告訴人浜口卓也が住んでいたアパートともかなり近かったと思います。

被告訴人浜口卓也のそのアパートに関しては供述調書の住所でも金沢市南新保になっていたと思います。金沢市内には新保という町名もありましたが、金沢西インターにも近いまったく別の場所でした。

輪島のMYが初めにYAと輪島崎のOTが紹介で金沢市場輸送に入社させた時に、たまたま出会った場所がその新保あたりのアパートと話していたという記憶もあります。満足にご飯も食べれない状態になっていたので、誘ったとも話していたと思います。

OTの方はMYと同級生と聞いていましたが、どちらも私の学年で2つ上と聞いていました。YAの方は私の2つ年下と聞きましたが、YAの兄はMYと同級生と聞きました。北都運輸でその兄とも出会いましたが、体が大きいものの大人しくおっとりした性格という感じでした。

さきほど焼きそばを作って食べていたのですが、意外に早く簡単に七尾の男の名前を思い出すことが出来ました。白石だったと思います。全国的にはさほど珍しい名前ではなさそうですが、石川県や私の周辺で同じ名前を聴くことはなかったと思います。

自分の結婚式に被告訴人竹沢俊寿とその夫人の夫妻に出席してもらったとも話していましたが、他にそのような話を聞いたこともなく、普段の言動の中にも虚言癖の傾向が少し感じられていたので、本当なのかと思うことはありました。

白石もいつの間にか、姿を見なくなってやめていったのかという感じでしたが、私の記憶では金沢市場輸送の事務所が二口町に移転してからは姿を見た記憶がないので、山中温泉の慰安会の直後にいなくなっていったのかとも思います。顔の方もなんとなく記憶にありますが、目が細かったという気がします。

山中温泉の慰安会は6月の下旬だったと思います。それより少し先の時期になると金沢港のスルメイカや、その前の筍の出荷で忙しく、ほとんどの社員が仕事を休むという調整も困難ではなかったかと思います。

はっきりと覚えていることは、まだ西念町に金沢市場輸送の事務所がある頃でした、北國銀行中央市場支店のちょうど前辺りから送迎のマイクロバスに乗り組んだからです。私の妻が忘れ物をもって駆けつけてきたことも場面として記憶に残っています。

何を忘れてきたのかも思い出せないのですが、当時妻はまだ車の免許も取得していなかったとも思えるので、どうやって来たのかも不思議です。誰かに頼んで車に乗せてきてもらっていたのかもしれません。

山中温泉の慰安会に行ったのは6月として、昭和62年だったのかと考えます。思えば金沢市場輸送の事務所が二口町に移ったのも7月の初めころだったという記憶があるのですが、慰安会とは近接していなかったようにも思います。

改めてのことですが、初めに被告訴人松平日出男の姿を見たのも、金沢市場輸送の事務所が二口町に移ったのも2ヶ月ほどの間があったという感覚が記憶に残っています。これはやはり昭和63年のことかと思いますが、油断するとちょっとしたことも記憶の整理が難しくなると改めて思いました。

山中温泉の慰安会で高田の姿というのも記憶には出てきませんが、すでにいなくなっていたのかどうかははっきりしません。被告訴人梅野博之の姿は大浴場でみたという記憶が残っていますが、当時は目立たないというか控えめな存在でもあったという気がします。

被告訴人梅野博之はその後、若い運転手の間で「うめじい」とも呼ばれていました。高田がいなくなって市内配達の事務所が別に出来た頃には、事実上代行の責任者という立場にもなっていましたが、山中温泉で姿を見てからは、けっこう長い間があったとも思います。

白石ですが前に書いた小林運送のYさんと、石川日通の田村の4人で、車で片町に遊びに行ったこともありました。石川日通の田村は私の一つ年下だったとも思いますが、わりと長い間市内配達の仕事をしていたと思います。

家は金沢市内の小立野とも聞いていました。石川日通をやめて正式に金沢市場輸送の社員になったという話を聞いたような気もするのですが、そのうち姿を見なくなり、いつの間にかいなくなっていたという感じでした。

はっきりしないところもありますが、私の記憶では二口町に移った金沢市場輸送の事務所で姿を見かけたという記憶は、まったくないではないですがかなり薄くなっています。

田村より一つ年下と聞いたかもしれません。大久保という運転手もいました。家が同じく小立野だと聞いたことがあり、田村の後輩なのかと考えたこともありましたが、確認までするようなことはなかったと思います。

よくいるような若者でしたが、彼も割と長い間、市内配達の仕事をしていて、彼の姿は二口町に金沢市場輸送の事務所が移ってからの方が、なんとなく印象に残っているのですが、西念の事務所ともまたがっていたものと思います。

西念町の事務所での姿が記憶になく、二口町に移ってからよく見かけるようになったのは、S田とM田の二人の運転手でした。S田に関しては被告訴人大網健二との関わりもあるので、ある程度のことは既に書いているかと思います。S藤と二人で金沢港に来て、初めは私に苦情をぶつけるような態度でした。

S藤に関しては面倒ですが、彼の泥棒としての前科もあるので仮名にしておきますが、S田とM田に関してはここで実名に切り替えたいと思います。疑惑があるというわけでもないですが、重要な接点もあるので明確にしておいたほうが良いと判断します。

S藤の泥棒のことに関しては、たぶんまだ書いていないと思います。2,3ヶ月前だと何を書いたかある程度は記憶に残っているのですが、それ以前となるとはっきりとは思い出せません。

偶然以外には考えられない事実でもあるのですが、私は金沢西警察署の留置場でほとんど入れ替えに近い時期に生活をしたようです。留置場の警察官との雑談の中で、ちょっと前までいた泥棒の話をしていたのですが、会話の中の何かをきっかけに私はそれがS藤ではないかと直感しました。

確かめたところやはりS藤に間違いはなさそうだったのですが、警察官らがかなり微妙で際どいと予想するなかで、彼は執行猶予付きの判決を受けたとも聞いていました。

次は偶然とは思えず、警察の作為が介在したことも考えられることです。それはちょうど拘置所に向かうのに、金沢西警察署の二階の刑事課の部屋から出る時、出くわしたのがS藤でした。「おい、金返せや」とだけ一声掛けましたが、向こうも驚いたというか意外そうな顔をしていました。

彼は刑事課の部屋に入ってくるところだったと思います。私の曖昧な記憶ですが、普通部屋にはドアがあるのですが、当時の金沢西警察署の2階というのは正面側に広い通路があって、その先がそのまま部屋になっていたように思います。

笹田と峰田というのは顔は余り似ていなかったと思いますが、背格好も似ていていつも一緒にいる二人でした。他の市内配達の運転手とは違って、夕方遅くに休憩室でくつろいでいる姿を何度か見たという印象も残っています。

冬に近い時期だと外が暗くなる時間というのも早かったと思いますが、外が暗くなったような時間に市内配達の運転手の姿を見ることも少なかったと思いますし、16時頃の早い時間でも、伝票のようなものをを整理してすぐに帰っていく運転手がほとんどであった思います。

何かの割引券のような紙を沢山集めて机に向かっている姿をよくみけていました。伝票らしいものはウェルマートぐらいだったという記憶も残っていますが、それは私自身の市内配達での記憶です。

ずいぶん時間を掛けて机に向かうそんな姿も見かけていたので、よほど大変なことをしているのかと思っていたのですが、実際に自分がやるようになると割と単純な作業だったので、なぜそこまで時間がかかっていたのか不思議にも思いました。

笹田と峰田とは、顔を合わせれば多少言葉を交わす関係であったと思います。大久保とも似たところがあったと思いますが、彼女を交えた個人的な付き合いもあると、誰かから後になって聞いたこともありました。

笹田と峰田は私より6つ年下だったと思います。これは後になってから知ったようにも思いますが、被害者AAさんや被告訴人安田繁克とも同じ年になるものと思われます。

時刻は17時04分、歩いて銭湯にも行っていて中断をしていました。

笹田と峰田の二人ですが、家は金石の方とも金沢港の方とも聞いたように思いますが、どちらであったかはっきり思い出せません。どちらも共通しているのは海の近くということですが、金石の方も漁港のようにはなっていたと思います。

それとは別に守田水産輸送の小柄で年配の運転手と、石巻港の魚市場の前にとめたトラックの中で長話をしていたことがありました。60歳近い年齢とも聞いていたように思います。50代の長距離運転手というのは、当時珍しかったと思います。確か「まっちゃん」と呼ばれていました。

まだ、守田水産輸送との共同で青森定期便が始まった頃だったとも思います。金沢の中央市場から秋田、青森の市場に鮮魚を運ぶ定期便は、もともと守田水産輸送がやったいた仕事でした。

細かい話は忘れましたが、青森県の下北半島の付け根の方であったか地名は忘れましたが、そこから養殖の帆立貝を積んで九州の方に持って行き、九州で荷物を積んで北陸に帰ってくる仕事が守田水産輸送の大型車では多いと聞いていました。

一度出るとけっこう長い運行になるので、月に数回の運行になるとも聞いていました。九州からは鮮魚を積んできたり、時期にはミカンを積んでくるとも来たように思います。

ホタテの仕事がどうなったのかは聞かなかったですが、その青森の定期便を金沢市場輸送と一日交代ですることになり、帰り荷として石巻から東北陸運の定期便をすることになったのです。東北陸運と宮城陸上については、これまでに何度か説明を書いていると思います。

その守田水産輸送との共同の定期便は1年ほど続いたと記憶にありますが、金沢市場輸送の事務所が二口町に移転してしばらくすると守田水産輸送との仕事上の関係自体がなくなったので、その辺りから逆算すると昭和62年の9月頃から守田水産輸送との共同の青森定期便が始まったものと考えられます。

ちなみにこれと似たことは同じ金沢のウロコ運送との間にあって、それが福岡の定期便になっていました。それも一日交代でしたが、富山中央のトナミ運輸から雑貨を積んで、北九州市と福岡市の西武運輸まで運び、翌日の早朝から長浜の魚市場で鮮魚を積み込んでいました。

それは昭和59年に初めに私が入社した頃に始まっていたようにも思います。そして私が金沢市場輸送にいる間は、ずっと続いていたように思います。福岡の魚市場ではフリーとして入って鮮魚を積むことも多かったですが私の場合、北陸ではなく、大阪や東京行きが多かったと思います。

ウロコ運送も同じく石巻から東北の定期便をやっていましたが、それは松川運輸の仕事でした。石巻ではかなり大きな運送会社だと聞くこともありました。松川運輸は塩釜港の方にも会社があったと思いますが、ウロコ運送が塩釜の方にも立ち寄っていたかどうかは、記憶もはっきりしません。

そのまっちゃんという人との会話の中でたまたま出てきた話なのですが、その人の息子が金沢市場輸送で市内配達をしている笹田や峰田と同級生で友達というような内容でした。どこか場所の話も出ていましたが、それは金沢港の近くであったと思います。

いつ頃、誰に聞いたのか現在はっきりと思い出せないところもあるのですが、被害者AAさんはその笹田か峰田の紹介で市場急配センターの事務員になったという話を聞いたことがありました。まだ、私が被害者AAさんのことを余り意識していない時期に聞いたような気もするので、なおさら曖昧です。

紹介というのは笹田ではなく峰田として聞いたようにも思います。被告訴人大網健二ともめたのは笹田の方です。二人ともなんとなくは姿や顔を覚えているのですが、いつもいつも一緒にいたので、どこかで記憶が混同している部分のあるかもしれません。

また、二人とも当時は特に意識するような存在でもありませんでした。市場急配センターの事務所が中央市場の側に出来て、市内配達の運転手がそちらに移ってからは、どの運転手とも顔を合わせる機会は少なくなりましたが、前に何度か書いたように給油には金沢市場輸送に来ていたので、そこで見ることも。

ただ、笹田と峰田に関しては新しい市場急配センターの事務所に移ったと思われる時期以降、ほとんど姿を見た覚えがありません。

かなり久しぶりに姿を見たのは平成3年の夏頃だったと思います。私がまだ市内配達をしていた頃であったと思いますが、だいたい次の場所で会いました。会ったと言っても声も掛けていなかったと思うので、見かけたというのが正確かもしれないです。

石川県金沢市長土塀3丁目22−23 - Google マップ http://bit.ly/1vEEaPt

改めてGoogleマップを見ると自分の記憶とは一致しないような部分もあるので、場所に余り自信は持てないのですが、中央通りから片町のスクランブル交差点につながる道の方から入ると、ちょっとした商店街のようになっていて、コロッケの売っている肉屋等があったような気がします。

それをもう少し先に行くと左の角に「ひまわりチェーン」のような小さいスーパーがあったように思うのです、そこに配達に行くことがあったと思うのですが、稀に行く配達先で、自分の配達範囲なのかも微妙に思える場所でした。

道は小路でちょっと複雑になっていたと思いますが、そのスーパーから少し離れた道路にトラックをとめて笹田か峰田が仕事をしていました。その場で声も掛けていないので、その後他の誰かに話をして、聞いたのだと思うのですが、K村さんや姫のNKさんと一緒になって、仕事をしているような話でした。

2トン車のトラックを持ち込みで仕事をしているとも聞いたように思いますし、荷台で作業をしている姿をみたトラックというのも新車のような箱車であったと思います。被告訴人浜口卓也と同じようなトラックだったとも思いますが、特に箱が同じに見えたように思います。

外見が白い一枚の板のように見える箱車であったと思います。金沢市場輸送の2トン車というのは4トン車や大型車の保冷車と同じく、細かく波打ったようなアルミの箱が多かったと思いますが、そうではないタイプでした。

保冷になっていたのかもわかりませんが、被告訴人浜口卓也の場合は保冷とも聞いたように思いますし、ワイドボディの2トン車でした。幅広の2トン車というのは初めて見たような気もしました。

4トン車だと中西水産輸送でも昭和60年当時に幅広のワイドボディに乗務していましたが、4トン車の場合通常は2つのワイパーが3つのワイパーになっていたと思います。

被告訴人浜口卓也の場合は、初めに2トン車の新車を購入して持ち込み運転手の仕事を始めたと思いますが、トラックの値段というのは全部で300万円とも聞いたように思います。

珠洲の大谷のYSさんも、そのうち同じような新車に乗務していたと思いますが、始めてから長い間はかなりポンコツの2トン車に乗務していたと思います。

笹田か峰田の2トン車を見たその場所でも、そのYSさんか姫のNKさん、あるいは宇出津のK村さんの姿とトラックを見たような気もするのですが、これも現在記憶がはっきりしません。

姫のNKさんと宇出津のK村さんに関しては、ずっと古いトラックに乗っている姿しか見てはいなかったような気がします。被告訴人大網健二が大場町東への引っ越しに借りてきて一緒に返しに行った2トン車も、青色か紺色のそんなトラックでした。

笹田か峰田と書きましたが、その二人が一緒にいて、二人を同時に見たという可能性もあると思います。とにかくその二人は、いつもセットのように一緒にいる姿を見ていたという印象が残っています。

特別な仲良しという感じで女の子では金沢でよく見かける関係でしたが、男となると他に思い出すことも出来ない気がします。

峰田に最後に会ったのは平成3年の年末のことでしたが、その時は笹田の姿がなかったようにも記憶にあります。名前も知らないし言葉を交わした記憶もないけれど、以前は金沢市場輸送の市内配達としてよく見かけていた小柄な若者の姿は記憶にあります。ずいぶん久しぶりに見たという気がしました。

それは前に少し書いていると思いますが、偶然とは思えない成り行きで、被告訴人多田敏明と西口の二人が率先して、被告訴人浜口卓也の自宅アパートに行き、それから焼肉店に行った時のことでした。名前は聞いたことのあるような人気という感じの焼肉店でした。

以前に作成したGoogleマップのマイプレイスがあったと思います。マイプレイスになる前の旧サービスの時に、作成したものであったかもしれません。

告訴事件と関連のある金沢市内の場所 https://mapsengine.google.com/map/u/1/edit?mid=zW8zvRyoSBg4.kcVzYakZOUcc&authuser=1&hl=ja

思いの外早く探し出せましたが、現在余り使っていないGoogleアカウントとして作成した地図です。ここに「諸江の焼肉店」とラベルがあるのが、その場所です。6,7人と説明にあったので、すっかり忘れていたことですが、役立つ情報になりました。

時刻は7月5日9時15分。昨日とは一転して、編めが不理想にない良い天気です。一日雨の心配がなさそうな宇出津のあばれ祭りというのは、何年ぶりか思い出せないぐらいです。少なくとも2009年の祭り以来は、毎年二日間の祭りを通して一度もなかったような気がします。

昨夜はとても大きな収穫がありました。事件の事実関係をまだ優先したいので後回しですが、先にそのツイートを紹介しておきます。

2014-07-05-003421_でも裁判ってもともと真相解明のための手続きではなくルールに従って裁判所が目の前の事案を判断するだけのもの。.jpg pic.twitter.com/CAvAoAwsWN

Twitter / sakamotomasayuk: 被害者遺族が被告人が被告として出廷しないことを非難するという ... https://twitter.com/sakamotomasayuk/status/484988904228274176

2014-07-05-003459_この操作は許可されていない可能性があります。 ページを再読み込みしてお試しください。.jpg pic.twitter.com/obM3ejcS7u

独自に作成したコマンドでファイル名に日時を含めたスクリーンショットを作成していることは既にどこかで説明していると思います。用途は色々とありますが、もうひとつ大事なところを記録しご紹介しておきたいと思います。

2014-07-05-094034_市場急配センター株式会社│代表者 堂野俊一.jpg pic.twitter.com/gtZO9qrzks

昨日は初めに涌波について書くつもりで、関連した説明を始めるとあちこちに飛び飛びなってしまったかと思います。私がこれから説明をする市場急配センターの堂野さんは、平成10年11月22日に自ら労務の担当者として話を聞く必要がある、と言った人物です。

現在の市場急配センターの担当者とホームページに掲載されている堂野俊一という人物と同一人という保証は出来ないですが、その可能性は一般的な判断として疑いの余地はないものと思いますが、可能性が0ではないことは、先にお断りをしておきますので、その旨ご留意願います。

私はこの市場急配センター株式会社という存在自体を、社会的な問題の対象として告発しなければなりません。その会社の現在の代表という立場と、事件そのものの事実やその関係者との関係というのも峻別しておく必要があるとも考えます。会社が個人の持ち物ではないという意味を含め。

被告訴人安田繁克から涌波に住んでいると聞いたのは、当時、金沢市場輸送でイワシの運搬をやっていた堂野さんの愛人という女性の息子でした。はっきりしたことは聞かなかったと思いますが、堂野さんの実の息子とは聞いておらず、当時16歳で市場急配センターで働いていました。

私自身、最低でも一回はその16歳の少年を2トン車での市内配達に同乗させて一緒に仕事をしたことはあったと思います。私の場合、その少年よりもその少年の同級生で高校の夏休み中のアルバイトと聴いていた少年を、同乗させることが多かったことを、書いてすぐたった今思い出しました。

愛人の息子という少年、それは私が市場急配センターで市内配達の仕事を始めてから知ったことで、被告訴人安田繁克に聞いていました。当時は他にそういう話を聞く相手もいなかったので、それは間違いないことだと思います。

当時ははっきりと意識しなかったようにも思いますが、被告訴人安田繁克が堂野さんのことをよく知っている人物のように話していたことは、改めてかなり不自然にも思います。なぜなら当時の堂野さんというのは一緒に仕事をした私でさえ、会社との関係がほとんどわからない人物だったからです。

まず、堂野さんが金沢市場輸送の社員ということは考えられないと思っていました。彼は松浦さんの紹介でイワシの運搬をするようになりましたが、私の記憶ではシーズンの終盤になっての登場であったように思います。

堂野さんはダンプの持ち込みと聞いていました。最初に姿を見た時からそのダンプと一緒でしたが、そのダンプというのも割と珍しいタイプだったので余計に印象に強く記憶に残っています。

私自身、ダンプというのは建設現場などで4トン車までしか乗ったことがなく、専門のダンプの運転手として仕事をした経験もないので余り知らないところがあるのですが、町でよく見かけるダンプというのは土砂積みのダンプです。

それとは別に土砂積み禁止というタイプのダンプがいました。多いのは木材のチップを積みようなダンプで、かさばる割に重量が軽いので荷台もずいぶんと高く、それ専門となるとぱっと見は箱車で、上に網を掛けているものが多かったと思います。

網まで書けるようなチップ専門のダンプとなると金沢ではほとんど見かけていなかったように思います。金沢港も木材の多い港ですが、チップ専門の工場がないためか、少なくとも私の記憶では見かけることはなかったか、ごく稀だったと思います。

金沢市場輸送のダンプというのはその木材チップ専門に近い感じのダンプでしたが、完全なそれとは違っていました。補強についてもずいぶん考えられたような作りで、見た目もそれだけ頑丈そうに見えましたが、ダンプ自体の重量も重かったと思います。

トラックの重量に関する法律もずいぶん前に大幅な変更があり、規制自体が変わったと聞いているので違っているところも多いかと思いますが、当時の大型車に関しては車体の総重量に対する積載量が決められ、その重量がステッカーとして後部に貼り付けてありました。

正確な記憶はないですが、例えば金沢市場輸送の大型保冷車の場合、「最大積載量9250」などとステッカーが貼り付けてありました。平ボディ車だと10800とかになっていたような気もします。

冷凍機付きで頑丈そうな大型保冷車だと8トン台になっているのが普通だったと思いますし、中には7トン台というのも見かけていたように思います。細かく言えば箱の高さも長さも車検上の限界はあるものの、トラックごとにまちまちでした。

トラックの高さは3.8メートルと決まっていました。中西運輸商というかその社長が普通の考えではない証左の一つですが、扁平率の低いタイヤを車検時に使ってトラックの高さをごまかしているという話を聞きました。箱の内積量を少しでも増やしてより多くの荷物を積めるようにするためです。

普通に考えると、思い重量を積むトラックほど頑強な補強も必要になるのですが、その補強材がずいぶんと車体の重量を増やすと聞いていました。まともにやると僅かな最大積載量のステッカーを貼らなければならなくなるので、どこもかなり誤魔化しているのが普通だと聞いていました。

過積載のトラックの危険性というのは実際に運転を経験したものでないとわからないところがあるかと思います。ブレーキー性能の良くなかった時代となるとなおさらのことです。ブレーキーが焼けて煙があがることもあります。

基本的にはトラックもダンプも同じかと思いますが、大きな違いの一つはダンプの場合デフが2つだと聞いていました。普通の10輪のトラックの場合、デフというか駆動しているタイヤは横から見て後方の手前側のタイヤだけです。いずれもタイヤはダブルになっていますが、その後ろは引きずりと呼ばれ。

乗用車でいえば4輪駆動にも近いと思います。私自身、2デフというのはほとんど運転したことがなかったですが、エンジンブレーキの効き具合も全然違うとは聞いていました。雪道でも歴然とした違いが出ます。

引きずりの10輪だと、雪道の坂の上で止まってしまうと、動けなくなるということが普通にありました。そうではなくても重心が前に掛かりすぎていると、急で長い坂道を登り切れないことがありました。

一般には知られていないか、普通に聞くこともない話なのでついでに説明をしましたが、冬場の長距離トラックの仕事というのは、そういうことでもずいぶんと神経を使います。事故や渋滞、通行止めの可能性も雪が降る時期だと高くなります。どこへ行くにも山間部を通ることは多いです。

長々と説明しましたが、金沢市場輸送のダンプというのは2台だけでしたが、イワシをより沢山運ぶために考え抜かレたような設計になっていました。本来、加工イワシの本場というのは石巻港などですが、同じようなダンプというのも見ることがなかったと思います。

石巻港には鮮魚の定期便があったので数日おきのように年間を通じてしょっちゅう行っていました。港に近い河口に日和大橋という大きな有料の橋がありました。その橋を渡って魚市場の方に入ると料金所があるのですが、その周辺というのはイワシや鯖の加工と思われる独特の匂いが強烈でした。

石巻港の場合、イワシに限らず小魚を冷凍加工して、養殖の魚のエサにするという工場が多かったようです。既に書いていると思いますが、それに近いことは金沢港でもダンベとしてやっていました。生の状態で水槽に入れて運ぶものでしたが、平ボディ車の仕事でした。

ダンベの行き先のほとんどは三重県でした。そこは個人のような小さい工場で、養殖用のエサの加工をやっていることが多いという感じでした。三重県も養殖漁業の盛んなところだと聞いたことがありましたが、石巻のエサでも行き先はほとんど四国と九州と聞いていました。

日本海側と太平洋側では都市の規模も港の規模もまるで違いますが、イワシに関しては漁獲の時期が、地球の裏と表のように入れ替わっていると聞いていました。

太平洋側の港でイワシの仕事が多いのは、福島県の小名浜港、宮城県の石巻港、青森県の八戸港、北海道の釧路港だと聞いていました。

時刻は7月6日11時22分です。雑多な番外編ともいえる内容になったかと思いますが、他に重要な問題も出てきたので、この項目を締めます。

<2014-07-06 日 11:25> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

** 主に平成9年から平成11年に行われた被告訴人らの計画的行動と事実、及びその関係者について
*** 主に被告訴人KYNによる計画的と思われる行動、関与について
**** 再審請求をやめ仕事に専念するか、会社を辞めるかの二択を迫った被告訴人KYNの言動 2014年03月12日
既に大まかな流れは書いてきたと思いますが、見出しと内容の対応を重視する方針に転換したので、これまでの説明の流れがつかみづらいと思います。これからは見出しに付加された作成年月日を今まで以上に意味のあるものとして、念頭に置いて頂きたいと思います。

構成が変わったからと言って一から同じ説明を繰り返すのも無駄があるので、おさらいもしながらポイントを押さえつつも、これまでの記述の時系列に従って反復展開するかたちで、説明や事実の記述を進めていきたいと思います。

被告訴人KYNの設備工業での配管の仕事についてはこれまで紙面を割いてかなりの分量の説明を書いてきたと思いますが、まだまだ不十分なところがあります。15年以上の年月も経過しているので、当然記憶の劣化もありますが、大まかにポイントを押さえておきます。

まず彼のところで仕事を始めたのが平成9年の11月頃のことで、翌年つまり平成10年の1月頃にM君が入ってきました。その入社の経緯についてもより詳しく書いておく必要性を感じていますが、それは後回しにします。

その後、被告訴人KYNに長男が生まれました。上は女の子が二人でした。長女の方は平成2年頃の生まれではないかと思います。次女については生まれると聞いたこともなかったので、平成4年4月より後の出生であったことが考えられますが、それほど年の差があるようには見えなかったです。

長男の誕生に関しては喜びもひとしおだったと思いますが、不思議なぐらい長男のことを口にしたり、話題にすることもなかったと思います。静かに大事に育てているとは思いましたが、余り泣かない大人しい子どもでもあったのか、話題にもならず印象にも余り残ってはいません。

その長男の誕生のことでとても印象に残っていることがありました。秋の11月から仕事を始めたとして2回目か3回目ぐらいに給料をもらった頃であったようなその場の記憶もあるのですが、天気が良く暖かい感じの風景であったような場面の記憶も残っています。

あるいは仕事を初めてすぐの頃でまだ11月中のことであったのかもしれません。出産祝いということで祝儀を渡したのですが、これから世話になるということもあって5万円包んだような気がします。あるいは3万円かと思います。

被告訴人KYNはその時もあまり反応を示さずに祝儀を受け取っていました。身内の祝いという意識が強いようにも感じましたが、いくらか違和感は感じていました。彼は長男の誕生を力強く喜ぶとともに、なにか覚悟を決めて吹っ切れたようにも思えました。

今改めて考えると不思議にも思えることですが、被告訴人KYNの長男については妻がだっこしているような姿しか思い出すことがありません。半年ぐらいすれば、はいはいで動き回ったりするのではと思いますが、自ら座っているような姿も思い出すことがありません。

印象に残っていることと言うのは、弟子のような親子関係のようなつながりであったK君が、祝儀はおろか何もお祝いをしていないと、当然のように軽く笑いながら話をしていたことです。私の質問に対して答えたものであったと思います。玄関先でした。

それだけの親密な関係が築かれているのかと思うのと同時に、仕事の働きで十分に義理は果たしているような自信にも思えました。

K君の正確ですが、大人しくて人当たりも良い、口数は少ないタイプでしたが、意固地で譲らない一面もあると被告訴人KYNから聞いていましたし、私もできるだけ角の立たないように接していたこともあり、衝突は一度もなかったですが、わりと自意識の強い若者とは思っていました。

人に対する気遣いもよく出来ていたのではと思います。他の人と衝突するような姿をみたことがなく、M君のことも暖かく見守るような感じでした。しかたない、というような言葉も時々使っていたようにも思います。若い割には大人びていて、しっかりしている方だと思っていました。

K君は平成4年から被告訴人KYNのところで配管の仕事を始めたと聞いていました。不良という感じではなかったですが、高校を中退したと聞き、あるいは高校に行かなかったと聞いたかもしれません。もっと具体的な話を聞いたようにも思うのですが、忘れてしまいました。

平成4年の4月1日に私は逮捕され、平成9年の1月18日まで警察の留置場や刑務所にいました。被告訴人KYNに最後に会ったのは平成4年の3月の20日過ぎかと思いますが、細かいことは思い出せなくなりました。酔いつぶれて朝まで寝ていたことを憶えています。起きるとKYNの姿はなかったです。

起きたときKYNの姿がないことに意外性を感じたことも憶えているので、それは日曜の朝だった可能性が高いと思います。暦を確認すると3月22日の可能性が高いのかな、と思いましたが、今は自分の記憶のみでの事実の整理は難しいです。

起きると被告訴人KYNの妻と子どもだけだったので、すぐに帰りました。アパートに帰ってから近くのコインランドリーに洗濯に行ったと思います。午前中に市場急配センターに行き、シャッターがほとんど閉まって、誰もいないような状況でしたが、意外なことに被告訴人YSNの姿がありました。

シャッターは完全に降りてはおらず、人がかがんで通るぐらいに開いていたのではと思います。シャッターが降りていること自体、あまりなかったような気がするのですが、日曜日以外には考えにくく、日曜日でも市内配達で仕事に来る人の姿は、それまでにも少ないですが見かけていました。

**** 被告訴人KYNとの最後の会見と会話の録音

*** TODO 被告訴人OKNと被告訴人HTNとの関係について
**** TODO 被告訴人OKNがバックアップを頼んできたノートパソコンにあった新築工事見積書のファイル
<2014-04-04 金 06:54> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

これはわりと短い周期で繰り返し思い出している事柄なのですが、先ほど次のYouTube動画を視聴したこともあり、先に書いておくことにしました。一週間から10日に一度は、私の頭の中で思い出していたことで、そういうのは他にも多いです。

PC遠隔操作事件 片山被告が語る『事件の真相』 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=wXZkgrIcdtQ

これも時期が今ひとつはっきりしないのですが、Nテックの仕事を被告訴人OKNが持ちかけてきた頃で、パソコンでチラシの広告を作っていた頃ではなかったかと思われます。

ちょっと記述の開始時刻を入れ忘れたので、多少遅れますが、記入しておきます。

PC遠隔操作事件ですが、この事件には前々から関心があって、私のこの事件との関係性もずいぶん強く意識しているのですが、本来的には無関係な事件であり、どこからどの程度踏み込んで本文中に記載するのかも迷いがありました。今のところはほとんどやっていないかと思います。

上記のYouTube動画は私自身初めて視聴したものでした。あとでテレビ番組の録画らしいと気がついたのですが、私の住む石川県では放送されていない番組か、BS朝日と言うことらしいので、特別な受信契約をしていないとそもそも視聴できない番組なのかもしれません。

このPC遠隔操作事件に関しては過去に冤罪事件で活躍した佐藤博史弁護士と、冤罪との判断でけっこうな数の無罪判決もだしたらしい元裁判官でもある弁護士の木谷明弁護士がタッグを組み、痛烈な検察批判をしていることでも注目しています。

その弁護士らの主張に呼応するようなジャーナリストの活動もありまして、もともと注目していたのがオウム真理教の事件で一躍有名になった江川紹子というジャーナリストです。Twitterで多くの情報を発信しています。テレビで見る機会は、ごくごく少なくなりましたが。

ジャーナリストの江川紹子さんは検察の不正の追及にも熱心な取り組みをされてきたかと思います。いわゆる村木裁判として著書も出版されているようです。余り詳しくはしっていないのですが、検察の威信を低下させる転換点になった裁判かとも思います。

ジャーナリストの江川紹子さんに関しては、ご本人に対するお知らせもかねて、別の項目で書いておきたいと思いますが、もっとも重要視したのが、「検察のあり方検討会」のような公的な集まりのメンバーでもあったことです。正式な名称なども調べた上で。

ジャーナリストの青木理さんについては、私自身最近になってしった人物なのですが、注目しつつある人物であるとともに、彼自身がそのジャーナリストというプロの立場で、投げかけている刑事司法に対する不信や疑問には、対処するかたちで進めることを意識するようになりました。

本題に入りますが、紹介したYouTube動画で気になったのは、真犯人が片山祐輔被告のパソコンを自由にのぞき見る状態で、そこで得た情報を使って、一連の事件の犯人に仕立て上げていったというくだりです。そう信じ込んでいるようにも見える女子アナの発言も見受けられました。

PC遠隔操作事件に関しては、パソコンやプログラムという点でも、私には関心の高い事件でしたし、プログラムに関してはそれなりの経験もしてきているので、他の人とは違った見方もしている、あるいは出来ているのではないかと考えています。

私自身、自分のパソコンが他人にのぞき見られる可能性を意識しながら生活した時期がありました。

まず私がパソコンに感心を持った時期ですが、平成6年の2月頃には具体的に考えるようになり、何がきっかけであったおかは細かくは憶えていないですが、母親にパソコン関係の本の差し入れを手紙で頼んだように思います。

これが丁度、判決の確定時期にも重なっていたように思います。余り思い出せなくなってしまいましたが、悪すぎるタイミングが重なって、差し入れてもらった本を、実際に閲覧できるようになるまで、ずいぶんと日にちが掛かりました。

あるいはになりますが、3月17日に福井刑務所に移送され、一週間程の分類審査と、それに続く2週間の新入教育を受けた後、ようやく資本を仮下げて閲覧できるようになったのかもしれません。

拘置所も刑務所も同じだったと思いますが、差し入れされた本は領置という手続きをとり、仮下げをした上で、閲覧することが出来たかと思いますが、どれかの手続きがストップされていたので、すごく長い間待たされました。

パソコンの雑誌が2,3冊と入門書のような漫画の本が一冊ありました。MSーDOSとかコマンドの解説が多かったので、Windows95が発売される前でした。付録には5インチのフロッピーディスクがついていましたが、出所後も5インチフロッピーが使えるパソコンは見たことがなかったです。

ついでに書くと、Windows95の発売のニュースは雑居房のテレビで日曜の夜、大河ドラマが終わった後のニュースでみました。夏ではなかったかと思いますが、松本サリン事件の報道を最初に見たのも、同じ頃の同じ時間帯のニュースであったと思います。平成6年の夏頃です。

刑務所の受刑中であっても本の購入は出来ましたが、そのあとはパソコンに関する本を買うことはなかったと思います。右も左も方向性が全くつかめなかったので、後回しにして他の法律の勉強などに専念しました。

私本の購入は月に2回の機会があり、単行本などの書籍は一度に6冊まで注文できていたと記憶していますが、6冊注文しても入るのは2冊がいいところで、一冊もはいらないこともあったと思いますが、刑務官の判断も働いているように感じられることはありました。

福井刑務所を満期出所したのは平成9年1月18日でしたが、10日か半月ぐらいで、ワープロ専用機を買いました。宇出津の駅に近い新谷電気でした。10万5千円ではなかったかと思います。

なにかきっかけがあったのだと思いますが、細かいことを忘れました。ある日の夕方7時ぐらいに、新谷電気に電話を掛け、ワープロ専用機の話を聞いて、まもなく店に駆けつけたことを憶えています。

お金は母親に無理を言って都合してもらいましたが、京都の親戚の人に出してもらったのだと思います。

ワープロ専用機を新谷電気で買って数日が経ち、夕方の早い時間に宇出津駅の方から新谷電気の店の前を通りかかったので中に入ったところ、自分が買ったのより新しいワープロ専用機が7万8千円か8万8千円ぐらいで売っているのを見て驚きました。

店の主人もよほどまずいところを見られたと思ったらしく驚いていましたが、私はとっさに確か500円ぐらいのヘッドフォンのようなものを手に取り、レジの前に立ったところ、代金はいらないと言われたので、そのまま帰ったのですが、腸が煮えくりかえるとはこのようなことかと実感しました。

店に置かれた新しいワープロ専用機にはMS-DOS対応と大きな札のようなものがつけられていました。最初はよくわからなかったのですが、どうも保存したデータをそのままWindowsのパソコンでも開けるのがMS-DOS対応の意味だったようです。

ワープロというかキーボードに触れたのもその時が初めてでした。当時はまだパソコンよりワープロ専用機の方が文書の作成において主流であったのではないかと思います。

集中して取り組んだこともあり、一月もするとかなりのペースで文書を作成できるようにもなっていました。そのワープロ専用機で作成した書面も再審請求として提出したように思います。

3ヶ月程前になるでしょうか、片付けをしていて段ボール箱に入った当時の書面を見たのですが、ずいぶんな量だったので自分でも少し驚きました。段ボール箱の中に入れてあることは憶えていたのですが、感熱紙を使っていたこともあり、中も見ずに置いてありました。

感熱紙の印字が数年で消えるという話は早い段階で知っていました。必要もなしになるべく空気に触れさせない方がよいかとも思いさわらない状態にしていたのです。印字は薄くなったものとそうでもないものがありましたが、思っていたよりは悪くない保存状態でした。

読めば思い出すこともあるとは思いましたが、量が多すぎることもあり全く読んでいませんし、今のところ読もうとも思っていません。記録として御庁(金沢地方検察庁)に残されている可能性もあるかと思いますが、今時間を掛けるだけ意味のあることとは思わないからです。

むしろ今の自分の記憶のままに書くことの方が意味のあることではないかと思っています。重要な見落としはあるのかもしれませんが、その前に書いておくべきことは、まだまだたくさんあります。

同じ平成9年の4月にはノートパソコンを買いました。このことは数日前にも少し書いているように思います。父親が残してくれた家屋敷の手付け金として受け取った100万円を使いました。これも勝負が早かったです。お金をもらったその場で、金沢に走りました。

契約に同席していた被告訴人OKNが金沢に帰る車に乗せてもらいました。金沢の若宮のパソコンの館という店で買いましたが、あるいは午前中の開店前に店の前で待っていたような気もします。

この時も金沢の入江のビジネスホテルで宿泊し、そこから歩いて若宮のパソコンの館に行ったように思います。犀川というのは金沢の中心部を流れる川ですが、若宮大橋というのも平成4年当時には影も形もなかったものでした。

店はその若宮大橋を渡った先にありましたが、事前に場所は調べていたのだと思います。店では余り迷わずにNECのノートパソコンを買いました。48万円ぐらいだったと思いますが、定価は60万円を超えるぐらいでした。

ノートパソコンとプリンター、スキャナーを買いました。全部で60万円ぐらいの買い物でした。ノートパソコンはそのまま持ち帰りましたが、プリンターとかは能登の宇出津の家まで郵送を頼んだように思います。

思い切った買い物でしたが、再審請求に対する意気込みと、効率をあげるための投資として完全に割り切っていました。

パソコンは絶対に必要だと思っていました。拘置所や刑務所にいる頃は、それこそ明治時代と同じで紙とペンしか使えませんでした。コピーをとるにもカーボン紙で、効率の悪さは嫌というほど痛感していました。

同じ平成9年の7月の初めに金沢に引っ越してきて、それから半月ぐらい経って頃には、同じパソコンの館で、ディスクトップのパソコンを買いました。同じNECの98シリーズのパソコンでしたが、35万円ぐらいだったと思います。

次にパソコンを買ったのは金沢刑務所を出所後の平成14年の4月頃だったので、けっこうな間だったとは思いますが、平成11年の8月12日に金沢中警察署に逮捕されてからは、平成14年の正月までパソコンは使えない状態でした。

金沢刑務所を出所して宇出津の家に戻ったのは平成13年の12月31日でしたが、パソコンに電源を入れたのは数日後のことで、あるいは一週間ぐらい経っていたかもしれません。すぐに使えるとも思っていなかったので、起動して作業が出来る状態になったときは、不思議な気分にもなりました。

次に買ったのはソーテックのディスクトップパソコンで、10万円ちょっとぐらいだったと思いますが、これはインターネットの通販で買いました。

費用を工面するのに七尾市に行き、プロミスという信販会社で10万円借りたのだと思います。当時もよく借りれたものだと思いましたが、就職が決まった直後かと思います。

「株式会社みさき」というような社名になっていたかと思います。社名のみさきも、珠洲市三崎町に関係していたはずで、一度4トン車でその三崎町辺りにある古い工場か倉庫のような場所から、何かを運んだこともありました。

会社が珠洲市内であったことは間違いないと思いますが、仕事先は宇出津のボーリング場の跡地でした。電子部品の工場でしたが、他にも宇出津電子など数社の従業員が集まった共同事業のような工場でした。

9割以上が女性で、それも若い女性が多かったと思います。生まれ育った宇出津ですが、自分の同級生や顔見知りのような人はいなかったと思います。中国人の研修生の割合も多かったとは思います。

職安からの紹介で面接に行きましたが、仕事を始めるようになったのもすぐだったと思います。4月の10日頃だったと思いますが、その数日前には鵜川に住んでいた被告訴人YSNと会って、話をしていました。

偶然なのだと思いますが、被告訴人YSNと合った翌日に、今度は職安で被告訴人YSNと顔を合わせました。ちょうど彼の用事が終わって帰って行くところだったと思いますが、その時点で高岡市(富山県)の方で、仕事が決まったような話をしていたようにも思います。

その時も被告訴人YSNは古くて大きなパジェロのような車に乗っていました。たぶん日産の同じような車種ではと思われましたが、私自身わかるのはパジェロぐらいで、そういうタイプの車には興味もなかったのです。運転していたのは彼の妻でしたが、姿ははっきりとは見ませんでした。

思えば身を隠したりわかりにくい格好をするのが得意なのか、被告訴人YSNの妻の姿というのは平成4年以来見ることがなかったように思います。平成4年の初めには一度、花里のアパートで出産後の姿を見たように思いますが、あやふやになっている記憶です。

一つはっきりしていうことは、夜に花里の被告訴人YSNのアパートから東力の自分のアパートに戻った直後だったように記憶しているのですが、近くの東力ストアーで追突事故を受けたことがありました。自販機でタバコを買うのに左折する際、減速したところで追突を受けたのです。

そういえば思い出したことですが、被告訴人TSKが、東力ストアーとは親戚になると話していたことがあったような気がします。話を聞いたときはさほど気にもとめませんでした。

東力ストアは大豆田大橋から西金沢方面に至る道路沿いにある古くて小さな店でしたが、なんどか店に入ったことを記憶しているものの細かいことは記憶にありません。目立たない店でしたが、店の前には自販機がまとまって置いてあり、夜間はたまに利用する機会もあったかと思います。

金沢市内に住んでいれば同じ金沢市内に親戚がいると聞いてもまったく普通の話だと思いますが、福井刑務所では被告訴人TSKのことを朝鮮からやってきた朝鮮人で、それも成人になって日本に来たような話を聞いたので、思い出すとどうかとも考えるようになったのです。

もともと被告訴人TSKに関しても謎の多い人物です。朝鮮から来たという話はにわかに信じ難いと思いました。自分の子どもの頃の近所にもそういうおばさんがいましたが、話し方のイントネーションがまるで日本人とは違っていたからです。

被告訴人TSKはとくに年配の人が話すような金沢弁のイントネーションが特徴でした。妙なところでアクセントを付けたり、語尾をのばす話し方は、個人差もありますが、あえて強調するようなタイプでした。まねるのがうまければ不可能ではないとは思いましたが。

現在は韓国と北朝鮮は明確に区別されているという印象ですが、以前はけっこうごっちゃにして話す人も多かったように思いますし、核実験などで北朝鮮の名前が知れ渡り感心をもたれるよりも前の時代であったようにも思います。

朝鮮人といえばパチンコ屋というイメージも強い時代でしたが最近はさっぱり聞かなくなった話です。パチンコ屋の利権は戦後の混乱期に成立したものであったとも聴いていますので、根拠のしっかりした話でもあったはずかと思います。

被告訴人TSKが朝鮮からやってきたという話は、福井刑務所で一緒だったNという人物に聞いた話です。かなり癖の強そうな人物でもありましたので、真偽の程も不明であるばかりではなく、他の目的のいわばエサとしてちらつかせてきた話であったこともありうるかと思います。

Nとは同じ2工場でしたが同じ雑居房でもありました。私の方が後から入ったのですが、一月か二月ぐらい経った頃か、2級生になって4階に転房して行きました。2級生が南寮の4階にあがることは、前にも説明をしているかと思います。

TK班長も2級生になっていましたが、同じ雑居房になったとも聞いたか見ていたと思います。見ていたというのは雑役の作業場に、居房毎に名前の書いた札が並べられているような場所があったからです。

福井刑務所では金沢刑務所とは違って、休憩時間は工場内で自由な行動が出来たということもありますが、雑役の作業場には他にも用事があって行くことがちょくちょくありました。

TK班長についてもこれまで何度か触れてきていると思います。そういえば福井刑務所を出た後、お金を持っていたNが出資をして、TK班長と商売を始めたとか、それが当たって大儲けをしているというような話も耳にしていたように思います。

なにか女の子をつかった新手の商売を始めたと聞いたような気もするのですが、TK班長自身も片町で飲み屋を経営しているとか経営していたとか話していたはずで、4店舗ぐらい店を持っているようなことも言っていたような気もします。

話を聞くところ、スナックのような小さな店ではなく、クラブというのか大勢の客を収容できるような店という感じで話をしていたような気もします。20年近く前になっているので、記憶も曖昧ですが。ミスター片町とも呼ばれていたことは自分で話していたように思います。

同じ片町の飲み屋で仕事をしていたという被告訴人YSNについて尋ねたとき、しらないと即答していたTK班長ですが、出所後電話で被告訴人YSNと話をしたとき、よく知っているというのと同時に、すぐに滝本組という金沢の暴力団の名前を出していました。

滝本組に関しては最終的に被告訴人KYNと会ったときの状況が思い出されます。これまでの悪い傾向として色んな事実が細切れのごっちゃになっていると思うので、これからはorg-modeのページ内リンクを活用してテーマに応じた分散的な記載を心掛けたいと思います。

滝本組に関しては姫のNKさんについても書いておきたいことがあります。それぞれにリンクを張るようにしたいと思いますが、先に被告訴人KYNににいて[[*被告訴人KYNとの最後の会見と会話の録音]]として書いておきたいと思います。

org-modeの記法を使って見出しのリンクを張りました。テキスト文書としては二重の半角カギ括弧で挟まれているかと思います。また、頭に半角のアスタリスクがあるかと思いますが、これはorg-modeで見出しの階層の数を表すものです。

この項目では主に被告訴人OKNと被告訴人HTNの関係について書くつもりだったのですが、パソコンについての説明を書いているうちに主題から外れてしましました。ここで一旦この項目の記述を終了して、別の項目を書いてからまだ戻って再開したいと思います。終了時刻を入れます。

<2014-04-04 金 12:12> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

<2014-04-04 金 12:22> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

さきに訂正しておきたい箇所があるので補充的な追記をしておきたいと思います。上記にアスタリスクの数について書きましたが、それは見出しそのものにおけるorg-modeの記法になります。

見出しに対するリンクも同じかと思っていたのですが、これは階層に関係なくアスタリスクを一つ付けることで、見出しのみをリンクのジャンプ先にする決まりになっているようです。

アスタリスクをつけないで2重のカギ括弧で囲んだ文字列は、ファイルの先頭から最初の同じ文字列がリンクのジャンプ先になるようです。つまり本文中であってもそちらに移るので意図せぬことにもなりそうです。

気をつけますが、見出しにまったく同じ文字列を使う可能性は少ないと思うので、*をつければ関連する見出しへのリンクとして機能してくれると思います。このリンクを活用できるのはorg-modeを扱えるEmacsを使った場合か、エクスポートしたHTMLファイルに限定されるかと思います。

ファイルそのものはorgという拡張子がついているので、通常のWindowsパソコンであればシステムと関連づけのない形式と判断され、起動するアプリケーションの選択を迫られるのではないかと思います。

ファイルの中身そのものはテキストファイルなのでメモ帳でも開けますが、文字化けすることと改行が反映されない可能性が高いかと思います。文字コードがUTF-8であり、改行がUNIXになっているからです。

比較的バージョンの新しいワープロソフトであれば、普通のテキストファイルとして開いて閲覧することは出来ると思いますが、余計な記号も表示されるので、読みづらいのではないかと思います。

もっとも最終的には印刷用のファイルとして整形する予定でいますが、そちらもリンクは機能しないはずです。リンクを活用するにはHTMLのファイルをブラウザで開いて閲覧することをお奨めしますし、ネットで公開する文書もHTMLを前提に考えています。

また、試してみたところ*を付けなかった場合、見出し以外の本文中にもリンクができると書きましたが、文字列中に該当する文字列が含まれる場合まで含まれるわけではないようです。文字列だけの一行で試してもみましたが、リンクにはならなかったようです。十分に理解できていない機能です。

<2014-04-04 金 13:00> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

*** TODO 被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係について
**** TODO 平成9年当時における被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係
<2014-04-06 日 17:21> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

すでに何度か書いてあるはずですが、平成9年1月18日に満期出所した私をワゴン車に母親を連れて迎えにきたのは、被告訴人OSNと被告訴人OKNと被告訴人KYNの三人でした。

今思うと平成4年当時はそれほど被告訴人OKNと被告訴人KYNの付き合いというのはなかったようにも思えます。仕事の内容もずいぶんと違っていましたし、同じ金沢市内でしたが住んでいる場所も離れていました。

中学生の頃を振り返っても二人の付き合いというのは余りなかったと思います。被告訴人KYNの家で被告訴人OKNの姿を見たような記憶もないですし、被告訴人OKNの家で被告訴人KYNの姿を見たのわずかでした。

それでも二人とも私の結婚式にも出席していましたし、被告訴人KYNの結婚式にも被告訴人OKNで出ていて、被告訴人OKNの結婚式にも被告訴人KYNが出ていたので、やはり親密な関係ではあったと思います。

ただ、二人とも個性と自我が強いので、二人だけでの付き合いや行動というのは、私としても想像しにくいものがあったとは思います。

共通する趣味となると、酒を飲むことかと思いますが、被告訴人KYNの方は酒そのものをこよなく愛する感じで日本酒を飲むことが多かったと思います。被告訴人OKNの方は飲んで騒ぐことが好きな感じでした。

被告訴人OKNは家で晩酌するのも想像しにくいタイプでしたが、被告訴人KYNは必ずという感じで酒とおかずだけでご飯を食べないようなことも聴いたことがありました。このような酒好きは能登ではよくいるタイプです。

もっとも平成4年以前は、私の方が彼らとは仕事の内容も違って時間の不規則な長距離トラックの仕事が多かったので、会うことが少なかったとも言えます。被告訴人KYNの場合は住んでいるところが近かったので、割と気軽には足も向いていました。

これまでに何度か書いていると思いますが、被告訴人OKNは東京と神戸に住んでいた時期があり、その間は地元に帰ってくることも少なかったと思います。

それでも東京にいるときは、チェイサーという車に乗り、東京都内で車を所有していたようです。駐車場の料金の話もしていたように思いますが、働いている喫茶店の給料がずいぶんと安いような話だったので、不思議といえば不思議でした。

喫茶店には住み込みで働いているという話でした。東京の台東区で浅草辺りと言っていたように思います。その住まいにも一度実際に行ったことがあるのですが、ごく断片的な場面しか記憶には残っていません。

昭和58年の7月の20日頃だったと思います。私は自動二輪の免許取り消しが響いて、半年以上遅れてようやく普通免許を取得した直後でした。修理に出した車の代車のポンコツの車で、被告訴人OKNの住む東京に遊びに行ったのです。

被告訴人OKNが付き合っていた彼女のOMとHMを連れていったことははっきりと憶えているのですが、もう一人が姫のDMだったように思うのですが、それはちょっと記憶がはっきりしなくなっています。3人とも同級生の少女で当時16から17歳かと思います。

当日は昼に横浜に遊びに行ったことと、夜に新宿に遊びに行ったことを記憶していますが、泊まった場所ははっきり記憶していないものの、喫茶店の住み込み先以外には考えにくいです。翌日にはその年にオープンした東京ディズニーランドに遊びに行きました。

その年、つまり昭和58年のお盆には、黒のチェイサーに乗って帰省していたかと思います。東京では花屋敷にも遊びに行ったのですが、そこで被告訴人OKNが車を駐車していたような場面を記憶しています。

そして翌年の昭和59年の3月か4月の頃には東京を引き払って地元に戻り、4月頃には私の紹介で金沢市場輸送に入って、一緒に探した東力のアパートで住むようになりました。不動産屋は丸福不動産だったと思います。

既に書いているかと思いますが、7月の宇出津のあばれ祭りで腰に大怪我を負ったといい、中央市場に近い金石街道沿いの波多野整形外科に入院をして、そのまま仕事もやめて遊び回っていました。

その昭和59年の11月から12月頃には金沢市出雲町の北陸地建で土木工事のアルバイトをしていました。Googleマップでは同じ出雲町に同じ名前の会社があるので、当時の会社かと思いますが、建物は場所が変わっている可能性もあるかとは思います。

北陸地建(株) - Google マップ http://bit.ly/1mSxWeS

アルバイトをしたのは一月半か長くて2ヶ月だったと思います。私は札幌から戻った直後でした。このアルバイトには被告訴人OKNの他、HMと富来のOTも一緒でした。北海道から連れてきた滝川市の16歳の少年も途中から参加したかと思います。

HMと書きましたが、彼は何度か名前が変わっていて、最終的にはSMになっていたかと思います。三重県に住んでいたとも聞きましたが、複雑な家庭環境でもあったようです。付き合うようになったきっかけはOTの方が最初でした。

これも既に書いていると思いますが、被告訴人YSNの観音堂のアパートの同じ並びのアパートに住んでいた珠洲のYHのところに彼女と遊びに来ていたUHが、西念町の古い木造アパートに住むようになっていて、そこに遊びに行っているときに知り合ったのがOTでした。

この富来のOTが本陣住宅に入社したことがきっかけで、被告訴人OKNは本陣不動産で働くようになりました。紹介だと聞いています。本陣グループは他に本陣建設というのもありました。本陣グループとしてテレビのCMにも出ていました。

平成9年の7月の初めに私は被告訴人OKNに世話をしてもらった金沢市北安江の借家に引っ越して来ましたが、その7月の下旬には被告訴人OKNの紹介というか口利きで、SMが部長になっていた金沢市内の建設会社で仕事をするようになっていました。正社員ではなかったかと思います。

社会保険に入ったように思うので正社員になっていたものと考えるのですが、その年の10月頃にはやめていたので、短い間でした。小さな会社でしたが金沢市の下水の仕事を請け負っているとかで、伸び盛りの会社という感じでした。

SMに関してはプライベートな部分にも触れることになるかと思うので、会社の住所や会社名は書かないことにしておきたいと思います。ただ、金沢市でも四十万の方で北安江からもけっこう離れていました。四十万よりは手前になるかとは思います。

SMは部長という肩書きになっていたと思いますが、どうも営業の方をやっているような感じで、現場で姿を見ることも少なかったと思います。社長の下に番頭のような人がいて、珠洲の蛸島の人だと聞いていましたが、5つぐらいの年上だったかと思います。

SMはその蛸島の人と仲良くなって長い間一緒に仕事をしていたらしく、名前はだいぶん前からちょくちょく耳にしていたように思います。ちょっと特徴のある名前でもありましたが、下の方の名前だったと思います。

いつころとなると現在思い出すのも難しいところがあるのですが、長い間仕事もせずに遊び回っていたSMが、まじめに仕事に取り組むようになったのは土木の仕事だったと思うのですが、東金沢というか鳴和の方の会社だと聞いていたような記憶があります。

SMと知り合ったのは昭和59年の夏頃かと思います。OTと知り合ってすぐでした。OTは金沢駅西口に近い広岡町のアパートに住んでいましたが、けっこう豪勢で新しい建物と部屋で階数が2階建てだったような気がしますが、マンションという感じの住まいでした。

そこに彼はMNという少女と同棲していました。少女といっても当時のことで年は私たちより2,3年下ではなかったかと思います。富山の高岡市の出身とも聞いていましたが、のちに被告訴人OSNの鳶の有限会社でナンバー2の番頭格になった宇出津のHSのこともよく知っている用でした。

ナンパされて付き合いがあったらしいですが、真脇の私の一つ年下のKHのこともよく知っているようなことを話していました。その後も1年ぐらいはOTを交えて付き合いがあったと思います。

昭和60年の秋の終わりか初冬の頃には、しばらく私の東力のアパートに二人で居候していた時期もありました、OTがガス代を払うと見得を切って実行してくれなかったおかげで、私は長距離から夜中に帰ったとき、2度ほど水風呂に入ったことがありました。雪の降るような時期だったと思います。

私自身、当時は中西運輸商の仕事で東力のアパートには帰ることも少なかったので、一緒に生活していたような実感も残っていないのですが、どうでもいいようなたまり場になっていましたし、誰が生活しようとさほど気にせずにいたと思います。

そこ頃だと思いますが、SMが牛のもも肉のステーキをニンニクを使った手料理で振る舞ってくれたことがありました。その時も以前に板前の修業をしていたと話していました。

知り合った当時のSMは北安江の大きな交差点の側の大きなマンションで、金沢市畝田町の一つ年下ぐらいの女と同棲をしていました。私が知り合ってからも半年ぐらいは付き合いが続いていたような気もしますが、別れたらしくそのうち話も聞かなくなりました。

OTもSMも仕事をしていない時期が長く、お金に困る生活も続いていたようです。ただ、今考えると北安江のマンションの後のSMの住まいは把握し出来ていないところもあったかと思います。もともと金沢市彦三の方に家があるようなことも話していたかと思いますが、親戚の家とも聞いていたかも。

石川県金沢市彦三町 - Google マップ http://bit.ly/1ejVTUg ← 改めて調べると彦三というのはこのあたりでした。私自身漠然と尾張町と瓢箪町との間ぐらいという認識しかありませんでした。

もともと地図を開いて金沢市内の住所を調べると言うことはほとんどやったことがなかったのですが、電信柱に書いてある住所を見て、どこがどのあたりということを把握していましたが、彦三の辺りというのは滅多に行くこともなかったかと思います。

親子関係とかその辺りも複雑な家庭環境のように聞いていたと思うのですが、どこか金沢地方裁判所の近くの養護施設で生活していたようなことも聞いていたように思うのです。これには被告訴人YSNと関係した人物で、他の話も印象的に憶えていました。

SMは割と気さくに自分の家庭の事情を話していたと思うのですが、私自身も立ち入ったことは聞かないようにしていたように記憶しています。もともとずいぶんと古い記憶なのですが、語られる内容を一方的に聞いていたような情報なので、どうもはっきりしない部分もあるかと思っています。

ずっと前から気になっていた問題なのですが、他人のプライバシーにも関わる事柄であり、どこまで踏み込むかずいぶんと迷ってきました。これは木梨松嗣弁護士と被告訴人OKNとの関係において特に気になる重要部分にも触れる可能性があるので、項目を別にして書いておきたいと思います。

ここでは被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係に焦点を当てて書いておきたいと思います。自分自身の記憶の整理もありますが、人間関係も整理しておいた方がよいかと思います。

被告訴人KYNは石川県立水産高校小木分校を卒業したあと、一年間ぐらいは父親の漁船に一緒に乗り漁をしていたと聞いています。朝鮮との境の辺りまで行き、数日間を海の上で過ごすとも聞いたことがありました。

そのうち家族の大反対を押し切って漁師をやめ、宇出津で水道屋というか配管お仕事を始めたと聞きました。

この間、何度か宇出津の被告訴人KYNの家に遊びに行って直接話を聞いたりしていたのですが、そういう機会も回数は少なかったと思います。私自身金沢に住んでいて宇出津には滅多に帰らなくなっていたからです。

宇出津の水道屋で働いていたというのも一年ぐらいだったかと思います。ずいぶんと不満があるらしく不当な扱いを受けているようなことも会ったときに話していました。

昭和58年の夏、私は白色のローレルという車に乗っていたのですが、そういえば夜にその車で遊び回っていたところ、宇出津駅の近くで夜間工事をする被告訴人KYNの姿を見たような記憶があります。

彼はその昭和58年の春先に高校を卒業しているはずなので、それを考えると家の船に乗っていたというのはもっと短い間であったことが考えられます。一年ぐらいと彼の口から聞いたような憶えもあったのですが、その場の思いつきで話していたのかもしれません。

秋になると私は同じローレルですが、黒と銀色の当時流行のツートンカラーの車を、輪島の若者から購入していました。輪島まで夜に車を取りに行ったことも憶えています。

白いローレルは宇出津の一つ年上のSさんから買っていたものですが、何度かぶつけて保険で直したりもしていたのですが、買い換えた方が良いという判断で廃車にしたと思います。

金沢市観音堂の被告訴人YSNのアパートに転がり込んだいた頃でした。藤江の輪島の暴走族のたまり場で、知り合った関係から売買が成立し、輪島まで車を取りに行ったのです。

その輪島の暴走族のリーダーがKTだったことは既に書いていると思いますが、被告訴人YSNの方が親しい関係でした。どういうつながりだったのか今は思い出せなくなっている部分もありますが、誘われて集団暴走にも何度か参加したことがありました。

私は被告訴人YSNの車に同乗しての参加でした。よく憶えていることは滝本組の参加と聞く暴走族の司(つかさ)と対立しているらしく、暴走中に出くわすことがあれば徹底的にぶちのめしてやれ、というような訓辞も受けていました。

藤江の陸橋の側の大きなアパートをたまり場にした輪島の暴走族の集会に被告訴人YSNと参加したのは2,3回ではなかったかと思います。リーダーであったKTが観音堂の被告訴人YSNのアパートに直接来たこともありましたが、何時どこで集会があるので集まらないかという誘いだったと思います。

一度、少し出世をしたような話を聞く若い暴力団員のアパートに遊びに行ったこともありました。だいたいの場所ですが、直線距離で観音堂のアパートと藤江のアパートの中間ぐらいの場所にあるアパートの一室だったと思います。住所は松村かと思いますが、お踊りからずいぶん外れていました。

けっこう大柄で背中に般若の面の入れ墨を入れた暴力団員でした。組の名前も当時は聞いていたと思うのですが、私がすぐにピンと来るような組の名前ではなかったように思います。珠洲のYHが一緒にいて彼の知り合いとしてそのアパートに遊びに行ったように思いますが、記憶は断片的です。

当時の金沢の暴力団というかヤクザの組としてよく聞いていたのは、福島組、紺谷組、松元組、滝本組、北野組でしょうか。たぶんそれ以外だったと思います。

石川県金沢市畝田西1丁目93 - Google マップ http://bit.ly/PJYi4W ← その観音堂のアパートがあったのはこの辺りかと思います。観音堂という町名は今もあるようですが、この場所は畝田になっているようです。

今、Googleマップで確認したところ当時、運転免許センターがあったあたりは、現在大徳中学校の敷地になっているようです。免許センターのすぐ近くであるだけにとても目立つ場所でもありました。

ちょっと絵を描いて説明しておく必要もあるかと思っているのですが、そのアパートは古い2棟のアパートが向き合って建っていました。平屋だったという記憶がある一方、最年長者らしい人物の部屋だけは2階にあったような記憶があります。

その最年長者らしい人物の部屋には、多分一度だけ入った頃があり、羽咋のIという男がヤクザをやめたお祝いという名目での集まりでした。

羽咋市にある雷神という大きな暴走族の元メンバーだったとも聞きましたが、知り合った頃は確か紺谷組系の暴力団員でありながら、組からも警察からも保険金詐欺の容疑とかで逃げ回っているという話の男で、年は私の一つ年上だと聞いていました。色の黒い男でした。

そういえば、被告訴人YSNからそのIに関する話を最後に聞いたときは、羽咋市に戻って食堂をやっているような話でした。私は平成14年の11月から平成21年の3月まで羽咋市内に住んでいましたが、思い出して考えることもなかったと思います。

羽咋市は能登では七尾に次いで大きい町だと思いますが、店も多い割には外食をする食堂も少なかったという印象があり、なかなか不便にも感じて生活していました。Iが働くような店のことを考えたこともなかったと思います。

昭和58年の8月の下旬だったと思いますが、宇出津の二つ年上の先輩DKさんの家で被告訴人YSNと再会したときも、そのIとナンパをしたような連れの女の子が2人いました。4人で来ていたのですが、その場で観音堂のアパートのことを聞き、遊びに来るように誘われたのです。

Iが所属していたと聞いていたのは山本総業ではなかったかと思います。当時はけっこう有名な暴力団事務所で、広小路の坂の途中、アーケードの一角のようなところに組事務所がありました。小さい建物でしたが目立つ場所で、選挙事務所のような感じもあったかと思います。

山本総業は紺谷組ではなかったかと思いますが、当時の若者の間では「やまそう」と呼ばれていました。Googleマップで場所を示しておこうと思いますが、とにかく目立つ場所でした。商店街の一角とも言えるかもしれないです。

石川県金沢市野町2丁目30−8 - Google マップ http://bit.ly/PK6u5l ← ヤマソウこと山本総業の暴力団組事務所があったのはだいたいこの辺りかと思います。大通り沿いです。

今回、Googleマップで調べてみて私自身初めて知ったのですが、金沢市に広小路という町内名はないようです。片町にもつながる大きな交差点を広小路の交差点とも読んでいましたが、正式には野田広小路になるのかもしれません。

ヤマソウがあった並びが野町になるというのも意外でしたが、よく見ると「にしの茶屋街」という大通りを挟んだ反対側も同じ野町2丁目になるようです。

本書でも前に触れているように思いますが、その現在観光地のようになっている「にしの茶屋街」の辺りの野町の一部と増泉1丁目の辺りは「いっさか」と呼ばれる特別な地区でもありました。昔は遊郭があってその後は赤線地帯とかにもなっていたようです。

「いっさか(石坂)」でも増泉1丁目でない野町の辺りは、以前から伝統芸能の観光地のような雰囲気がありましたが、被告訴人TSKの家はその辺りにあるとも聞いていました。実際にどの辺りか調べたことはないので、どんな家なのかもわかりません。

被告訴人TSKが自分の妻のことを、昔、その石坂のあたりでパンパンのリーダーのようなことをやっていたと話したこともありましたが、まともには聞いていなかったので、真偽の程も不明です。パンパンというのは死語になっていると思いますが、必ずしも売春婦ではないとは思います。

伝統のあるヤクザの家で組長をやっていたという話も聞きました。松葉会といような名称も聞いたように思いますが、同じ名前で全国的に有名な組織もあったはずなので、これもまともには聞いていませんでした。

人を食ったように虚実を織り交ぜたような話をするということでは、ほとんどが被告訴人TSKに対して同じような印象を思っていたと思いますが、実があればこそ会社の社長にもなっていたはずで、デタラメばかりではないはずですが、真剣に被告訴人TSKについて調べたような話も聞かなかったです。

被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係というテーマからだいぶんずれてきたようですが、まったく関連性がないような話でもありません。そもそも一番肝心なのが木梨松嗣弁護士と被告訴人OKNの関係であり、間接的にも参考や手がかりにもなりうる事実や人間関係だと思います。

被告訴人OKNがことさらに親密な関係を口にしていたのが姫のNKさんでもありますし、被告訴人MHK社長とは確実につながりがありながら、私の目からは関係を意識させないように振る舞っているようにも見えていました。直接向かい合って話をする姿も見たことはなかったです。

私は必ずしも姫のNKさんや宇出津のK村さんが事件に関与している怪しい人物であると言っているわけではありません。人間関係として接点があるのも間違いのない事実であり、真相を隠すため盾のように利用され悪影響を受ける可能性もある人たちとも思っています。

私は何年も何年も前から、同じような事実を金沢地方裁判所や金沢地方検察庁に提出する書面に書いてきました。警察や検察には捜査権限もあるので、必要を認めれば当然に調べていることでしょう。その過程にも間違いが起こる可能性があり、巻き込まれてしまう可能性も否定は出来ないはずです。

また、被告訴人OKNがいかに他人を利用し、画策を実行したかについては、私自身の体験としても刻まれている事実であって、実生活に相当なダメージも受けたはずです。

プログラムの世界では可読性の悪くなったソースコードのことをスパゲッティプログラムと呼ぶそうですが、書いている私自身が、状態を把握し収拾するのが難しくなってきました。羽咋のIのようなことは枝葉の事実なので、本体から切り離したいとは思うのですが、そういう細かいことも多いのです。

軽く触れると、羽咋のIはその後、被告訴人YSNが活躍した中央防災の社長であった輪島のKさんと一緒に暴力団員になり、山口組と一和会の抗争の時に拳銃を渡されて鉄砲玉を命じられ、そのまま逃亡したと被告訴人YSNは話していました。

そういう人間関係も普通は一時的なものが多いと思うのです。実際に私もそういう一時的な人間関係が多くありました。同時にそういう関係が、他の人との関係で接点を持つことが想像以上に多いと言うことも刑務所経験で知りました。友達の友達とか、友達の知人というような関係です。

中央防災についても書いておいた方がいいと思うことがあるのですが、そちらは被告訴人YSNに関する特集のような項目で取り扱った方が良いかと思います。

この被告訴人OKNと被告訴人KYNに焦点を当てた項目において書いておきたかったのは、藤江の輪島の暴走族のたまり場に、知り合ったばかりの頃の富来のOTも出入りしたり、集団暴走に参加していたと話していたことです。黄色のカリーナとも改造車のことを話していたことを記憶しています。

石川県金沢市藤江南2丁目13 - Google マップ http://bit.ly/1e8TSj9 ← 輪島の暴走族のたまり場のアパートがあったのは、だいたいこの辺りからと思います。

木造のアパートの建物も大きかったですが、駐車場も広かったです。舗装はされておらず空き地のような駐車場であったような気もしますが、沢山の車を駐車することが出来ました。近くにはバイパスレジャーランドのゲームセンターも当時からあったように思います。

ついでに当時のUHの西念町のアパートもだいたいの場所を示しておきたい思います。新しく広い道が出来たりして周辺の道路事情もいっぺんしているかとは思いますが、同じ西念でも中央市場のすぐ近くではありません。むしろ北安江に近いかとも思います。

ルミナス・モアーB - Google マップ http://bit.ly/1qo39Eb 石川県金沢市西念2丁目6 ← UHのアパートがあったのはこの辺りかと思います。

金沢の中央市場の正門には角に派出所があって、そこから一直線の通りでした。道幅が狭くなってから右手に「大三元」とかいう黄色い看板があったような記憶があります。その辺りを右に入って30メートルぐらいの左手にあるアパートでした。かなり古い木造アパートでした。

その大三元とかいう小さい看板のもう少し先には左手に3階建てぐらいの鉄筋のビルがあって、一階が寿司屋のような店になっていたと記憶していますが、その小さなビルの3階に珠洲のYHが住んでいました。

2回ぐらいか回数も少なかったと思いますが、そのYHのところに遊びに行ったことがあり、はっきりとは憶えていないのですが、他には考えにくいこともあって、たぶんその時にYHさんから近所にUHが住んでいると聞き、おもしろ半分でアパートに訪問したところ、そこにいたのだと思います。

当時、YHさんは高井水産に勤めていたと思います。初めは高井水産でつぶれた運送会社を数年前に引き取ったというような話も聴いていましたが、社内で社名の募集などがあり、山水運輸に決まったのではなかったかと思います。

高井水産から山水運輸になったことは間違いないのですが、いきなり山水運輸運輸になったのか、それとも一時期違う名前だったのかということで、やや記憶に自信が持てないのですが、候補の名前をいくつか聞いていたことで、記憶もおかしくなっているように思います。

高井水産に初めに入社したのは珠洲の三崎のSKでした。年は同じ同級生だと聞いていました。背も高く切れ長の目も特徴であったかと記憶しています。小松市の一つ年上ぐらいの女性と、神田の消防署の近くのアパートで同棲していました。

消防署と言っても小さい建物でしたが、その近くのアパートには宇出津のDKさんが住んでいたり、小木分校を卒業したばかりの真脇の被告訴人HTNの同級生Sさんが住んでいたアパートがありました。

このSさんものちに山水運輸で働くようになっていました。被告訴人OSNとの付き合いも親密な時期で、西インターの近くのバイパス沿いの新築のアパートに引っ越してからは、何度か被告訴人OSNらと遊びに行ったことも憶えています。

金沢港や中央卸売市場の新鮮食材を全国にお届けいたします。山水(やますい) http://yamasui-fish.co.jp/index.html ← 山水運輸のホームページのようです。

これをみると山水だけになっていて運輸とはついていないようにも見えますが、グリーンとクリーム色のようなトラックの色は、高井水産の頃から変わっていないと思います。カジキのマークやトラックのデザインも平成3年当時から変わっていないように見えます。

平成4年頃には中央市場の裏の方に会社事務所が移転していたようには思いますが、以前はバイパス沿いの周りになにもないような辺鄙な場所に会社があり、事務所の建物も建設現場の仮設事務所に近い感じであったとも記憶しています。

そういえば思い出しましたが、珠洲の三崎のSKは、その後山水運輸をやめて、しばらくしてから新田商店の4トン車に乗務するようになったと聞いていました。実際に、金沢港で仕事をする姿を見ていたような憶えもありますが、言葉を交わしたという記憶は残っていません。

その頃、金沢市場輸送で金沢港に魚を積むに行くのは縁の切られた丸中水産ではなく、新田商店の仕事になっていたと思います。蛸島のTSさんが松波の漁港で岸壁から海に飛び込み自殺したというニュースは平成1年の1月中頃ではなかったかと記憶しています。

昭和59年に私が金沢市場輸送で長距離の仕事を始めた頃は、蛸島のTSさんは新田商店で4トン車に乗っていると聞いたいたように思います。TSさんの話の大半は被告訴人OSNから聞いたものであったと思います。

新田商店は河北郡七塚町に会社があるとも聴いていました。その頃は4トン車が4台程度だったと思います。

何度か書いていると思いますが、金沢港でまとまった鮮魚の全国向けの仕事があるのは、6月前後のスルメイカのシーズンぐらいでした。実質は一月もあるかなしだったと思いますが、その時期は扱う荷物の量も多く忙しかったです。

昼というか午後に競りがあってスルメイカを積み込んでいましたが、本来的な金沢港の鮮魚の競りというのは夜に行われ、23時ぐらいに大阪、名古屋、新潟に向けて出発すると聞いていました。

その夜の仕事のほとんどは運送会社ではなく、新田商店のような魚屋が自社で所有するトラックで運んでいました。当時は全て4トン車だったと思いますが、昭和63年頃になると新田商店も10トンの大型車を一台は入れていたと記憶しています。

金沢港での売り場は、県漁連という場所と、大野埠頭の入り口のような場所に南浦漁協という売り場が別にありました。私の経験ではどちらからも荷物を積み込んでいましたが、ふだん待機などをしているのは県漁連の売り場の前でした。

ざっと思い出すだけでも新田商店の他、直市商店、表商店、という魚屋があって、赤宋水産というのもありましたが、魚屋と言うよりは運送会社に近いような話も聴きました。いずれも白ナンバーのトラックでした。他にもあったと思いますが、新田商店の4台という所有は一番多かったかもしれないです。

蛸島のTSさんに関しては、新潟県の柏崎市というか米山インターというのがあったと思いますが、高速道路である北陸自動車道が通行止めの時、側を走る国道8号線で吹雪の中、大きな衝突事故を起こしたとも聴いていました。新田商店のトラックだったと思います。

それほどひどい大怪我を負ったとは聴かなかったように思いますが、つぶれた車内に閉じこめられレスキュー隊に救助されるまでかなり時間が掛かったというような話も聴きました。

そういう話は聴いていたのですが、実際に新田商店のトラックに乗るTSさんの姿というのは見たことがなかったと思います。他にも新田商店の運転手の話は、ちょくちょく耳にしていましたが、今の記憶では被告訴人OSN以外の話としては考えにくいです。

TSさんは珠洲市の蛸島の人だと聞いていました。当時の国鉄も能登線の終着駅が蛸島駅になっていました。同じ珠洲市でも大谷のYSさんは水産高校の寮に入っているとか入っていたと聞いていましたが、TSさんの場合はまず汽車通学だったと思われます。

TSさんに関しては初めに町野高校に行き、なにか事情があって一年生の時にやめ、翌年に一年生として水産高校に入ったと聞いていました。実際の年齢などは同級生より一つ上になりますが、被告訴人YSNとは同級生で同じ漁業科のクラスメートでもあったはずです。

このあたりはその年代の石川県立水産高校の卒業アルバムを何度か見ることがあったので、被告訴人YSNと一緒に撮影されている写真も見ていました。

水産高校には他に機関科と製造科があり、製造科のほとんどは女子でした。私も通った小木分校には無線通信科がありましたが、本校に行くのは始業式の他、年にほんの数回程度でした。

水産高校の本校は同じ宇出津にありましたが、それだけではなく中学時代の同級生が何人も通っていたので、いろいろと話を聴く機会はあり、被告訴人YSNのことも高校一年生の頃には聴いて知っていました。

初めに話を聴いていたのはHSだったと思いますが、とても怖い感じの先輩で鬼のような顔をしていると話していました。同級生のDKさんも高校に入った頃の被告訴人YSNは、ぴしっとしていたけど、そのうちおかしくなっていったとしみじみ語ることがありました。

被告訴人YSNは私の二つ年上なので、私たちが高校一年生の時の3年生でした。名前だけは聞いていたとも思いますが、直接会ったことはなかったと言えばなかったのですが、一度HSらと鵜川の同級生の家に泊まりがけで遊びに行ったとき、夜の町で出くわして話をしたようなことはあったと思います。

鵜川は宇出津と同じ能都町でしたが、中学校は能都中学校と鵜川中学校で別になっていたので、親戚関係でもなければ高校入学以前の交遊や交流というのは、ほとんどなかったはずです。

私の場合は、新だ父親の姉だったかが鵜川の町に住んでいたことがあり、小学校の低学年の頃までは何度かその親戚の家に行くこともあったと記憶しています。それとは別に、寺参りによく母親に連れて行かれたことも憶えています。

宇出津とは距離でも10キロ弱ぐらい、車でも10分弱ぐらいではないかと思います。穴水や金沢方面に行くときの国道249号線の通り道でもありましたが、平成に入った頃になると、柳田村の上町を経由して穴水に行くことが多くなったとも言えます。

上町経由の道は現在、珠洲道路という看板も出ていますが、昭和58年頃も道はあって、通行はしていたものの、一部舗装のされていない砂利道の区間もあり、道も今ほど整備はされていなかったように思います。農面道路とも呼ばれていたと思います。

昭和56年の6月に私は小木分校を中退し、6月の終わりか7月頃には金沢の問屋団地でガソリンスタンドの仕事をするようになっていました。面接に行ったのは森本に近い神谷内のガソリンスタンドだったと記憶していますが、問屋団地のガソリンスタンドには寮もありました。

増泉1丁目のアパートに住んでいた被告訴人OSNのところに何度か遊びに行っていましたが、一度、どこかで被告訴人OSNの知り合いの車に出会い、その車で問屋団地まで送ってもらったことがありました。

その場ですぎに気がつかなかったのかもしれないのですが、それは蛸島のTSさんの車で、助手席に同乗していたのは被告訴人YSNだったはずです。話には聴いていたTSさんでしたが、実際に間近であったのは、その時が最初だったとも思われます。

私は本来2年生に進級したところで中退しましたが、その年の春に高校を卒業したのが被告訴人YSNらの年代だったはずです。

既に書いていると思いますが、TSさんは金沢市場輸送で長距離トラックの仕事を始めたと聞き、被告訴人YSNは中央市場のウロコ水産で仕事を始めたと聞いています。ウロコ水産は石川中央魚市とならぶ、競りを主催する鮮魚の売り場でした。

昭和59年当時、新田商店の話はよく耳にしていたことを憶えています。珠洲市の見附島の付近の人だと聞いていましたが、何とかという人の名前をよく聞いていました。変わった名前でしたが二文字で下の一文字は記憶しています。豪傑のような伝説的な人物のように話を聴いていました。

その人物に関しては直接見たという記憶がはっきり残っていないのですが、どこかに駐車してあることの多いトラックはちょくちょく見かけていた記憶があります。今思い出したのですが、箱の後ろだったかに観音様か何かの絵が描かれていたように思います。

新田商店のトラックは保冷車はほぼ例外なく飾りをつけていたと思います。トラックの飾りが全国的に流行したのは昭和61年辺りからではなかったかと思いますが、逆に時代をさかのぼるとトラック野郎という映画が流行し、そちらも飾りや電飾を流行にしていました。

どちらかと言えばそのトラック野郎の時代の流れがあったかと思います。昭和60年辺りになると飾りも昔とは違ったものになっていたと思いますし、「カミオン」という専用雑誌の書店に並ぶようになっていました。

トラック野郎という映画はその後、ビデオなどで見ましたが、リアルには実感することはなかったように思います。同じ菅原文太が主演でしたが、仁義なき戦いの方が宇出津でも、リアルに流行していたことは憶えています。

宇出津に映画館があったのもその仁義なき戦いが大ヒットしていた時代でしたが、その後まもなく閉館しました。小学校6年生の時だったと思いますが学年で「日本沈没」という映画を見に行ったことは憶えていますが、その1年から3年の間には閉館していたと思います。

金沢市内にレンタルビデオ店が出来たのも昭和59年の夏頃だったと記憶しています。今では考えられないことかと思いますが、当初は1本で1500円の料金ではなかったかと思います。レンタルビデオが普及していく時代の幕開けでもありました。

金沢のレンタルビデオ店でトラック野郎のビデオを借り、それを宇出津の城野町の二つ年上の先輩の家でみたことも、よく憶えています。昭和59年の夏頃ではなかったかと思います。

その先輩も被告訴人YSNとは同級生でしたが、水産高校を中退したとは聞いていたものの、それも被告訴人YSNと同じ漁業科と聞いた憶えもあります。

その先輩と初めて知り合ったのも昭和56年の12月頃かと思います。姫のNKさんと同じ頃で、どちらも小木か姫の遠洋漁業から戻ってきたところと、聴いていたように思います。NKさんの方は、そう聞いたとよりはっきり記憶しています。

宇出津の城野町というのは現在も数こそ減っているとは思いますが、ほとんどが町営住宅の集まる町内でした。同級生のHSも城野町で、彼のところにはよく遊びにも行っていました。

改めてこの項目のタイトル名を見ると平成9年当時の被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係になっていました。なにか勘違いしたまま書き続けていたようです。これは4月10日の初めての記述になるかとも思います。

被告訴人OKNと被告訴人KYNに共通する人物としてSMやOTの説明をしてきたことは十分に意味のあることです、平成9年の時点でも被告訴人OKNは本陣不動産の営業課長になっていたかと思いますが、その本陣不動産の入社のきっかけになったのもOTという友人関係があったからです。

不動産の仕事を始める前の被告訴人OKNは、車のブローカーというか売買の仕事も手がけていました。ここに絡んでくるのがUHです。UHはOTと知り合うきっかけとなった人物でもありました。

宇出津の城野町の先輩についてはまた違ったところ書こうと思いますが、昨日辺りに新たに思い出したことがありました。私自身は長距離の仕事で忙しかった時期だと思うのですが、OTとSMの二人が宇出津に遊びに来ていた時期があり、城野町の先輩とも一緒に遊んでいたという話でした。

こういうことを書いてよいものか多少迷うこともあるのですが、その辺りももうしばらく検討したいと考えています。被告訴人OSNとの関係でも重要な接点がある人物で、平成9年に福井刑務所を出てから一度も顔を合わせず、近況について詳しい話題を聞かなかったことも気になっています。

被告訴人OSNの会社をやめてから型枠大工の仕事をしているとは聞いたと思うのですが、金沢に住んでいるのか、どの辺りに住んでいるのかという話も全く聞きませんでした。ただ、城野町の先輩の甥にあたるような若者が、被告訴人OSNの会社で働き、活躍しているとは聞き、何度か会っていました。

城野町の先輩についてはこれまでに何度か書いていると思いますが、プライベートな問題もあって、配慮に迷うところがあります。真相を正しく伝えるためには不可欠と思える事実もあるのですが、記憶がはっきりしなくなっている部分も当然にあることでしょう。

平成9年の7月の下旬ぐらいからSMが部長をする建設会社で作業員の仕事をするようになったことは既に書いていると思います。規模としては20人もいないような会社ではありましたが、金沢市の仕事を入札して請け負っているなど、成長しているような会社でもありました。

8月に入る前に仕事は始めていたと思います。北安江の借家に引っ越してきたのが7月の1日か2日だったので、予め用意されたように事が運んでいたという気もします。そのあと被告訴人KYNの世話になるときは、多少渋るような対応もあって、もう少し時間も掛かったかと思います。

その建設会社で仕事を初めて10日か2週間ぐらい経った頃かと思いますが、車を買うことでSMに相談をしました。家を処分した現金があったのでどこで買っても良かったのですが、SMに世話になったということで、相談もしてみたのです。

その時に紹介されたのがTという人物でした。会ったことはなかったものの名前は以前から聞いていたような気もします。年は私たちより二つぐらい年上と聞いていたように思います。SMとの関係については聞いたような気もしますが、憶えていません。

店舗を持たずに車の売買をやっていたような感じであったと思います。初めにどこで会ったのかも思い出せなくなっていますが、すぐに代車の車を貸してくれました。車種はローレルだったと思いますが、自分の知る昔の型とはまるで違っていて、トヨタのマーク2にも似ていると思いました。

平成4年の4月からその平成9年の1月18日まで私は刑務所や留置場にいたので、世の中がけっこう変わり、町を走る車も見たことのないモデルが多かったとは思います。色はベージュのような色だったと思います。新しい型には見えましたが、車自体はかなり使い込まれているという感じでした。

車を探してもらって、最終的にホンダのトゥデイという軽四を買ったのですが、納車というか乗れる状態になるまではけっこう日数もあったように思います。だいたいになりますが、初めに代車を借りてから3週間ぐらいでしょうか。

どこか金沢市の出雲町あたりか古い整備工場の前で車を受け取ったような記憶もかすかに残っています。Tに関してはどこだったかのマンションに住んでいるとは聞いていました。どのあたりだったか思い出せないですが、藤江の方だったような気もします。

その時に買ったホンダのトゥデイは平成16年頃まで乗っていたと思います。羽咋市に住んでいた頃でしたが、故障してずいぶんと修理代が掛かると言われたので、その店で新車を購入したのです。日産のモカとかいう車ですが軽四でした。

平成21年の3月15日に車検が切れたと思います。それに合わせて羽咋市のアパートを引き払い、宇出津に戻ってきました。それが2度目の車検だったと思うので、初回が3年、その後の2年ということで5年前の平成16年の3月頃に買ったものかと思うのです。

私は平成11年の8月12日に金沢中警察署に逮捕されてから金沢刑務所に服役し、満期で出所したのが平成13年12月31日でした。頼んだつもりもなかったとは思うのですが、被告訴人OKNがそのトゥデイをあずかってくれていました。

その日、金沢刑務所の正門の前で、被告訴人OKNがワゴン車に乗って待っていたことは、すでに書いているかと思います。被告訴人OSNの鳶の仕事で使っているワゴン車ではないかと思いましたが、建設現場に出入りしているようにも思えないような車内でもありました。

金沢刑務所は金沢市田上にあります。市内の中心部から海とは逆の方角で山の方に行った辺りです。住宅地としても開けていたと思いますが、富山県の方にも近い金沢市内のはずれの方です。ちょっと道を違えてさらに奥に行くと湯涌温泉もあります。

なんと言っても12月31日は大晦日であり、普段とは違った街の雰囲気もあったかと思います。午前中だったと思いますし、福井刑務所の時のように長い時間待たされたような記憶もないので、午前9時頃には釈放されていたのではないかと思います。遅くても10時ぐらいには。

平成4年の事件の時とは違って、平成11年の事件の時は、被告訴人OKNは一度も面会に来なかったと思います。拘置所にいたときだけではなく、金沢中警察署にいたときも来なかったように記憶しています。

被告訴人KYNは一度は金沢中警察署に面会に来たと思います。どんな話をしたのか憶えていませんが、配管の仕事で来ていた金沢中警察署の建物に、こういうかたちで来ることになるとは考えたこともなかったと、驚いた様子で話をしていた場面を一つ、憶えています。

被告訴人KYNとは逮捕される数日前に、専光寺の近くにある病院で会っていました。久しぶりに自宅に連絡を入れたようにも思いますが、入院していると聞かされて向かったはずかと思います。これも別のところでもう少し詳しく書いておきたいと思います。

平成9年当時の話に戻したいかと思いますが、その前に途中にもなっているかと思うOTらとの出会いについて書き残していることを書いておきたいと思います。

西念町のUHのアパートでOTと初めて出会ったのは昼でした。そもそもそのUKのアパートに遊びに行った記憶があるのはほとんどが昼間で、例外はその昭和59年と思われる年の12月24日のクリスマスの夜でした。あれはあのアパートに行った最後かもしれません。

OTとはすぐに意気投合するような関係になったと記憶しています。初めて合った当日の夜と思われるのですが、これも忘れることのない出来事がありました。と言ってもごく断片的な一場面になっています。

場所が粟崎という金沢市内の地名であったことは印象的に記憶していますし、確かに行った場所も粟崎の付近で内灘駅にも近い住宅地だったと記憶しています。内灘駅は浅野川線の終着駅でもありますが、内灘は金沢市内ではなく河北郡内灘町です。

昨年辺りに無料化され「のと里山海道」というような名称に変更されたようですが、能登有料道路があって内灘はその出入り口のような場所でもありました。また、「海浜(かいひん)」と呼ぶことが多かったとも思います。

石川県金沢市粟崎町 - Google マップ http://bit.ly/R8ObYw ← こちらで確認しました。自分が思っていたよりは狭い範囲のようです。

ついでに書いておくと粟崎の隣には五郎島という場所があり、Googleマップをみると五郎島町になっているようです。石川県内では五郎島金時というサツマイモで有名な場所かと思います。

平成3年の7月から9月の間はよくその五郎島にセイゴ釣りに行っていました。スズキの一回り小さいのですが、40センチぐらいのはよく釣れていました。60センチ以上になるとスズキと呼ぶとか聞いたこともあります。

五郎島も金沢港の一部になるかと思いますが、他の場所では1メートルほどのスズキまで釣れると新聞に出ていたので知っていました。スズキを狙うのはルアー釣りだと聞いていましたが、私は電気浮きに大きな青虫をつけて釣っていました。

何がきっかけだったか憶えていないのですが、五郎島にはよく行っていました。仕事が終わった夕方からで21時かおそくても22時にはやめていたと思います。釣りに行って釣れなかったことは一度もなかったと思いますが、持って帰って食べることもなかったです。

金沢港には石油タンクもあって魚が油臭いとも聞いていました。一度だけ50センチ以上のが釣れたので持って帰り、家の冷蔵庫で冷凍しておいたところ、市場急配センターの「まさやん」という人が欲しいと言ったので、会社で手渡したことを憶えています。

スズキは黒くて鯉のような色をしたのが多かったと思いますが、五郎島ではヒラスズキというのも釣れました、これはきれいな色をしていましたが、食べようと考えたことはなかったです。

平成3年の7月、前妻に最後に家出をされた日の前日も、夕方の早い時間に五郎島にセイゴ釣りに行ったと記憶していますが、その時は被告訴人YSNも一緒でした。他にも被告訴人YSNと一緒に行くことが多かったと思います。3回に1回は一緒だったように思います。

私は宇出津という海のそばで生まれ育ったこともあり、小さい頃から中学生の頃までは、けっこう魚釣りをしていた時期がありました。小さい頃は冷蔵庫にある刺身などを持って釣りに行っていたことも憶えています。魚の刺身は好きではなかったです。

高校生になった頃から魚釣りをした記憶はないと思いますが、金沢市場輸送の大型保冷車に乗務し、仕事も慣れてから、道具を揃えて魚釣りをするようになりました。きっかけは憶えていないですが、誰かに誘われたようなことではなかったと思います。教わった憶えもありません。

金沢市の東力のアパートに住んでいましたが、近くに「釣り具の丸越」がありました。神田店ということになっていたでしょうか。本店だったような気もします。「まるこしに釣れたの」というテレビCMでもお馴染みの店でした。

西念町の方にも丸越の店がありました。竿やリールの道具を揃えたのはこちらの店の方であったかもしれません。金沢駅西口から一直線の50メートル道路沿いで8号線バイパスにも近いあたりでした。

道具は丸越で買いましたが、エサの青虫はほとんどを金石の小さい釣具店で買って、それから釣りに向かっていたと思います。ずいぶんと大きくて太い青虫でした。生きたまま使うエサなので、決まって買ってから釣り場に向かっていたと思います。

金沢港での魚釣りの話は、別の機会にすることがあると思います。当時は能美郡だったと思う美川にも魚釣りに行ったことがありました。一番多かったのは金石港の堤防だったと思います。厳重な柵を乗り越えて堤防に入っていました。それを含め別の項目でいくつか書きたいと思います。

OTらと知り合った当日の夜だったという気がするのですが、私の記憶の中ではSMと初めて会ったのはOTと初めて出会った数日後という感覚もかすかに残っています。もう30年近くも前になってしまったので、現在残っている記憶の範囲で書くしかありません。

昭和59年ということで西暦にしてみると1984念頭ことになりそうです。現在が2014年なので、まさに今年が30年目だと気がつきました。

とにかく知り合ったばかりのOTらと夜に金沢市粟崎の家に行きました。急な話だったのでのみ込めていない部分もあったかと思いますが、数日前の集団暴走の時に事故を起こして死亡したという若者のお通夜だったと思います。同級生だとすれば19歳という可能性もあるかと思います。

どの程度の付き合いのあった友人だったのかもわかりません。その後、その粟崎の若者の事故死のことが話題になることもなかったと思いますが、言葉以上に重いものを感じさせる雰囲気は共通のものとしてあったと思います。生活のスタイルも大きく変える契機になったことも考えられます。

私にしてみると、その場の成り行きで見ず知らずの人の家にあがって、生前の姿を知らない人の亡骸をみたことにもなります。とりわけ印象的だったのが、祖母のような人が涙ながらに、あなたたちは同じ過ちをしないためにもよく顔を見てください、と言われたことです。

部屋の中央に布かれた布団にお亡くなりになったご遺体があって、枕元にすり寄ってその顔を見たことは、まるで映画の場面のことのようでもありました。

粟崎の家のお通夜には5人ぐらいで行ったように思います。考えられるのは確実性の高い順に、OT、被告訴人OKN、UHでしょうか。

観音堂のYHさんのアパートで知り合ったUHとの関係も一時的なものだったので、当初OTとの関係もそれほど続くとは私自身考えていなかったように思います。知り合ったきっかけは私でしたが、その後の関係が続いたのもより親密な付き合いをしていたのも被告訴人OKNの方でした。

被告訴人OKNの方が趣味や気もあったのだと思いますが、OTは私の方に親近感を持つような面もあったかと思います。その後、私と同じ長距離トラックの仕事をしていたのも、そういうことなのだろうと思いますが、不動産の仕事を始めたと聞いたときは、ずいぶん意外に感じました。

知り合ってすぐの頃のOTは仕事を探している状態だったということもあり、すぐに金沢市場輸送に紹介して一運行だけ仙台だったかに行ったのですが、同乗した社員と折り合いが悪かったらしく、相当腹を立てた様子でやめると行っていました。

宮川という名前の運転手だったと思います、昭和59年当時若くて25歳か高くて28歳と聞いていたように思います。金沢の福久の方に家があって、何かの機会に一度だけ遊びに行ったこともありました。癖の強い人物でしたが、昭和61年の8月に入社したときにはすっかりいなくなっていました。

宮川という人は4トン車の運転手でした。4トン車の運転手の中では古い方でもあったと思います。私自身、初めて仙台に行ったときは彼が同乗していた記憶があります。塩釜から冷凍魚を運んで来たように思います。

当時はまだバブルの好景気の到来前で就職難でもあったと思われ、運転手の募集や出入りも多かったと記憶しています。普通免許で乗れる4トン車の場合それが顕著でした。

前にも書いていると思いますが、OTはしばらくの間、私がいた中西運輸商でも4トン車の運転手をしていました。被告訴人OKNがいた時期ともほぼ重なると思いますが、被告訴人OKNは仕事より遊びを優先している感じで、やめたあとも遊び回っている様子でした。

その後OTは、中谷運輸の平ボディの4トン車で長距離の仕事をしていました。これはけっこう長く続いていたと思います。中谷運輸は小さい運送会社でしたが、松任金石線とも言いましたか主要な道路沿いに、トラックの駐車場があって、前を通りかかる機会もけっこうありました。

その中谷運輸にはずいぶんと飾りを付けたトラックがいて、北誠会というグループの代表的なアートトラックにもなっていたようです。カミオンのような雑誌にも紹介されていたと思いますし、とても目立つトラックでした。

北誠会というのも無線のクラブのひとつだったような気もします。当時は無線が流行っていました。無線にはパーソナル無線とCB無線とかがあったと思います。私自身はあとの方になってパーソナル無線を少しだけやりましたが、どうも性格的なものか無線は好きにはなれなかったです。

機械に関心がなかったわけではないのですが、作法的なものには、とても馴染む気がしませんでした。

パーソナル無線自体は宇出津の仲間の間でも昭和58年の初め頃には流行っていたように思いますが、一時的なもので1年もすると続けている人は余りいなくなっていたような気もします。ファミコンとかが流行りだしたのも同じ頃かと思いますが、同じく私は興味を覚えませんでした。

CB無線に関してはパーソナル無線より前から存在は知っていたと思いますが、余りよい評判というのも聞かずマイナスのイメージが強かったとも思います。信号機の状態を変えるほどの強力な電波を使ったり、無線機を持つ腕が異様に細くなるなど中毒性が高いとも聞いていました。

中西運輸商は九州方面の仕事が多かったですが、運転手の大半も九州の人間だと聞いていました。CB無線をやっている人も多くて、「厳流会」というクラブ名もよく耳にしていました。YTは付き合いが多かったと思いますし、彼も無線はやっていたような気もします。

パーソナル無線に関しては流行りだした早い時期から自宅に固定で使っている人もいましたが、CB無線に関しては自宅につけているとか乗用車につけているという話は、私の知る範囲では聞いたことがなく、もっぱら長距離トラックという感じでした。

北誠会と言うことでインターネットで検索をしてみたのですが現在も活動中のようです。デコトラという言葉も目につきましたが、デコレーショントラックのことかと思われるものの、昭和の時代にそういう言葉は使われず、アートトラックは見ていたように思います。

同じ中谷運輸で運転手の数も少なかったと思いますので、当然に顔見知りだったとは思いますが、OTから北誠会の話を聞くことは多くはなかったと思います。また、彼自身がトラックを飾るようなこともなかったと思います。

中谷運輸の感謝に関しては親近感ももって色々と話をしていたように思いますが、憶えていることも少ないです。はっきりとは憶えていないものの当時は運転手の数もトラックの数も10には満たなかったように思います。長距離は駐車場の出入りも頻繁なので把握がしにくい面はありますが。

一度、北誠会のイベントということで千里浜に行ったことがありました。5,6人かもう少しいたような気もするのですが、OTがいたことは確実と思われる他は、誰がその場にいたのかも思い出せない記憶にはなっています。北誠会の活動が活発化し名前が定着したあとであったとは思います。

中谷運輸にいる頃のOTは野々市のアパートで一人住まいをしていたようです、私自身、2,3回は行ったことがあると記憶しているのですが、遊びに行ったという記憶よりは、立ち寄ったとか訪問したという感じで、夜に行ったことはないかもしれません。

野々市とは聞いていたと思いますが、野々市町の中心部からはずいぶんと離れた場所で、松任市にも金沢市にも隣接していたと思います。野々市の駅に近い場所で、踏切を渡ったところの角にあるような古いタイプのアパートだったと記憶しています。

長距離の仕事でどこかで顔を合わすようなこともあったと思いますが、連絡先の電話番号というのも知ってはいなかったような気もします。当時は当然に携帯電話などなり時代でした。

中谷運輸をやめたような話も人伝に、かなり疎遠になっていた状態で耳にしていたように思いますが、どれぐらい間があったかは思い出せないものの、そのうち不動産会社に就職して営業の仕事をするようになったとか耳にするようになりました。

私自身、長距離の仕事では不在が多かったと思いますが、居候のような状態で同居していた時期のあとは、特にOTが遊びに訪ねてきたような記憶も残っていません。

時々、近況のような話を耳にすることはあったように思いますが、その話のほとんども被告訴人OKNから聞いていたのではないかと思います。振り返るとほとんど顔あわすことのない状態が長かったように思えます。

ずいぶんと久しぶりにOTやSMと会ったと思われるのが片町のディスコ「さむらい」に行ったときのことでした。耳にするだけの言葉だったので店名を漢字で書くのかカタカナだったのかもわからず、見当もつかないので、とりあえず平仮名にしておきました。

この「さむらい」というディスコのことについては、被告訴人YSNのことも絡んでくるので、別の項目で詳しく書くことにしたいと思います。

「さむらい」というのは最も可能性が少なそうな気がしてきたので以降は、とりあえず「サムライ」としておきたいと思います。金沢で初めてオープンした開放型のディスコというような評判を聞いていました。開放型というのは私の説明上の表現です。そんなのは聞いたこともないディスコです。

※Emacsという現在書面を作成しているアプリに不具合が発生しまして、バックアップファイルから復元をしたものの本日つまり2014年4月14日に書いた部分のデータが失われました。

※Twitterの同時投稿をしていたのでTwilogから本日分のデータを取得しましたが、Twitterの投稿に失敗している部分もあるかもしれません。以下にTwilogから得たデータをコピペしますが、末尾に投降時刻の情報がついています。HTMLから取得したものです。

※以下、Twilogからコピペで復旧させたデータ(欠落の可能性あり)

本来この平成9年当時の被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係に関する項目では、主に被告訴人KYNが被告訴人OKNの世話で会社をかねた中古住宅を購入し、さらにその数千万円という借金の保証人になったという話について取り上げるつもりでした。
posted at 10:43:55

その住宅に関しては高くても4千万円を超えるような話ではなかったように思います。借金の方も3千万円か3千500万円ではないかと思われます。具体的な数字を聞いたとは思いますが、ずいぶん前のことでもあり、また、相場的にもそれぐらいかと思った程度だったので強い記憶にはなっていません。
posted at 11:30:27

被告訴人OKNの方も平成9年の1月に私が福井刑務所から出てきた頃には、中古住宅を購入していました。そちらもだいたいの金額は聞いたような気もするのですが、被告訴人KYNと似たようなものだったような印象がぼんやりと残っている程度です。
posted at 11:32:58

被告訴人OKNの中古住宅は金沢市円光寺でした。この円光寺や高尾のあたりが金沢市内でも住宅地としては土地の値段が特に高いという話は聞いたことがあり、また被告訴人OKNからもそのように聞いていました。
posted at 11:35:19

よほどの掘り出し物かとも思ったのですが、5千万円とかそういう金額ではなかったと思います。よくよく考えてみると黒田1丁目の被告訴人KYNの中古住宅も高くて3千万ぐらいにも思えてきました。
posted at 11:37:00

円光寺の辺りは店も多くバス停もあって利便性は高いのかと思われますが、能登に帰ることを考えると逆方向の金沢市内の外れに近いというイメージもあって、個人的に交通の便が良いという感覚にはなれなかったです。
posted at 11:41:13

被告訴人KYNは黒田1丁目でしたが、車がないと生活は相当不便な場所だと思います。間明にマルエーというスーパーが一つあったので、歩いて買い物に行けないこともなかったとは思いますが。
posted at 12:05:05

それにけっこう大きな川の土手沿いというのも地価が低くなる要因とも思われます。水害発生のリスクがいくぶん高くなると考えられるからです。
posted at 12:07:20

ついでに書いておきますと、いつだったか被告訴人OKNの付き合いで、どこかの喫茶店での不動産の商談の場に居合わせたことがありました。被告訴人OKNのお奨めは金沢市粟崎の物件でした。
posted at 12:09:08

相手は粟崎で以前水害が起こったという知識もあったらしく、かなり慎重な様子で、被告訴人OKNの説得に応じないような対応をしていました。金沢市内のどのあたりの喫茶店だったかも思い出せないのですが、既に被告訴人HTNの住宅が粟崎ということは私が知っていたと思います。
posted at 12:12:34

粟崎の辺りは金沢港の一部のような場所で、山の方からはるかに遠く離れていますが、どうも地盤が低いような話ではなかったかと思います。
posted at 12:15:10

被告訴人HTNの粟崎の住宅に関しては、項目のタイトルをつけただけで、まだ説明を書いていないと思います。こちらは中古物件ではなく、「○○邸新築工事」になっていました。○○の部分はもちろん被告訴人HTNの家の名前です。具体的な金額を書面として見ています。
posted at 12:17:29

書面といってもMicrosoftのWordのファイルだったので、改変も自在の状態ではあったとは思います。細かいことは別の項目の方で書きます。
posted at 12:18:26

被告訴人OKNに対しては、円光寺の中古住宅に関して被告訴人KYNに借金の保証人になっていないのか尋ねましたが、被告訴人OKNははっきりと保証人にはなってもらってはいないと答えていました。
posted at 13:18:16

円光寺の中古住宅に関しては、頭金をいくら入れたとかどれぐらいのローンを組んだとか込み入った話は聞かなかったと思います。
posted at 13:19:28

福井刑務所に迎えに来た時点での被告訴人OKNや被告訴人KYNの様子がおかしかったので、へたに突っ込んだ質問をして警戒心を与えても良くないと考えてはいましたし、本当のことを答えるとは限らないとも思っていました。
posted at 13:21:12

石川県金沢市円光寺 - Google マップ bit.ly/1hA1omX ← 円光寺というのは金沢市内のこの辺りです。地図で見たことは余りなかったのですが、思っていたよりは狭い範囲という印象もあります。
posted at 16:57:41

SMの先輩であり上司にもなる蛸島出身のKさんが、ふと被告訴人OKNに関して不動産の仕事をしているのに、自分でシロアリの家を買った、というようなことを口にしたことがありました。前後の会話は記憶にないですが、その部分だけよく憶えています。
posted at 17:01:17

とりあえずKさんとしましたが、これは上の名前ではなく通常○○さんと呼ばれていた下の名前の頭文字のイニシャルを使いました。上の方の名前も憶えていたはずですが、思い出せなくなっています。
posted at 17:03:18

そのKさんに関しては名前だけはSMから頻繁に聞いていたように思います。前に少し触れていると思いますが、初めに東金沢の方の建設会社で働いていると聞いていた頃より、その名前を聞いていたようにも思います。かなり世話になり慕っている様子でした。
posted at 17:05:34

東金沢の方というのは星陵高校の近くとも聞いていたように思います。私自身、星陵高校の場所というのは漠然としか認識していませんでしたし、用事もなく滅多に行くような付近でもなかったと思います。高校野球で有名になった星陵高校です。
posted at 17:08:53

私立星稜高校 - Google マップ bit.ly/1hA41Fj ← 確認もかねて調べてみたのですが住所が次のようになっていました。石川県金沢市小坂町南206
posted at 17:12:55

この小坂町というのはけっこう見覚えのある地名です。鳴和から森本の方に行く主要道路沿いに小坂町というような看板のついた交差点があったと記憶しているからです。鳴和から反対側にまっすぐ行くと橋場の交差点があって、その先には金沢地方裁判所の側の兼六園下の交差点に出るはず。
posted at 17:16:45

その辺りは市内配達などの仕事でもちょくちょく通っていました。とりわけ記憶に残っているのはその道路沿いの森本の手前だったかに「大鶏」という鶏肉の加工場のような会社があったことです。昭和59年当時はよくブロイラーを積みに行っていました。
posted at 17:20:51

その主要道路沿いで森本の町を抜けてしばらく走ると河北郡津幡町の手前辺りで国道8号線に合流しましたが、そのしばらく手前の道路沿いには日野自動車の工場がありました。その後、8号線バイパスに大きな新工場が出来ていましたが、その頃には日野の工場に出入りすることはなくなっていました。
posted at 17:24:08

それでも考えてみると最後に乗務した市場急配センターの10トンウィング車3068号も日野のトラックでしたが、そういえば平成4年の1月頃に、その森本の工場に行ったことがありました。
posted at 17:26:30

会社に掛けた電話で被害者AAさんに、「今日仕事終わったらラーメンでも食べにいかんけ」と誘ったとき、工場のすぐ近くの公衆電話から掛けていたと思います。彼女は「いけるけど、今日はいけん」と意味ありげな感じで断っていました。いける、とは行ってもいいけど、という意味です。
posted at 17:29:21

平成4年3月23日の夜の電話でも彼女は同じような返答をしていましたが、問い詰めるとその時は、「こわいし」と行っていました。今から自分(私)のアパートに来るように言っていたときのことです。
posted at 17:31:47

金沢市場輸送で乗務した最後の10トンウィング車も日野のトラックでした。もっともこの2台は新車だったので故障というのもほとんどなかったとは思います。その前の108号とかいう冷凍機付きの保冷車も日野でした。
posted at 17:33:44

なにかトラックに不調があって日野の工場に行ったのだと思いますが、思い出せなくなっています。あるいは定期点検のようなものであった可能性もあるかとは思います。
posted at 17:35:11

SMの仕事先については小坂町の近くと説明を受けていたのかもしれません。会社の名前とかもたぶん聞いていたのだろうとは思いますが、憶えてはいないです。
posted at 17:38:07

はっきりと印象に残っていることは、SMがようやく落ち着いて土木工事のような会社で腰を落ち着けて頑張っているというような話でした。高校卒業の資格を得るため夜間学校に通うとか、あるいは通い出したという話も聞いたように思いますが、その後、卒業したような話も聞いてはいません。
posted at 17:40:42

夜間学校というのは金沢市でも少なかったと思います。中央高校というのがそうだったと思いますが、通っている人と何人か知り合ったこともあったので、多少知識もあったかと思います。4年制だったはずで、そんな長い間、今も通っているという話も聞かなかったです。やめたとも聞かなかったですが。
posted at 17:44:44

本陣住宅が倒産しました。今後の家の修理や保証はどうなるのでしょうか - Yahoo!知恵袋 detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_de… ← 調べていてこういう情報を見つけました。
posted at 18:08:27

※Twilogからコピペしたデータの終わり。

<2014-04-14 月 18:53> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

<2014-04-15 火 17:57> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

見出しの本文編集における記述範囲の開始と終了の時刻に関する説明も済ませたので、これからは各項目間を移動しながら全体的な構成を整えて行きたいと思います。

この項目では、繰り返しになりますが、平成9年当時の被告訴人OKNと被告訴人KYNの関係に焦点を当てています。

当時のことを振り返ってあらためて考えてみますと、被告訴人OKNの紹介というか口利きで、SMが部長をするK建設に働くようになりましたが、よく考えてみると、被告訴人OKNとSMが顔を合わせた姿というのも一度も思い浮かばないのです。

SMに関しては馬替のマンションに住んでいると聞いていたような気もしますが、遊びに行くようなことは一度もなかったし、そういう雰囲気すらなかったです。被告訴人OKNの方でもなにか距離をとっているような慎重さもうかがえなくはなかったです。

ずいぶんすんなりと口利きで仕事が決まった割には、付き合いがまったく見えてこず、私がいない間にあった昔話に触れるようなこともなかったと思います。ただ、金沢の伝統芸能の仕事をする家に婿養子に入り、名前が変わったとは聴いていましたが、これも何時頃のことかはよくわかっていません。

私自身、再審請求や被害者とその家族のことで頭がいっぱいだったので、気がつかずにいたこともあろうかとは思います。合同法律事務所の西村依子弁護士のところに相談に行ったのも、まだK建設で働いている頃でした。午後からの仕事を休んで行ったように思います。

西村依子弁護士の場合は、受任を断られたものの相談料もいらないと言われたので、さほどのダメージでもなかったと記憶しています。当時は新聞でもちょくちょくと名前を見かける弁護士でしたが、相談の電話を入れたのは合同法律事務所でたまたま西村弁護士が応じたようにも思います。

合同法律事務所に関しては共産系の弁護士が集まる事務所で、刑事弁護に熱心に取り組むと福井刑務所で聴いていたことがあったので、電話をしてアポをとりました。

その話をしたのはFという同じ2工場の受刑者でした。彼も金沢市近郊の運送会社に働いていて、わいせつ事件の犯人にされたとか話していました。再審請求をするとも言っていたと思いますが、まったくの濡れ衣か嵌められたようなことを言っていました。

その運送会社のことは知っていました。運転手仲間だった二人が一時、その会社のトラックに乗務していたからです。一度、夜中に福井県の敦賀市の海岸線から急な坂に登るところにある大きな駐車場の食堂で一緒に食事をしたこともあり、その会社のトラックに乗務していました。

中西運輸商とも関連のある人物ですが、プライベートな問題を含むので、あやふやな表現にとどめておきたいと思います。もちろんこれまで検察や裁判所に提出した書面では、名前もはっきり書いておりますし、記憶の新しい時期に詳細を書きつづっているはずです。

その一人の運転手は以前、小木のYMさんと関係があったと話していました。YMさんに関する説明も途中になっていると思いますが、被告訴人OSNが鳶の仕事をするようになったきっかけらしい人物です。引き継ぐかたちで清水建設の仕事をするようになったと被告訴人OSNは話していました。

YMさんは、昭和59年10月に私が金沢市場輸送をやめたあと、しばらくのあいだ金沢市場輸送で4トン車に乗務していたとも話していました。当時は市内配達だけの仕事というのはなかったはずなので、長距離だったのだと思います。

何時頃、どれぐらいの間、金沢市場輸送にいたのか細かいことは聴かなかったか、聴いていても忘れているのだと思いますが、本人から直接その話を聴いたのは、どこかで説明が中断したままになったはずの、崎山の商店の前でした。

実は今日の15日、昼過ぎに宇出津新港のどんたく宇出津店に買い物に行って、その帰りに崎山を通ったのですが、スマホでそのあたりを写真撮影してきました。どうも店の看板は外され、文字の跡だけが残っているようでした。紙子商店と書いてあったように思いました。

店の方は撮影せず、前の道路と反対側のあたりを撮影しました。桜の並木があることに気がつきましたが、他の宇出津の桜より花は少ないように見えました。日当たりがよいので早めに咲いて散り始めたのかもしれません。それに崎山は風も強いです。

とりあえず一枚をTwitterにアップロードしましたが、URLは次のようになります。

Twitter / hirono_hideki: 2014-04-15_15.12.20.jpg ... https://twitter.com/hirono_hideki/status/456005699521085440/photo/1

このファイル名はスマホのアプリの方で自動的に付けてくれるものなのですが、本当は日付と時刻の間が半角のスペースになっています。これではスクリプトの実行時にエラーが出るので、半角スペースを半角アンダーバーに変更しました。

Linuxだと、rename s/\ /_/ *.jpg とやるとカレントディレクトリのjpgを拡張しに持つファイルの半角スペースを半角アンダーバーに全て置き換えてくれます。UNIXやvimではお馴染みの作法です。

崎山にバス停があるというのも今回初めて知ったのですが、桜のある側のバス停の看板があるちょうどそのあたりに停めた車の中で、YMさんと話をしました。昭和63年の8月の中頃、お盆休みのときだったと思います。

時分も大型車に乗務してみたかったと話していたことも印象的でした。今の仕事のことについても話を聴いていたのかもしれませんが、そういうことは記憶に残っていません。

小木のYMさんが金沢市場輸送にいたということは、その時初めて聞いた話ではなかったと思います。本人に会ったのも久しぶりだったので、本人から話を聴いたのはその時が初めてだったとは思いますが、それほど驚きもなかったと記憶しています。

ただ、YMさんが他の運送会社でトラックに乗ったという話は聴いてはいなかったと思うし、意外性はありました。

前にも書いていると思いますが、今一度、昭和59年に金沢市場輸送に入社した私の友人知人について整理しておきたいと思います。YMさんもその一人だったと思いますが、意外性が強かったため半信半疑で聴いていたような気もします。ごく短期間とも思いました。たぶん聴いたときの相手の話しぶりでも。

まず最初に私が紹介したのが被告訴人OKNでした。そのあと被告訴人OSNが入社しましたが、これも私の紹介のようになっていて、被告訴人TSK社長の夫人にずいぶんと感謝されたことも覚えています。普段は不機嫌そうな顔で無口な夫人だったので、余計に印象的に憶えています。

その後、9月か秋頃になって、珠洲の三崎のHMが入社しました。これは私の紹介だったと思います。私自身がやめる一月ぐらい前だったように思います。HMはずいぶんと仕事を頑張っていたと聞き、それまで不可能とも聴いていた歩合をもらっているとも聞きました。

ちょうどバブル景気が近づいて景気が上向きになり仕事が増えてきた時期にも重なっていたのかもしれません。昭和59年当時の4トン車の運転手の給料は売上が80万円まで20万円と決まっていました。80万円を超えると歩合がつくと聞いていましたが、運賃が安いので無理と聞いていました。

昭和59年当時の金沢市場輸送の記述はしばらく中断して、さきほど取り上げた福井刑務所の受刑者Fの話について、項目を別にして記述したいと思います。とりあえずFとしたと思いますが、現在もフルネームはだいたい記憶しています。

上の名前はまず間違いないと思っています。他に聴いたことがない名前ではありましたが、埼玉県の市町村名と同じと言うことも覚えやすくしていたと思いますが、それでもこれまでは何度か忘れてしまい、思い出すのに時間の掛かったこともありました。

下の方の名前も90パーセント以上は正確性があると思っていますが、漢字二文字の下の方となるとちょっとだけどうかという気もします。これまでの私の作法通り上の名前と下の名前のイニシャルの連結でこれからはFKと表記したいと思います。

前後の文脈で分かりづらいと思われる場合は、福井刑務所の受刑者FKという書き方もすると思います。このスタイルもこれまでと同じものです。

金沢市場輸送の昭和59年当時の状況に関しては、これも別の項目として分けた方が良いかとも考えています。相当の分量にもなりそうですし、整理の必要性も感じるようになってきました。もうしばらく検討します。

<2014-04-16 水 01:51> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

**** DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月6日
CLOSED: [2014-07-08 火 08:08]
<2014-07-06 日 11:48> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

一見無関係な2つの問題を項目の見出しにしました。内容的にも共通している問題点があるので是非そうしたいと考えたのですが、時間的な近接もあります。

まずは、昨夜の宇出津のあばれ祭りでの写真です。→ 2014-07-06_01.25.33_宇出津あばれ祭り.jpg pic.twitter.com/69yBWPaea2

これは被告訴人KYNに声を掛ける直前になります。写真はスマホでの撮影ですが使っているアプリの関係でファイル名に撮影時刻が入り、そのファイル名を元にリネームしました。

写真に写っているのはキリコと呼ばれるものです。能登半島各地にある祭りでよくあるものですが、それぞれに特徴があります。例えば輪島だと漆塗りだと聞いています。能登に生まれ育った人ならとても馴染み深いものですが、そうでないと理解もしにくいかもしれません。

能登キリコ祭り - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/能登キリコ祭り

宇出津というのは能登半島でも町の規模としては、比較の上でさほど大きいわけではないですが、キリコ祭りとしては宇出津のあばれ祭りが一番有名かもしれません。他に七尾市石崎の石崎奉燈祭や輪島大祭が有名ですが、石崎は和倉温泉の隣町でもあり、輪島も朝市として観光地なので規模は大きそうです。

あばれ祭り - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/あばれ祭り

宇出津の場合、平成17年辺りに鉄道も廃止になり、宿泊施設も少ないので条件はかなり悪いと思いますが、それでも祭りの二日間だけは普段とは比較にならない沢山の人が集まってきます。

新聞か何かで見かけたように思いますが今年のあばれ祭りのキリコは39基と見かけました。以前は50基近くあったそうなので、規模自体も小さくなっているようです。過疎化や高齢化が進んでいますが、とりわけ子どもの少なさは歴然としています。小学生などは自分らの頃の5分の1ぐらいらしいです。

宇出津のあばれ祭りでは各町内ごとにキリコが出ますが、からかじめ順番が決められ番号も振られています。最後尾のキリコの番号を見たところ28番になっていたので、28の町内が参加していると思われますが、この数を見ると人出が足りず、参加を見送った町内もいくつかありそうです。

宇出津の町内というのは住所にはない町名です。範囲となると地元に住んでいても境がわかりにくいことがありますが、なかには、本人の希望とかで飛び地で隣接する町内になる人もいるそうです。

家が20件ほどの町内もあると聞いていますが、空き家も含まれていたりするのではと思われます。小さい狭い範囲の町内が多いですが、中には小さい町内の数倍というのもあります。私が住む小棚木という町内は、多分一番広い町内で人の数も多いと思われます。

私は小学校5年生に進学した昭和50年4月に、宇出津の今の小棚木の家に引っ越してきました。母親の実家のような家でもありますが、母親の家族というのは昭和の初めころに京都から移り住んできて、その後京都に戻っていったと聞いています。

母親の父母というのは私の祖父になりますが、私が物心ついた頃には亡くなっていたのかと思います。年々頃、どこで亡くなったのかも聞いていないのですが、祖父の名前は小島伝次郎だったようです。

私が物心ついた頃、母方の親戚で宇出津に残っている人はいませんでしたし、年に1回、夏に遊びに来るという程度の付き合いでした。稀には用事で来ることもあったかもしれません。電話ではよく話をしていましたが、そんな時、母親はいつも京都弁で話をしていました。

親戚が毎年夏に遊びに来ていたのも私が小学校の低学年でまだ辺田の浜の家に住んでいる頃のことです。同じころまでは父方の親戚とも付き合いがありました。

私の父親は宇出津生まれだと聞いていましたが、東京の方に養子に行って、それで廣野という名前になったと聞いています。旧姓は水元でしたし、隣の町内の大棚木には父親の兄という人も住んでいました。

母親は5人兄弟ですが、父親は7人兄弟だと聞いていました。宇出津には父親の兄弟が3人住んでいました。3件の親戚です。1件は宇出津病院の裏に家があります。町内の名前は忘れたのだと思いますが、わかりません。近くに前の能都中学校へ登る坂がありますが、その辺りは錦町です。

もう一件は、宇出津の町の中心部でもある大橋組という町内でオモチャ屋をしていました。昨夜、被告訴人KYNと話をしたのはちょうどその家の前になりますが、電気もついておらず人が住んでいるようには見えなかったです。

辺田の浜の家には小学校4年生まで住んでいたことになるようです。半年ぐらい前までの私の記憶では小学校4年に進学した4月に宇出津に引っ越したことになっていたのですが、辺田の浜の酒樽祭りが昭和50年に復活したという情報をネットで見て、昭和50年に宇出津に来たのだと確認できたのです。

その酒樽祭りですが、祭りというよりは神事の儀式のようなものらしいです。毎年その時期になっても思い出すことがなく、終わったあとのニュースなどで毎年気がつくので、実際にはこれまで一度も見たことのないお祭りです。

ちょっと思い出したのですが、父親の旧姓は水元ではなく水本だったと思います。なんかずっと忘れていた水元という名前の同級生のことが頭に浮かんできて、思い出すことが出来ました。

父親の兄弟は、能都町鵜川と七尾市にも住んでいました。どちらも叔母さんという関係だったと思います。七尾市には一度だけ青柏祭に行った憶えがあり、鵜川の「にわか祭り」を含め鵜川の家には何度か遊びに行った憶えがあるのですが、家のことや顔や声も名前も記憶には残っていないです。

それもこれも辺田の浜の家にいた頃のことですが、鵜川には神社か寺のお祓いを受けに何度も母親に連れて行かれたことを憶えています。神社のような建物でしたが、坊さんのような格好をした人が、念仏か何かを唱えながら、大きい巾着のような袋で、お祓いを受ける人の体をさすりまくっていました。

ある日を境にぴたりとその神社にはいかなくなったのですが、母親がその坊主にいやらしいことをされそうになったので行かなくなったとか、立ち話をしているのを聞きました。小さい頃というのはやたらと母親の立ち話の側にいて、いらいらしていたという思い出が多いです。魚屋とかで。

鵜川の神社の場所というのはわかりやすい場所でした。鵜川の駅から国道249号線の交差点を横切って鵜川の町の方に入って行くと、一本の小路を右に入ると30メートルぐらいかと思いますが、正面に神社の階段がありました。

階段の登り口の右手に民家が一件ありましたが、それが被告訴人安田敏の家であると知ったのは、ずっと後のことです。一度、家の前まで行ったこともありましたが、被告訴人安田敏とは会うこともなかったです。

本書でもだいぶん前に書いていると思うのですが、被告訴人安田敏の家に入る小路を探して、たまたま声を掛けた相手が、被告訴人安田敏の兄の妻だったということもありました。被告訴人大網健二が同行していた時のことです。夕方でしたが外はすっかり暗くなっていたと思います。

近くに店が開いているとも思えない状況だったので、道を尋ねる人を発見できたことが偶然に思えていたのですが、相手が被告訴人安田敏の親戚ということでなおさら印象深く憶えています。冬であるいは正月休みだったような気もするのですが、夏で兄の嫁が薄着をしていたような気もしたりで時期不明です。

よくよく考えてみると平成9年の8月のお盆休みだったかと思えてきました。そのお盆休みでは被告訴人大網周一が、宇出津の魚市場の近くカネハチの曲がり角とのところで、夜釣りをしていたことが最も印象に残っています。

たまたま昨日撮影していたものですが、この辺りです。→ 2014-07-05_17.45.00_宇出津あばれ祭り.jpg pic.twitter.com/l9BHOyTrra

こちらの写真だと宇出津の魚市場も見えるかと思います。2014-07-05_17.44.39_宇出津あばれ祭り.jpg pic.twitter.com/7u8Xz61SGG

夜釣りをしていたことよりも、その場所で釣りをしている事自体が、当時はずいぶんと珍しく見えました。現在では春頃にもっと港の奥の方で釣りをする人はいますが、のっこみ、とか呼ばれる黒鯛の散乱の一時期かと思います。

当時私はすでに金沢市高雄の建設会社で働いていたと思います。共通の昔の友達が部長になっていたのですが被告訴人大網健二の口利きで就職が決まりました。これもこれまでに何度か書いていると思います。

さらに繰り替えになるかとも思いますが、被告訴人大網健二と車で通りかかって被告訴人大網周一が夜釣りをしているのを見たあと、私は早めに金沢に帰りました。

そして金石海岸で乗っていた車を砂にはめて動けなくし、JAFを呼んだと思います。

車は代車だったように思いますが、砂にはまって動けなくなった時は夕方でもまだ外の明るい時間だったような気がします。かなり長い時間自分でどうにかしようとしていたのですが、最終的にJAFが来て車を動かせるようになったときは、暗くなっていたように思います。

どの時点で連絡をしたのかはっきり思い出せないのですが、その後私は金沢市東力の、あすなろ公園で被告訴人多田敏明と会っています。まっくらな公園の中、二人だけで会いました。

現在は変わっているかもしれませんが、Googleのストリートビューに出てくるかもしれません。ちょっと調べてみたいと思います。

2014-07-06-171939_石川県金沢市東力・あすなろの森.jpg pic.twitter.com/bnIJ2l1CUn

スクリーンショットをとりました。検索で初めて知ったのですが、あすなろ公園だと金沢市内でも別の場所になるようで、東力の公園は「あすなろの森」という名称になっているようです。私が住んでいたアパートの近所でもありましたが、昭和の時代から全く変わっていないようにも見えます。

鉄塔のようなものが見えて、そんなのがあったかと気になるぐらいです。ないとうことはなかったと思いますが、街灯も少ない公園で夜は暗かったと記憶に残っています。

場所は私が指定したのだと思いますが、被告訴人多田敏明の家があるという金沢市間明からは近い場所で、目印としてわかりやすく車も駐車しやすいということで選んだのだと思います。じっくり内容のある話をしたかったので、静かな場所を選びました。

「広野さん、わしと勝負しようちゅううんがぁ。なんぼでもやってやるよ。」と言われました。言葉で掛けば威圧的で挑発的にもなるかと思いますが、棒読みにも近い感じで、発言の意図をはかりかねるところもありました。

広野と書きましたが、私自身平成4年以降、拘置所や刑務所で生活するようになってから廣野と戸籍と同じ漢字を使うようになりましたが、それまでは小学校の頃からずっと広野という漢字を使っていたからです。平成3,4年当時の被告訴人多田敏明との関係に合わせて広野としました。

私が刑事事件として告発か告訴をしたことや、これからするような話をしたところ、被告訴人多田敏明の場合、多少動揺のような反応が見られ、誰と誰を訴えたのかと尋ねてきました。2,3具体的な名前もあげていたように思います。

余り情報を与えるのは得策ではないという判断と、被告訴人多田敏明の挑発的な態度に憤慨して高ぶっていました。いったん手を出せば止まらなくなってしまうような危険も自分の中に感じたので、自分から話し合いを打ち切るように被告訴人多田敏明とは別れて来ました。

時刻は7月8日7時55分です。昨日は考えるだけで終わってしまいました。どうしょうかと迷ったのですが、前の日に掛けると話していたので、珠洲警察署に電話をして担当者の人と話をしました。取次の際、係長という声が聞こえてきました。

警察の担当者や関わった警察官の名前に関しては以前公表していた時期もありますが、現在は私自身の判断で名前を出してはいませんし、録音もやっていません。今日は新しい小テーマを見つけたので、そちらにも関連付けて説明を書いておきたいと思います。

今後は今まで以上に動きが出て影響を受ける可能性も高まると思うので、リアルな最新状況との関係をいっそう強化したいと思います。項目と作成日時を対応させるためこの項目は締めたいとおもいます。

<2014-07-08 火 08:04> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

**** DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月8日
CLOSED: [2014-07-09 水 10:52]
<2014-07-08 火 08:17> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

昨日は昼に次の番組をみて、NHK連続テレビ小説について書こうかと思っていたのですが、その機会も逸しました。役者の演技について色々と考えさせられるところがありました。

スタジオパークからこんにちは 町田啓太、山田真歩 2014年7月7日(月) 13時05分~13時53分 の放送内容 http://ow.ly/yQfNc

上記のリンクは切れているかページの内容が入れ替わっていると思います。昨日、廣野秀樹(@hirono_hideki)でツイートした内容をそのままコピペしました。

以前、説明が中断したままになっていると思いますが、連続テレビ小説は昨年の6月ころ、東京都渋谷区の弁護士のツイートをきっかけに視聴するようになりました。最近は余り見なくなっていたのですが、昨日見たのも数日ぶりだったと思います。

前にも書いていると思いますが、私はそれまで連続テレビ小説はほとんど見たことがなく、他のドラマでもそれほど深く、俳優というか役者の役割や演技について考えることはなかったと思います。

渋谷区の弁護士については、事務所の町名も同じになっていたのですが、平成11年の傷害事件で上告審の国選弁護人になった山口治夫弁護士のことを思い出すことがありましたが、山口治夫弁護士に関しても大事なことを書く予定でいます。

今、テレビでとくダネ!という番組をみているところですが、今日も兵庫県県議の不正疑惑についてやっています。というか書いているうちに終わってしまいました。

どうも番組のスタッフが調べたところ報告書にある電車料金が全て一律の料金だったの対して、実際は繁忙期とそれ以外の時期に200円の違いがあるとかやっていました。もともとあり得ないような日帰り出張であったことは繰り返し報道されているので、いまさら驚くことでもありません。

それより気になったのはコメンテーターの発言で、他の県議は真面目にやっているので、領収書の厳しいチェックをするとそれが負担になって本来の活動を阻害する、というような発言でした。

県議の活動については今まで報道を見ることもほとんどなかったのですが、地域に根ざした社会問題に取り組む活動をやっているらしいということを今回知ることができたかと思います。

私のこの告発の問題に関しては、石川県議会にもメールでお知らせをしていました。金沢市議会もそうであったかもしれませんが、そちらははっきり記憶にないです。石川県では官庁に関連した部署や施設のメールアドレスを沢山公開されていたので、それを使って多方面に送信していたかと思います。

金沢市というか金沢市役所に関してもそれに近いものがあったと思いますが、能登町に関してはある時期を境にホームページにあったメールアドレスが忽然と消えてしまいました。私が原因であったかどうかは、検察庁においてしっかりと調査確認し、証人喚問の用意も検討して頂きたいと思います。

本来的に社会的な枠組みの異なる問題であることは承知していますが、その枠組みを壊し完全無視を決め込んできたのも金沢弁護士会ではないかという思いもありますので、市民、県民の安全安心と信頼を守るためにも、最大限の厳重な態勢が必要かと思います。

県議の不正疑惑は、相当なデタラメであったという可能性が高く、それが白日の下にさらされつつありますが、水面下での追求や準備があったうえでの報道であったと考えられます。

県議といえば今回の問題で見たり聞くようになった言葉ですが、元は県議会議員の意味だと思います。報道を見ながらこれほどのデタラメが通用した、または横行するものなのかと感心しました。

必要な経費として計上された金額のみならず、交通の移動に掛けた時間を合わせますと、その実質的な活動内容の少なさが気になります。それは改めて弁護士の仕事ぶりにも通じるものを感じさせてくれました。

遠方に赴いて直接、顔を合したり、現場を視察する意味は陶然あると思いますし、そのための調査費とかになっているはずですが、最も日帰り出張の回数が多かった城崎温泉でも、誰一人その姿を見た人を確認できなかったと、報道されています。

今朝は起きて、パソコンをつけて、すぐに目についたツイートにも考えさせられるものがありました。今までは手間も掛かるので触れないようにしてきた問題でもあるのですが、被告訴人KYNとモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)の対応に接し、その問題性を再評価したところです。

【RSSによる投稿】 昨日から本格的に始まった藤井市長の釈放を求める美濃加茂市民の署名、今日現… https://plus.google.com/u/0/wm/1/100408804474159646499/posts/bqCgLr3y8oF

【RSSによる投稿】 勾留中の藤井市長への市民の方からの応援メッセージが書かれた短冊が多数。一… https://plus.google.com/u/0/wm/1/100408804474159646499/posts/UywtKMmAtNL

ブログの記事ですが上記に紹介したのは、そのブログ記事のURLを含んだGoogle+ページの投稿です。Google+ページの投稿は今回、RSSでの自動投稿によるものを使いました。

直接、ブログの記事のタイトルとURLを使うと文字数が多くなって、そのままツイートできなくなります。さらにGoogle+の方が、検索で調べるときにも扱いやすいという点を私は重視しています。

実際Google+で検索をすると次のように表示されます。→ 2014-07-08-095220_検索 - Google+ 江川紹子.jpg pic.twitter.com/pk9zfqwh7J

【コラム 江川紹子】藤井美濃賀茂市長収賄容疑事件、裁判所は令状発行機関なのか - Sakura Financial News | 9999 - http://www.sakurafinancialnews.com/news/9999/20140706_3

上記の記事というかページも先日読んだところでしたが、今回も気がつくと郷原信郎弁護士のツイートそのものではなく、ジャーナリスト江川紹子さんのリツイートによるものでした。

そういえば郷原信郎弁護士はツイッターをやっていたのかと再確認したところでもありますが、ちょっと忘れかけていた部分もありそうです。ただ、今回のツイートの内容ばかりは軽視できないと思いました。その影響力を含め。

ご本人のツイッターはこちらです。→ 2014-07-08-100348_郷原信郎 (nobuogohara)さんはTwitterを使っています.jpg pic.twitter.com/aHbAaJPgwC

改めて見るとフォロワー数が6万5千を超えているようです。最近は見かけていないですが割とよくテレビにも出ていた落合洋司弁護士(東京弁護士会)のツイッターアカウントは、フォロワー数が3万台ではなかったかと思います。確認しておきたいと思います。

2014-07-08-101006_落合洋司 (yjochi)さんはTwitterを使っています.jpg pic.twitter.com/CrxTu7uiGR

やはり3万3千弱なので、よく考えてみると郷原信郎弁護士とは倍近い開きがあるようです。今まで意識したことのない発見でした。落合洋司弁護士(東京弁護士会)の方がブログでの情報発信も長く、数も多いので認知度も高そうだという思い込みもあったのかもしれません。

郷原信郎弁護士に関しては陸山会事件でテレビに出ている姿を見たことがありましたが、その後のご本人側の話によると、検察当局に不都合な発言をしているので、テレビに出る機会もなくなったような話で、マスコミに圧力が掛かったと思わせる内容であったと思います。

私も人間であり記憶力も完璧ではないので、間違ったことを書いてご迷惑を掛けないためにも、極力正確なかたちで発言の記録をとるようにしていますが、まだそこまでやっていない時期の発言であり、記録があったとしても探しだすのが困難な保存状態になっているのかもしれません。

今も使っていますが、ブログの記事として保存するようにしてきました。ツイートを埋め込みコードとして保存することが多いです。ブラウザではスタイルシートが適用されて見栄えの良いデザインになっています。これはツイッターのサービスに含まれたものです。

最近は、それよりも多いぐらいの頻度で、スクリーンショットとして保存するようになりました。ご説明も1回以上は既にしていると思います。

% grep -B 3 "^"Tags .@nobuogohara." c投稿済み/* | wc -l というコマンドで確認をしたのですが郷原信郎弁護士に関する記事は、APIでの投稿管理を今の方法にしてから94件あるようです。

94件と書いたところですが19件の間違いでした。やり直しのコマンドです。→ % grep "^"Tags .@nobuogohara." c投稿済み/* | wc -l

% grep "^"Tags .@amneris84." c投稿済み/* |wc -l として江川紹子さんに関連したものをカウントすると376件ありました。そんなにあるのかな、と思いましたが、またなにか勘違いのミスが含まれているのかもしれないです。確認したところ見当たらなかったですが。

先ほど気がついたのですが郷原信郎弁護士は次のツイートもしていたようです。弁護人としての影響力に関して自認されているのかと思いますが、謙遜なのか?のはてなマークもつけられているようです。

2014-07-08-104941_微力ながら弁護人の私が当初から「潔白」と叫び続けていることの影響も?.jpg pic.twitter.com/nKvvFsZb0J

思えば弁護士がインターネットで社会的な影響を自認しているのを見たのも初めてかもしれません。もちろん依頼者の利益という目的と名分はあることと思いますし、その事自体を批判しようとも思いません。

情報の受け取り方は基本的に個人次第だと思いますし、表現の自由というのも尊重されるべきものと思っています。ただ、これまでの経過、特にいわゆるPC遠隔操作事件に絡んだ発言などを見てきた経緯を踏まえると、どうなのかと疑問に思うところもあります。

強固な主義、主張を持って弁護士としての活動をされている第一人者の一人だと思いますし、情報の担い手、ジャーナリスト江川紹子さんの信認も厚そうです。国家的な会議にもともに参加されていた人たちであるはずです。

行刑改革会議、検察の在り方検討会議の各委員を経験、とhttp://www.sakurafinancialnews.com/news/9999/20140706_3 の記事で先日確認したところでもあります。

数日前には次のようなツイートも見かけていました。

Twitter / nobuogohara: 勾留中の藤井浩人美濃加茂市長から、今日の接見で受領し公開した ... https://twitter.com/nobuogohara/status/482882438897475585

Twitter / nobuogohara: 【緊急拡散】美濃加茂・藤井市長の早期釈放を求める声を裁判所に ... https://twitter.com/nobuogohara/status/483228655212974080

インターネットで署名活動を行ったようです。どれだけの効果があったのか正確なことはわかりませんが、今朝見たツイートによると署名が1万5千を超えたとのことです。次のツイートには人口5万人余りの市で、それだけ集まったと書いてあります。

Twitter / nobuogohara: 昨日から本格的に始まった藤井市長の釈放を求める美濃加茂市民の ... https://twitter.com/nobuogohara/status/486143544906629120

重要な部分なので本文を2つにわけて引用します。全部だと文字数オーバーになる可能性もあるからです。前段と後段にわけます。

前段引用)→  昨日から本格的に始まった藤井市長の釈放を求める美濃加茂市民の署名、今日現在で、1万5000人を超えた。

後段引用)→ 人口5万人余りの市で、これだけの人達が一致して藤井市長の潔白を信じ、一日も早い復帰を望む市民の意思は、刑事司法の世界でも無視できないはず。

このツイートだけ見ると、街頭署名と見る向きが多いのではと私は感じたのですが、街頭署名だと物凄い数になり、やった経験もないことですが、従事するスタッフというか支援者も相当な数になり、本格的な選挙活動にも匹敵するのではと想像されました。

念の為、インターネットの署名サイトを確認しましたが桁も違っているようです。→ 2014-07-08-114730_3,925人の賛同者が集まりました.jpg pic.twitter.com/fa5mSLllSP

時刻は7月9日10時49分です。昨日は考えがまとまらず、集中できなかったので、早い時間に中断したままになっていたと思います。この項目は締めます。

<2014-07-09 水 10:51> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

**** DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月9日
CLOSED: [2014-07-10 木 13:00]
<2014-07-09 水 10:55> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

被告訴人KYNのことですが、あばれ祭りで会った時の彼の反応、態度というのは威圧的にも感じるものでしたが、それは何度か繰り返した「帰れ」という言葉にも現れていましたし、時間が経って考えてみてもそれは命令にのようなものであったと思います。

被告訴人KYNと会ったのは数年ぶりのことでした。調べてみないと今の私の記憶だけでは正確な時期がわからなくなっていますが、平成16年かあるいは平成17年の1月であったように思います。その時の会話というのは音声ファイルとして保存し、御庁にも提出してあるはずと思います。

冬だったような気もするのですが積雪はなかったと記憶にあります。何か思い出せそうで思い出せないもどかしさもあるのですが、まだ平成9年の9月ころに買ったホンダの軽四に乗っていた頃だったと思います。

その後しばらくしてそのホンダの軽四が故障をして、修理に随分とお金が掛かるということで、日産の軽四を新車で購入しました。その軽四の二度目の車検の時、私はそれまで住んでいた石川県羽咋市のアパートから今の宇出津の家に帰ってきました。

それ以来軽四の車検は入れなかったですが、車検が切れるのに合わせて宇出津に戻ってきました。2009年3月16日のことであったと思います。私自身最近はもっぱら西暦を使っているので把握もし難くなっているのですが、平成だと平成21年だったと思います。

平成18年ころまではほとんど西暦ではなく平成の年で物事を考えていたと思います。だから記憶の方も平成として覚えているのですが、ここ数年はもっぱら西暦のみなので、現在が平成何年と言っても自信を持って答えることができません。

軽四も新車の時は車検が3年だったと思います。それで2度めの車検となるとちょうど5年ということになるかと思います。平成21年の5年前となると平成16年となりそうです。

そうやって考えてみると、私は平成14年の11月の下旬から6年3ヶ月ほどの間、羽咋市のアパートに住んでいたことになりそうです。前にも計算したことがあったのですが、どこで間違えたのは5年ちょっとだと思っていて、それでもそんなに長く羽咋市にいたのかと考えていました。

記憶の整理を兼ねておさらいをすると、羽咋市のアパートに軽四に乗る一台分の荷物を積んで、来たのは平成14年の11月25日を過ぎた頃だったと思います。派遣社員の寮だったのですが、初めはそのうち2人で住んでもらうと言われていたものの、最後までずっと一人で住んでいました。

事実上は自分のアパートのような生活ではありましたが、アパートの合鍵も派遣会社の人が預かっていたようです。仕事そのものも不安定な立場でしたし、落ち着くことはなかったです。

一時は1月の後半から2月頃だったと思いますが、一月以上仕事がなく、宇出津の家に戻っていたこともありました。まるまる一月仕事がなかったので、収入がないばかりではなく、社会保険など5万以上、マイナスになっていたこともありました。

書いているうちに思い出しましたが年末の12月一杯で仕事がなくなりました。インドネシアで大津波があった翌日か翌々日のことでした。近くで作業をしていたインドネシアの青年とも津波のことで話をしたので、それはよく憶えています。羽咋郡志賀町の電子部品工場でした。

インターネットで調べたところ、スマトラ島沖地震となっていて2004年12月26日の発生となっていました。私の場合、すぐに頭の切り替えができないのですが、平成16年になるのかと思います。

次に派遣先の仕事が決まったのが2月の中頃ではなかったと記憶しています。派遣の仕事はもうこないかもしれないと諦めていた頃に担当者から電話がありました。面接をする前から既に決まったような話しぶりだったので安心もしましたが、人が居着かない仕事なのかもしれないと思いました。

連絡があった当日は、春めいた日和の天気で、夕食に母親がシチューを作ってくれたことも記憶に残っています。改めて考えるとそれが平成17年だったのだと、自分のことですが改めて確認ができました。

このあとの仕事というのは羽咋市の鋳物工場への派遣でした。バラシと呼ばれる現場での作業でしたが、出来上がって鉄板のコンベアに流れてきた鋳物の枠の不用部分を取り除く作業でした。材質によって手で直接壊すものと機械を使って壊すものがありました。

ちょっと前まで赤く灼熱状態だった鋳物なので高温のことが多々あり、手早く的確に作業をしないと手を痛めて仕事が続けられなくなるような作業でした。それまでに派遣された人も、手が火傷と血豆だらけになってやめていったということを聞いたのも、仕事を始めてかなり後のことです。

鋳物工場での仕事を始めて、半年か一年ぐらい経った頃だったと思いますが、派遣の担当者を通して正社員にならないかという話がありました。ちょうど御庁に告発などをやっていた時期だったので、先のことの見通しも経たず、その時は、生活も落ち着かない状態なので1年ほど考えせて欲しい、などと。

返事をしたように思います。ストレートに断るのも角が経つし、何時やめられるかわからないと判断されると、こちらの生活も安定しなくなるという思いがありました。その前、宇出津の電子部品工場で仕事をしていた頃も、真面目に仕事をやるだけに、経歴で仕事を転々としてきたことを不審に思われました。

仕事だけではなく私の場合、計算すると7年半ほど警察の留置場、拘置所、刑務所に入っていた期間があって、2度の逮捕による仕事の断絶もあったわけです。平成14年頃の時点でも履歴書の経歴をどのように書くかは、ずいぶんと頭を悩ませました。

もっと前のことから順番に書くと、金沢中警察署に逮捕されたのが平成11年8月12日だったと記憶しています。9月の20日頃には拘置所に移送されたと思いますが、翌年の平成12年の同じ9月の20日頃には、最高裁での上告棄却と続く即時抗告の申し立ても棄却されて判決が確定したように思います。

判決が確定してからは未決から既決の受刑者という立場になって、同じ金沢刑務所の敷地内でしたが、拘置所から別の舎のの独居房に移され、分類審査を受けて、金沢刑務所での受刑が決まり、そのあと2週間だったと思いますが、新入教育を受けて、第5工場に配役されたのが11月の初めかと思います。

第5工場ではミシンの作業をしていましたが、一般の大方の受刑者とは異なって雑居房での集団生活にはならず、工場に出る以外はずっと独居房で生活をしていました。これは夜間独居とも呼ばれていました。工場には出ないで軽作業をしながら過ごす昼夜独居というものもありましたがよほどの処遇困難と。

懲役は1年10月か1年8月のどちらかだったと思いますが、そんなことも余り考えないでいると忘れるものです。検察の求刑は2年だったとも思うので、平成4年の事件とは違って満額の判決ではなかったですが、満期での出所となり、仮釈放の話も全くありませんでした。

満期で金沢刑務所を出所したのは平成13年12月31日のことでした。満期日の翌日に釈放という決まりになっていたかと思います。私はその半月か20日ほど前まで12月21日を満期日か釈放日だと思い込んで刑務所で生活をしていました。刑務官からそのように聞いたと思い込んでいたからです。

金沢中警察署にいた頃は、母親の面会もありましたが、拘置所に移ってからは一度もなかったかもしれません。受刑中は一度もなかったと思います。出所するときも事前の連絡のようなものはほとんどなかったと思います。

本来ならば刑務所にいる間に、出所後の生活のことなど話し合って調整するようなことを耳にもしていましたが、私の場合そういうことはほとんどなく、本当にいきなり刑務所から放り出されたような感じでした。

バスにでも乗って金沢駅まで向かい電子屋に乗って宇出津に帰るつもりで、金沢刑務所の門をでたように思います。警備隊の隊長とか聞いていた、いつも険しい顔をしている若い刑務官が釈放時の立会のようになっていました。大晦日だったので本来は休日でもあったはず。

金沢刑務所の正門から出たのはその時が始めてだったと思います。平成4年の事件では平成6年3月17日に福井刑務所に移送されましたが、車で外に出るときは裁判所に向かう時と同じく、他の出入口を使っていたと思います。

そういうこともあって、正門を出て歩き始めても状況がのみこめなかったのですが、すぐに近くの駐車場に一台のワゴン車が駐車していて、人が乗っている姿が見えました。あるいはクラクションで合図を受けて気がついたのかもしれません。

ワゴン車には被告訴人大網健二が一人で運転席にいました。向かいに来ているとは全く思っていなかったのですが、それよりどうして出てくる日を知っていたのかと思いました。普通に考えて私の母親から聞いたのだとは思いますが、そのことは後にも母親には話を聞いていません。

この金沢刑務所を出た日のことについては、本書でも既に記載をしているように思うのですが、だとしてもかなり前のことになっていそうなので、はっきりとは思い出せません。念の為、おさらいを兼ねて書いておきます。

金沢刑務所を出て少し行くと、若松というような交差点があったと思います。これは裁判所に出廷に行く時にも通っていたので、印象にある交差点でした。金沢刑務所からその交差点までの時間も距離もわかりませんが、5分もかかるような距離ではないのではと思います。

若松の交差点は坂道を降ってきたところにある交差点だったと思います。その途中のゆるやかな下り坂を走行中に、現在はサッカーとかスポーツ関係の学校の理事をやっているとか、ヤクザに1億とか2億とか言う借金が出来たか、そんな関係者に取り立てをを受けるようになって困っているとか。

そんな話をしていましたが、私の方から聞き返したり、質問することはしなかったのでその会話も長続きはせず、若松の交差点に来た頃には終わっていたように思います。

どう表現すれば良いものか迷いますが、おだやかで親しみやすい態度で、媚をうって同情を誘っているようにも見えました。彼と被告訴人KYNには金沢市北安江の借家を引き払って宇出津に引っ越しをするのにずいぶんと迷惑を掛けたとも聞いていましたが、そんなことはおくびにも出さない感じでした。

被告訴人大網健二が最初に向かったのは金沢市円光寺の彼の自宅だったと思います。何か家に用事があるような行動でした。忘れ物をしたとはいっていなかったですが、今考えると、自宅から田上の金沢刑務所に向かってきた可能性が高いのに、すぐに自宅に戻ったのもどうかという感じです。

自宅の前に着くと、彼は一人で家の中に入って行きましたが、しばらくすると川のコートと防止を一つ手に持って、私に手渡そうとしました。家の前でお互いに立っている状態だったと記憶にありますが、反射的にいらないと断ると、泣きそうな顔になってもう一度渡そうとしてきたので、受け取りました。

そのあとだったと思うのですが、車で金沢市黒田の被告訴人KYNの自宅の前を通り過ぎたと思います。どこへ行くのかと聞いてはいなかったようにも思いますし、そのまま宇出津に帰るように聞いていたか、あるいは預かっていた車を見せに行くと聞いたように思います。

被告訴人KYNの家というのは、普通、車で通りぬけをするような道ではないと思います。間明の方から橋を渡ってきたのであれば、通り抜けで多少の近道をすることはあったと思います。住宅地ですが道幅も広いです。

間明の方から橋を渡ってくるということは、野田専光寺線を走ってきたということにもなりそうですが、そうではなく西金沢の駅の方から来たような気がしますが、細かいことは思い出せなくなっています。

いずれにせよ、被告訴人KYNの家の前を素通りしたことは間違いないと思います。私の方から被告訴人KYNのことを話題にしたと思いますが、会っていないと答えたか、はぐらかされたような感じで話は聞けなかったか、まあ、変わりはないというような簡単な返事だったように思います。

被告訴人KYNの家の前を素通りして少し行くと、広い道にぶつかります。その道は私も近くの東力に住んでいたのでよく使っていたのですが、左に行けば保古町、右に行けば金沢西インター近くのトラックターミナルの正面で8号線バイパスに出る道でした。

バイパスに出る手前の左側にはパチンコタイガーというパチンコ店がありました。前にそのあたりをGoogleマップで見たのですが、現在は以前の原型がないほどに変わっている様子でした。

ついでに書きますと、以前一度、被告訴人大網健二と被告訴人大網周一の3人でそのパチンコタイガーに行き、パチンコをしたということがありました。時期がはっきり思い出せないのですが、他にはない珍しい体験だったと記憶に残っています。

パチンコではなくパチスロをやったようにも記憶していますが、被告訴人大網周一はすごく慎重でギャンブルを恐れているようにも見えました。人一倍父親思いという感じでもありましたが、その父親のど外れたキャンブル癖で、小さい頃から迷惑も受けてきたのだろうとは思います。

それはまだパチンコオメガの間明店が営業していた頃でもあったように思います。黒田に入る橋の手前、野田専光寺線から入るところにオメガ間明店はありました。間明の陸橋のたもとでもあったと思いますが、野田専光寺線を挟んだ向こう側にはマカオというパチンコ店もありました。

そのパチンコマカオには被告訴人KYNのところに仕事に行っていた平成10年の頃にも、ちょこちょこと入って遊ぶことがありました。かなり古い店になっていましたが、昭和の終わりの頃のパチンコ店の雰囲気を色濃く残しているような店だったので、懐かしさもありました。

もしかするとまだ軍艦マーチの音楽が流れることもある希少なパチンコ店であったかもしれません。独自の口上でのアナウンスも流れることがあったかもしれません。「じゃんじゃんばりばり」とかいうやつです。

軍艦マーチは昭和の時代のパチンコ店の定番で、流していない店のほうが珍しかったような気もします。

パチンコオメガ間明店は、小さいパチンコ店でしたが比較的新しく見える店だったと思います。いきなり休業状態になり、改装をして新装開店をするような話も聞いたように思うのですが、そのまま再開することはなく潰れたような感じでした。当時、パチンコ店が潰れるというのは珍しいことでした。

パチンコオメガ間明店は、東力の私の住んでいたアパートからは、一番近いと思える場所にあるパチンコ店でもありました。大通りに出ることもなく行くことも出来たので、気軽に向かえたとも思います。当時の私は乗用車での信号待ちをかなり嫌って避ける傾向があったと思います。

普段、長距離運転手の仕事をしていた反動もあるのかと思いますが、東力から二口町への通勤もかなり苦痛に思っていたと記憶に残っています。若い頃というのは他にも、妙なこだわりを持っていたと思いますが、今でも割と強くそのようなことは記憶に残っています。

中央市場と東力のアパートの間には、長田オメガというパチンコ店もあったと思います。そこにも会社の帰りに寄ってパチスロをすることがありました。もっと中央市場に近いところには駅西オメガというのもありましたし、パチンコオークラもありました。

テレビのCMでも長田オメガと出ていたように思いますが、間明オメガというのは見たことも聞いたこともなかったような気がします。CMで見かけるようになった頃には、間明の店がなくなっていただけのことかもしれませんので、間明オメガにもしておきます。

その間明オメガで忘れられない思い出は、子ども二人を連れて行った時のことで、床に這いつくばって拾い集めたパチンコの玉やパチスロのコインを、真っ黒になった手で差し出してきたことがありました。服の方もところどころ真っ黒になっていました。

そこのとを書いておきたくて、ながながとパチンコ屋の話を書いたようなものです。

平成13年12月31日の話に戻します。被告訴人KYNの家の前を通って出た広い道を右に曲がると少し行った先に道幅は同じくらいの交差点があって、交差点の右の方には8番ラーメン、左側の交差点の向こう側にはコンビニがありました。サークルKだったような気がするのですが、平成10年頃の記憶。

そのあたりの住所は金沢市古府だと思います。交差点を左に行くと東京ストアの西南部店の前を通って八日市、さらには御経塚で国道8号線にぶつかる道でした。その東京ストアより手前のうどん屋で、初めに被告訴人大網健二と被告訴人KYNの3人で、仕事の話をしたことも既に書いていると思います。

交差点を右に行くと野田専光寺線の間明の陸橋を降りてきた辺りの交差点にぶつかりましたが、そのまま真っすぐいくと高畠の方に行き、玉鉾の方から来る広い道とぶつかっていました。直進すると8号バイパスの下をくぐって、金石に向かう川沿いの土手のような道につながっていました。

交差点を直進すると先ほどの説明のように、西インターのパチンコタイガーの横から8号パイパスに出ることが出来ましたが、これは一直線の道ではなかったようにも思います。一度パイパスが見える辺りまで近づいてから道路が直角に左に曲がっていたようにも思います。

交差点を越えてから突き当りの左に折れるカーブまで距離にしてどれぐらいだったか。その半分ぐらいのところだったように思うのですが、バイパスの方から来ると右手にまるでデパートにも見えるような割と大きな建物がありました。建物も新しく見えました。

交差点のコンビニの方向から向かったはずなのですが、私の記憶では、その問題の建物のコンビニの方角とは反対側にある横に入る道から、その建物の側面を通り右折してコンビニの方向に向かった場面が、記憶に残っているのです。

正面玄関がどこにあるのかもわからなかったですが、コンビニの方から来た道が優先道路で、そちらの方に正面があるように感じました。私が被告訴人大網健二の説明を受けながら主に見ていたのは、横の道に面した部分でした。見上げるような感じで見ていたと記憶に残っています。

記憶にあるのかないのかはっきり出来ないのは、その場で自分の軽四を見たのか見ていないのかということです。わざわざそこまで行ったのですから、その場に軽四が置いてあった可能性はあると思います。ただ、あったとしても路上に駐車したようなかっこうであったと思います。

建物の前は、この時も通過しただけだったようにも思いますが、停車をしていたとしても中にはいるようなことはなかったですし、建物の中に駐車場があるようなビルでもなかったはずです。

ビルは5階建て以上あったような気もしますし、一見したところビジネスホテルの建物にも思えましたが、看板のようなものは何も見当たらなかったように思います。以前、そこでその建物を見ていたという記憶もなかったのですが、普段余り通るような道でもなかったし、意識することもなかったと思います。

Googleのストリートビューに出てくる可能性は高いかと思いますが、まだ確認はしていませんでした。その辺りというのは住宅も少なく、以前はほとんどが空き地かあるいは田んぼにでもなっていたような気がします。

そのビルを被告訴人大網健二は自分の会社か学校のように話していましたが、近いうちに津幡の方に移転をするとか、津幡の方で建設中とも、あるいは言っていたかもしれません。いきなりの話でぴんとこなかったのですが、2年4ヶ月ぶりほどで社会に出てきたところだったので、感覚が鈍ってもいたと。

その後は、石川県庁にも近い8号バイパス沿いの、ヤマダ電機の大きな店舗に行って家電を見たことを憶えています。大きな画面のプラズマテレビという商品を見たのが特に印象的でした。ただ、私としては刑務所を出てそうそう家電のことは頭になく、そこでパソコンを見たことも印象には残っていません。

本来パソコンこそが私が最も関心を持つ電化の商品だったはずですが、それを見たという記憶も全く残ってはいないので、被告訴人大網健二が自分の考えてその店に連れて行ったのだと思いますが、今考えるとその場で誰かに私の姿を見せて記憶させるというのも、あるいは目的だったのかもしれません。

買い物をしたという記憶も残っていませんが、その時は久しぶりに社会に戻ってきたのでサービスとして気を利かせ、立ち寄ってくれたのかと、割と軽く考えていました。

金沢市内のどの道を走ったのかも余り記憶には残っていないのですが、大晦日ということもあってか、交通量も少なく感じていました。

その後は、粟崎の交差点の先にある回転寿司に入って食事をしました。代金を支払ってくれたのも彼だったと思います。粟崎の交差点からはどれぐらいか直進した左手にある店だったと思います。

粟崎は金沢市内だと思いますが、河北郡内灘町に隣接していて、内灘は私達能登の人間から見れば、金沢の出入口というイメージも強いのですが、内灘ではなく宇ノ気の方を通ることも多かったので、必ず通る場所でもありませんでした。

何度か書いていると思いますが、能登有料道路は昨年辺りに無料化され、名称も「のと里山海道」とかに変更になっています。2009年の3月以来、私は走行したことがないので現在はどのように変わっているのかもわからないのですが、昔からなじんできた道路でした。

バイクでは一度、志賀町の能登中核工業団地の国道側の入り口まで行ったことがありますが、スクーターだと有料道は走れませんし、バスや他人の車の同乗でも能登有料道路を走行したことはありません。

内灘から羽咋市の近くまでは左手がほぼ海岸線という道路で、その先はほとんどが山間の道路でしたが、当時の終点は穴水だったと思います。料金所は穴水の大分手前にあって、横田の料金所と呼ばれていたように思います。

料金所を過ぎてからは他に入る道もなかったですが、穴水に入ると此木という交差点があって、左が門前、輪島。右が穴水の町中、直進すると柳田村から珠洲方面になっていました。これは今も同じですが、終点は能登空港の近くまで伸びています。

山間の道を走るようになってからは、私の方から金沢刑務所でのことをいろいろと話したと記憶していますが、主に刑務官らの普通とは思えない行動や態度について話をしたと思います。映画の話もしていたかもしれません。

彼は金沢にいた頃より、よりいっそう神妙な感じになっていましたが、無口になってほとんど話しの聞き手になっていました。相当注意深いとともに万全に臨んでいるような感じだったので、何を考えているのか読めないところもあったのですが、妙に落ち着いていて、安堵しているようにも思えました。

表現の難しいところですが、その日のことは私の動向をうかがうという目的も感じさせず、終始控えめで、今考えるとまるでご機嫌取りに来たような感じでありました。

穴水の此木からはそのまま直進して山間の道を走り、柳田村の上町で、側道から降りて高架の下を右折して宇出津の町に入るという道と、此木の交差点を右折して穴水の町に入ってから国道249号線を左折して宇出津に向かう道がありました。その道だと鵜川を過ぎて宇出津に近づくと海岸線になります。

穴水からどちらの道を通ったのかも今は記憶にありませんが、まだまだ明るい時間に宇出津の私の家に着きました。帰った時、母親は不在で誰もおらず、しばらくはそこで被告訴人大網健二と話をしていたことも憶えています。何かを見せながら何かの説明をしたようにも思うのですが、これも今では。

今では記憶のはっきりしないことです。母親が戻ってくるまではかなりの時間があったようにも思います。少なくとも30分ぐらいはあったように思うのですが、母親が被告訴人大網健二と顔を合わせたのかどうかも、今の私の記憶でははっきりしません。

母親が戻る前に被告訴人大網健二は帰っていなくなったような気もするのですが、会って言葉を交わしたという場面を見た記憶もありません。さらに言えばその日のことは、夜、母親が作ってくれた熱いおでんを食べながら、紅白歌合戦を観ていたことです。

被告訴人大網健二との間には腹の探りあいのようなところがありました。私の方も相当慎重に構えていたと思います。いきなり刑務所から出てきたところだったので、正月という実感もなかったのですが、正月休みの予定について話をすることもなく別れました。

被告訴人大網健二と顔を合わせて話をしたのも、それが最後だったと思われます。開けて平成14年の春から初夏よりは前だったように思うのですが、一度電話で口喧嘩をしたようなことがありました。

余り自覚のないまま不快な思い出として思い出さないようにしていたのかもしれませんが、金沢刑務所を出たあとの被告訴人大網健二との関係の記憶というのは、平成11年当時のことより、薄くぼんやりとなっているような気もします。

どちらから何の用事で掛けた電話なのかも思い出せないのですが、昼の電話で自分の家の2階から掛けていた電話ということは憶えています。不信感を持っていることをストレートに伝え、警察のほうが調べている可能性が強いとも言ったように思います。

同じような頃、被告訴人KYNとの間にも似たような電話があったような気もするのですが、これも記憶がはっきりしません。

はっきりと記憶にあるのはその平成14年の春に、被告訴人KYNが突然家を訪ねてきて、自分の家の2階でパソコンを見ながら話をしたことです。インターネットにつながっている状態で、田舎に住んでいてもこんなことが出来る時代になったのだな、と感慨深げの彼の言葉だけが記憶に残っています。

いきなり傷害事件を起こして拘置所に入り、その後始末の引っ越しをさせられたのですから、ろくな挨拶もしない私こそ非常識と思われそうでもありますが、そういうことは全く眼中にないという感じだったとも思います。

いつ頃、引っ越しをしたのかその時期もはっきりとは聴いていない気がしますので、拘置所に移る前の金沢中警察署にいる段階で引っ越しがあったのかもしれません。

被告訴人KYNが一度、金沢中警察署に面会に来たことははっきり記憶していますし、配管の工事に来ていたこの金沢中警察署の建物に、こんなかたちで面会に来るとは思わなかったと話していたことだけ、その面会の内容として記憶に残っています。

母親も一回か二回は金沢中警察署に面会に来ましたが、すっかり諦めた様子でした。こころなしか、さっぱりした表情にも見えることもあったのですが、多くも語らず、そのうち面会にも来なくなったので、あとのこともわからなくなりました。

思えば、被告訴人大網健二の面会というのは金沢中警察署ではなかったように思います。

今細々としたことを書いていますが、それも先日あばれ祭りで被告訴人KYNに会ったことが大きいと思います、どちらかといえば優先順位も下げていたので、そのうちに錆が出て鈍くなったような頭の記憶の部分もあるのかもしれません。

元検事ともいう若い弁護士が、当番弁護で金沢中警察署に来ましたが、それは当番弁護の制度的にも、逮捕から時間の経っていない時期であったと考えられます。名前も聞いてはいたはずですが、まったく記憶に残っていません。

10分もいたのかと思いますが、言われたことは、再犯になるので実刑以外にはないという話でした。事件の資料を見た上でのデータ上の判断だったのだと思いますが、いっさいの期待を持たせないような対応でした。

逮捕されたのが8月12日で、拘置所に移送されたのが9月の20日頃だったので、改めて考えてみると金沢中警察署には一月半もいなかったことになりそうですが、今まではけっこう長い間いたような記憶でいました。やたらと一日の時間が長く感じられていたようにも思います。

たしかにそれは思い過ごしではないです。警察署の留置場の生活ではまともに陽の光を浴びることも出来ず、外の景色も見ることができませんでした。運動の時、大きな格子の間から、空や建物のごく一部が見えるだけ、あとは全て室内もしくは屋内という生活でした。

施設による違いもあると思いますが、金沢刑務所の拘置所の場合、独房においても日当たりもよく、風通しもよい生活環境でした。社会から切り離されたという諦めもはっきりするので、健康的な修行僧のような生活になったとも言えそうです。食生活もはるかに良くなっていたと思います。

同じ拘置舎の2階での生活でしたが、平成4年の時は被害者の意識も戻らず、植物人間の可能性や死んでしまう可能性も高い状況下だったので、それはそれは息苦しく重苦しい精神状態での拘置所生活でもありました。

判決が確定するまでちょうど一年ぐらいの拘置所での生活だったのかと思いますが、短くも思える生活で、面会もほとんどなかったので、記憶に残っていることも少ない生活でした。そういえばプログラミングの勉強をすることの多い生活でもあったと思います。

面会というのは母親の友人で遠縁にもあたるような人が、足の悪い母親に変わって代理のような感じで、何度か来ていたと思いますが、多くても2,3回だったような気もします。

金沢中警察署の面会で言えば、逮捕当時の日雇い労働派遣の会社の会長が来てくれたことがありました。200人の人夫を束ねる人で独裁者のような評判もある強面の会長でしたが、忙しい中来てくれて、弁護士を世話してやるとも言ってくれたように憶えています。

その会長との会話の中でも出たのですが、はっきりとは聞かなかったものの傷害事件のことが夕刊に出ていたような話でした。同じようなことは他にも一度耳にしたのですが、出所後、図書館にある北國新聞では確認が出来なかったので、北陸中日新聞に載った可能性はあるかと思います。

過去の北陸中日新聞の記事を見る方法は知らないので、未だ調べたこともないです。平成4年の事件にも触れられているような感じではありました。私自身、拘置所での一時期以外は一度も夕刊を購読したことがないので、夕刊というのも余りピンとこないのですが、平成4年の事件が載ったのも夕刊。

金沢刑務所での服役生活では身柄引受人とか、そういう話もほとんど出なかったと思います。未決勾留もあったので、一年ちょっとという短い刑期だったので、さほど深刻には考えなかったですが、なんの相談も見通しもないまま釈放され、母親がいたのでその時は宇出津に戻ることも出来ました。

金沢刑務所から出てきた日が大晦日だったので、一晩寝ると平成14年になっていました。すぐに行動に出なかったのも今考えるとどうかと思うのですが、平成11年の8月まで金沢で使っていたパソコンを組み立て、起動させたのは5日か一週間ほど経ってからだったと思います。

拘置所の生活ではプログラミングと情報処理の資格試験の勉強に力を入れていました。拘置所にいる間というのは裁判中でもありますが、裁判所に上申書を出すよりは、直接御庁(金沢地方検察庁)に上申書を郵送していたように思います。

その主な内容というのも被告訴人大網健二と被告訴人KYNの工作活動としか考えられない、不審な言動に関する事実の詳細だったと思います。刑務所の許可が出なければ書面を作成することも郵送することも出来なかったはずですが、どういう理由の記載で願箋を出していたのかも思い出せなくなっています。

それ以前の段階でも被告訴人KYNの不審な動向に関しては、再審請求の上申書として金沢地方裁判所に提出していたはずです。よりデータ化された日々の細かい行動の記録で、仕事と私生活の区別なく詳細な作業日報のような内容にもなっていたかと思いますが、日時と場所、人の記録には特に留意。

金沢の被告訴人KYNの家も電話番号は変わっていなかったと思うので、いつでも連絡をしたり話をすることは出来たように思うのですが、それをやったという記憶もほとんど残っていません。

一つ記憶に残っているのは、宇出津に帰っていた被告訴人KYNに電話をした時、真脇温泉にいるなどと話していたことです。この会話も録音はしていたように思います。

その録音に使ったボイスレコーダーというのは平成14年の12月の20日頃だったと思いますが、野々市の百満ボルトという家電店で買ったものでした。店の漢字があるいは間違っているかもしれません。あとでインターネットで確認します。

時刻は7月10日12時45分です。昨日は18時頃から中断したままになっていたと思います。昨日も公共施設である宇出津の図書館でノートパソコンを使っていました。今日も同じ場所で同じように始めたところですが、この項目は締めて、続きを書きます。

<2014-07-10 木 12:48> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

**** DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月10日
CLOSED: [2014-07-11 金 20:52]
<2014-07-10 木 12:59> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

宇出津の図書館に来て作業を始めようとしたのですが、Wifiに接続すると昨日のTwitterへの投稿分が、実際には投稿されていなかったことに気が付き、それを投稿しました。スマホのモバイル通信は負担が大きいので契約を寛恕し、携帯機器でのWifiを使っています。

一番安い料金プランにしているので月のデータ量が200MBしかありません。自宅で普通にインターネットを使っていると普通に1時間ほどで使い切ってしまいそうなデータ量です。

昨日の通信データを今日の昼前に確認したのですが1.4MBになっていました。TwitterにもAPIを使ったテキストデータの投稿をやっていて、確認のためにTwitterのページを読み込むときもテキストブラウザを使って、画像などを読み込まないようにしているので、期待以上のデータ量の少なさでした。

自宅でインターネットを使っていれば通信データは使い放題ですし、6月6日に光通信に切り替えたところなので、通信速度も不満のないスピードです。特に上りのアップロードでは前のADSL回線より軽く30倍以上の速度が出ているようです。

ただ他のことなど諸々と出費もかさみ、年間の支払いもあるので経済的にはかなり厳しくなっています。そのぶんも集中してこの告訴状の作成に取り組みたいと思っています。

図書館に来る一番の理由は暑いからです。家にはクーラーがありません。特に午後は西日が射して暑くなります。図書館にいる間はインターネットは最低限の使用しかできないので、テキストつまり文章の作成にのみ専念します。

昨日は百満ボルトのことを書いたと思いますが、今思い出すと100満ボルトという店名が正しかったと思います。住所は野々市ですが、先日たまたまCMをテレビで見たところ、金沢本店と出ていました。

御経塚の交差点から陸橋に上り、それを降りたところにある交差点を左折し、少し行ったところにある店舗です。そういえば以前、被告訴人大網健二に付き合いを頼まれて二人でその店に行き、彼がディスクトップのパソコンを買ったようなこともありました。

ずっと忘れていたことでしたが、今ふと思い出しました。一括で現金払いかカード払いをしていたような気もします。時期がはっきりしませんが、平成11年かもしれません。彼の自宅に行き、そのパソコンを見たという憶えもありません。

ここでも記憶と事実の整理をしておきたいと思いますが、私がまともに被告訴人大網健二の円光寺の自宅に遊びに行ったのは1回だけでした。平成9年の1月に福井刑務所を出てから、まだ日の浅い頃でした。

どうやって行ったのかは憶えがないですが、彼の車で連れて行ってもらったことは間違いないと思います。車以外となるとバスですが、私は一度もバスで円光寺の周辺には行ったことがありません。

夕方遅い時間に家に行き、奥の方の居間のような部屋で、彼の妻と再会したことも印象的に憶えています。気持ちを込めた作り笑いにも思えなくはなかったですが、満面の笑みでこころよく迎え入れてくれました。夕食も振る舞ってくれたのですが、天ぷらが出たようなことを微かに憶えています。

食事を終えたあとか、あるいはその前だったような気もするのですが、野々市の方のスーパー銭湯のようなところに行き、風呂に入りました。金沢の周辺ではよくある大きな銭湯です。彼の子供が一緒だったような気もするのですが、記憶ははっきりしません。

割と早い時間の就寝ということで被告訴人大網健二らは二階に上がっていき、朝まで姿を見せることもなかったと思います。私は居間でコタツに毛布をかぶって寝たように思いますが、なかなか寝付けずテレビを見ていました。

深夜帯かそれに近かったように思うのですが、南野洋子か中山美穂のどちらかが主演の映画で、寒村の浜辺が舞台のような映画をやっていました。ずいぶんと貧しい生活が描かれていたようにも思いますが、映画の筋書きなども記憶にはありません。

どちらの女優かもはっきり思い出せず、名前の感じが違っている可能性もあるので、あとでなるべくなら調べて正確な情報を書いておきたいと思います。

翌朝は、被告訴人大網健二が仕事に出かける車に同乗して、金沢市神田の合同庁舎まで送ってもらいました。目的は労働基準監督署です。それ以外には考えられません。その建物に労働基準監督署があることは随分前から知っていましたが、実際に訪れたのはその時が初めてだったと思います。

ただし、労働基準監督署に相談に行ったのはそれが初めてではなく、初めに金沢市場輸送に入社した昭和59年1月の少し前まで働いていた会社のことで、相談に行き、労働喜寿監督署の職員と一緒にその会社に行ったことは一つの場面として記憶にあります。

私の記憶の中では、神田の合同庁舎と大手町の金沢地方検察庁の庁舎の建物というのは、だいたい同じ頃に出来たという気がして、以前は新しい建物というイメージも強くありました。ただ、どちらも建設中の様子は見た覚えもなく、建物が出来る前のその周辺の状況も記憶にはありません。

その時、途中までは被告訴人大網健二の妻も同乗していました。途中の町中で降りていったのですが、寒空の中でのことでした。日本生命の保険外交員の仕事をやっていて、そのまま営業の仕事に回る、というような話でした。

労働基準監督署に行ったあとは、金沢地方検察庁、裁判所、金沢西警察署にも行ったように思います。裁判所の場合だと、室内に招かれて本格的な話をしたのは、2階の階段を登ってすぐの部屋で、名古屋高裁金沢支部の刑事部でした。

裁判所に行ったのであれば、すぐ近くの金沢地方検察庁にも行ったと考えられるのですが、当時はっきりした用事で金沢地方検察庁に行ったのも一度だけで、刑事特別部のゴダイという人に会った時のことでした。

その時は、三階か四階の喫煙所のような場所で話をしました。待合室と喫煙所がほとんど一緒になっていたようにも思いおます。正面から建物をみれば、右端の側面の部分で、窓の下には若杉幸平弁護士の法律事務所も真下 近くに見えたのではとも思われる位置です。

その頃はただの通路にも見えた場所です。そうやって考えてみると私は平成9年に福井刑務所を出てから今まで2回しか、金沢地方検察庁に行ったことはないということになりそうです。

2度めに行った時というのは平成18年10月の初め頃のことです。提出する告訴状の書面を携えて約束していた時間に合わせて行きました。ゴダイさんに以前会った場所とほぼ同じだと思いましたが、その時はすっかり待合室という感じになっていて、参考人に対する心構えのような手引も壁に張り付けて。

その時会ったのは検察事務官の遠塚さんでしたが、捜査官室という部屋に招かれてそこで話をしました。五台山の時は、事実上立ち話のようなもので終わったと思います。

金沢地方検察庁には一度だけ再審請求に必要と言われた判決謄本をもらいに行ったことも記憶にあります。これは一階かあるいは地下一階の場所で受付をしたように憶えていますが、外に収入印紙を買いに出たことも憶えています。

その判決謄本をもらいに行った時期も現在思い出せなくなっているのですが、交付の時に対応を受けた職員が、以前に見た遠塚さんに似ていると思ったように思うのですが、その後どれくらいあとかもわかりませんが、謄本に遠塚という名前が書いてあることも見つけたという記憶があります。

捜査官室で会った時の遠塚さんの上司と思われる人の名前も、今現在思い出せなくなっています。普通には変換できないような感じが含まれていました。

書いているうちに思い出すことが出来たのですが、「とま」という人でした。戸のあとの一文字が、間ではなく見たこともない感じになっていましたが、間には近い感じではなかったかと思います。

電話で自ら名前を名乗り、難しい漢字についても説明を受けたように思います。はてなのブログを検索すれば、当時の詳しいことを見つけ出すことが出来るとは思いますが、今は自由にインターネットを使えない環境です。

すでに平成19年の4月1日の公訴時効を過ぎてからであったと思いますが、電話で告訴状の受付に関しては公訴時効と関係なくやり、必要があれば、とか行っていたのもその「戸ま」さんだったと思います。

その「戸ま」さんの後任と思われる人の名前も、今現在思い出せなくなっています。わりとよくある覚えやすく思い出しやすそうな名前だったのですが・・・。岸田という名前だったかもしれません。余り記憶に自信が持てなくなっていますが、Twilogでも確認はできそうです。

円光寺の被告訴人大網健二の家のことに関する説明に戻りたいと思います。まともに家に入ったのは一階ぐらいと書きましたが、夕食をごちそうになって泊まった日のことです。

他に二回ぐらい、玄関から入ってすぐ右手にある部屋に招かれて、そこで何かをしたということがありました。一回は、Nテックの飛び込み営業に使うための背広など服やズボンを貰いに行った時ではなかったかと思います。

Nテックの話が始まったのは平成11年1月の20日頃だったと思います。似たような時期に2回ぐらい同じようにその部屋に入ったのですが、縦に垂直型のピアノが置いてあったような気もします。

円光寺というのは私にしてみれば、同じ金沢市内でもかなり遠く感じる場所でしたし、仕事以外では滅多に行くような場所でもありませんでした。既に書いていると思いますが、その近くの山科に堀田建設の現場があった平成11年の春には毎日のように通う時期もありました。

野々市の100満ボルトでボイスレコーダーを買った話を書いていたのでした。繰り返しになると思いますが、平成14年12月の20日頃のことでした。

当時私は、派遣の仕事を始めたところで、一月近くが経って仕事も生活も慣れて落ち着きが出た頃だったと思います。初めての派遣会社の派遣先でもありましたが、志賀原発で有名な羽咋郡志賀町の能登中核工業団地のなかにある光ケーブルの工場で派遣の仕事をしていました。

当時は毎日3時間の残業があって4日出勤の2日休みではなかったかと思います。工場自体は24時間のフル稼働なので、土日というのは関係なかったはずです。

野々市の100満ボルトは、以前行った時とは違い、大きなビルのホテルにも見えるような建物になっていました。けっこう長い時間、店内でいろいろな商品を見ていたと思いますが、買ったものとして記憶に残っているのはボイスレコーダーだけです。

初めからボイスレコーダーを買うことを目的に店に行ったのではなかったような気もするのですが、思っていたより価格も安く高機能なボイスレコーダーを見つけ、手にとったものをたまたま買ったような気もします。いわゆる衝動買いです。

同じ頃で数日後の年末に近い頃だったという気がするのですが、金沢市入江のオートバックスというカー用品の店に行き、そこでカーオディオを買い、乗っていた軽四に取り付けてもらったような覚えもあります。

ボイスレコーダーを買った時は、そのまま金沢市黒田の被告訴人KYNの家に行きました。昼過ぎの時間だったようにも思うのですが、彼が家にいた事と、いるだろうと疑いなく訪問したことを考えると、日曜日であった可能性も高そうです。

ただ、一方で野々市の100満ボルトでは、出入口で福引のようなイベントもやっている大売り出しだったとも記憶にあるのですが、その割には客の姿が少なくて、平日のような雰囲気があったという記憶も残っています。

買ったばかりのボイスレコーダーは、訪問した被告訴人KYNとの会話で使ってみました。上着の内ポケットに忍ばせていたのではと思いますが、期待以上に鮮明な音声で録音ができていて、これは使えそうだと思ったことを憶えています。

被告訴人KYNの家でパソコンを見たのも、その時だったかもしれません。家電ショップによく置いてあるようなディスクトップのパソコンでしたが、比較的高価なもの見えました。スペックもけっこう高かったような気がします。

訪問した時も家に上がって話をしていた時も、被告訴人KYNはずいぶんとおだやかな感じであったと思います。私の方でも彼が警戒したり、気に触ると思うような話題は避けたように思います。記憶に残っている会話というのもパソコンのことぐらいかと思います。

30分から長くいて一時間だったようにも思いますが、その後のことも記憶には残っていません。人間的な彼との関係は平成11年の時点で破綻していると思っていたし、自分の想像を超えたような事情もあるのかと考えていたと思います。

その後も連絡をとるようなこともなかったと思いますが、昨日辺り書いたように、彼の宇出津の家の方や、あるいは宇出津に帰ってきていると知った上で掛けた携帯電話で、電話に出た被告訴人KYNが真脇温泉にいると話していたようなこともありました。

よくよく考えるとその時の電話が、金沢での最後の会見につながったのかもしれません。そういえば正月の休みが明けた頃であったようなことも、割とはっきりした輪郭として浮かんできました。やはり平成16年の1月ということになりそうです。

自信が持てるほどの記憶にはなっていないのですが、やはり買い換える前のホンダの軽四に乗っていた可能性が高いと思います。なにか車に不調があって、停めた車の下の方を覗きこんでいたよう気もしてきました。致命的な故障を起こす予兆のような段階になっていたことも、あるのかもしれません。

たまたま買ったワグナーのCDを聴いていたことも思い出してきました。それでカーオディオをいじくっていたというのが実際で、車の不調というのは無関係だったのかもしれません。車の事で何かあったということは割と印象的に憶えていたのです。

ワグナーにはマイスタージンガーという有名な曲がありますが、何かで町の職人というような説明を見た覚えがありました。被告訴人KYNが平成9年から11年にかけて、私に対してやった工作的活動は、職人芸を思わせるものでもありましたし、壮大な演劇を思わせるものでもありました。

シェークスピアとか直接にはほどんど読んだ覚えもないのですが、その評価というのは雑学的にいくつかの本の中で読むことがありました。

野々市の100満ボルトからボイスレコーダーを持って訪問した時は、飛び込みに近かったと思いますが、最後の会見の時は、事前にしっかりと連絡で会う日時や場所を決めていたと思います。私もそれだけの気構えで臨みましたし、彼としてもそのあたりは察していたものと思われます。

その時は彼の自宅ではなく、以前は会社の事務所のようにもなっていた。隣の民家の方で初めに会ったように記憶しています。その隣の家については、まだ十分な説明をしていないように思いますが、少しは触れたことがあるはずです。

3ヶ月ほど前になりますか、Googleのストリートビューでは、黒田の被告訴人KYNの自宅も、その隣の奥の方の家も、平成11年の1月当時とも余り変わりのない様子で写真が出てきました。さすがにそこまではと思い、公開も控えてきました。

平成10年の9月ころになるのではと考えているのですが、被告訴人KYNがその隣の奥の家を買うとか言い出しました。言い出してから本当に買うまでも早かったと思いますし、すぐにその家に出入りをするようになっていました。

同じ頃、被告訴人KYNは1億とか2億の借金をするとか、したと話していました。はっきりとは思い出せなくなっていますが、1億とか2億という区切りではなく、1億5千万円とか、そういう金額を口にしていたように思います。

宇出津に本店のある興能信用金庫に借りるような具体的な話もしていました。いしかわ動物園での配管の仕事が本格化した頃にも近かったような気がしますが、その仕事は春の頃から始まっていたようにも思います。

他にもあったのですが、いしかわ動物園でのメインの仕事はアザラシとかの水族館の配管工事でした。かなり複雑な配管で特殊なバルブのようなものも多数取り付けていたと思います。

契約の内容など知らないので、正確なことはわかりませんが、そのような配管やバルブなどの材料費も持ち出しになるのだとすれば、相当な金額にはなりそうなので、そういう費用を含んでの借金なのかと考えることがありましたが、経験もないので現実的にとらえることのできない金額でした。

なお、今も同じ宇出津の図書館にいるのですが、昨日たまたま手にとった本の中の宇出津の能登町役場の工費について2億9千万円と書いてありました。「能都町町制25周年記念 郷土の歩み(歴史伝承)」という本です。

昭和46年4月に建設工事に着手。昭和48年7月をもって完成、とも書いてあります。足場を組んだ建設中の能登町役場の写真もあるのですが、私には建設中のこともその前の状況も、全く記憶には残っていません。

時代が違うし貨幣価値の異なることもありますが、総工費と思われる金額が2億9千万円というのは意外でした。いしかわ動物園の総工費も調べれば、情報を得ることができるかもしれません。

隣の奥の民家ですがそれほど広い土地でもなく家も古かったので、私としては3千万円がいいところかとも考え、すぐに手を出したくなるような掘り出し物であれば2千万円にも近いのかもしれないと考えることはありましたが、契約は個人間や業者相手のことなので、正確なことはわからないと。

どうも気が付かない間にWifiの接続がきれていたようです。接続というよりはモバイル機器の電源がオフになっていました。だいぶん前にさかのぼってツイートしなければなりません。

あとになると思いますが、被告訴人大網健二がその隣の奥の民家について、自分が紹介をしたような話をしていました。それだけではなく、その大家のような人のことも話していたと思います。

当時の私としては他に気がかりなことがあったためか、それほど重く、深くも考えずに聞き流していたようにも思うのですが、大家のような人というのは高齢の女性のようで、なにか工場をやっているような話で、屋根の方の手伝いがなんとかと言っていたような気がします。

さらにいえば、私は被告訴人大網健二と二人でその工場のようなところに行き、なにかをしたような気もするのですが、それもごくごく曖昧な記憶になってしまいました。工場というのは間明から玉鉾の方面だったような気もするのですが、昨夜見た夢の内容を思い出すような感じで、雲をつかむようです。

隣の奥の家の購入が、被告訴人大網健二の仲介によるものという話は一度も聞きませんでしたし、そんな重要な売買であれば直接顔を合わしに被告訴人大網健二が来ることはあったはずと思えます。

被告訴人大網健二の姿は不思議なぐらい長い間、さっぱりと見ることがありませんでした。被告訴人大網健二が被告訴人KYNのところに顔を出すようになったのは平成10年の11月になってからだったと思います。

既に書いていると思いますが、西金沢の駅の近くの小料理屋のことがきっかけでした。雨の降る夜だったとも記憶にありますが、配管ではなくエアコンの工事がなんとかと話していたような気もします。

その小料理屋に関しては、半年ほど前になりますかGoogleのストリートビューで、それらしい店を確認しています。店は平成10年の秋に出来たばかりの状態だったので、15年程度だと新しいままに見えていると思いますが、西金沢駅を含めた周辺の景色というのは、物凄く激変して見えました。

店の名前は「一水」だったと思いますが、インターネットを自由に使える家に戻ってから確認するつもりです。

とにかく3人でその自宅を兼ねたような店舗の家に行った時は、建築工事が完成したばかりという感じでした。荷物のようなものは何も持ち運ばれてはいなかったと記憶にはあります。

配管の工事の話でなかったことは間違いないと思いますし、配管の工事に問題があれば施工をした業者を呼ぶのが当たり前かと思います。極力安上がりにするためエアコンの工事の相談を持ちかけてきたように見えましたが、どこか腑に落ちない話にも見えました。

エアコンといえば、その平成10年の夏、私は生まれて初めてエアコンを買ったのですが、それは被告訴人KYNも関わりのある業者の集まりでの会場のことであったと、これもぼんやりですが記憶にあります。場所も金沢の西の方ではなかったかという程度しか思い出せない話になっています。

業者間のしがらみや付き合いのようなものがある場であったと思いますが、とにかくエアコンを買いました。被告訴人KYNの勧めもあったのだと思いますが、取り付けを手伝ってやるという話があったはずです。

実際に被告訴人KYNが北安江の借家に来て、二階でエアコンを取り付けるのを手伝ってくれたという場面も記憶に残っています。その時のも仕事でエアコンの取り付けはやったことがあるとか、することがあるとは話していたと思います。

ついでに書いておくと業者の集まりの会場には最新機器のお披露目のようなものもあったと思います。いろいろとブースがあって、食べるものや子供を楽しませるようなものも多かった気がします。被告訴人KYNは家族連れで参加していたように思います。

隣の奥の民家を購入するまでは、被告訴人KYNの自宅が仕事場や事務所を仕事関係のすべてを兼ねていたと思います。見た目は普通にある住宅で目立つような看板も出てはいなかったと思いますが、人の出入りはそれなりにありました。

別の言い方をすれば被告訴人KYNの家族の生活と仕事が一緒くたになっていたわけですが、隣の奥の家を購入してからは、朝仕事に来た時も帰る時も、被告訴人KYNの自宅ではなく、そちらに顔を出すようになりました。

被告訴人大網健二の姿を被告訴人KYNのところで見るようになったのもそれからだったと思います。私が被告訴人KYNのところで仕事をすると決まる前後の一定の間は、ちょくちょくと顔を出していたように思いますが、まったくといっていいぐらい姿を見せなくなっていたように思います。

被告訴人KYNのところでの仕事というのは朝は7時に出勤になっていたと思います。初めは7時半だったきもするのですが、私が入って2,3日後には7時になった気もするのです。ずっと7時だったので余り気にはしなかったですが、そういうこともあったかと思います。

休みというのは日曜日だけだったと思います。日曜出勤というのも皆無ではなかった気もしますが、ほとんどはなかったと思います。

現場で仕事を終え 片付けてから帰ってくるので、18時から19時の間に帰ってくることが多かったような気がします。事務所が隣に移ってからは、その後の解散までの時間も長くなりましたが、もちろん必要な打ち合わせもありました。

配管の仕事というのは現場の仕事だけではなく、図面を見て部品を拾い出し、それを注文したり、買いに行くという仕事もありました。

親方である被告訴人KYNの場合は、見積書の作成というのもよくある仕事で、買う気のない客と同じで無駄な見積書を書かされることも少なくないと愚痴をこぼすこともありました。

一水のことで被告訴人大網健二が顔を出して以来、私ともちょくちょく会うようになりました。そんな頃から総合建設業を目指すとか夢のような話を語るようになり、兄貴の大網商事をそのようにしたいなどと構想を語るようになったのです。

あれこれと話を聞いていても具体性のある話とは思えませんでしたが、被告訴人KYNが隣の奥の家を買うと言い出し、それを現実にものにしたということもあったので、それなりには話を聞いていました。

そのうち大網商事の社員教育として講師を招き経済学だかの話を聞くので、被告訴人KYNに場所を貸してくれと頼んでいました。指定した場所というのがその隣の奥の家です。

変な言い方をすれば夜逃げをしたあとの抜け殻のような家でした。事務所のように使っていたのは玄関からまっすぐ入った板張りのダイニングキッチンのような部屋でした。事務所らしくなったのはリフォームの工事をした翌年つまり平成11年の1月下旬のことです。

講師というのも大学の先生のような話でした。呼ばれた方もさぞや驚くのではないかと想像もしましたが、とてもまともな話とは思えなかったです。

時刻は7月11日10時18分です。ツイートされているか今確認したところ最後のツイートが16時間前になっていました。図書館から戻ってからも書くつもりでいたのですが、昨夜はケンミンショーのテレビを見たりしてのんびりしました。

今日も朝食を兼ねた昼前の昼食を済ませてから図書館に行こうと思っていたのですが、ネットの天気予報では能登町の一番上がる気温で25.1度になっていたので、家でも暑さを気にせず過ごせそうです。もっと気温が低いはずの今でも蒸し暑ので、扇風機を弱風にしています。

扇風機を3日ほど前に出したところですが、その頃から右肩に少しですが神経痛のような痛みを感じています。寝違えたのかと思い、すぐに治ると思っていたのですが、今までに経験がなく3日ほど続いているので少し気になっています。

図書館にいる間は右肩の痛みもほとんど気にせずに過ごしていたのですが、その辺りもちょっと気になるところです。湿度が関係しているのかもしれません。梅雨の時期はそういうことがあると聞いたことがあります。

昨日になりますが次の気になるニュースもありました。気になっても最終的な結果が出たということなので、結果が変わることはないと思いますが、刑事事件、刑事裁判についてよくよく考えさせられる裁判の一つです。

舞鶴女子高生殺害事件で無罪確定へ NHKニュース http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140710/k10015897101000.html

2008年の5月の事件であったと知りましたが、私がまだ羽咋市で生活していた頃の報道にもなりそうです。当初から京都の弁護士が積極果敢な弁護活動をしたということでも印象に残る事件でした。私が京都の弁護士界に特別な注目をするようになった契機でもあります。

変わって、一昨日になるのかと思いますが、PC遠隔操作事件の公判に関する報道があったのですが、テレビでは報道を見かけませんでした。細かいこと正確なことは必要にも応じ、廣野秀樹(@hirono_hideki)のTwilogを見てください。そのためのツイートでもあります。

昨夜の続きで録画していた昨夜の19時のNHKニュースをみていました。ほとんどは台風8号関係の災害報道だったので、途中からベネッセの個人情報情報流失の辺りまで早送りしたのですが、先ほど最後まで視聴したものの舞鶴の事件の無罪確定の報道は、私として確認することができませんでした。

ベネッセの個人情報流失のニュースですが、流失された情報をジャストシステム社が入手していたという問題が発覚し、株価がなにかの最低まで下がったとかNHKで言っていました。しばらく前にパソコンで見た次の落合洋司弁護士(東京弁護士会)のツイートもきになっていたところです。

2014-告訴事件に関する司法・社会・世相・時代の参考情報/金沢地方検察庁御中: だらだらと一太郎を買う人がいたから、ジャストシステムが存続してしまい、流 出情報大量利用につながってしまった、という見方も/落合洋司弁護士 http://hirono2014sk.blogspot.jp/2014/07/blog-post_11.html

2014-告訴事件に関する司法・社会・世相・時代の参考情報/金沢地方検察庁御中: ジャストシステムは、時代遅れのワープロソフトを売るだけでなく、流出情報で 世間に多大な迷惑までかけちゃったんだな。/落合洋司弁護士 http://hirono2014sk.blogspot.jp/2014/07/blog-post_2874.html

ブログ名は省略しても良いのですが、やはり付いていたほうが他との区別も出来てわかりやすいと思います。次のような最たる懸念を感じさせるようなツイートもほぼ一緒に見かけました。

2014-告訴事件に関する司法・社会・世相・時代の参考情報/金沢地方検察庁御中: そろそろ国交断絶かな。→自衛隊発足記念行事 ロッテホテルが突然中止の通告 =韓国(聯合ニュース) /落合洋司弁護士 http://hirono2014sk.blogspot.jp/2014/07/blog-post_6263.html

リンク先の記事は読んでいないのですが、日本の弁護士のかなりが、人間関係のみならず、近隣諸国との関係の悪化をも促進しているのではないかと思ってきました。不安を煽り弁護士としての仕事を増やすというのが、基本にあるようにも私には思えています。

落合洋司弁護士(東京弁護士会)とはタイプの異なる小倉秀夫弁護士にツイートにおいて、その傾向はいっそうわかりやすく現れているように思っていますが、小倉秀夫弁護士のツイートは数も多く不快も伴うので、気が向いた時にしか閲覧していません。

昨夜はケンミンショーが終わったあと、テレビをつけたまま横になって寝てしまい。夜中の3時前に目が覚めたのですが、ピグライフでお手伝いのお返しをするため、自動でスリープになっていたパソコンをサスペンドから復帰させました。

ついでにツイッターを少し見ていると、リンクで紹介されていたのがジャーナリスト江川紹子さんの次の記事でした。どうも著名人によるブログとニュースの中間的な記事になっているようです。

【PC遠隔操作事件】「なぜこのような事件を起こしたか自分でも分からない」(第12回公判傍聴メモ)(江川 紹子) - 個人 - Yahoo!ニュース http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20140711-00037279/

しばらく読んでいて、目が冴えすぎると眠れなくなってしまうと思い。パソコンを閉じて布団に入りました。なかなか寝付けなかったですが、睡眠もとれて8時を過ぎた頃に目がさめました。

起きてからも記事を読み続けたのですが、かなり長いもので、まだ全部は読んでいません。最近の傾向として朝は一番見ることの多いとくダネ!という情報番組を見ていたのですが、舞鶴の事件の無罪確定に関しては短く簡潔な報道でした。

二人暮らしの一人娘を失ったということで、以前大きく報道されているのを見たという記憶もあるのですが、遺族のコメントも出ておらず、それはネットのニュースでも全く見ておりません。今日明日に報道がなければ、それで幕引きになってしまうのかもしれません。

時刻は17時57分です。結局図書館にはいきませんでした。午後はネットの天気予報で雨マークもなかったのですが、一時強い雨が降っていました。パソコンに雨が入って故障すると大変なので、空の具合も気になっていました。

いつもは災害情報を優先しているミヤネ屋という情報番組ですが、今日は始まりの30分間、兵庫県魏の問題を取り上げていました。後半にもやっていましたが、見ているうちにすごく眠くなり、起きると番組は終わっていました。舞鶴の事件の無罪確定は報道として見当たらなかったです。

弁護士 谷山智光 (taniyama)さんはTwitterを使っています https://twitter.com/taniyama ← の実名弁護士ツイッターアカウントは、私がトップクラスの注目をしている弁護士ですが、そちらのツイートで先ほど次の記事を読むことが出来ました。

無罪「的確な判断」 京都・舞鶴高1殺害で弁護団 : 京都新聞 http://kyoto-np.jp/politics/article/20140710000149

時間が経つとリンク切れになったりすることが多いので、主要部分を引用して次のようにブログの記事にしました。

2014-告訴事件に関する司法・社会・世相・時代の参考情報/金沢地方検察庁御中: 逮捕段階から弁護人を務める遠山大輔弁護士は「一読即解の、刑事裁判の原則に のっとった内容。証言も供述も検証可能な形で記録しておかないと証拠として通 用しない」と取り調べの可視化を進めるよう http://hirono2014sk.blogspot.jp/2014/07/blog-post_3585.html

上記のリンクの紹介はWebページから直接ツイッターに投稿したものの−18と文字数オーバーになっていたので、ブログ名の部分を削除して投稿しました。繰り返しですが本書とツイッターの完全一致は目指していません。

取り調べの可視化に対する弁護士の姿勢が、より鮮明に力強く表現されているかと思います。このような姿勢はこれまでにも私のインターネットを使った情報公開に刺激を与え、必要性を痛感させたものとして、その一面において多々影響を受けています。

それはまた、しっかりした証拠がなければ、被害者及び遺族は諦念せよ、という実質的な効果を伴っているようにも思います。さきほどテレビで「かつ江さん」に関する報道をみたところでもあります。かつ江さんはインターネットの情報として見かけていました。

さきほど弁護士に刺激を受けたと書きましたが、触発されたと書いたほうが良かったかと思います。文章での表現力が未熟なのは自覚のあるところですが、なるべく正確な表現は心がけています。

廣野秀樹(@hirono_hideki)/「かつ江さん」の検索結果 - Twilog http://twilog.org/hirono_hideki/search?word=かつ江さん&ao=a

上記のようにTwilogで確認をしました。該当のツイートは3件。一昨日の夜かと思っていたのですが、昨日の8時過ぎという朝のツイートになっていたのは、自分で意外でした。たぶん弁護士のツイートがきっかけで知った情報だったと思うのですが、調べる必要がありそうです。

時刻は20時43分になっています。夕方、どんたく宇出津店に買い物に行き、まだ食事は済ませていないのですが、ピーマンとキュウリを人にもらったので、半額になっていた牛肉とピーマンと安いきのこで肉野菜炒めでも作る予定です。

昨日の夕方炊いたご飯が残っていたのですが、珍しく半額になっていた赤飯が売っていたのでそれを買ってきました。ご飯はパックに入れて冷凍保存しました。このところご飯は2合炊いて3食分になるのが普通という感じになっています。2,3年前までは二食でも足らないぐらいだったと思います。

かつ江さんのニュースを知ることになったきっかけはやはり落合洋司弁護士(東京弁護士会)のツイートでしたが、昨日のことでもはっきり思い出せないことがあると再確認したところでもあります。

見出しのテーマからずれていると思われるかもしれないですが、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)と被告訴人KYNを軸にしていることには変わりありません。締めて本日日付として再開します。

<2014-07-11 金 20:51> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

**** DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月11日
CLOSED: [2014-07-12 土 00:59]
<2014-07-11 金 20:56> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

21時からは石川テレビで2時間ドラマを見るつもりですが、肉野菜炒めを作って夕食も済ます予定です。ざっと新聞でドラマの内容を見ましたが、それほど関心のあるテーマではなかったので、今のところは録画もしていません。石川テレビということでフジテレビの可能性もありそうなので。

ドラマの冒頭の取調室の場面で見て、録画を開始しました。食事の支度などで部分的な見落としも出てくるかと思いますが、録画がうまく行けばあとで見直すことが出来ます。一昨日ぐらいにレコーダーの不調を直すことが出来ましたが、まだ様子見の状況です。

「北国署には慢性的な不正があります。」というドラマの展開。弁当忘れても傘忘れるな、というのは金沢のはずだけど。警察署の建物に富山県警察。これは期待以上に参考になるドラマかもしれない。

浅野温子という女優が主演みたい。平成3年だったと思うけど、「ぼくは死にましぇん」の場面のドラマが一番印象的、個人的には元気だった頃のおもちゃのおばさんのことを思い出す。そういえば今日の夕方は、いきなり久しぶりに「ひできちゃん」と呼ばれた。

やはり富山県の高岡市が舞台になっているみたい。氷見の強姦冤罪のことを思い出したけど、確か問題の発覚は鳥取県の警察署で真犯人が自供したことがきっかけとなったと記憶。

こちらも落合洋司弁護士(東京弁護士会)のツイートがきっかけで知りました。→ <フジ社長>視聴率低迷で大異動 社員3分の2の1000人を「2位にしがみつきたい」 (まんたんウェブ) - Yahoo!ニュース http://bit.ly/1jxzzih

検察をテーマにした過去の大ヒットドラマ「HERO」がきかけでもあるようです。落合洋司弁護士(東京弁護士会)がどのドラマの法律監修をしていたかいう話は随分前から散見していましたが、次回作には関与していないとのこと。

2014-告訴事件に関する司法・社会・世相・時代の参考情報/金沢地方検察庁御中: 視聴者に著しい誤解を与えた疑いがあることは明らか」とした上で、「放送局が 誤解を解く十分な対応をしているとは言えず、放送倫理違反が考えられる」 http://hirono2014sk.blogspot.jp/2014/07/blog-post_5455.html

途中眠くなったりしたのですが、テレビを見ていました。ニュースZEROで知り記事にしたのが上記のニュースです。内容的にけっこうな収穫かと思います。続きは起きてからということでそろそろ休もうかと思います。

今夜は項目を締めておきます。続きは日付の変わっている今日の日付で。

<2014-07-12 土 00:59> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

**** DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月12日
CLOSED: [2014-07-17 木 10:20]
<2014-07-12 土 08:36> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

昨夜の続きを書きたいところですが、またしても落合洋司弁護士(東京弁護士会)に気になる発言を目にしました。取り調べの可視化と舞鶴の無罪判決になった高1女子殺害事件に関する発言です。

もし可視化なら…「示達的な供述」示す資料にも 京都・舞鶴高1女子殺害事件:イザ! http://www.iza.ne.jp/kiji/events/news/140710/evt14071020590045-n1.html

ご自身のツイッターで紹介していたので知ることが出来ましたが、気になったのは次の部分です。→ 「捜査機関は可視化を邪魔なものだと考えがちだが有利な材料にもなり得る」

今に始まったことではないですが、捜査機関に対する不信感や疑問を投げかけるものです。ご自身が受任した告訴で警察か検察が思わしい対応をしなかったことに対する批判も過去には散見してきましたが、想像を絶するほど強烈な警察、検察批判もあって、どうなっているのかと考えさせられました。

ご本人はその場その場で思いの丈を綴られているのかもしれませんが、現実に警察、検察に頼らなければならない立場である私にすれば全く真剣に考えるほかはありません。

落合洋司弁護士(東京弁護士会)に関しては昨夜から新ドラマ「HERO]に関するツイートが散見されます。

2014-告訴事件に関する司法・社会・世相・時代の参考情報/金沢地方検察庁御中: これは裏目に出そう。→HEROキムタク使命感!「HERO」復活に国も期待、異例の 大臣出席会見(映画.com) /落合洋司弁護士 http://hirono2014sk.blogspot.jp/2014/07/herohero-com.html

HEROキムタク使命感!「HERO」復活に国も期待、異例の大臣出席会見(映画.com) - goo ニュース http://news.goo.ne.jp/article/eigacom/entertainment/eigacom-44763.html

2014-07-10 - 弁護士 落合洋司 (東京弁護士会) の 「日々是好日」 http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20140710#p2

まとめて3つご紹介しましたが、まとめて説明します。落合洋司弁護士(東京弁護士会)のブログの記事によると前作には「監修、アドバイス」として関わったとのことです。思い入れも強いのでしょうが、随分前から時折話題にされていたので、ドラマと関係のあることは知っていました。

gooニュースという記事によると、2001年に社会現象になったと連ドラ、2007年に映画化とありました。これは私が今まで気が付かなかったことですが、平成3年といえば私が金沢刑務所で服役中だった年になりそうです。

一時期話題になっていたのは知っていたのですが、それが平成19年の映画であったものと考えられます。いずれもまともに見たことは一度もなかったのですが、テレビで終わりの4分の1かと思われる部分を2回見たことがありました。

先日もテレビではじめの方からHEROというタイトルの番組をみていたのですが、ドラマか映画なのかもわからず、前に見たのとは内容が違うと思いながら韓国の場面など見ていたのですが、見ながら途中で眠ってしまったようで、最後まで見ていません。

先ほど録画しておいたものを見ようと思ったのですが、番組表を見ると9時30分から「団地ともお」と出ていたので、これもすぐに忘れてしまう番組なのですが、それを見ることにして、見ているところです。

「団地ともお」終わったところです。2作目は、田舎の農家の庭先で、そうめんを食べさせてくださいと頼みこむ場面から始まりました。土下座をしていたように思いますが、その老人は退官した裁判官と思われる登場人物でした。

私がたまたま「団地ともお」を初めてみた時、退官した裁判官が出ていました。内容は余り憶えていないのですが、主人公のもとおという少年を含め、変わった漫画をそれもNHKでやっているなと思っていました。これまで数回見ましたが、たまたまチャンネルをそのままにしていた時に始まります。

私の事件に関しては平成4年の事件で最高裁まで裁判をやっているので、関与した裁判官でも退官している人がほとんどかと思います。初めにそのドラマを見た時も、そういうふうに思い出しましたが、他にも時代の違う懐かしさを感じさせるちょっと変わったアニメです。

「いまもなお灰色の記憶を抱き続けています。」というなんか新鮮さも感じさえる言葉ですが、NHKの次の番組に出てきました。番組表で見ていなかったのですが、四日市公害やその裁判をテーマに取り上げているようです。

金とく - Yahoo!テレビ.Gガイド[テレビ番組表] ow.ly/z4tsp 多くの住民に気管支ぜんそくの被害をもたらした四日市公害。全国初の大気汚染訴訟で住民が全面勝訴を勝ち取って40年以上。今、人々は何を思うのか、報告します。

見ていたのは上記の番組です。ホームページからはタイトルの取得が不完全だったので、引用部分で補足しました。原告弁護団事務局長という人も出ていましたが、共同不法行為を編み出したように紹介されていたように思いました。

共同不法行為は民法の条文にもなっているかと思いますが、過失の競合のような責任追及かと思いました。公害の問題というのは私が物心ついたころに盛んになっていた社会問題だと思いますが、漠然としてイメージが強い中、裁判そして弁護士の活動という過去のイメージとも重なっています。

ブルーレイディスクに保存していた「HERO」を再生して見ていますが、裁判所で出てきた女神像は目隠しタイプになっているようです。録画なので停止ボタンでしっかり確認できました。私は目隠しのない女神像を支持しています。

目隠しは雑音に惑わされず、心の目で真実を見抜くという意味があったかと思いますが、目隠しなどすれば必要な事実も見えなくなるというのが、当たり前すぎる道理だと考えるからです。ドラマでは「男魂」という車が出てくる場面になっています。

このあと男魂とペイントされた車を探しに韓国まで出張するところも、前回見ている部分です。ドラマの筋をわかりやすくしているのかもしれませんが、どんなものかと思っていた部分です。

刑務所の塀の外の場面とその後の病室に中井貴一の場面は、前回その辺りまで見たという覚えがありましたが、刑務所の中の病室に検事が会いに行ったということは前回気が付かなかったです。眠くなっていたのもあるかもしれません。

途中、食事もして何度も一時停止をしていたのですが、疑惑の代議士としてタモリが法廷に出てきました。途中からちらりと出ているのを見て気がついていたのですが、すっかり忘れていました。不思議なものです。

エンディングが流れてきました。公園の並木道のようなところで同僚と散会したあたりは記憶にあるのですが、そのあとのシャレた店での翻訳機などの場面は記憶になかったです。直前に寝落ちてしまったのか。昔のクールスのメンバーのようなマスターです。

理想の検事像を描いた作品で、豪華な俳優陣を起用しているということもあるかと思いますが、ずいぶんと好評を博した映画、そしてドラマであったようです。ドラマは刑務所に入っている間だったので見ることは不可能だったと思いますが、大きな話題になっていた割には、見る機会もなかったです。

【PC遠隔操作事件】「なぜこのような事件を起こしたか自分でも分からない」(第12回公判傍聴メモ)(江川 紹子) - 個人 - Yahoo!ニュース http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20140711-00037279/

上記はドラマとは違って、現実の起こった事件の裁判で、意外な展開から真犯人が自供に至った事件。その裁判に関するジャーナリスト江川紹子さんの傍聴記のようなものかと思います。主観を交えないようにしていると思われるのも特徴ですが、この事件に限った途中からのスタイルのようです。

このなかで次の部分が一番気になりました。→ 2014-07-12-154233_なぜか、世間を騒がす大きい事件を起こすのが、この世代に集中している。.jpg pic.twitter.com/VF2NWe4WRp

PC遠隔操作事件の被告人と秋葉原の無差別殺傷事件の犯人が同じ年の生まれというのも初めて知りましたが、事件自体が5年ほどの開きがあると思われるので、関連付けて考えることもなかったです。

PC遠隔操作事件の被告人といえば、落合洋司弁護士(東京弁護士会)らに犯行声明のメールを送ったことでも有名ですが、被告人が落合洋司弁護士(東京弁護士会)のことを知らない、関心がないなどと反論していたのも印象的でした。

所定にディレクトリで「grep -B 3 "^"Tags .@yjochi.PC遠隔操作事件." c投稿済み/」とコマンドを実行したところいろいろと出てきました。せっかくなのでブログの記事にでもしておこうと思います。

コマンドには特殊記号も含まれているのでブログのタイトル名にするのもふさわしくはないのでGoogle+ページの投稿にしました。次のURLです。いったんコピペした内容をワープロソフトか何かで見たほうが、見やすいかもしれません。

c投稿済み/20131129_2225.txt-"StrID : 4004 c投稿済み/20131129_2225.txt-"Title :… http://bit.ly/1r5qTC2

秋葉原の無差別殺傷事件といえば、私にとっても忘れられない事件ですが、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)のブログのコメント投稿から閉めだされるきっかけにもなりました。

% grep -B 3 "^"Tags .@motoken_tw.素人." c投稿済み/ | 2014年7月12日 | 非常上告-最高検察庁御中_Blogger http://hirono2013s.blogspot.jp/2014/07/grep-b-3-tags-motokentw-c.html

ツイッターの@付きアカウント名の部分がリンクになっていなかったので、メンションにもなっていないものと思われます。特殊記号に挟まれているので、Twitterの仕様としてそうなっているものと思われます。上記はブログの記事にしました。

特殊記号を含んでいるとTwilogではそのままに記録されていない可能性があると思いますが、以前に経験したことで、そのような説明も本書で行っていると思います。

時刻は7月13日11時06分になっています。告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)の投稿を確認しないと時刻はわからないですが、昨日から中断していると思います。

この項目では日付をプラスしながら、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)と被告訴人KYNを軸に書いています。地元宇出津のあばれ祭りで被告訴人KYNに数年ぶりに出会ったこと、その時の彼の対応もあって、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)を正式に告訴する必要性を感じました。

昨日は気晴らしもかねて、夕方にアジ釣りに行ってきました。小木港に行くつもりで出たのですが、姫の堤防の先端で釣りをやりました。時期的なこともあって小アジばかりですが、割とよく釣れました。

電気ウキを忘れてきたこともあり、暗くなってからはサビキではなく、ワームでやりましたが、改めて歴然とした釣果の差があります。アジはアミエビのコマセに狂うとも言われています。アミエビには水気を少なくするためにも安物の集魚剤を混ぜています。グレ用です。

アジ釣りは2010年の12月から始めたように思いますが、サビキをするようになったのは今年の5月の連休を過ぎてからです。それまではずっとワームかメタルジグでやっていました。いわゆるアジングという釣りです。手軽ですが以前はそれでもけっこう釣れました。

海釣りは趣味ですが、自然を相手にいろいろと発見もあるかと思っています。帰ってから釣ってきたアジを調理しましたが、これも大変でした。手間も掛かりますが、食費を浮かすことも出来るので実益も兼ねています。

時刻は7月16日11時17分になっています。どうも13日の夜から中断していたようです。説明のための思わぬ収穫を得て材料が揃ったと思っていたのですが、さらに時間をかけて色々と考えてみました。

外は雨が降り続いていますが、昨日のネットの天気予報では当分の間、雨の多い日が続くということで、まだ雨マークがなかった昨日の夕方は、アジ釣りに行ってきました。西寄りの風という予報もあって場所を選んだのですが、現場は東寄りの風が吹いていました。

今、録画していた7月13日日曜日の「サンデーモーニング」を見ていて、大幅に早送りして飛ばした部分もあったのですが、舞鶴の女子高校生殺人事件の無罪確定については、取り上げていなかったようです。時事公論という感じの番組なんですが。

続けて同じく「サンデージャポン」を見ているところです。こちらは芸能ネタが多い番組なので、出てくる可能性はより低いかもしれませんが、問題の捉え方としても参考にしたいところの確認かと思います。

「”号泣”野々村氏(47)辞職するも新たな疑惑」ということで時間を割いて取り上げていますが、面白ネタという側面が改めて大きくなっている問題だと感じました。

いままでほとんど知ることのなかった県議会議員の活動について色々と知ることのできた問題で、さらに刑事事件へと発展する可能性も出てきたので注目しています。弁護士のコメントだったと思いますが、テレビで実刑の可能性にまで言及するのも一つだけ見ました。

時刻は7月17日9時58分になっています。さぼった時間が長くなっているようですが、それでも色々と考えています。なにをどこからどの範囲で書くとなると、大いに考えこんでしまうところがあります。

とりあえず、本日は本格的に取り組む予定なので、日付を変えた新規の項目で書いていきたいと思います。メインとなるのはモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)ですが、ジャーナリズムとの関係、影響について検証を交えた説明を書きたいと思います。

<2014-07-17 木 10:06> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

**** DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月17日
CLOSED: [2014-07-18 金 12:50]
<2014-07-17 木 10:21> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

まずは今朝、目についた落合洋司弁護士(東京弁護士会)のツイートを記事にしたものを4件、次にご紹介しています。

よく取材を受けていた時期があった。残念としか言いようがない。合掌。→東京 新聞:市川 隆太氏 中日新聞北陸本社報道部長:おくやみ/落合洋司弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_3560.html

市川さんには、特別報道部当時に、共謀罪の関係で何度か取材を受けた記憶があ る。/落合洋司弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_7628.html

市川さんが、中日新聞の北陸本社にいると知っていれば、今月の10、11日に出張 で金沢に行ったので、挨拶に行けたのだが/落合洋司弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/1011.html

メール読み直してみたら、2008年に、市川さんの取材をよく受けていた。2009年 5月に、川崎支部長に着任します、というメールをもらったのが/落合洋司弁護 士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/20082009-5.html

なお、上記の記事タイトルとURLは次のコマンドから取得したものをつかっています。

% google blogger list --blog "2014-告訴事件に関する司法・社会・世相・時 代の参考情報/金沢地方検察庁御中" --user hirono2013k@gmail.com |tac

tacというコマンドはファイルや標準出力の内容を末尾から行を逆順に出力するコマンドです。普通に表示するcatコマンドとは文字の並びが逆になっています。tailやheadコマンドを使って先頭からあるいは末尾から、必要な分だけの行数を出力するコマンドです。

出力というのは通常、端末でのテキストの表示になりますが、パイプでつないで別のコマンドによる出力に使ったり、リダイレクトでそのままファイルとして保存することも多々あります。一般的なパソコンの使い方とは異なると思いますが、基本的な操作です。

私自身、かれこれ4年ぐらいは北陸中日新聞を購読していると思います。スーパーの安売り商品を広告で見るのを目的に購読するようになりました。月に3千円弱ですが、広告を見ながらある程度計画的な買い物ができるので、けっこう元もとれているのではと思っています。

購読はしているものの社会面など、目を通すことはそう多くはないです。テレビの番組欄もインターネットで確認できるので、新聞を開かないまま放置することも多々ありました。特に天気の良くない日などナイロン袋に入っていると、開いていないのもすぐにわかります。

羽咋市に住んでいた頃は、一度も新聞を購読したことはなかったし、平成9年の7月から平成11年の8月まで住んでいた金沢市北安江の借家でも、購読はしていなかったと思いますし、何度か勧誘を断ったことが記憶に残っています。

同じ頃から週刊誌というのも全く買わなくなりました。もう記憶にないぐらい一度も買ったことがないです。あるとすれば平成17年に珠洲線の鉄道が廃線になる前、電車で読むのに買ったような記憶がかすかに残っている程度です。

北陸中日新聞に関してはそれとは別に、以前、告発事件ということで一斉メール送信をしていたリストに含めていたと思います。北國新聞社も同じですが、石川県の地元紙ということで反応や対応に関しては、特に注目していましたが、そういうこともなかったと思います。

北陸中日新聞と北國新聞社に関しては、いずれも珠洲警察署に掛けた電話のあとで、直接電話を掛けて話をしたこともありましたが、1年か2年前というぐらいしか記憶に残っていません。続けて連絡をするようなこともなかったです。

北國新聞社よりは北陸中日新聞の人に真摯な対応を受けたという印象が残っていますが、毎日同じような単調な生活をしているためか、やはり時期が思い出せなくなっています。2年ぐらいは経っているとは思っています。あるいは金沢地方検察庁の電話のあとであったかもしれません。

当時は珠洲警察署の前後に金沢地方検察庁に電話をすることが多かったと思います。すでにミヤさんが担当になっていたとは思います。ミヤさんの前の担当者となると名前もはっきり思い出せなくなっていますが、つこんだ相談というのもしていなかったと思います。

今回、落合洋司弁護士(東京弁護士会)のツイートで訃報を知った中日新聞北陸本社報道部長という人のことですが、名前も見覚えがないので、まず知らない人だと思います。市川という名前だけを見たはじめは、市川寛元検事のことかと思いました。

2008年に取材をよく受けていたということですが、私がまだ真面目に落合洋司弁護士(東京弁護士会)のブログの記事を読んでいた時期にも重なりそうです。羽咋市から宇出津に戻ってきた前年ということになりますが、残業がなくなったり、仕事も暇になって自由になる時間が増えた時期でした。

いわゆるリーマン・ショックのアオリを受けて、仕事が減り、最終的には人員整理されて解雇となり、2009年3月16日に宇出津に戻ってきました。私にすればそこで時計が止まったような部分も大きいです。車の車検切れにも合わせて帰ってきました。

時刻は7月18日10時12分になっています。

昨日は、どんたく宇出津店に行って3枚1パックのとんかつ用の豚肉を買ってきて、昼に1枚、夜に2枚のトンカツを作った食べました。自分でトンカツを揚げて食べたのは初めての体験に近いかもしれません。にわかに挑戦してみたくなっていたました。

けっこう手間もかかりますが、自分で捌いたアジで、アジフライや唐揚げを作ることに比べれば、まだ手間も少なかったように思います。

弁護士 落合洋司 (東京弁護士会) の 「日々是好日」 http://d.hatena.ne.jp/yjochi/ ← こちらが落合洋司弁護士(東京弁護士会)のブログになります。ちょうど私がブログを始めた頃に存在を知り、閲覧するようになりました。

こちらが当時の私のブログです。→ 日暮れて途遠し http://d.hatena.ne.jp/hirono_hideki/

確認したところ2005年12月3日が初めての投稿になっていました。ブログ自体はその一月ほど前、同年11月の初め頃にgooでも初めていましたが、落合洋司弁護士(東京弁護士会)のブログを知ったのはその頃だと思います。上記ブログは現在もプライベートモードのままです。

こちらが問題のモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)のブログです。→ 元検弁護士のつぶやき http://www.yabelab.net/blog/

何ヶ月ぶりかでのアクセスでしたが、ブログは閲覧可能な状態にはなっているようです。ブログにありがちなリンク付きのカレンダーがなかったので手間取るかと思ったのですが、「過去ログ」というリンクから適当な記事をひとつ開くことで、一発で確認のための目的を果たすことが出来ました。

このブログの特徴として、他ではあまり見かけない気もするのですが、記事に対する個々のコメントの固定URLを得ることができます。まことに都合よく一発で、私自身のコメントを見つけることが出来ました。内容としても記憶にあるものです。

検察官が弁護活動を妨害? - 元検弁護士のつぶやき http://www.yabelab.net/blog/2005/11/01-213745.php#c1857

上記がそのコメントのリンクです。ホームページの仕組みの基本ですが、#記号の右側の文字列はページ内に一つだけの存在が許されるID属性というもので、ページ内リンクになっています。アンカーリンクとも呼ばれるものです。

URLには日付も含まれているのでなおさらわかりやすくて助かります。モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)は何度かMovableTypeのブログだと書いていましたが、私自身MovableTypeのブログは管理したことがないので、よくわからない部分もあります。

同じく個人サーバとしてブログを管理したことはあり、現在もやってはいますが、もっぱらWordPressというタイプです。MovableTypeというのは現在ではほとんど用語としても見かけることがなくなっているとも思います。

サーバのデータを削除されてしまっては、跡形もなくなってしまうので念の為スクリーンショットを撮っておきました。

2014-07-18-110742_名古屋高裁金沢支部で、国選弁護人は、小堀秀行という人です。.jpg pic.twitter.com/fyKcEXp4ln

自分のコメント内容で、あらためて当時の裁判のことを思い出したのですが、当時の名古屋港再金沢支部の裁判長のことを調べることが出来ました。記憶にあったのは「捷一郎」という他に見かけることの少ない名前でした。

「捷一郎 裁判官」とGoogleで検索したところ、「前原捷一郎」というのだけが出てきたのですが、前原という名前だったのかと思い出しつつ記憶に馴染むには多少時間がかかりました。一つだけでしたが、写真データも見つけることが出来ました。

2014-07-18-115209_理不尽スクープ : 前原捷一郎裁判長.jpg pic.twitter.com/9u6Lga0kgU

取り上げられているのは次のページです。 → 理不尽スクープ     : 前原捷一郎裁判長 http://bit.ly/1r7JnjD

私のコメントの部分はこうなっています。→ No.4 廣野秀樹 さん | 2005年11月17日 20:54

私がHatena::Diaryでブログを始めるより半月ほど前に、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)のブログでコメントをしていたとは、意外な大発見です。「はじめまして」という書き出しなので、これは初めてのコメント投稿だった可能性も普通にありそうです。

日付も変わっているので、新しい項目で続きを書きます。

<2014-07-18 金 12:48> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

**** DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月18日
CLOSED: [2014-07-19 土 09:27]
<2014-07-18 金 12:50> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

あらためて、必要ないかと思っていたのですが記事の本文を読んでみました。→ 検察官が弁護活動を妨害? - 元検弁護士のつぶやき http://www.yabelab.net/blog/2005/11/01-213745.php#c1857

どうも、起訴後の被告人に対して、検察官が連絡を持ちかけたことをモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)が問題視している内容のようです。

これが私のモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)のブログの記事に対する初めてのコメントだとすると、最後のコメントとなった記事では「検察官に謝罪」を求められ、それが条件のように閉めだされた経緯とあわせ、改めて考えさせられるものがあります。

2014-07-18-153117_モトケン (motoken_tw)さんはTwitterを使っています.jpg pic.twitter.com/tWTTy6PVoy

上記は、告発-金沢地方検察庁御中_ツイッター(kk_hirono)でモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)のツイッターアカウントにブロックされていないか確認したものですが、リツイートが成功したところをみると、ブロックは受けていないようです。

何度も繰り返しになると思いますが私は2002年11月の下旬から2009年3月16日まで石川県羽咋市で生活をしていました。平成にすると平成14年から平成21年になるはずです。あしかけだと7年ということにもなりそうです。満だと6年3ヶ月ちょっとでしょうか。

6年間もいたのかと自分でも信じられないほどですが、宇出津に戻った2009年3月16日からも2014年7月18日現在、5年以上の月日が経過したことになりそうです。この間、進展というものはないと言えば無いですが、ようやく基礎を築け得た段階とも言えなくはないです。

振り返ってそのあたりも整理しておく必要を感じますが、等の私自身ですら記憶がはっきりしない部分もあるかと思います。そういう確認も兼ねて宇出津のあばれ祭りが終わった直後に、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)にツイートを入れました。

個々のツイートだとわかりにくい部分もあるかと思うので、先日、mp4の動画として記録したものもYouTubeに投稿してあります。確認していませんが、再生回数もずいぶんと少ないことでしょう。

驚いたことに再生回数は2回でした。→  2014-07-18-161041_再生回数 2 回.jpg pic.twitter.com/XwezY1e7Jw

初めにページを開いた時は再生回数が1回で。再読み込みをしたことで2回になったので、私以外の再生というのはまだ一度もないのかもしれません。リンクでの紹介はしていなかったのかもしれませんが、そのあたりも確認しておこうと思います。

2014-07-18-161552_「2014年07月15日09時29分28。。。」の検索結果.jpg pic.twitter.com/fcxD5BTnAm

上記はスクリーンショットですが、Twilogの検索結果をみたところ、ツイートでのURLの紹介はしていなかったようです。

▶ モトケン (motoken_tw)さんはTwitterを使っています_2014年07月15日09時29分28秒.mp4 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=lnzDeIbtJew

上記が記録した動画ですが、再生回数が7回になりました。私がページの再読み込みをするたびにカウントが増えていったようです。以前のYouTubeの仕様は違っていたように思いますが、そうそうのタイミングで数が一つずつ増えるものでもないと思います。

調べたところ、ちょっと見当たらなかったので、新しくモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)のツイートを2件、私のブログの記事として登録しました。

この人 @hirono_hideki のツイートのように、なんら具体的事実を示さずに、名 誉毀損をしたとか反省してないなどというのは、/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/hironohideki.html

@hirono_hideki 思わせぶりな印象操作を繰り返してないで、やるならとっとと やればいいのに/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/hironohideki_18.html

スクリーンショットとしては前に記録してあるものがありました。次の2件です。

2014-07-06-103714_違法ないし不当な行為をしたと一方的に印象づけようとするもので、 とても卑劣なツイートですね.jpg pic.twitter.com/eLn6K5ddmq

2014-07-06-102916_思わせぶりな印象操作を繰り返してないで、やるならとっととやればいいのに。.jpg pic.twitter.com/KrGBxiYAuN

けっこうな数になるかと思いますが、私のブログの直近の投稿500件から、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に関するものをご紹介したいと思います。

cat u |grep /矢部善朗弁護士|xsel -b ← というコマンドの実行結果になります。パイプでつないだxselのコマンドは、出力の内容を端末などの画面ではなくクリップボードに保存したことを意味するものです。

500件中90件あるようです。APIでの投稿ですが、文字数の超過でエラーが出る場合は短縮URLを使います。

何事につけ、勝負をかけるときは準備が大事。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/04/blog-post_7939.html

自分のことしか考えない人は、結果的に、自分のためにならない行動に走る場合 が多い。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/04/blog-post_1622.html

この人は、呆れるほど恩知らずだ。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/04/blog-post_8490.html

こういうことを特定の農家とか八百屋を名指しして言ったら、完全に業務妨害罪 のレベルですよ/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/04/blog-post_2512.html

こういう人とかこのツイートを無批判にRTする人は、本当に自己中心的だと思 う。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/04/rt.html

検事をしていたときの印象では、犯罪を実行してしまう人に共通する特徴は何か と問われると、自己中心的な人、という答が頭に浮かぶ/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/04/blog-post_5627.html

他人から見た自分、というものを全く想定できない人の認識能力とか状況判断を 信用しろと言われても無理だな。実証してる人が/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/04/blog-post_9261.html

ツイッターを見てると、自分が他人に向けて投げつけた言葉が、そのまま自分に 返ってくることを想定してない人がかなり多い。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/04/blog-post_6054.html

けっこう楽しかったですね。羅針盤でイラつくことがなかったせいでしょうか w/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/04/w_28.html

なんでもかんでも放射能と結びつけた発言をする人の中には、自分自身が本気で 信じている人と、自分は信じてない人がいるのではないかな?/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/04/blog-post_6084.html

平気で他人の主張を別物にまで歪曲するところ。何度もたくさんの人から指摘さ れてるでしょ。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/04/blog-post_30.html

小倉弁護士の真似をしてるのかな?/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/04/blog-post_1190.html

なるほど。そうだったのか。小倉先生の指摘を覚えておこう。私以外にも自意識 過剰すぎる(ママ)人がかなりいるようなので/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/04/blog-post_6192.html

任意調べの可視化も必要。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_4728.html

群馬方面から、また訳の分からん話が聞こえてくるな。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_8380.html

自分の名前や職業を公にしている(過去形を含む)アカウントが、日々、その職 業の人間としては考えられないおかしな発言をしている例を見ることができるの がツイッターだな/矢部善朗弁護士,http://bit.ly/1tcUibf

とても多くの人が、美味しんぼの表現に基づいて私と同様の解釈をしてるようで すね。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_7962.html

ネット上で他人に自分の解釈を強要するっていうのは、どうやってやるんだろ う?批判されると批判者の意見を強要されたと思う被害妄想じゃないだろう な/矢部善朗弁護士,http://bit.ly/1jE8v0A

と言いつつ、何かと言うとネトウヨ、ネトウヨという彼には、自分の偏見を修正 しようという姿勢が見られないな/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_8430.html

美味しんぼで主人公が福島に行ってから体調が悪いと言うことと、福島の住人が 周囲に体調が悪いと言うことを同列に論じている人がいるようだが、頭が悪すぎ ないか/矢部善朗弁護士,http://bit.ly/1tcUwza

依頼者が弁護士に求めるのは力です。正当でない主張をする相手方を正当な主張 によって打ち負かすことができる力を持った弁護士です。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_2561.html

ツイッターでもおかしなことを言っている相手を的確に批判できないような弁護 士は頼りにならないだろうと思います。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_8454.html

弁護士はたくさんいます。いろんなタイプの弁護士が。私を信頼できない人が弁 護士を探すのに全く困らない程度に。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_2202.html

私は、あなたから変な弁護士だと思われてもかまいません。私のツイートに対す る評価は、読んだ人がそれぞれすればいいことです。その評価を伝えてくれるの はありがたいですが、/矢部善朗弁護士,http://bit.ly/1tcUEP6

こういう教師にコミュニケーションを教わった生徒さんは、社会に出てトラブル を起こしまくる心配がある。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_4023.html

自分の主張が相手に受け入れられないと相手を恨む人がいる。心情としては理解 できるが、それを公にするのはみっともないと思う。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_4703.html

久しぶりに自分のブログを見て、ブログを書いてたころが懐かしくなったりし て。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_3448.html

炎上商法は、雁屋哲や小学館だけではないな。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_8633.html

小倉弁護士、ヒマそうだな。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_8399.html

つまり、そのような調査はしなくても自分の不十分な取材に基づく推測で何を言 ってもかまわないんだ、ということですか?/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_7093.html

未だに風評被害という言葉の意味が理解できない中学教師とか東大教授がいるよ うだが、風評被害という言葉はそんなに難しいのだろうか?/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_566.html

分析力に乏しい人に対して、分析力がないとまずいよと指摘しても、理解されな いのは当然のことだな。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_11.html

わざわざ沖縄まで来ることの意味を考えれば対処の仕方も見えるはずだが な。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_3120.html

スピリッツの連載漫画が一つ、今週号で唐突に終ってるな。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_12.html

大阪府と大阪市も抗議したのね。>大阪市市民の方へ 週刊ビッグコミックスピ リッツ『美味しんぼ』に関する抗議について/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_2616.html

他人に頼むんじゃなくて自分の行動が大事。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_1839.html

これは、税金を少なからず無駄遣いさせる行為だな。度を超すと、検察庁の業務 を妨害します。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_5213.html

ツイッターの中にもいるような気がする。>新たな「非識字者」が増えてい る:Facebookを読めても、現実は理解できない人たち/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/facebook.html

この県議、偏見や差別の問題とは別に、リスク管理の面で見てもアホだね。自分 の言ってることが、自分や家族の感染リスクを上げることになることが分かって いない/矢部善朗弁護士,http://bit.ly/1jE9he7

私に対して、ヤメ検弁護士だから検察に有利なことを言う、と言う人が珍しくな いんだけど、そういう発想は冤罪を生み出す決めつけ発想と本質的に同じです ね/矢部善朗弁護士,http://bit.ly/1tcVnQA

現時点では、竹野内氏に弁護士はついてないみたいだな。カンパの精算がどうな るかちょっと気になる。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_25.html

優秀な弁護士は、人の話を聞くことの重要性、人の話を聞くとはどういうことか をよく分かっていると思います/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_9530.html

刑事裁判の情状弁護というのは、弁護士が被告人をどれだけ理解しているかが重要だと考えている。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_252.html

佐藤弁護士を批判ないし非難するツイートも流れてくるが、私は佐藤弁護士を尊 敬する/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_9560.html

現場を知らない人は、現場を知っている人に対して謙虚であることがまともな議 論の前提の一つです。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_6275.html

近い将来に実現する可能性はなさそうな案ですね。その案でも人質司法的運用は ゼロにならないと思いますが。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_3391.html

「裁判官には、ケースバイケースの判断が強く望まれる。」ということ。望むの は、私を含む多くの刑事弁護士。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_3166.html

有罪判決は削除しない方向なのかな?そうだとするとかなり問題。犯罪者の更生 を阻害する。>グーグルが不適切なリンク削除に向け始動/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_4953.html

犯人を特定できるのであれば、逮捕・勾留・起訴して実刑判決が宣告されるべき だと思う。片山被告人を愚弄するにもほどがある/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/06/blog-post_4664.html

私が「それ」に当てはまるという具体例を一つでも示せるかな?小倉弁護士の尻 馬に乗ってしか私を叩けない高橋君。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/06/blog-post_2810.html

ツイッターで、ある程度のレベルの高さを持つAと、Aよりレベルが低いのにその 自覚がないBとが議論する場合、AがBのレベルの低さにあきれて議論を打ち切っ たときに/矢部善朗弁護士,http://bit.ly/1tcVH1E

どこが"鬼"母だというのか?いい加減な取材で適当なことを言うなよ。 RT @nikkan_gendai/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/06/rt-nikkangendai.html

刑事弁護人の職責というのは、ほんとに理解されてないな。新聞記者が刑事司法 に無知・無理解なのは検事当時から身に染みているが。>RT/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/06/rt_7.html

昔はけっこういた気がする。公判の被告人質問でようやく事件の内容を把握する 弁護人。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/06/blog-post_2348.html

日本の弁護士は役立たずということか?RT/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/06/rt_8.html

やはり安倍は一刻も早く辞めさせた方がいい。一番権力を持たせてはいけないタ イプの人間。>RT/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/06/rt_9.html

やればできるじゃん。他の事件でもそうすればいいのよ。>RT/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/06/rt_12.html

自分で言うのもなんだが、資格というのは恐ろしいものだな。医師という資格が あるだけで、どんなデタラメを言ってもそれなりに信じちゃう人がある程度 は/矢部善朗弁護士,http://bit.ly/1jE9Iow

筋が通っている話同士なら、何らかの接点が見つかって協力し合えるように思う のだが、なぜか人格攻撃の応酬になる場合が目に付く/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/06/blog-post_8308.html

石原伸晃環境相が本音を口走ったようだな。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/06/blog-post_620.html

いずれにしても、お師匠さんの選択を間違えると、正論のつもりで屁理屈や詭弁 を口走る人が出てくるみたい。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/06/blog-post_7923.html

オールorナッシングの思考しかできない人は、反省に基づく社会適応が難しいの かも知れない。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/06/or.html

権利というのは、行使する人によって、正義を実現する場合もあるし、自己中の 武器にもなる/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/06/blog-post_421.html

それでよくジャーナリストを自称できるな(驚愕!RT /矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/06/rt_19.html

報告したから何かがどうなるものでもないのだが、これは要するに、脅しのつも りなんだろうな。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/06/blog-post_284.html

自己評価と客観評価は必ずしも一致しないが、自信がないということは指導力の 低さの一要素だからな。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/06/blog-post_4243.html

裁判官というのはどうして保釈を認めたがらないのかな?一度本音を聞いてみた いものだ。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/06/blog-post_6286.html

裁判官は、人が身柄を拘束されることの不利益の重大性をほとんど分かっていな い。分かっているつもりでも実感できない/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/06/blog-post_27.html

未決勾留期間は一部しか刑期に参入されないし、執行猶予がつく場合も多 い。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/06/blog-post_7211.html

思わせぶりな印象操作を繰り返してないで、やるならとっととやればいいのに。 やる気もないのに名誉毀損だ名誉毀損だと言うのは侮辱罪/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_6.html

相手に反論の機会を与えずに相手が何か違法ないし不当な行為をしたと一方的に 印象づけようとするもので、 とても卑劣なツイートですね/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_6549.html

実名報道による家族への迷惑を心配したのかな?/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_9054.html

警察も検察も裁判官もどうせ謝らないだろうけど、少しは反省してるのかな?>勾留10カ月のち無罪「警察・検察は謝って」 男性訴え/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_8356.html

実際に報道されるかどうかではなくて、被告人が心配するかどうかの問題として 指摘したもの。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_7268.html

モトケン (motoken_tw)さんはTwitterを使っています_2014年07月15日09時 29分28秒.mp4 /矢部善朗弁護士,http://bit.ly/1tcWlfy

被害者の話なんだから信用できる、と考える検事や裁判官は多い。>「三鷹のバ ス痴漢事件、中学校教諭に逆転無罪判決」/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_15.html

警察って、逮捕するの好きだな。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_8608.html

知識がろくにないのに知ったかぶりをする人の判断が正しい場合は宝くじ的確率 と考えたほうがいいと思う/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_6551.html

被害者の感情を大事にするということと、被害者の供述を無批判に信用すること は別です。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_2341.html

というのも、こいつは人殺しだから死刑にすべきだ、というのも、同じレベルの 低次元の感情論に見える/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_2468.html

少数派が多数派に対抗する武器は論の説得力だと信じているんだけど、イメー ジ、感情論、妄想、極論、陰謀論の類いでは説得力はないと/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_3671.html

論理的に関連がないことを関連があるかのように言うから、非論理的だとか感情 論だという批判を受けるんですよ。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_8841.html

死刑制度に対する理解が深まらないのは、マスコミの責任が大きいと思う。連中 は遺族の感情論でしか死刑を考えていない。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_5128.html

感情論に対して論理は無力であることはとっくに分かっているが、公の場でつぶ やくということは相手にだけつぶやいているわけではないし。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_7006.html

鳩山元法相。発言するときの顔を見ていたが、ありゃだめだな。感情論プラスヒ ロイズムで死刑が執行されてたまるか。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_7437.html

普天間問題に関するツイートの多くは感情論のように見えてしまう。または視野 狭窄。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_5116.html

ああいうのは論理性の否定であると同時に、差別的レッテル貼りなんだよね。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_4511.html

ああいうのは論理性の否定であると同時に、差別的レッテル貼りなんだよ ね。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_6461.html

この人 @hirono_hideki のツイートのように、なんら具体的事実を示さずに、名 誉毀損をしたとか反省してないなどというのは、/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/hironohideki.html

@hirono_hideki 思わせぶりな印象操作を繰り返してないで、やるならとっとと やればいいのに/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/hironohideki_18.html

googleclというコマンドを使って取得したデータで、直近の500件までという制限があるようです。記事のタイトルにはツイートなどの本文中の一部をそのまま使っています。ざっと眺めただけでも、傾向性がつかめるのではないかと思います。ご本人の発言ですから。

% cat u |grep /矢部善朗弁護士|grep 'リーク' ← というコマンドを実行したのですが結果はなかったようです。「リーク」というのはモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)がしばしば使う言葉の中で、私が最も重視しているものです。「感情論」に次いで。

Twitter / 検索 - "リーク" from:motoken_tw https://twitter.com/search?q="リーク" from%3Amotoken_tw&src=typd

全てにはしなかったですが、上記の検索結果からモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)のツイートをブログの記事にしました。APIによる投稿制限に引っかかるのかヒヤヒヤの投稿数でしたが、エラーが返ることはなく完了しました。

WordPressならば心配いらないと思っているのですが、Bloggerのブログでは一日に30件ほどAPIで投稿すると認証のエラーの絡みでAPIによる投稿ができなくなるということを今まで何回か経験してきました。時間あたりの投稿数なのかはっきりした原因は調べてもわかりませんでした。

リークというキーワードで、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)のツイートを新たにブログの記事にしたのを次に列挙します。

同感RT @kyoshimine: @phtaiken 捜査は秘密が原則ですから、衆知を集めるとい うのは難しい側面があります。本件で不信を招いたのは、/矢部善朗弁護士,http://bit.ly/1tZccTf

おまけにリークされたまんまの垂れ流しで、批判的に検討しないですから ね。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_1790.html

警察はよく捜査情報のリークをするが、全ての情報をリークするわけではないこ とは当然のこと。従って、警察のリークによると思われるマスコミの記事の内容 が不自然であったり整合性がないとしても/矢部善朗弁護士,http://bit.ly/1tZcfhC

責任感はあっても情報源が限定され過ぎていて証拠の全体像がわからない。/矢 部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_4219.html

遠隔操作事件で最近警察のリーク報道が少ないのは、リークしたがる幹部連中が 理解できないレベルの話で捜査が進んでいるからではないかと憶測w/矢部善朗 弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/w_18.html

警察から捜査情報が全くリークされなくなったらどうなるか考えてみるのも興味 深い。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_2844.html

リークした奴は最低最悪。RT @amneris84: 世の中に害悪ふりまいてますよね RT/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/rt-amneris84-rt.html

ところで、根本的な疑問として、警察や弁護人が自分に有利な情報をリークした り取材に応じたりしてマスメディアに掲載させることが、裁判の結論/矢部善朗 弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_911.html

警察がリークしてマスコミがそれを報道するのと、江川紹子さんが佐藤弁護士に 取材して記事を書くのと、どう違うのかと考えてみたが、情報の受け手としての 観点で言えば、方向が違うだけで/矢部善朗弁護士,http://bit.ly/1rvXCOv

佐藤弁護士は積極的に情報操作をするタイプのようだな。弁護人が接見内容を漏 らすのもリークと言えばリーク。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_2269.html

ブログエントリを修正しました。【ヤベラボ】: どうしてリークするのか?【遠 隔操作ウイルス事件】 /矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_1531.html

端緒を得たマスコミが突っ込んだら言わんでもいいことまでべらべらと、という 感じでは。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_7286.html

捜査情報をいくらマスコミにリークしても問題にならないけどな。>捜査資料漏 えい事件、捜査1課警部懲戒免職/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_1073.html

やっと出た公判部長のリーク情報。予想どおり。しかしこの公判部長、私の同期 なんだな~。>公判部長も改ざん疑惑認識 前特捜部長「任せてほしい」 /矢部 善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_697.html

これも検察の誰かがリークしているのは間違いないですが(仮にそうでなければ 捏造記事になりますが)、検察は確実な事実としてリークしてるんでしょう ね/矢部善朗弁護士,http://bit.ly/1tZczx1

第三者機関による検証の際には、検察によるリークの当否も対象にすべきだと思 います。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_6181.html

落合先生が批判されているようにあまりにもあからさまなリークですね。二人に 対する揺さぶりのつもりなんでしょうか。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_9197.html

www RT @o40kisha: マスコミが検察や政治家から匿名を条件に情報を得ることを 「リーク」として、厳しく糾弾している某有名ジャーナリストが/矢部善朗弁護 士,http://bit.ly/1rvXMpd

その一文を明記するようになっただけ進歩 RT @powerpc970: 新聞記事で気にな るのは「県警への取材によると」の一文。/矢部善朗弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/rt-powerpc970.html

% ls c投稿済み/20140718_*| wc -l ← 簡易な方法ですがコマンドの結果は32でした。本日付で32件のAPIによる投稿をしたことになりそうです。続けるとエラーが出る可能性もありそうですが、今までは30件以下でエラーが出ていたように思います。

時刻は7月19日9時24分です。梅雨らしい天気です。外は見ていないですが雨はあがっているのかもしれません。締めて新しい項目として続きを書きます。

<2014-07-19 土 09:26> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

**** DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月19日
CLOSED: [2014-07-22 火 11:16]
<2014-07-19 土 09:28> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

昨日の夕方、スマホで撮影した動画をYouTubeにアップロードしました。昔は、赤灯台と呼ばれていた場所で、町内は大棚木でしたが、現在だとゴミ収集の表を見たところ、あるいは「たなぎ団地」となっているのかもしれません。

能登町宇出津の大棚木、赤灯台_2014-07-18_18.52.39.mp4 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=M6lN8RwhtOE&feature=youtu.be

家から割と近い場所ですが、気が向いてその場所に行くのは、一年に2回程度かと思います。改めて、海の中が汚れているな、とても泳ぐ気にはなれないと思いました。

辺田の浜から引っ越してきた頃は、よくここで海水浴もしていました。魚釣りをすることもあって、海で遊ぶには家から一番近い場所でした。

海が汚く見えるようになったのは、遠島山山公園の下にある恵比寿の堤防が、倍近く延長され、宇出津新港ができて長い堤防ができたことで、宇出津の湾内の潮の流れが悪くなったと考えられますが、その分、湾内の海は荒れた天候でも静かになったと考えられます。

シメノドラッグというドラッグストアにトイレットペーパーを買いに行くのが目的で出掛けたのですが、ずいぶん変わったものだと改めて感じました。ずっと会っていない人もほとんどです。

昨日はブログの記事にしたモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)のツイートを多数、列挙することでご紹介したと思います。逐一感想を添えるのもどうかと思いますし、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)自身が、引用は都合の良い解釈をされるなどと批判していたこともありました。

発言をながめていると真逆と思えることがあったり、本人にこそ当て嵌まる問題なのではと思えることが多々あります。具体性というものがほとんど感じられないのもモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)のツイートの特徴です。

直近で、私に向けた言葉として使った「印象操作」というのも「感情論」や「陰謀論」と同じく、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)がよく使う言葉の一つです。

現時点でフォロワー数は12,079となっているようです。→ 2014-07-19-101814_モトケン (motoken_tw)さんはTwitterを使っています.jpg pic.twitter.com/tBfYw8Zhvp

わりと最近になって一千件ほど短期間で増えたように思いますが、同じ時期には江川翔子さんも1万件ほど増えたように思います。PC遠隔操作事件関係のツイートが増えた要因という感じだったように記憶しています。

あいまいな記憶になっていますが、そういえばフォロワーの増減もグラフで見ることができたかと思います。

2014-07-19-102849_モトケン(motoken_tw) Stats - Twilog フォロワー数推移.jpg pic.twitter.com/rZEZHQAsxs

思ったほど急激なフォロワー数の変化というのはなかったようです。それでも今年の1月21日の時点では、10,789という数値になっているので、半年ほどの間に1290件増えたことになりそうです。ちなみに計算は苦手なのでbcという端末で計算のできるコマンドを使っています。

次は江川翔子さんですが、こちらも際立った変化は確認できず、安定した右肩上がりに見えるグラフです。→ 2014-07-19-104247_Egawa(amneris84) Stats - Twilog フォロワー数推移.jpg pic.twitter.com/XYGOC0IzJ0

江川翔子さんの場合、知名度の割には少ないフォロワー数とも思えますが、私の世代としてはオウム真理教の事件との関わりが特に強烈に印象に残っているジャーナリストです。

江川翔子さんの場合は、冤罪問題や検察批判の活動としてとりわけ目を引くものがあって、軽く見ることのできない存在だと思っていますが、経歴にも裏打ちされた活動となっています。

モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)と江川翔子さんの関係ですが、いままでに何度か衝突しているのをみてきました。ツイッター上でのことですが、江川翔子さんにすれば他の弁護士とは違った目でモトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)を見ているという感じです。

モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)ほど、経歴を全面に打ち出し、大々的に扱っている弁護士というのも他にないかと思います。

元検弁護士のつぶやき http://www.yabelab.net/blog/ というブログでは、漢字で元検とあるので、いっそうわかりやすいです。

ヤメ検という一般的に知られた言葉には蔑視が含まれているので、自身で編み出した造語、のような解説を上記ブログのコメント欄で、常連コメンテーターがコメントしていたことを印象的に覚えています。当時は支持者というか信奉者も多くいたようです。

2014-07-19-105908_元検弁護士のつぶやき.jpg pic.twitter.com/e0KAKdfIyb

スクリーンショットを撮りましたが、ブログでの最後のエントリーは2009年7月11日となっています。改めて見ると、私が羽咋市から宇出津に戻ったあと、珠洲市飯田町に職業訓練に通っていた途中までは、停止していなかったことになりそうです。

モトケンブログ、というのも始めていて、そちらの方に移行するような説明もしていたように思いますが、現在はリンクボタンのmotoken.netはドメイン自体が無効になっているようです。

現在残っている元検弁護士のつぶやき http://www.yabelab.net/blog/ というブログでは、yabelab.netというドメインが使われており、Linuxのネット関連のコマンドを使って調べたところ、レンタルサーバの会社がわかりました。

現在残っているドメインの方が、見覚えも新しいので後に取得した可能性が高いと思うのですが、なぜかブログの方は、後からできたと思われるモトケンブログが消えてなくなり、古くからあった元検弁護士のつぶやき、が残されているようです。

数年前に割と時間を掛けて調べたこともあったのですが、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)のブログの停止理由は皆目不明でした。Twitterを始めて、そちらのほうにはまっている、というような発言は目にしていた憶えがあります。

さきほど愛知県に住む母親の妹のおばさんから電話があって、気になる話を聞かされました。すぐに書くかどうかわかりませんが、京都の親戚の人の話です。

電話を終えた後、ポストから朝刊を持ってきたのですが、気になるニュースがあって、今日は土曜日で報道も少なく、断片的にしかニュースを見てはいなかったものの、テレビでもインターネットでも全く見ていない報道でした。ネットで調べてみます。

ネットで調べたところ、数は少ないもののネットでは23時間前の記事にもなっているという様子です。すっかり忘れていた事件の一つですが、いつ頃の事件だったのか、思い出すことも難しくなっています。2,3年前でしょうか。

中日新聞:富山検審、元警部補の不起訴相当 自白裏付証拠ない:社会(CHUNICHI Web) http://www.chunichi.co.jp/s/article/2014071801001446.html

上記は短い内容になっていますが、家にある今朝の北陸中日新聞にはかなり紙面を割いて、詳しいことが書いてあります。

遺族代理人弁護士ということで山田博弁護士のコメントがありましたが、被疑者が事件の3時間後に21万円を自分のATMに入金した、という事実を遺族を含め今回初めて知った。とのことです。金の出処がわからないので被害者から奪ったものとは特定できないとも、別の箇所で書いてありました。

そういえば先日、富山県の高岡市を舞台として警察署の不正追求をテーマにした2時間ドラマを見ましたが、氷見の強姦冤罪事件のことは思い出したものの、富山の警部補の放火殺人事件については、まったく思い出すこともなかったです。

ドラマの筋書きでもあり得ないような、解決となった事件ではありますが、報道の数の少なさにも驚きました。

代理人の弁護士を通じて、検察審査会での意見陳述の機会を要望していたものの、実現されずに判断が下されたとのことです。陸山会の事件では、検察審査会を徹底的に批判していた人がいたことを思い出しましたが、その影響というのもどうかのかと思いました。

遺族代理人というのは、被害者参加制度でのものと混同してしまいそうですが、刑事事件としては不起訴ということで刑事裁判にはならず、起訴に向けた訴訟行為を託された代理人かと。代理人というのは本来、民事訴訟での弁護士の立場を指す用語かと思いますが、遺族代理人というのは・・・。

時刻は18時38分になっています。昼は、テレビを見ていて、夕方はしばらくの間寝ていました。ドバイの日本人妻ということで、元タレントの前にも特集を見ていましたが、その時とはかなり印象も異なる番組内容でした。

セレブとかいう優雅な生活の裏側で、買い物や人付き合いの大変さを紹介していた番組内容は、ずいぶんと考えさせられる内容でしたが、前以上に幸せそうな家族にも見えました。

本書の記述の中断をする前ですが、検察審査会に対する不信と批判ということで、改めて少し調べてみたいのですが、どうも郷原信郎弁護士が火元の旗振り役であったように思えてきました。それらしいツイートをブログの記事にしました。

時刻は7月20日8時43分になっています。今日は今のところ、天気予報通り雨の心配はなさそうです。イベントやお祭りもあるので、安堵している人も多いことかと思います。

郷原信郎弁護士についてどこまで言及するかという迷いもあって中断をしていました。より関連性や影響性の強いと考えている江川翔子さんからおあつらえ向きの情報発信があったので、それを含めて項目を新しくして書きます。

<2014-07-20 日 08:49> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

**** DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月20日
CLOSED: [2014-07-24 木 09:51]
<2014-07-20 日 08:50> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

どうも記事にした郷原信郎弁護士のツイートは、掲載しないまま中断していたようです。うっかり忘れてしまうところでした。タイトルからもだいたいの内容はわかると思いますが、参考にしていただきたく次にURLをご紹介します。

2014-告訴事件に関する司法・社会・世相・時代の参考情報/金沢地方検察庁御中: 多くの人が特捜の「検審騙し」の驚愕の真実、それを覆い隠す最高検報告書のゴ マカシを知ることが、民主崩壊で高笑いする法務省幹部への最大の脅威/郷原信 郎弁護士

http://hirono2014sk.blogspot.jp/2014/07/blog-post_5371.html

今回は、短縮URLでも1文字オーバーになってしまったので、タイトルとURLを別の行にすることにしました。郷原信 郎弁護士の部分に半角スペースが含まれているのも気になるところですが、端末のウィンドウサイズで表示上の改行が半角スペースに置き換えられた可能性があるかと思います。

わかりづらい部分もあるかと思うので、再度、ブログ名の部分を削除して掲載しておきます。もちろんURLは同じです。

多くの人が特捜の「検審騙し」の驚愕の真実、それを覆い隠す最高検報告書のゴ マカシを知ることが、民主崩壊で高笑いする法務省幹部への最大の脅威/郷原信 郎弁護士 http://hirono2014sk.blogspot.jp/2014/07/blog-post_5371.html

時間と紙面の関係もあるので郷原信郎弁護士に関しても余り言及はしたくないのですが、関連するような記事を併せてご紹介しておきたいと思います。

八田隆氏が国家賠償請求訴訟で挑む「検察への『倍返し』」/郷原信郎弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_2332.html

それが、「人質司法」の追い風になるような悪しき結果につながらないようにす ることは、我が国の刑事司法の問題を真摯に考えようとする者にとっての責務で ある/郷原信郎弁護士,http://bit.ly/1wKidPL

[拡散!]【勝率ゼロへの挑戦 史上初の無罪はいかにして生まれたか】(八田 隆)http:///郷原信郎弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/http.html

この戦いの記録である「勝率ゼロへの挑戦」は、検察問題への関心の有無を問わ ず、すべての市民にとって必読の書/郷原信郎弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/05/blog-post_812.html

この数年の検察の暴走が日本の政治を歪めたとの認識を持っている方々には、こ のドラマに描かれた特捜暴走の現実を、是非ご覧いただきたい。原作の「司法記 者」/郷原信郎弁護士,http://bit.ly/1u3TF85

愛知県警に収賄容疑で逮捕された藤井浩人美濃加茂市長の弁護人、郷原信郎弁護 士が、ブログにコラム/ジャーナリスト江川紹子,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/06/blog-post_7301.html

【緊急拡散】美濃加茂・藤井市長の早期釈放を求める声を裁判所に届けます! 署名サイトができましたので/郷原信郎弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/06/blog-post_8659.html

【現職市長に「逃亡のおそれあり」として勾留決定をした任官後半年の新米裁判 官 】と題してブログ「郷原信郎が斬る」を更新しました。/郷原信郎弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_5690.html

昨日から本格的に始まった藤井市長の釈放を求める美濃加茂市民の署名、今日現 在で、1万5000人を超えた。人口5万人余りの市で、これだけの人達が一致 して藤井市長の潔白を信じ、/郷原信郎弁護士,http://bit.ly/1wKiGRV

勾留中の藤井市長への市民の方からの応援メッセージが書かれた短冊が多数。一 日も早く、藤井市長を市民の皆様のところへ返せるよう、我々弁護団も頑張りま す/郷原信郎弁護士,http://bit.ly/1u3TREp

この後、1万5千人を超える市民の早期釈放を求める署名、本日申し立てた最高裁への特別抗告のことについて記者会見/郷原信郎弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_9.html

今夜10時から、ニコ生の番組に、藤井美濃加茂市長の事件のキーパーソンのタ カミネ氏が、緊急生出演/郷原信郎弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_692.html

糸山隆検事正も、陸山会事件で検察審査会を誘導して小沢氏起訴を画策、虚偽捜 査報告書問題で処分を受けた佐久間達哉前橋地検検事正/郷原信郎弁護士,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_1453.html

郷原信郎弁護士は、美濃加茂市長起訴は検察のガバナンスの重大な欠陥がもたら したもの、と。→〈「責任先送りのための起訴」という暴挙〉/ジャーナリスト 江川紹子,http://hirono2014sk.blogspot.com/2014/07/blog-post_9752.html

最後のものは江川翔子さんのツイートになったようです。ガバナンスというのは組織の統治力のような意味があるようです。郷原信郎弁護士らしい検察批判の特徴ですが、江川翔子さんが拡散的にご紹介しているようです。

美濃加茂市長の問題ですが、当初はテレビで報道されていたものの、郷原信郎弁護士が弁護人になった以降、起訴を含め一度もテレビでも報道を見かけておらず、そのあたりも私としては気になっています。

昨夜、寝る前に次の江川翔子さんの記事を読んでいました。

【PC遠隔操作事件】誤認逮捕に、警察の能力を上回った満足感(第13回公判傍聴メモ)(江川 紹子) - 個人 - Yahoo!ニュース http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20140719-00037534/

客観的な記録、あるいは報告というスタイルは、まだ片山被告の保釈が取り消しになって犯行を認める以前からのスタイルだと思いますが、今回はそれがさらに徹底されていて、主観的な感想や意見は一切交えないという感じになっています。

この13回公判に関しては、事前の情報を見かけておらず、江川翔子さんのツイッターで見た時は、おや、と思いました。このPC遠隔操作事件に関してはネットでも情報を見かけることが、ずいぶん少なくなっており、世間の関心の大幅な低下も窺えるところです。

ざっと読んでの感想ですが、やはり落合洋司弁護士(東京弁護士会)や郷原信郎弁護士、佐藤博史弁護士、江川翔子さんもですが、彼らの警察、検察批判の影響を色濃く受けた事件ではないかと思いました。踊らされた感もあります。

時刻は7月22日11時13分になっています。昨日は一日お休みになったかと思います。項目を切り替えます。

<2014-07-22 火 11:15> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

**** DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月22日
CLOSED: [2014-07-23 水 10:10]
<2014-07-22 火 11:16> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

一昨日になりますが、7月20日はバイクで珠洲市飯田町の燈籠山祭りを見物に行ってきました。その2,3日前にはAコープ能都店の張ってあったポスターで、恋路海岸の恋路火祭りも同日だと知り、そちらも一緒に見物をすることができました。

デジカメとスマホでたくさんの写真を撮り、Picasaウェブアルバムにアルバムを作ってアップロードしました。最近はスマホを使って写真を撮ることが多いです。理由の一つは、デジカメの撮影日時にもなる時計があてにならないからです。

事前に気がついて時刻の調整をしておけばよかったのですが、後になって気が付き確認をしたところ、デジカメでは5分ほど時間が進んでいました。

ファイル名に日付と時刻を含めることは私のいつものスタイルになっています。スマホで撮影したものは自動で日付と時刻によるファイル名になってくれるのですが、プログラムでエラーを起こす可能性のある特殊文字が含まれています。

これまでは半角スペースのみを半角のアンダーバーに置き換えることが多かったのですが、今回はすべてデジカメと同じスタイルで、スクリプトによるファイル名の変換をしました。わかりやすい違いはデジカメの写真には設定で撮影日をプリントしていることです。

2014-07-20/珠洲市・飯田町燈籠山祭り&能登町・恋路&松波港 - 廣野秀樹 - Picasa ウェブ アルバム https://picasaweb.google.com/114099790846205945578/20140720

上記がPicasaウェブアルバムのリンクです。「写真: 208 枚 – 116 MB」という表示もあります。

スマホの方は、自宅でWi-Fiに繋がっているので、インターネット上から時刻の情報を得て同期されているものと考えています。パソコンでも現在はそれが主流の初期設定になっているのではと考えています。

今どき、調整しなおしてから1年も経たないぐらいで5分も進んでしまうデジカメの時計にも驚きましたが、撮影日のプリントの文字の大きさも選択肢があったよさそうなものの、大きさを変えることができません。現在はネットワーク機能を内蔵したデジカメも珍しくはないのかもしれません。

今回は祭りの見物の写真だけを撮ったわけではありません。だいぶん前から今度、松波を通過することがあれば撮影はしておきたいと考えていました。

本書で説明に使う写真は、別途非常上告-最高検察庁御中_ツイッター(@s_hirono)に写真付きツイートしたものを使いますが、もとの写真はPicasaウェブアルバムにアップロードしたものと同じです。ファイル名も同じになっているはずです。

珠洲市・飯田町燈籠山祭り&能登町・恋路&松波港_2014年07月20日18時15分51秒.jpg pic.twitter.com/vlrL9DZgFI

上記は松波の中心部にある交差点です。左折して数百メートルで左側に旧松波駅があります。昔というか昭和の時代は、このまま直進してから別の交差点を左折するというのが主流のコースであったと思います。

駅前を通る道もありましたが、裏道のような感じになっていたと思います。直進して松波の町中に入ると、確か左側に、小さなガソリンスタンドがありました。被告訴人大網健二らの親戚が経営する店だと聞いていて、店の看板にも大網という字が含まれていたと思います。

祖父の兄弟だと聞いたような記憶もありますが、どの程度の付き合いがあったのかも不明です。松波に遊びに行ったという話も聞いたことはなかったですが、祭りなど行き来や遊びに行った時の土地勘があったことも、考えられることではないかと思います。

直進するとどこかで左折して恋路の方に向かうのが普通でしたが、直進して突き当たると港の近くに出たように思います。私自身、気まぐれでこれまで数回程度しか通ってはいないので、細かいことはわかりません。

珠洲市・飯田町燈籠山祭り&能登町・恋路&松波港_2014年07月20日18時16分42秒.jpg pic.twitter.com/1BP2K1uZ3I

上記が旧松波駅です。昭和57年の1月ころ、被告訴人安田繁克がシンナー遊びで精神異常の状態になり、早朝に保護されたと聞く場所でもあります。外壁が新しくなっているようにも見えますが、駅舎の本体は昭和の時代から変わっていないように見えます。

珠洲市・飯田町燈籠山祭り&能登町・恋路&松波港_2014年07月20日18時16分47秒.jpg pic.twitter.com/WJOlxWrYU1

上記は、松波駅の正面からみた風景です。向こうの山の下に停まれの標識が見えますが、これが以前主流だった道路で、右に行くと松波の町中へ、左は恋路海岸方面になります。駅前の広い道も後になって整備された新しい道路です。

写真には写っていませんが、右側に大きな寺院のような建物が見えて、松波城址なんとかという文字があって、前から気になっていました。同じく写真には写っていませんが、左側の方には職業訓練校があります。

先日、Googleマップの航空写真でみたところ、職業訓練校の敷地と寺院の敷地が隣接していて、通りぬけもできそうだったので、バイクで職業訓練校の前まで行ったのですが、通り抜けできるような道はありませんでした。

珠洲市・飯田町燈籠山祭り&能登町・恋路&松波港_2014年07月20日18時19分47秒.jpg pic.twitter.com/LCEWchfqrR

上記写真は職業訓練校に通じる道から引き返した来たところです。ちょうどカーブになっていますが、右に行くと恋路海岸です。今でも国道249号線の旧道になるのかもしれません。昭和の時代は珠洲市に向かう主要な道路でした。

坂の上に、右方向から三叉路で交わる道の一部が見えるかと思います。そこに道があるということは前から知っていましたが、通った憶えがなく、寺院の方にも行けそうだったので、通ってみることにしました。まったく予定外の行動でした。

時刻は18時29分です。宇出津の図書館に行って、蛸島のTSさんの自殺に関する記事を探してきました。17時の15分ぐらい前には家を出ていたように思うので、1時間以上探しましたが、記事を見つけ出すことはできず、18時の閉館になってしまいました。

2014-07-22_17.14.11.jpg pic.twitter.com/pzsZ9uVzjB ← これが北國新聞の縮小版です。色あせている具合を見ても、相当前からあるものと思われますが、今年の春に移設する前の図書館では2階の倉庫に置いてあり、保存状態は良くなかったことも考えられます。

かなり期間の範囲を広げて、索引のような目次から調べました。だいたい次のような感じになっています。→ 2014-07-22_17.57.31.jpg pic.twitter.com/vky8MPIhNk

驚いたことに、「心中」という最近は見かけなくなった言葉での項目までありました。私の記憶では夜の出来事で、翌日かあるいは翌々日の朝刊に記事になっていましたが、自殺と断定したような内容になっていたように思います。

私自身、平成4年まで新聞は北國新聞以外に購読したことはなかったと思います。まず、毎日は見ていない新聞を開いた時にTSさんがなくなったことを知りました。テレビ面の裏側の紙面で、その上の左側に、2番めに大きいような扱いで記事が掲載されていたように記憶しています。

私自身、平成9年1月に福井刑務所を満期出所してから、北國新聞の縮小版で蛸島のTSさんの自殺に関する記事を探しだして、読んだというか目を通した記憶はあるのですが、時刻のことだとか細かいことは考えずに、確認のように目を通しただけでした。

これは新聞に2番目に大きく報道されてもいました。噂によると買ったばかりの新車の赤い軽四で、ぐるぐると3回転ぐらい回ってから海に_2014年07月22日19時02分26秒.jpg pic.twitter.com/13kw9usR0D

上記は、現在プライベートモードのHatena::Diaryのブログの画面をキャプチャーしたスクリーンショットです。実名になっている部分があるので、マスク処理をしました。図書館ですんなり記事が見つかっていたならなかったと思われる大発見です。

時刻は7月23日9時58分です。締めて新規に項目を作成し、昨日の続きを書きます。

<2014-07-23 水 09:59> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

**** DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月23日
CLOSED: [2014-07-24 木 09:52]
<2014-07-23 水 10:21> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

告訴状について(2006.7.24) - 日暮れて途遠し http://d.hatena.ne.jp/hirono_hideki/20060724/1153745372

上記が昨日ご紹介した現在プライベートモードのブログ記事です。平成18年7月24日に書いたものになりそうです。明日になるとちょうど8周年ということにもなりそうです。モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)によって被った悪影響の大きさというのも新たに感慨深いところです。

スクリーンショットの再掲→ これは新聞に2番目に大きく報道されてもいました。噂によると買ったばかりの新車の赤い軽四で、ぐるぐると3回転ぐらい回ってから海に_2014年07月22日19時02分26秒.jpg pic.twitter.com/13kw9usR0D

ノートパソコンでは表示した画像の文字が見づらかったですが、画像をダウンロードしてフォトビューアのソフトで開いて拡大したところ、けっこう判別出来ました。基本的にそれ以上の画像サイズは横が1024ピクセルに自動で縮小されるというのが、Twitterの仕様になっているようです。

午前中に、生活保護の担当者の訪問があって、11時過ぎだったと思いますが、12時過ぎに御庁(金沢地方検察庁)に電話をしました。担当者が変わっていました。

スクリーンショットの内容ですが、かなり意外で気になるところが一点ありました。それはASKさんの仕事が型枠大工というあたりのことですが、それもTSさんの妻だったKHさんの再婚相手のところで働いている、というような部分です。

そのあたりの文章を読むと、私は平成3年9月の時点で、ASKさんの仕事が型枠大工で、TSさんの妻だったKHさんの再婚相手のところで働いていると、聞いていたことになりそうです。

当日洞爺のことは現在でもある程度記憶に残っていますが、ASKさんに関しては、その場にいたはずと思いながら、言葉を交わしたことやどこに住み、どんな仕事をしているのかという話を聞いたという記憶も残っていません。むしろ姫のNKさんの姿があったようなことは、なんとなく覚えています。

私はかなり長い間、ASKさん改め松波のAKさんは、被告訴人大網周一の会社で鳶職の仕事をしていると聞いていたように覚えています。まだ、大網商事有限会社ではなく、ライトバンの後ろに大網組と看板のような文字を大きく書いていた頃であったように思います。

時刻は15時56分になっています。コンビニにADSLモデムの返却郵送に行ったり、昼食を作って食べたりしていました。

松波のAKさんが被告訴人大網周一が社長をする鳶職の会社をやめて、型枠大工をしているという話を聞いたのは平成9年の7月に私が金沢市で生活するようになって以降のことであったように思います。

同じ頃に昔話として、鳶の仕事の現場で仲間の誰かが、不注意で鋼管を落下させ、それが太腿に突き刺さったとか、貫通したという話を聞きました。ずいぶんひどい大怪我を負ったような話でしたが、その割には入院したという話も具体的な怪我の程度も聞かなかったです。

私は福井刑務所で他の受刑者から人間の太腿には急所があって、そこが切れると助からない致命傷になると聞いたことがありましたので、半信半疑で話を聞いていましたが、上空からの落下物で太腿に当たったというのは、どういう体勢だったのかと想像してみたこともありました。

足を投げ出して作業するというのも、匍匐前進のような体勢で作業するというのも、屋外の現場では自分の経験に照らしてどうにも合点がいかなかったからです。

同じ頃、あるいは同じ時の会話で聞いた話だと思うのですが、金沢駅近くの確か全日空のビルの工事で、巨大な何かを作業中に、かなり高い上空から落下させたという話を聞きました。けが人はなかったというような話であったように思います。この話は異なる時期に2回聞いたようにも思います。

その全日空と思われる高層ビルに関しては、私個人で特別な思い出もありました。まだ昭和の時代に札幌市に行った時のことだったと思いますが、札幌駅を正面に見ると左後方の場所だと記憶していますが、細長い板チョコのような新しいビルが、とても印象的に見えていたことです。

数年後、その札幌市で見たビルと同じようなビルが、金沢駅の近くに出来ていました。テレビの県内番組で見たように思うのですが、全日空のビルということになっていたと思います。まだ確認はしていませんが、ネットで調べてみます。

2014-07-23-163004_金沢駅近くの板チョコのような高層ビル.jpg pic.twitter.com/HYpPGwoAg3

Googleのストリートビューからスクリーンショットを撮ったのが上記の画像です。たぶんこの写真の中央にあるのが、全日空と思われるビルですが、まだビルの名称は確認していません。検索では全日空ホテルというのが金沢駅近くに出てきましたが、自分の記憶とは違った写真のようにも見えました。

どうも「ホテル日航金沢」というのが正しい名称のようです。→ ホテル日航金沢 - Google 検索 http://bit.ly/1A4E1tR

ホテル日航金沢【公式サイト】|JR金沢駅前の高層ラグジュアリーホテル http://www.hnkanazawa.jp/ ← このホームページではちょうど20周年という宣伝が掲載されていました。

私の記憶では平成3年の12月の時点で、ビルは存在していたような気がするのですが、12月21日、その近くのビルの1階にオープンしていたティファニーという貴金属店で被害者AAさんに対するネックレスのプレゼントを買った時のことです。

私の生活では、金沢駅の周辺というのは余り通りかかる場所でもなかったので、そのホテル日航金沢のビルの工事を見た覚えもなく、いつの間にか出来上がっていたという感じでした。

札幌市で似たようなビルを見たのは昭和59年の10月ころだったと思います。他とは違う斬新なデザインの建築物に見えたので印象に残っていたのですが、それと同じようなビルが金沢駅の近くでいつの間にか出来上がっていたのです。

2014-07-23-165853_ホテル日航金沢は20週年を迎えました。.jpg pic.twitter.com/gG3MAHVmhE ← 確認と記録を兼ねてスクリーンショットを撮りました。

純粋に20周年だと考えると平成26年の現在から数えると、平成6年辺りのオープンということになりそうです。私は金沢刑務所の拘置所から福井刑務所へと移った時期なので、オープンしたホテル日航金沢の姿を見たのは、平成9年の1月以降ということになりそうです。

ポルテ金沢 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/ポルテ金沢

調べたところ、ビルの名前は「ポルテ金沢」のようです。そういえばこれまでに1,2度は耳にしたような気もしましたが、ホテル日航金沢以外の商業施設があるとも知らず、建物の中に入ったことも一度もないです。やはり平成6年のオープンだと上記のページで確認することが出来ました。

ビルの外観が完成してからオープンまで2年かかったとは考えにくいので、平成3年12月21日の時点でには存在しなかった可能性が高いかと思われます。建築の工事自体は平成4年から6年の間に行われていたものと考えられます。どのくらいの工期が必要なのか、私には想像もつけにくいですが。

となるとやはりホテル日航金沢の工事での落下物の話は、平成9年に聞いたことになりそうです。はっきりしていることは、松波のAKさんの話を聞くことはありましたが、会うことなかったばかりか、どこに住んでいるのかと聞くこともありませんでした。

そのように考えると、平成3年9月の時点で、松波のAKさんが被告訴人大網周一の元での鳶の仕事をやめて、型枠大工をやっていると聞いたのも、どうかという気がします。

また、私は平成13年ころの時点で、蛸島のTSさんの生前の妻の再婚相手は、松任市内で重機を扱うような会社をやっていると聞きました。具体的な会社の名前まで聞いたと思うのですが、それは思い出せなくなりました。ありがちなわかりやすい名前の漢字2文字が、先頭にある社名だったとは思います。

重機といえば、これも私は個人的に特別な思い出があるのですが、被告訴人KYNのところで配管の仕事をやっていた平成10年ころ、辰口庁舎の現場で、大きなクレーン車がアームを伸ばした状態で、横倒しになるという状況を目的したことがありました。そのことも連想したはずと思います。

重機といえば、建築、建設現場ではそのようなクレーン車を思い浮かべます。金沢市錦江では城西運輸機工がよくやっているような仕事です。それと型枠大工の仕事が、今の私にはどうにも結びつきません。

型枠大工の仕事は平成11年の2月から8月の間、日雇いの作業員としてよく関わっていた仕事の一つです。鳶の仕事を手伝うことありましたが、先ほど鋼管と書いたのは、丸い鉄パイプのことです。足場の手すりとしても使われていたように思います。

時刻は7月24日9時49分です。本日付の項目を作成して続きを書きます。

<2014-07-24 木 09:50> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

**** DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月24日
CLOSED: [2014-07-25 金 10:57]
<2014-07-24 木 09:52> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

昨夜はテレビをみていましたが、「若者たち2014 第3話」が印象的でいろいろと考えさせられました。ネット上のコメントなど反応を見ていて、昭和の時代とかありましたが、時代も人も変わったように改めて思いました。

昨夜の第3話が23日だったので数えてみると、初回を見たのは9日だったことになりそうです。あばれ祭りでの被告訴人KYNの今の姿と重ねあわせながら、昔を思い出しながら見たことを憶えています。

今度の土曜日は、姫の祭りがあるように聞いています。7月26日になりますが、Aコープ能都店などに張ってあるポスターによるとその日は、松波の祭りもあるようです。姫の祭りは昔と日付が変わったような話も小耳にはさみましたが、松波と姫の祭りが同日というのも意外でした。

私の生まれ住む宇出津のあばれ祭りも、以前は7月の7日と8日と決まっていたのですが、今は7月の第一金曜日、土曜日となっています。変わって10年近く経つようにも思います。

姫の祭りは、「どいやさ祭り」というらしいですが、私は近年になってしったことです。そういう名前の祭りは聞いたことがなかったし、「どいやさ」という言葉の意味もよくわかりません。

姫の祭りに行ったのは一度だけだったように思いますが、それより前の中学生の頃にもあるいは行ったことがあるのかもしれません。記憶に残っているのは一度だけで、それが最後に見た祭だったとも思います。記憶がはっきりしませんが、昭和57年か58年のどちらかだと思います。

こちらに情報がありました。→ どいやさ祭|行事案内|能登町役場 http://www.town.noto.lg.jp/www/event/detail.jsp?common_id=861

7月の第4土曜日という記載もありました。2000年より前は1970年代から祭りが簡素化されていたそうです。このあたりは20日に見に行ったばかりの飯田町燈籠山祭りに事情が似ているようです。

よく考えてみると私は昭和58年の7月の20日頃に普通免許を取得し、数日後には藤田自動車の代車のポンコツの車に乗って、東京に住んでいた被告訴人大網健二のところに遊びに行きました。その年の春にオープンしたディズニーランドに行ったことなど、すでに書いている箇所があるかと思います。

車に乗るようになってからの私は単独行動が多くなったとも記憶しています。8月の終わりか9月の初めには金沢市観音堂の被告訴人安田敏のアパートに転がり込み、主に金沢で生活するようにもなっていました。

当時の私は、ビールや酒が苦手で、飲むとすぐに気分が悪くなりましたが、先輩に無理やり飲まされるというのも当時はよくあったことで、とくにその場となったのが、能登各地の夏祭りのことでした。

姫の祭りに行ったのもやはり昭和57年の可能性が高そうです。その時は初めで最後に姫のNKさんの家に行ったことを記憶しています。開放された二階の部屋で宴会のような場面を一つ記憶にしていますが、誰がいたとなるとはっきりした記憶はありません。

大勢いたのは間違いないと思います。高倉漁港の岸壁のあたりが祭りのメイン会場のようになっていたと思いますが、そこでロープで手かあるいは足を縛られて、車で引きずられたことを記憶にしています。

前にも書いたような、書いていないような気がしますが、珠洲市飯田町の燈籠山祭りに行ったのも1回だけでした。これも昭和57年の可能性が高いと思います。

飯田燈籠山祭り - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/飯田燈籠山祭り

上記の情報によると毎年7月20,21日ということで日程の変更というのもなさそうです。その時の祭りで憶えていることは、金沢で暴力団員をやっていたという年上の人物、珠洲○○の本人かあるいはその実家が経営している飲み屋に行ったことです。

被告訴人大網周一から名前はちょくちょく聞いていたのですが、実際に会ったことはなかったし、その時も本人の姿を見たという記憶は残っていません。仲間には岐阜○○という人もいたようで、同じく暴力団の関係者でもあったような感じでした。

○○の部分は普通カタカナで書きそうな二文字です。スナック言うには豪勢な内装の飲み屋であったという記憶も残っています。店の名前も憶えていて、太閤秀吉の時代を連想させる感じさせる漢字二文字ですが、個人的な過去のプライバシーもあるので明確な記載は避けたいと思います。

岐阜○○の方ですが、昭和56年8月28日の早朝、金沢市増泉のアパートに金沢中警察署が踏み込んだ時、トイレの窓から逃走した当時19歳の男とは、知り合いであり仲間であるような話も聞いたように憶えています。上の名前は忘れましたが、ユタカと呼ばれていたと思います。

ユタカは暴走族のメンバーだとは聞いていましたが、暴力団に所属していたという話は聞いていなかったように思います。私や被告訴人大網周一が鑑別所に入っている間に、松任市の私と同じ年の16歳の少女と付き合うようになっていました。

入江のアパートで、当時、松元組の暴力団員だった被告訴人浜口卓也が警察官を装って、シンナー遊びをしていたユタカと少女を驚かしたことも既に書いたように思いますが、その行動から見てもけっこう知っている関係という感じでした。

ただ、驚かされたユタカの方は、警察からの逃亡疲れもあったのか、少女とくっついて寄り添い、言葉も出ないぐらい悲しんでいる様子に見えたのが、印象に残っています。ユタカに会ったのもそれが最後だったように思いますし、その後、岐阜に帰ったような話も聞きました。

被告訴人安田敏と個人的な付き合いが始まったのも、同じ頃で出会った場所も同じ入江のアパートだったと思います。ただ、そのあたりも記憶が曖昧になっています。

晩秋から冬の時期だったと思うのですが、私はけっこうな頻度で、被告訴人安田敏と遊ぶようになりました。他の仲間は被告訴人安田敏との付き合いを避けているような状況でもありましたので、被告訴人安田敏が初めに松原病院に入院した後だったようにも思うのですが。

被告訴人安田敏とは、よく浅野本町の大学生の下宿のような場所に行きました。古い木造アパートのようでしたが、部屋にはトイレもなく、共同になっていたように思います。まるで漫画やドラマに出てくるような世界でした。

被告訴人安田敏がなぜそこに出入りするようになったのか、当時は説明も受けていたように思いますが、まるで記憶には残っていません。歯科技工士の学校に通っているという人が、何人かいたようなことは憶えています。

被告訴人安田敏とは、金沢市北安江の会社の事務所の二階に寝泊まりをしていた一つ年下のKAのところにも、連れて遊びに行ったことを憶えています。同じ頃、KAを連れて、金沢市笠舞のアパートに遊びに行き、末町の少女THらと、金沢駅前で写真撮影したこともありました。

被告訴人安田敏を笠舞のアパートに連れて行くようなことは一度もなかったです。それははっきり憶えていますが、末町のTHと被告訴人安田敏の面識も、ほとんどないようなものであったと思います。

既に書いていると思いますが、確か出稼ぎに行くという理由の、被告訴人安田敏の送別の場になった片町の飲み屋で、働いていたのが末町のTHと瓢箪町のNMです。二人とも年は私より1つ年下だったと思います。詳しい話は忘れましたが、働いているというより店を任されているという感じでした。

その時は被告訴人安田敏と松波のAKさんと私の3人で、ボックス席に座って飲んでいたような場面を記憶しています。カウンターには他の客もいて、忙しそうな感じで、二人の女性とは挨拶程度で、ほとんど話す機会もなかったような記憶が、ぼんやりですが残っています。

時刻は22時33分になっています。直前の行というかツイートは、半分ほど書きかけで中断していたものです。夕方には宇出津新港に買い物に行ったり、戻ってからもテレビを見ていました。

地デジのテレビなので、テレビの中に番組表がありますが、20時ちょっと前に気になる番組を見つけ、すぐにそちらにチャンネルを変更しました。次の番組ですが、廣野秀樹(@hirono_hideki)でツイートしたものの、本文コピペとします。

奇跡体験!アンビリバボー実録!日本の衝撃事件簿スペシャル 2014年7月24日(木) 19時57分~21時48分 の放送内容 http://ow.ly/zx2SL

奇跡体験!アンビリバボー - Yahoo!テレビ.Gガイド[テレビ番組表] http://ow.ly/zx2PU 【実録!日本の戦慄殺人事件!!平穏家族が一瞬で崩壊!未来奪った犯人たち】妻の目前で愛する夫が突然逮捕!本名も違う男の素顔は連続殺人鬼▽密室殺人の謎…

放送時間を見ると始まった直後から見ていたことになるかと思います。2時間弱の番組でしたが、終わってみると2本立ての構成になっていたようです。共通した感想としては、発覚、逮捕を免れるためにはここまでやるものか、ということでした。

一つ目の事件は、不動産関係者か大家がタクシーに置き忘れた所持品の中の鍵を使って、たまたま入居していた新婚夫婦が手斧で惨殺されたという事件でした。現在の貨幣価値で57万円とか出ていたように思いますが、失業保険の不正受給が、金銭目的の動機ともなっていたとことです。

番組で取り上げられていた2つ目の事件は、二人の殺人事件の逃亡から身元を隠すため、さらに2件の殺人事件を起こしたという内容でした。時代背景も異なっていて昭和33年ころの事件のようでしたが、ここまで考え抜き、行動にするものなのかと思いました。

一見すると全く無関係に見える事件の真相を見抜き、追いかけていった当時の警察の執念と直感、行動力というのも参考になりました。

今日は被告訴人安田敏のことを書いてきたと思います。金沢市浅野本町の下宿のような古いアパートですが、けっこうな回数行ったような記憶があり、その場には必ず被告訴人安田敏がいたはずです。

おじゃまんが山田くん - Wikipedia http://bit.ly/1mIPSUl 放送期間は1980年9月28日から1982年10月10日まで。フジテレビ系列(一部系列局除く)で毎週日曜日19:00から19:30の枠にて放送された。

この手のテレビ番組はネット上での情報がまとまっているので助かりますが、昭和55年から昭和57年10月までの放送だったようです。ちょうどリアルタイムな時期の番組だったと考えられますが、このアニメ番組の内容とも重なるイメージの古い木造アパートでした。

アパートというよりは共同住宅という言葉がふさわしいものであったかもしれません。当時も私のまわりでは他に見かけることない居住形態でした。風呂なし、炊事、トイレ共同のアパート言う感じでしょうか。

現在は跡形もなくなっていると思いますが、大体のその場所をGoogleマップで探して、緯度経度情報などを明らかにしておきます。たぶん外見からは、下宿のようなアパートだとは誰も気が付かなかったと思います。

石川県金沢市浅野本町ロ176 - Google マップ http://bit.ly/1mITcii

だいたいの場所です。Googleマップの航空写真で見ると広い道路沿いに面した建物が多く、相当古くからあると見える瓦屋根の家も散見されます。私の記憶ではアパートの建物は、広い道路から家一軒分は奥まっていました。その手前が駐車場のような空き地になっていたかもしれません。

似たような共同住宅のようなアパートは同じ頃、他にもありました。はっきりした違いは浅野本町の方は、ほとんどというか私が見聞きした範囲の全部が、学生だったということです。大学生もいたように思いますが、専門学校生もいたようです。当時は専門学校というのは珍しかった気もします。

もうひとつのアパートは金沢市笠舞にありました。

石川県金沢市笠舞本町 - Google マップ http://bit.ly/UqmWJS

今調べてわかったのですが、笠舞というのは大通りの赤坂プラザ側に集中しているようで、反対側が笠舞本町になるようです。中学校は城南中学校と聞いていたようなことも思い出しました。

既にある程度は本書で書いていると思いますが、小立野の少年鑑別所で知り合ったITのアパートでした。父親がそのアパートの大家という話で、2階の一室に住んでいました。私の記憶では部屋にはトイレも、炊事の流しもなかったように思います。

その直前までは金沢市森本のマンションのようなところにいました。すでに何度も出ている神野のKMと、被告訴人大網周一の同級生のFKと4人で、いたのはそのFKの姉のマンションでした。

多くて5万円程度だったと思いますが、まとまった金を持っていたのは被告訴人大網健二だけでした。金沢で仕事を探すという目的で4人で宇出津から出てきたのですが、付き合いだけで同行していたのは私だけでした。

当時、私は少年鑑別所を出た後の試験観察中で、親元である宇出津での居住が義務付けられていたので、金沢で仕事を探すこともできなかったのだと思います。

夜、布団に入ってけっこう時間が経ってから、神野のKMがFKに話しかけたのですが、被告訴人大網健二の所持金をあてにして、少しでも金を減らさないために、説得して私を宇出津に帰らせなければならない、などと話していたのです。

私は眠れずにいたので、その会話を一部始終聞いていたのですが、翌朝になると被告訴人大網健二に誘われて、二人でそこを出ました。しばらくしてから被告訴人大網健二も聞いていたという昨夜の神野のKMの話を聞かされました。利用されたことに腹を立てた様子で飛び出したと話していました。

いきなり笠舞に行ったのではなく、その前に一晩は、尾張町の被告訴人大網健二の金沢高校時代の同級生の家にやっかいになりました。あるいは二版ぐらい泊まったような気もしますが、3日以上の滞在ということはまずなかったと思います。

尾張町は金沢市の中心部の一角で金沢地方検察庁にも近いですが、大通りから検察庁とは反対側に少し入ったところの家だったと記憶しています。それまでの私の生活では見たこともない豪邸のような家でした、鉄筋コンクリートの家で瓦屋根はなかったように思います。

その被告訴人大網健二の友人の部屋に匿われたような感じだったと思います。家族に紹介を受けるようなこともなかったと思うます。逃亡生活にも近い感じで居心地も良くはなかったです。

この先、どうしたものかと思案していたところ、ふとひらめくように思い出したのが、鑑別所で同じ部屋だったITの電話番号でした。30人程度の暴走族のリーダーをしているとも話していましたが、なかではけっこう意気投合もしていて電話番号を教えてもらっていたのです。

電話を掛けたのは夜遅い時間だったと思いますが、歓迎するというような返事を受けて笠舞に向かいました。被告訴人大網健二が所有していた400ccのバイクでしたが、その時はカワサキのGS400だったように記憶しています。2気筒エンジンです。

被告訴人大網健二が所有していたバイクといえばカワサキFXの印象が強いのですが、FXは400ccの4気筒エンジンでした。

昭和57年の5月頃には水産高校のグランドの前に緩いカーブで、民家のブロック塀に接触して横転しました。その事故でけっこう長い間、宇出津病院に入院していました。一月以上は入院していたと思います。2ヶ月ぐらいという可能性もあるかと思いますが、最大で3ヶ月ぐらいでしょうか。

その事故の時、私はすぐ後ろをホンダのホーク2に乗って走っていました。同じく400ccのバイクで2気筒です。中型二輪の免許でしたが、6月に初め頃には県警本部で免許取り消しの処分を受けていたので、事故もその前だったはずです。

当時のこととして、被告訴人大網健二が腕にギプスをつけたパジャマ姿で写っている集合写真もあったかと思います。腕を複雑骨折して腕の中に太い鉄を入れたという話でしたが、病室では寝たきりの様な動けない状態であったと記憶にあります。

その昭和57年の9月の5日か7日ぐらいに私は名古屋に行ってのですが、その時には退院をしていて、金沢まで見送りに付き合ってくれたようなことも、津幡に近い8号線バイパスのラーメン屋で、夜遅くに食事をしたことと一緒に記憶に残っています。

当時の人間関係に嫌気がさし、警察に捕まって鑑別所や少年院に送られるようなリスクを避けたいという思いもあって、私は名古屋に行くことを決めたのです。

書いているうちに思い出しましたが、蛸島の暴力団員が被告訴人大網周一にあてがった田浦の民家でのチャンスボールという輪姦行為、それに被告訴人大網健二が参加をしていた場面を思い出しました。腕の怪我の様子はなかったと記憶にあります。

殴る蹴る脅すという行為はなかったので、純粋は強姦ではなかったのかもしれませんが、すすり泣く少女の姿もあったので、かなりきわどいものではあったと思います。

発案し命名したのも被告訴人大網周一だったと思います。笑いながらゲームのように性行為に及ぶというのが、特徴の一つだったかと思いますが、二人目が行為に及ぶ時が正念場ということにもなっていました。

当時は私も17歳で少年だったのですが、お供え物のような慰みものした少女は主に珠洲方面から被告訴人大網周一が調達してきていたようです。なかには馬鹿笑いをして一緒に楽しんでいるような少女もいましたが、ごく稀だったと思います。

あるときは、家に送り届ける少女と車で同乗しましたが、被告訴人大網周一が人に言うな、言うとお前が警察に捕まるなどと本気で説得するのを見たいたこともありました。少女と言っても私よりは一つか二つ年上のようでしたが、ある程度は信じているような様子でした。

当時の被告訴人大網周一を中心にした人間関係というのは、人が集まっていてその場で一人だけがジュースを飲むのは許されないような事実上の規律があり、飲むときは全員に行き渡らせるというのが被告訴人大網周一の価値観であり、美学でもあるという感じでした。

被告訴人大網周一にしてみれば、チャンスボールは、先輩方との人間関係をよりよくするための、場の提供であり、接待という意味合いが強かったと思われます。

当時は六法全書というのはアナーキーの歌の歌詞で知っていましたが、刑法という法律の内容については全くの無知で、強姦罪の量刑の重さも知りませんでしたが、恐怖の声と泣き叫ぶ少女に性行為に及ぶ状況を目にしていれば、とんでもないことになりかねないという思いはありました。

そこまで嫌がったという少女の姿を見たのも一度だけでしたが、夕方だったのかまだ明るい時間でした。民家は玄関を入って左右に部屋がありましたが、普通に集まっていたのは左側の宇出津の町方向の部屋でした。

輪姦の場にされていたのは右側の部屋でしたが、部屋全体が絨毯で敷き詰められたような異様な部屋でした。絨毯は紫色だったかもしれません。

その部屋に少女を連れ込み性行為に及ぶ、そして行為を終えると部屋を出て、入れ替わりで次が入るというのが恒例のパターンでした。

私自身、一度だけ参加しましたが、馬鹿笑いをしているような少女で、それだけにその場も盛り上がっていました。先輩に背中を押されて3人で部屋に入ったのですが、体は触ったものの性行為には及びませんでした。体裁を繕ったということにもなるかと思いますが、欲望が先走ることもなかったです。

時刻は7月25日8時23分です。外が明るくなる頃まで起きていたので、余り寝ていないのですが、蒸し暑さもあって目がさめてしまいました。項目を改めて続きを書きます。

<2014-07-25 金 08:25> [ ←これまでの記述範囲の終了時刻]]

**** DONE 宇出津あばれ祭りでの被告訴人KYNとの再会と、モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)に対する刑事告訴について 2014年7月25日
CLOSED: [2014-07-30 水 10:19]
<2014-07-25 金 08:27> [ ←これからの記述範囲の開始時刻]]

田ノ浦の民家については以前にも触れたことがあると思います。地元暴力団の干渉で、暴走族の仲間内の分裂にもつながりました。時期的にははっきり思い出せないところもあるのですが、ほとぼりがさめた頃に、被告訴人大網周一がチャンスボールに使うようになったのです。

民家は現在、ばらばらになって残骸が残っているようです。小木港に魚釣りに行くのに決まって通る道なので、バイクで走りながら横目で見ることはありますが、立ち止まってまで見たことはありません。

宇出津の周辺というのは海岸線の平地が少なく、標高は高くはないと思いますが山が多いです。山の方は雪が多く、雪の重みで潰れたような木造の廃屋を見ることもありますが、それも屋根が崩れ落ちたとか部分的なもので、部分的に壁や柱は残っていたりします。

田ノ浦の民家の場合はあとかたもなく潰れています。まるで重機で解体作業をしたとしか思えないのですが、廃材はそのままになっているようで、長い草の下に隠れて部分的に見える状態です。雷でも落ちて木っ端微塵に吹き飛んだようにも見えるのですが、自然に朽ちたものなのか不思議には思ってきました。

石川県鳳珠郡能登町宇出津ロ - Google マップ http://bit.ly/1ukJ3SD

ポイントとしての情報取得はできなかったのですが、範囲としての情報取得ができたのが上記のGoogleマップです。どうも田ノ浦という住所はないようです。

田ノ浦は昭和60年代か平成に入ってから、住宅も増えたように思いますが、昭和57年当時は家も少なかったように思います。田ノ浦には同級生もいなかったので余り知らないのですが、宇出津の町内ではなく、あばれ祭りにも参加していないと聞いたことがありました。

思えば源平も住所は宇出津山分になると近年になって知りました。源平には同級生が二人いたので遊びに行ったこともあり、祭りを見に行ったこともありました。田ノ浦の祭りというのは聞いたこともないですが、源平の方がずっと宇出津の町からは離れています。

道路は県道35号になるようです。看板は出ているのかもしれませんが、意識したこともなく今日初めて知りました。宇出津から羽根、小浦、真脇、姫、小木に行く、ほとんどが海岸線沿いの道路です。

宇出津からその県道で小木方面に向かうと、初めに右手に海が見えて、すぐ左側にあるのがその民家でした。周辺には家もなく、人の住む他の家まではけっこう離れていたと思いますが、主要道路沿いにあるので、車で通っていると割と目立つ場所でもあったとは思います。

珠洲市に行くのも山沿いの珠洲道路で直行というのが当たり前になり、宇出津の町にもバイパスの道路ができたし、小木港の遠洋漁船も激減したので、交通量も昭和57年当時の方が、多かったことも考えられます。人口が減った割に車の所有率は増えたと考えられ、比較は難しいですが。

チャンスボールに使われていた部屋は厚い記事のカーテンが張ってあったと思います。外に光がもれないようにしていたと思いますが、チャンスボールの部屋自体は電気をつけずに使っていたとも思います。前の廊下の方には人が集まり、十分に顔が識別できる程度の明かりはついていたと思います。

外に光がもれなかったとも考えにくいのですが、ちょうど左に曲がる狭い道のカーブの手前でもあったので、よほどでないと注意して見る人はいなかったとも考えられます。

大ぴらに夜に電気をつけることはなかったと思いますが、被告訴人大網周一からもさほど警戒心や注意を感じることは、今考えても不思議になかったように思います。

当時、宇出津にはK組というヤクザがありました。聞いた話だと私の父親も弟分のようなOさんと二人で、賭博にでかけ、すってんてんになって帰ってくることがあったそうです。そのOさんは平成9年の春頃、金沢でヨコハマタイヤの社長をしていると聞いていましたが、何度か電話で話をしていました。

藤浪の辺田の浜に父親が残した家の処分の話でしたが、私が普通免許を取得した昭和58年の夏ころはまだそこでヨコハマタイヤの仕事を継続し、Oさんはずっと所長のような立場ではなかったかと思われます。

父親は酒飲みで魚釣りも本格的にやっていたと聞きますが、働き者でなくなったときには短期間で借金を返済した上、けっこうまとまった額のお金も残していたと聞いています。

K組ですが、私が宇出津に引っ越してきた小学生の頃から話は聞いていました。娘という小さい子供の姿は見た記憶がありますが、組長に関しては有名人でよく話を耳にしていたものの、それという人を見たことは一度もなく、未だに顔も知りません。ずいぶん前に亡くなっているようには聞いています。

K組長に関しては、輪島の方から来たという話を聞いたこともありましたが、昭和57年頃には半ば隠居状態で、表立った活動はしていないと聞いていましたし、よく魚釣りをしているとも聞いていましたので、それとはしらず見かけていたという可能性はあるかとは思います。

私自身、中学生の頃以降は魚釣りをすることはなく、釣り道具も持っていなかったと思いますが、泳ぎに海に行くことは多かったと思います。

K組はちょっと大きな普通の民家でしたが、遠島山公園の入口にも近い町外れにありました。建物は現在もそのまま残っていると思います。5月頃には近くを通りかかって見ているのでそのままだと思います。空き地があるので普通に見える建物です。

そのあたりは地元で「城山(じょうやま)」と呼ばれてきました。遠島山公園も城山と呼ぶ人が多いのではと思います。そのあたりも現在はいつの間にか住宅が増えていますが、昭和の時代は家も少なかったように思います。

住宅は少なかったと思いますが、遠島山公園の方はまだ人が訪れる観光地のようにもなっていて、夏はかき氷などを売る海の家の売店のような店も、まだやっていたと思います。現在も維持管理はされていますが、観光はごくわずかで、近所の人の散歩ぐらいしか見かけることはありません。

城山というのは高台になっていて、坂を登り切るとすぐに道が二つにわかれています。直進するとそのまま遠島山公園の入り口に突き当たります。

左の方のやや狭い道を行くと、突き当りにはユースホステルがありました。昭和の時代には利用客もいたようですが、ずっと前から営業しているような様子は見たことがありません。建物はそのまま残っています。春に桜の見物と写真撮影に、吊り橋を渡って足を伸ばしました。

能登広域勤労青少年ホーム - Google マップ http://bit.ly/1nYZn1O

平成9年の4月か5月ころだったと思いますが、上記の場所にパソコンの無料講座があって、半月ほどの間だったでしょうか、歩いて通ったことがありました。建物の裏側は崖になっていて、その下にあるのが田ノ浦です。航空写真ではちょっとわかりづらいかもしれません。

この時はK組の家の前を歩いて通っていました。講座も終わりに近づいた頃だったと思いますが、ふと目をやるとそのすぐ近くに、「大脇昆布」という看板があって驚きました。

平成2年になるかと思います。金沢市問屋町のトナミ航空、物産展の荷物を積み込んでいたところ、ライトバンだったと思いますが、大脇昆布という名前と宇出津山分と住所の書いてあるダンボールを持ってきました。

宇出津で昆布というのも見たことも聞いたこともなかったので、意外だったのですが、大脇というのも聞いたことのない名前でした。あるいは、宇出津大棚木と書いてあったかもしれません。

昆布ということで海の側や天日干しを想像したのかと思いますが、棚木の海岸でそれらしい会社や昆布を干す姿は見たことがありませんでした。小さい頃は辺田の浜で天草を干す姿は見かけていましたが、それも宇出津では見かけることがなかったと思います。

宇出津に昆布というのも宇出津の町に生まれ育った私にすれば意外な組み合わせだったのですが、車を運転して荷物を持ってきていたのが、宇出津のKという人物でした。漢字一文字の苗字で、読みはひらがな二文字になります。

今しがた、家にある2012年版の能登町の電話帳で調べてみたのですが、意外なことに能登町全体では19件の登録がありました。小木や松波、鵜川にまであって能登町全域にある名前のようです。

宇出津では2件、崎山に1件ありました。崎山は住所が能登町崎山になっていはいますが、宇出津の町内のようなものであばれ祭りにも参加しています。一丁目から四丁目まであるようです。昔は崎山台地とも呼ばれていましたが、城山とは向き合う感じで港というか宇出津湾を挟む高台です。

そのKさんですが、宇出津のK村さんと姫のNKさんが、2トン車の持ち込みで金沢市場輸送で市内配達の仕事を始めた頃に、一緒に同じような市内配達をやっていました。宇出津の人であることとKという名前は、被告訴人大網健二から聞いたのだと思います。

角田ストアーというのは宇出津の中心部に昔からあっておなじみなのですが、Kという名前を聞いたのは初めてだったので、よけいに強く印象に残りました。

被告訴人大網健二から聞いた話か、私の想像力が先走ったのか、今では自身を持ってはっきりできませんが、宇出津の角田ストアーのあたりから宇出津小学校の前辺りの人と聞いたように憶えています。

宇出津の小学校の前辺りの地域というのは、総称的に「田町(たまち)」と読んでいました。最近になって人から聞いたのですが、田町という町内はなく、「上田町(かみたまち)と横町(横町)」のことをまとめて田町と呼んでいる、とか。

現在は人の数も減り、車でどこにでもいけるので、特色も薄くなっていると思いますが、昭和の時代の頃の宇出津は、昔ほど町内や地区ごとの特色が、人の生活様式や性格にも及んで、色濃い特色を属性のようにしていましたが、実体験の積み重ねによる共通認識のようなもので、一般にはわかりにくいかと。

おおざっぱにわけると、マチ、新町、新村、棚木という区分もありました。春の曳き山祭りもそれぞれに1台ずつ4台出ていましたが、現在は思い出せないぐらいの前からマチと棚木の2台だけになっています。

マチと棚木は、あばれ祭りでぶち壊しをする酒垂神社と白山神社の神輿にも対応しています。マチは崎山台地の下から坂に家のある地区ですが、魚市場の辺りの天保島という町内から警察署のあるあたりの桜町まで、たしか9つの町内になっているかと思います。

漁師の多い地区でもありましたが、現在は往時の面影も感じられません。外にいる人の姿を見ることも少ないです。このマチの9つの町内のキリコは、あばれ祭りで順番の先頭の特別枠になるという決まりも昔からあるようです。

他の町内だと、その町内のキリコを探すのも大変というか、知っている人に順番を聞くか、一つずつ探しまわるしかありませんが、マチだと先頭から9番以内ということでかなり探しやすくなります。

これも最近になって人から聞いた話ですが、宇出津は36の町内がキリコを出しているとのことで、今年は横町が人手不足で出さず、35の町内だったと聞きました。キリコは大きい町内だと大中小と3台出す町内もありましたが、数も減ってきているそうです。

キリコには江戸時代の時代劇に出てくる御用のような提灯があって、そこに町内名が書いてあることもあるのですが、別の言葉が書いてあることもあって、私がみても町内のわからないキリコもありました。

大脇昆布は、たまに角田ストアーで展示即売をやっているのを見かけますが、昆布を作っているのではなく、削って加工をしているようです。ネット上の情報だと代表者の名前も大脇になっていました。全国の物産展で販売をしているとも書いてありました。

昨夜は、金沢市尾張町の被告訴人大網健二の金沢高校での同級生のことを書きましたが、その同級生の家というのは設備会社だと聞いていました。3,4ヶ月ほど前になるでしょうか、インターネットで検索したところ、現在は社長になっているらしいということもわかりました。

設備会社という呼び方には配管設備を含むことが多いようです。スプリンクラーの設置とか防災関係の仕事もあるようですが、水の浄化設備とかもあるので、手がける業務の内容というのも幅広さはあると思います。

人によって配管屋と呼んだり、設備屋と呼んだり、あるいは水道屋とも呼ぶかと思いますが、仕事の内容が多岐に渡ることも、私が実際に経験して感じたことでした。

金沢の西インターの近く、たぶん住所は新保になるかと思いますが、そこに作業場兼事務所をかまえるKさんについては、既に書いている部分があると思います。平成4年の2月か3月頃に、被告訴人KYNのマンションで顔は合わせていた人のことです。

見た感じは若くも見える人でしたがKさんは私達よりけっこう年上と聞いていたようにも思います。私より一つか二つ年下と聞いていた珠洲市蛸島の青年と二人で配管の仕事をやっていました。青年と書きましたが、当時はまだ20代の終わり頃と聞いていたような気もします。

被告訴人KYNのところで配管の仕事を初めて2,3日後には、そのKさんの現場である能美郡辰口町の北陸先端科学技術大学院大学の地下ピットで、応援での配管の仕事をしていたことも、既に書いていると思います。

いつ頃かは思い出せませんが、一度、夕方遅い時間にKさんの作業場に、尾張町のY君が来ていました。被告訴人大網健二の同級生であることを含め、私が当然に知っているように被告訴人KYNは話していたこともありましたが、私は言葉を交わすことも、目を合わせることもなかったと記憶にしています。

被告訴人KYNからも、被告訴人大網健二と今でも親交が続いているような話は聞きませんでしたし、私も尋ねることはなかったので、話題として触れることも少なかったと思います。

被告訴人KYNの仕事の取引相手や関係先については、大量の名刺をあずかって自宅に持ち帰り、パソコンにデータ入力をしていたので、Y君と付き合いがあるらしいことは、わかってもいました。データは年賀状にも利用していたと思いますが、長い間名刺をあずかっていました。

Y君と書いたのは被告訴人大網健二が、その全国的にもよくある名前に、なぜか君をつけて呼ぶことが多かったからです。他に君付けで誰かの名前を呼ぶことはなかったと思いますが、その金沢高校時代の友人に関しては君付けで呼んでいました。

データ入力のためたくさんの名刺をあずかったのは、年賀状を出す正月前より、かなり前だったと思うので、被告訴人KYNのところで仕事をはじめてすぐのことであったと思います。平成9年の11月になっていたことは憶えていますが、11月のいつ頃であったかは、現在、よくは思い出せません。

11月26日の私の誕生日の夜、アンカーインに私を呼び出したことは既に書いていると思います。その一週間から10日、あるいは半月前と思われるので、11月の中頃か、10日頃になるのではとも思われます。

アンカーインに関しては、Googleのストリートビューで、建物を見つけ、それをスクリーンショットにしましたが、まだ、本書では取り上げていないと思います。店が営業をしている状況には見えなかったですが、夜に行くことがほとんどだったので、昼の姿を見ると少し違ったような印象もありました。

当時の私は、宅地建物取引主任者の資格取得の勉強もしていました。10月ではなかったかと思いますが、実際に試験に行ったこともありました。金沢工業大学が試験会場でした。住所は石川郡野々市町かと思われます。現在は野々市市になっています。能美郡も能美市になっているかと思います。

試験に行く前に、被告訴人大網健二と電話で話していましたが、彼は試験の申し込みをしているけど、試験には行かないと話していました。不動産の仕事をしているので試験で有利になる条件も持っていると話していましたが、まるで行く気がないという話しぶりでした。

既に合格して資格を持っていれば、当然に試験を受ける必要もないことですが、ちょうどその年は法律が変更になって、宅地建物取引主任者の資格者がいなければ、契約の締結ができないということにもなっていたと記憶しています。

話を聞いても私は半信半疑で、本当は既に資格を持っているのではとも考えていました。試験自体もそれほど難しいものとは思えず、不動産の仕事をしていれば自然に覚えることも多く、また、わからなことは教えてもらいやすい環境にもいると考えたからです。

被告訴人大網健二は合格していない、資格を持っていないと話していましたが、それを確認することもできませんでした。彼は遅くても平成2年には不動産の仕事を始め、8年から9年程度の経験は積んでいたはずなのです。

たしか試験自体の合格率は高くなかったと思いますが、資格マニアのような素人が、とりあえずで資格の取得を目指す例も多かったと思いますし、未経験とは大きな開きのある職種だとも思えました。

既に何回か書いていることと思いますが、笹田がS藤を連れて金沢港のイワシの現場にやってきた。その平成1年12月を基準に、その数カ月前には本陣不動産株式会社で、不動産の仕事を始めていたという記憶を前提にした計算であります。

不動産の仕事としては、接待の送迎待ちでタクシーの運転手のようなことをやらされているとか、愚痴も多く、腰の定まっていない時期でもあったとは思いますが、本当は中古車売買の仕事がしたいのかとも、傍目から見えていた時期でもあったと思います。

実際に被告訴人大網健二は、中古車売買の仕事を不動産の営業の仕事をしながら手がけ、それで笹田とトラブルになりました。どことなく腑に落ちない変な話で、過剰な演技にも思えることがありましたが、目的からは理解することができませんでした。

中古車売買の売買に関しては、被告訴人安田繁克との間にも関係があったと聞いています。もっともその時点で私は被告訴人安田繁克の顔を知っていたものの、名前は全く知りませんでした。

本来はイワシの運搬の松浦さんの愛人の息子だったのですが、私は取り違えて堂野さんの愛人の息子だと長い間勘違いしていたような記憶もあります。

誰からどういうかたちで聞いていたのかはっきり思い出せない部分もあるのですが、市場急配センターというか市内配達の若い運転手に、BMWを紹介したような話を聞いていました。背の高い若い運転手というのが、キーワードになっていたようにも思います。

実際に私は、金沢市場輸送の駐車場でそれらしいBMWを見たことがありました。スポーツタイプのようなBMWです。私が小学校の5,6年生の頃なので昭和50年頃になるかと思いますが、おもちゃ屋にプラモデルとして置いてあったような古い型のBMWです。

ネットで調べればそれらしい写真を見つけることはできると思いますが、平成2年ころの当時でもほとんど見かけることのない、古い車になっていました。

私はその車を、大型トラックの運転手の窓越しに見たような記憶があります。午前中という記憶もあるので、鮮魚の青森定期便でも積んでいたのかもしれません。急いでいたので、近くで車を見る余裕もなかったですが、遠目にみてもBMWの状態はかなり悪そうなポンコツに思えました。

サーキットの狼 - Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/サーキットの狼

上記の漫画の中で出てくるような型のBMWでした。1975年(昭和50年)から1979年(昭和54年)にかけて「週刊少年ジャンプ」(集英社)に連載、とあります。

状態が良ければ相当な高値がついたと思いますが、壊れて動かなくなるのが時間の問題のスクラップにも見えました。そのBMWを金沢市場輸送の駐車場で見たのは1回かあるいは2回なので、売買は成立しなかった可能性が高いと思われますが、被告訴人大網健二にどうなったのかと尋ねることはなかったと。

私が被告訴人大網健二に被害者AAさんとの交際について相談をしたのは、平成3年の12月に入ってからだと思います。21日にネックレスのプレゼントを買って渡そうとして、一週間から2週間ほど前ではなかったかと思います。

どちらが先立ったかは現在はっきりと思い出せないですが、被告訴人安田敏と被告訴人大網健二のどちらかにクリスマスにプレゼントを贈ってみればどうかと提案というかアドバイスを受け、どちらにもそれがよいと割と心よい返事をもらったことはよく憶えています。

その後も何度か、被告訴人大網健二には被害者AAさんのことで相談をしましたが、一度、牙を向いたような罵り調で、「あの時、あの男と車の事で喫茶店で会った時、あの男が一緒に連れていた女か」と吐き捨てるように言ったことがありました。

残念なことに具体的な言葉が思い出せないのですが、「あの男」とは言っていなかったにせよ、被告訴人安田繁克意外にはあり得ないような口ぶりでした。それは間髪をおかない反応でもあったと思います。

似たようなことは前妻との間にもありました。まだ正式には付き合っていないが、というような前置きで被害者AAさんとの関係を話した時のことです。電話での話だったと思うのですが、平成3年11月前半の可能性が高いと思います。

前妻は「あのチャラチャラした女やろ。ソバージュ掛けた。茶色い髪の女。」と憤慨したような口調で、即座に反応しました。

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